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2008.06.23

豊四季開拓百年記念碑

以前、明治の世になって、家禄を失った武士階級や東京窮民の救済のために、明治新政府は下総台地にひろがるかつての幕府の牧、小金牧、佐倉牧の開墾を行うことを考え、それで入植と開墾が始まったが、苦闘の連続であったことを書いた。その開墾を行う主体は、新政府が作った開墾会社であるが、その中心は政商などであり、一般の開拓民は、自然環境の厳しさや農業用具の不足といった困難に直面、当初三年間を経過すれば独立農民となすとの約束も反故にされ、政府に嘆願、または裁判所に開墾地所有権獲得の訴えをおこすなど、長期間の係争を経るに至った。柏市十余二の高田原の開拓碑は、「大隈、鍋島」と明治政府要人を呼び捨てにし、その遺恨を率直に表明した短く、かつ異常な碑文であったが、それについては既に書いた。

そのなかで、近隣の柏市豊四季の開拓碑については、紹介していなかった。参考までに、その碑文を掲載する。その碑は今から35年くらい前に建てられたものであるが、碑文は開拓当時の状況を的確に示しているように思う。また、格調高い文章になっている。撰者は、歴史家の山野辺南薫である。

(以下、碑文)

豊四季開拓百年記念碑

明治維新の社会変革は、武士と此れに関連する各方面の失業者を族生、兵乱と凶作等に拍車をかけられ、社会不安は限りなく拡大していった。明地維新政府が第一に考慮しなければならぬ問題は、民生の安定であった。政府は失業救済、貧民対策として「不毛地開墾等の業を以て広く窮民に生産を与え候より他無之、先近国より手始めとして下総国小金佐倉等の原野開墾」を採りあげ、小金佐倉牧を廃止し、東京窮民を救い遊休労働力の生産労働カヘの転換と、耕地拡張生産増加を求め、明治二年民部省に開墾局を設け、三井八郎右衛門等三十六名に基本金二十万円を貸出し「御重輦冥加役」の名目で、両牧の開墾会社を設立させた、政府は此の開墾地積を一万町歩と推定、一万戸の入植を計画し各藩に、募集を依頼し、築地旧備前邸等で授産訓練を行ない「東京窮民七千九百六十四人の内農業適宜の者六千四百六十一人」を、二年十月より三年八月の間に逐次入植させた。

 入植者は「三年間衣食住は勿論万事世話致し、四年目より自分活計を定め一旦会社請負人と相成、開墾入費を十ケ年の内に会社に返済致候得ば、会社一般独立農夫」となり、其の後自力新開は地主となれる規程で、割当面積は一人平作地五反家作地五畝、三町歩まで自力開墾割渡しを受けられる筈であった。野付村よりの通い作民は自費開墾であった。会社は一等富民、二等富民、上中下力民、一等富民小作人からなり開墾地は会社への下付で、所有権は社員たる一等富民にあるとされていたのは、入植者の思わざる処であった。

 入植者即ち力民以下は掘立長屋で飯米一人一日雑穀四合五勺を給され、その他入費一切は計上され、ニヶ年にして一人四十二両の負債が生じた。会社の管理督励苛酷言語に絶し労働過重心身供に疲弊困憊し脱落逃亡が続出した。会社は経営よろしきを得ず、前途暗澹、四年七月政府に七万両の資金借入を願って不許可、五年四月基金返済免除の嘆願等の弥縫策を弄しながらも、遂に五年五月事業未だ端緒のまま解散するに至った。六年開墾事務は県移管となり、社員は直ちに申請して地券の公布を受けた。地券面
六千八百七十二町歩と言え、実面積は数倍で後に豊四季で一社員の地券十五町歩が、岩倉具視買受時には五十町歩あった。力民小作人は開墾地所有権の帰属、債務処理、小作料問題等で会社と紛争を生じ、同年県は残地三千七百十二町歩を開墾者六千四百九十七人に対し、一戸宅地五畝耕作地五反の地券を下付したが、七年開墾者は之を不服とし連盟を結び、県農商務省に再三嘆願したが効無く「開墾地所有権獲得の訴訟」を千葉地方裁判所に提出し、一敗地にまみれるや、東京上等裁判所更に大審院と上告を続け二十三年帝国議会開設を俟って国会誓願まで行うに至り「全国著名の富商を相手取り権力不敵の訴訟しばしは敗れて撓屈せず」と全国の視聴を集めた千葉県政の大問題に発展した、此の二十年に及ぶ抗争の為に「住家は雨露を凌ぐまでにて、眷属襤褸を纏い」「畠は枯痩の色を呈し収穫甚だ寥々」「住する者十中二三を余すに過ぎず、その他悉く四方に離散し」「一戸の人煙見ざる所あり」と千葉県令を嘆息させるに至ったが、この時既に分与地は皆無となっていた。

