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2008.08.25

徳川家康と知多半島(その32:今川義元討死後の知多半島)

永禄3年(1560)5月19日桶狭間合戦で、今川義元が討死した後、今川の勢力は三河や知多半島から後退することになった。それは、知多半島では今の知多市にあった寺本城の城主であった花井氏が、今川方から離反し、織田方についたことに象徴される。

寺本城主は、花井播磨守と嫡男勘八郎であったが、桶狭間合戦に先立つ天正23年(1554)1月の村木砦の戦いの後に、織田信長に攻められている。この村木砦の戦いの頃には、織田信秀がなくなり、織田家中が相続で揺れる間隙をついて、今川の勢力は、西三河から知多半島を席巻していた。

この頃、「知多郡中の諸士織田家を捨て今川の幕下となる」(『峴山日記』)といわれ、今川方の勢力が知多郡を侵食していた。前記の花井氏は、寺本だけでなく、元々は今の大府市の吉川城にいたようで、その吉川城周辺も領有していた。鳴海城主の山口左馬助教継は、織田信秀の死後、家督相続をめぐって織田家中が揺れる中、今川義元の誘いにより織田家を離反、今川に走った。天文22年(1553)には、山口教継は笠寺砦、教継の子九郎二郎教吉が鳴海城を守備しており、山口教継父子は、こうして尾張南部に今川の勢力をくさびのように打ち込む先兵となり、大高、沓掛の両城を調略した。大高城は山口左馬助教継に永禄2年(1559)に落とされ、城主だった大高水野氏が追われ、今川方の鵜殿長照が城代となっている。

<大高城>

Oodaka3_1

それが、桶狭間合戦後となると、逆に今まで今川方についていた勢力が、織田方となり、今川方は勢力後退を余儀なくされた。寺本の花井氏も、織田方についた、そして花井勘八郎は、元亀2年(1571)の長島合戦には織田方である佐治信方に従って参陣し、戦功をあげている。

このように、その時々の強い勢力に従い、自分の家を守るのが戦国のならいであった。それは、もちろん知多郡だけではなく、三河においても同様であった。

刈谷の水野氏は、元は緒川から進出したもので、緒川水野氏本流そのものと言ってよい。水野貞守の代に、元刈谷に砦か、館のようなかたちで、刈谷古城を築き、その後忠政の代に今の亀城公園の場所に新城を築いたとされる。

刈谷古城は、文明8年(1476)頃には築かれたらしい。万里集九が書いた『梅花無尽蔵』という詩文集に文明17年(1485)9月の記事として「出刈谷城三里余」とあり、水野氏が刈谷に城を構えていたことが知られる。また、大永年間(1521~1528)、刈谷古城には和泉守の官途名を名乗る水野近守という人物(それは大高城主水野大膳亮忠守の父和泉守近守であったとされる)がいたことが発給文書などから分かっており、連歌師の柴屋軒宗長もたびたび、その館(刈谷古城)を訪れている。

<刈谷古城跡~右側の藪、道路には昔水路があった>

kariyakojyo1

<刈谷古城跡の一部か、台地端の畑地に残る土塁状のもの>

kariyakojyo2

亀城公園の場所の刈谷城は、天文2年(1533)に築かれたが、永禄3年(1560)、桶狭間の合戦で敗北し、鳴海城を開城して引き揚げる途中の今川軍の岡部元信によって焼かれてしまい、再建されたのは慶長5年(1600)の水野忠重が城主となった頃である。

その刈谷城は、松井宗信の子、宗恒に宛てた、以下の今川氏真判物写によって、一時今川方が入城していたことが分かる。

父左衛門佐宗信及度々抽軍忠之事

一 東取合之刻、於当国興国寺口今沢、自身砕手、親類・与力・被官数多討死、無比類動之事

一 参州入国以来、於田原城際、味方雖令敗軍相支、敵城内江押籠、随分之者四人討捕之事

一 松平蔵人・織田備後令同意、大平・作岡・和田彼三城就取立之、医王山堅固爾相拘、其以後於小豆坂、駿・遠・三人数及一戦相退之故、敵慕之処、宗信数度相返条、無比類之事

