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2009.09.23

Legend of Xanadu 木更津海軍航空隊の伝説

「千葉県の戦争遺跡」http://www.shimousa.net のHPを手伝っているのであるが、最近では自分のHPを更新する間もないほど、こちらのほうに専念してしまっている。ほかにも、某団体のHPを頼まれて面倒みており、こちらはそれほど更新があるわけではないが、負担は少しある。もう一団体、面倒みることになったら、小生は完全にパンクするだろう。なんとか、それだけは避けたい。

「千葉県の戦争遺跡」の構成は、左サイドにメニューがあって、以下のような構成である。

<千葉県の戦争遺跡のメニュー>

Chibaken

主頁:国破在山河

血涙の軍隊手帳

千葉県の戦争遺跡

軍郷習志野

陸軍習志野学校

「支那囲壁砲台」

「首都防衛」の飛行場

鉄道連隊の戦争遺跡

日本各地の戦争遺跡

戦時中国の写真集

大東亜共栄圏の虚妄

資料室

と、一応HPらしく構成してある。

メインの「千葉県の戦争遺跡」はメニュー画面だけで、同名のブログにリンクさせている。だから、ブログ「千葉県の戦争遺跡」を直接見ている人が多く、そのアクセスは今までに約7万9千。といってもアクセスカウンターは途中からつけたため、正確なアクセス数は不明で、10万はとっくに超えているはず。一方、HPのアクセスのほうは、3万いくらであり、もうこの時点で主客転倒している。

アクセス解析では、結構アクセスが多いのは、「千葉県の戦争遺跡」のメニューを除けば「軍郷習志野」が突出し、「陸軍習志野学校」や「血涙の軍隊手帳」のページも多い。

内容的には、以前から鉄道連隊を取り上げており、最近は「『首都防衛』の飛行場」として、柏、松戸、印旛の各飛行場(いずれも陸軍)を取り上げるなど、幅広くなってきてはいるが、「千葉県の」とうたっている割には、東葛地域に偏っている感じで、もっと幅広いテーマを取り上げるよう、計画している。しかし、あれこれ注文が多く、他のHPなどとあわせて、維持するのに汲々としている。

あれこれ使われることへの抵抗感もあって、「資料室」のページではHPの趣旨と多少ずれた洋楽系のページでもいれてしまおうかなと思ったりしたが、オーナーの了解が得られず、音楽は軍歌どまりとなっている。また、ソ連の軍歌をいれるとのことで、お前の好きな洋楽だといっていますが、それじゃ洋楽とは言えないと思う。

一方、前述の通り、「軍郷習志野」とか「陸軍習志野学校」、鉄道連隊系のページは結構見ている人がいるらしく、それなりにアクセスがあるのだが、最近設置した「『首都防衛』の飛行場」はさっぱりである。松戸、柏、印西と飛び歩き、市の学芸員からのヒアリングなどはもっぱら小生の仕事としてやってきたが、資料集めなどはおん大将がやっているとはいえ、大変である。

さらに、松戸の陸軍工兵学校や房総の木更津、茂原、香取といった海軍基地、航空隊跡についてもページを作ることになった。鉄道連隊がらみの近くの写真も撮ってあり、工兵学校のほうは、ネタ的には前からの蓄積もあるし、いざというときは松戸市に聞けばいいので何ということもないが。海軍基地のほうは、今から困難が予想される。

<松戸の陸軍工兵学校跡>

Eimon1

「お前はいつから陸軍ばかりやっているんだ、こっちは海軍だぞ」、といわれても、小生自身は軍隊にはいったことはござんせん。やむなく、先日木更津に行ってきた。

JR総武線の快速に乗り、内房線に入ると、蘇我までは見慣れた風景。しかし、浜野からは、ほとんど知らない世界。といっても、おととしくらいには八幡宿には行ったっけ。快速電車を袖ヶ浦で降り、乗り継ぎが20分ほどの待ちとなり、外へ出て昼飯を食べることにした。しかし、駅前に殆ど店がない。少し歩くと、ホテルの一階がレストランになっていたので、そこで寿司を食べた。もともと、寿司屋だったのが、ホテルになったようなところであった。にぎりがやけに大きく、ネタも大きい。この辺は、そういう寿司なのだろうか。

