中世の景観を残す旧沼南町藤ヶ谷
小生は、以前書いたように、もともとは単なる石垣と天守閣の名城が好きで、会社にはいって愛知県に配属となって犬山城を訪ねたり、関西では縁あって滋賀大学を何度か訪問する際に、同時に彦根城に行ったり、西の姫路城に行ってみたりしていた人間である。
初めて千葉県の城で、城跡めぐりをしたのは臼井城で、それは愛知県から戻ってきた昭和59年(1984)頃と記憶している。臼井城も、周囲に砦や支城があることはずっと知らず、当時畑だった主郭付近をうろうろ散策するだけであった。当時は、今のように駐車場がなかったので、路上に車を止めると、ほかの車の迷惑になりはしないかと思い、少し離れたお寺の駐車場に止めさせてもらったりした。
<現在の臼井城跡>
臼井城の主郭の周囲でも、土塁の上に太田道灌の弟である太田図書の墓があったり、臼井城に隣接する、円応寺には幼い臼井興胤を志津氏からまもって戦ってなくなったという岩戸五郎の「供養碑があって、臼井城跡からは眼下に印旛沼を望むことができた。その後、関西に転勤になり、千葉の城にはしばらく行かなかったのであるが、平成となって神戸の震災前に帰ってくると、また城めぐりを始めたのである。
そのころには、臼井城だけではなく、自宅周辺のより身近な、また余り知られていない城もまわってみるようになり、その過程で船橋市が発行した報告書などを読み、初めて「横矢掛け」などという言葉を知るにいたった。船橋市以外では、お隣の市川市、八千代市、千葉市の西側の幕張方面に時々出かけて行った。
船橋には十五くらいの城跡がある、またはあったという。しかし、現存する城跡で、ある程度まとまった遺構が残っているのは、夏見城、高根城、金杉城くらいであろうか。楠ヶ山館が以前はほぼ完全に残っていると言われていたが、どこまで戦国時代の遺構で、どこからが江戸時代の屋敷跡なのか判別つきにくく、防御施設がほとんどないことから今では疑問視されている。
その船橋の城跡で、もっとも北にあるのが小野田城跡。これはどうも里見氏に関係しているのか、安房神社が近くにあり、その神社境内に土塁が残存している。そこまで北上すると、今度は国道16号線を通って、小生西に向かったのであるが、現在柏市になっている旧沼南町で実は初めて城跡を調べたのは大井で、その後対岸の戸張、さらに高柳のほうに足を伸ばした。
国道16号線をある日、途中旧沼南町で降りて歩いてみた。そこは藤ヶ谷であったのだが、広い道の端に車をとめ、周囲を歩いたのだが、実にのどかな光景が広がっていた。集落は台地下から台地にかけてあり、台地下の低地は谷津となって、そのだいぶ向こうにまた台地があった。そのとき、たしか、犬を連れたおじさんが散歩していたのを覚えている。
あるいは、この風景は中世ではどうだったのか。谷津田の向こうには寺堂があり、集落には農耕に従事する人々がいて、あるいは犬も飼われていたか。
<藤ヶ谷風景:今はかつての谷津田が畑になっている>
ずっと、長い間、気まぐれで16号線を降りて沼南のどこかを歩いたことは忘れていたのだが、先日藤ヶ谷の持法院に行ってみようと思い立ち、行ってみるとまさにその場所が以前気まぐれで歩いた場所であったのである。
この藤ヶ谷は、手賀沼に注ぐ金山落としの左岸に位置するが、中世には金山落としの西が相馬郡、東が印西外郷と、はっきり分かれていた。
手賀沼周辺の相馬御厨があった地域は、千葉常胤の叔父常晴がおさめていたという。千葉常胤の父常重は、その常晴から天治6年(1124)に相続し、大治5年(1130)に伊勢神宮に寄進するが、公田官物未納を理由に国守藤原親通に取り上げられ、その後源義朝、源義宗が相馬郡を領有した。千葉氏は、その相馬領を復活させるために、いろいろ手をうったが、再び千葉氏が相馬郡を領有するのは治承4年(1180)の頼朝挙兵後である。
<藤ヶ谷にある持法院>
