日大生産工学部構内にある戦車隊の碑
千葉県船橋市から習志野市にまたがっているが、日本大学生産工学部構内には、旧陸軍の記念碑がいくつかある。その多くが、騎兵第14連隊に関わるものである。
習志野市大久保一帯は、まさに騎兵の町と言うべき場所であったようで、騎兵旅団司令部跡や騎兵連隊の跡が残っているが、旅団司令部は公園のなかに石碑と門柱、騎兵連隊については日本大学生産工学部や隣の東邦大学薬学部構内に石碑などが残っている。
<かつての騎兵旅団司令部>
もとをただせば、明治6年(1873年)の明治天皇行幸に際して、近衛兵による演習が行われ、それによって演習が行われた大和田原が「習志野原」と名づけられた。「習志野原」については、演習に用いられたので、「『馴らし』の原」と言われたとか、篠原国幹が演習で目覚ましい働きをしたので、明治天皇が「篠原に習え」ということで「習篠原」から「習志野原」と命名したとか、説がある。現在の陸上自衛隊習志野駐屯地には、空挺館という建物があるが、これはかつて「御馬見所」という建物であった。建てられたのは、明治44年(1911)、明治天皇存命中に目黒にあった騎兵学校内で、明治天皇も騎兵学校の修業式に臨席、学生の馬術を見学したという。大正5年(1916)に、騎兵学校が船橋市習志野の現在空挺館がある地に移されて、「御馬見所」も移築された。以降は、迎賓館と利用されたようである。
<「御馬見所」として建てられた空挺館>
明治天皇の習志野原での演習に伴う行幸以来、周辺に軍関係の施設なども拡張配備されてきた。明治32年(1899)には、日本陸軍初の快速兵団として騎兵連隊が習志野原に創設された。明治34年(1901)には、現在の習志野市域である大久保に転営、東邦大学、日大生産工学部付近に第十三、十四連隊からなる第一旅団、東邦中学校・東邦高校付近に第十五、十六連隊からなる第二旅団がおかれた。また、八幡公園、旧習志野郵便局の場所に前述の旅団司令部がおかれたのである。日露戦争には両旅団が、日中戦争時には第一旅団が派遣された。その日露戦争当時の第一旅団長であったのが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」でも有名な秋山好古陸軍少将である。
NHKのドラマの関係で、秋山好古も注目されているようで、その銅像というかレリーフが、大久保の商店街のなかに最近作られた。夜見ただけで、近くなのにどうも足が向かず、いまだに写真も撮っていない。商店街では、町おこしのつもりなのだろうが、歩いている人が増えているとも思えない。
その秋山好古旅団長は、ロシアのコサック騎兵部隊に対してよく戦い、騎兵に砲隊も組み込むという独自の編成と騎兵を時には歩兵として使う戦術もあえて行った。しかし、軍隊の機械化により、騎兵連隊はその役割を終え、機械化部隊に再編成されていく。
なお戦後、連隊の兵舎は、学校の校舎、寮などになり、昭和50年(1975)前位まではかなり残っていたが、いつの間にか新校舎などに建て替えられてしまった。旅団司令部の建物も、郵便局となり、その郵便局も移転した。八幡公園にある旅団司令部の門は現存する。騎兵旅団司令部の隊門付近に、「騎兵第一旅団司令部跡」と書かれた石柱碑「軍馬之碑」などがある。「軍馬之碑」とは、戦場では文字通り、人馬一体となって、騎兵を背にして戦場を駆け抜けた軍馬の霊を慰めるために建てられたもので、「軍馬之碑」「馬頭観世音」「軍馬忠魂塔」と三つが並んでいる。
<習志野騎兵旅団司令部の隊門>
なお、騎兵は次第に機械化の波によって、過去のものとなり、活躍の場を失っていく。特に、第一次世界大戦を契機として、世界的に近代戦へ戦術だけでなく、そのインフラというべき兵器も大きく変化した。日本陸軍でも、機械化部隊が、大きく表舞台に登場し、野戦重砲兵や戦車部隊などが活躍することになる。また、騎兵部隊も、自動車化・機械化が研究されるようになった。そして、戦闘の第一線ではなく、偵察や伝令などを任務とする捜索部隊として、騎兵は第二次大戦まで存続することになる。かわって、台頭したもののひとつが、戦車部隊である。
奇しくも、日大構内には、騎兵第14連隊とそれが移動した後に入った戦車第2連隊の碑が、同じ場所に集められている。
<日大構内の騎兵第14連隊の碑>
戦車部隊の碑は、自然石を薄く切ったような形であり、はめ込まれた銅板には以下のような碑文が書かれている。かなり細かい字で、読むのに苦労した。
戦車第二聯隊の跡
戦車第二聯隊は昭和八年八月千葉陸軍歩兵学校教導隊戦車隊を強化改編して、国軍最初の戦車聯隊として創設され、騎兵第十四聯隊駐屯の跡に移駐した。その教育部に、全国歩兵聯隊から派遣された将校・下士官の教育に専念し、後に陸軍戦車学校に発展した。
昭和十二年七月動員下命、聯隊の主力は北支に出動、保定会戦、黄河以北戡定作戦、徐州会戦等に赫々たる武勲を揚げた。十三年七月、部隊は戦車第八聯隊に改編され、中原会戦、満州・北支警備等の後、十七年秋、南海のラバウルへ転進した。
戦車第二聯隊は昭和十三年七月留守隊を強化し、此処習志野で再編成された。十六年秋再び動員され、蘭印作戦に参加し各地に善戦した。分遣された第一中隊はビルマ、第四中隊はガタルカナルに於て悪戦苦闘した。聯隊は十七年秋習志野に帰還した。
この間、習志野で編成した戦車第四大隊は昭和九年奉天に、支那駐屯軍戦車隊は十一年天津に、戦車第十七聯隊は十七年綏遠省平地泉、独立戦車第七・第八中隊は十九年夏フィリッピンに派遣された。
河野第七中隊はレイテ島に、岩下第八中隊はマニラ飛行場周辺に三度壮烈な出撃戦を展開、戦車魂を発揮して全員華と散った。
戦局緊迫するや、動員令により戦車第二聯隊は昭和十九年相模地区に移動、その補充隊は二十年四月新たに六個の戦車聯隊を編成し、相共に配備につき本土決戦に備えたが、八月終戦を迎えた。
この度、日本大学当局より理解ある御協力を戴き、有志相図り、幾多戦友の偉勲を偲びつつ、此処戦車第2聯隊駐屯の跡に、この碑を建て聯隊の事蹟を永く伝う。
昭和六十三年八月一日
戦車第二聯隊会
<戦車第2連隊の碑>
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コメント
この辺りの、千葉工大、東邦大、日大生産工学部の門は赤レンガのようだったが陸軍のなごりなんでしょうね。
投稿: 昔の人 | 2022.04.09 17:28