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2009.02.23

東葛地方で中世城郭発見か(続々報)

中世城郭発見というと、まったく新しい城を見つけたように聞こえるので、正確に言えば、なくなったと思われていた城跡があったということである。なぜ、なくなったとされたのか、小生にはその経緯は知る由もない。ただ、あったという確認をして、場所を特定し、縄張り図をかくために測量をしてきたのである。前回申し述べた通り、この城の主郭は東の隅を頂点とし、西側は円弧を描く、扇のような形であって、西側は低地に面し、いわゆる弧状塁線からは低地に侵入した敵に矢を広角で射掛けられる。

<主郭の土塁>

Shukakudorui

弧状塁線の下の斜面は切岸で削られ、腰郭があるのだが、その腰郭も大きく二つあって、西側の腰郭は25mほどの長さがあり、思ったより大きい。そして、その腰郭から、もう一段小さな腰郭が開いている。こういう、入れ子構造の腰郭は、初めて見た。その腰郭のさらに西の斜面上には小さな郭があって、その郭は物見があったと思しき細長い郭と主郭をつなぐ役割をしている。これを小生は副郭と呼んでいるが、主郭より副郭は低くなっていて、細長い郭とは段切によって仕切られている。

副郭の北西側は主郭の土塁がのびているが、その反対側には土塁らしきものは見当たらない。本来なかったのか、削られたかであるが、現存する土塁は蔀土塁として、城内を敵に見せないためのものか。また副郭のなか、主郭のなかは、ともに、縁辺部より少し低くなっている。これもなるべく城の中を見せまいとする工夫であろう。

副郭に接する、細長い郭は、はじめ一つの郭であると思っていたが、藪のなかを調べると、堀と土塁で仕切られ、二つの郭に分かれることが分かった。つまり、山城でよくあるような連郭式の状態で、3つの小さな郭が並んでいるのである。低地からこの副郭の方にはいる虎口は、副郭とその隣の小さな郭の境界近くにあり、低地へは土塁が10mほどものび、その土塁を伝って下に下りることができる。その虎口は、あまり明瞭ではないが、枡形虎口のようであり、主郭に入る虎口が平虎口なのに、なぜ下の造作のほうが技巧的なのか、よく分からない。

なお、細長い郭は、現状が細長くなっているのでそう呼んでいるが、実は南側が破壊されていることが分かっており、本来の形と違うかもしれない。それにしても副郭は本来の形であり、それから類推するに、城全体は大きな扇形の開いた部分の一方から、細長い半島状の郭が伸びているという変わった形で、扇の開いている部分の下には、腰郭が二つある。

<崖下低地より主郭を見る>

Teichiyabukara

これは、想像であるが、もともと台地上に中世の土豪の居館か何かあって、戦国時代の後半にそれを改変して、防御を固めたのではないかと思う。その防御も、おそらく船着場があったであろう、入江状の谷津に面した部分に重点が置かれているようである。

なお、前回、「自然地形以外にいくつか井戸状のものがあって、城の遺構なのか、近現代で耕作か何かの都合で作られたものか判別がつかない。腰郭下の状態については、何かしたかどうか、地主に問い合わせてもらっているが、江戸時代に何かしたということなら、見当がつかないだろう。」と書いたが、その後地元の城探索の言い出しっぺの方に、その親戚である地主に確認してもらったところ、昭和17年(1942)頃に軍隊がその場所で馬を20頭ほど飼っていたとのことで、その改変があったかもしれない。

低地には副郭と細長い郭の境目から出ている土塁、細長い郭から出ている土橋状の土塁(坂土塁)と大きく2つの土塁があり、いずれも途中で切れているように見えるが、それがもしのびていたとすれば、いびつであるが方形となる。

その方形の場所は、平坦であり、その下は湿地で現在でも水が湧いている場所がいくつもある。なにか、土塁で囲んだところに建物があって、水辺(あるいは、そこには船着場があったかもしれない)が、すぐ近くにまで迫っていたのだろう。

<低地にある土塁を上から見たところ>

Sitanodorui2

すると、屋敷が台地下にあって、上の城の主郭と、下の土塁から副郭に通じる虎口を経由して、連絡していたのだろうか。

城の輪郭が、大体明らかになってきたので、細部の探索は別の機会として、誰が何のために築城したのか、今後はそちらを考えていくことになるが、縄張り図を仕上げて県や市の関係者と相談しようと思っている。

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2009.02.15

東葛地方で中世城郭発見か (続報)

前回、掲載した中世城郭を測量し、縄張り図をかきつつあるが、方形居館形式と思っていたのは誤りで、東の主郭の隅を頂点とし、西側は円弧を描く、扇のような形と判明した。

すなわち、西側は低地に面し、いわゆる弧状塁線をもった城ということになる。これは武田氏の丸馬出しと同様のつくりであり、低地にはいった敵に少ない人数で矢を射掛けられるという軍事的な利点をもっている。弧状塁線の下の斜面は切岸で削られ、下には削り残した竪土塁で仕切られた腰郭があり、さらにその下は自然地形以外にいくつか井戸状のものがあって、城の遺構なのか、近現代で耕作か何かの都合で作られたものか判別がつかない。腰郭下の状態については、何かしたかどうか、地主に問い合わせてもらっているが、江戸時代に何かしたということなら、見当がつかないだろう。

そのほか、主郭の西側に一段低く小さな副郭があり、さらにその東側には半円状の腰郭があるのがわかった。副郭からは南に細長い郭があり、その細長い郭とは段切で仕切っている。また細長い郭の先端近くに土橋状の土塁あることは、前回書いたとおりであるが、副郭と細長い郭の境界から5mほど南にいったところから土塁が低地にのび、その土塁を伝って下に下りることができることが分かった。つまり、そこにも虎口があったようである。

<西側の腰郭>

Kosikaku 

低地には横堀があるが、細長い郭から下に続く、土塁の先がきれていて、本来長く続いて下でも郭があったのか、もともと短い土塁なのかがよく分からない。井戸のような方形の窪地が何箇所かある。まさか障子堀ではなかろうが、なにせ、藪がすごく、腰郭辺りから、誰かが指揮して、数人で手分けして調べるとかしないと、全貌が掴み難い。

<土橋状の土塁を上から見たところ>

Dobashi

これは結構難物かもしれない。細長い郭は先端が少し低くなるが、台地の立ち上がり箇所にあって、遠く川のほうまで見渡せるので、櫓でも組んで物見としたかもしれない。とにかく、やたら低地からの侵入に警戒した作りになっている。

つまり、当初考えていた単純な地侍クラスの丘城ではなさそうである。もしかしたら、小田原北条氏関連か。

家でいえば、一階と二階と中二階があって、二階が半分円形になっているようなもので、小さいけれど、構造的にも面白い城である。

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