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2008.05.07

徳川家康と知多半島(その30:桶狭間合戦当時と事後の水野氏の動向)

今まで、桶狭間合戦において、尾張攻略をめざす今川義元が大軍を率いてきたのが、逆に織田信長によって討たれ、今川方の先鋒であった松平元康、後の徳川家康が合戦の前に兵糧を運び入れると同時に大高城に入ったものの、今川軍の敗戦の報に接して、大高城を脱出、岡崎城に戻って今川氏の支配から脱しようとするところまで述べてきた。

さる4月29日、豊明市の曹源寺にて梶野渡氏の講演があることを、尾張中山氏御子孫のS氏から聞き、さっそく行ってきたのであるが、いかにして2千の兵力の織田勢は10倍もの大軍を擁する今川勢を破ったか、その軍勢の構成や織田信長の実家である織田弾正忠家と一族の関連、織田信長の軍人の育て方、大高を目指す今川本陣の動きをキャッチした情報戦、曹源寺住職であった快翁龍喜和尚と中山氏、桶狭間合戦との関わりなど、分かりやすく興味深い話が多かった。寺の本堂いっぱいにあふれた聴衆は2百名を大きく越え、3百名くらいはいたようで、280部用意した資料がまったく残らなかったらしい。

<曹源寺>

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その講演後、S氏一行と梶野渡氏、曹源寺和尚と庫裏の座敷で少し雑談をした。ちなみに曹源寺自体は大脇村がもともと知多郡であったため、知多八十八ヶ所の一番札所になっているが、今の曹洞宗の地区分けでは名古屋とその周辺の地区に属し、曹源寺和尚はブロック長であるとのこと、道理で大勢を前にした話の仕方もうまいと思ったが、それはともかく。やはり桶狭間合戦での水野氏の動きがどうにも分からない、単に合戦が終わるのを水野氏は待っていたようにも思われるし、岡部元信が桶狭間合戦後籠城していた鳴海城から引き上げる途中に刈谷城を襲撃して水野信近を討っているが、なぜ籠城で疲れ果てている兵で襲ったのか(最初から攻めるつもりなら、今川の大部隊で桶狭間に行く途中でも攻め落とせば良いのではないか)というような話をした。

この点については、以前当ブログ(「徳川家康と知多半島(その29:桶狭間合戦から今川氏からの自立まで)」)でも、「桶狭間の合戦で動向が分からないのが、水野信元である。桶狭間合戦に先立つ、村木砦をめぐる戦い、石ヶ瀬合戦においても、松平を含む今川勢は、織田方となっていた緒川水野氏と戦ったのであるが、当主水野信元の去就がはっきりしない。特に、村木砦に砦を築くようなことが今川勢に出来たとするなら、敵地に普請をしたことになり、刈谷、緒川の水野氏はそれを傍観していたのかということになる。(略) 

天文23年(1554)の村木砦の戦いは、水野信元が日和見をするなかで、織田信長が緒川水野氏の流れであるが布土城主になって知多における織田直系であった水野忠分を助ける形で展開していたとみるべきで、その後の石ヶ瀬合戦や桶狭間合戦に水野信元が積極的に関与していない事情があったと思われる。すなわち、明確に今川方に寝返っていたわけではないが、水野信元は織田にも今川にも通じていたように思われる。

確かに、水野信元の弟である刈谷城の水野藤九郎信近や主だった者は、鳴海城を開城し、駿河に帰る途中の岡部元信により、はかりごとをもって討ち取られ、城内に放火された。それは、岡部元信が、水野信元の立場をよく理解していなかったことによる、偶発事象かもしれない。もし、本当に水野信元が今川勢にとって脅威なら、桶狭間に行き着く前に刈谷を襲っていたか、すくなくとも別働隊を作ってでも攻撃を加えていたであろう。」と述べている。

<水野信近の墓のある楞厳寺の水野家廟所>

Mizunoshibochi

その水野氏の桶狭間合戦当時の態度、動向を理解するうえで興味深い文献がある。

それは『別本士林証文』にある「今川義元書状写」永禄三年(か)四月十二日付のもの。

夏中可令進発候条、其以前尾州境取出之儀、申付人数差遣候、然者其表之事、弥馳走可為祝着候、尚朝比奈備中守可申候、恐々謹言

             (永禄三年か)四月十二日   義元

                         水野十郎左衛門尉殿  

(書き下し文)

「夏中、進発せしむべく候条、それ以前尾州境取出の儀、申し付けの人数差し遣わし候、然らばその表の事、いよいよ馳走祝着たるべく候、なお朝比奈備中守申すべく候、恐々謹言

             (永禄三年か)四月十二日   義元

                         水野十郎左衛門尉殿」

これが永禄3年の文書であれば、水野十郎左衛門尉に尾張における今川方の前線にたってくれるように要請しているのであり、桶狭間前夜という時期に水野氏に今川方について働いてくれと言っているのである。

