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2009.04.25

成田街道近辺の札場集落と成田道道標

成田街道は、言うまでもなく、中世以来の佐倉道をベースに発展した街道で、江戸と下総地方を結んで物資流通や人の往来のインフラとなった。特に、成田山新勝寺は、元禄以降の江戸深川への出開帳による布教活動と「成田屋」で有名な歌舞伎役者市川団十郎の「不動尊利生記」の上演によって、江戸庶民にも広く知られるようになり、庶民の遊山地として成田山不動詣でが行われた。

<初詣でにぎわう成田山新勝寺>

Naritasan

成田街道が東金街道から分岐する場所は、津田沼駅前十字路から西に東金街道沿いに進み、JRの線路をくぐって、しばらく行ったところにある。その分岐点あたりに、札場という古い集落がある。

この札場という地名は、高札場であったということから来ており、一説によれば、江戸時代以前の豊臣秀吉時代に集落として成立したというから古い地域である。そこに、安永6年(1777)建立の成田道道標がある。

<成田道道標(右)と庚申塔>

Naritadouhyou1_maehara

前原のほうは、その名前の通り、「飯山満の前の原」というように、飯山満より新しく、成田街道沿いに成立した近世の新田村落というのが一般的で、上東野新助という武士出身者が草分けになって延宝年間に開発されたということが分かっている。ただ、上東野新助の先祖がいた札場(高札場であったことに由来する地名)には、豊臣時代からの集落があったという説もあり、多少起源を遡る可能性もある。 船橋市史談会の「史談会報」第11号にあった「上東野新助ノ事蹟」によれば、以下の通りである。

上東野新助ノ事蹟

一 前原新田ノ創設

前原新田八千葉郡二宮村ニアリ、東葛飾郡船橋町二境シ、文禄三年新助ノ先代上東野為右ヱ門ノ創設ニシテ、元下総国葛飾郡二属シ、船橋、谷津、久々田、藤崎等近郷四ケ村ノ入会草刈場ナル前原ト称エタル原野ナリシヲ、享保五年千葉郡二編入セラル、抑モ上東野為右ヱ門ナル者ハ、上東野蔵人ノ子ニシテ(為右ヱ門ノ高祖ハ此地ノ庄司上東野和泉守信義ニシテ、ソノ子上東野左ヱ門信康大永元年前原二来り長子蔵人此地二生ル、蔵人年長スルニ及ンテ父ト共二源家顕国公二助勢シ、所々転戦シテ大功アリト云フ)、其家ノ由緒(高祖信義ハ清和天皇ノ裔ニシテ信洲十郡ヲ賜フ、其外上洲吾妻郡、越後国頚城郡・魚沼郡、武洲二郡、下総国葛飾郡外壱郡領知)ニ依リ、文禄三年時ノ将軍ヨリ改メテ郷圭二取立、此地支配仰付ラル、是ニ於テ為右ヱ門ハ殖民ヲ起画シ、原野ヲ開発セシメ、漸次移民増殖シテ一村ヲ創設セリト云フ                  

二代目為右ヱ門ハ元和元年父ノ家督ヲ相続シ前原二住居、其地支配仰付ラル、三代目為右ヱ門ハ寛永六年時ノ将軍ヨリ御用掛仰付ラル、延宝元年此地浩漠耕スヘキヲ看テ以謂ラク、良地千里荒蕪二委スルハ固ト造物ノ意二非ス、我輩太祖以来此地ヲ支配ス、不拓ノ責亦夕遁ルヘカラスト奮然官ヲ去り名ヲ新助ト改メ、名主四郎兵衛、年寄甚左ヱ門、三郎兵衛等二談スルニ、新田開発ノコトヲ以テス、彼レ等歓喜之ヲ賛シ開発スルニ及ンテ、爾来前原ヲ前原新田ト称シタリ