一 苅屋入城之砌、尾州衆出張、雖覆通路取切之処、直馳入、其以後度々及一戦、同心・親類・被官随分之者、数多討死粉骨之事

一 吉良於西条、味方令敗軍之刻、宗信相返敵追籠、依其防戦、同心両人・益田兄弟四人、遂討死之事

一 大給筋動之時、天野安芸・同小四郎其外手負大切処、宗信相支、無相違引取之旨、無比類之事

一 去五月十九日、天沢寺殿尾州於鳴海一戦、味方失勝利処、父宗信敵及度々追払、数十人手負仕出、雖相与之不叶、同心・親類・被官数人、宗信一所爾討死、誠後代之亀鏡、無比類之事

右、度々忠節感閲也、然間、苅屋在城以後弐万疋、近年万疋、彼三万疋、以蔵入雖出置之、依今度忠節、為彼三万疋之改替、遠州蒲東方同名内膳亮、令扶助参拾貫文、其外相定引物之、参百拾八貫文余蔵入分、令扶助訖、此外於増分出来者、令所務随其可勤相当之役、殊於彼地先祖古山城討死之由申之間、彼地之事於子孫不可有相違、然者内膳公文等問答之未進事、可為左右方間、於向後此未進分一切不可有其綺、并長田・鶴見弐ケ村事、依訴訟今度相改、可令代官、但高辻弐百五貫文之外参拾貫者、如先代官時、為定納之余分令扶助、何茂知行分為不入上者、彼地事可為同前、弥守此旨、可専戦功之状如件


   永禄三庚申年 

      十二月二日
                         氏真(花押)

                  松井八郎殿

松井宗信は今川の重臣で、上記文書でも小豆坂合戦で、織田方の追撃を殿軍としてかわし、数々の戦いで戦功をあげたが、永禄3年(1560)の桶狭間合戦では「天沢寺殿尾州於鳴海一戦、味方失勝利処、父宗信敵及度々追払、数十人手負仕出、雖相与之不叶」とあるように、度々敵を追い払い、敵を良く防いだが、一族郎党と共に討死してしまったことが分かる。

同時に、時期は不明であるが、松井宗信が尾張衆、つまり織田方が出張り、通路をさえぎられ、占領されていたにも関わらず、これを打ち破って刈谷城に入城し、それ以後度々合戦していたことがわかる。記載が小豆坂の合戦の後、西条吉良の攻略戦の前であるので、時系列的に書かれているなら、それは天文17年(1548)の小豆坂合戦以降になる。西条吉良はたびたび今川に反抗しているので時期の特定が難しいが、小豆坂合戦に近い年代では天文18年(1549)の吉良義安が捕らえられた際の合戦か。大給筋の動きというのが大給松平親乗の大給城を大給松平当主の忠茂が攻め、今川義元に感状をもらったのが、天文21年(1552)であるから、多分そうなのであろう。つまり、天文18年(1549)年頃に、一旦今川方は刈谷城に入り、織田方と小競り合いを繰り広げていた、だから、天文23年(1554)の村木砦の戦いに際して、今川方が村木砦を築いていても、水野信元は手出しができなかったのではないか。後段に、「苅屋在城之以後」とあり、これが正しければ、一時刈谷城に松井宗信が在城していたということになる。そして、桶狭間合戦の折には、松井宗信は今川義元本隊の近くにあって、桶狭間山に義元本隊が陣取った際には高根山、幕山にあって、先鋒の中核をなしていた。

【亀城公園となっている刈谷城跡】

<刈谷城本丸跡・中央>
kariyajyo1

<刈谷城本丸跡・表門付近>
kariyajyo2

<刈谷城二の丸址から本丸跡へ>
kariyajyo3

今川方に入城された刈谷城での松井宗信の立場は、城番という立場であろう。岡崎城の城主松平元康が今川の人質となり、今川の武将となって、岡崎城は実質的に今川の城となったのと状況はやや異なるが、天文18年(1549)年頃からの一定期間、刈谷城は今川の統制下に置かれていたものと推察する。

