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2008.04.17

半田・武豊の春祭り

知多半島は春になると、各地区で春祭りを行う。半島の南のほうから、小生が住んでいる武豊町や半田市、あるいは常滑市といった地域は4月には祭りのシーズンになるが、よそから来た小生のような人間は交通規制が一番の関心事である。

半田は特に山車で有名で、図書館に隣接した博物館には大きな山車が展示され、五年に一回秋に行われる山車祭りには市内だけでなく、愛知県・近県から観光客が集まる。山車の巡行は京都の祇園祭の山鉾巡行に似ているが、あれほど大きなものでなく、各町の地区ごとに小ぶりな山車を持っていて、それがその地区の神社などから出発し、町の主だった筋をまわっていく。

<成岩神社の山車>

Narawadashi

もともと、知多半島は中世から海運で栄え、農業・漁業に加えて窯業が盛んな地域であったが、半田や武豊は江戸時代から酒、酢、味噌、醤油などの醸造業が盛んなところであった。江戸時代、灘の酒と称して、知多半島で作られた酒がかなり出回っていたようだ。酒は今でも、国盛とか半田郷などあり、初夢桜というきれいなネーミングの銘酒もある。また酢では、有名なミツカン酢、中埜酢店の本社は半田にある。

<国盛の甘酒>

Amazake

例年、三月下旬から五月上旬まで、各町それぞれの氏神社に、豊作、豊漁、繁栄、息災を祈願して春祭りが行われるが、会社の人でも祭りに熱心な人もおり、この時期になると知多半島のケーブルテレビでは祭りの様子を延々と流している。なぜ、かくも祭りに熱心なのだろうか。

祭りの出物は、山車や踊りなど。まあ、何といっても山車であろうか。山車は江戸時代に作られたものから明治、大正、昭和のものがある。成岩神社のは、一台が江戸時代、あと三台は大正期に作られたものである。抱き地蔵の近くに格納されている旭車という、山車は、大正13年(1924)建造のものであるが、大幕という、山車の胴の部分にかけられる朱色の布幕にはきれいな亀の刺繍がほどこされている。

<美しい山車の飾り>

Narawadashi_sishu

各地区、各神社ごとに色々な山車があり、その彫刻や飾り物の贅を競っているように見えるが、彫刻は古今の豪傑英雄や神々、竜虎、亀といった動物、説話の登場人物などが題材である。大幕には、金糸銀糸でやはり英雄や竜虎などが刺繍される。

稚児が三番叟を舞うのも、祭り情緒をかもし出す。下は、偶然撮ったもので、おそらく家族と思われる人たちが稚児役の少年を背負っていく様子。だいたい、カメラ持参で、さあ撮るぞと向かったときには失敗が多いが、偶然カメラを持っていて撮ったもののほうが良いものが撮れるものである。

<三番叟の稚児一行>

Taketoyosen

昼食で、魚料理の店にいったところ、カウンターに山車の模型が置いてあった。知多半島は、春は祭り一色のようである。

<山車の模型>

Uokatsu

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2008.04.06

柏の葉キャンパス駅近くにある「高田原開拓碑」

秋葉原といえば、昔はラジオ商など電気屋さん、それもパーツを扱う小さな店がひしめきあい、後に家電量販店ができるなどして大衆化したが、どちらかといえばマニアの街という感じが強かった。

電気街以外には交通博物館、そして万世橋、それが昔の秋葉原の印象である。世の中の流れは、秋葉原の街も変貌させた。昭和5年(1930)にできた万世橋は、そのままであるが、交通博物館はいつの間にか閉館になっていた。去年の10月に埼玉でリニューアルオープンという看板がかかっていたので、もう埼玉で開館しているのだろう。

<万世橋>

Manseibashi

秋葉原は、前に述べたように、戦後の闇市の延長のような街で、ごちゃごちゃしたパーツ屋が軒を並べ、ラジオの部品とかが売られていた。半田ごてを使ったりしてそうした部品を組み合わせ、ラジオなどを作る遊びは、今の子供はやらないのだろうか。今時、ラジオ自体あまり流行らない、インターネットの時代である。今も秋葉原にはパーツ屋もあるが、やはり量販店が主流だろう。

