« 終戦直前に空襲された豊川海軍工廠 | トップページ | 鎌ヶ谷市初富周辺の牧遺構 »

2008.02.25

徳川家康と知多半島(番外:東海市にある「今川義元の塚」伝承地)

最近、仕事で何回か、半田・武豊から外に出て、東海市や名古屋に行く機会があり、小生東海市で気になる地名を目にした。それは「城之腰」というもの。車で東海市の物流会社に行ったときに、車のなかから交差点にかかった標識で見たが、以前から半田街道に「内堀南」とか「白拍子」という交差点が近くにあり、中世城郭かなにかあったらしいと気になっていた。「城之腰」の読み方は「しろのこし」か「じょうのこし」か知らなかったが、どちらにせよ明らかな城郭地名である。

<「城之腰」の交差点>

Shironokoshi

調べてみると、その「城之腰」の東側には、「城山」という地名があり、その「城山」に木田城という城があったことがわかった。実際に現地にいって、城跡周辺をあるいてみると、まず「城之腰」は「しろのこし」とよむことがわかった。その交差点から東にのぼっていった「城山」という場所に木田城の主郭があるというが、現在は住宅地になっていることがわかった。途中、浅間神社の祠があったが、そこも一段高くなっていて、防御施設があったかもしれない。また、土塁の残欠らしきもの、竪堀らしきものを見たが、不正確なことを書いても仕方がないので、図書館ででもよく調べてから、別途書くことにしたい。

この木田城こそ、今の東海市域の主要部を戦国時代に支配していた荒尾氏の居城であった。木田城は鎌倉末期に一色左馬助が築城したものを、戦国期に荒木空善が改修して居城とした。それは、今川方の知多侵攻に備えたためといわれる。荒尾氏というと、鎌倉幕府の御家人であった家があったが、戦国期に荒尾空善からはじまる系譜とは別であると思われる。その空善以降の荒尾氏は戦国時代を生き抜いて、池田輝政を祖とする鳥取藩池田家の家臣として存続した。その先祖は在原業平というが、それは伝承上のことで、実際には在地土豪であったと思われる。

実は室町時代には、当地には富田氏という氏族(尾張守護であった土岐氏の家臣という)がいたが、戦国期に緒川の水野氏が進出するに及んで、花井氏が水野氏と組んで富田氏の富田城を攻め、富田氏を退去させたか、あるいは、この荒尾氏が水野氏と結んで、富田氏を追放したらしい。荒尾氏は一応独立した豪族ながら、水野貞守から知多半島におおいに威をふるった水野氏にしたがっていたようである。

<木田城の主郭部附近>

Kidajyo

この荒尾氏は、織田信長の村木砦攻めに一役買っている。すなわち、天文23年(1554)1月、今川方が緒川の北、現在のJR尾張森岡駅近くに築いた村木砦をめぐった戦いにおいて、織田信長が自ら軍勢を築いてこれを攻めた際、途中にある鳴海城や大高城がすでに今川の手に落ちていたために、織田勢は一旦、海路これらの拠点を避けて、村木砦に向かうことにした。そして、1月22日、織田勢が熱田湊から船で馬走瀬(東海市横須賀)の浜(可家湊の辺り)に上陸、木田城に一泊した後、1月24日払暁、村木砦を襲った。可家の湊とは、以下の通り、万葉集にも詠まれた古くからある湊であった。その可家の湊があったあたりに建つ諏訪神社には、万葉の歌碑がある。古い歌碑は字が薄れてきたために、新しい歌碑も建っている。

<諏訪神社にある万葉の歌碑~小さい右側の碑が本来の歌碑>

Manyoukahi                                                                                

諏訪神社の石碑には、以下の歌が刻まれている。

年魚市方塩干家良思知多乃浦爾 朝榜舟毛奥爾依所見

あゆち潟潮干にけらし知多の浦に 朝こく舟も沖に寄る見ゆ

また、万葉集にある可家の湊を詠んだ歌は、以下の通り。

味鎌の可家の湊に 入る潮の こてたずくもか 入りて寝まくも

要は、今は陸地がその西側にずっと広がっているが、昔はその付近まで海だったということ。

ところで、荒尾空善は今川氏の尾張侵入によって戦死、村木砦の戦いの頃の当主は、大野佐治氏から養子に入った善次である。 大野の佐治氏や寺本の花井氏は、知多半島に今川家が侵攻した際に今川氏に付いたようで、花井氏はその後も桶狭間合戦にいたるまで今川方であり続けたのに対し、佐治氏は荒尾氏と養子縁組をするなど、途中で織田方に懐柔されたらしい。

