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2009.05.21

中世の景観を残す旧沼南町藤ヶ谷

小生は、以前書いたように、もともとは単なる石垣と天守閣の名城が好きで、会社にはいって愛知県に配属となって犬山城を訪ねたり、関西では縁あって滋賀大学を何度か訪問する際に、同時に彦根城に行ったり、西の姫路城に行ってみたりしていた人間である。

初めて千葉県の城で、城跡めぐりをしたのは臼井城で、それは愛知県から戻ってきた昭和59年(1984)頃と記憶している。臼井城も、周囲に砦や支城があることはずっと知らず、当時畑だった主郭付近をうろうろ散策するだけであった。当時は、今のように駐車場がなかったので、路上に車を止めると、ほかの車の迷惑になりはしないかと思い、少し離れたお寺の駐車場に止めさせてもらったりした。

<現在の臼井城跡>

Usuijyo

臼井城の主郭の周囲でも、土塁の上に太田道灌の弟である太田図書の墓があったり、臼井城に隣接する、円応寺には幼い臼井興胤を志津氏からまもって戦ってなくなったという岩戸五郎の「供養碑があって、臼井城跡からは眼下に印旛沼を望むことができた。その後、関西に転勤になり、千葉の城にはしばらく行かなかったのであるが、平成となって神戸の震災前に帰ってくると、また城めぐりを始めたのである。

そのころには、臼井城だけではなく、自宅周辺のより身近な、また余り知られていない城もまわってみるようになり、その過程で船橋市が発行した報告書などを読み、初めて「横矢掛け」などという言葉を知るにいたった。船橋市以外では、お隣の市川市、八千代市、千葉市の西側の幕張方面に時々出かけて行った。

船橋には十五くらいの城跡がある、またはあったという。しかし、現存する城跡で、ある程度まとまった遺構が残っているのは、夏見城、高根城、金杉城くらいであろうか。楠ヶ山館が以前はほぼ完全に残っていると言われていたが、どこまで戦国時代の遺構で、どこからが江戸時代の屋敷跡なのか判別つきにくく、防御施設がほとんどないことから今では疑問視されている。

その船橋の城跡で、もっとも北にあるのが小野田城跡。これはどうも里見氏に関係しているのか、安房神社が近くにあり、その神社境内に土塁が残存している。そこまで北上すると、今度は国道16号線を通って、小生西に向かったのであるが、現在柏市になっている旧沼南町で実は初めて城跡を調べたのは大井で、その後対岸の戸張、さらに高柳のほうに足を伸ばした。

国道16号線をある日、途中旧沼南町で降りて歩いてみた。そこは藤ヶ谷であったのだが、広い道の端に車をとめ、周囲を歩いたのだが、実にのどかな光景が広がっていた。集落は台地下から台地にかけてあり、台地下の低地は谷津となって、そのだいぶ向こうにまた台地があった。そのとき、たしか、犬を連れたおじさんが散歩していたのを覚えている。

あるいは、この風景は中世ではどうだったのか。谷津田の向こうには寺堂があり、集落には農耕に従事する人々がいて、あるいは犬も飼われていたか。

<藤ヶ谷風景:今はかつての谷津田が畑になっている>

Fujigayata

ずっと、長い間、気まぐれで16号線を降りて沼南のどこかを歩いたことは忘れていたのだが、先日藤ヶ谷の持法院に行ってみようと思い立ち、行ってみるとまさにその場所が以前気まぐれで歩いた場所であったのである。

この藤ヶ谷は、手賀沼に注ぐ金山落としの左岸に位置するが、中世には金山落としの西が相馬郡、東が印西外郷と、はっきり分かれていた。

手賀沼周辺の相馬御厨があった地域は、千葉常胤の叔父常晴がおさめていたという。千葉常胤の父常重は、その常晴から天治6年(1124)に相続し、大治5年(1130)に伊勢神宮に寄進するが、公田官物未納を理由に国守藤原親通に取り上げられ、その後源義朝、源義宗が相馬郡を領有した。千葉氏は、その相馬領を復活させるために、いろいろ手をうったが、再び千葉氏が相馬郡を領有するのは治承4年(1180)の頼朝挙兵後である。

