« 2007年12月 | トップページ | 2008年2月 »

2008.01.30

終戦直前に空襲された豊川海軍工廠

より作者、森兵男の許可を得て転載
---
終戦直前に現在の愛知県豊川市にあった豊川海軍工廠は、米軍機による爆撃にあい、壊滅的な被害を被った。そして、そこで働く、海軍軍人・軍属工員、徴用工、そして多くの勤労動員された人々が亡くなったのである。
1945年(昭和20年)8月7日午前2時40分から3時10分にかけて、グアム・テニアン・サイパンを米軍B29爆撃機、4爆撃団、計124機が飛び立ち、硫黄島からは護衛のP51戦闘機100機が飛び立って、豊川海軍工廠を目指した。同日午前10時13分、最初の空襲が始まり、4つの爆撃団は3つの編隊を組み、合計3,256発の500ポンド爆弾を10時39分までの26分間投下した。8月7日といえば、広島に原子爆弾が投下された翌日であり、長崎への原子爆弾投下とソ連参戦のあった8月9日の2日前である。まさに終戦直前ともいうべき時期に、米軍は気息奄々たる日本に駄目押しの如く、非戦闘要員である多くの職員・工員が勤務する海軍工廠への大規模爆撃を仕掛けてきたのである。

この空襲に対し、日本軍戦闘機の迎撃はなく、御津町大恩寺山の高角砲が一斉射撃を行い、工廠内の高角砲からも射撃したが、大恩寺山の高角砲により一機が被弾、帰還途中の硫黄島付近で墜落したのみで、ほとんど無防備の状態であった。

豊川海軍工廠では、この空襲により2,670名の人が亡くなったとされている。しかし、朝鮮人徴用工の被災者の実数が正確に把握されているとは言い難く、実際には3,000名以上の貴重な人命が失われた模様である。当日、通常通り勤務していた彼らはわずか20数分の間に爆撃と機銃掃射にさらされ、工廠は阿鼻叫喚の巷と化した。
Bakudan

防空壕に入ってもなくなる人はかなりおり、工廠周囲の堀の中に遺体が折り重なるようになっていたという。現在、名古屋大学太陽地球科学研究所の敷地内となっている火工部跡地の北西部分に、爆弾が落ちた跡があるが、直径3mほどで人が一人立って頭が出るか出ないかの深さ(1.5m以上)がある。さらに、残存する火薬庫や材料倉庫にも爆弾の破片が当たった跡や機銃で撃たれた跡が今も残っている。
この防空壕は、指揮官壕以外は、一般に海軍の基地にあるようなコンクリートで固められ、半地下式の頑丈なものではなく、多くのものが地面を掘って天井に丸太などを渡して、土で覆ったようなもので、上からみるとCの字の形をした3mほどの長さのものか、人一人が隠れることのできるタコツボ状のものである。巨大な工廠の割には、防空壕などは貧弱であるといえる。すぐに生産活動に戻ることができるようにわざと簡素にしたといわれるが、これは軍の人命軽視のあらわれともいえる。

特に、この工廠には多くの女子挺身隊員、動員学徒が働いていた。年齢的には現在の中学生位の年少者も多く、まだ人生の喜び、楽しみも知らない、そうした年少者からも多くの犠牲者が出た。

実際に豊橋市立高等女学校から勤労動員で、豊川海軍工廠で働いていて、被爆した方の話を、工廠跡の見学会の際に小生のHPに協力してくれている親戚の森-CHANが聞いてきたが、それによると、「空襲警報が出たときには、既に頭上にB29の編隊が飛んでいた。そして、そのうちの1機が高角砲により被弾していた。その編隊を見た海軍の将校さんが『総員退避』と叫び、ふだん入場していた北東門ではなく、そのときにいた信管工場に近い正門から逃げた。防空壕に隠れたが、幸いに無事であった。防空壕に隠れた人でも、爆撃を受けたり、生き埋めになって死んだ人が多い。500ポンド爆弾が落ちた時の爆音は、腹の皮が震えるくらいに響いた。正門の近くで、整列した状態で死んでいる人たちがいた。防空壕に入って死んだ人もいれば、防空壕から出て機銃掃射で死んだ人もいる。私は正門に逃げたのが早かったから助かったが、爆撃の激しかった正門や西門に逃げて助からなかった人は多い。工廠では、部署によって逃げる門が決められていた。西門は、『命令がないと開けられない』と門番が頑張っていたので、逃げ遅れたり、門ではなく柵の下を這いくぐりモンペがボロボロになりながら北へ逃げた人もいる。北門や北東門に逃げた人は、割合助かっている。生死は、殆ど運次第であった。」という。

その豊橋市立高等女学校の動員学徒からも、空襲の犠牲者は出た。豊橋市立高等女学校四五会が編んだ「最後の女学生-わたしたちの昭和」には、その生々しい体験が綴られている。
Gairotou

(写真は、名大敷地内に残る爆弾が落ちた跡のクレーター(上)、浅丘ルリ子主演の映画「早咲きの花」にも撮られた街路灯(下):森-CHAN撮影)
*転載者注
 文中、森-CHANとあるのは、小生mori-chanのことです。
 豊橋高女出身の女医、Wさんたち元勤労学徒の皆様には、いろいろお話をうかがった上に本までいただきました。あらためて御礼申し上げます。

| | コメント (8) | トラックバック (1)

« 2007年12月 | トップページ | 2008年2月 »