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2009.12.20

三山七年祭2009を振り返って

三山七年祭は、船橋市三山の二宮神社を中心に丑年、未年に行われる大祭で、今年2009年11月にはその本祭が行われた。小生、本祭では準備の段階から見て、本祭と菊田神社の花流しの一端をまじかに見た。

今年の七年祭大祭日程表をみると、11月21日(土)に禊式、22日(日)に大祭で神揃場での神輿集結と磯出祭があり、翌23日(月)早朝3時以降に磯出式、午前7時前に火之口台挙式、二宮神社の神輿は藤崎、田喜野井と渡り、夜二宮神社に還御して祭典終了となっていた。日程については、日付がかわっていて、前回の神揃場での神輿集結が11月2日と11月初めだったのに、今回は11月下旬になっているほかは、式の内容では前回と殆どかわったことはないようだ。

<平成21年の七年祭大祭日程表>

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その祭には船橋市、習志野市、千葉市、八千代市の神社が参加するため、広域に祭が展開されるが、前述のように中心は船橋市の二宮神社である。近隣の人は、二宮神社といえばすぐに分かるが、もともと一宮、二宮の二宮だけに、全国各地には同じ名前の神社もあり、知らない人のために少し解説してみたい。

<二宮神社での本祭の準備>

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船橋市三山にある二宮神社は、その起源を千年以上昔に遡る古い神社である。三山は、御山、もしくは宮山が変化した地名と考えられ、実際その神官の子孫で御山姓の家が何軒か周辺にある。この二宮神社は、諸説あるも延喜式の「千葉郡 寒川神社」であるといわれている。寒川という地名は、千葉市南部(千葉市中央区寒川町)にあり、実際そこには寒川神社も存在する。しかし、千葉市中央区寒川町にある、その寒川神社は元々は伊勢神宮の御魂分けした神明社であったといわれ、かつその地は天正年間までは結城といわれていたことから、千葉市中央区寒川町の寒川神社は該当しないと考えられる。式内社であれば、古代にルーツを探ることができようが、神明社であれば一時代後であるからである。すなわち、延喜式の「千葉郡 寒川神社」は現在の二宮神社に比定され、寒川、すなわち手を切るような冷たい豊富な水が流れる場所、という名が示すように、二宮神社周辺は湧水地を持つ豊かな土地であったようである。二宮神社境内の拝殿のある場所の南は窪地になっており、その東側にかつて御手洗の池があったが、そこが菊田水系の水源にあたる。

<二宮神社の拝殿>

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二宮神社には水神も祀られ、御神宝は縄文時代の石棒(道祖神と同様の性神信仰の対象物という)ということであるから、その起源は水の恵みが豊作につながる原始信仰であったと思われる。また、近隣には「おはんが池」や倶利伽羅不動など、湧水、たなやといった場所が多く、そこには弁天や不動が祀られている。近隣の田喜野井という集落は、板碑も出土した中世から存在する集落であるが、この田喜野井という地名は「たぎる」ように水が湧き出す場所という意味であり、その集落の南側低地に「おはんが池」があった。このように、三山の地は菊田川の水源であり、その水源を背景に豊かな農地を持つ地域であった。それが下流の菊田神社などの氏子と、広い範囲での地域結合を生む背景になっていったと思われる。

<2009年本祭神揃場での菊田神社の神輿>

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なお、この三山地域をのちに三山庄あるいは三山荘といったが、船橋御厨のような明確な荘園であったわけではない。面白いことには、前述の御山姓と同様に当地の旧家で、将司家があるが、これは庄司に通じるのではないか。もちろん、正式な荘園の荘官というわけではないだろうが。ただ三山は古くからの集落であり、前述の田喜野井や藤崎といった地域と地域的な結びつきの強いところで、二宮神社はそのセンター的な役割をしていたといえる。

現在の幕張にいた千葉氏の一族で、のちに千葉宗家を乗っ取ることになる、馬加康胤の妻の安産祈願をきっかけに、文安2年(1445)から始まり、丑と未の年に近隣の神社も参加して行われてきた大規模な祭礼が、三山七年祭である。そこに参加する神社とは、二宮神社を中心に、幕張の子安神社、子守神社、三代王神社、前述の菊田神社、実籾の大原神社、高津の高津比咩神社、萱田の時平神社(八千代市)、八王子神社(船橋市)で、各神社各々役割が決まっており、以下のようになっている。