結局電車でまた一駅行って、巌根という駅からとぼとぼと、航空廠跡や航空隊の跡を訪ねて行ったが、とにかく広い。また、現在の航空自衛隊と海上自衛隊の間にある「海軍道路」という広い直線的な道路沿いには、店がまばらにしかない。途中間違えて引き返し、ヤマザキデイリーストアを発見したときには地獄に仏という気がした。

<海上自衛隊補給処の門前にある錨>

Kisarazu_ikari_2

ヤマザキデイリーストアで、海上自衛隊補給処へ行きたい旨言うと、「ああ、陸海とならんでますからね、手前が海自で、まっすぐ行ったT字路の先ですよ」ということだった。さっき、小生が曲がってきたのは、どうみても十字路。おかしいなあと思いながら進めば、自分が曲がってきたのは、途中の交差点で、さらに道は延々と続いていた。

ヤマザキデイリーストアの店の人は、「陸海」と言っていたが、巌根駅に近いところには航空自衛隊もある。つまり、「陸海空」と旧海軍基地を自衛隊は仲良く分け合っているのである。海軍の基地だったのだから、海自がもっとのさばっていてもよさそうだが、広い飛行場跡は陸自の航空隊が押さえている。この広い海軍道路といい、これはもしかして、キサナドゥならぬ、木更津の伝説ではないか。

<海軍道路>

Kaigundouro

海自の補給処の前を南に道なりにいくと、堀そいに基地のフェンスがあり、それがずっと続いている。堀は、だんだん広くなる感じで、水門もいくつかあった。魚がいるようで、親子で釣りをしている人もいた。さすが、木更津である。だいたい、陸自の門のあたりなど、船橋で良く見る漁港風景のようではないか。

陸自の門は、海軍航空隊の門があった場所で、周辺の公園になっている場所にも、射撃の的を置いた台のようなものがある。また古い給水栓があり、もしや旧海軍のものかとおもいきや、マークは海軍のものではなく、自衛隊のもののようであった。

<木更津海軍航空隊跡~現在の陸上自衛隊木更津駐屯地の門>

Kisaradukoukuai

上の写真の左側の船が並んでいる、さらに左(南)にはやはり水門があり、もっと行くと本格的に漁業をやっている場所になるが、その辺はかつての水雷基地である。しかし、今回は余りゆっくりできない。10月4日の木更津航空祭の際に、また来るとしよう。

結局、見学はそのくらいにして、帰途についた。といっても、バスの時間には間が空きすぎ、木更津駅まで徒歩である。途中、店がある程度建てこんだ場所に出たのだが、閉まっている店ばかりで、御土産を買うような店もない。なにか寂れた商店街だと思いながら、ふと上をみると、小さな看板に「木更津銀座」とあった。地方都市が、こんなに疲弊しているとは。

切られ与三郎とかこうもり安の墓だか、供養塔か何かがある寺というのも、駅の近くにあったのであるが、疲れてしまい、まっすぐに駅へ向かった。

文章は余り書かなくていいとはいえ、「千葉県の戦争遺跡」HP取材は結構しんどい。だれかアルバイトでやってくれないかなあ、と思ってしまう。以前、漫画を書いてくれる人を探そうとしていたが、本気でカメラマンとかスタッフを募集しようか。

なお、今回は、旧国鉄から海軍航空廠への引き込み線の線路を見つけたのが、一番の収穫だろうか。自衛隊の中に入らないと、肝心な遺構はなかなか見られない。

<引き込み線の線路>

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2009.09.22

松戸にあった相模台城とは、どんな城だったのか

松戸の駅をおりると、中世の城跡が駅の近くに3つある。戸定公園の裏から千葉大にかけてが松戸城、松戸市役所の近くには根本城、もうひとつ聖徳学園のある「相模台」と呼ばれる岩瀬地区には相模台城があった。松戸は中世には千葉氏が支配したが、室町から戦国時代には千葉氏の一族で重臣であった原氏、さらに原氏の家老格であった高城氏に支配が移っていった。現在ある城跡は、原氏、高城氏の時代のものであろうが、遺構が余り残っておらず、小金城のように発掘調査がなされたわけでもなく、文献資料も乏しい。

