講演会「車ノ前五輪塔と柏市大井地区の中世世界」
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
<2007年5月名古屋市緑区で行われた桶狭間古戦場祭りの万灯会>
以前からお世話になっていた水野青鷺氏が、病のために5月30日になくなられた。 中山氏御子孫のS氏からの御連絡で、小生そのことを知った。 水野青鷺氏は、ご自身の水野氏のルーツを探るうちに、諸流ある水野氏の歴史、系譜などを調べるようになり、各地を訪問、研究を重ねて来られた。 水野氏史研究会の世話人として活動する一方、旺盛に地域の歴史なども探求されていた。
小生は愛知県に若い頃を含め二回勤務したが、今から10年ほど前に二回目の愛知県勤務となった時に水野氏と知り合い、一緒に愛知県半田市や各地をたずねたりしたが、水野氏の調査力、洞察力のすごさには感心させられた。 写真は2007年5月の名古屋市緑区桶狭間での桶狭間古戦場祭りの万灯会の様子だが、右端の後ろ姿の男性が水野氏だと思う。
水野氏には、色々御教示頂いたのに、結局何も御礼のようなこともできなかった。 愛知中世城郭研究会の会誌「愛城研報告」に小生が載せた大高城についての文章でも、水野青鷺氏による大高水野氏に関する春江院での聞取りが、考察の一つのベースとなり、これがないと余り論考らしいポイントもなく終わるところであった。
それにしても、お世話になった方の訃報に接するのは寂しいものである。 自分にはもはや何もできないが、中途半端にしていた小生の雑文をそれなりに完成させることが出来ればと思うくらいである。
水野青鷺氏のご冥福をお祈りします。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
正月休みを利用して、八千代市萱田の飯綱権現山砦跡に行ってみた。
ここは砦跡というより、太田道灌の陣城跡の伝承地で、特に遺構などが残っているわけではない。 とはいえ、新川を北に臨む、低地面からの比高20mほどの台地上にあり、江戸時代の創建である飯綱神社が砦跡という場所にある。 北北東約1kmの場所には新川を挟んで米本城跡があり、伝承では太田道灌の軍勢は文明11年(1479)の臼井攻めの前後に米本城を落としたことになっている。
飯綱神社の創建は、この場所に陣を構えた太田道潅が戦勝祈願して埋めた十一面観音像を、元和8年(1622) 白狐の神託により発見したという故事に由来するとのことであるが、神仏分離令の前は飯綱権現で、その名残の立派な鐘楼も健在である。 陣城なのだから遺構が残っていないのは仕方ないが、土塁の残欠の一つもないのは元々ないのか、後世になって削られたのか、陣城というのが単なる話なのか。
北側の台地斜面をみると、腰郭状の平場はあったが、遺構というより、ただの自然地形かもしれない。
飯綱神社を含む権現後(ごげんうしろ)遺跡の発掘調査(昭和52年からの千葉県文化財センター、八千代市による調査)では、弥生時代後期・古墳前期の住居73軒、方形周溝墓3基が見つかり、古墳時代中期以降は住居の検出数は少なくなるものの、奈良平安時代の住居も含めて、この場所には近世にいたるまで長期間集落があったことが分かっている。 残念ながら陣城の遺構に直接結びつくものは未検出のようであるが、年代不明の溝1条、近世の溝1条は発見されている。 その溝1条は、飯綱神社北側の低地から上がってくる参道の延長上に台地先端を区切るように伸びており、堀切ではないかと推測する。 それが堀切だとすると台地の最先端、飯綱神社の急な石段の部分から100m足らずと狭い範囲を区切っており、さらにその外側に堀切か何かで区画するものがあったかもしれない。
新川を隔てて対峙する米本には、米本城跡がある。 この米本城は天文の頃に村上氏が入って城主となったというが、村上氏は現在の市原市辺りの豪族であったようで、生実の原氏に従って、原氏が臼井に入るとその支城として米本城を守ったという。 その村上氏が活躍した年代は戦国時代後期であり、太田道灌の時代とは合わない。
元々、米本には長福寺がある場所に、中世の武士の居館があったらしく、村上の正覚院館と同様に低地に面し、裏山を背負ったような場所にあり、裏山である台地がくりぬかれ、平地にされた部分に館があったのであろう。この館の主が誰であったのか不明であるが、米本の複数の場所から室町期の板碑が出土し、特に長福寺から多くの板碑が発見されていることや、付近に妙見を祀る米本神社があることから 室町期に千葉氏系の氏族がいたことは確実であり、それが太田道灌の軍勢と戦ったのではないか。また、現在の米本城跡からは土塁の下から、焼き米が発見されている。これは一度焼けた建物の上に、新しく城を築き、より堅固にしたのであろう。
