« 徳川家康と知多半島(その31:大脇曹源寺と周辺の水野氏勢力) | トップページ | 徳川家康と知多半島(番外:続・村木砦から石ヶ瀬周辺を行く) »

2008.07.09

徳川家康と知多半島(番外:村木砦から石ヶ瀬周辺を行く)

最近、急激に仕事が忙しくなり、休みもおちおち休んでいられないのだが、気分転換しないと潰れてしまう。そこで、以前夕方にトンボ帰りするような格好で行った村木砦の周辺を再度まわってみることにした。

いつも武豊線に乗ると大府と尾張森岡の間は、じっと窓から景色を見ているが、それは村木砦跡と石ヶ瀬合戦場跡があるからである。村木砦跡は、一般に八剣神社であると思われているが、八剣神社は砦の端のほうに建っているのである。神社の東側、JR武豊線の向こう側も砦跡である。本丸に相当する部分は神社の北側の住宅地の中となり、遺構は残っていない。実は神社のなかにも遺構らしきものは残っておらず、幸いにして神社の西側の堀跡が道となっているので、砦の規模は分かる。

<村木砦跡に建つ八剣神社>

Murakitoride2

村木砦を舞台とした戦いがあったのは、天文23年(1554)のこと。桶狭間合戦の6年前であった。村木砦をどのようにして作ったかについては興味深いが、今川方が三河方面から連れてきた人間以外に、当地の住民が今川方に協力したか、かり出されたことは間違いなかろう。砦の建物を作るための資材は、重原城から水運も使って運ばれたようである。今川が据えた砦の守将は、東條松平氏の松平甚太郎義春であった。

なお、八剣神社は村木砦の戦いの前にはなく、織田方で当地出身の清水家重・権之助兄弟がこの戦いで戦死した将兵の霊を鎮めるために神社を建てたものである。

<村木砦跡の碑>

Murakitoride1

村木砦の北東には、船着場があった。これは、この土地が水上交通、あるいはそれを利用した交易の拠点であったことを示している。村木砦は東西約150m、南北約240mの馬蹄形をなし、東側は浜に面して南北は直線的で、西側が丸く空堀がめぐっていた。村木砦の大手は、東側にあり、衣ヶ浦に面していた。つまり、村木砦は、海が正面で船で出入していたのである。

<村木砦位置推定図>

Muraki 

「於大の方と水野氏」 東浦町(2006)より

上の図は東浦町が発行した「於大の方と水野氏」という冊子に記載されていたものであるが、このほうが八剣神社の境内にある案内板の図より正確と思われる。図でうすい赤色の部分は、土の盛り上がっていた部分で、うす紫色が堀、もしくは低地、東側の衣ヶ浦と書かれた水色の部分が海、青い線は海岸線である。武豊線の敷設工事や県道新設工事ですっかり砦跡から土取りがされており、今は海抜5mほどの台地であるが、往時は海抜10m以上の丘のような場所であったという。城域は、うす紫色とうすい赤色の部分で、黄緑色の部分は城外となる。船着場のある砦北東側の南には細長い堀があるが、あるいはここに船を引き揚げて、船隠しとしたものかもしれない。

実際に村木が船津であったのは、近年まで尾張森岡駅北方の踏切を東に進んだ場所に、「土場」という船着場があったことでも分かる。これは五ヶ村川に合流し、衣ヶ浦に通じる水路の船着場であり、そこから伊勢参りの船が出て、亀崎の北浦で大船に乗換えて伊勢まで行ったそうだ。自動車のない昔は水上交通が重視され、「土場」には倉庫もあったという。現在よりも潮位が高かった中世では水路などではなく、海が砦のすぐそばまで迫っていた。だから渡し船程度の小船の船着場ではなく、伊勢湾まで運航できるような船も使う船津であったのだろう。村木砦の東側は今では水田が広がるが、当時は海であり、村木砦の北には入江が入り込み、南も海が少し東から入り込み、今の八剣神社の南は大堀とであった。