相模台城は、現在のJR松戸駅の東口をまっすぐ東へ進んだ「相模台」の台地上にあった城であり、その場所は天文7年(1538)の第一次国府台合戦の主要な合戦場のひとつである。「相模台」は、標高25mの台地で、戦前陸軍工兵学校などがあった、字「相模台」の松戸中央公園とその南の台地端の字「塚田」の法務局、検察庁の庁舎や職員住宅のある場所、および松戸中央公園の東にある、字「向山」の聖徳学園などがある場所が城域と考えられるが、遺構が残っておらず、郭展開どころか、城域が台地全体なのか、台地の一角に留まるのかすら明確でない。

<「相模台」の現況~中央公園入口(陸軍工兵学校の門跡)>

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また、旧東葛飾郡岩瀬村にあったため、岩瀬城とも呼ばれたが、岩瀬城は相模台の北東の「岩瀬」の台地上にあった別の古い城であった可能性もある。この場所には、戦前陸軍工兵学校が置かれるなどして、土地の改変著しく、陸軍工兵学校の跡地が松戸中央公園になったほかにも、庁舎や学校がたって、整地されたため、遺構が残っていない。わずかに、駅前の市街地に通じる、台地の西南から低地へ下る切り通し状の道が、空堀(竪堀)跡と推定できる程度である。これは、かつて陸軍工兵学校があったときに、演習から疲れて帰ってきた軍人たちの最後の試練となった急な坂で、あともうすこしで工兵学校なのに、この急坂はまるで地獄坂だというような意味で名付けられた。

<「地獄坂」>

Jigokuzaka

実は、この坂の麓から台地をのぼる階段があり、のぼりきったところにある公園を相模台公園というのだが、周囲からみると窪地のようになっていて、削平されている。また、ここは旧軍の馬場があったところであり、なにかの土台にような石造物がある。 最近、ここも相模台城の一部で、腰郭ではないかと思うようになった。南低地からの敵の侵入を防ぐ意味があったと思われるし、地獄坂の空堀を敵がのぼってきても、その周囲の高くなっている場所から矢を射ることもできたのではないかと思う。

<相模台公園>

Baba2

後述するように、当城は天文7年(1538)には存在したが、築城時期も明らかではない。ただし、標高の高い台地上に存在したことから、鎌倉期の築城ではなく、時代の下った室町、戦国期の築城であり、その頃の当地域の支配者が築城にしたと考えるなら、その築城者は原氏、あるいは高城氏となる。 そもそも「相模台」とは、北条相模守高時が城を築いたため、そう名付けられた地名と伝えられる。『松戸の歴史案内』(松下邦夫著)によれば、 「建長元年(一二四九)に、房総三ヵ国の守護北条武蔵守長時が上総国山辺郡松之郷村と、松戸市の岩瀬村に城を築き、数代にわたってその家臣達が居城したといいます。 嘉歴元年(一三二六)になると、北条相模守高時が入道して崇鑑と号し、岩瀬に居城します。こうしたことでこの地が『相模台』といわれる様になったという訳です。」 とある。もちろん、これは「話」であって、信憑性は余りない。 北条相模守高時が松戸に住んでいたという滅茶苦茶な話は、もちろん信じがたい。北条高時の領地が松戸にもあったというなら、可能性はあるだろう。しかし、いまのところ、そういう文献上の証拠などがあったとは聞いていない。