<米本城跡に隣接する長福寺>
もちろん、太田道灌自身は下総まで来て指揮をとっていないが、太田道灌の弟図書をして臼井城を攻めさせたのが文明11年(1479)である。室町期に武士の居館で、長福寺の板碑がそれからやや新しい年代のものが多いことは、太田道灌が権現山に陣をおいたという伝承にあるように、太田軍が臼井城攻略の前後に「米本の龍ヶ城」すなわち元の米本城も落とし、その際の戦死者の供養の板碑が多いのではないか。
ちなみに龍ヶ城とは「要害」が訛ったもののようで、村上氏が天文年間頃に整備した城よりも小規模な城郭であったと思われる。 その当時の城を守っていたのが誰なのかは分からないが、太田軍によってすぐに攻略されたのであろう。
以下は、太田道灌の下総攻めに関する動画。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
「今日もこの城、松ヶ崎城」というタイトル。 何やら、「今日もこの街、近商ストア」を連想させるというか、明らかにパクリのような気もするが、関東の人は近商ストアという近鉄系のスーパーなど知らないので、千葉県でそういうタイトルのイベントをしても余り問題ないかもしれない。
それはともかく。
手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会よりお知らせ
同会のURL↓
手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会 創立15周年記念講演と演奏の集い
・後援:柏市教育委員会
・会場 柏市勤労会館
会場住所 柏市柏下66-1柏市保健勤労会館2階 ~北柏駅より阪東バス慈恵医大下車徒歩6分)
・日程:2014年11月9日(日) 10時開場、午前中はミニ講座「今日もこの城、映像が語る松ヶ崎城」、三味線がたり
午前の部: 10 時 ~演奏等:バイオリン・フルート(アルペジオ)、三味線がたり(茗荷さん)
・午後の部: 講演会
・講演1: 13時~「松ヶ崎城の性格を考える」 講師:間宮正光氏 (千葉県文化財保護指導委員)
・講演2: 14 時 40 分~ 「伝承にみる手賀沼周辺 の城 」 講師:佐脇敬一郎氏 (柏市史編さん委員会参与)
・参加費:500円(15周年記念会誌、資料代など)
問合せ先 手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会
TEL:岸事務局長(04-7131-3036)
費用 500円(会誌代・資料代)
URL www.matsugasakijo.net
以下の動画もどうぞ。
松ヶ崎城紹介 ↓
手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会紹介 ↓
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
平成16年に柏市文化財と指定された松ヶ崎城跡。文化財保護の各種活動や地域の皆さんのご尽力により保存されてきました。城跡保存を目的とした当会も15周年を迎え、この機会に記念講演会を行います。
この松ヶ崎城跡は、首都圏では珍しく遺構がよく残った城跡です。今回、当会創立15周年記念として、研究者お二人にご講演をお願いし、松ヶ崎城はどんな城だったのかを再度検証するとともに、周辺城跡の歴史を含めた興味深いお話を語っていただこうと思います。 午前中も「今日もこの城、松ヶ崎城」のミニ講座やバイオリン・フルートのアンサンブル演奏、三味線がたりがあります。皆様、お気軽に。
・会場:柏市勤労会館会議室・研修室(柏市柏下66-1柏市保健勤労会館2階) ~北柏駅より阪東バス慈恵医大下車徒歩6分
・日程:2014年11月9日(日) 10時開場、午前中はミニ講座「今日もこの城、松ヶ崎城」、バイオリン・フルート演奏、三味線がたり
講演会は、12時50分開演~16時10分頃まで
・講演1: 13時~「松ヶ崎城の性格を考える」 講師:間宮正光氏 (千葉県文化財保護指導委員)