二 新田開発

新田開発八時ノ代官伊奈左門殿二出願シ、反歩千五百町二米三拾五俵宛運上二差上、又御林六町余(元前原新田字島田官林)ヲ取立御忠節二差上、延宝元年十二月許サレテ開発二着手ス、新助出費ヲ掌リ元〆ト為テ監督シ、気ヲ鼓シ精ヲ励シ、棘荊ヲ払ヒ蒙茸ヲ披キ、火ヲ熾り野ヲ焼キ、階ヲ設ケ疏ク、之ヲ新田開発ノ始メトス、仝四年御検地ヲ出願シ、既二此地二於テ五十五町ノ新田ヲ開発ス、御検地二依り定マル総反別左ノ如シ

ー、下畑百三拾壱町壱反三畝十六歩
 分米六百五十五石六斗七升七合

一、屋敷弐町五反五畝十八歩 
  分米拾七石ハ斗九升弐合

二口町歩〆百三拾三町六反九畝四歩
 分米六百七拾三石五斗六升九合  

三 農事奨励

新助ハ人二信仰心ノ必要ヲ説キ、殊二農業者ハ庚申ヲ尊崇スベシト勧誘シ、延宝五年庚申ヲ祭リ、庚申ノ日ヲトシ庚申待ト称シ、開墾二従事セラレタル者ヲ会シ、饗応シテ且ツ農談ヲナシ農事ヲ奨励セシト云フ ニ代目新助モ父ノ志ヲ継ギ益々カヲ開墾二用ヒ、而シテ庚申ノ講ヲ結ヒ村人ノ親睦ヲ図ル、其長子藤四郎モ亦タ父二做ヒ、享保、寛保、宝暦等ノ年間二於テ、庚申ヲ石二彫シ建立セシムルコト百余二シテ、村人ノ勉励心ト公徳心等ノ函養二努メタリ

(以下略)

旧家の先祖書きにありがちな、先祖の事蹟をやたら誇大に書くという面もあるし、明らかな間違い(たとえば文禄年間に将軍はいない、「郷主」という役目もない)もあるので、どこまで信用できるか疑問もあるが、延宝年間の新田開発は他にも金石文もあり、間違いない。しかし、江戸時代以前の文禄3年(1594)にも、新田開発をしたとこの文書は書いている。新田開発がいつから行われたかといえば、戦国時代からであるらしい。それは合戦や人口増加で、食糧の確保が大きな問題となったからでろう。

<成田街道(習志野空挺隊附近)>

Naritakaido

江戸周辺で、新田開発が活発に行われるようになったのは、江戸時代初期からであろうが、文禄年間になかったわけでもないだろう。すでに関東の覇者は小田原北条氏ではなく、徳川家康になっていた。太閤検地は、天正検地が行われ、文禄年間にも文禄検地も行われて、農業生産力が合理的に把握されるようになり、あわせて荒蕪地の農地化、治水などの農業工事も進められた。

この「上東野新助ノ事蹟」によれば、従来新田を開発したとされる上東野新助は、最初為右ヱ門と名乗り、その先々代の為右ヱ門が存命であった文禄3年(1594)の頃に「此地支配仰付ラル、是ニ於テ為右ヱ門ハ殖民ヲ起画シ、原野ヲ開発セシメ、漸次移民増殖シテ一村ヲ創設セリト云フ」とある。

最近の研究で、天下井恵氏が元禄6年(1693)の絵図などを参考にして、前原でも札場集落については、延宝以前に成立していたという見解を述べておられる。

また、前原の旧家は、ことごとく成田街道附近、あるいは成田街道沿いの集落にあって、東金街道沿いなどには存在しない。しかも、旧家のうち、いくつかは「小田原から来た」、「先祖は武士であった」という伝承を持っている。

つまり、前原の旧家のうち、「加東野文書」で前出の「名主四郎兵衛」が地蔵窪(現在の道入庵付近)に屋敷があった天野四郎兵衛で、天野家が摂津国にルーツがあり、江戸で商人をしていたことが分かっているが、天野家以外の旧家で、小田原北条氏の家臣だったものが何軒かあったのではないだろうか。