 翻って入植後一年にして落伍逃散続出し、勤勉実直な者のみが茨の道を切り拓いていった。東京窮民入植二千三百二十五戸の中残留一千五十戸三千六百九十二人、野付村移民と通い作民四百八十四戸一千四百三十人、此れ等の人々の血と汗で一歩ずつ開拓が進み、二年十月最初の着手初富から順次に二和、三咲、豊四季、五香六実、七栄、ハ街、九美上、十倉、十余一、十余二、十余三の村名が立てられた。然し十三年には又東京窮民八百四十五戸脱落し、十六年授産処分を受けた者新田定着農民二千三百七十四戸内野付村移民一千百八十戸、通い作人一千七十四戸に対し東京窮民は僅か百二十戸に過ぎなかった。この時豊四季は地積六百十八町歩、東京窮民八十戸百六十三人、野付き村移民及ひ通い作人百二十二戸四百三十七人、総て此れ六百人であった。
 懐うに開拓民か赤手空拳荒蕪の原野に挑み陋屋は風雪を凌ぎ難<弊衣は寒暑に耐え難く箪食豆羹、飢餓線上を彷徨するの時、四面楚歌の中に外部圧力と闘いつつ孜孜として麦陸稲甘藷野菜の栽培に暁暗星を戴く忍苦を重ね蓑木釘の副業寒夜深更に精魂を傾け、隣保互助漸くにして盛運の基盤を築いた。三年十二月我が先人未来をかけて村名とした豊四季其れは真に美しい平和と幸福を謳っているが、しかし簡単に地上の楽園は到来しなかった。筑波颪颯颯たる曠野に痩躯を曝し、草蒸す叢林に吾か非力に自ら鞭打ち、伸び行く郷土の将来子孫の行く末をかけて、四季豊かに稔れと念じつつ一鍬一鍬と開拓の努力は連綿百年の星霜を経て現代の一繁栄を招来した。滋に百一年の第一歩を踏み出すに当たり、静かに先人の労苦を偲びその教訓を学び、今日への感謝と供に展開する明日への資とする。尚に此の碑を建て、以て永く先人の志を伝える。

 昭和四十八年四月吉日       山野辺南薫 撰並書

(ここまで)

なお、豊四季では、田畑からあがる収入だけでは生計が難しく、碑文に「蓑木釘の副業寒夜深更に精魂を傾け」とあるように、木釘や蓑を作る副業がさかんに行われた。その木釘の碑も、豊四季にはある。

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2008.06.09

三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所に秋水を訪ねて

少し前になるが、休みを利用して、三菱重工の名古屋航空宇宙システム製作所に行ってきた。目的は、その史料館にあるロケット戦闘機「秋水」の写真を撮ることである。それは柏で行うイベントのためで、柏に関する陸軍の施設や遺物の写真を集めようと、かつて森兵男のHPに協力して収集したものも含めて、良いものを整理しようとしたときに、肝心の「秋水」実物の写真がないことに気付いたことによる。

名古屋航空宇宙システム製作所と、名古屋の名前が付いているが、正確な住所は愛知県西春日井郡豊山町であるから、自分の住んでいる郡部と同様に田舎かもしれない。地図をみると、豊山町には電車の駅がない。近くに名古屋空港があるので、その交通機関を利用していくと、比較的楽に行ける。

<JR武豊駅>

Taketoyo

朝、会社の駐車場に車を置いて、JR武豊線に乗って名古屋に出た。名古屋まで出て、空港へのバスが発着するミッドランドスクエア前まで出るときに、滅多に名古屋に出ない小生、そのスクエアなるものがどこにあるのかが、まず分からなかった。大体、駅ビルの高島屋にも数えるくらいしか入ったことがない。どうせなら、大名古屋ビルヂング前とか、松坂屋前としてくれればすんなり行けたであろう。だが、もはやロートルとなり、新しい建物のなまえを言われても、まったくチンプンカンプンな小生、松坂屋の前でうろうろして、なんて名古屋も分かりにくくなったのかと思った次第。

