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2011.04.14

手賀の歴史散歩と今井の桜

手賀沼沿岸地域をめぐって、去年は手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会主催で歴史散歩ということで、手賀の史跡を歩いた。手賀という地名を冠している手賀沼という名前からして、手賀は当地の主要な集落であったのだろうが、今は柏の市街地からは遠く、交通手段としては東武バスとコミュニティバスが走っているのみで、いささか鄙びた場所になっている。

しかし、手賀には、手賀廃寺という古代の寺院があったし、戦国時代には手賀原氏が手賀城を根城に当地を治め、その勢力は手賀沼対岸の南は現在の白井市名内から北は我孫子市に至った。そして、明治時代にはロシア正教が布教され、その教会は現在もある。ロシア正教の教会はハリストス教会と呼ばれる。手賀にある旧ハリストス教会は、農家の離れを改造したもので、一見とても教会には見えないが、当時はここに、洗礼を受けた地元の有力者が集い、祈りをささげたのである。現在の教会は別の場所にあり、司祭は横浜の教会と掛持ちだという。

<手賀にある旧ハリストス教会>

Tegakyoukai

新教会には、山下りんが描いたイコンがあるが、旧教会にはその複製が飾られている。といっても、旧教会の公開は水曜日と土曜日のみで、時間も限定されている。われわれが行ったのは、去年の11月で土曜日であったが、案内は地元のボランティアさんがしており、聞いたところ信者ではないとのことであった。しかし、当地にはロシア正教の信者が十世帯ほどいるとのことで、たしかに近隣の墓地には仏教式の墓石にまじって、十字架ではないが明らかにキリスト教とわかる文字の刻まれた墓石がある。

旧教会の内部は、普通の農家の居間とわずかばかりの土間があり、土間の窓は無双窓になっていた。案内のボランティアの人は、「水戸黄門のかげろうお銀が風呂に入っていると誰かが覗く例の窓」だと冗談を言っていた。風呂があったかどうかは分らないが、無双窓で煙を出したと思われるので、実際に風呂かかまどがあったかもしれない。この教会は、キリスト教が弾圧された戦時中には教会としては使用されず、疎開してきた人の住居になっていたという。

手賀城跡は集落のなかに断片的に残っており、台地全体を殆ど占有するような形で、往時にはかなり大きな城であったことが分かる。今興福院となっている場所が第二郭、その北の畑が第一郭ということである。よくこの第一郭のみが城跡だと思っている人がいるが、それは手賀城址の石碑があり、他に城跡らしい場所がないように見えるためか。しかし、手賀のバス停の北側の道沿いには土塁があり、住宅地のなかにも土塁がある。

<残存した土塁と堀跡(道になっている)>

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土塁で大きいのは第1郭の西側にある北の低地にむかって続く道沿いの土塁で、高さが3mほどある。その脇の道は、堀底道であり、今は生活道路として使用されている。この辺りは、道にクランクや曲がり角が多く、直線的に城の主要部にいくことができない作りになっている。面白いのは第二郭のすぐ南側に「陣屋」という屋号のある家があったり、明らかに手賀原氏の重臣の子孫だろうという名字の家が手賀の台地のなかに現存することで、分布を調べるとほぼ城域と重なった。また、それぞれの家が大きく、昔はそれぞれの家で馬を飼っていたり、結構豊かな暮らし向きだったようである。

興福院という真言宗の寺院は、古刹であることは間違いない。興福院は、寺伝や伝承によれば平安時代からあるというが、手賀廃寺との関連は不明である。しかし、本尊である十一面観音は室町時代以前の作であり、少なくとも室町時代には存在したのが推測できる。また十一面観音を祀っていることや、本堂にある九曜紋からみて、千葉氏系の寺であったであろう。これは戦国末期に当地で勢力を張った手賀原氏が来る以前からあったこと、原氏が信仰した曹洞宗ではないことから、手賀原氏が当地に来る以前の千葉氏系の勢力、おそらく相馬氏に関連性をもった寺だったのではないかと考えるのである。そうなると、南北朝期にはこの辺の相馬氏の領有関係が変わっていただろうから、鎌倉時代にはあったとみるべきか。

実は、この興福院と南蔵院のご住職は同じ方である。用事があって、南蔵院に行った折に、ご住職に興福院の創建は室町時代くらいですかと不躾な質問をしてしまい、もっと古いですと答えられたが、もっとだいぶ古い、お寺だったのである。

<興福院の本堂にあった九曜紋>

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手賀の歴史散歩では片山地区もまわり、北ノ作古墳やヨタイ観音を見学した。北ノ作古墳は、手賀沼沿岸の古墳ではもっとも古い部類の3世紀に作られたものとのことである。1号墳は方墳、二号墳は前方後方墳、あるいは1号墳も未発達な前方後方墳という。このあたりは、専門家ではないのでよく分からない。