加東野氏については、「加東野文書」の先祖書きはあまりに荒唐無稽であるために、信じがたいが、名前は合っているならば、上東野為右ヱ門の前の上東野蔵人という名前からして、武士の出身であり、蔵王権現を御嶽神社に勧請していることから、金峯山、葛城山の近くの出身ではないか。つまり上方の武士出身者ではないかと推測する。これは、前原から東に東金街道をすすんだ習志野市大久保に、市角頼母という上方の武士出身者が大阪の陣の後に上方を退転して、大久保まで来て草分になったと伝承されるのと、同じようなケースかもしれない。

そう考えると、帰農した加東野氏や小田原北条氏の家臣たちが草分けになって、文禄年間に前原の一部、札場集落を作ったのではないかという仮説もなりたつだろうか。

前述の道標には「右なりた道」と刻まれ、上部に剣を持った不動明王が彫られている。その道標の向かって左の側面には「願主 日本橋 左内町 和泉屋甚兵衛」とある。江戸時代の中期には、江戸と船橋、成田などの交易は活発化し、成田街道は大いに使われたのであろう。

<道標の上部に彫られた不動明王像>

Naritadouhyou3_maehara

この道標は、四角い石柱上に不動明王が載っている。不動明王は、言うまでもなく、成田山の象徴である。しかも、浮き彫りではあるが、かなり深く彫られており、重厚な感じである。火炎を背負った坐像であり、剣と羂索を手に持っている。

<道標とならぶ庚申塔>

Naritadouhyou2_maehara

道標の横には、札場の庚申と呼ばれる、庚申塔が並んでいる。石塔に笠がかぶっているものやそうでないものなど、さまざまである。享保、寛保などの造立年代も、ひとつずつ違う。

<さまざまな庚申塔>

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附近には、やや新しい道標で、「左成田山道」と刻んだものもある。
これは、明治12年に成田山信徒達が造った道標。ちょうど、東金街道と成田街道が分岐する所に立てられているが、これは東京から成田に参詣する人が、最初に船橋で一泊し、ここまで来て左へ成田山に向かったことを示している。前述の道標が、「右なりた道」とあるのと、向きが逆である。

<成田山道の道標>

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参考文献:「史談会報」第11号 1989年 船橋市史談会

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2009.04.18

ああ武豊線

武豊線は愛知県知多半島の武豊から北をはしるJRの路線であり、一応大府までなのであるが、朝などは通勤用に名古屋への直通電車も走っている。武豊から、大府までの駅は、武豊―東成岩―半田―乙川―亀崎―東浦―石浜―緒川―尾張森岡―大府と10駅のみである。

小生は、武豊線にはもっぱら東成岩駅から乗るのであるが、それは会社の正門が駅から歩いて1分という立地であり、車を会社の駐車場において出かけることができるためである。以前、といっても27年も前頃は、名鉄の知多武豊駅の駅前に無料の駐車場があり、名古屋などに出かける場合には、そこに車を置いていた。しかし、その駐車場は何年も前に廃止され、今は有料の小さな駐車場があるほか、武豊町役場の駐車場が金曜日の夜から日曜日まで開放されているが、土曜日、日曜日には朝早く行かないと満車になってしまう。

この東成岩駅は、かつては有人駅で、小生が会社に入って転勤によって、最初に知多に配属となった昭和57年(1982年)頃は、まだ二人くらい駅員さんがいたと記憶している。今でも駅舎の庭にセメントでつくったような花壇があるが、それは駅員さんがいたころのものであろう。今は乗降客が多いものの、乙川などと同じように無人駅である。

<東成岩駅>

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武豊線というように、武豊港に揚げられた荷物を名古屋方面に運ぶというのが、貨物としては明治19年(1886年)の開業当初からの目的になっていたらしい。しかし、武豊駅は、当初今の場所ではなく、国道の里中交差点付近にあった。どうも、里中のあたりから、道沿いに細長い空き地があり、廃線跡ではないかと思っていたが、そのとおりであった。

何気なく乗降していた武豊線であるが、明治19年(1886年)の開業という古い歴史をもっており、駅舎などの設備にも歴史的なものがある。開設にあたっては、測量はイギリス人顧問のウイリアム・ヴィッツから助言をうけ、鉄道技術については技師長ボイルの指導も仰いだ。当初鉄橋材料は、日本国内では調達出来ず、イギリスから輸入しなければならなかったという。しかし、開設当初苦労して誕生したにも関わらず、その後の飛躍的発展はなく、いまだに単線、しかもディーゼル車が走っている。単線のため、上下線は決まって緒川駅ですれ違うことなる。こんなローカル色が強い路線は、全国的にも珍しい。

