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2008.07.20

徳川家康と知多半島(番外:続・村木砦から石ヶ瀬周辺を行く)

前回書いた村木砦だが、一般に村木砦というが、規模からすると村木城でもおかしくないと思う。村木砦跡の上にできた国道を走っていても、大府方面からは三井石油のスタンドあたりから、しばらく行って、いりみ貝最中を売っている和菓子屋さんの店舗前あたりまでが砦跡のはずなので、100mは走ることになる。それも砦の端であり、中心部はその倍くらいの長さがあったはずで、東西約150m、南北約240mといわれているので結構な大きさである。

<砦の北側には入江が入り込んでいた>

Murakitoride1

<上記を武豊線(鉄橋の上)から撮ったもの>

Murakitoride3

砦跡の北方に位置する三井石油の横の道は、砦を取り巻く海の入江があったと思われる場所を通っているが、その辺りからみると砦の内部はやや高くなっている。海面が今の陸地の一部まで進んでいた当時は、砦の北側は泥水が浸った入江に面した場所で、石ヶ瀬川は北西はるかな今の大府高校あたりで海に注いでいたという。今は砦跡北側の道沿いに家が建ち並んで、道路に車をとめて写真を写すのも近隣の方に迷惑をかけてしまう状況であるが、武豊線の車内からみると、かなり砦の内部が高くなっているのが分かる。

<武豊線から村木砦中心部を見たところ>

Murakitoride4

なぜ、こんなことを書いているかといえば、中世では物資の輸送が馬よりも、船で行われるケースが多く、それは街道が未整備であったり、馬自体も軍馬を除けば余りいなかったのかもしれず、そういう状況になったと思われる。そして、城は水辺に、しかも周囲より一段高い水辺の台地につくられることが多かった。当村木砦に近いところでは、横根城は境川流域で、周囲より一段高い台地のうえにあった。それは、敵が船で城までたどり着いても、高みから矢を射掛けたり、切岸で城の郭まで登り難くし、容易に落とせないようにしたものと思われる。

<村木神社ののぼり口>

Murakijinjya1

なお、明治、大正時代の地図を見ると、砦跡には人家がない。戦後まもなくの頃の航空写真をみても同様で、砦跡には人家がみられず、砦の西側に人家が集まっている。今は国道が通り、砦跡に該当する場所でも人家が建っているが、あるいは昔の人は合戦があった場所を忌避して、家を建てなかったのかもしれない。合戦の激戦地であった、村木砦南側には八剣神社が織田方の当事者で、当地出身の清水家重・権之助兄弟によって建てられ、西側国道から分岐する堀底を利用したと思われる道の分岐点には地蔵がある。もっとも、いろんな場所に地蔵があるので、合戦の戦死者供養かどうかは不明である。

<砦の西側の堀跡という国道から分岐する道(左)>

Murakijizou

村木砦の合戦時に、織田信長が陣をおいた村木神社は、村木の集落の西側の台地中腹のやや高くなった場所にある。ここも、明治・大正の地図では、村木の集落を見下ろす、人家がない場所であった。その境内は広く、地方都市の大きな神社くらいの規模があり、社殿前には五百人程度は楽に収容できる。それもあるだろうが、織田信長の実家織田弾正忠家は、津島の交易を背景に発展してきた家であるがゆえ、氏神と仰いで津島神社を信仰してきたため、そこに陣をおくことで氏神の力を借りて合戦に勝つとの決意を示したのだろう。

これは創建が不明ではあるが、延徳3年(1491)社殿再建の棟札があるため、戦国時代のはじめから存在した神社であることは間違いない。もともと祭神が須佐之男命という津島神社であった。一方、今の森岡保育園のある場所にあった八幡神社は、永禄4年(1561)に水野信元の家臣清水八右衛門家重が創建した。この八幡神社は学校用地を提供するために、大正2年(1913)に津島神社に合祀され、津島神社は村木神社と改名したのであった。

その村木神社には、現在でも須佐之男命を祭神とする津島神社と同じ天王祭があり、茅の輪くぐりの神事が執り行われる。

<村木神社社殿前に整列>

Chinowa2

先日、村木神社の茅の輪くぐりを見に行った。天王祭では茅の輪くぐり、そのほか小正月には左義長があり、おまんとという駆け馬の神事など、地域の行事は村木神社を中心にまわっている感がある。

