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2009.08.31

北小金の寺と神社

東漸寺(西山浄土宗)

1.場所
松戸市小金359 (北小金駅から南へ進み、歩いて約3分)

2.創建からの歴史
 文明13年(1481年)に、増上寺の音誉上人の弟子経誉愚底上人によって、根木内に開かれたのがはじまりという。この経誉愚底上人は俗名長瀬氏、信州あるいは遠州の出身といわれ、鷲野谷の医王寺薬師堂を再建した。戦国時代、第五世行誉吟公上人のときに当地の高城氏とのつながりを深め、小金に移転した。その寺域は広大で、小金大谷口城の出城としての機能をもっていたという。
 高城胤吉の三男胤知は出家して東漸寺に入り、第七世照誉了学上人となった。高城氏が天正18年(1590年)に小田原北条氏と命運を共にし、戦国大名としては滅亡した後、生実大厳寺の源誉上人によって関東十八壇林が定められ、東漸寺もその一つとなった。照誉了学上人は、慶長3年(1598年)に芝に移り、元和元年(1615年)には徳川家菩提所である増上寺の第十七世住職となり、徳川秀忠の葬儀の大導師をつとめた。
 このように、東漸寺は徳川家と強い結びつきがあり、徳川家康から朱印地百石を与えられたが、家光の代には三十五石に減らされた。しかし、東漸寺は、他にも寺領をもっていた。また、広大な境内を持ち、多くの建物を擁した。
 大改修が成就した享保7年(1722年)には本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門その他8つの学寮など、20数カ所もの堂宇を擁し、末寺35ヶ寺を数え、名実ともに大寺院へと発展した。末寺ほか支配下の寺や庵は、江戸後期の文政3年(1820年)には武蔵・下総両国内で44ヶ所を数えた。
 明治初頭には、明治天皇によって勅願所(皇室の繁栄無窮を祈願する所)となった。
 江戸時代に幕府の擁護を受けた東漸寺も、廃仏毀釈等で、神殿、開山堂、正定院、浄嘉院、鎮守院などの堂宇をなくした。また、学寮およびその敷地は、地域青尐年の育成のために寺子屋として利用され、後に黄金小学校(現・小金小学校)となった。

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3.みどころ
 水戸街道から勅願寺の碑をみて、寺に入り、長い参道を歩いていくと、仁王門がある。「仏法山」という扁額は装飾された字でちょっと読めない。緑に包まれた美しい境内は、春は桜の名所として知られている。
 仁王門からさらに本堂に向かって進むと、中雀門(ちゅうじゃくもん)という山門がある。門をはいるとすぐ右に鐘楼堂がある。正面の本堂には本尊の阿弥陀如来像が安置され、その手前左側には、聖観音像を安置した観音堂と枝垂れ桜がある。本堂右手にある松は亀の松で、元は鶴亀一対だったが、鶴の松のほうが失われ、幹の曲がった変わった姿の亀の松(樹齢400年以上)のみ残っている。

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【竹内廉之助、啓次郎の碑】
幕末は元治元年(1864年)3月、水戸藩では武田耕雲斎、藤田東湖らを首領とした天狗党が筑波山で挙兵し、各地で兵を募り藩の保守勢力と衝突した。小金の郷士で、芳野金陵の門下であった竹内廉之助、啓次郎兄弟も、この天狗党に参加したが、同年9月に啓次郎は戦死、廉之助は捕らえられて蟄居を命じられた。竹内廉之助は、慶応3年相楽総三の率いる薩摩藩邸の浪士隊に加わり、それが赤報隊となると、その幹部の一人となり、戊辰戦争を戦った。しかし、赤報隊が偽官軍とされて、小諸藩などの信州の兵に攻められた際に、赤報隊は壊滅、この戦いで廉之助も戦死した。
竹内兄弟の碑は、東漸寺の本堂の向かって左側にあるが、銘は兄弟と交友のあった渋沢栄一が明治45年(1912)に記し、建立されたものである。

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4.所蔵文化財など
本尊である阿弥陀如来像、聖観音像、釈迦坐像などの仏像や絵画では二十五菩薩来迎図、三尊来迎図、徳川家康公肖像があり、古文書では徳川家康、水戸光圀書簡、高城胤辰、胤則の制札、朱印状写などがある。また浄土宗の宗祖、法然上人所持伏鉦や圓光東漸大師香衣遺像などの寺宝が残る。

本土寺(日蓮宗)

1.場所
松戸市平賀65 (北小金駅から本土寺参道を北へ進み、歩いて約10分)

