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2008.10.26

大仏のような地蔵

船橋市は飯山満(はざま)に、「ゆるぎ地蔵」というお地蔵さんがある。

これは、地蔵というより、大仏に近く、1.7m以上の高さがある。しかも、坐像なので、もし人間なら、立ったら2mを越す巨漢である。

<地蔵のやさしい面影>

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この地蔵は、江戸時代に当地にあった「揺ぎの松」という松の大木が枯れたため、その松の材木を使って、この「ゆるぎ地蔵」ともうひとつ「木っぱ地蔵」を木食僧に彫らせて祀ったというもの。1723年(享保8年)建立だそうだ。その「木っぱ地蔵」のほうは、薬円台の高幡庵という寺にある。

そもそも「揺ぎの松」というのは、根が立ち上がり、人が通ると梢まで揺るいだことから、その名前をつけられたという。そんな大きな松だからこそ、この立派な地蔵もできたというもの。

付近は、純農村地帯であったが、最近は新しい住宅もたくさん建っている。東葉高速線の飯山満駅も、割合近い。地蔵のある場所は、ちょうど谷間のようになっていて、近くには弁天の池もあり、水田をかつては作っていたと思う。台地の下に大きな家があるが、かつての名主か何かかもしれない。

<地蔵のお堂と周辺>

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この飯山満は、鎌倉時代くらいからある集落だそうだ。南北朝時代の板碑も存在している。「ゆるぎ地蔵」を見た後、板碑を見に行ったが、あらためて見るとそれほど大きくない。それでも、船橋市最大級らしい。

なお、千葉日報によれば、以下のようにお堂修復の募金活動中とあった。そういえば、現地にも看板が建っていた。

「『ゆるぎ地蔵』の通称で知られる船橋市飯山満二の市指定文化財『木造地蔵菩薩坐像』を祀(まつ)る地蔵堂の老朽化が進み、地元住民が再建しようと広く寄付を募っている。

 飯山満町二丁目住民ら約五十人で構成する『ゆるぎ地蔵保存会』(三橋栄会長)の計画では、寄付の目標額は四百万円で、来年春ごろの完成を目指す。」(千葉日報、県西エリア:2008年09月28日)

「中年ジェット」 http://blogs.yahoo.co.jp/jyo_takuya/46261720.html より転載

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2008.10.12

船橋市中野木地区をめぐって

船橋市にある中野木地区は、飯山満(はざま)の南、一つ谷津を隔てた台地下の集落であり、その南には中野木川という小さい川が流れる場所で、かつては純農村地域であった。昭和30年代には、隣接した場所に前原団地が作られて、新住民も大量に移入し、中野木地区も宅地化が進んだ。今はJR東船橋駅まで歩いて10分ほどとなり、バスでは津田沼にも、駿河台あたりからは船橋にも簡単にでることができるため、住宅密集地帯に変貌した。

この中野木地区は、それなりに大きい前原地区と飯山満地区に挟まれているが、どういう成り立ちなのか、あまり考えたことがなかった。船橋の地名の歴史について書いてある『ふるさとの地名(改訂版)』(船橋市史談会)によれば、飯山満の枝郷のような位置づけらしい。そもそも、中野木という地名自体が、「のぎ」「のき」は侵食崖を意味し、「谷の中ほどの急傾斜地」ということでつけられたというのが通説であるが、はっきりしない。字面だけでは、どこかの中ほどの木のある場所になるが、飯山満と前原の中ほどという意味か。

実は飯山満は中世に起源をもつ集落であり、飯山満城跡あり、光明寺という中世以来の寺院ありで、南北朝期である康永4年(1345)在銘の板碑なども存在している。その他、東福寺や大宮神社など、古い寺社もある。一方、前原のほうは、その名前の通り、「飯山満の前の原」というように、飯山満より新しく、成田街道沿いに成立した近世の新田村落というのが一般的で、上東野新助という武士出身者が草分けになって延宝年間に開発されたということが分かっている。ただ、上東野新助の先祖がいた札場(高札場であったことに由来する地名)には、豊臣時代からの集落があったという説もあり、多少起源を遡る可能性もある。前原には上東野新助らによって御嶽神社が鎮守とされたが、同時に古くからの寺がなく、それでは困るので道入庵というものが作られた。道入庵の境内には、前原新田の開墾の由来を刻した延宝3年(1675)造立の地蔵がある。

