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2008.03.20

すこしばかり奇妙な話

小生は船橋の人間である。生まれたのは、東京南部で神奈川に近い場所であるが、東京には通算5年くらいしかおらず、就職してから愛知、兵庫と住処を変えながらも、基本的には千葉県は船橋に居住してきた年数が長い。

しかし、船橋の中心はJR船橋駅の辺であろうが、そちらより東に住んでおり、習志野市も一部生活圏内のようなかたちで、習志野市と船橋市をあまり意識していない。そもそも、なぜ習志野市が船橋の一地名である習志野を市の名前として名乗っているのか分からないし、習志野市は船橋市に市町村合併で吸収されるものとばかり思っていた。

<東船橋の店の「壁画」>

Funako

それはともかくとして、そんな地域に住んでいたために、小学校は小生の場合、近所のすぐ歩いていける小学校へ進み、中学校も同様であったのだが、近所の人の中にはわざわざ習志野市に越境通学する人がいた。同じ学年で、S君というのがいて、なぜか習志野市のT小学校に行った。小生も京成津田沼くらいまでは、歩いていけないこともなく、小学生の頃はそのあたりまで遊びにいったのであるが、T小学校をみて、ああここがS君が行った学校かと思ったものである。当時、T小学校にはある噂があり、子供ごころにも怖いと思ったが、その校舎は小生が通っていた小学校と同じように古く、木造2階建てくらいの建物で、金網越しに校庭をみると、なんとも狭いなあ、うちの小学校とたいして変わらないなあという印象であった。だから、なぜS君がわざわざその学校に越境して通っているのか、ますます分からなくなった。

<JR津田沼駅東側から新京成跨線橋を見る>

Sinkeisei

ずっと、後になり、大人になって「T小学校は京成津田沼駅の南側にあったよな」と地元出身の友人に言うと、みな違うという。実際に場所を確認しても、それはJR津田沼駅の南であって、京成津田沼駅からみると西側の坂の上の高い場所にある。京成津田沼駅の南のほうから移ってきたんじゃないかというと、昔からその場所にあるという。

自分の記憶では、T小学校は京成津田沼駅のすぐ南にあり、場所は平坦な地形でまっすぐな道に面していた。T中学校の間違いじゃないかとも思ったが、それは津田沼町だった頃には存在したが、津田沼町が習志野市になってからは習志野一中、二中というネーミングで、小生の小学校時代にはすでにT中学という名前ではなくなっていた。また、その該当する中学校は全然違う場所にある。

単なる小生の記憶違いなのだろうか。JRと京成を間違えていただけだろうか。しかし、校庭の広さをみると、今のT小学校は小生が通っていた小学校よりはるかに広く、倍ほども広い。昔見たT小学校の校庭は狭かったと覚えている。この矛盾はどうしたわけか。

ある日、習志野の図書館で借りて、コピーした本の挿絵で、昭和3年の津田沼の絵図があり、そこに描かれていたT尋常小学校はまさに小生が記憶していた場所にあった。地形や校庭の大きさも、それなら納得できる。

<T尋常小学校>

Tshougakko

やはり移転していたのだが、移転した日付はその小学校のHPによると小生が生まれた年に移転完了したことになっており、当然ながら小生の小学生時分には移転後の場所にあったことになる。では小生が見たと思っていたものは、何なのか。古い校舎が壊されずに残っていたのだろうか。もし、もう古い校舎もなかったとしたら、幻を見たのだろうか。

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2008.03.08

鎌ヶ谷市初富周辺の牧遺構

新京成の二和向台と滝不動の間と思うが、小学校の横に土塁状のものがあるのを電車に乗りながら見た。新京成線にはたまにしか乗らず、しかも津田沼から北習志野より先は殆ど乗ることがないため、今まで気付かなかった。それは勢子土手であり、江戸時代の牧遺構であることを最近知った。

先日鎌ヶ谷に行く用事があり、初富稲荷がすぐ近くにあったので、その境内に建った開墾記念碑をみた。これは「初富開拓百ヶ年記念碑」とかかれ、題字は当時の友納千葉県知事である。