武豊線の年表(Wikipediaより)

1886年(明治19年)3月1日 - 武豊 - 熱田間が開業。開業当初の通称は半田線。現在の武豊線にあたる区間に緒川駅(初代)、亀崎駅、半田駅、武豊駅開業。
1887年(明治20年)9月10日 - 緒川駅(初代)廃止。大府駅開業。
1888年(明治21年)9月1日 - 東海道線浜松 - 大府間が開業し、大府 - 武豊間(12M53C18L≒20.38km)は東海道線の支線となる。
1889年(明治22年)7月6日 - 営業距離の単位をマイル・チェーンのみに簡略化(12M53C18L→12M54C)。
1892年(明治25年)6月1日 - 武豊駅が現在地に移転、53C(≒1.07km)短縮。
1895年(明治28年)4月1日 - 線路名称制定により東海道線の一部となる。
1900年(明治33年)3月1日 - 緒川駅(2代目)開業。
1902年(明治35年)11月12日 - 営業距離の単位をマイルのみに簡略化(12M1C→12.0M)。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定、大府 - 武豊間が武豊線となる。
1915年(大正4年)2月15日 - 武豊駅構内扱いで武豊港まで路線を延伸。
1930年(昭和5年)4月1日 - 営業距離の単位をマイルからメートルに変更(大府 - 武豊間 12M→19.3km)。貨物支線 武豊 - 武豊港間 (1.0km) が正式に開業。旧武豊駅の場所に武豊港駅開業。
1933年(昭和8年)12月7日 - 尾張森岡駅、尾張生路駅、乙川駅、東成岩駅開業。
1934年(昭和9年)8月22日 - 藤江駅開業。
1942年(昭和17年)3月31日 - 東成岩駅休止。
1944年(昭和19年)11月11日 - 東成岩駅再開。尾張森岡駅休止。尾張生路駅と藤江駅を統合し東浦駅開業。
1957年(昭和32年)4月15日 - 尾張森岡駅再開。石浜駅開業。
1965年(昭和40年)8月20日 - 貨物支線 武豊 - 武豊港間 (1.0km) が廃止。武豊港駅廃止。
1984年(昭和59年)1月10日 - 東成岩 - 武豊間の貨物営業廃止。
1984年(昭和59年)2月1日 - 荷物輸送廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により東海旅客鉄道が承継。日本貨物鉄道が大府 - 東成岩間の第二種鉄道事業者となる。
1992年(平成4年)10月12日 - ワンマン運転開始。
2001年(平成13年)2月11日 - CTC化。
2006年(平成18年)11月25日 - 全駅にTOICA導入。ただし、大府駅以外の駅は簡易TOICA改札機であり、一般の磁気乗車券を処理するいわゆる自動改札機は大府駅以外の駅には設置されていない。

小生武豊駅には、たまに歩いて駅まで乗車していた。また、遠距離切符を買う時には、武豊駅か、半田駅にいくしかない。だから、武豊駅、東成岩駅、半田駅は、とくに身近な駅である。 武豊駅の一段高い入口付近には自動車も上がれるのである。それは自動車で家族などを送迎するために、そういう構造になっているのだが、さすがに車で乗り付けて、そのまま電車に乗る人はいない。

この武豊駅には、「高橋煕君之像」という胸像が駅の入口のところにある。昭和28年(1953)の13号台風の際に、武豊駅と東成岩駅の線路が流されたことに気付いた武豊駅の高橋煕駅員は、乗客を乗せて東成岩駅を出て武豊駅に向かう列車に対し、東成岩方面に走って発煙筒を焚いて列車を救ったが、自らは殉職した。武豊駅にあるのは、その高橋煕駅員の像である。殉職した高橋煕駅員は、「国鉄職員の鑑」と報道され、全国国鉄職員や小中学生などの募金により、像が建てられた。なお、これは銅像のように見えるが、常滑で作った陶製だそうだ。