つまり、その当時は水野氏の本拠は刈谷、緒川とはいえ、刈谷城が今川に乗っ取られている以上、刈谷城には今川方の兵も詰めていたと見るべきで、桶狭間合戦当時、水野の兵力の主力は緒川城とその周辺に置かれていたものと思われる。実際、水野信元は、その当時刈谷にあって何かをしたという事績は寡聞にして、刈谷・緒川両城を支配したはずの水野信元の三河支配に関する発給文書が永禄3年(1560)以前はない。逆に、大府の延命寺の文書で、天文21年(1552)の水野信元朱印状(小塚弥助から延命寺への土地売券で、水野信元の裏書・朱印がある)があるが、そこには水野信元が「緒川御城殿様」と呼ばれている。それらは、その当時の刈谷がどういう状態であったかを知る状況証拠になる。

そして、永禄3年(1560)5月19日、桶狭間合戦で、織田方は今川義元を討取り、勝利をおさめた。今川方は桶狭間の合戦場から敗走するとともに、合戦終結直後から鳴海城以外の占領した城からは撤退する。大高城の松平元康、後の徳川家康も、翌日には引き揚げた。

当時刈谷城にも、今川方が詰めていたか、少なくとも刈谷周辺に今川方の軍勢がいたと思われるが、彼らも同じように引き揚げたであろう。ところが、その刈谷城に対して、鳴海城を開城し、開城と引き換えにと織田信長と交渉して貰った主君、今川義元の首を奉じて駿府に帰還する途中の岡部元信は攻撃をしかけ、放火をし、謀略をもって、水野信近を討取っている。これは、水野信元が今川に通じ、味方のような顔をしていたのに、敗走する今川勢に追い討ちをかけるか何かしたためではないかと思われる。それを知って、岡部元信は遺恨に思い、水野信近を討ったのではないか。

<刈谷水野氏の墓のある楞厳寺>

Ryogonji

桶狭間合戦後、「「捨城ナラバ拾ハン」との名セリフで、松平元康、後の徳川家康は、岡崎城に戻った。それも、大樹寺に一旦入って、今川勢が岡崎城から出て行ったことを確認し、城内、城下の様子を見極めてからの慎重さであった。松平元康(徳川家康)が岡崎城に復帰したことを、岡崎衆はもちろん、旧主を迎える城下の人々も喜んだに違いない。

同じ頃、刈谷城を焼かれ、弟信近を討たれた水野信元は、刈谷と周辺を固めることに腐心していたに違いない。今川方についていた知多郡、西三河の諸将も、織田方に復し、今度は彼らが対決する相手としての今川方の先鋒は岡崎に戻った松平元康(徳川家康)ということになった。

実際、桶狭間合戦直後の永禄元年(1557)6月18日には、今川方の急先鋒である松平元康(徳川家康)と水野信元は石ヶ瀬で戦っているのである。

<現在の石ヶ瀬川>

Isigase

この桶狭間合戦直後の石ヶ瀬合戦であるが、松平元康(徳川家康)は純粋に今川方として水野信元を攻めたのであろうか。これは桶狭間合戦前であれば、今川義元か今川氏真が命令したかもしれない。桶狭間合戦後、領国経営で手一杯で織田方とのリベンジの戦いができなかった今川氏真が、対水野のみ、松平元康(徳川家康)に下命したとは考えにくい。むしろ、石ヶ瀬合戦の二回目以降は、松平元康自身の思惑が多分に働いていると考えるべきかもしれない。

二回目の戦いでは、6月18日に石ヶ瀬で戦った後、翌19日には松平元康は刈谷城外まで出張って、刈谷十八町畷で水野勢と戦い、炎暑により両軍引き揚げている。この引き揚げは、なにか裏がありそうである。さらに永禄4年(1561)2月には、大府の横根城と石ヶ瀬で三度松平・水野両軍が戦ったと、「武徳編年集成」では書かれている。

しかし、これは本当のところはどうなのか。小生、もっと前に松平元康は今川氏真から離反したと思っている。その永禄4年(1561)の石ヶ瀬合戦は、あるいはアリバイ的に戦われたのではないだろうか。そして、水野信元を仲介に松平元康は織田信長と同盟しようとしたのではないか。それは双方にとって、メリットがあった訳である。つまり、水野氏にとっては、東からの脅威が少なくなり、領地経営により力をいれることができる、松平氏にとっては、同様に西側の脅威が少なくなり、岡崎領内の経営をすすめることができ、今川から独立して、あわよくば東側を切り取り領地拡大の戦いをしかけることができるといった思惑が働いたのであろう。

<岡崎城>

Okazakijyo4

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