下総台地の集落をのぞいた、大昔は原野であった部分をほぼ占める広大な牧は、中世以来軍馬の供給地として形成され、江戸時代には小金牧や佐倉牧という幕府直轄 の牧がつくられた。その牧はかならずしも固定的ではなく、牧での新田開発、開墾は江戸時代から一部行われて いた。明治維新で明治新政府ができると、家禄を失った旧武士階級や都市困窮民の救済のため、 下総の牧の大規模な開墾が新政府によって企てられ、入植が行われた。これは農業を振興させるという意味もあったろうが、士族授産や窮民対策の意味が強かったのだろう。

<初富稲荷神社>

Hatsutomiinari

入植者は旧武士階級のほかは、東京にいた非農業の窮民であるが、彼らも元は農民であったものが多い。入植はしたものの、慣れない農作業、厳しい自然 環境に加え、新政府側の不手際もあって、開墾は困難を極めた。結局、当初の入植者は耐え切れずに少数しか残らず、少数残った東京窮民と近辺の農家の次男三男が最終的に開墾を成し遂げた。しかし、明治新政府、開拓会社は、開墾に苦闘する人々を途中で見捨てるような動きをしたため、開墾を成し遂げた人々の心境は複雑で、いくつか建てられた開墾記念碑のなかには、銘文がまったくないものもある。

開墾地には、、開墾順序に合わせて地名がつけられたが、その最初が現・鎌ヶ谷市の初富。初めて富を得る場所という意味か。以降、二和(船橋市)、三咲(船橋市)、豊四季(柏市)、五香(松戸市)、六実(松戸市)、七栄 (富里市)、八街(八街市)、九美上(香取市)、十倉(富里市)、十余一(白井市)、十余二(柏市)、十余三(成田市、多古町)と続く。

初富、二和、三咲は新京成の駅名にもなっているが、近接した場所である。四番目の豊四季をとばせば、五香、六実も比較的近い。

しかし、初めて富を得るはずだった初富での開墾が困難であったことは、想像に難くない。

<初富稲荷の開墾記念碑>

Hatsutomihi

初富周辺には、牧の遺構もある。たとえば、小金牧のうち、中野牧というのがあり、その込跡がある。これは、ぐるりと土塁が取り囲んで、馬を捕り込むもの。これは、「捕込(とっこめ)」ともいう。土塁が高く、またその製法は中世城郭と殆ど同じようであるから、よく中世城郭跡と間違えられるそうである。今も、中世城郭とされているもののうち、いくつかは「捕込」である可能性があるという。以前、鎌ヶ谷市道野辺にある道野辺八幡神社の境内が中沢城跡で、周辺にある土塁が城の土塁であるとされていたが、それは間違いで、土塁は牧遺構らしいということである。それで、中沢城は、未だに明確な比定地がない。

去年の7月16日、第5回千葉県北西部地区文化財発表会
「Good Job!!」-昔の人のものづくりテクニックを学ぼう!-(開催場所:鎌ケ谷市中央公民館)という催しに行ったとき、発表会のあとで国の史跡となった野馬土手、すなわち小金中野牧の込跡の見学会もあったのだが、小生愛知に帰らねばならず、そのときには見ることが出来なかった。

<中野牧の込跡>

Nakanomaki

中野牧込跡は、国の史跡の指定を受けているが、野馬土手はどんどんなくなっているらしい。それは住宅開発のためであったり、道路建設などの都合もあるだろう。かつてはありふれた光景であったのが、開発によって変貌し、貴重な文化財が失われるのは残念なことである。

中野牧込跡の近くを横道にはいると、貝柄山公園というのがある。

ちょっと、その公園によってみた。

<貝柄山公園へ>

Kaigarayamahe

貝柄山といっても、山ではない。写真の犬を連れた女の子も同じ方向を歩いているが、むしろ低地に向かっている。実は貝柄山とは縄文時代に貝塚があった場所であり、谷津田のような低湿地であったそうだ。

<貝柄山公園>

Kouen

貝柄山公園には池があり、水鳥がのどかに泳いでいた。ここは市民の憩いの場になっているようである。

鎌ヶ谷、船橋には中野牧込跡以外にも、いろいろ牧遺構はあるようである。とりあえず、一度新京成電車を途中下車して二和の勢子土手をみてみようと思った。

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