徳川家康と知多半島(番外:続・村木砦から石ヶ瀬周辺を行く)
前回書いた村木砦だが、一般に村木砦というが、規模からすると村木城でもおかしくないと思う。村木砦跡の上にできた国道を走っていても、大府方面からは三井石油のスタンドあたりから、しばらく行って、いりみ貝最中を売っている和菓子屋さんの店舗前あたりまでが砦跡のはずなので、100mは走ることになる。それも砦の端であり、中心部はその倍くらいの長さがあったはずで、東西約150m、南北約240mといわれているので結構な大きさである。
<砦の北側には入江が入り込んでいた>
<上記を武豊線(鉄橋の上)から撮ったもの>
砦跡の北方に位置する三井石油の横の道は、砦を取り巻く海の入江があったと思われる場所を通っているが、その辺りからみると砦の内部はやや高くなっている。海面が今の陸地の一部まで進んでいた当時は、砦の北側は泥水が浸った入江に面した場所で、石ヶ瀬川は北西はるかな今の大府高校あたりで海に注いでいたという。今は砦跡北側の道沿いに家が建ち並んで、道路に車をとめて写真を写すのも近隣の方に迷惑をかけてしまう状況であるが、武豊線の車内からみると、かなり砦の内部が高くなっているのが分かる。
<武豊線から村木砦中心部を見たところ>
なぜ、こんなことを書いているかといえば、中世では物資の輸送が馬よりも、船で行われるケースが多く、それは街道が未整備であったり、馬自体も軍馬を除けば余りいなかったのかもしれず、そういう状況になったと思われる。そして、城は水辺に、しかも周囲より一段高い水辺の台地につくられることが多かった。当村木砦に近いところでは、横根城は境川流域で、周囲より一段高い台地のうえにあった。それは、敵が船で城までたどり着いても、高みから矢を射掛けたり、切岸で城の郭まで登り難くし、容易に落とせないようにしたものと思われる。
<村木神社ののぼり口>
なお、明治、大正時代の地図を見ると、砦跡には人家がない。戦後まもなくの頃の航空写真をみても同様で、砦跡には人家がみられず、砦の西側に人家が集まっている。今は国道が通り、砦跡に該当する場所でも人家が建っているが、あるいは昔の人は合戦があった場所を忌避して、家を建てなかったのかもしれない。合戦の激戦地であった、村木砦南側には八剣神社が織田方の当事者で、当地出身の清水家重・権之助兄弟によって建てられ、西側国道から分岐する堀底を利用したと思われる道の分岐点には地蔵がある。もっとも、いろんな場所に地蔵があるので、合戦の戦死者供養かどうかは不明である。
<砦の西側の堀跡という国道から分岐する道(左)>
村木砦の合戦時に、織田信長が陣をおいた村木神社は、村木の集落の西側の台地中腹のやや高くなった場所にある。ここも、明治・大正の地図では、村木の集落を見下ろす、人家がない場所であった。その境内は広く、地方都市の大きな神社くらいの規模があり、社殿前には五百人程度は楽に収容できる。それもあるだろうが、織田信長の実家織田弾正忠家は、津島の交易を背景に発展してきた家であるがゆえ、氏神と仰いで津島神社を信仰してきたため、そこに陣をおくことで氏神の力を借りて合戦に勝つとの決意を示したのだろう。
これは創建が不明ではあるが、延徳3年(1491)社殿再建の棟札があるため、戦国時代のはじめから存在した神社であることは間違いない。もともと祭神が須佐之男命という津島神社であった。一方、今の森岡保育園のある場所にあった八幡神社は、永禄4年(1561)に水野信元の家臣清水八右衛門家重が創建した。この八幡神社は学校用地を提供するために、大正2年(1913)に津島神社に合祀され、津島神社は村木神社と改名したのであった。
その村木神社には、現在でも須佐之男命を祭神とする津島神社と同じ天王祭があり、茅の輪くぐりの神事が執り行われる。
<村木神社社殿前に整列>