千葉常胤から次男の相馬次郎師常が相続した以降は相馬氏が支配し、相馬氏は奥州と下総の二流に分かれた鎌倉末期の後も下総相馬氏は罪科に処せられたものの、南北朝期から室町期、戦国初期まで下総相馬氏の宗家は当地に残っていたと思われる。しかし、相馬氏の主流は奥州相馬氏であり、下総に残った一族でも守谷を本拠とする相馬氏が勢力を保っていた。
その庶流であろうか、藤ヶ谷城の城主であったのは、相馬氏と伝えられる。高城氏関連の古文書に出てくる「藤ヶ谷修理」なる人物も、相馬一族であろう。それが地名を名乗ったものと思われるが、戦国末期には相馬胤吉という人がいて、高城氏とともに小田原参陣をしたらしい。その相馬胤吉ら、当地の相馬氏の菩提寺としたのが、登慶山如意輪寺持法院である。
小生が持法院に行ったのは、手賀沼周辺の歴史で、あるテーマについて調べているのであるが、そのなかで藤ヶ谷の相馬氏の動向を知る必要があったからである。
実は藤ヶ谷には今も相馬さんというお宅が何軒かあるが、そのお宅もまた藤ヶ谷城主の一族の子孫であろう。その相馬氏の家老は、勝柴氏であるが、家老の子孫といわれる勝柴姓のお宅も当地にはある。
<持法院の観音堂入口>
持法院の開基は相馬忠重といわれるが、あくまで伝承である。ただし、藤ヶ谷の薬師堂からは相馬忠重と同時代の貞治3年(1364)年建立の阿弥陀尊板碑が出土しているので、あるいはその頃の開創かもしれない。
持法院は、この周辺によくありがちな質素な堂宇で、赤い門と庭にさるすべりが植えられているのが目立つ位であるが、本堂の手前を北の台地にあがった場所に観音堂と墓地がある。その長い階段を登った先にある観音堂には、千葉介常胤が寄進したという如意輪観音像が安置されている。その観音については、千葉常胤の霊夢云々という由来があるが、それはあくまで話である。
<観音堂>
柏市のHPには、以下のように書かれている。
「登慶山如意輪寺持法院の観音堂に安置されている尊像で、通常は非公開の秘仏です。尊像は、立て膝をして頬に手を触れる半跏思惟のポーズをとる、 戴冠六臂の木彫坐像です。白龕は水晶、目は玉眼で彩色はありません。これに対し、台座と二重円光の光背は金箔であるため、 元来尊像とこれらは別物であったと思われます。
むかし鎌倉時代に鎌倉で造られた如意輪観音像を登慶坊が相馬氏の領地である現地へ持参して祀ったのが寺の創建縁起となっています。 しかし、現存する観音像は、中世末期から江戸時代初期ごろの作品といわれています。」
なお、墓地の一段高くなった場所には、これも相馬氏に由来するのか、平将門の供養塔があった。供養塔の脇に、その関連の句碑まで建てられている。
<平将門の供養塔>
なお、肝心の藤ヶ谷城であるが、あまり確たることが言えないので、ここで書くのは差し控えたい。いくらか遺構もあるようだが、集落と国道16号によって亡失した部分が多く、調べた結果は後日に報告したい。
参考サイト:
柏市HP(柏の文化財)
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コメント
私の先祖は鎌倉から流れて千葉にたどりついた、藤ヶ谷というも名字を持つものです。
名字は主人である十六夜日記のあぶつにの子供からもらったものです。それで千葉に流れ着きました。
うちの先祖の記録にはそのことも示されているようです。それが千葉にある藤が谷の地名につながったとも言われています。
投稿: 藤ヶ谷 | 2010.08.19 16:38
藤ヶ谷さん、コメントありがとうございます。
鎌倉には扇が谷などの地名がありますので、鎌倉の谷戸に関係あるものでしょうか。阿仏尼の子供というと冷泉家でしょうか。
姓の起こりなどは、分らないことが多く、大変参考になりました。
投稿: mori_chan | 2010.09.04 09:03