小生、このあたりはよく知った土地であり、中野木も昔から知っているが、その歴史を考えたことはほとんどなかった。今より木が茂って暗かった墓地の一角に地蔵があって、その墓地は夕方以降はちょっと怖いので走って通り過ぎたこと、畑に縄文土器のかけらがよく落ちていたことは、37年ほど前の記憶であるが、今でも鮮明に覚えている。畑には、泥面子といわれる土製の玩具も、よく落ちていて、それを拾ったりした。

<中野木の地蔵>

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墓地にある地蔵は、「念佛講中」「天明六丙年十月吉日」とあり、地蔵のもつ杓杖に赤ん坊がしがみついたような状態で、地蔵の顔がそれを見つめて、すこし傾げている。天明6年(1786)は天明の大飢饉のさなかで、農村が疲弊した時期に相当する。その際、当地でも子供も含めて、多くの住民がなくなったのだろう。だから、この地蔵も、それに関係していると思うのである。

この中野木集落がいつできたのか、小生にはよく分からないが、享保年間の墓など石造物があるため、280年くらいはたっているのであろう。ちょうど、墓地の一角に出羽三山の石碑があって、その前に馬頭観世音の石像があるのだが、その建立が享保20年(1735)であった。

この土地の産土は、八坂神社である。小さな神社で、社務所などもない。神主は、三山の二宮神社の神官が兼ねているとのことである。しかし、中野木には歴史的な建造物も、八坂神社以外はないのだろう。寺は小生の知る限り、存在しない。おそらく、中野木の人は飯山満のどこかの寺の檀家になっているのであろう。

<出羽三山の石碑など>

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その成立は飯山満の枝郷とすれば、やはり江戸時代の享保年間以前に、飯山満の次男、三男が分家するなどして、中野木を開墾し、農地を開いたのではないかと思われる。それで、暮らしやすい台地下に集落を形成したのだろう。制度上は明治の中頃までは、中野木は上飯山満村の一部であった。今は農村の面影はあまりなく、かつての畑地にはマンションがたち、田はなくなり、台地の上も下も住宅地となった。

わずかに八坂神社やその年中行事に、かつての集落の姿をとどめている。

<八坂神社>

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八坂神社の創建も、集落がいつできたか正確に分からないように、明確なところは分からない。それほど後にできたとも考えにくいし、御神体を入れた箱に「文久三年改築」とあったといい、文久3年(1863)には存在していたらしい。集落ができてから、勧請されたとすれば、創建は享保年間とか、江戸中期に多分間違いないだろう。この小さい社には、誰が彫ったか、結構立派な彫刻がほどこされている。

<八坂神社社殿の彫刻:側面>

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ぐるり取り巻く彫刻には、若者(孟宗)が筍を掘っているものがあったり、廿四孝の説話を表現しているそうだ。

<八坂神社社殿の彫刻:上部>

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社殿をぐるりと彫刻がとりまくが、正面頭貫の木鼻には獏もしくは象が鼻を伸ばした姿、虹梁の木鼻には獅子が、また頭貫の上には龍が丁寧に彫られている。

この八坂神社の境内には、富士塚がある。木の根が張って、一見塚と気づかないが、上に石碑などもある。塚の上の石祠に何と彫られているか見たが、判読できなかった。富士塚を研究している人から見ると、船橋市域の富士塚はお椀を伏せたように形が良いらしい。しかし、小生にはどの塚も同じように見える。

<八坂神社境内にある富士塚>

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なお、この写真を撮ったときに、変な光が入ってしまったが、以前から何気なく撮った写真に大きな球体が写っていて困ったこともある。神社や城跡などを写すと、よく出てくるし、先日豊川海軍工廠の火薬庫跡を写したら夥しい光の玉が写ってしまった。人魂だとおどす身内もいるが、単なる光線のいたずらであることを祈る。

それはともかく、この八坂神社の年中行事で、2月の最初の午の日、つまり初午の日に、ワラで作った大蛇を集落の東西に掲げるというものがある。これを称して、「辻切り」という。こうした風習は、千葉県各地に見られ、同じ船橋市でも楠ヶ山にもあるし、市川市国府台や佐倉市井野にもある。

