太田道灌が攻めた下総の城
正月休みを利用して、八千代市萱田の飯綱権現山砦跡に行ってみた。
ここは砦跡というより、太田道灌の陣城跡の伝承地で、特に遺構などが残っているわけではない。 とはいえ、新川を北に臨む、低地面からの比高20mほどの台地上にあり、江戸時代の創建である飯綱神社が砦跡という場所にある。 北北東約1kmの場所には新川を挟んで米本城跡があり、伝承では太田道灌の軍勢は文明11年(1479)の臼井攻めの前後に米本城を落としたことになっている。
飯綱神社の創建は、この場所に陣を構えた太田道潅が戦勝祈願して埋めた十一面観音像を、元和8年(1622) 白狐の神託により発見したという故事に由来するとのことであるが、神仏分離令の前は飯綱権現で、その名残の立派な鐘楼も健在である。 陣城なのだから遺構が残っていないのは仕方ないが、土塁の残欠の一つもないのは元々ないのか、後世になって削られたのか、陣城というのが単なる話なのか。
北側の台地斜面をみると、腰郭状の平場はあったが、遺構というより、ただの自然地形かもしれない。
飯綱神社を含む権現後(ごげんうしろ)遺跡の発掘調査(昭和52年からの千葉県文化財センター、八千代市による調査)では、弥生時代後期・古墳前期の住居73軒、方形周溝墓3基が見つかり、古墳時代中期以降は住居の検出数は少なくなるものの、奈良平安時代の住居も含めて、この場所には近世にいたるまで長期間集落があったことが分かっている。 残念ながら陣城の遺構に直接結びつくものは未検出のようであるが、年代不明の溝1条、近世の溝1条は発見されている。 その溝1条は、飯綱神社北側の低地から上がってくる参道の延長上に台地先端を区切るように伸びており、堀切ではないかと推測する。 それが堀切だとすると台地の最先端、飯綱神社の急な石段の部分から100m足らずと狭い範囲を区切っており、さらにその外側に堀切か何かで区画するものがあったかもしれない。
新川を隔てて対峙する米本には、米本城跡がある。 この米本城は天文の頃に村上氏が入って城主となったというが、村上氏は現在の市原市辺りの豪族であったようで、生実の原氏に従って、原氏が臼井に入るとその支城として米本城を守ったという。 その村上氏が活躍した年代は戦国時代後期であり、太田道灌の時代とは合わない。
元々、米本には長福寺がある場所に、中世の武士の居館があったらしく、村上の正覚院館と同様に低地に面し、裏山を背負ったような場所にあり、裏山である台地がくりぬかれ、平地にされた部分に館があったのであろう。この館の主が誰であったのか不明であるが、米本の複数の場所から室町期の板碑が出土し、特に長福寺から多くの板碑が発見されていることや、付近に妙見を祀る米本神社があることから 室町期に千葉氏系の氏族がいたことは確実であり、それが太田道灌の軍勢と戦ったのではないか。また、現在の米本城跡からは土塁の下から、焼き米が発見されている。これは一度焼けた建物の上に、新しく城を築き、より堅固にしたのであろう。
<米本城跡に隣接する長福寺>
もちろん、太田道灌自身は下総まで来て指揮をとっていないが、太田道灌の弟図書をして臼井城を攻めさせたのが文明11年(1479)である。室町期に武士の居館で、長福寺の板碑がそれからやや新しい年代のものが多いことは、太田道灌が権現山に陣をおいたという伝承にあるように、太田軍が臼井城攻略の前後に「米本の龍ヶ城」すなわち元の米本城も落とし、その際の戦死者の供養の板碑が多いのではないか。
ちなみに龍ヶ城とは「要害」が訛ったもののようで、村上氏が天文年間頃に整備した城よりも小規模な城郭であったと思われる。 その当時の城を守っていたのが誰なのかは分からないが、太田軍によってすぐに攻略されたのであろう。
以下は、太田道灌の下総攻めに関する動画。
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