さて、茅の輪くぐりは須佐之男命と関係があるそうだ。茅の輪を一回目左回りに、二回目は右回り、三回目はまた左回りと∞の字のようにぐるぐる回る。

<神主さんが祝詞をあげる>

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<玉串奉奠>

Chinowa5

祝詞、玉串奉奠の後、神主さんたちが茅の輪をくぐった。その後、巫女姿の小さい女の子たちがつづく。 その女の子たちの親御さんと思うが、お母さんたちが見守っている。

<茅の輪をくぐる>

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<最初は左回り>

Chinowa8

<ぐるぐる回る、目が回る?> 

Chinowa9

<まわり終えると拝殿へ>

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<いきなり拝殿にのぼらず、ここでも左回り>

Chinowa11

<拝殿のなかに入る>

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なお、このあと巫女さん姿の女の子たちの舞いもあるのだが、神殿の内部の撮影は遠慮した。

実は、合祀された八幡神社の旧在地(現森岡保育園)には、金鶏山古墳という小さな円墳があったが、これを学校用地整理の都合上、昭和5年(1930)に在郷軍人会が取り払ったところ、石室があり、提瓶5個・長頸壺・平瓶・有蓋高坏各1個出土した。そうした古墳もある場所ということで、村木という地名は郷村の支配者である「村君」が転訛したものという説がある。つまり、早くから開けていて、それなりの支配者が古代にはいたということか。

<村木神社に近い曹洞宗妙法寺>

Myouhouji

その村木は緒川のすぐ北で、五つある寺が水野氏と同じ曹洞宗、緒川を本拠としてきた水野氏の勢力下であるが、なぜか今川方の砦が構築された。それは前回述べたように、臨江庵と船着場を押さえた今川方は、三河から当地に物資や将兵を運び込み、地元の民衆も抱きこんで砦を作ったということだろうが、水野配下でありながら織田方の清水兄弟のような人物と別の勢力があったということになる。それになぜ刈谷、緒川の水野氏は、村木砦の造営を妨害しなかったのか。どうも、水野信元が村木砦の合戦の時点で、日和見だったと考えるしかない。

しかし、一方では永禄元年(1557)6月には、今川方の急先鋒である松平元康(徳川家康)と水野信元は石ヶ瀬で戦っているのである。永禄元年(1557)1月に今川義元の命で初陣を飾った松平元康は2月5日、今川方を離れて織田方に寝返った寺部城の鈴木重辰を攻めて、4月末には勝利をおさめている。その後まもなく石ヶ瀬合戦となるが、これは松平元康が岡崎勢を率いて知立を通り、沓掛の東で境川を渡り、緒川に向かう途中の石ヶ瀬で松平・水野両軍が対峙した。

<現在の石ヶ瀬川>

Isigase

桶狭間合戦の直後の永禄3年(1560)6月、一旦岡崎に帰った松平元康は再び水野信元と石ヶ瀬で戦っている。この時点では今川義元は戦死し、水野信元は再び織田方の旗幟を鮮明にしたはずである。では、松平元康、後の徳川家康は純粋に今川方として水野信元を攻めたのであろうか。今川氏真が命令したかもしれないが、松平元康自身の思惑が多分に働いている可能性もある。その辺りが、どうも釈然としない。二回目の戦いでは、6月18日に石ヶ瀬で戦った後、翌19日には松平元康は刈谷城外まで出張って、刈谷十八町畷で水野勢と戦い、炎暑により両軍引き揚げている。この引き揚げは、なにか裏がありそうである。さらに永禄4年(1561)2月には、石ヶ瀬で三度松平・水野両軍が戦ったと、「武徳編年集成」では書かれている。しかし、これは本当のところはどうなのか。小生、もっと前に松平元康は今川氏真から離反したと思っている。その永禄4年(1561)の石ヶ瀬合戦は、あるいはアリバイ的に戦われたのではないだろうか。そして、水野信元を仲介に松平元康は織田信長と同盟しようとしたのではないか。それは双方にとって、メリットがあった訳である。