これは、船橋市指定文化財(無形民俗文化財)に指定されている。「辻切りは悪霊や悪疫が村内に入って来ないように願う行事で、中野木では毎年2月の初午に行われています。鎮守の八坂神社に集まり、東西2組に分かれ、大蛇を1匹ずつ作製します。完成すると長さ5m程になる大蛇は本殿前にとぐろ巻き、向かい合わせに据えられ、御神酒を飲ませます。直会(なおらい)のあと、東西それぞれ4〜5人で大蛇をかかえ、集落の南西と北東の道路脇の立木に巻きつけます。」(船橋市のHPより)ということで、面白いのは、大きな蛇だけでなく、各住居の入り口にも小さなワラ蛇を掲げていることである。これはほかの地域にはないかもしれない。

<各住居の門に掲げられたワラ蛇>

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このワラ蛇は、何かユーモラスな表情である。

地域の伝統がすたれつつある昨今、こうした風習が、船橋の市街地に近い場所にも残っているのは、重要であると思う。

参考文献:

『ふるさとの地名(改訂版)』 船橋市史談会 

『船橋歴史風土記 』 綿貫啓一著  崙書房

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2008.10.05

月はおぼろに東山

小生、歌はあまり人前で歌わないし、熱烈な音楽ファンではないように思う。しかし、音楽はそこそこ聴いていた。聴くのも、学生時代は専らクラシックで、社会に出てからはヨーロッパのポップスとかになり、カーステレオでよく聴いてた。特に、シルビー・バルタン、ジリオラ・チンクエッティは。

ジリオラ・チンクエッティはサンレモの女王であるとともに、カンツォーネを一般に親しめるものにした。しかし、日本では「雨」くらいしか、知られていないかもしれない。

会社にはいった当時は、CDなどはなく、カセットテープばかり。レコードはあまり持っていなかったが、たまに買ってくると繰り返し聴き、うっかり傷つけてしまうと大変損した気分になった。兵庫から転勤で東京にかわったとき、だいぶ売るか、捨ててしまった。しかし、神戸のレコード店に売りに行ったが、逆にシルビー・バルタンのレコードを買ってしまったこともある。

そういう小生が、ときどき、無意識のうちに口ずさんでいる歌が、二曲ある。それは「祇園小唄」と「君恋し」。なぜ、その曲なのか、皆目わからない。かなり昔からだし、「君恋し」はフランク永井が歌っているのを聴いているが、自分の胸のなかにあるのは曲調が違い、もっとテンポが速い。これについては、最近変なことに気付いた。

祇園小唄など、京都出身でもない小生がなぜ口ずさむのか、自分でもよく分からない。小生の雅号は、「湖城」であるが、その湖は琵琶湖を意味し、早い話が琵琶湖湖畔の城にちなんでつけたもの。それは会社の用事で滋賀大学にときどき行っていたおりに、経済学部を訪問すると必ず彦根城を経由して自宅に帰っていたので、最初は彦根城をイメージしていたが、膳所城でも大津城でもどうでもよくなった。

滋賀大学は経済学部と教育学部の二つの学部であるが、その二つがえらく離れている。教育学部は石山、経済学部は彦根。二つとも一日でまわるのであるが、いつもはじめは教育学部に行き、次に経済学部にまわった。その教育学部のある石山へは、自宅近くのJR芦屋から電車に乗り、京都で乗り換えて行っていたが、京都ではおりたことはない。それは仕事中ということもあるが、JR京都駅で降りても歩いていけるのは西本願寺くらいで、バスで出かけると戻ってくるのに時間がかかりすぎ、完全にサボリになってしまう。

<祇園白川にかかる巽橋>

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小生と京都の縁は、やはり兵庫に住んでいたときに休日に阪急電車で四条河原町に出て、寺などをめぐるようになってからで、その前は一度高校の修学旅行で行ったきりである。阪急電車の終点が四条河原町。阪急百貨店や高島屋もあるが、電車を降りると四条大橋の近くに出て、木屋町を北へ川沿いに進むと先斗町、歌舞練場があって、さらに行くと三条大橋のたもとに出る。三条から四条にかけての鴨川の情景が、印象に残っている。