先日、村木神社の茅の輪くぐりを見に行った。天王祭では茅の輪くぐり、そのほか小正月には左義長があり、おまんとという駆け馬の神事など、地域の行事は村木神社を中心にまわっている感がある。
さて、茅の輪くぐりは須佐之男命と関係があるそうだ。茅の輪を一回目左回りに、二回目は右回り、三回目はまた左回りと∞の字のようにぐるぐる回る。
<神主さんが祝詞をあげる>
<玉串奉奠>
祝詞、玉串奉奠の後、神主さんたちが茅の輪をくぐった。その後、巫女姿の小さい女の子たちがつづく。 その女の子たちの親御さんと思うが、お母さんたちが見守っている。
<茅の輪をくぐる>
<最初は左回り>
<ぐるぐる回る、目が回る?>
<まわり終えると拝殿へ>
<いきなり拝殿にのぼらず、ここでも左回り>
<拝殿のなかに入る>
なお、このあと巫女さん姿の女の子たちの舞いもあるのだが、神殿の内部の撮影は遠慮した。
実は、合祀された八幡神社の旧在地(現森岡保育園)には、金鶏山古墳という小さな円墳があったが、これを学校用地整理の都合上、昭和5年(1930)に在郷軍人会が取り払ったところ、石室があり、提瓶5個・長頸壺・平瓶・有蓋高坏各1個出土した。そうした古墳もある場所ということで、村木という地名は郷村の支配者である「村君」が転訛したものという説がある。つまり、早くから開けていて、それなりの支配者が古代にはいたということか。
<村木神社に近い曹洞宗妙法寺>
その村木は緒川のすぐ北で、五つある寺が水野氏と同じ曹洞宗、緒川を本拠としてきた水野氏の勢力下であるが、なぜか今川方の砦が構築された。それは前回述べたように、臨江庵と船着場を押さえた今川方は、三河から当地に物資や将兵を運び込み、地元の民衆も抱きこんで砦を作ったということだろうが、水野配下でありながら織田方の清水兄弟のような人物と別の勢力があったということになる。それになぜ刈谷、緒川の水野氏は、村木砦の造営を妨害しなかったのか。どうも、水野信元が村木砦の合戦の時点で、日和見だったと考えるしかない。
しかし、一方では永禄元年(1557)6月には、今川方の急先鋒である松平元康(徳川家康)と水野信元は石ヶ瀬で戦っているのである。永禄元年(1557)1月に今川義元の命で初陣を飾った松平元康は2月5日、今川方を離れて織田方に寝返った寺部城の鈴木重辰を攻めて、4月末には勝利をおさめている。その後まもなく石ヶ瀬合戦となるが、これは松平元康が岡崎勢を率いて知立を通り、沓掛の東で境川を渡り、緒川に向かう途中の石ヶ瀬で松平・水野両軍が対峙した。
<現在の石ヶ瀬川>
桶狭間合戦の直後の永禄3年(1560)6月、一旦岡崎に帰った松平元康は再び水野信元と石ヶ瀬で戦っている。この時点では今川義元は戦死し、水野信元は再び織田方の旗幟を鮮明にしたはずである。では、松平元康、後の徳川家康は純粋に今川方として水野信元を攻めたのであろうか。今川氏真が命令したかもしれないが、松平元康自身の思惑が多分に働いている可能性もある。その辺りが、どうも釈然としない。二回目の戦いでは、6月18日に石ヶ瀬で戦った後、翌19日には松平元康は刈谷城外まで出張って、刈谷十八町畷で水野勢と戦い、炎暑により両軍引き揚げている。この引き揚げは、なにか裏がありそうである。さらに永禄4年(1561)2月には、石ヶ瀬で三度松平・水野両軍が戦ったと、「武徳編年集成」では書かれている。しかし、これは本当のところはどうなのか。小生、もっと前に松平元康は今川氏真から離反したと思っている。その永禄4年(1561)の石ヶ瀬合戦は、あるいはアリバイ的に戦われたのではないだろうか。そして、水野信元を仲介に松平元康は織田信長と同盟しようとしたのではないか。それは双方にとって、メリットがあった訳である。
その辺りは、歴史の謎かもしれない。
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