この十郎左衛門尉は、その名前の署名が入った最も新しい文書(東浦町誌にあるが、もとは大御堂寺文書)では、元亀3年(1572)のものがある。しかし、これは後の十郎左衛門尉であり、前述の十郎左衛門尉の息子か跡継ぎということになる。

野間大御堂寺従前代雖為守護不入、猶以御理之儀候条、一円令免許上者、諸役等寺中之竹木夫以下此外於向後も申事有間敷者也仍状如件

元亀三年 壬申 十月十八日

水野十郎左衛門尉

柿並

寺中参

是後ノ十郎左衛門也

元藤四郎元茂ト云 」

(書き下し文)

「野間大御堂寺、前代より守護不入たりといえども、猶もって御理之儀候之条、一円免許せしむる上は、諸役等寺中の竹、木、夫丸以下、このほか、猶向後も申す事あるまじきもの也。よって状くだんの如し。

元亀三年 壬申 十月十八日

水野十郎左衛門尉

柿並 寺中参

これ 後の十郎左衛門也 

元藤四郎元茂という」

<水野忠政の墓>

Tadamasa  

では、この水野十郎左衛門尉とは誰であろうか。小生、それが分からず、ずっと胸の奥に引っかかった感じであった。水野十郎左衛門というと、旗本奴で幡随院長兵衛と争った子孫のほうが有名であるが。

この水野十郎左衛門尉は、天文13年(1544)閏11月には織田信秀と書状のやり取りをしているし、斎藤道三とも交信しているのである。すなわち、戸田氏系水野氏のような水野氏の傍系であるとは考えられない。また天文13年(1544)閏11月の時点で存命であり、桶狭間合戦時も生きており、息子が元亀3年(1572)10月の時点で存命という水野家主流の人物ということになる。尾張、駿河、美濃の代表人物とも交信できる主流の水野氏というと、緒川・刈谷水野氏、大高水野氏、常滑水野氏以外ではない。しかしながら、大高水野氏なら、宛名にその代々が用いたらしい大膳亮という名前が用いられたであろうし、永禄3年の桶狭間合戦時には、その当主大膳亮忠守は大高城を追われて、刈谷に閑居していたのであるから、今川義元がわざわざ書状を送るはずがない。

<水野氏ゆかりの乾坤院>

Kenkonin

もちろん緒川水野でも、天文12年(1543)になくなった水野忠政以前の人では時代があわない。残るは、緒川・刈谷水野氏の数人か常滑水野氏ということになるが、大御堂寺周辺の支配権は永禄初年に常滑水野氏から緒川・刈谷水野氏に移っており、元亀年間に大御堂寺周辺を支配していたのは常滑水野氏ではなく、緒川・刈谷水野氏である。

つまり、水野十郎左衛門尉とは緒川・刈谷水野氏の誰かである。

最後の文書にある「元茂」とは、水野信元の養子である通常「信政」とある人物である。その十郎左衛門尉が水野信政であれば、その先代とは、他ならぬ水野信元その人である。つまり、水野十郎左衛門尉は、水野信元であったことになる。この十郎左衛門尉という通名は、緒川水野氏の祖ともいうべき水野貞守の通称が水野九郎次郎十郎左衛門蔵人というのに端を発しているかもしれない。十郎左衛門尉というのは、水野家主流の名乗りであり、前出の旗本奴の水野十郎左衛門もその系統をひいているから、そう名乗ったのである。また水野信元の子に、松平信定の娘を母とする十郎三郎というのがいるが、その名前は十郎という父の子の三郎という意味であるから、信元が十郎ということになる。

この水野氏が桶狭間合戦に際してとった可能性がある態度、立場を書けば、

(1)水野氏は織田方であることを貫いたが、相手が余りに自分の領土に近い場所に迫ってきたため、領内でおとなしくしていたか、合戦にも出たが働きが目立たず、歴史に残らなかった

(2)実は、水野氏は密かに織田方を裏切り、今川方についていたが、正史ではそう書かれずに今日にいたり、真相が分からなくなった。

(3)桶狭間合戦では、水野氏は両軍によしみを通じながら、どちらにもつかず、「洞ヶ峠」を決め込んだ

(4)関が原合戦のときの小早川秀秋のように、最初今川方について戦ったが、合戦の途中で織田方に戻った

(5)(4)とは逆に織田方であったが、途中から今川方になって戦った

上記のうち、(5)はありえない。もし途中から今川方になったら、桶狭間合戦後に岡部元信が刈谷城を攻めることが発生しえない。また、(2)は今川義元の書状が、裏切りの根拠となりえるが、実際に今川方について織田勢と戦ったのなら、織田にとっては大いなる背反であり、何か記録が残ると思われる。(4)も同じで、最初今川軍に水野がいたなら、人々の印象に残るだろうから、何か記録が出てきてもおかしくない。

