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2009.07.24

続・印旛飛行場跡地周辺の掩体壕

前回、印旛飛行場の掩体壕をみてきて、どういう背景で掩体壕が三十以上も作られたのかを少し考えてみた。

<印旛飛行場跡地周辺に残る掩体壕>

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印旛飛行場を根拠にした陸軍飛行第23戦隊の戦隊長(谷口正義少佐)が戦後書いた記録でも、

「戦爆連合部隊の来襲に際しては各飛行場の誘導路に分散遮蔽して退避秘匿することとなった。この準備のため飛大(注:飛行場大隊のこと)は、飛行場周辺の民間の協力を得て、民間の畑地、竹林、森林等を開設して前述の分散用誘導路と遮蔽各個掩体を作った」

とある。

それは、借りて読んでいる陸軍飛行第23戦隊印旛会の『飛行第23戦隊 想い出の記』のなかにある谷口正義元少佐の「飛行第二十三戦隊概史」のなかにある文章である。その『想い出の記』には元隊員たちやゆかりのある料理旅館のおかみの記事まで載っており、隊員の訓練や実戦での想い出などがいろいろ書かれていて、それはそれで面白いのであるが、さすがに掩体壕の話となると、上記谷口戦隊長の記事ともう一つの記事に多少触れられている程度であった。ちなみに飛行場大隊は戦隊とは別に、飛行場の警備や施設や日常運営に関わる業務を行うもので、師団の下に飛行場ごとにおかれたものである。戦隊は、必ずしも一つの戦隊が一つの飛行場に駐屯するわけではないが、飛行場大隊は地上勤務で上記のような仕事をしていた。

しかし、印旛飛行場の掩体壕については、昭和20年(1945)3月に陸軍飛行第23戦隊の上部の第10飛行師団(柏の第70戦隊の師団でもある)の師団長が吉田喜八郎少将から近藤兼利中将に交代し、新師団長の近藤中将の方針で、空襲時の飛行機および搭乗員の減耗を防止するため、あえて迎撃せず、飛行機を誘導路に分散、掩体に秘匿するということになり、掩体壕がさかんに作られるようになったということが分かった。

その吉田少将が師団長の任を解かれる直前の2月16日、17日に、米軍機グラマンの編隊が首都圏を攻撃することがあり、飛行第23戦隊の前任の戦隊長藤田重郎少佐は、その戦闘で敵機を迎撃しようとしたが、他の戦隊員とともに印旛飛行場上空で戦死した。実は亡くなった藤田重郎少佐は13機の撃墜記録をもつ歴戦の勇者であったが、隼に乗り、グラマンの編隊にむかって単機で突入して邀撃したが、空しいこととなった。

他にも両日の戦闘で少尉3名、准尉1名、軍曹1名が戦死。飛行第23戦隊の保有する戦闘機は二式単戦、一式Ⅲ型(隼)が合わせて25機程度であったのが、2月18日の出動可能機はわずかに一機のみとなった。

<二式単戦 鍾馗>

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数日後、吉田師団長の部隊視察があったが、吉田師団長は「ご苦労さんでした」と丁寧に挨拶をしたが、「鬼の喜八郎」の面影はなく、元気のない様子であったという。そのあと、吉田師団長は更迭され、パイロット出身の近藤兼利中将に交代した。

なお、その藤田少佐の未亡人は、葬式を済ませ、諸々の始末をした後に、亡き夫の後を追って自決したという。

今や、ニュータウンとなり、ほとんど飛行場の面影はないが、印旛飛行場という小さな飛行場にも伝えれねばならない話がある。

<印旛飛行場跡>

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(追記)

なお、この手の記事を書くと、必ずといっていいほど、迷惑コメントを送ってくる人間がいます。何か特殊な考え方を信奉されているかもしれないが、当方は単純に平和を祈念しているだけで、それ以上でも以下でもないのです。いくら迷惑コメントやトラックバックを送ったところで、niftyに通知して削除するだけであり、労力の無駄と思いますが、如何。