<武豊駅~1953年の13号台風で殉職した駅員の像>

Taketoyoeki

実は武豊駅のある場所には、戦国時代に周辺の領主であった岩田氏が城を構えていた。長尾城というが、その城域は一部武豊駅の北側の一部敷地と重なっている。城主岩田氏は、武雄神社の神官を兼ねていたということであるが、京都に出自をもつらしい。城主では岩田杲貞の名が伝わっている。遺構は堀跡が多少残っている程度で、土塁などはなくなっている模様。国鉄武豊駅が出来たために、その城址の東半分が削られたが、たしかに武豊駅から電車に乗って西側をみると緑の木々に覆われた小高い台地が南北に100mほど続いており、そこに城があったのが納得できる。

最終的に、同じ知多半島の北部で力を蓄え、徐々に実力を発揮していった緒川水野氏の水野信元に、天文12年(1543)成岩城の榎本了圓が滅ぼされたのと同じ時期に攻められ、降伏している。その最後の城主は岩田左京亮安広、出家して杲貞と名乗った。

長尾城の周辺には、城に関係ある地名があるが、「上ゲ」というのも、その一つである。名鉄の駅に「上ゲ」という駅が知多武豊駅と青山駅の間にある。

<武豊の春祭りの様子>

Taketoyo

しょうもない話であるが、東成岩の成岩が「ならわ」と読めない人は、「なりいわ」と呼んでしまう。それで成岩を「ならわ」と説明するのが面倒で、小生なるべく東京などでは切符を買わないようにしていた。

成岩には成岩神社があり、その隣接した場所には鳳出観音がある。これは成岩の常楽寺の典空顕朗上人が、慶長元年(1596)、常楽寺の前身である天台宗仏性寺の観音堂を半田市有楽町二丁目の小高い丘に移したのが始まりである。鳳出観音の名前は、元は常滑の時宗の僧侶であった榎本良圓が城主をしていた成岩城を攻略するために、天文年間に緒川水野氏の勢力が築いた成岩砦に由来する。つまり、砦のきずかれた場所が「とりで山」と呼ばれ、そこに観音堂が建ったため、「とりで観音」と呼ばれるようになった。

成岩砦が対峙した成岩城は、東成岩駅をまっすぐ国道にむかって歩き、国道に突き当たった辺りの台地上にあった。しかし、現在は遺構がほとんど残っておらず、「成岩城址」と刻まれた石碑が建っているのみである。

考えてみると、武豊線周辺には、結構城跡などが多い。成岩から北では緒川城が緒川駅近くにあり、村木砦は尾張森岡駅の近くにあって、武豊線が砦跡の上を横断している。その他、乙川や亀崎の駅周辺にも小さな城跡がある。これは、中世から存在した集落を結ぶように、知多半島東浦沿いの平地を武豊線が走っているためである。

ただ、半田駅のすぐ近くには、文明、明応年間に築城されたという半田城、別名坂田城という城があったものの、城の遺構はない。ただ、堀崎、城屋敷という関連地名が残っているのみである。近くに紺屋海道という古い道があるが、染物屋が沿道にあり、商人や職人たちが往来した海岸線沿いの道である。また、紺屋海道付近の浄土真宗の順正寺には、伝来の絵像阿弥陀如来があり、それは永正10年(1513)に道場創立者宗閑法師に本山の法主實如上人から下附されたものであるが、その裏書に「尾州智多郡坂田郷」とある。その坂田郷が、「さかた」ではなく、「ばんだ」となり、「はんだ」となったのが半田の名前の由来だそうだ。

<半田駅のホーム>

Handaeki

半田駅は、さすがに知多半島の中心とでもいうべき場所を象徴して、今は少しく寂れているが駅前は広く、中埜酢店経営者の広大な邸宅も近い。駅舎の一部である跨線橋は、明治43年(1910)11月に設置された全国で最も古い跨線橋である。跨線橋の支柱には「明四十三鐡道新橋」と鋳込まれている。現在の跨線橋は、塗装が新しくされているのと、ホームにおりてきたところに手すりが付け加えられている以外は改変されることなく、原型が保たれている。通路はひと二人がようやくすれ違うことができるほど。昔の建造物の割に、階段はさほど急ではない。跨線橋とともに、煉瓦造りの油脂庫もあって、かつては信号機用の灯油が保管されていた。