 ・二宮神社(船橋市三山)   :主人・父君
 ・子安神社(千葉市畑町)   :妻・母
 ・子守神社(千葉市幕張)   :子守
 ・三代王神社(千葉市武石)  :産婆
 ・菊田神社(習志野市津田沼) :叔父
 ・大原大宮神社(習志野市実籾) :叔母
 ・高津比咩神社(八千代市高津) :娘
 ・時平神社(八千代市萱田)  :息子
 ・八王子神社(船橋市古和釜) :息子

実は、今年も小生は三山七年祭の神揃場で、桟敷席から眺めていた。2003年の時もそうであった。伝承では室町時代に祭が始まってから、この祭は変化してきた。

三山七年祭は、千葉市幕張の子安神社、三代王神社など八つの神社の神輿が二宮神社に集まる神揃の祭と磯出祭という安産の産屋の儀式を行うという神事からなっている。また、三山七年祭では、火の口台の儀式という、久々田浜に上陸したという藤原師経の故事に基づいた儀式が、鷺沼の「神の台(かんのだい)」で、藤原師経に縁の深い菊田神社と二宮神社とで営まれる。このように、三山七年祭は、三山でもともとあった地域の豊作豊漁を祈願する祭に、久々田の藤原師経にまつわる神事が加わり、室町期の馬加康胤の妻の安産祈願が主題として混ざり合って、江戸時代以前に原形ができ、江戸時代に現在のような祭として完成、継続して来たと思われる。

祭の初めで神輿が揃う神揃の祭では、先頭に菊田神社の神輿が入ってくる。なぜ菊田神社なのかといえば、前述の二宮神社との密接な関わりが考えられる。神揃場は、周囲をぐるりと竹矢来で囲み、内側には土で築いた「オツカ」が並んでいる。また笹が立てられ、ややもすれば神輿が笹などにかくれて撮影しにくい。実は神揃場の近くに、菊田神社の一行を世話する長屋門の家がある。そういう長屋門の家とか、いかにも古そうな門構えの立派な家とか、とにかく他の神社の一行を世話する家も、同じように当地の旧家が世話をすることになっている。その菊田神社の一行を世話する家が一番神揃場に近いのは、何か由縁があるのだろうか。

<菊田神社の一行の休憩所となっている家>

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神揃場の桟敷で、神輿を担ぐ人をみていると、今まではいなかった女性が数人であるが、神輿を担いでいるのに気付いた。多分今回が初めてではないかと思う。これは菊田神社の花流しでも、同様であった。東京の祭などでは、ギャル神輿があるくらいで、あまり珍しくなくなったが、三山七年祭では、今回初めて見たと思うのである。神揃場の神輿は、場内に入ってくると何回かもんで、辺りをぐるっと回るのだが、男にまじって担ぐのも大変だろう。

そもそも祭は、時代とともに、参加する注連下からして変わっていっている。江戸時代には、三山に近いところでは、例えば船橋市の飯山満も祭に参加していたはずであるが、今は参加していないようである。飯山満よりも三山に遠い古和釜、坪井に氏子のいる八王子神社が参加しているのに、どういう訳だろうか。

<神揃場で神輿をもむ>

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<動画で見る:クリックしてください>

祭の神輿を担ぐ人は、他の一般的なまつりと同じように法被と手ぬぐいの姿であるが、金棒という役割の人は男でも白塗りに化粧をし、派手な着物を着て金棒を持ち、行列では金棒の音を立てて先導する。菊田神社の金棒は、男性ばかりで化粧も服装も派手であり、異形の人という感じである。金棒は、男性も女性もいて、二宮神社の女性の金棒は、花笠をかぶって着物に袴姿であった。古和釜の八王子神社の金棒は、花笠をかぶっているが、化粧をした男性ばかりである。

囃し方には、子供もいる。というより、二宮神社のは、子供だけでやっていた。昔は、大人の囃し方に一部子供が混じっていたと思う。

<囃し方>

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それに、祭に参加している人で、特徴的なのは旦那衆である。およそ、現代にはいない、カンカン帽に着物の着流し姿。明治の終わりから大正時代か、昭和の初めまでには確実にいたような旦那衆の姿である。旦那衆は、江戸時代にはどんな姿であったかは分からないが、大正頃に今の姿になったのだろう。

このように、祭は時代とともに変化する。次の未年には、別の変化があるかもしれない。

<菊田神社の花流し>

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