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2010.03.08

船橋の富士塚

先日、柏市のある団体の依頼で、ちょっとした講演を行ったときに、丸い塚状の土盛りが古墳であることがなぜ分かったかという質問があった。それは、発掘でその塚の周りに周溝という溝があったことで、古墳の周りには必ず周溝があるから、古墳と分かったと答えた。

確かに、古墳の円墳と、中世の塚、江戸時代からの富士塚は、よく似ている。富士塚も石碑や祠などがないと、ただの塚のように見える。もしかすると、後世富士塚とされたものも、もとは古墳や中世の塚だったものもあるかもしれない。しかし、よく富士塚には溶岩でできたものや、大部分土で出来ていても溶岩が転がっているものがある。

そもそも、富士塚は富士信仰による富士登山を行っていたのが、なかには高齢だったり、病身だったりして、本当の富士山にまで行けない人のために、富士山の溶岩などで、ご近所の神社の境内などにミニチュアを作り、地元にいながらにして富士登山が出来ることを目的としてつくられたという。やはり、既存の古墳や自然の地形を利用することは、しばしば行われたらしい。そうすると、古墳と富士塚の複合遺跡というのもありうるわけである。

ちょっと富士塚を確認してみようと思い、ふと出身高校の近くに江戸時代には「茂侶浅間神社」と呼ばれていた茂侶神社があることを思い出し、車を飛ばして行ってきた。しかし、富士塚と思われるものが見当たらない。なお、この茂侶神社は、戦国時代の花輪城という城跡に建っており、堀の跡や土塁の痕跡がわずかに残っている。

賽銭箱についている神社の紋は、棕櫚葉。これは浅間神社の紋であり、形は、天狗が持っている団扇と同じである。

茂侶神社の縁起によれば、

「当茂侶神社の起源は古く、延喜式神明帳に『下総国葛飾郡二座茂侶神社・意富比神社』とあり、今を去る千六十年前すでにこの地に鎮座されていたのであります。愛媛県越智郡瀬戸内海大三島、祭神は阿多の豪族大山祇神の姫御子で日本の女性の表徴である木花開耶姫を祀り、古来、縁結び・安産子育ての神として地元民の崇敬する処でありました。
摂社として祭神の姉命磐長姫を祀り、御嶽神社と申して居ります。
三代実録に清和天皇の貞観十三年十一月十一日、下総国従五位下茂侶神に従五位上を授くとありました。
陽成天皇の元慶三年九月二十五日、下総国正五位下茂侶神に正五位上を授くとあります。西北にある湧水は『天の真名井』と称する当社の神泉であります。江戸名所図会によれば年の始に隔年この神域より柳営に根引若松を選び上納する旧例とあります。古来例祭は旧暦六月一日に行います。」とある。

<茂侶神社>

Morosengen2

木花開耶姫を祀ることも、浅間神社と同じである。また、この茂侶神社は、砂山浅間神社とも呼ばれていた。砂山というのは、この辺りの砂岩質の土地からきた地名である。では、なぜ「茂侶神社」を名乗るのだろうか。茂侶神社は、奈良県の三輪山の前の名前である御諸山(みもろやま)の「諸(もろ)」から、その名前が付けられたという。実際、松戸、流山にある茂侶神社は、祭神が御諸山に祀られていたという大物主命である。船橋の茂呂神社だけが、浅間神社とも呼ばれ、祭神が木花開耶姫命であるということは何を意味しているのだろうか。

実は、境内に一つ社があり、これを御嶽神社と書いているHPなどもあるが、浅間社である。砂山浅間神社とは、本来この浅間社をいうのだろうか。推測であるが、茂侶神社は「江戸名所図絵」にのっているのだから、それが書かれた天保年間当時から当地にあった筈であるが、その前は別の場所にあって花輪城という戦国時代の城跡に移転したものと思われる。その際に浅間神社と一体となったのではないだろうか。浅間社の鳥居の向かって右横が多少高くなっているが、そこはその地に戦国時代に城があった時の櫓台の痕跡だという。これを富士塚に見立てていたのだろうか。そうだとしても、かなり小さいであろう。