2.創建からの歴史
 文永6年(1269年)に、日蓮上人に帰依した蔭山土佐守が狩野の松原に法華堂をたて、建治3年(1277年)に当地の領主であった、やはり日蓮宗の大檀越の曽谷教信とはかって、この地に法華堂を移し、日蓮上人の高弟、日朗上人を招いたのが、本土寺のはじまりという。
 そして、日蓮上人より長谷山本土寺の名前を授かり、下総国守護千葉氏の庇護もあって、かつては日蓮宗の大山として、末寺百数十を数えたが、不授不施の法難に度々会い、また明治維新には廃仏毀釈のために衰微した。この本土寺は平賀家の三兄弟、日朗上人、日像上人、日輪上人のご出生の聖跡と伝えられ、とくに日朗上人は日蓮上人と法難の伝道をともにされたことで有名である。また、長谷山本土寺、長栄山本門寺(池上本門寺)、長興山妙本寺(鎌倉比企谷)と、同じ「長」という字を山号にもち、「本」という字を寺号にもつ、「朗門の三長三本の本山」のひとつに本土寺は数えられている。

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3.みどころ
 一般には「あじさい寺」として知られ、ミニ鎌倉の感もあり、けやき並木の続く長い参道と美しい境内は、人々の安らぎの場にもなっている。
 赤い仁王門を抜けると境内には、
本堂、祖師堂、五重塔、開山堂、像師堂、妙朗堂、宝蔵 などの建物がある。

<本土寺の紫陽花>

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<像師堂>

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【翁の碑】
この「翁」とは松尾芭蕉のこと。この句碑は、江戸時代の文化元年(1804年)に行われた芭蕉忌を期して建立されたもの。 碑面には「御命講や油のような酒五升」という句や、芭蕉忌にちなんだ「芭蕉忌に先づつつがなし菊の花」という句が刻まれている。
「東都今日庵門人小金原、藤風庵可長、松朧庵探翠、方閑斎一堂、避賢亭幾来、当山三十九世仙松斎一鄒、文化元子十月建之」とあり、江戸の今日庵元夢の門人である小金の藤風庵可長らが建立したことがわかる。

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【秋山夫人の墓】
本堂の東側に、秋山夫人の墓がある。この秋山夫人は於都摩といい、甲斐の武田家家臣の秋山家の出身。徳川家康の側室にして、武田信吉の母である。武田信吉は、家康の五男で、徳川家康が武田の名跡が絶えるのを惜しみ、信吉に武田家を継がせたため、家康の子でありながら、武田を名乗り、小金三万石の領主となった。しかし、於都摩は天正19年(1591年)に24歳で病没。武田信吉は病弱で、21歳で病没してしまった。

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4.所蔵文化財など
 国重要文化財の日蓮筆の「諸人御返事」「大学三郎御書」や県・市の有形文化財となっている「富城殿御返事」「本土寺過去帳」などの古文書が残る。

 中世の歴史の研究者にとっても、本土寺にのこる過去帳は、さまざまな人名が大名から一般庶民、なかには被差別民であった猿楽能役者まで詳細に記載されていることから、度重なる戦乱や武士たちの動静を含む下総あたりの中世の歴史をひもとく第一級の史料になっている。

慶林寺(曹洞宗)

1.場所
松戸市殿平賀209-2

2.歴史
 大福薬師瑠璃光如来を本尊とする曹洞宗の寺で、山号は熊耳山(ゆうじさん)。戦国時代の永禄8年(1565)2月12日、小金大谷口城主の高城胤吉が没すると、その妻は出家し、桂林尼と号し、殿平賀の鹿島神霊のそばに庵を結んだ。その後、まもなく(翌月または翌年二月の胤吉命日という)桂林尼もなくなったので、その子胤辰は母の冥福を祈って花島勘解由を奉行に命じ桂林寺を建立した。
 天正19年(1591)11月、徳川家康から朱印地十石を寄進され、高城氏ゆかりの寺から脱却し、慶林寺と号するようになった。

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3.所蔵文化財など
 天正12年4月11日在銘の直径27センチの太鼓(市有形文化財指定)を所蔵。

 桂林尼墓所(市指定史跡)のほか、小金牧の野馬奉行を務めた綿貫氏の墓もある。

* 綿貫氏はもとは月見里(やまなし)氏。月見里土佐守政胤が高城氏滅亡後慶林寺に蟄居、その子綿貫政家が徳川家康に召しだされ、野馬奉行を命じられたという。

<桂林尼墓所>

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鹿島神社(殿平賀180)

常陸国一ノ宮の鹿島神宮を分社したもので、その主祭神である武甕槌神をまつっている。武甕槌神は武勇の神・雷の神として尊崇される。
鳥居の向かって左手には青面金剛の文字庚申投塔がある(寛政十二庚申年建立)。他に弘化四年や大正時代建立の石祠がいくつかあるが、「大山阿夫利神社」「月参講中」以外、碑面が崩壊し文字が判読できない。

大勝院(大谷口145-1:新義真言宗豊山派)

