« 北小金の寺と神社 | トップページ | 松戸にあった相模台城とは、どんな城だったのか »

2009.09.06

九段で知り合いの歴史学者にばったり会う

東京都内を散歩するのは、久しぶりであるが、先日九段から神保町までブラブラと散策した。

実は、手伝っている「千葉県の戦争遺跡」(http://www.shimousa.net/)に「『首都防衛』の飛行場」というコーナーを作ることになり、とりあえず柏飛行場と印西市にあった印旛飛行場のページはアップしたが、松戸飛行場について記事自体はできているのに、写真がなかなか良いものが揃わず、特に松戸の飛行第五三戦隊や柏の飛行第七○戦隊からも四機、四名ずつ出して編成されたという震天制空隊の写真ですぐに使えるものがない。

もちろん、それについて研究している人のHPがあったり、鎌ヶ谷市郷土資料館が出した冊子にも載っているのだが、勝手に使うわけにもいかず、困っていた。

それで、頭の中は震天制空隊のことでいっぱいで、海法秀一が描いたB29に体当りする戦闘機の絵はがきでも売っていないかと靖国神社の遊就館に行ったのであった。

<靖国神社>

Oomura

海法秀一は、元陸軍軍曹で加藤隼戦闘隊で有名な陸軍飛行第六四戦隊に所属していたこともあるパイロットで、日本における空戦画の先駆者かつ第一人者だそうだ。空戦を描いた絵では、昔子供の頃にみた零戦などの空中戦の絵を思い出すが、そういう絵は戦闘機が宙返りしたり、かなり無理な態勢で飛んでいたり、現実離れしていた。この海法秀一の絵は決してうまい絵ではないが、なぜか説得力があるように思う。

海法秀一の絵は、靖国神社にもあるようだが、絵はがきのようなものは売っておらず、あきらめて帰ろうとした。

すると、意外なことに、同じ大学、同じ先生門下で、今は大学教授をしているYさんにばったりと会った。小生が学生のときには、Yさんは大学院の博士課程にいたと思う。他にも小生は、経済学部の院生で今はR大学の教授をしているOさんなども知っていた。

Yさんによれば、靖国神社には靖国偕行文庫という付属の図書館があって、戦史や戦友会誌などが豊富にあるとのこと。館長は防衛大学の名誉教授か何かしている人らしいのであるが、こういうことが調べたいというと資料をだしてきてくれる、煩わしい手続きもいらないし、古本屋で買えば何万円もする本がただで読めたり、靖国神社の奉賛会に入ると三冊まで借りられるということであった。

Yさんと小生の恩師は、陸軍士官学校を出て、大陸打通作戦など中国戦線を転戦、終戦時陸軍大尉であったが、戦後東大に入って歴史学者になった。先生は、なくなる2年くらい前に、1年に二冊本を書くと言っておられたが、本当にタフであり、元中隊長らしく統率力があった。文章は平明で、かつ具体的であり、事実に基づいたものであった。今やその先生のあとを、Yさんが継いだような格好である。

なお、小生の近況報告として軍事史学会に入ったことと、最近の大学の先生たちと柏で掩体壕の調査をしていると言ったところ、「その先生は知っている、自分も最近韓国に戦争遺跡の調査に行った」ということであった。

<チェジュ島の岸壁>

800pxcountryside_jejudo

チェジュ島には日本軍の特攻基地がたくさんあって、「チャングムの誓い」のドラマで撮影に使われた洞窟もそういう場所であったとのこと。例のモーターボートに爆弾を取り付けたような震洋の基地がたくさんあったそうだ。また海軍の飛行基地が近くにあった関係で掩体壕もたくさんあったと言っておられた。

現在の韓国にまで、日本軍は特攻基地をつくっていたとは、驚きである。

<チェジュ島の洞窟>

800pxkhitai3

本土決戦時、朝鮮半島を南下して、九州から連合軍が上陸してくることを想定し、日本軍はこれを水際でたたくことをかんがえていたのであろうか。千葉の九十九里浜にも、防衛線を張ろうとしていたが、連合軍が攻め込んでくるルートは複数想定していたのだろう。

Yさんと別れてからも、道々戦争のことを考えていた。曾祖父は戊辰戦争、祖父は日露戦争の終わったころに兵隊にとられた。父は太平洋戦争を体験している。自分は戦争の体験者でない。当たり前であるが、平和な時代に生まれてよかったと思う。

小生の父は海軍出身者であり、小生は子供の頃はよく靖国神社に連れてこられた。靖国神社の大村益次郎の銅像のある場所と本殿の間を横切る道沿いに、富国生命が建てたという大きな一対の燈籠がある。その社殿に向かって左側が陸軍、右側が海軍のいろいろな事跡をレリーフにしている。たしか、爆弾三勇士のレリーフも社殿向かって左側の燈籠基壇にあったはずであるが、いつも右側の海軍の方しか見ない。小生の父が、ほとんど海軍の方しか説明しなかったせいもある。そこに刻まれているのは、東郷平八郎の日本海海戦の例の三笠艦上にたっている姿、その横には旅順港閉塞の広瀬中佐の姿。

<靖国神社の燈籠基壇にある広瀬中佐のレリーフ>

Hirosechusa

海軍の軍人だったのは、小生の身内には結構いる。父方にもいるし、母方にもいる。海軍では通常志願兵ばかりであるが、小生の親戚も志願というか、元々職業軍人になろうと海軍にはいったものばかりである。母方の親戚で兵曹長か何かで軍艦に乗っていた人らしいが、戦死したものがいる。この人は、子供のころ、「海軍のおじさん」と呼んでいたが、正確な名前を失念した。

また親戚で海軍の軍医になって、皇族の侍医から各地の海軍病院長を歴任した人がいる。東大を出て、海軍にはいって軍医中尉になった。結局、軍医では最高位までのぼりつめたが、戦後は公職追放となり、田舎の開業医になった。追放解除になってからと思うが、東大のほうで教授をやらないかと後輩に誘われたらしい。しかし、もう表舞台でやる気はないとのことで断り、田舎で医者を続けた。子供の頃から頭は良すぎるくらいだし、服装などには無頓着で、変わった人だったというが、自分なりの考えを通したのだと思う。

往診にいくのに、地下足袋をはいていったので、長靴をはいた猫ならぬ、地下足袋を履いた元海軍病院長の医者では、童話のネタにはならないだろう。軍隊では最初から中尉で、歩くか運転手付きの自動車に乗っていたため、一度も自転車に乗ったことがなく、年取ってから自転車に乗る練習をしたらしい。結局、軍医だった親戚は、自転車に終生乗れないまま、なくなってしまった。

<震天制空隊が乗った屠龍>

Kawasaki_ki451

話がそれたが、結局あれこれと考えたあげく、震天制空隊の写真は鎌ヶ谷市の学芸員さんと話をして、鎌ヶ谷市郷土資料館が発行した冊子から転載してよいことになり、一件落着したのであった。

だから靖国神社まで行く必要はなかったが、行かなければYさんには会わなかったのである。

|

« 北小金の寺と神社 | トップページ | 松戸にあった相模台城とは、どんな城だったのか »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/84760/46133991

この記事へのトラックバック一覧です: 九段で知り合いの歴史学者にばったり会う:

« 北小金の寺と神社 | トップページ | 松戸にあった相模台城とは、どんな城だったのか »