東葛地方で中世城郭発見か
かねて、中世城郭を調査していた東葛地方の某市において、先日千葉県文化財関連の研究者某氏と某市学芸員の方、および言い出した地元の方と郷土史研究の方々とともに、その中世城郭の遺構らしきものの踏査に行きました。
主郭と思われる郭は台地上にあって、一辺が40mから50mほどの方形であり、土塁、空堀、虎口、土橋を備えています。虎口は北にむいて開き、西側が入江状の低湿地を望む場所にあって、縁辺の土塁の下は切り岸か急になっていて、台地中腹に腰郭らしきものがあります。
<主郭らしき郭の周りを取り巻く空堀と土塁>
主郭らしき郭の東側の空堀は深く、人の腰ほどもありますが、落ち葉などの堆積を考えると、実際は3mとかあったかもしれません。
正確に計測はしていませんので、詳しい数字が出ていませんが、主郭はほぼ正方形に近い形と思われます。
西側は竪土塁のようなものを残して、切岸があり、腰郭状になっている平場の北側にさらに土橋があって、小さな郭(物見用か?)と連絡しています。土橋は比較的高く作られ、人が一人通るのがやっとというような幅しかありません。小さな郭の北側にはさらに溝がありますが、それが竪土塁に付随する空堀のあとか、近世以降に作られた溝または道路かは不明です。
<土橋は一人通る幅しかない>
主郭らしき郭の周囲を取り巻く土塁は比較的しっかりしていて、幅が1.5mほどはあり、上に乗って歩いてもびくともしません。版築構造になっているのでしょう。ぐるっと土塁の上を歩くと、最初入ってきた虎口の場所に出ます。
一応ここは『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書』にも出ていますが、「消滅」扱いになっています。これは新年早々に新発見かな。
<土塁の上をいく>
小生の推理では、西側にある池を伴う入江状の低湿地は、中世にはもっと広範囲に水をたたえた場所で、船着場あるいは船隠しがあったのではないかと思います。
多分、この城もその船着場を利用して、水運によって手賀沼、印旛沼(印旛浦)とつながり物資を移動させていた勢力が船着場を守るためにつくったか、何かと思います。
虎口が平虎口で、腰郭や切岸以外に目立った防御設備がないことから、戦国初期以前の城跡かもしれません。
なお、近くには塚もあり、ほかに土塁もありますが、城跡との関係などは不明です。というより、城跡の主や、近くにある城跡との関連も不明です。
文化財関連の方からは、正確な位置を確認し、縄張り図を描くように指導がありました。小生縄張り図が苦手でありますが、この際下手でも協力せねばならないようです。
(「古城の丘にたちて」外伝より転載)
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