<藤ヶ谷にある持法院>

Fujigaya_jihouin

千葉常胤から次男の相馬次郎師常が相続した以降は相馬氏が支配し、相馬氏は奥州と下総の二流に分かれた鎌倉末期の後も下総相馬氏は罪科に処せられたものの、南北朝期から室町期、戦国初期まで下総相馬氏の宗家は当地に残っていたと思われる。しかし、相馬氏の主流は奥州相馬氏であり、下総に残った一族でも守谷を本拠とする相馬氏が勢力を保っていた。

その庶流であろうか、藤ヶ谷城の城主であったのは、相馬氏と伝えられる。高城氏関連の古文書に出てくる「藤ヶ谷修理」なる人物も、相馬一族であろう。それが地名を名乗ったものと思われるが、戦国末期には相馬胤吉という人がいて、高城氏とともに小田原参陣をしたらしい。その相馬胤吉ら、当地の相馬氏の菩提寺としたのが、登慶山如意輪寺持法院である。

小生が持法院に行ったのは、手賀沼周辺の歴史で、あるテーマについて調べているのであるが、そのなかで藤ヶ谷の相馬氏の動向を知る必要があったからである。

実は藤ヶ谷には今も相馬さんというお宅が何軒かあるが、そのお宅もまた藤ヶ谷城主の一族の子孫であろう。その相馬氏の家老は、勝柴氏であるが、家老の子孫といわれる勝柴姓のお宅も当地にはある。

<持法院の観音堂入口>

Fujigaya_jihouin2

持法院の開基は相馬忠重といわれるが、あくまで伝承である。ただし、藤ヶ谷の薬師堂からは相馬忠重と同時代の貞治3年(1364)年建立の阿弥陀尊板碑が出土しているので、あるいはその頃の開創かもしれない。

持法院は、この周辺によくありがちな質素な堂宇で、赤い門と庭にさるすべりが植えられているのが目立つ位であるが、本堂の手前を北の台地にあがった場所に観音堂と墓地がある。その長い階段を登った先にある観音堂には、千葉介常胤が寄進したという如意輪観音像が安置されている。その観音については、千葉常胤の霊夢云々という由来があるが、それはあくまで話である。

<観音堂>

Fujigaya_kannondou

柏市のHPには、以下のように書かれている。

「登慶山如意輪寺持法院の観音堂に安置されている尊像で、通常は非公開の秘仏です。尊像は、立て膝をして頬に手を触れる半跏思惟のポーズをとる、 戴冠六臂の木彫坐像です。白龕は水晶、目は玉眼で彩色はありません。これに対し、台座と二重円光の光背は金箔であるため、 元来尊像とこれらは別物であったと思われます。
むかし鎌倉時代に鎌倉で造られた如意輪観音像を登慶坊が相馬氏の領地である現地へ持参して祀ったのが寺の創建縁起となっています。 しかし、現存する観音像は、中世末期から江戸時代初期ごろの作品といわれています。」

なお、墓地の一段高くなった場所には、これも相馬氏に由来するのか、平将門の供養塔があった。供養塔の脇に、その関連の句碑まで建てられている。

<平将門の供養塔>

Fujigaya_masakado

なお、肝心の藤ヶ谷城であるが、あまり確たることが言えないので、ここで書くのは差し控えたい。いくらか遺構もあるようだが、集落と国道16号によって亡失した部分が多く、調べた結果は後日に報告したい。

参考サイト:

柏市HP(柏の文化財)

http://www.city.kashiwa.lg.jp/cityhall/sosiki/B_SYOG/SYOG_BNK/bunkanavi/KashiwaBunka/contents/shitei/y_nyoirin.htm

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2009.05.02

徳川家康と知多半島(その34:「三州錯乱」と家康の自立)

今川義元の死後、知多半島で今川方となっていた諸将は織田方になり、松平元康、のちの徳川家康も大高城から岡崎に戻って、

駿河衆、岡崎之城ヲ明て退キケレバ、其時、捨城ナラバ拾ハント仰有テ、城へ移ラせ給ふ。」

と三河物語にあるように、いったん大樹寺に入って、岡崎城から今川の将兵が退いたのを見極めて岡崎城入りした。その動きは、非常に鮮やかであり、後の短期間での三河統一や、織田信長との同盟による勢力拡大の起点となった。それからは、岡崎を拠点として、松平元康は自立の道を歩むことになる。

