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2010.02.28

船橋不動院の飯盛り大仏

船橋市街地のなかを東西に通っている本町通り。船橋市街地は空襲にあっていないため、廣瀬直船堂のような戦前からの建物も残っている。その少し南にはいった寺町は、文字通り寺の多い場所である。駅前から南に進み、本町通りとの交差点近くにある浄勝寺、その裏手にある難陀龍王堂のある覚王寺、因果(えんが)地蔵尊の圓蔵院などともに、真言宗不動院も寺町の一角にある。実は、不動院は覚王寺の末寺で、創建がいつかは分からないが、境内に元禄14年(1701)記銘の六観音石幢があり、すでに江戸時代前期にはあったものと思われる。

この不動院は、本堂と庫裏、墓地があるだけのこじんまりとした寺であるが、その門の近くには大きな石造釈迦如来坐像があり、石碑などがある。

<不動院>

Fudoin

この「大仏」といわれる石造釈迦如来坐像は、延享3年(1746)8月1日の津波によって亡くなった人々の供養のため建立されたもの。大仏といっても、さほど大きくなく、勿論鎌ヶ谷大仏よりも小さい。しかし、この大仏には悲しい逸話がある。

<不動院の石造釈迦如来坐像>

Meshidaibutu

もともと、船橋浦は「御菜の浦」と呼ばれ、将軍家の食卓にのぼる魚介を献上する漁場であり、徳川家康によって漁業権が保証されたといういわれがある。しかし、魚介の豊富な船橋浦は、近隣漁村がしばしば進入するところとなり、船橋の漁師と、浦安や行徳、葛西辺りの漁師との間では、漁場争いが絶えなかった。

船橋浦は三番瀬など、江戸前の恰好の漁場で、密漁も多く、漁業権を主張する船橋の漁師と周辺地域の漁師がよく争い、海上で争うことも多かった。特に文政7年(1824)には、一橋家御用の幟を押し立てて来た葛西の漁師と、船橋浦を守ろうとした船橋の漁師が衝突し、葛西の船に乗っていた一橋家の侍を船橋の漁師が殴ったことから大事となり、船橋の漁師惣代3名が入牢させられ、そのうち仁右衛門、団次郎の2名が獄死もしくは出牢後に病死した。その80年ほど前の延享3年(1748)津波の被害で落命した漁師たちの供養とあいまって、その牢の中で飯も満足に食べられなかった漁師惣代の苦労を偲んで、文政8年より大仏の顔に正月28日に飯を盛ることが年々続けられ、今日に至っている(明治以降は2月28日に飯盛りをする)。

大仏の横にある供養墓は、漁師惣代でなくなった仁右衛門、団次郎の2名のものである。

供養墓には、右から

了鑒寂照信士
         霊位
法要了清信士

と刻まれ、右の「了鑒寂照信士」には、「文政八乙酉 正月十五日」という命日と「俗名 岩田団治郎」とある。また、左の「法要了清信士」は、「文政七甲申 十二月廿四日」という命日、「俗名 内海仁右衛門」とあり、獄中でなくなったのが仁右衛門で、出獄してから病死したのが団次郎であることが分かる。仁右衛門の苗字が内海(うちうみ)であることから、仁右衛門の先祖は徳川家康に魚を献上し、内海姓と漁業権を貰った漁師であろう。 

<漁師惣代仁右衛門、団次郎の供養墓>

Meshidaibutu1

この飯盛り大仏の行事は、正しくは不動院の「大仏追善供養」というが、船橋市の無形文化財に指定されている。最近では、津賀俊六という人が「船橋三番瀬物語 飯盛り大仏」という本を上梓していて、劇などになった。

小生、2月28日の飯盛り大仏の行事をじかに見てみようと思っていたが、遠隔地で仕事をしていたり、その日が平日のために東京勤務でも見ることができないなど、ずっと見る機会がなかった。期せずして今日、ようやくにしてその行事を目の当たりにできた。

<雨のなかの飯盛り大仏>

Meshidaibutu2

今日は船橋は朝から雨。実は柏で植樹祭に参加する筈であったが、雨天のために中止となり、飯盛り大仏は雨でもやるだろうと楽観的な考えで不動院にむかったのである。

行ってみると、既に10数人の人が集まっていた。テントのなかに机がおいてあり、お供えと御ひつに入った御飯があった。しばらく待っていると、僧侶二人による読経が始まった。あいさつのなかで、雨の日は初めてだとか、今日はチリの地震もあって云々という言葉があった。

<大仏の前で読経を行う>

Meshidaibutu3

読経が流れ、漁業組合の人たちが次々と線香をあげて行ったが、まず漁師惣代の供養墓に線香をあげ、次に大仏に線香をあげて行く。線香の煙が、あたりに立ちのぼる。

一通り線香をあげると、大仏の顔に御ひつから取り出した御飯をつけていく。寒い外気で、御飯から湯気が立ちのぼる。

<御飯を大仏の顔につける>

Meshidaibutu4

ところが、雨が降っていたために、石の大仏の顔がすべってなかなか御飯がつかない。それでも、なんとか御飯をつけた。

<御飯がついた大仏の顔>

Meshidaibutu5

こうした歴史的な行事が長年伝えられているのも、船橋の土地柄かもしれない。

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