荒尾善次は信長の軍を迎え、織田の軍勢は木田城だけでなく、周辺の長源寺、観福寺(高横須賀町山屋敷)にも分かれて駐屯、そして村木砦を攻めるのであるが、荒尾氏もこれに加わったとされる。

「城之腰」の交差点を「城山」とは逆に西へむかうとすぐに観福寺があり、しばらく歩くと長源寺の門のあたりに出る。長源寺は、延徳4年(1492)、大中一介禅師により開山された曹洞宗の寺。観福寺は知多でも有数の古刹で、寺伝によれば大宝2年(702)行基の建立といわれている。その沿革も宝徳2年(1450)に前身の本堂を建立したことが、寺蔵の棟札によって知られているだけで、そのほかの詳しいことは不明。しかし、相当の古寺であることは間違いなく、尾張徳川家の尊崇をうけ、文化財も多数所蔵している。また、当時は今より寺域が広く、「城之腰」交差点まで広がっていた。こうした寺院は、戦国期には荒尾氏の出城のように使われた可能性もある。

<仁王門から見た観福寺本堂>

Kanpukuji

一方、寺本の花井氏は、代々現在の知多市の寺本城を居城とした。寺本城は青い瓦葺であったといい、青鱗城ともいう。花井氏は尾張守護であった土岐氏の被官だったというが、寺本の津島神社には、寺本城主花井信忠が嘉吉3年(1443)5月に津島社を建立した棟札が今も保存されている。戦国期には花井播磨守、勘八郎の二代が寺本城主であった。この花井氏は、今川勢の知多侵攻に伴い、今川方となっていた。天文23年(1554)1月25日、村木砦攻めに勝利して帰った、織田軍により攻められ、寺本城下は戦火にあい、甚大な被害を受けた。桶狭間の戦いの後は、花井氏は織田信長に従い、大野城主の佐治氏の大野水軍とともに、寺本水軍として西浦の海で活躍したという。

桶狭間合戦の際の伝承として、織田方である荒尾氏の勢力圏内の可家湊、前述の諏訪神社近くに、どういうわけか「今川義元の塚」がある。それは長源寺、観福寺とも近い、今の横須賀小学校に隣接した場所にあり、その土地は「今川」と呼ばれている。

その場所は、航空写真で示すと、以下のようになる。

大きな地図で見る

伝承では、桶狭間の戦いで敗れた今川方の家来たちが、この地まで逃れ、義元の遺体を現在はない永昌寺に葬り、墓を守るためにこの地に住み着いたという。その子孫で「北川」「早川」という姓の者の子孫がいまでもいるという。

今川義元の首級は織田勢が首実検のために持ち帰ったが、それを鳴海城を守った岡部元信が強くアピールし、岡部が駿府に帰還させたという。また、胴塚も豊川の牛久保にあって、義元の嫡子氏真が供養したりしているので、そこに遺骸が葬られているのだろう。方角も桶狭間からは西にあたり、織田勢の多い当地に今川義元の塚があるのは、もちろん信じがたい。

<今川塚>

Imagawaduka

面白いのは、傍らにある石塔に「今川義基墳」とあること。「義元」を「義基」として祀っているのは,織田の勢力が強いために遠慮して字を変えていると言われているが、一字替えたところで、すぐ分かるのではないか。