<「相模台」の現況~松戸一中横の道路>

Sagamidai2

おそらく、「相模台」は、相模守という受領名をもった別人に由来するか、何らかの縁で相模という名を付けられたのであろう。また聖徳学園がある場所を「向山」といい、さらにその東に「殿井戸」という地名がある。「向山」は、谷を挟んで向いの山ということであろうから、「相模台」の向いというより、北側の根本城のあった「根本」の台地の向いの山という意味であろう。また、「殿井戸」は城主が住んでいた居館の井戸を示すのではないかと思われる。「殿井戸」から西の「相模台」までは約500mほどあり、相模台城の井戸としては遠すぎる、さらに「殿井戸」の近くには「殿屋敷」という小字があったということであるから、城は「相模台」にあって、平時城主がいたのは、その東の台地下の居館であったのではないか。あるいは「殿井戸」などの地名は、相模台城とは別に中世の城館があって、その関連地名の可能性もある。 天文7年(1538)10月の第一次国府台合戦の折、安房の里見氏、上総の武田氏を率いた小弓公方足利義明は本陣を国府台に置いて、配下の椎津、村上、堀江、鹿島の諸士がこの相模台に在陣して後北条軍の太日川渡河を見張ったという。江戸城から出陣した北条氏綱の約三千の後北条軍は、10月7日に松戸へ渡河し、椎津、村上らの小弓軍を破って南下、これを知った足利義明は千の手勢を率いて北上して交戦、義明本人とその子義純、弟基頼をはじめ馬廻り約140名が討たれるなどして、小弓軍は敗れ、国府台に陣を張った里見義尭率いる里見軍は、早々に戦を見限って安房に帰陣したという。

この相模台には戦死者の塚と伝える「経世塚」が、聖徳学園構内にある。これは2基の円墳で、古代の古墳であり、その上に中世の板碑がのっている。なお、学園関係者によれば、この「経世塚」は、前は別の場所にあったが、事情により現在地にうつされたとのことで、時々近所のお年寄りが写真を撮りにくることがあるという。「経世塚」は、もともとは古墳であり、第一次国府台合戦とは関係ないのであるが、何時の頃か結び付けられて今日にいたっている。

<「経世塚」>
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2009.09.06

九段で知り合いの歴史学者にばったり会う

東京都内を散歩するのは、久しぶりであるが、先日九段から神保町までブラブラと散策した。

実は、手伝っている「千葉県の戦争遺跡」(http://www.shimousa.net/)に「『首都防衛』の飛行場」というコーナーを作ることになり、とりあえず柏飛行場と印西市にあった印旛飛行場のページはアップしたが、松戸飛行場について記事自体はできているのに、写真がなかなか良いものが揃わず、特に松戸の飛行第五三戦隊や柏の飛行第七○戦隊からも四機、四名ずつ出して編成されたという震天制空隊の写真ですぐに使えるものがない。

もちろん、それについて研究している人のHPがあったり、鎌ヶ谷市郷土資料館が出した冊子にも載っているのだが、勝手に使うわけにもいかず、困っていた。

それで、頭の中は震天制空隊のことでいっぱいで、海法秀一が描いたB29に体当りする戦闘機の絵はがきでも売っていないかと靖国神社の遊就館に行ったのであった。

<靖国神社>

Oomura

海法秀一は、元陸軍軍曹で加藤隼戦闘隊で有名な陸軍飛行第六四戦隊に所属していたこともあるパイロットで、日本における空戦画の先駆者かつ第一人者だそうだ。空戦を描いた絵では、昔子供の頃にみた零戦などの空中戦の絵を思い出すが、そういう絵は戦闘機が宙返りしたり、かなり無理な態勢で飛んでいたり、現実離れしていた。この海法秀一の絵は決してうまい絵ではないが、なぜか説得力があるように思う。

海法秀一の絵は、靖国神社にもあるようだが、絵はがきのようなものは売っておらず、あきらめて帰ろうとした。

すると、意外なことに、同じ大学、同じ先生門下で、今は大学教授をしているYさんにばったりと会った。小生が学生のときには、Yさんは大学院の博士課程にいたと思う。他にも小生は、経済学部の院生で今はR大学の教授をしているOさんなども知っていた。

Yさんによれば、靖国神社には靖国偕行文庫という付属の図書館があって、戦史や戦友会誌などが豊富にあるとのこと。館長は防衛大学の名誉教授か何かしている人らしいのであるが、こういうことが調べたいというと資料をだしてきてくれる、煩わしい手続きもいらないし、古本屋で買えば何万円もする本がただで読めたり、靖国神社の奉賛会に入ると三冊まで借りられるということであった。

Yさんと小生の恩師は、陸軍士官学校を出て、大陸打通作戦など中国戦線を転戦、終戦時陸軍大尉であったが、戦後東大に入って歴史学者になった。先生は、なくなる2年くらい前に、1年に二冊本を書くと言っておられたが、本当にタフであり、元中隊長らしく統率力があった。文章は平明で、かつ具体的であり、事実に基づいたものであった。今やその先生のあとを、Yさんが継いだような格好である。

