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2008.01.30

終戦直前に空襲された豊川海軍工廠

より作者、森兵男の許可を得て転載
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終戦直前に現在の愛知県豊川市にあった豊川海軍工廠は、米軍機による爆撃にあい、壊滅的な被害を被った。そして、そこで働く、海軍軍人・軍属工員、徴用工、そして多くの勤労動員された人々が亡くなったのである。
1945年(昭和20年)8月7日午前2時40分から3時10分にかけて、グアム・テニアン・サイパンを米軍B29爆撃機、4爆撃団、計124機が飛び立ち、硫黄島からは護衛のP51戦闘機100機が飛び立って、豊川海軍工廠を目指した。同日午前10時13分、最初の空襲が始まり、4つの爆撃団は3つの編隊を組み、合計3,256発の500ポンド爆弾を10時39分までの26分間投下した。8月7日といえば、広島に原子爆弾が投下された翌日であり、長崎への原子爆弾投下とソ連参戦のあった8月9日の2日前である。まさに終戦直前ともいうべき時期に、米軍は気息奄々たる日本に駄目押しの如く、非戦闘要員である多くの職員・工員が勤務する海軍工廠への大規模爆撃を仕掛けてきたのである。

この空襲に対し、日本軍戦闘機の迎撃はなく、御津町大恩寺山の高角砲が一斉射撃を行い、工廠内の高角砲からも射撃したが、大恩寺山の高角砲により一機が被弾、帰還途中の硫黄島付近で墜落したのみで、ほとんど無防備の状態であった。

豊川海軍工廠では、この空襲により2,670名の人が亡くなったとされている。しかし、朝鮮人徴用工の被災者の実数が正確に把握されているとは言い難く、実際には3,000名以上の貴重な人命が失われた模様である。当日、通常通り勤務していた彼らはわずか20数分の間に爆撃と機銃掃射にさらされ、工廠は阿鼻叫喚の巷と化した。
Bakudan

防空壕に入ってもなくなる人はかなりおり、工廠周囲の堀の中に遺体が折り重なるようになっていたという。現在、名古屋大学太陽地球科学研究所の敷地内となっている火工部跡地の北西部分に、爆弾が落ちた跡があるが、直径3mほどで人が一人立って頭が出るか出ないかの深さ(1.5m以上)がある。さらに、残存する火薬庫や材料倉庫にも爆弾の破片が当たった跡や機銃で撃たれた跡が今も残っている。
この防空壕は、指揮官壕以外は、一般に海軍の基地にあるようなコンクリートで固められ、半地下式の頑丈なものではなく、多くのものが地面を掘って天井に丸太などを渡して、土で覆ったようなもので、上からみるとCの字の形をした3mほどの長さのものか、人一人が隠れることのできるタコツボ状のものである。巨大な工廠の割には、防空壕などは貧弱であるといえる。すぐに生産活動に戻ることができるようにわざと簡素にしたといわれるが、これは軍の人命軽視のあらわれともいえる。

特に、この工廠には多くの女子挺身隊員、動員学徒が働いていた。年齢的には現在の中学生位の年少者も多く、まだ人生の喜び、楽しみも知らない、そうした年少者からも多くの犠牲者が出た。

実際に豊橋市立高等女学校から勤労動員で、豊川海軍工廠で働いていて、被爆した方の話を、工廠跡の見学会の際に小生のHPに協力してくれている親戚の森-CHANが聞いてきたが、それによると、「空襲警報が出たときには、既に頭上にB29の編隊が飛んでいた。そして、そのうちの1機が高角砲により被弾していた。その編隊を見た海軍の将校さんが『総員退避』と叫び、ふだん入場していた北東門ではなく、そのときにいた信管工場に近い正門から逃げた。防空壕に隠れたが、幸いに無事であった。防空壕に隠れた人でも、爆撃を受けたり、生き埋めになって死んだ人が多い。500ポンド爆弾が落ちた時の爆音は、腹の皮が震えるくらいに響いた。正門の近くで、整列した状態で死んでいる人たちがいた。防空壕に入って死んだ人もいれば、防空壕から出て機銃掃射で死んだ人もいる。私は正門に逃げたのが早かったから助かったが、爆撃の激しかった正門や西門に逃げて助からなかった人は多い。工廠では、部署によって逃げる門が決められていた。西門は、『命令がないと開けられない』と門番が頑張っていたので、逃げ遅れたり、門ではなく柵の下を這いくぐりモンペがボロボロになりながら北へ逃げた人もいる。北門や北東門に逃げた人は、割合助かっている。生死は、殆ど運次第であった。」という。