<八剣神社の鳥居~この鳥居下は大堀であった>

Yatsurugi

当地の村木神社という神社は、元は建速須佐男命を祭神とする津島社であり、大正2年(1913)に、水野信元の家臣という清水家重が創建した八幡社と合祀され、社名を村木神社と改めたものである。津島神社は、周知の通り商売の神様であり、川祭でも有名であるが、村木が知多半島北部の船津であったことと関係あるかもしれない。

村木砦ができる前から、当地には船着場があって、対岸の三河との間で船の行き来があった。その船着場の管理は、臨江庵という寺院が行っていた。臨江庵、後に月照山臨江寺と号した寺は、村木砦の西側の段上という場所にあったが、昭和57年(1982)に廃寺となった。今は臨江寺児童公園という、児童公園というには結構広い公園になっているが、もともと境内は362坪(約1,195平米)あった。ここは、「皇風学校」という学校が、明治5年(1872)から10年ほどあった場所でもある。その一角に昭和57年に移築された「村木大地蔵」願王寺のお堂が建っており、臨江寺跡という大きな石碑が傍らにある。

<臨江庵跡の一角に建つ村木大地蔵の堂>

Rinkouan

この臨江庵は、永禄6年(1563)の創建、開山は月山言公というが、実際には緒川の乾坤院の「血脈衆」に、文明11年(1479)の記載がある。すなわち室町時代には存在していたらしく、同時期の阿弥陀如来画像を所蔵していた。その阿弥陀如来画像は、着衣に細かい截金文様が施されている入魂の作であり、15世紀のものだそうだ。なお、段上という地名の通りの海辺の高台になっていた場所で、北東に村木砦と隣接する船着場があって、臨江庵は船の運航を監視できる位置にあった。寺の名前も入江を臨む寺からきているのは明白で、それも単に入り江に接しているだけでなく、船津を管理して利用税を取り扱う役所も兼ねていたと言われる。当時、僧侶は読み書き、そろばんができることから、そういう事務業務に使われることが多く、一見仏教とは関係ない商業的な実務についていたりする。千葉県の船橋でも、そうした業務を行っていたという律宗の僧侶のものといわれる、大きな墓塔がある。

<村木の市街地~道が細く湾曲している>

Muraki_2

村木砦の戦いの前に、今川方が当地に砦を築こうとしたとき、当然ながら臨江庵は真っ先に押さえられたと思われる。この寺と船着場を押さえた今川方は、三河から当地に物資や将兵を運び込み、地元の民衆も抱きこんで砦を作ったのだろう。そして、大浜街道を北へ進めば、知多半島西岸の大高にいたる。つまり知多半島の東西の要所を押さえて、尾張織田領の南側から楔を打ち込むことを、今川義元は考えていたのかもしれない。そして、織田信秀によって、今川氏豊が那古野城を追われた失地回復をはかろうとしたのであろう。

臨江寺跡の近くには、大悲山開眼寺という同じくらいの規模の寺がある。こちらは天正年間の創建である。元は慈眼庵という名前だったようだ。

<開眼寺>

Kaiganji

この開眼寺も、なくなった臨江寺も、その他村木の三つの寺(海印寺、極楽寺、妙法寺)も、皆曹洞宗で、緒川の乾坤院の末寺である。つまり、緒川水野氏が戦略上、緒川の北にあたる村木に寺を建て、いざというときに兵員が駐留し、城代わりに使えるようにしたのではないかと思われる。

村木砦跡は、現在も「取手」という名前で分かりやすい。そういう名前のバス停もある。国道沿いの「いりみ貝最中」を売っている和菓子屋さんと三井石油のガソリンスタンドの間、およびその国道の反対側の一角までが砦の縄張りに入っていたようである。国道も東側のJR武豊線も、村木砦の上を通過しているわけだ。