<半田駅の跨線橋と油脂庫>

Handa_station_bridge

半田駅は、跨線橋以外、駅舎自体はさほど古いものではない。その隣の乙川駅も同様である。

ところが、亀崎駅については、駅舎自体が明治19年(1886)の開業当初のものであるというから、驚きである。亀崎駅は乙川駅とほぼ同規模で、逆に乗降客は乙川より少ないように思うが、ここは有人駅である。

しかも、明治19年の駅舎が、いまだに現役である。これはJRでは全国一古い駅舎らしい。ただ、120年もたっているのに、それほど古い建物という印象はなく、よく田舎で見かけるようなイメージの駅舎である。

<亀崎駅>

Kamesakieki

亀崎の北は東浦町であり、武豊線の駅も東浦、石浜、緒川、尾張森岡と続く。

その歴史を書き出すと、長くなりすぎるのでカットするが、村木砦近くの尾張森岡駅を後にして、石ヶ瀬川をこえるときに、高い鉄橋の上になる。その景色は、下の貨物路線や自動車道路を見下ろす形となり、武豊線随一の見どころかもしれない。

<石ヶ瀬川を越えたあたり>

Ishigase

大府駅で、武豊線は東海道線に合流する。大府までくると、名古屋は目前である。そして、大府駅では、刈谷、岡崎方面の乗り換えができる。大府には、郊外には工場などもおおいが、駅周辺の商店街にとんでもない古い装いの店(よろずや風)があったりする。やはり歴史の古い町である。

<大府駅>

Oobu

今では東海道線になるが、大高駅の辺りから、丸根砦のある台地が見える。鷲津、丸根の両砦は、織田勢が今川方の守る大高城に対峙するために築いた砦である。駅から、そういう歴史的な場所が見えるのであるから、なんともすごいところである。 かつては、熱田までが武豊線(半田線)の領域であったが、今は大高駅も東海道線の駅である。

<車窓からみる丸根砦跡>

Oodaka2

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2009.04.16

オープン直前、松ヶ崎城跡の整備状況

柏市の松ヶ崎城のオープン前の清掃活動に、先日行ってきました。

郭内の木が切られ、土塁や堀が表土まで露出する状態になったため、よく見渡せるようになった反面、東側の土塁など、だいぶへこんだり、損傷しているのも、よく分かるようになっていました。

写真は、「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」HPのトップにも掲げた、筆者が物見台(1号古墳)にのぼって撮った郭内の様子ですが、重機のわだちが痛々しい。

Kakunai

古墳は3基とも無事でしたが、2号墳、3号墳は、周囲に草木がなくなったため、前より大きく見えました。

そうした古墳の上にも、春のきざしが。なんと、わらび、ゼンマイの芽が出ており、タラの芽までありました。

Warabi 

柏市によって、土塁、虎口といった看板が取り付けられる予定ですが、清掃作業のときには、仮設のものでした。その他、台地縁には、木の柵が設置され、切った木も運び出される予定です。

オープン後には、4月29日に「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」の講演会が予定されており、さらに見学会も計画されています。

Hori

「古城の丘にたちて」外伝より転載

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2009.04.06

松ヶ崎城の今後に関する講演会

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会主催で、下記の講演会を行います。

松ヶ崎城は、柏市にある中世城郭です。昨年、市の指定文化財でありながら、遺構の破壊問題があり、いかに保存していくかが焦眉の課題となりました。

・テーマ:松ヶ崎城の明日を語り合う 基調講演 「これまでの松ヶ崎城とこれから」
・日時:2009年4月29日(水:祝日) 13時30分から15時30分(予定)
・場所:柏市中央公民館 集会室1,2
・講師:吉田敬氏(柏市教育委員会学芸員)
・会費:資料代程度
・問い合わせ先:久川さん方 TEL. 04-7134-8833

Matsugasakijomokei

「古城の丘にたちて」外伝より転載

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