その豊橋市立高等女学校の動員学徒からも、空襲の犠牲者は出た。豊橋市立高等女学校四五会が編んだ「最後の女学生-わたしたちの昭和」には、その生々しい体験が綴られている。
Gairotou

(写真は、名大敷地内に残る爆弾が落ちた跡のクレーター(上)、浅丘ルリ子主演の映画「早咲きの花」にも撮られた街路灯(下):森-CHAN撮影)
*転載者注
 文中、森-CHANとあるのは、小生mori-chanのことです。
 豊橋高女出身の女医、Wさんたち元勤労学徒の皆様には、いろいろお話をうかがった上に本までいただきました。あらためて御礼申し上げます。

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コメント

城です。豊川までご苦労様。

豊橋高女の元動員学徒の人もおさえた話をしているようです。正門から逃げたなら、悲惨な光景をいろいろ見ていると思います。機銃部の多くの人は工場から近い西門から出ようとしましたが、ここの守衛が「命令がなければ工廠外には出さない」と言い張り、主任の久保田少佐の命を受け退避してきた連中と押し問答、最後は山本書記が、自分が責任をとるから廠外退避を認めよと迫って、ようやく門を開けたらしいのです。たまたま別の場所の発射場にいた私は、廠内の防空壕に退避したのち、廠外に出て佐奈川から姫街道の民家のある場所に逃げ、民間の防空壕に入れてもらいました。爆撃が済んだ後工廠に戻りましたが、地獄絵図のようであり、工員や学徒らの死体が方々にありました。死体といっても、体がバラバラになっているのです。諏訪町の養成所敷地に、かなりの遺体を埋めたのですが、しばらくは食事がのどを通りませんでした。

投稿: jyo_takuya | 2008.02.02 22:12

城さん、コメントありがとうございます。

豊川までは住んでいる武豊から名鉄で、1時間半ほどで行けますので、それほど苦にはなりません。当日は結構寒く、見学会の前にはあまり出歩かずに近所の店のなかにいました。
豊橋高女出身の方は、正門から出て助かったのですが、空襲がはじまって早い頃に出て、「整列した状態で死んでいる人達を見た」そうです。また、その人は最終的には防空壕にはいっていて助かったのですが、「防空壕に入っても、助かったり、助からなかったり、運しだいだった」そうです。また、不思議にまわりに爆弾が落ちているのに、自分の頭のうえには落ちてこないと思っていたと聞きました。また正門の付近に勤務していたのは、優秀な人が多かった、その正門付近に最初爆撃が集中したとも言っていました。
その人ではないでしょうが、もう一人の豊橋高女出身の方(その人自身は豊橋空襲で家を焼かれ疎開していて助かった)が、同窓生の話を紹介する形でしたが、その同窓生が正門から命からがら出ようとしたら、頭の髪が逆立った女性が「学生さん、私も連れて行ってください」というので、良く見ると、その女性は下半身がなかったという話をされました。
城さんは、北東門から逃げられたのでしょうか。その辺りには西豊川駅の仮停車場があったと思いますが、それは当時は動いていたのでしょうか。機会がありましたら、ご教示いただきたいと思います。
実際に空襲を体験され、遺体処理までされた方のコメントには、小生のような戦後生まれの者がそれ以上どうこういうことはありません。

投稿: mori_chan | 2008.02.03 07:00

突然ですが義母が徳島師範代勤労学徒で半田町で犠牲になった友達の名前が刻まれてる慰霊碑に御参りに行きたいと行ってます お寺にあるって言ってますが?昔の事で母も記憶が・・・
何処で調べたら良いのか分からなくて探していたらこのサイトがあったので・・・すいませんが分からないでしょうか?

