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2009.09.22

松戸にあった相模台城とは、どんな城だったのか

松戸の駅をおりると、中世の城跡が駅の近くに3つある。戸定公園の裏から千葉大にかけてが松戸城、松戸市役所の近くには根本城、もうひとつ聖徳学園のある「相模台」と呼ばれる岩瀬地区には相模台城があった。松戸は中世には千葉氏が支配したが、室町から戦国時代には千葉氏の一族で重臣であった原氏、さらに原氏の家老格であった高城氏に支配が移っていった。現在ある城跡は、原氏、高城氏の時代のものであろうが、遺構が余り残っておらず、小金城のように発掘調査がなされたわけでもなく、文献資料も乏しい。

相模台城は、現在のJR松戸駅の東口をまっすぐ東へ進んだ「相模台」の台地上にあった城であり、その場所は天文7年(1538)の第一次国府台合戦の主要な合戦場のひとつである。「相模台」は、標高25mの台地で、戦前陸軍工兵学校などがあった、字「相模台」の松戸中央公園とその南の台地端の字「塚田」の法務局、検察庁の庁舎や職員住宅のある場所、および松戸中央公園の東にある、字「向山」の聖徳学園などがある場所が城域と考えられるが、遺構が残っておらず、郭展開どころか、城域が台地全体なのか、台地の一角に留まるのかすら明確でない。

<「相模台」の現況~中央公園入口(陸軍工兵学校の門跡)>

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また、旧東葛飾郡岩瀬村にあったため、岩瀬城とも呼ばれたが、岩瀬城は相模台の北東の「岩瀬」の台地上にあった別の古い城であった可能性もある。この場所には、戦前陸軍工兵学校が置かれるなどして、土地の改変著しく、陸軍工兵学校の跡地が松戸中央公園になったほかにも、庁舎や学校がたって、整地されたため、遺構が残っていない。わずかに、駅前の市街地に通じる、台地の西南から低地へ下る切り通し状の道が、空堀(竪堀)跡と推定できる程度である。これは、かつて陸軍工兵学校があったときに、演習から疲れて帰ってきた軍人たちの最後の試練となった急な坂で、あともうすこしで工兵学校なのに、この急坂はまるで地獄坂だというような意味で名付けられた。

<「地獄坂」>

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実は、この坂の麓から台地をのぼる階段があり、のぼりきったところにある公園を相模台公園というのだが、周囲からみると窪地のようになっていて、削平されている。また、ここは旧軍の馬場があったところであり、なにかの土台にような石造物がある。 最近、ここも相模台城の一部で、腰郭ではないかと思うようになった。南低地からの敵の侵入を防ぐ意味があったと思われるし、地獄坂の空堀を敵がのぼってきても、その周囲の高くなっている場所から矢を射ることもできたのではないかと思う。

<相模台公園>

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後述するように、当城は天文7年(1538)には存在したが、築城時期も明らかではない。ただし、標高の高い台地上に存在したことから、鎌倉期の築城ではなく、時代の下った室町、戦国期の築城であり、その頃の当地域の支配者が築城にしたと考えるなら、その築城者は原氏、あるいは高城氏となる。 そもそも「相模台」とは、北条相模守高時が城を築いたため、そう名付けられた地名と伝えられる。『松戸の歴史案内』(松下邦夫著)によれば、 「建長元年(一二四九)に、房総三ヵ国の守護北条武蔵守長時が上総国山辺郡松之郷村と、松戸市の岩瀬村に城を築き、数代にわたってその家臣達が居城したといいます。 嘉歴元年(一三二六)になると、北条相模守高時が入道して崇鑑と号し、岩瀬に居城します。こうしたことでこの地が『相模台』といわれる様になったという訳です。」 とある。もちろん、これは「話」であって、信憑性は余りない。 北条相模守高時が松戸に住んでいたという滅茶苦茶な話は、もちろん信じがたい。北条高時の領地が松戸にもあったというなら、可能性はあるだろう。しかし、いまのところ、そういう文献上の証拠などがあったとは聞いていない。

<「相模台」の現況~松戸一中横の道路>

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おそらく、「相模台」は、相模守という受領名をもった別人に由来するか、何らかの縁で相模という名を付けられたのであろう。また聖徳学園がある場所を「向山」といい、さらにその東に「殿井戸」という地名がある。「向山」は、谷を挟んで向いの山ということであろうから、「相模台」の向いというより、北側の根本城のあった「根本」の台地の向いの山という意味であろう。また、「殿井戸」は城主が住んでいた居館の井戸を示すのではないかと思われる。「殿井戸」から西の「相模台」までは約500mほどあり、相模台城の井戸としては遠すぎる、さらに「殿井戸」の近くには「殿屋敷」という小字があったということであるから、城は「相模台」にあって、平時城主がいたのは、その東の台地下の居館であったのではないか。あるいは「殿井戸」などの地名は、相模台城とは別に中世の城館があって、その関連地名の可能性もある。 天文7年(1538)10月の第一次国府台合戦の折、安房の里見氏、上総の武田氏を率いた小弓公方足利義明は本陣を国府台に置いて、配下の椎津、村上、堀江、鹿島の諸士がこの相模台に在陣して後北条軍の太日川渡河を見張ったという。江戸城から出陣した北条氏綱の約三千の後北条軍は、10月7日に松戸へ渡河し、椎津、村上らの小弓軍を破って南下、これを知った足利義明は千の手勢を率いて北上して交戦、義明本人とその子義純、弟基頼をはじめ馬廻り約140名が討たれるなどして、小弓軍は敗れ、国府台に陣を張った里見義尭率いる里見軍は、早々に戦を見限って安房に帰陣したという。

この相模台には戦死者の塚と伝える「経世塚」が、聖徳学園構内にある。これは2基の円墳で、古代の古墳であり、その上に中世の板碑がのっている。なお、学園関係者によれば、この「経世塚」は、前は別の場所にあったが、事情により現在地にうつされたとのことで、時々近所のお年寄りが写真を撮りにくることがあるという。「経世塚」は、もともとは古墳であり、第一次国府台合戦とは関係ないのであるが、何時の頃か結び付けられて今日にいたっている。

<「経世塚」>
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