その辺りは、歴史の謎かもしれない。

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2008.07.09

徳川家康と知多半島(番外:村木砦から石ヶ瀬周辺を行く)

最近、急激に仕事が忙しくなり、休みもおちおち休んでいられないのだが、気分転換しないと潰れてしまう。そこで、以前夕方にトンボ帰りするような格好で行った村木砦の周辺を再度まわってみることにした。

いつも武豊線に乗ると大府と尾張森岡の間は、じっと窓から景色を見ているが、それは村木砦跡と石ヶ瀬合戦場跡があるからである。村木砦跡は、一般に八剣神社であると思われているが、八剣神社は砦の端のほうに建っているのである。神社の東側、JR武豊線の向こう側も砦跡である。本丸に相当する部分は神社の北側の住宅地の中となり、遺構は残っていない。実は神社のなかにも遺構らしきものは残っておらず、幸いにして神社の西側の堀跡が道となっているので、砦の規模は分かる。

<村木砦跡に建つ八剣神社>

Murakitoride2

村木砦を舞台とした戦いがあったのは、天文23年(1554)のこと。桶狭間合戦の6年前であった。村木砦をどのようにして作ったかについては興味深いが、今川方が三河方面から連れてきた人間以外に、当地の住民が今川方に協力したか、かり出されたことは間違いなかろう。砦の建物を作るための資材は、重原城から水運も使って運ばれたようである。今川が据えた砦の守将は、東條松平氏の松平甚太郎義春であった。

なお、八剣神社は村木砦の戦いの前にはなく、織田方で当地出身の清水家重・権之助兄弟がこの戦いで戦死した将兵の霊を鎮めるために神社を建てたものである。

<村木砦跡の碑>

Murakitoride1

村木砦の北東には、船着場があった。これは、この土地が水上交通、あるいはそれを利用した交易の拠点であったことを示している。村木砦は東西約150m、南北約240mの馬蹄形をなし、東側は浜に面して南北は直線的で、西側が丸く空堀がめぐっていた。村木砦の大手は、東側にあり、衣ヶ浦に面していた。つまり、村木砦は、海が正面で船で出入していたのである。

<村木砦位置推定図>

Muraki 

「於大の方と水野氏」 東浦町(2006)より

上の図は東浦町が発行した「於大の方と水野氏」という冊子に記載されていたものであるが、このほうが八剣神社の境内にある案内板の図より正確と思われる。図でうすい赤色の部分は、土の盛り上がっていた部分で、うす紫色が堀、もしくは低地、東側の衣ヶ浦と書かれた水色の部分が海、青い線は海岸線である。武豊線の敷設工事や県道新設工事ですっかり砦跡から土取りがされており、今は海抜5mほどの台地であるが、往時は海抜10m以上の丘のような場所であったという。城域は、うす紫色とうすい赤色の部分で、黄緑色の部分は城外となる。船着場のある砦北東側の南には細長い堀があるが、あるいはここに船を引き揚げて、船隠しとしたものかもしれない。

実際に村木が船津であったのは、近年まで尾張森岡駅北方の踏切を東に進んだ場所に、「土場」という船着場があったことでも分かる。これは五ヶ村川に合流し、衣ヶ浦に通じる水路の船着場であり、そこから伊勢参りの船が出て、亀崎の北浦で大船に乗換えて伊勢まで行ったそうだ。自動車のない昔は水上交通が重視され、「土場」には倉庫もあったという。現在よりも潮位が高かった中世では水路などではなく、海が砦のすぐそばまで迫っていた。だから渡し船程度の小船の船着場ではなく、伊勢湾まで運航できるような船も使う船津であったのだろう。村木砦の東側は今では水田が広がるが、当時は海であり、村木砦の北には入江が入り込み、南も海が少し東から入り込み、今の八剣神社の南は大堀とであった。

<八剣神社の鳥居~この鳥居下は大堀であった>

Yatsurugi

当地の村木神社という神社は、元は建速須佐男命を祭神とする津島社であり、大正2年(1913)に、水野信元の家臣という清水家重が創建した八幡社と合祀され、社名を村木神社と改めたものである。津島神社は、周知の通り商売の神様であり、川祭でも有名であるが、村木が知多半島北部の船津であったことと関係あるかもしれない。