そして、今や電気街は大きく発展し、外国人観光客の買い物スポットであるし、最近ではつくばエクスプレスが出来て、秋葉原はその出発点となった。千葉県北西部からつくばにかけて、学研都市や新興住宅地ができたが、それらを結ぶ路線の出発点が秋葉原なのである。

<万世橋の上から>

Manseibashikara

そのつくばエクスプレスの一つの駅に、柏の葉キャンパス駅がある。キャンパスというのは、東大と千葉大のキャンパスがあるということを意味し、主に東大のことをいっているのかもしれない。実は、ここは戦時中まで柏陸軍航空隊で、戦後は米軍の通信基地とされた。それが返還されて、大学や公園、官庁などが出来ている。

ところで、柏の葉キャンパス駅周辺の土地には、もっと以前からの歴史がある。原野に近いとはいえ、まったくの無人の原野であったわけではない。

下総台地は、古来野馬がいて、それが中世から放牧され、軍馬の供給地とされてきた。そして、江戸時代には小金牧や佐倉牧という幕府直轄 の牧がつくられた。小金牧でいえば、五牧とかいうが、その牧はかならずしも固定的ではなく、牧での新田開発、開墾は江戸時代から一部行われて いた。小金牧を小金五牧というとき、それは上野牧、高田台牧、中野牧、下野牧、印西牧をいう。庄内牧というのもあったが、享保年間になくなったので、五牧には数えない。江戸初期には、一本椚牧というのもあったが、中野牧に吸収された。

明治維新で明治新政府ができると、家禄を失った旧武士階級や都市困窮民の救済のため、 下総の牧の大規模な開墾が新政府によって企てられ、入植が行われた。

<初富稲荷神社>

Hatsutomiinari

開墾地には、、開墾順序に合わせて地名がつけられたが、その最初が現・鎌ヶ谷市の初富。初めて富を得る場所という意味か。以降、二和(船橋市)、三咲(船橋市)、豊四季(柏市)、五香(松戸市)、六実(松戸市)、七栄 (富里市)、八街(八街市)、九美上(香取市)、十倉(富里市)、十余一(白井市)、十余二(柏市)、十余三(成田市、多古町)と続く。

<柏の葉公園>

Kasiwanoha

柏の葉キャンパス駅周辺は十余二という開墾地である。それは、かつての高田台牧があった場所である。

高田台牧は柏市十余二・高田のほか流山市の一部にまたがる。この土地が開墾され、原野が農地になる過程では、他の開墾地同様、開拓民の苦労があったわけであるが、ここには開拓民を小作農として大隈重信が広大な土地を所有した地主として君臨していた。現柏特別支援学校付近に、明治初期、大隈重信が屋敷部分だけで10,000m2を超える土地を所有していたという。

小金牧開墾の記念碑には、そうした開拓民の心情を表したものが見られるが、この高田台牧開墾の記念碑は、直裁にそれを表している。

柏市十余二のバス停近くに、厳島神社があるが、その小さな境内に、「高田原開拓碑」という石碑がたっている。これは昭和29年(1954)8月に建てられたが、この碑文は以下の通りである。

<「高田原開拓碑」>

Kaitakuhi

「当地は元小金原高田台牧也

明治二年より入植開拓せり初期入植者は自作農たるべき筈の処大隈及鍋島等の所有となりて八十余年昭和廿二年来の農地改革により初志貫徹すべて入植者の有に帰す」

<石碑の裏>

Hiura

しかし、明治初年の開墾とは別に、昭和13年(1938)に開設された柏陸軍飛行場が戦後海外からの引揚者、旧軍人ら約140人に払い下げられ、開墾されたが、朝鮮戦争後に一部が米軍基地として接収されたり、昭和38年(1963)にさらに施設拡充のため国に開拓地が買収されて中十余二開拓部落から農民が去り、開拓部落自体がなくなるなど、十余二周辺の入植者の苦労は絶えなかった。

今は十余二には農地もあるが、柏の葉地区はキャンパス、官庁、公園、住宅地となり、南側の高田にいたる地域は工業団地となって、明治の頃、あるいは戦時中までは想像できなかった姿に変貌している。

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