東日本大震災の石造物への影響
先日、印西から車で帰る途中、普段通る八千代市の島田台から船橋市豊富のルートではなく、八千代市米本から吉橋を経て船橋市坪井に抜ける道を通って帰ったが、吉橋にさしかかったとき、ふと吉橋大師堂の勢至菩薩像を見てみたくなった。そこで、車をとめて、大師堂の石段をあがると、なんと石造物がいくつか倒れている。なかには、破片が落ちているものもあり、勢至菩薩まで心なしか斜めになってしまったようだ。
<斜めになってしまった勢至菩薩>
石造物に詳しい方に聞くと、既に今年3月の段階で、八千代市郷土歴史研究会の活動として石造物の損傷緊急調査を行われたとのこと。また、その後の調査で墓地販売など石材店が関係している寺院は、修復が進んでいるが、地域で世話をしている小さな神社や無住仏堂のものなどは、地震後も修復がままならない状況とのことであった。
それで、にわかに気になった小生は、遅ればせながら各地の石造物はどうなっているのか、見て歩くことにした。といっても、小生の行動範囲は船橋から鎌ヶ谷、柏くらいであり、それも一部だけである。
船橋で自分が知っている石仏、石造物がいくつかまとまってある場所をあげると、海神の念仏堂の石仏など、前原の庚申塔群、薬円台の倶利伽羅不動境内の庚申塔など、楠ヶ山の庚申塔群、金堀の庚申塔群、小室の庚申塔群となる。これを実際どうなっているかまわって見てみた。
1.海神の念仏堂
ここは、もともと念仏堂の前の道路脇に石仏が並んでいたが、地震のおこるかなり前から石仏群は集約されてしまい、庚申塔と大きな地蔵は少し離れた場所にある。しかし、見た限りでは倒れたものもなく、損傷は受けていないようである。
<海神の念仏堂前>
上の写真の古い石仏は、向かって左から宝永六年(1709)五月の片ひざをついた地蔵、享保四己亥(1719)五月の坐像の地蔵二体、文政十一子天(1828)二月の観音立像である。
念仏堂の横の道をガードをくぐった南側(行徳側)には、享保五庚子(1720)八月の地蔵と寛延二己巳年(1749)十月のいかにも派手な青面金剛像が並んでいる。良く見ると、その青面金剛像には牙が生えており、脇侍のように童子が刻まれている珍しいもの。これも無事であった。
<念仏堂の享保五年の地蔵と寛延の青面金剛像>
2.前原の庚申塔群
成田街道から前原の道入庵の前で分岐する道を藤崎台方面に南下してすぐに、庚申塔が沢山ある場所がある。ここには、青面金剛の像容を刻んだ庚申塔が三基、他に文字庚申塔が40ほどあるが、特に倒れたものもない。特に中央の青面金剛像は、非常によく彫られていて、ショケラまで写実的である。
<前原の百庚申>
この庚申塔群は、「百庚申」というが、実際にはそれほどの数はなく、40数基で、庚申塔以外に馬頭観音も同じ場所にある。もともと百基庚申塔があったのか、前からそんなにはないが、多いという意味で、「百庚申」といったのだろうか。また、像容庚申塔は享保、延享と言った年号が入っているが、小さな文字庚申には年号が入っていない。
ちなみに、成田街道を西へ行った札場にも、成田山の道標とともに、石仏群があるが、そちらのほうも震災では何ともなっていないようだ。
3.薬円台の倶利伽羅不動境内の庚申塔
倶利伽羅不動の本尊は見たことがないが、倶利伽羅不動の境内にいくつか石造物があるので、それは昔からよく見ている。今回改めて見に行ったが、元のままである。
宝暦六丙子(1756)十一月の青面金剛像は、やや平面的ながら、正面を向いた邪鬼やニワトリ、三猿と約束事は満たしているものの、手にショケラは吊り下げていない。
<倶利伽羅不動境内の庚申塔>
4.楠ヶ山の庚申塔群
楠ヶ山は、集落が台地下にあり、台地の上は畑と墓地くらいしかない。最近は、廃品回収業者や新しい寺院などが、台地上に進出しているが、人家が余りないので、妙な感じがする。庚申塔群のある場所も、以前は山林のような場所だったのが、すぐ近くに廃品回収業者の広い作業場ができて、鉄のフェンスで囲まれている。
<楠ヶ山の庚申塔群>
青面金剛像は宝暦十庚辰年(1760)十一月の作。台座ごとコンクリートで固められており、ここまでは問題なし。
5.大穴の庚申塚
楠ヶ山庚申塔群の数十メートル先にある庚申塚を見た時、遂に恐れていた事態となったと思った。塚の上にあった殆どの石塔が倒れており、中には真中で横一文字に割れているものもある。
<石塔が倒れた庚申塚>
塚の前には真新しい浄土真宗の寺があるが、元々あった寺ではなく、当地に根を張ったものではないらしい。
この庚申塚は、どうなるのだろうか。
6.金堀の庚申塔群
楠ヶ山の隣、金堀にも庚申塔群がある。それはバス通りに面した場所で、民家に囲まれた一角である。ここは無事だろうかと心配になって、次にまわったが、やはり損傷を受けている。
<金堀の庚申塔群>
真中の文字庚申の向かって右(安政四年(1857)の庚申塔)と写真では左端(実際にはその左も、いずれも明治期のもの)の石塔が倒れている。実はこの画像では分かりにくいが、後列の像容の庚申塔の向かって右端の正徳三年(1713)の青面金剛像は殆ど無事であるが、その左側にある明和元年(1764)のものは笠石がとれており、さらに左側の彫刻が素晴らしい延享元年(1744)の青面金剛像は倒れている。
聖徳太子のいわゆる太子講の石碑もあるが、それは無事であった。
7.小室の庚申塔群
一番気がかりであったのは、この庚申塔群であったが、案の定良くないことになっていた。土の上に直接建っていたからである。
この庚申塔群は日蓮宗系で「帝釈天王」などと刻まれているものが多いが、それがことごとく倒れるか、ずれる、傾くなどしていた。
<「帝釈天王」と刻まれた庚申塔群>
<像容の庚申塔>
像容の庚申塔も二基あり、こちらは一見損傷がないように見えるが、向かって右の享保十四己酉天(1729)十月の青面金剛像は以前背面が欠けたようで生々しい補修の跡があり、また少し傾いている。左の寛延四未年(1751)のものも多少台石とずれが生じている。
また八幡神社にまわってみると、古峰神社の碑が倒れていた。
<小室の八幡神社のなか>
もしやと思ったが、悪い予感が当ってしまった。
繰り返しになるが、前出の石造物に詳しい方の話のように、今回の震災で倒壊するなどの被害を受けた石造物で、いち早くなおったものは、石材店などが出入りしている寺院などに限られ、無住の寺院のもの、小さな集落や個人が管理するもの、路傍にあるようなものは1ヶ月を経過しても、そのままになっている場合が多いようだ。土台が既に地域の人たちによって固められ、耐震対策が施されたものは、あまり被害がなかったようだが、そうでないものでは大きな影響をうけたものがある。
文化財指定の有無はともかく、貴重な先祖からの遺産は、打ち捨てるようなことがあってはならない。といって、自分ではどうにもできないが、早く復旧してくれるように願うばかりである。
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