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2009.07.06

印旛飛行場跡地周辺の掩体壕

最近、ある研究会で、掩体壕のことを調べている。その調べている掩体壕は、東葛地方のとある場所にあるのだが、本当に掩体壕なのか、他の具体的な例と比較しようと思い、無蓋掩体壕が多く残っているという印西市に行ってみた。

印西市といっても、掩体壕のあるのは、草深(そうふけ)という地区とその周辺である。草深というくらいだから、昔は草深いところだったろうし、印西牧があった広大な原野を連想させるが、現在はそういうイメージは薄れている。

今は印西牧の原駅近くと言った方が、分かりが早いであろう。北総線印西牧の原行きの電車などで、行けば良いのだろうが、普段は行く用事もなく、何しろ遠いという印象であった。いざ行く段になって、地図でみれば距離的にはそうでもない。以前、車で臼井まで行くのに、八千代市の米本経由で保品を通り、印旛村から印旛沼を越えていくと、成田街道をずっと行くより時間がかからないことに気付き、よくそのルートを使った。今度も車を使い、似たようなコースで、米本の近くの島田台という場所から印西に向かっていった。

<印西牧の原駅周辺>

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その掩体壕のある場所には、かつて印旛飛行場という飛行場があった。別名は、草深飛行場。

その印旛飛行場は、日中戦争が始まった昭和12年(1937)頃に建設が企画されて、その後逓信省航空局により現地測量、用地買収、道路建設、滑走路などの整備、道路新設が行われた。周辺住民もかりだされて工事がおこなわれたのだが、昭和16年(1941)に太平洋戦争がはじまると、一層工事が急がれた。

印旛飛行場は、昭和17年(1942)6月に一旦完成した。その完成前の昭和17年(1942)4月、逓信省管轄の印旛地方航空機乗員養成所がその地に開設された。これは松戸市にあった松戸高等航空機乗員養成所とともに、千葉県内の航空機乗員養成所として、逓信省の新航空政策に基づく民間航空の拡充、陸海軍の予備航空要員確保を目的として、航空機乗員の養成を行った。

<印旛地方航空機乗員養成所の跡地>

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養成所には、本科生と操縦生の二つの制度があり、本科生は国民学校卒業後入所で修業年限が5年、旧制中学の普通学科と適性により操縦・航法・通信・機関などの専門技術を習得した。操縦生は旧制中学三年修了後入所し、1年間の基本操縦技術を習得後、義務として軍の飛行学校にて6ヶ月の専門分野教育をうけるというものであった。

養成所は陸軍系と海軍系があり、印旛は陸軍系であったため、所長以下の幹部職員は陸軍の軍人で、教育はすべて陸軍方式で行われた。

印旛地方航空機乗員養成所では、毎年本科生が約60名入所し、毎年進級するとともに、操縦生は4月、10月の年2回それぞれ約50名がはいって、1年後には陸軍飛行学校に転出した。

逓信省所管といっても、陸海軍の操縦士養成を主な任務とし、実際、印旛に限らず、逓信省航空機乗員養成所を出て、陸海軍の飛行機操縦士となった人は多い。

印旛地方航空機乗員養成所の飛行場として出発した、印旛飛行場は、太平洋戦争の激化に伴い、首都・京浜地区防衛のために防空戦隊が進出することになり、昭和18年(1943)の後半から翌年にかけて、多数の労務者が動員され、勤労動員も含めて、2,000m級の3本の滑走路など拡張整備された。

<現在の航空写真上に重ねた飛行場の範囲>

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上図で、黄色い線は滑走路跡で、3本が東西、南西から北東にのび、水色で囲ったのが飛行場主要部で、周辺には掩体壕などがあった。誘導路がどのようにのびていたかがよく分からないが、図にはない掩体壕跡が飛行場北側にもあったことから、飛行場を中心に 東西南北にのびていたと思われる。