村木砦ができる前から、当地には船着場があって、対岸の三河との間で船の行き来があった。その船着場の管理は、臨江庵という寺院が行っていた。臨江庵、後に月照山臨江寺と号した寺は、村木砦の西側の段上という場所にあったが、昭和57年(1982)に廃寺となった。今は臨江寺児童公園という、児童公園というには結構広い公園になっているが、もともと境内は362坪(約1,195平米)あった。ここは、「皇風学校」という学校が、明治5年(1872)から10年ほどあった場所でもある。その一角に昭和57年に移築された「村木大地蔵」願王寺のお堂が建っており、臨江寺跡という大きな石碑が傍らにある。

<臨江庵跡の一角に建つ村木大地蔵の堂>

Rinkouan

この臨江庵は、永禄6年(1563)の創建、開山は月山言公というが、実際には緒川の乾坤院の「血脈衆」に、文明11年(1479)の記載がある。すなわち室町時代には存在していたらしく、同時期の阿弥陀如来画像を所蔵していた。その阿弥陀如来画像は、着衣に細かい截金文様が施されている入魂の作であり、15世紀のものだそうだ。なお、段上という地名の通りの海辺の高台になっていた場所で、北東に村木砦と隣接する船着場があって、臨江庵は船の運航を監視できる位置にあった。寺の名前も入江を臨む寺からきているのは明白で、それも単に入り江に接しているだけでなく、船津を管理して利用税を取り扱う役所も兼ねていたと言われる。当時、僧侶は読み書き、そろばんができることから、そういう事務業務に使われることが多く、一見仏教とは関係ない商業的な実務についていたりする。千葉県の船橋でも、そうした業務を行っていたという律宗の僧侶のものといわれる、大きな墓塔がある。

<村木の市街地~道が細く湾曲している>

Muraki_2

村木砦の戦いの前に、今川方が当地に砦を築こうとしたとき、当然ながら臨江庵は真っ先に押さえられたと思われる。この寺と船着場を押さえた今川方は、三河から当地に物資や将兵を運び込み、地元の民衆も抱きこんで砦を作ったのだろう。そして、大浜街道を北へ進めば、知多半島西岸の大高にいたる。つまり知多半島の東西の要所を押さえて、尾張織田領の南側から楔を打ち込むことを、今川義元は考えていたのかもしれない。そして、織田信秀によって、今川氏豊が那古野城を追われた失地回復をはかろうとしたのであろう。

臨江寺跡の近くには、大悲山開眼寺という同じくらいの規模の寺がある。こちらは天正年間の創建である。元は慈眼庵という名前だったようだ。

<開眼寺>

Kaiganji

この開眼寺も、なくなった臨江寺も、その他村木の三つの寺(海印寺、極楽寺、妙法寺)も、皆曹洞宗で、緒川の乾坤院の末寺である。つまり、緒川水野氏が戦略上、緒川の北にあたる村木に寺を建て、いざというときに兵員が駐留し、城代わりに使えるようにしたのではないかと思われる。

村木砦跡は、現在も「取手」という名前で分かりやすい。そういう名前のバス停もある。国道沿いの「いりみ貝最中」を売っている和菓子屋さんと三井石油のガソリンスタンドの間、およびその国道の反対側の一角までが砦の縄張りに入っていたようである。国道も東側のJR武豊線も、村木砦の上を通過しているわけだ。

<「取手」という名前のバス停~この辺が砦の搦手である>

Toride

「いりみ貝もなか」の店の国道を挟んだ向かい側にある地蔵のある辺りから始まる道も、空堀の跡だそうだ。実は、その湾曲した道を北に向かってしばらく進んだあたりには、村木砦の合戦の後に、織田方の手によって、今川方に加担した村役人たちが処刑されたという場所がある。実際に処刑を担当させられたのは、村木出身の清水兄弟で、いくら敵方になったとはいえ土地の者を殺すにしのびなかったという。そこは、水野さんという方が居住する民家になっており、大きな椿がある。村木砦の合戦の碑もあるのだが、どうしてもそこに見に行ったり、カメラを向ける気になれない。首塚とかいっても、信憑性がない場所も多いが、当地の伝承はそうではなく、かなりリアルである。本当にそうなのだろう。