結局、よく分からず、路線バスのバス停で時刻表をみると、近くまで行くバスがあった。そのバスで近くまで行って、後はタクシーで行った。ところが、タクシーですぐに着くかと思いきや、結構遠いのである。だんだん、田舎になってきて、半田近辺とたいして変わらない風景となってきた。訪問先には昼から行くように予約していたので、豊山町で食事をすることにしたが、名古屋にいるうちに食事をしておくべきだったかもしれない。

<三菱重工外から>

Mitubisi

名古屋空港のそばといっても、食事ができる場所は「伊予」という名前の喫茶店くらいしかない。タクシーでその喫茶店まで送ってもらって、食事をしてから、三菱重工に行った。

さすがに飛行機を作っている工場だけに、入門の際にはカメラ、カメラ付き携帯、パソコンの類は、守衛所にあずけていくようだ。しかし、小生は工場に入るわけではなく、史料館に来ただけなので、カメラを持ったままであった。

史料館にはいると、職員の人がいたが、どうも休憩時間が続いているようで、テレビを見ている。小生も13時と予約していたので、その史料館の展示をぶらぶらみているだけで、時間を潰した。13時になると休んでいた職員は帰り、一人だけ残った職員の人が案内してくれるのかなと思い、声をかけると、史料室に聞いてくださいとのこと。

みれば史料室があり、その室長さんに写真撮影と柏での展示の許可をもらって、数枚写真を撮った。室長さんは、柏では秋水の研究者がいるでしょうと名前もあげていたが、失念した。多分、図書館でみた秋水地下燃料格納庫の関係の本を書いた人のことだろうと思う。史料館は、なにかの倉庫に使われていたような建物で、零戦と秋水の二機が実機で、あとは機銃とかプロペラといったものや、飛行機の模型がたくさんあった。秋水は、ここに完全な形であるが、五機しか生産されなかったらしい。

<秋水近影>

Shusui

秋水はもともと、刀の名前だそうだ。鋭い切れ味の刀のように、B29のような米軍の爆撃機をばったばったと落とそうという願いが込められていたのであろう。ロケット戦闘機としては日本初であり、世界でも秋水がモデルとしたドイツのメッサーシュミットがあったくらいであった。

<メッサーシュミットの図面>

Zumen

<秋水近影2>

Shusui1

ずんぐりむっくりの形状から小さいもののように思えるが、翼を広げた全長が10m近くある。これは一人乗りで、写真のようにタイヤを履いているが、離陸した後、重みのあるタイヤは落としてしまい、1万メートルくらいまで上昇、何回か降下と上昇を繰り返したあと、最後は滑空した帰り、胴体の下にあるソリで着地するというから、舗装した場所には下りられず、また着地するのは名人芸を要したという。

<秋水の特呂というエンジン>

Tokuro

<燃料輸送管など部品の数々>

Buhin

もちろん、三菱重工の史料館には秋水しかないわけではない。零戦があった。今はゼロ戦というが、当時の海軍ではあくまで「レイセン」である。この零戦は、多分人気があるのだろう。サイズ的には秋水より少し大きいようであるが、たいして変わらないように見えた。

<同じく展示されている零戦>

Reisen

帰りがけに史料室長さんにお礼をいうと、わざわざ見送ってくれた。

そして、三菱重工を後にした小生、どうやって帰ろうかと思ったが、タクシーを呼ぶまでもなく、役場の前に例の名古屋行きのバスのバス停があった。バスにスチュワーデスさんが一人乗っていたが、中部国際空港に行くようであった。名古屋空港と中部国際空港では1時間くらい移動にかかりそうである。

その後、柏での講演会は、展示も含めて無事に終わった。しかし、大きな問題が持ち上がりつつあることを、そのときには分かっていなかった。

<九九式爆撃機のプロペラ>

99shiki

注)当ブログで使用した写真はすべて筆者mori-chanが撮影したものですが、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会や小生の親戚森たけ男のHP(千葉県の戦争遺跡)で出てきた場合でも、それは筆者が許可したものであって、著作権侵害にはあたりません。

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