なお、小生の近況報告として軍事史学会に入ったことと、最近の大学の先生たちと柏で掩体壕の調査をしていると言ったところ、「その先生は知っている、自分も最近韓国に戦争遺跡の調査に行った」ということであった。

<チェジュ島の岸壁>

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チェジュ島には日本軍の特攻基地がたくさんあって、「チャングムの誓い」のドラマで撮影に使われた洞窟もそういう場所であったとのこと。例のモーターボートに爆弾を取り付けたような震洋の基地がたくさんあったそうだ。また海軍の飛行基地が近くにあった関係で掩体壕もたくさんあったと言っておられた。

現在の韓国にまで、日本軍は特攻基地をつくっていたとは、驚きである。

<チェジュ島の洞窟>

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本土決戦時、朝鮮半島を南下して、九州から連合軍が上陸してくることを想定し、日本軍はこれを水際でたたくことをかんがえていたのであろうか。千葉の九十九里浜にも、防衛線を張ろうとしていたが、連合軍が攻め込んでくるルートは複数想定していたのだろう。

Yさんと別れてからも、道々戦争のことを考えていた。曾祖父は戊辰戦争、祖父は日露戦争の終わったころに兵隊にとられた。父は太平洋戦争を体験している。自分は戦争の体験者でない。当たり前であるが、平和な時代に生まれてよかったと思う。

小生の父は海軍出身者であり、小生は子供の頃はよく靖国神社に連れてこられた。靖国神社の大村益次郎の銅像のある場所と本殿の間を横切る道沿いに、富国生命が建てたという大きな一対の燈籠がある。その社殿に向かって左側が陸軍、右側が海軍のいろいろな事跡をレリーフにしている。たしか、爆弾三勇士のレリーフも社殿向かって左側の燈籠基壇にあったはずであるが、いつも右側の海軍の方しか見ない。小生の父が、ほとんど海軍の方しか説明しなかったせいもある。そこに刻まれているのは、東郷平八郎の日本海海戦の例の三笠艦上にたっている姿、その横には旅順港閉塞の広瀬中佐の姿。

<靖国神社の燈籠基壇にある広瀬中佐のレリーフ>

Hirosechusa

海軍の軍人だったのは、小生の身内には結構いる。父方にもいるし、母方にもいる。海軍では通常志願兵ばかりであるが、小生の親戚も志願というか、元々職業軍人になろうと海軍にはいったものばかりである。母方の親戚で兵曹長か何かで軍艦に乗っていた人らしいが、戦死したものがいる。この人は、子供のころ、「海軍のおじさん」と呼んでいたが、正確な名前を失念した。

また親戚で海軍の軍医になって、皇族の侍医から各地の海軍病院長を歴任した人がいる。東大を出て、海軍にはいって軍医中尉になった。結局、軍医では最高位までのぼりつめたが、戦後は公職追放となり、田舎の開業医になった。追放解除になってからと思うが、東大のほうで教授をやらないかと後輩に誘われたらしい。しかし、もう表舞台でやる気はないとのことで断り、田舎で医者を続けた。子供の頃から頭は良すぎるくらいだし、服装などには無頓着で、変わった人だったというが、自分なりの考えを通したのだと思う。

往診にいくのに、地下足袋をはいていったので、長靴をはいた猫ならぬ、地下足袋を履いた元海軍病院長の医者では、童話のネタにはならないだろう。軍隊では最初から中尉で、歩くか運転手付きの自動車に乗っていたため、一度も自転車に乗ったことがなく、年取ってから自転車に乗る練習をしたらしい。結局、軍医だった親戚は、自転車に終生乗れないまま、なくなってしまった。

<震天制空隊が乗った屠龍>

Kawasaki_ki451

話がそれたが、結局あれこれと考えたあげく、震天制空隊の写真は鎌ヶ谷市の学芸員さんと話をして、鎌ヶ谷市郷土資料館が発行した冊子から転載してよいことになり、一件落着したのであった。

だから靖国神社まで行く必要はなかったが、行かなければYさんには会わなかったのである。

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