「いりみ最中」の国道の向こう側の地蔵より南側であるが、大きな木が茂っている場所があり、小生こちらのほうが空堀の跡らしいと思う。地蔵を起点にした路地も空堀の一部であろうが、後に堀底が道になり、通行のためにくぼみが埋められ、さらに住宅が建ったりしたあとでは道筋も少し変わるであろう。

<空堀跡の雰囲気を残す場所>

Karaborika

国道に戻り、北へしばらく行くと、とたんに人家がなくなる。三井石油でない、もうひとつのガソリンスタンドの先に、刈谷方面に分岐する箇所があり、右折してその方向にいけば武豊線の踏切などあって、やがて大府市街に入る。途中、川を渡るが、それが石ヶ瀬川である。

石ヶ瀬河畔では、永禄元年(1558)~同4年(1561)に織田・今川両軍、すなわち水野信元と松平元康(徳川家康)が合戦したという。その当時、村木と大府の間は入江で、石ヶ瀬川は今の大府高校南辺りで海に注いでいた。今よりも川幅も広かったであろうし、当然ながら護岸工事などしていなかったので、今の石ヶ瀬川からは当時の様子がすぐには想像できないが、広い河原に両軍が集結し、渡河すると同時に戦端が開かれたのであろうか。

<石ヶ瀬川>

Ishigase_2

この石ヶ瀬合戦で、甥の松平元康(徳川家康)の攻撃を受け、たまらないと思った水野信元が、松平との和睦を織田信長に進言したという。織田・徳川の同盟関係は、水野信元の保身から端を発し、やがて天下を統一する原動力になっていった。

<石ヶ瀬川~橋の上から>

Ishigase2

この石ヶ瀬川を越えると、大府の市街に入る。大府市街にはいり、しばらく行くと、水野氏や梶川五左衛門が寄進をしたという天台宗の大きな寺、延命寺がある。そこから更に東へ進み、境川までいくと、その河畔に南北朝時代に築城され、梶川五左衛門が修復して、後に合戦の舞台ともなったという横根城の城跡がある。城跡といっても、きれいさっぱり何も残っていない。ただ境川河畔に細長い台地で城を作るのには好立地の場所で、城があったであろうという雰囲気はある。岩滑城主となった中山氏の元の所領であった北尾にも「城畑」という地名があり、城があったという伝承が残っている。この境川流域には、そうした城郭がいくつもあったようだ。その件は、ともかく、松平元康と水野信元の石ヶ瀬での戦いについて、今後述べていくことにする。

<延命寺>

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参考文献:

「改訂 東浦歴史散歩」 梶川武著 2006年四訂版 東浦町教育委員会発行

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2008.07.01

徳川家康と知多半島(その31:大脇曹源寺と周辺の水野氏勢力)

用事で土曜日に関東に帰り、翌日曜日に愛知に戻ってくると、武豊線の車窓から見える光景は相変わらずであるが、よくみると田んぼのなかに、小さな白いものが動いている。

白鷺である。白鷺といえば、高田浩吉の白鷺三味線を思い出し、最近の流行についていけない小生は、いささか年取ったのであろうか。それはともかくとして、田んぼのなかには、白鷺以外にも雉もいる。雉のほうは、体が黒いのであまり目立たないが、白鷺は緑のなかに白なので、よく目だつ。しかし、目立とうが目立つまいが、白鷺は田の虫かタニシか何かを捕食しているだけだ。

<半田市内を流れる川にも白鷺が>

Goudogawa

白鷺を食べるような動物がいれば、目立つのは困るだろう。幸いそういう食物連鎖はないので、目立っても問題ない。

桶狭間合戦前の緒川・刈谷水野氏は、おそらく目立つまいとして必死だったのかもしれない。目立つ行動をとれば、今川氏の大軍の前に風前の灯になっていたであろう。そうならないために、水野氏は織田方でありながら今川氏にも密かに通じ、今川義元から書状まで貰っているのは前回述べた通りである。