投稿: マーちゃん | 2008.08.27 11:08

半田町とは今の愛知県半田市のことでしょうか。小生の勤務地は半田です。半田には中島飛行機の工場があり、半田空襲で多くの人が亡くなりました。また、東南海地震でも勤労学徒の犠牲者が出ています。

お寺では前明山光照院に、中島飛行機山方工場に動員され東南海地震の犠牲になった半田市内の学校の殉難者の供養が行われ、追憶の碑というのが建立されているそうです。光照院はJR半田駅近くで看板をみたことはありますが、入ったことはありません。
その他、雁宿公園に「殉難学徒の像」があり、犠牲者96名の名前が銘板に刻まれているそうです。雁宿公園のほうは、見たことがあるかもしれませんが、記憶にありません。

半田では赤レンガのカブトビールの建物がありますが、これも機銃掃射でやられており、弾痕が数多く残っています。
半田は空襲の慰霊碑が、他にも柊町の墓地にあります。どれがそうかよく分からないのですが、慰霊碑やお地蔵さんなどはほかにもあります。

投稿: mori_chan | 2008.08.27 21:38

地震じゃなく空襲で亡くなったそうです。乙川を覚えてます 今月26日に御参りに行きます 雁宿公園や光照院カブトビールなどに行ってきます 本当に有り難うございました いい親孝行が出来ます

投稿: 恵美ちゃん | 2008.09.01 15:44

moriです。

本日、よく行く温泉と住まいの途中に光照院の看板がありますので、ちょっと行ってきました。光照院の若いお坊さんに聞いたところ、石碑は7、8年前墓地の整理をしたときに、雁宿公園に移したそうです。光照院には、動員学徒の関連のものは「おおない十一面観音像」しか残っていないようです。「おおない十一面観音像」は東南海地震で犠牲になった人が勤めていた山方工場の土を常滑の陶土にまぜて作った陶製の観音様です。和尚さんがいたら、もっといろいろわかったでしょうが。

最初、刈谷に移したと聞こえたので焦りました。ちなみに、庫裡を建て直すため、古い食器類がいらなくなったとのことで、小さいお皿をもらいました。

そのあと、雁宿公園に行きましたら、そこには空襲・地震・労災のためになくなった半田地方の432人の犠牲者氏名を刻んだ「半田・平和祈念碑」、地震の学徒犠牲者を追悼する「殉難学徒の像」とその横に光照院にあった「追憶之碑」もたしかにありました。どうも、空襲の犠牲者は地区ごとにもおまつりしているようなのですが、乙川ですと、少々気になるお寺があります。それは後日調べておきます。

投稿: mori_chan | 2008.09.07 18:44

拝読させて頂きました。私の祖父が豊川海軍工廠に勤労動員で働いていました。

防空壕に埋まりましたが、這い出てきて助かりました。

「十三歳のあなたへ」という本が有ります。 ぜひ読んでみて下さい。

投稿: 豊橋師団二等兵 | 2015.06.08 01:29

私は当時豊橋に住み、私立豊川中学校の生徒でした。 今から見ると戦争も終わりに近かったのですが、勤労動員の一環として駆り出されました。 
空襲の日、出勤して居り、サイレンと共に工場前の防空壕にはいりましたが間もなく始まった空襲の初期、近所に落ちた爆弾の爆風により防空壕の屋根の部分がすっ飛び、青空の下に居る自分に気が付きました。

爆撃機は一度爆弾を投下すると旋回して目標に戻るまでかなりの時間が掛かります。 いずれにしても壊れた防空壕に留まる事は致命的と、壕から這い出しアスファルト道路を工廠の西門に向かって走り、無事西門を通過すると、道端には同じく逃げてきたと思われる女性など、蹲って居ました。

私は其処から更に農地を進み河の端に達した時、上空に米海軍戦闘機が現れ機銃掃射を行いました。 私の川原の中に入り土手の樹の陰に隠れながら、米軍機が戻る間川上に向かって進み、近くの小山に逃げ、安堵の息をつきました。

その後その一度の空襲で豊川海軍工廠で約3000人の犠牲者が出たとの事でした。

投稿: 山本英夫 | 2016.10.29 08:05

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豊川海軍工廠の跡地には、日本車輌ほか、いろんな工場があり、当時を偲ばせるものは周囲の堀と、一部北側の火工部があった場所が名大の敷地になって、火工部の建物や土塁、街灯などが残っているのと、東側の光学部の一部建物が今でも自衛隊の施設として使われているらしいが、その程度である。小生のいた機銃部など、建物も何も残っていやしない。 工廠の跡地では、特に空襲の被害が激しかった南側には、何も残っていない。正門があった場所には、日本車輌のきれいな正門ができている。周囲にある体育館や文化施設は、当然昔はなか..... [続きを読む]

受信: 2008.02.02 22:05

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