<「今川義基墳」の文字のある石塔>

Imagawafun

今川塚近くの地に、戦いに敗れた今川義元の家臣が逃れてきたが、ついに息絶え、村人が12人の亡骸を葬ったとされる十二塚という地名も残っているが、落ち延びてすぐに全員死んだとも思えない。
元治元年(1864)には,今谷要蔵という船頭が,伊勢の海で難破しかけたとき,日頃から信仰していた「今川さん」に助けられたとして,塚の周辺の地を買い取り,祠(ほこら)を建てたという話も残っており、確かに今谷要蔵の寄進した石造物が残っていた。
よくわからないが、今川方の敗残兵が桶狭間合戦の後、当地に漂着した。今川方であった花井氏の本拠である寺本に逃げたのかもしれないが、着いたところは、まだ織田方の可家湊であった。しかし、それを憐れんだ地元民がかくまったか何かで、彼らは当地に土着した。その伝承が残り、今川義元に結び付けられたのではないか。
<今川塚の本当の主は?>

Imagawaduka1

|

« 終戦直前に空襲された豊川海軍工廠 | トップページ | 鎌ヶ谷市初富周辺の牧遺構 »

コメント

 お久しぶりです、相変わらずご活躍のご様子嬉しく思います。
最近発足した「水野氏史研究会」に、桶狭間でご一緒したfoxbladeさんが、寄稿してくださいましたので、ぜひ御覧下さい。
 mori-chanさんも「水野氏史研究会」に入会してくださると幸せなのですが、お考えいただけませんか?

投稿: ∞ヘロン | 2008.03.27 05:22

ヘロンさん、moriです。お久しぶりです。

最近仕事やらなにやら忙しくブログを殆どほったらかしにしていました。御返事が遅れ、すみません。foxbladeさんの寄稿を読みました。
小生もなぜ岡部元信が鳴海城から帰還途中で刈谷を攻め、放火などを行ったのか、非常に疑問でした。
それは小生が徳川家康と知多半島の29で、
「明確に今川方に寝返っていたわけではないが、水野信元は織田にも今川にも通じていたように思われる。

確かに、水野信元の弟である刈谷城の水野藤九郎信近や主だった者は、鳴海城を開城し、駿河に帰る途中の岡部元信により、はかりごとをもって討ち取られ、城内に放火された。それは、岡部元信が、水野信元の立場をよく理解していなかったことによる、偶発事象かもしれない。もし、本当に水野信元が今川勢にとって脅威なら、桶狭間に行き着く前に刈谷を襲っていたか、すくなくとも別働隊を作ってでも攻撃を加えていたであろう。」と書いたのと、同じような考えと思いました。

さらに、詳しく史料等あたっておられ、「なるほど」と感じたのであります。  

小生の場合は、水野氏というより徳川家康、松平氏のほうに興味があります。寄稿まではできないかと思いますが、補助会員くらいならなってもかまいません。しかし、ロムするだけかもと思います。                                             

投稿: mori_chan | 2008.04.06 20:43

mori-chanさん
 やはり年度末でご多忙のご様子大変ですね。
そんな中、お返事下さりありがとうございました。
水野氏史研究会の入会をご承諾いただき誠に
ありがとうございました。
詳細については、長くなりますのでメールいたします。

投稿: ∞ヘロン | 2008.04.07 14:15

mori-chanさん
 先日は、水野氏史研究会のfoxbladeさん寄稿論文に対して、コメントいただきましてありがとうございました。
先ほどfoxbladeさんからお礼のコメントが寄せられましたのでお知らせいたします。

投稿: ∞ヘロン | 2008.04.14 03:11

ヘロンさん、こちらこそありがとうございます。充実した研究会になってきたようですね。

投稿: mori_chan | 2008.04.16 22:57

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/84760/40248019

この記事へのトラックバック一覧です: 徳川家康と知多半島(番外:東海市にある「今川義元の塚」伝承地):

» 大高城 [日本の城ブログ]
城名:大高城、大高砦 築城年:不明(南北朝時代?) 築城者:不明 城区分:山城 所在地:〒459−8001 愛知県名古屋市緑区大高町城山 電話:(052-625-3878 緑区区民生活部まちづくり推進室) URL:http://www.city.nagoya.jp/ku/midori/machi/meguri/ nagoya00044984.html コメント:桶狭間の戦いの際に、当時、今川義元に属していた松平元康(徳川家康)が兵糧を届け、守った城です。そ... [続きを読む]

受信: 2008.03.03 13:59

« 終戦直前に空襲された豊川海軍工廠 | トップページ | 鎌ヶ谷市初富周辺の牧遺構 »