<岡崎の大樹寺>

Daijyuji1

以前述べたように、「従来は、松平元康、のちの徳川家康は、今川氏真に父の仇を討つように進言し、自身は織田・水野の軍勢と各地で戦った。しかし、今川氏真は暗愚で政治、軍事に向いていなかったため、一向に尾張に攻め込もうとしなかった、そうするうち、水野信元の仲介で織田信長と手を結ぶことが提案され、永禄5年(1562)になって、それにしたがって織田・松平の同盟(清洲同盟)を結んだ、という説が根強く、江戸時代から支持されてきた」。

しかし、桶狭間合戦の時点で、今川家の家督は今川氏真に譲られており、その当主氏真は、桶狭間合戦で功績のあった家臣に対し、恩賞を与え、あるいは戦死した家臣の子には、所領を安堵するなどして、領国経営を進める努力をしてきたのである。たしかに、今川氏真は父義元の復仇のための兵を尾張に向けなかったが、それは松平元康自身が張本人で引き起こされた三河での今川からの離脱の動き、いわゆる「三州錯乱」や北からの武田の脅威に対抗する措置を行っていたため、そのような「余裕」がなかったというのが実態であった。

「三州錯乱」の張本人は、松平元康である。西三河を手始めに、今川方にいったんなっていた地域の豪族に戦いを挑み、あちこちに兵を進めているのである。その張本人が、今川氏真に親の仇を討つように進言するだろうか。

どうも、今川氏真という人は、徳川家康と武田信玄に領土を蚕食されて、領国を持ちこたえきれず、縁戚の後北条氏を頼って出奔し、京都四条あたりにくすぶっていたのを豊臣秀吉に拾われ、最終的に自分を駿府から追い出した徳川家康に仕えて、子孫が高家となったという晩年の姿や、蹴鞠ばかり得意で、政治に見向きもしない暗愚な武将という俗説から、非常に低い評価をされることが多い。しかし、縁戚の後北条氏を頼って出奔するまで、駿府から掛川に居城を移したりしながら、曲がりなりにも十年持ちこたえたのである。

前述のように、松平元康、のちの徳川家康は、進言したかどうかは別にしても、今川氏真がいつまでたっても、父義元の仇を討とうともせず、そうこうするうちに水野信元が織田信長との同盟の仲介をすることを提案してきたので、それにのって仕方なしに織田信長と同盟したというのは、どうであろうか。

<岡崎にある徳川家康の産土六所神社>

Rokusho2

これはあまりに、家康の側に都合の良い説明である。実際は、松平元康は早くから今川氏の支配の呪縛から脱し、自立しようとしていたが、まだ今川の勢力も根強く、一方領地を接する織田方の水野氏とは争わねばならない、それで後顧の憂いを絶って、今川と本格的に対峙しようとしたのではないか。

それをそのまま書いてしまうと、江戸時代に定着した「武士は二君にまみえず」という忠君思想とはかけ離れたものになってしまうため、後の道徳観念にあうように、水野信元の仲介でやむなくという筋書きにしたと思われる。水野信元の側では、松平元康と石ヶ瀬川の河原などで争うのはやめたいと思っていたかもしれないが、わざわざ織田・松平同盟の仲介の労をとることは積極的には考えていなかったと思われる。

むしろ、織田信長の側は、今川氏との桶狭間合戦の後は、矛先を美濃に向けようとしていたため、安心して美濃攻めをするためには、松平を使って東側の今川の動きを封じ込めたかったのである。その織田と松平の利害が一致したために、おそらく水野信元は織田信長の命令で仲介をしたに過ぎない。

<武豊線から見た現在の石ヶ瀬川>

Ishigase

もとを正せば、松平元康は、三河の豪族松平氏の「十八松平」といわれるうちの、宗家でもない安祥松平家の出身で、たまたま祖父清康が今川・織田の勢力を腹背にうけつつも、三河一円に勢力を伸ばし、織田信秀を攻めるまでにいたったものの、守山崩れで亡くなった後、跡を継いだ広忠が、今川の力を頼って家を存続させたのであって、譜代の今川家臣でもない。今川の強い統制下にあったのは、本来の領国である駿河、せいぜい遠江であって、三河や尾張の一部では独立の小豪族たちを服属させているのに過ぎなかった。