その水野氏は、もともと愛知県瀬戸市あたりにいて、貞守といわれる人物の頃に、小川(緒川)の古城を拠点に、一円を支配するに至った。それは南朝について守護土岐氏に攻められて滅んだ小河氏の末裔で、故地に戻ったというが、実際は小河氏滅亡後に、その領地であった緒川の地に入り込んだもので、元々いた小河氏とは別系統であると思われる。当然、小河氏と同じ系統とすれば、中世の権威の考え方からは支配に都合がよかったので、そう名乗りはしたが、源氏である小河氏と別系統であることは、江戸時代の尾張藩などの識者の知るところで、彼らは水野氏の藤原姓の系図の存在を知っていた。実際、水野氏では、通称藤四郎、藤九郎などを名乗っている者が目立つ。源氏であれば、源四郎とかを名乗ったであろう。

<緒川城跡>

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水野氏が知多半島に来たころの事跡は、以下の通りである。

延文5年 (1360) 小河正房、土岐氏に滅ぼされる
室町前期 (1350頃) 緒川の高薮城を竹内直道が築城し、以降竹内氏が治めるも、5代直玄は水野氏の臣下となる。
文明7年 (1475) 初代緒川城主水野貞守、乾坤院を創建する。
延徳3年(1491)水野為妙、万里集九より「養月斎」の号を贈られる。
明応8年(1499)歌人飛鳥井雅康、緒川城主水野為則(貞守の嫡男という)を訪ね、祝い歌「緒川」を詠む。
永正6年(1509)緒川城主水野為則没する。法名は前野州太守一初全妙禅定門。
大永2年(1522)連歌師柴屋軒宗長、刈谷水野和泉守(近守、大高城主水野大膳の父か)宿所で連歌を興行

<水野氏ゆかりの乾坤院>

Kenkonin

『寛政重修諸家譜』の水野貞守の説明では、「正房七代の蔵人貞守の代になって、旧臣牛田某と再興を図り、永見某、中山某、久松某等と君臣の義を結び、小河の旧塁修復し、三河国の刈谷、熊村、大日、大高、常滑の諸士を配下に治め、やがて刈谷に城を築いて移る」とある。

しかし、実際は瀬戸から来た水野氏が在地諸豪族を配下に取り込み、知多半島緒川周辺から刈谷へ勢力を伸ばしていったわけである。

桶狭間には、後に岩滑城主となった中山氏がいたが、中山重時が重原城で戦死し、その子の勝時は桶狭間合戦の頃には岩滑に入っていた。また今の大府市横根の横根城にいた梶川五左衛門も成岩城に移ったというから、桶狭間合戦のころは、桶狭間近辺の水野氏配下の武将たちはどこかに行っていた。

<刈谷古城>

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桶狭間合戦の当時、既に水野氏も緒川から刈谷へ拠点を移していた。周辺の武将たちも岩滑、成岩など拠点をかえていた。その間隙をついて、今川義元は西三河から知多半島緒川の北の村木(尾張森岡)にまで進出し、さらには寺本(知多市)の花井氏を傘下におさめるなど、織田方であった地域もドミノ倒しのように今川方にかえていった。それで、本来水野氏という織田方の勢力圏であった筈の桶狭間に今川義元の休憩のための陣地も作ることができたわけである。

水野氏が、桶狭間合戦で前面に出てこない所以もまた、そのあたりにあり、知多半島の制圧に熱心なあまり有力な配下の武将を分散させてしまい、その隙を今川に取られ、緒川・刈谷の本拠地を守るのに汲々としてとても織田方として参戦することはできなかったのであろう。

<曹源寺の山門(拡大)>

Sougenjisitakara_2

しかし、桶狭間に近い地域にいた水野氏の勢力が、完全に拠点をかえていたかといえば、大脇城にいた梶川氏については別であろう。大脇は戦国時代には存在した集落であり、曹洞宗の古刹、曹源寺がある。この梶川氏は、水野氏の重臣であるが、別格のような待遇をされていたようである。公に平氏の出を名乗り、一般的には梶川五左衛門という戦国期の武将が有名である。