戦局が暗転し、敗色濃厚となった太平洋戦争末期、昭和19年(1944)11月には、陸軍飛行第23戦隊などが進出し、印旛飛行場は事実上陸軍の飛行場となった。

また、印旛飛行場には飛行場大隊が戦隊とは別におかれ、飛行場の整備、警備などの後方支援にあたった。

陸軍飛行第23戦隊は、第10飛行師団(略称:天翔)隷下で、印旛での編成当初、一式戦闘機・隼、二式単座戦闘機・鐘馗で編成された20機ほどの戦闘機を保有していたが、11月27に一個中隊12機を硫黄島に派遣、翌昭和20年(1945)1月17日にも12機を再派し、新設部隊としては手痛い人員、器材の損失を蒙った。

<一式戦闘機・隼>

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さらに、昭和20年(1945)2月16,17日の米軍機動部隊から発したグラマンヘルキャット、コルセアなど数百機は、関東の各飛行場を急襲し、印旛飛行場にも来襲、これに対し、飛行第23戦隊は邀撃したものの、藤田重郎戦隊長(陸軍少佐)など5名が戦死した。

藤田戦隊長の戦死により、次の戦隊長は谷口正義陸軍少佐となり、同じころ師団の方でも師団長が戦闘パイロット出身の近藤兼利陸軍中将となったが、迎撃要領が操縦士温存のため、P-51など戦闘機・爆撃機連合部隊の迎撃はおこなわず、B‐29など爆撃機のみの侵攻に対して行うように改められた。

米軍の戦闘機・爆撃機連合部隊の来襲に際しては、飛行機を飛行場の誘導路に分散遮蔽して、掩体壕に退避、秘匿することになったのである。その誘導路や掩体壕の敷設にあたっては、飛行場大隊が主体で行ったが、また周辺住民などが動員された。

当時は印旛地方航空機乗員養成所では生徒の教育・訓練どころではなくなり、飛行場の整備、土運搬、盛土などの作業に従事した。また練習機を他の飛行場に移動したり、生徒の転属、疎開も進められ、印旛飛行場は一部を除いて、防空戦隊の専用基地となった。しかし、前述のように、戦闘機・爆撃機連合部隊の来襲には迎撃せず、7月4日のP-51の来襲で、印旛地方航空機乗員養成所も銃爆撃を受け、7名の本科生がなくなった。

<無蓋掩体壕の構造>

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さて、掩体壕は、上にコンクリートなどで固定的な屋根をつけて、ある程度直接的な銃撃、砲撃などに耐え、間接的な爆撃の被害から守るようにした有蓋掩体壕と、周囲を土手で覆い、固定的な屋根がなく、木などで覆って飛行機を隠し、間接的な銃爆撃の被害からのみ救済できる無蓋掩体壕と大きく分けられる。印西にあるのは、無蓋掩体壕のタイプである。形状も、1機のみ隠蔽する馬蹄形のものや箱形のもの、2機まとめて隠蔽するE字形のものがあるが、印西は馬蹄形のものが圧倒的に多い。

昭和57年(1982)に当時の印西町石造物調査会が、当地の掩体壕の位置、形状などを調査したが、その時には36基確認されている。

しかし、その後ニュータウンの建設など、開発が進むにつれて、掩体壕は破壊され、消滅したものが多い。わずかに東の原の調整池周辺の県所有地に数基残っているが、風前の灯といってよい。

首都防空の任をおった印旛飛行場、多くの若者が巣立ち、その中からはレイテ湾にて敵輸送船団に体当りした長濱少尉を含め戦死者も出した印旛地方航空機乗員養成所は、今や建物や滑走路、営門すらあとかたもなくなって、その上に印西牧の原の住宅地が建っている。

<現在も残る掩体壕>

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今やほとんど痕跡をとどめない印旛飛行場跡であるが、せめて現在残っている掩体壕は保存してもらいたいと思う。

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