外番場の交差点尐し手前に看板があり、右折し直進したところに山門がある。
小金大谷口城の東北(鬼門)を守る寺院とされ、境内をはいると鐘楼、昭和58年(1983)に再建された本堂がある。
大勝院は、新義真言宗豊山派の寺院で、山号は遠矢山(矢を遠ざけるの意)。
文明12年(1480)の開基とも、永正3年(1506)の創建ともいうが、根木内城の高城氏の帰依をうけ、もとは根木内の小字・大勝院山にあったが、小金大谷口城の北部郭内に移され、高城氏の祈願所になった。
鎌倉時代の弘安年号をもつ板碑などを含め、南北朝・室町期の板碑多数が所蔵される。
常真寺(大谷口18:日蓮宗)
道行山常真寺といい、日蓮宗・本土寺の末寺。元和2年(1616)の創建と伝えられるが、明確ではない。しかし、寛文年間(1661~1673)以前に成立していたとみられる。観音堂があり、墓地には庚申塔がある。

八坂神社(小金443)

JR北小金駅の南口を出てすぐの駅前交差点のビル(サティ)の前に、「小金鎮守 八坂神社御跡地」の碑がたっているが、かつてこの地に八坂神社があった。現在地には、昭和48年(1973)に移転した。
これは京都の祇園社を勧請したもので、古くは牛頭天王社と称して小金の高城氏が信仰していたといわれる。

妙典寺(小金168:日蓮宗)

正覚山妙典寺といい、日蓮宗・中山法華経寺の末寺。水戸街道の小金宿本陣跡近くにある。
創建は江戸時代前期の寛永年間(1624~1644)と伝えられ、直井妙典が開山。

この寺で有名なのは、江戸後期文政8年(1825)に建立された芭蕉の句碑で、
「志ハらくは 花のうへなる 月夜可奈(かな)」と刻まれ、松朧庵探翠が建立している。
また、住職が所属していた陸軍歩兵第五十七連隊(佐倉連隊)のレイテ戦での戦没者慰霊碑がある。

<芭蕉の句碑>

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東雷神社(東平賀226-1)

JR北小金駅から南柏方面に線路沿いに400メートルほどいった場所にある。雷神をまつるが、創建は不詳(かなり古いらしい)。
昭和61年(1986)の火災で社殿を焼失し、現在の社殿は再建されたもの。また、かつては椎の古木や杉の木立といった極相林が鬱蒼と茂っていたが、現在は残っていない。靖国鳥居と明神鳥居の2基の鳥居がある。手水舎は嘉永9年(1857)作。江戸時代以前は神仏習合で、対応する寺があったらしい。
境内には青面金剛、二十三夜塔、大杉大明神、香取、鹿島神社といった末社の石祠などが祀られている。

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2009.08.29

日大生産工学部構内にある戦車隊の碑

千葉県船橋市から習志野市にまたがっているが、日本大学生産工学部構内には、旧陸軍の記念碑がいくつかある。その多くが、騎兵第14連隊に関わるものである。

習志野市大久保一帯は、まさに騎兵の町と言うべき場所であったようで、騎兵旅団司令部跡や騎兵連隊の跡が残っているが、旅団司令部は公園のなかに石碑と門柱、騎兵連隊については日本大学生産工学部や隣の東邦大学薬学部構内に石碑などが残っている。

<かつての騎兵旅団司令部>

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もとをただせば、明治6年(1873年)の明治天皇行幸に際して、近衛兵による演習が行われ、それによって演習が行われた大和田原が「習志野原」と名づけられた。「習志野原」については、演習に用いられたので、「『馴らし』の原」と言われたとか、篠原国幹が演習で目覚ましい働きをしたので、明治天皇が「篠原に習え」ということで「習篠原」から「習志野原」と命名したとか、説がある。現在の陸上自衛隊習志野駐屯地には、空挺館という建物があるが、これはかつて「御馬見所」という建物であった。建てられたのは、明治44年(1911)、明治天皇存命中に目黒にあった騎兵学校内で、明治天皇も騎兵学校の修業式に臨席、学生の馬術を見学したという。大正5年(1916)に、騎兵学校が船橋市習志野の現在空挺館がある地に移されて、「御馬見所」も移築された。以降は、迎賓館と利用されたようである。

<「御馬見所」として建てられた空挺館>

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明治天皇の習志野原での演習に伴う行幸以来、周辺に軍関係の施設なども拡張配備されてきた。明治32年(1899)には、日本陸軍初の快速兵団として騎兵連隊が習志野原に創設された。明治34年(1901)には、現在の習志野市域である大久保に転営、東邦大学、日大生産工学部付近に第十三、十四連隊からなる第一旅団、東邦中学校・東邦高校付近に第十五、十六連隊からなる第二旅団がおかれた。また、八幡公園、旧習志野郵便局の場所に前述の旅団司令部がおかれたのである。日露戦争には両旅団が、日中戦争時には第一旅団が派遣された。その日露戦争当時の第一旅団長であったのが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」でも有名な秋山好古陸軍少将である。