残るは、(1)か(3)であるが、もし(1)で単純に織田方についていて動きが積極的でなくても、相手のある話で、もしそうなら今川勢が行きがけの駄賃とばかりに刈谷城を攻めたのではないかと思う。もっとも、桶狭間合戦の前に既に刈谷城が今川方の手に落ちていたら、話は別である。

残るは(3)であるが、本当は(3)でもない。今川勢が刈谷城を攻めなかったのは、やはり水野信元と今川勢の間で何らかの約束が出来ていたからであろう。それは義元の書状そのままに尾張境で前線にたつということかもしれない。しかし、その約束に関わらず、水野勢は動かなかった。つまり、今川方との約束を反故にして、水野勢は終始織田方のまま、積極的には戦おうとしていなかったと思う。つまり、「洞ヶ峠」を決め込んだのではなく、織田方のまま、今川に加担するフリをしたのである。あるいは、桶狭間の敗戦で敗走する今川勢に追い討ちをかけるようなことはしたかもしれない。そして、桶狭間合戦後は何事もなかったように、織田陣営にあったに違いない。

だから、合戦後に約束を違えた水野氏に対して、岡部元信が謀略をもって水野信近を討ち、刈谷城に放火する行為に出たのではないか。

<大高水野氏の菩提寺春江院>

Shunkouin

これに関して、大高城を取り巻く砦のうち、鷲津、丸根という有名な砦以外に、大高城のすぐ近くの向山砦、あるいは氷上山砦(氷上姉子神社という熱田神宮の摂社がある)、正光寺砦という三つの砦があるが、千秋氏が守っていた氷上山砦以外の何れかを水野氏が守っていたが、勝手に撤退してしまい、それが元で氷上山ともう一つの砦も引かざるを得なくなった。それで、織田信長は大高城周辺の砦の守将と元守将に責任をとらせ、鷲津、丸根を見捨てるとともに、他の砦の守将であった千秋、佐々に敵軍の先鋒に突っ込むように仕向けたというように、まことしやかに書いている人がいる。

もともと大高水野氏の居城だった大高城であるから、土地に精通した水野氏が砦を守っていてもいいのだが、向山砦、氷上山砦、正光寺砦はそれほど大勢の軍勢をおける場所ではなく、桶狭間合戦時には兵をおいても、孤立するような位置関係にあった。特に氷上山は、「お氷上さん」と地元の人から言われる氷上姉子神社のある小山で、周囲は平地、大高城とも少し離れている。

<氷上山砦跡>

Hikami

小生もその各砦跡と思しき場所を見て歩いたが、春江院の脇にあり、大高城とは尾根続きの向山砦は切岸と簡単な堀しか防御施設がなく、連絡用の砦の位置づけとみえ、実際の合戦ではすぐに兵が撤退する場所である。氷上山は小高い山であるが、大高城よりも海岸線の船の出入りを見張る物見がある程度の砦であった。よって、熱田湊から大高の船着場の監視所としての限定された役割しか果たしえず、砦を守備兵でいっぱいにするようなものではない。正光寺砦も、小高い山から大高城を見張ることができる(現在はマンションが邪魔で見通せない)が、ここは大高城の南東にあって、東側からの敵をけん制することができるように思えた。兵を置くとすれば正光寺砦なのだろうが、織田勢としてはそこに兵をさくよりも、今川本陣を狙う兵を多くしたかったのであろう。実際に桶狭間合戦でも、守備兵はいなかったと思われる。

<正光寺砦とおぼしき台地から大高城跡を望む>

Shoukouji

よって、こうした砦に関しても、水野氏が出兵して云々ということもなさそうである。

一方、明らかに水野氏で桶狭間合戦に参戦した人物がいる。それは、丹下の砦を守った水野帯刀である。

水野帯刀は、常滑水野氏の喜三郎忠綱の子であったようで、戸部水野氏というべき家を分立していた。つまり、水野氏の主流からはずれた人物である。よほど、水野氏主流は、桶狭間合戦に名前を出したくなかったのか。

また、中島砦をまもった梶川一秀は平氏の出で、織田信長の家臣である。出身も尾張国丹羽郡楽田といわれ、今の大府市横根に城を構え、水野信元の成岩城攻略後に成岩城主となった梶川五左衛門秀盛など、水野氏重臣の梶川氏とは関係ないかもしれない。ちなみに、水野氏重臣の梶川氏は、大脇城の城主でもあったらしいが、大脇城は発掘によって実在が証明され、堀や溝で囲まれた居館や屋敷などが見つかっている。井戸からは常滑の壷と鉢が完全な形で出土しているほか、「天正四年」(1576年)及び「大御堂寺」が記された護摩札が出ており、戦国期の武士の生活を知る貴重な資料となっている。

なお、真相を知る男、水野信元は後に天正3年12月(1576年1月)佐久間信盛の讒言により武田勝頼との内通を信長に疑われ、岡崎の大樹寺において殺害された。

<三河岡崎の大樹寺>

Daijyuji

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