その梶川五左衛門は、天文12年(1543)に榎本了圓が守る成岩城を水野信元が落とした後、その城代として横根城から移されたというが、実名は文勝とされていた。年代的には同一人と思われるが、梶川五左衛門秀盛という人物がいる。「尾張志」「張州府志」によれば水野下野守信元の家人であり、「張州府志」ではさらに大脇、横根両城の城主であるとしている。

この人の文献での登場で、同時代のものといえば、天正11年(1583)に大府の延命寺に寺領を寄進したというのがあり、その際の実名が秀盛である。

梶川秀盛の父は梶川平九郎といい、実名は分からないが、法名は宗玄という。桶狭間合戦の際に、中島砦を守った梶川一秀と梶川秀盛は同姓であるが、小生別系と思っていた。以前、「中島砦をまもった梶川一秀は平氏の出で、織田信長の家臣である。出身も尾張国丹羽郡楽田といわれ、今の大府市横根に城を構え、水野信元の成岩城攻略後に成岩城主となった梶川五左衛門秀盛など、水野氏重臣の梶川氏とは関係ないかもしれない」と書いていた通りである。

しかし、二人は兄弟のようで、梶川平九郎の長男が梶川高秀、次男が一秀、三男が秀盛だそうだ。兄二人は織田信長に仕え、高秀の子高盛も含め数々の功名をあげていったが、三男五左衛門秀盛は地元の家を守る立場であったのかもしれない。

また梶川平九郎の法名「宗玄」から曹源寺の名前がついた(あるいは改名した)という可能性もあることから、戦国時代には大脇にいたのではないだろうか。長男高秀の名乗りは平左衛門尉で、やはり「平」の字がつく。この人は、永禄11年(1568)に70歳でなくなったとされているので、明応7年(1498)頃の生まれになる。その父となれば、25歳のときに長男誕生とすれば、文明5年(1473)頃の生まれになる。もし、梶川平九郎が曹源寺の開創の前年になくなっていたならば、31歳のときとなり、一応矛盾はない。

<曹源寺>

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梶川氏が平氏かどうかは不明で、紀姓の梶川氏というのもあるようだ。その出身は「知多郡梶村」とあるが、甚目寺町今宿梶村らしいので、「知多郡」ではないだろう。その一族は、水野氏の重臣でありながら、一部は織田信長の家臣にもなったのかもしれない。

そのルーツや系譜はさだかではないが、梶川氏は水野氏の重臣であったことは間違いない。その拠点は戦国時代から大脇に元々あり、やがて水野氏の知多半島制圧の動きに応じて、横根へ、さらに成岩へと移っていった。しかし、大脇には長く一族が住んでいたらしく、桶狭間合戦時も含めて拠点としていたらしい。

実際大脇には、地元の住民から「梶川五左衛門の屋敷跡」と呼ばれてきた大脇城跡があり、伊勢湾岸道路の建設に伴う発掘調査では、約60m四方の方形居館跡が検出され、「天正四年」(1576年)と年がかかれた大御堂寺の護摩札などの遺物が出土している。

その大脇城跡と大脇に永正2年(1505)西明寺三世実田以転和尚によって創建されたという曹源寺の旧在地は比較的近く、曹源寺は城の西北250mほどにあった。以下の図で赤く丸で囲ったのが曹源寺の現在地で、地図の2が江戸時代前期承応3年(1654)の火事で移る前の曹源寺の旧在地である。この位置関係をみても、曹源寺の開創に、梶川氏が関わっているか、梶川氏のために建てられたのではないかと考えるのは別段おかしくない。そうなると、曹源寺という寺の名前も、梶川平九郎の法名「宗玄」の字を変えたものとも思えるのである。

<大脇城跡と曹源寺の旧在地>

Oowakijyo

(『大脇城遺跡』 1999  愛知県埋蔵文化財センター より)

ちなみに、曹源寺には、享保2年(1717)に桶狭間の梶野清右衛門が寄進した立派な山門があるが、曹源寺は桶狭間の梶野氏一族の菩提寺である。宗派の関係もあるが、桶狭間にある長福寺が創建されたのが天文7年(1539)であるため、戦国期以前から当所にいた古い住民は曹源寺の檀家になっていたのであろう。