<鴨川~三条大橋から>

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しかし、無意識に「祇園小唄」や「君恋し」を歌ってしまう、小生の変な癖は、ずっと前から、ごく若い頃からであるのが少々変である。

その「祇園小唄」を聴くと、なにか、祇園新橋あたりの光景が目に浮かんでくるようだ。しかし、ほとんど自分とは無縁の世界である。

祇園新橋界隈は、一番花街としての情趣を残している場所であろう。辰巳大明神や白川にかかる巽橋、茶屋の立ち並ぶ通りに向かい、白川を背にして吉井勇の歌碑がある。その白川は小さな川だが、ちゃんと鯉も棲んでいるし、水鳥もいる。

<舞妓のだらりの帯>

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辰巳大明神はちょうど、道が分岐する場所にある。辰巳大明神とは、何に対して辰巳(南東)の方角にあるというのだろうか。たぶん御所であろう。東京でも、門前仲町のあたりは辰巳といい、辰己芸者などもいたのだが、それは江戸城からみて辰巳の方角を指していた。

辰巳大明神は、実は狸を祀っているそうだ。巽橋に住む悪戯好きのタヌキが巽橋を渡る人を化かして、困った人たちが神として祀ったとをいう謂れがあるそうだ。それが、当地が花街となると、いつのまにか、芸妓さん、舞妓さんら、祇園芸能に関連する人たちから親しまれ、芸道上達の神様になったとのこと。

<お茶屋が建ち並ぶ風景>

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「祇園小唄」の一番の歌詞で「月はおぼろに東山 霞む夜毎のかがり火に」とあるが、東山の山麓、円山公園の近くに、かがり火をたいた料亭か何かあった。また、円山公園は枝垂れ桜が有名であるが、毎年4月上旬には、かがり火も焚かれるそうである。それは祇園小唄を意識しているのか、まさにそんな感じであろうか。

<円山公園の夜景>

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2番の「夏は河原の夕涼み」も鴨川の河原に、川床を広げた店やそこに集まる人々が目に浮かぶようである。この鴨川は、夕暮れ時ともなると、アベックが集まり、等間隔に座ることで有名。はかったように、等間隔なのは、お互いの会話を聞かれたくないためかもしれない。アベックは、季節に関係ない。

しかし、出町柳あたりで、高野川と合流するYの字の地点から上流は加茂川で、下流が鴨川というのは、なぜだろう。あまり関係ないが、気になる。

<鴨川~四条大橋から>

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<四条大橋のたもとにある南座>

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この「祇園小唄」の歌詞は、作家・長田幹彦が昭和3年(1928)、祇園の茶屋「吉うた」に滞在していたときに作ったものである。その後、長田幹彦の小説『絵日傘』が映画化されることになり、浅草オペラの佐々紅華が長田幹彦の詞に曲をつけたものを主題歌として、「祇園小唄」が誕生した。

その映画『祇園小唄 絵日傘 狸大尽』は、昭和5年(1930)マキノ御室が制作、監督:金森万象 出演:澤村国太郎、浅間昇子、小金井勝というが、サイレントである。しかし、舞妓姿の女優が字幕に合わせてスクリーン脇で歌うという興行形態がとられ、「月はおぼろに東山・・・」という主題歌とともに大ヒットしたという。ちなみに、澤村国太郎の長男が俳優の長門裕之、次男が俳優の津川雅彦である。

「祇園小唄」の音源は、いろいろあるが、以下は美空ひばりのもの。

祇園小唄 Gion Kouta - 美空ひばり Misora Hibari

なお、前に書いたように、変なことに気づいたというのは、「祇園小唄」も「君恋し」も昭和3年(1928)から5年(1930)にかけて成立した歌であり、どちらも佐々紅華が作曲していることである。それが、元々クラシックや洋楽ばかり聴いていた自分の潜在意識にあるのが、どうもおかしい。

二村定一が歌うオリジナルの「君恋し」が、YouTubeにあった。このような歌が懐かしいと思うのは、なぜだろうか。親も生まれたか生まれないかのころの歌であるから、じいさんの記憶でも、小生の脳に残っているのであろうか。そういえば、なくなった母方のじいさんは、大量のSPレコードを持っていた。考えすぎだろうか。

参考サイト:京都府のHP http://www.pref.kyoto.jp

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