面白いのは、ヨタイ観音。なぜヨタイ観音というのか、ご近所の人に聞いてもなかなかわからない。ご近所の老婦人は「ユーテイ観音」と呼んでいて、ますます分らなくなった。沼南町史によれば、祀ってある石仏が三十三観音の三十三体と花山院の一体をあわせて、三十四体あるので、ヨタイというとあった。十左衛門観音ともいうが、この観音堂の創建者が村田重左衛門という人であるので、そう呼ばれているらしい。こちらの方は、納得感がある。

この観音堂は、前記の老婦人によれば、村田家の所有になるもので以前は茅ぶきの屋根のお堂だったが、近年建て直したのだという。たしかに、お堂の建物は新しそうである。しかし、扁額は古いもので、宝暦二年四月吉日と日付が刻まれている。宝暦二年は1752年、今から259年前である。「西国三拾三所心願成就」とあり、西国三十三観音めぐりをしたことが、この観音堂の創建に関わっているようだ。

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その片山地区と手賀地区は台地の間に谷があり、それで隔てられているのみである。手賀城の城域は手賀地区に限られており、片山地区までは広がっていない。普通に家が建っている平場が、腰郭のあとだったりする。実は、手賀地区にある、大山、湯浅、今井、篠原、岩立といった名字の家は、手賀原氏の重臣の子孫のようだ。うち、台地下にある湯浅姓の家など、かなり大きいが、江戸時代は名主をつとめたという。的場が転訛したらしい、「松葉」という屋号の家もある。なぜか、そうした重臣の姓の家は、手賀地区に集中しており、それ以外にはあまりない。逆に、他地区から入ってきたと思われる姓の家は、手賀にも、別の地区にも分布している。

その手賀地区と片山地区の人たちが信仰する神社は、兵主八幡神社である。名前のごとく、兵主神社と八幡神社が合祀されたもので、祭神は兵主神社:大己貴神、八幡神社:応神天皇で文化14年(1817)に手賀村、片山村の両村の鎮守とされた。この参道は長く直線的なので、昔は手賀原氏の馬場として使われたとか、流鏑馬を行ったとされる。

<兵主八幡神社>

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兵主は、「ひょうしゅ」とか「ひょうす」と読むようであるが、兵庫県にある兵主神社は「ひょうず」神社と読むと思う。これは、嫁からおそわった数少ないことの一つである。もっとも、それはたまたま親戚が兵主神社の近くに住んでいたから知っていたにすぎない。そもそも、兵主神社は、兵庫県に多く、千葉県では、あるいは関東ではここだけかもしれない。

この南の県道沿いには森の中に手賀原氏の歴代の墓があるが、地元の人が定期的に掃除しているようできれいになっている。

歴史散歩の最後に、下柳戸の六所神社に行った。

ここは、南北朝時代からある集落であるが、戸数は少なく、県道に接する部分以外は、他の地区と接することがない。神社だけでなく、柳戸砦という砦跡がある。六所神社は、創建時期は不明ながら、国府斎場の形式で、柳戸が諸国往来の交流があった場所であったことを示すと言う。この神社と隣接する墓地を突き当りとする道が、この集落のメインストリートである。

その道を県道側に向かって戻ったとき、眼下に広がる今井の桜並木を見て、春にはさぞ美しく彩られるだろうと思った。

その後、しばらく忙しさにかまけて、そのことをすっかり忘れてしまった。 手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会の講演会が4月24日にあり、そのチラシを何ヶ所かに置いてもらった帰り、車で泉を通り、白井方面に出ようとした刹那、そのことを思い出して、今井に車をとめた。

<今井の桜>

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夕暮れ近く、陽が沈みかけていたが、川岸には大きなレンズのついたカメラを持った人たちが桜を撮っていた。もっと、時間があれば、と思うのだが、しばらくはどうにもならない。

なお、4月24日の講演会については、震災後の自粛ムードのさなかに行うことになった。それで、インターネットのイベント情報を取り上げたWEBサイトに掲載された案内が、先方の勘違いで勝手に中止という掲示にされてしまったり、事前準備ではよけいな雑音だらけであった。

講演会の内容については、近代の手賀沼の干拓計画に、地元の有望家である吉田甚左衛門や我孫子の杉村楚人冠らが生活環境を変え、景観を損ねるということで反対したという、郷土の歴史と環境の話である。講師は、旧沼南町の学芸員をしていた高野氏である。

場所は中央公民館を予約していたが、原発の問題で避難してきた人のために公民館を臨時の住居として市が提供しているので使えず、代わりにさわやかちば県民プラザの大研修室を借りた。身近な歴史で、手賀沼という環境の話であるから、分かりやすいと思う。

講演会の詳細は、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会のHP(以下がURL)をご覧頂きたい。

http://www.matsugasakijo.net/   

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