<曹源寺の山門>

Sougenji_sanmon

曹源寺の二世住職は快翁龍喜禅師である。快翁龍喜禅師は、後に岩滑城主となった中山氏の出身で、水野忠政の家臣中山又助の次男であったという。また、曹源寺は曹洞宗であり、二世の快翁龍喜和尚は水野氏の菩提寺である乾坤院で芝岡和尚について得度している。

つまり、曹源寺は水野氏の影響を多分に受けた寺であり、元来その地域はそういう土地であったわけである。

ところが、今川義元の発給文書で、丹羽隼人正に宛てたものであるが、以下のようなものが残っている。

「沓掛 高大根 部田村之事

右 去六月福谷外在城以来 別令馳走之間 令還付之畢 前々売地等之事 今度一変之上者 只今不及其沙汰 可令所務之 并近藤右京亮相拘名職 自然彼者雖属味方 為本地之条 令散田一円可収務之 横根大脇之事 是又数年令知行之上者 領掌不可有相違 弥可抽奉公者也 

仍如件

天文十九

 十二月朔日        治部大輔(花押)

                              丹羽隼人佐殿」

西三河を制圧した今川義元は、天文19年(1550)頃になると、尾張にも勢力を及ぼし、このような安堵状を発給するようになった。この丹羽氏は一色氏系で、尾張国丹羽庄から起こる在地領主であり、本郷城主であったものが移動して、4代続けて岩崎城主として戦国時代を生きた一族である。この丹羽氏は、同姓の丹羽長秀とは別系統である。その岩崎丹羽氏の丹羽氏勝は、最初、織田信長の叔父守山城主信次に仕え、守山籠城の後は織田信長にも仕えるが、後に佐久間信盛らとともに追放され、徳川家康に仕えている。織田氏に近い在地領主も、一時は今川義元についていたわけで、有為転変は世の習いといわんばかりである。

なお、文中で味方に属するといわれている近藤右京亮とは、沓掛城主近藤景春のことである。近藤氏もまた、松平広忠に従っていたが、織田方が勢力を伸ばすとこれに組していたが、また鳴海城の山口教継によって今川方に転じた、戦国時代にはありがちであった二股膏薬的な生き方をしていた。

丹羽氏が横根、大脇の知行を安堵されていた頃、梶川氏はどうしていたのだろうか。大脇城をでて、ひたすら知多半島に水野氏勢力を拡大するために、戦っていたのだろうか。そんなことはあるまい。大脇城は、その後も梶川氏が継続して維持したようである。前述のように、大脇城跡からは、「天正四年」(1576年)と書かれた大御堂寺の護摩札が出土している。天正4年といえば、水野信元が織田信長に誅された翌年であり、その当時梶川五左衛門は水野氏を離れ佐久間氏に従った。さらに織田信雄に仕え、小牧長久手合戦後は岐阜城主であった池田輝政に仕えたらしい。

<野間の大御堂寺>

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天正11年(1583)には梶川五左衛門は大府の延命寺に寺領を寄進したが、その発給文書が残っている。

延命寺領為 寄進合田畠拾九貫四百七十八文目此内田方拾四貫五百七十文目畠方四貫九百八文目 並山壱ヶ所寺之後 不可有相違者也 田畠坪付之儀別紙在之候

仍如件

      梶川五左衛門尉

天正十一癸未九月七日  秀盛(花押)

延命寺

 御坊中」

この文書が出された頃、梶川氏は大府の延命寺周辺を統治していたことがわかる。つまり、天文19年(1550)頃から10年くらいはその領地を今川氏に蹂躙されたかもしれないが、このころには梶川氏は延命寺に寺領を寄進するまでになっていた。

少し、話が回り道をしたが、桶狭間合戦当時、水野信元らがおとなしくしていた背景には上述したような大脇など水野氏勢力圏の情勢があった。

(参考文献)

『豊明市史 資料編補2 桶狭間の戦い』  2002 豊明市

『大脇城遺跡』 1999  愛知県埋蔵文化財センター 

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