<岡崎城>

Okazakijyo2

「三州錯乱」と同時に、遠江でも今川方の部将が次々と今川の勢力から離脱していく「遠州忩劇」という事態が進行していった。

これは、「浜松御在城記」によれば、以下の通りである。

一、遠州引間ノ城主飯尾豊前守ハ駿州今川ノ先鉾(鋒)トシテ、尾州織田軍勢卜所々ニテ合戦、然ニ永禄三年(五月脱)十九日、義元、尾州桶狭間ニテ討死ノ後、氏真、亡父ノ弔合戦之心掛モ無之、朝夕酒宴遊興二長ラルゝ故、権現様、永禄四年ヨリ信長公卜御和睦被成候、遠州引間ノ城主飯尾豊前守・同国井伊谷ノ城主井伊肥後守・同国嵩山ノ城主奥村修理ヲ始、大方氏真ヲ叛キ、信長公及権現様江内通仕候、此由氏真聞及、永禄五年二月ハ井伊谷、同年四月ハ引間、同七月ハ嵩山、此三城へ駿河ヨリ人数ヲ差向被攻候、井伊谷・嵩山ハ落去、引間ノ城ニテハ、寄手ノ大将新野左馬助討死、城内ニモ、飯尾同心渥美・森川・内田等ノ歴々討死仕候得共、猶堅固二守二依テ、氏真、調略ヲ以テ、致和談候、此以後永禄七甲子、氏真三州江発向、権現様卜所々ニテ攻合、同国一ノ宮ヨリ人数ヲ引取被申候刻、飯尾ハ権現様江御味方ノ然相見候ニツキ、氏真ヨリ遠州二俣ノ城主松井左衛門、豊前守姉婿ナルニヨリ、渠ヲ媒トシテ縁二取クミ、駿府江呼寄、永禄八年極月廿日、駿府ニノ丸飯尾屋敷江押詰、被誅之、然共引間城ハ豊前守家臣江間安芸守・同加賀守持固候故、翌年二月、権現様より御慇之御書被下候由、

というものである。

この文献は「浜松市史」に収められているもので、オリジナルのものは浜松藩士永井随庵が延宝末から天和年間に著したという。さすがに江戸時代の書物だけに、家康中心の書き方であるが、すでに永禄4年(1561)には織田信長と和睦していたこと、永禄5年(1562)には今川方であった井伊、奥村、飯尾が離反したため、今川氏真が兵をつかわしてこれを攻めたこと、うち飯尾(連龍)は引間(曳馬)城に籠って城はなかなか落ちず、今川氏真が謀略をもって討ったことが分かる。そして、飯尾連龍などの諸将の背後には、家康や信玄の工作もあり、飯尾連龍は最後のころは家康と内通していたらしい。

<浜松城~前身は曳馬城>

Hamamatsujo

桶狭間合戦以降の松平元康の動きについて、簡単にまとめると、以下のようになる。

永禄3年(1560)5月~

5月19日、今川義元、桶狭間合戦で戦死。松平元康は5月20日大高城を脱し、5月20日岡崎城に戻り、今川氏の支配下から独立。早くも額田郡、碧海郡といった西三河では、吉良氏などを攻め、織田方であった水野信元とも石ヶ瀬川にて合戦。

永禄4年(1561)

松平元康、織田信長とこの頃和睦か。松平元康は、東三河にも進出。東三河の国衆である菅沼氏、西郷氏を服属させる。また西三河でも、9月13日に行われた東条城をめぐる、元三河守護吉良氏との藤波畷の闘いに勝利するなどして、吉良氏の当主吉良義昭をくだす。

永禄5年(1562)