<「取手」という名前のバス停~この辺が砦の搦手である>

Toride

「いりみ貝もなか」の店の国道を挟んだ向かい側にある地蔵のある辺りから始まる道も、空堀の跡だそうだ。実は、その湾曲した道を北に向かってしばらく進んだあたりには、村木砦の合戦の後に、織田方の手によって、今川方に加担した村役人たちが処刑されたという場所がある。実際に処刑を担当させられたのは、村木出身の清水兄弟で、いくら敵方になったとはいえ土地の者を殺すにしのびなかったという。そこは、水野さんという方が居住する民家になっており、大きな椿がある。村木砦の合戦の碑もあるのだが、どうしてもそこに見に行ったり、カメラを向ける気になれない。首塚とかいっても、信憑性がない場所も多いが、当地の伝承はそうではなく、かなりリアルである。本当にそうなのだろう。

「いりみ最中」の国道の向こう側の地蔵より南側であるが、大きな木が茂っている場所があり、小生こちらのほうが空堀の跡らしいと思う。地蔵を起点にした路地も空堀の一部であろうが、後に堀底が道になり、通行のためにくぼみが埋められ、さらに住宅が建ったりしたあとでは道筋も少し変わるであろう。

<空堀跡の雰囲気を残す場所>

Karaborika

国道に戻り、北へしばらく行くと、とたんに人家がなくなる。三井石油でない、もうひとつのガソリンスタンドの先に、刈谷方面に分岐する箇所があり、右折してその方向にいけば武豊線の踏切などあって、やがて大府市街に入る。途中、川を渡るが、それが石ヶ瀬川である。

石ヶ瀬河畔では、永禄元年(1558)~同4年(1561)に織田・今川両軍、すなわち水野信元と松平元康(徳川家康)が合戦したという。その当時、村木と大府の間は入江で、石ヶ瀬川は今の大府高校南辺りで海に注いでいた。今よりも川幅も広かったであろうし、当然ながら護岸工事などしていなかったので、今の石ヶ瀬川からは当時の様子がすぐには想像できないが、広い河原に両軍が集結し、渡河すると同時に戦端が開かれたのであろうか。

<石ヶ瀬川>

Ishigase_2

この石ヶ瀬合戦で、甥の松平元康(徳川家康)の攻撃を受け、たまらないと思った水野信元が、松平との和睦を織田信長に進言したという。織田・徳川の同盟関係は、水野信元の保身から端を発し、やがて天下を統一する原動力になっていった。

<石ヶ瀬川~橋の上から>

Ishigase2

この石ヶ瀬川を越えると、大府の市街に入る。大府市街にはいり、しばらく行くと、水野氏や梶川五左衛門が寄進をしたという天台宗の大きな寺、延命寺がある。そこから更に東へ進み、境川までいくと、その河畔に南北朝時代に築城され、梶川五左衛門が修復して、後に合戦の舞台ともなったという横根城の城跡がある。城跡といっても、きれいさっぱり何も残っていない。ただ境川河畔に細長い台地で城を作るのには好立地の場所で、城があったであろうという雰囲気はある。岩滑城主となった中山氏の元の所領であった北尾にも「城畑」という地名があり、城があったという伝承が残っている。この境川流域には、そうした城郭がいくつもあったようだ。その件は、ともかく、松平元康と水野信元の石ヶ瀬での戦いについて、今後述べていくことにする。

<延命寺>

Enmeiji

参考文献:

「改訂 東浦歴史散歩」 梶川武著 2006年四訂版 東浦町教育委員会発行

|

« 徳川家康と知多半島(その31:大脇曹源寺と周辺の水野氏勢力) | トップページ | 徳川家康と知多半島(番外:続・村木砦から石ヶ瀬周辺を行く) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/84760/41754992

この記事へのトラックバック一覧です: 徳川家康と知多半島(番外:村木砦から石ヶ瀬周辺を行く):

« 徳川家康と知多半島(その31:大脇曹源寺と周辺の水野氏勢力) | トップページ | 徳川家康と知多半島(番外:続・村木砦から石ヶ瀬周辺を行く) »