NHKのドラマの関係で、秋山好古も注目されているようで、その銅像というかレリーフが、大久保の商店街のなかに最近作られた。夜見ただけで、近くなのにどうも足が向かず、いまだに写真も撮っていない。商店街では、町おこしのつもりなのだろうが、歩いている人が増えているとも思えない。

その秋山好古旅団長は、ロシアのコサック騎兵部隊に対してよく戦い、騎兵に砲隊も組み込むという独自の編成と騎兵を時には歩兵として使う戦術もあえて行った。しかし、軍隊の機械化により、騎兵連隊はその役割を終え、機械化部隊に再編成されていく。

なお戦後、連隊の兵舎は、学校の校舎、寮などになり、昭和50年(1975)前位まではかなり残っていたが、いつの間にか新校舎などに建て替えられてしまった。旅団司令部の建物も、郵便局となり、その郵便局も移転した。八幡公園にある旅団司令部の門は現存する。騎兵旅団司令部の隊門付近に、「騎兵第一旅団司令部跡」と書かれた石柱碑「軍馬之碑」などがある。「軍馬之碑」とは、戦場では文字通り、人馬一体となって、騎兵を背にして戦場を駆け抜けた軍馬の霊を慰めるために建てられたもので、「軍馬之碑」「馬頭観世音」「軍馬忠魂塔」と三つが並んでいる。

<習志野騎兵旅団司令部の隊門>

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<騎兵旅団司令部址の記念碑>

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なお、騎兵は次第に機械化の波によって、過去のものとなり、活躍の場を失っていく。特に、第一次世界大戦を契機として、世界的に近代戦へ戦術だけでなく、そのインフラというべき兵器も大きく変化した。日本陸軍でも、機械化部隊が、大きく表舞台に登場し、野戦重砲兵や戦車部隊などが活躍することになる。また、騎兵部隊も、自動車化・機械化が研究されるようになった。そして、戦闘の第一線ではなく、偵察や伝令などを任務とする捜索部隊として、騎兵は第二次大戦まで存続することになる。かわって、台頭したもののひとつが、戦車部隊である。

奇しくも、日大構内には、騎兵第14連隊とそれが移動した後に入った戦車第2連隊の碑が、同じ場所に集められている。

<日大構内の騎兵第14連隊の碑>

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戦車部隊の碑は、自然石を薄く切ったような形であり、はめ込まれた銅板には以下のような碑文が書かれている。かなり細かい字で、読むのに苦労した。

戦車第二聯隊の跡

 戦車第二聯隊は昭和八年八月千葉陸軍歩兵学校教導隊戦車隊を強化改編して、国軍最初の戦車聯隊として創設され、騎兵第十四聯隊駐屯の跡に移駐した。その教育部に、全国歩兵聯隊から派遣された将校・下士官の教育に専念し、後に陸軍戦車学校に発展した。
 昭和十二年七月動員下命、聯隊の主力は北支に出動、保定会戦、黄河以北戡定作戦、徐州会戦等に赫々たる武勲を揚げた。十三年七月、部隊は戦車第八聯隊に改編され、中原会戦、満州・北支警備等の後、十七年秋、南海のラバウルへ転進した。
 戦車第二聯隊は昭和十三年七月留守隊を強化し、此処習志野で再編成された。十六年秋再び動員され、蘭印作戦に参加し各地に善戦した。分遣された第一中隊はビルマ、第四中隊はガタルカナルに於て悪戦苦闘した。聯隊は十七年秋習志野に帰還した。
 この間、習志野で編成した戦車第四大隊は昭和九年奉天に、支那駐屯軍戦車隊は十一年天津に、戦車第十七聯隊は十七年綏遠省平地泉、独立戦車第七・第八中隊は十九年夏フィリッピンに派遣された。
河野第七中隊はレイテ島に、岩下第八中隊はマニラ飛行場周辺に三度壮烈な出撃戦を展開、戦車魂を発揮して全員華と散った。
戦局緊迫するや、動員令により戦車第二聯隊は昭和十九年相模地区に移動、その補充隊は二十年四月新たに六個の戦車聯隊を編成し、相共に配備につき本土決戦に備えたが、八月終戦を迎えた。
この度、日本大学当局より理解ある御協力を戴き、有志相図り、幾多戦友の偉勲を偲びつつ、此処戦車第2聯隊駐屯の跡に、この碑を建て聯隊の事蹟を永く伝う。

昭和六十三年八月一日
戦車第二聯隊会

<戦車第2連隊の碑>

Senshahi

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