1月15日 松平元康、清州に赴き、織田信長と会盟(「清州同盟」)。

2月4日 三河西郡城の鵜殿長照を攻め、その二子を捕える。鵜殿長照の二人の子と築山殿、嫡子信康、亀姫を交換。

遠江でも、今川家臣団の動揺が広がり、井伊、天野、飯尾といった諸将が離反。これに対し、今川氏真が兵をさし向ける。

6月(異説あり)、今川氏、松平氏は、牛久保城をめぐり、大規模な戦闘を行う。今川勢は吉田城・牛久保城の拠点に陣取るとともに、今川氏真自ら兵を率いて牛久保に着陣。松平勢の一宮砦を大軍で包囲するも、松平元康は、小勢で今川の攻囲を突破(「一宮の後詰」)。

永禄6年(1563)

3月2日 嫡子信康、織田信長の次女五徳と婚約。 

7月6日 松平元康の今川義元から与えられた偏諱である「元」の字を返上、家康と改名。

10月下旬 三河一向一揆勃発。本證寺(安城市野寺町)、上宮寺(岡崎市上佐々木町)、勝鬘寺(岡崎市針崎町)の、三河三ヶ寺と、本宗寺および桜井松平氏、大草松平氏、吉良氏、荒川氏などが反家康勢力となった。自らの一族家臣も含めた一揆勢との戦いは、半年に及んだ。そして、永禄7年(1564)2月13日に上宮寺の一揆が岡崎城に攻撃をしかけたのを最後として、一揆勢からの攻勢はなくなり、一揆との戦いに勝利。その一揆勢との戦いに勝った余勢をかって、6月には東三河の今川方の拠点であった吉田城(豊橋)を攻略。

永禄7年(1564)

曳馬城主飯尾連龍、今川氏真の謀略で、駿府にて誅せられる。

<一向一揆の拠点本證寺>

Honnshouji

永禄9年(1566)

この頃までに家康は、三河一国を統一。

12月19日、松平から徳川に「復姓」することを勅許にて認められ、朝廷から従五位下、三河守の叙任を受ける。得川という名字は、新田義重の四男義季が上野国新田郡得川郷(現在の群馬県太田市徳川町)を継承して得川と名乗ったのがはじめで、義季の嫡子頼氏は世良田郷を継承して世良田を名乗り、義季の庶長子頼有が得川郷を継ぎ、また得川を名乗った、親子二代しか続かなかったものである。どうも、家康は源姓が欲しかったらしく、吉良氏から系図を借りたりして研究し、わざわざ子孫がいないと思われる得川という家を見つけてきて、自分の先祖で時宗の僧だったという、松平親氏が新田源氏の出であるという設定にした。松平家に入り婿ではいった親氏の所縁により、先祖の姓に戻すという趣旨であるが、松平氏が賀茂姓であることは明らかであり、いささか強引なこじつけといわざるをえない。

永禄11年(1568)

今川義元存命中は、甲斐・駿河・相模の三国同盟を結んで、駿河に兵を動かすことなどなかった武田信玄であるが、急速な家康の台頭、今川領の蚕食をみて、今川氏真と手を切り、逆に徳川家康と結んで駿河を攻略する方向に出る。

武田信玄の駿河侵攻は、12月12日。その三日後には徳川家康は三河から遠江に攻め入った。武田信玄に駿河今川館を追われた今川氏真は、掛川城に逃げる。12月27日には、徳川勢が掛川城を包囲、今川氏真は半年ほど籠城する。

<掛川城>

Kakegawa11

永禄12年(1569)

掛川城を救援するための北条氏康の出動あるも、5月17日についに、氏真は家臣の助命と引き換えに掛川城を開場。それ以降、今川氏真は小田原北条氏を頼り、出奔。今川残存勢力にさかんに文書を発給するが、やがて武田勢などに切り崩され、家臣団も崩壊。

こうして、家康がまだ竹千代といっていた幼少期から、家康や岡崎衆をがんじがらめにして服属させてきた今川氏という大きな存在は、戦国大名としては滅亡した。しかし、かわって織田信長という存在が、徳川家康の前にクローズアップされることになる。

それに関しては、また次回。

参考文献:

『浜松市史』 浜松市

『徳川氏の研究』 小和田哲男編 吉川弘文館 (1983)

『駿府の大御所徳川家康』 小和田哲男 静岡新聞社 (2007) 

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