船橋市中野木地区をめぐって
船橋市にある中野木地区は、飯山満(はざま)の南、一つ谷津を隔てた台地下の集落であり、その南には中野木川という小さい川が流れる場所で、かつては純農村地域であった。昭和30年代には、隣接した場所に前原団地が作られて、新住民も大量に移入し、中野木地区も宅地化が進んだ。今はJR東船橋駅まで歩いて10分ほどとなり、バスでは津田沼にも、駿河台あたりからは船橋にも簡単にでることができるため、住宅密集地帯に変貌した。
この中野木地区は、それなりに大きい前原地区と飯山満地区に挟まれているが、どういう成り立ちなのか、あまり考えたことがなかった。船橋の地名の歴史について書いてある『ふるさとの地名(改訂版)』(船橋市史談会)によれば、飯山満の枝郷のような位置づけらしい。そもそも、中野木という地名自体が、「のぎ」「のき」は侵食崖を意味し、「谷の中ほどの急傾斜地」ということでつけられたというのが通説であるが、はっきりしない。字面だけでは、どこかの中ほどの木のある場所になるが、飯山満と前原の中ほどという意味か。
実は飯山満は中世に起源をもつ集落であり、飯山満城跡あり、光明寺という中世以来の寺院ありで、南北朝期である康永4年(1345)在銘の板碑なども存在している。その他、東福寺や大宮神社など、古い寺社もある。一方、前原のほうは、その名前の通り、「飯山満の前の原」というように、飯山満より新しく、成田街道沿いに成立した近世の新田村落というのが一般的で、上東野新助という武士出身者が草分けになって延宝年間に開発されたということが分かっている。ただ、上東野新助の先祖がいた札場(高札場であったことに由来する地名)には、豊臣時代からの集落があったという説もあり、多少起源を遡る可能性もある。前原には上東野新助らによって御嶽神社が鎮守とされたが、同時に古くからの寺がなく、それでは困るので道入庵というものが作られた。道入庵の境内には、前原新田の開墾の由来を刻した延宝3年(1675)造立の地蔵がある。
小生、このあたりはよく知った土地であり、中野木も昔から知っているが、その歴史を考えたことはほとんどなかった。今より木が茂って暗かった墓地の一角に地蔵があって、その墓地は夕方以降はちょっと怖いので走って通り過ぎたこと、畑に縄文土器のかけらがよく落ちていたことは、37年ほど前の記憶であるが、今でも鮮明に覚えている。畑には、泥面子といわれる土製の玩具も、よく落ちていて、それを拾ったりした。
<中野木の地蔵>
墓地にある地蔵は、「念佛講中」「天明六丙年十月吉日」とあり、地蔵のもつ杓杖に赤ん坊がしがみついたような状態で、地蔵の顔がそれを見つめて、すこし傾げている。天明6年(1786)は天明の大飢饉のさなかで、農村が疲弊した時期に相当する。その際、当地でも子供も含めて、多くの住民がなくなったのだろう。だから、この地蔵も、それに関係していると思うのである。
この中野木集落がいつできたのか、小生にはよく分からないが、享保年間の墓など石造物があるため、280年くらいはたっているのであろう。ちょうど、墓地の一角に出羽三山の石碑があって、その前に馬頭観世音の石像があるのだが、その建立が享保20年(1735)であった。
この土地の産土は、八坂神社である。小さな神社で、社務所などもない。神主は、三山の二宮神社の神官が兼ねているとのことである。しかし、中野木には歴史的な建造物も、八坂神社以外はないのだろう。寺は小生の知る限り、存在しない。おそらく、中野木の人は飯山満のどこかの寺の檀家になっているのであろう。
<出羽三山の石碑など>
その成立は飯山満の枝郷とすれば、やはり江戸時代の享保年間以前に、飯山満の次男、三男が分家するなどして、中野木を開墾し、農地を開いたのではないかと思われる。それで、暮らしやすい台地下に集落を形成したのだろう。制度上は明治の中頃までは、中野木は上飯山満村の一部であった。今は農村の面影はあまりなく、かつての畑地にはマンションがたち、田はなくなり、台地の上も下も住宅地となった。
わずかに八坂神社やその年中行事に、かつての集落の姿をとどめている。
<八坂神社>
八坂神社の創建も、集落がいつできたか正確に分からないように、明確なところは分からない。それほど後にできたとも考えにくいし、御神体を入れた箱に「文久三年改築」とあったといい、文久3年(1863)には存在していたらしい。集落ができてから、勧請されたとすれば、創建は享保年間とか、江戸中期に多分間違いないだろう。この小さい社には、誰が彫ったか、結構立派な彫刻がほどこされている。
<八坂神社社殿の彫刻:側面>
ぐるり取り巻く彫刻には、若者(孟宗)が筍を掘っているものがあったり、廿四孝の説話を表現しているそうだ。
<八坂神社社殿の彫刻:上部>
社殿をぐるりと彫刻がとりまくが、正面頭貫の木鼻には獏もしくは象が鼻を伸ばした姿、虹梁の木鼻には獅子が、また頭貫の上には龍が丁寧に彫られている。
この八坂神社の境内には、富士塚がある。木の根が張って、一見塚と気づかないが、上に石碑などもある。塚の上の石祠に何と彫られているか見たが、判読できなかった。富士塚を研究している人から見ると、船橋市域の富士塚はお椀を伏せたように形が良いらしい。しかし、小生にはどの塚も同じように見える。
<八坂神社境内にある富士塚>
なお、この写真を撮ったときに、変な光が入ってしまったが、以前から何気なく撮った写真に大きな球体が写っていて困ったこともある。神社や城跡などを写すと、よく出てくるし、先日豊川海軍工廠の火薬庫跡を写したら夥しい光の玉が写ってしまった。人魂だとおどす身内もいるが、単なる光線のいたずらであることを祈る。
それはともかく、この八坂神社の年中行事で、2月の最初の午の日、つまり初午の日に、ワラで作った大蛇を集落の東西に掲げるというものがある。これを称して、「辻切り」という。こうした風習は、千葉県各地に見られ、同じ船橋市でも楠ヶ山にもあるし、市川市国府台や佐倉市井野にもある。
これは、船橋市指定文化財(無形民俗文化財)に指定されている。「辻切りは悪霊や悪疫が村内に入って来ないように願う行事で、中野木では毎年2月の初午に行われています。鎮守の八坂神社に集まり、東西2組に分かれ、大蛇を1匹ずつ作製します。完成すると長さ5m程になる大蛇は本殿前にとぐろ巻き、向かい合わせに据えられ、御神酒を飲ませます。直会(なおらい)のあと、東西それぞれ4〜5人で大蛇をかかえ、集落の南西と北東の道路脇の立木に巻きつけます。」(船橋市のHPより)ということで、面白いのは、大きな蛇だけでなく、各住居の入り口にも小さなワラ蛇を掲げていることである。これはほかの地域にはないかもしれない。
<各住居の門に掲げられたワラ蛇>
このワラ蛇は、何かユーモラスな表情である。
地域の伝統がすたれつつある昨今、こうした風習が、船橋の市街地に近い場所にも残っているのは、重要であると思う。
参考文献:
『ふるさとの地名(改訂版)』 船橋市史談会
『船橋歴史風土記 』 綿貫啓一著 崙書房
| 固定リンク
コメント
大変参考になりました。
当該の八坂神社近傍に最近引っ越してきたものです。
強度の歴史を理解することができました。
丁寧な解説、ありがとうございました。
投稿: | 2010.09.19 16:55