船橋大神宮と奉納神楽
船橋大神宮は、船橋市を代表する神社である。二宮神社も大きな神社であるが、初詣の人出の多さなどをみると、船橋大神宮が船橋市ナンバー1であろう。
船橋大神宮は規模が大きいだけでなく、古さの点でも特筆すべきものがある。船橋大神宮は、別名意富比神社というが、『日本三代実録』の貞観5年(863)の記事に名の見える古社である。この意富比とは、太陽神をあらわすオホヒ(大日)の神であるといわれ、同じく太陽神、天照大御神を祀る伊勢神宮と同一視され、中世後期から船橋神明と呼ばれるようになり、転じて船橋大神宮と呼ばれるようになった。船橋市の宗教法人として登録されている神社は、登録数の多い順に神明神社9、稲荷神社4、八幡神社3、意富比神社3、日枝神社、八坂神社、熊野神社2と続くが、他の神社とは違い、意富比神社は全国区の神社ではなく、当地独特の地域色のある神社である。
<船橋大神宮の本殿>
小生は、船橋大神宮より二宮神社の方が近いのだが、なぜか初詣には二宮神社ではなく、船橋大神宮へ行く。千葉県の多くの人は成田山へ初詣に行くのだろうが、船橋の人は船橋大神宮へ初詣に行く人が多い。船橋大神宮には、船橋だけでなく近隣の地域からも人が集まっているようである。その初詣の楽しみの一つは、お神楽である。以前のようなオープンなどんど焼きはなし、古いお札も事前にチェックされ、関係ないものは一切焼くことができなくなった。しかし、昔も今も、初詣客の多いことには変わりない。
<初詣客で賑わう境内>
この船橋大神宮は、夏見一帯の船橋御厨を保有していた伊勢神宮とも関連が深く、また戦国時代まで勢力を保った神官で豪族の富氏が宮司をつとめるなど、在地に勢力をのばし、船橋の湊など流通の集積場を背景として、商業活動に関与していた。江戸時代には、徳川将軍家に保護されたが、幕末の慶応4年(1868)に戊辰戦争の局地戦である市川・船橋戦争において、船橋大神宮は幕府方脱走兵の拠点とされたため、官軍の砲撃にあい、焼失してしまう。
もちろん、その後、本殿は再建され、現在に至っている。既に、明治5年(1872)には県社に列したというから、急速な復興ぶりであったようで、明治6年(1873)に本殿、明治22年(1889)には、拝殿が再建されている。今は、本殿、拝殿、客殿、社務所が建っているほか、境内には日本武尊と徳川家康・秀忠を祀るという、徳川将軍家ゆかりの常盤神社や大鳥神社などがあり、本町通りに面した場所には、摂末社を祀る。
<大鳥神社>
境内にある灯台は、明治13年(1880)に出来たもので、民間灯台では最大級、千葉県の文化財に指定されている。木造瓦葺3階建で、高さは12mとなっている。3階の灯室は洋風の灯台様式を採り入れた六角形の形をしている。また1階、2階は、畳敷きで料理を運び、宴会などもできるようになっている。
余談であるが、船橋大神宮と千葉県立船橋高校も関連があることは、殆ど知られていない。大正7年(1918)に開校した東華学校は船橋大神宮隣を教室としたが、大正9年(1921)には船橋大神宮神官の千葉健吉が引き継ぎ、名前も船橋中学院と改称した。この船橋中学院こそ、私立学校ではあるが、現在の千葉県立船橋高校の前身である。
<船橋大神宮の灯台>
この船橋大神宮では、前述のように正月などに神楽を行うが、それについて船橋市のHPには、以下のように書かれている。
「元日、節分、10月20日の例祭、4月の水神祭、12月の二の酉等に船橋大神宮(意富比神社)境内の神楽殿(水神祭は船橋漁港)で演じられます。伝えているのは大神宮楽部の人達で、古くから地元の人のほかに津田沼・谷津の人も参加しています。現在10座が伝えられています。」
また、この奉納神楽は、船橋市指定の無形民俗文化財になっている。現在10座が伝えられているという、神楽の演目は、①みこ舞、②猿田舞、③翁舞、④知乃里舞、⑤天狐舞、⑥田の神舞、⑦恵比寿舞、⑧恵比寿大黒舞、⑨笹舞、⑩山神舞である。恵比寿舞、恵比寿大黒舞のように、神話の神が出てくるものもある。
船橋大神宮で演じられる神楽(上記10座のうちにない「神明の舞」)で神狐が種まきするものがあるが、これは稲荷信仰から来たもののようだ。保食ノ命(ウケモチノカミ)が土地を耕し、お祓いのあと、清められた田に狐が種まきをする。種まきをする狐は、手に鈴をもっているが、これは種をあらわすもののようである。
<神狐の種まき>
動画は以下の通りであるが、単純な動きながら、囃しは舞楽の楽太鼓、大拍子(締太鼓)と笛とで、割合とにぎやかなものである。
下は、恵比寿、すなわち事代主命が岩長姫を釣るという恵比寿舞である。大国主命の子である事代主命は、恵比寿神といわれ、漁業の神で、豊漁のシンボルとされてきた。また、事代主命は 海上安全の神、市場の神としても祀られている。まさに、船橋には最適の神様である。岩長姫は、岩の神、寿命長久の神であるから、豊漁のうえに、長寿を祈願するというのが、この神楽の意味であろう。
岩長姫(磐長姫命)といえば、大山津見神の二人の娘の内の姉で、木花咲耶姫命は妹。邇邇芸命は木花咲耶姫命に求婚したときに、大山津見神から姉の岩長姫をつけて二人の娘を献じられたが、美人であった妹のみを娶り、不細工な岩長姫を返した。長寿の神である岩長姫を返したことから、邇邇芸命の子孫である天皇家は短命になったという話がある。
神楽の恵比寿は、何度も釣りに失敗し、最後に岩長姫を釣るが、うがった見方をすれば、これは人間見た目ではない、残りものには福があるという意味だろうか。
<恵比寿舞>
神狐の種まきが、五穀豊穣の願いをこめた神楽であるなら、恵比寿の舞は豊漁と長寿を祈るものなのであろう。船橋大神宮は、表参道の鳥居が船橋市街ではなく、海に面することから、漁業と深い関連のある神社であることは、以前から指摘されている。
船橋大神宮には、他に奉納相撲がある。これには、徳川家康にからんだ伝承が残っている。
正月のときには周囲に駐車場などができるので、分かりにくいが、今でも奉納相撲の土俵がある。この奉納相撲も、家康に結び付けられて伝承されており、天正18年(1590)徳川家康が鷹狩りで船橋御殿に滞在した際、地元漁師の子供たちが相撲を取って見せたところ、家康は大変喜び、以来これを神社に奉納するようになったという。その家康本人が没して船橋に来なくなってからも、江戸幕府が勧進元で奉納相撲は長く続けられ、戦後の混乱期一時中断していたが、昭和25年(1950)に再開された。
<船橋大神宮の土俵>
このように、船橋大神宮は、東京近郊でありながら、江戸時代初期の徳川家との関連や漁村だった頃の船橋の風俗・土着信仰の名残を留める、見どころの多い古社である。
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