なお花輪城は、大正時代に書かれた文書によれば、茂侶神社の境内から東の住宅地内に城跡が展開していた。今や、堀跡がかろうじてある程度で、遺構が殆ど残っていない。その花輪城という城の性格は、南に上総道、また鎌倉街道がすぐ西を通っていることから、交通の要衝をおさえるものに他ならないが、誰がいつ築城したかなど、詳しい史実が明らかになっていない。

しかし、鳥居横の高くなっている部分は、余りにも目立たない。道を作った時のあまった土を盛ったのかと思う。

<境内にある浅間社>

Sengen_torii

この茂侶神社は、船橋大神宮の摂社で、正月に大神宮を飾る若松は、この境内から切り出されていた。小さな神社ではあるが、昔は「江戸名所図絵」にのるほど富士、房総、筑波を望む眺望の良い場所で名所であった。あるいは、富士が見えるために、浅間社が出来、本物の富士山が見えるので、あえて富士塚も作らなかったのだろうか。

<江戸名所図絵にかかれた茂侶神社>

Morojinjya_edo

結局、茂侶神社には明確な富士塚がなかったので、東へ中野木の八坂神社に行くことにした。前に行ったときは、富士塚の写真に変な光が入り込み、うまく撮れなかったので、リベンジである。

<中野木の八坂神社の富士塚>

Nakanogi_yasaka

中野木の八坂神社の富士塚は、木の根っこが張って、それが階段代わりになって登ることができる。上にある石祠は、前回字を読むことが出来なかったが、今回一字目が「仙」であることが分かった。「仙元宮」とでも彫ってあったのだろうか。また、中段にある石碑には「登山記念碑」とあり、裏面に参加者や先達何某と名前が彫られている。

また、飯山満にある大宮神社には、溶岩積みのようで、形も整っているようである。しかし、どうみても新しく、「危険だから登るな」と書いた看板があり、この富士塚に登るのはやめておこう。

<飯山満・大宮神社の富士塚>

Hazama_oomiya2

富士塚の脇に石碑が嵌めこまれており、それを見ると昭和3年(1928)とある。道理で新しそうに見えたわけだ。富士塚としては、新しい部類であろう。

<大宮神社の富士塚の石碑>

Hazama_oomiya3

他にも周辺の神社に富士塚はあるのだろうが、小生が知っているのは、夏見の稲荷神社にあるもの。その稲荷神社の東側には長福寺という古い曹洞宗の寺院があり、その境内の一角には、夏見城の郭跡が残っている。

稲荷神社の道を挟んですぐ隣の長福寺墓地は平坦に整地され、現在遺構が見られないが、かつては土塁の痕跡が長く続き、その延長には、北西側にある道を挟んだ稲荷神社の境内にある土塁が続いていたという。稲荷神社に現存する土塁の残欠は、江戸期に今のような富士塚にされたと思われる。それは2m位の高さの土塁の残欠であり、富士塚に仕立てられたために、石段が敷設され、頂上に円盤状の石碑が建てられている。

<夏見の稲荷神社の富士塚>

Natsumi_inari1

<富士塚の上の石碑>

Natsumi_inari2

この円盤状の石碑には、「不二」「八行」と刻まれている。富士塚の下の石碑には、「浅間大神」と大書された文字と、山の図柄の下に割菱の紋が刻まれている。これは富士講のうちの割菱八行講のものでろうか。この稲荷神社の富士塚の周辺は石碑が多いが、いずれも文字が磨滅して読みにくい。通りかかった人が「写真撮っているのか」と声をかけてきたが、その人に聞いても明治大正頃のものだろうがはっきりとは分からない。「管理するひとがいないだべ」と船橋弁で答えてくれた。

日が暮れてきたので、これ以上の探索は諦めて帰途に就いた。もっと、富士塚は周辺にあると思うが、そして実際に登ったこともあるのだが、どこだったか思い出せない。その時記録しておかないと、忘れてしまうことが最近は多いので困ったものである。いずれ機会があれば、また探索したい。

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