・講演2: 14 時 40 分~ 「伝承にみる手賀沼周辺 の城 」 講師:佐脇敬一郎氏 (柏市史編さん委員会参与)
・後援:柏市教育委員会
・参加費:500円(15周年記念会誌、資料代など)
・その他:申込不要。 お問合せは、info@matsugasakijo.net まで。勤労会館自体の駐車場は限られていますが、体育館裏に広い駐車場があります。
<「古城の丘にたちて」外伝より転載>
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会では、昨年ロケット戦闘機秋水の地下燃料庫の見学会を行い、その前には秋水搭乗員養成部隊である海軍秋水隊の元中尉の方の聞き取りも行いました。
聞き取りは記録したものをまとめましたが、その際の映像または関連する画像などを使って短い動画を作成しています。
以下、YouTubeにもアップしましたが、2つ動画を作成しました。 なお、女性の声のナレーションは元アナウンサーの富澤さん、男性の声は会の会長です。
ロケット戦闘機秋水~海軍搭乗要員は語る~ ↓
ロケット戦闘機秋水と地下燃料庫 ↓
「古城の丘にたちて」外伝より
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
「手賀沼が海だったころ」 http://blog.matsugasakijo.net/ より転載。
--ここから
同じようなタイトルで、いくつか動画を作っていますが、どれも不発かもしれません。
今回は手賀沼沿岸といっても、柏市手賀、片山、下柳戸の3か所しか廻っていませんが、歴史散歩をしたときの写真を使って動画を作りました。 手賀城や旧ハリストス教会、そして北ノ作古墳、兵主神社など、見所も多い場所です。
なお、なぜかBGMは「ともしび」です。 ジャンルとしてはロシア民謡ではなく、旧ソビエト連邦の戦時歌謡でありますが、なぜか郷愁を感じさせます。 昔大学では、こういう歌がはやりました。 すくなくとも筆者の周りでは。
ともしび、心騒ぐ青春の歌、モスクワ郊外の夕べ、エルベ河など。。。 旧ソ連とのかかわりのある、日ソ協会の人たちだけでなく、一般のサークルや合唱団などでもこういう歌をよく歌っていたような気がします。
今年で当会も創立15周年になります。 記念誌やらイベントなどの企画を推進中です。
--ここまで
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
雛祭りが近いため、2月の終わりから倉敷の街も雛祭りムードになっている。
今まで一度しか乗ったことのない水島臨海鉄道に再び乗れば、電車の先頭のプレートが雛人形の絵柄であり、中にも子供さんの雛人形の折り紙が飾ってあった。
倉敷の街中、商店の店先などの色々なところに雛飾りがある。 えびす通り商店街の鶴形山に近いところにあるレトロなたばこケースのある商店にも小さな雛人形が飾ってあった。また繭玉と一緒に透明なアクリル板か何かのなかに雛人形の絵を埋め込んだものも、商店の脇にあった。
倉敷の美観地区の中ではないが、比較的近い場所にある喫茶店に時々行くが、そこでいつも同じ種類のコーヒーばかり飲んでいる。 自分の注文するものは、お店の方でも分かっているはずだが、一応注文は聞いてくる。
お客さんが作ったという切り絵の猫の前に何かあり、自分は目が悪いので何か聞いてみると、若い女店主は「お雛様」という。 そこで写真を撮らせてもらった。
この雛人形は向かって右が男雛になっているが、最近よく見かける雛飾りは大抵男雛が向かって左になっているのに気付いた。 今は自分の家では雛人形は飾らないが、子供のころの記憶では向かって右が男雛ではなかったか。
女店主に「向かって右が男雛になっているけど」というと、「私間違っていましたか」という。
「いいえ、あなたが正しいです」
デパートの雛人形の展示も皆向かって左が男雛。 ほかの店先にあるのもほとんどが同様であったが、ある商店の店先にあった戦前の古い雛人形は向かって右が男雛になっていた。
大橋家住宅なら、古い雛人形が飾ってあるかもしれない。 そう思って大橋家住宅に入ると、はたして江戸時代や明治のころの雛人形があり、どれも向かって右が男雛という飾り方であった。
床の間にある立ち雛の額も、向かって右が男雛である。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (1)
ブログ「手賀沼が海だったころ」より転載。
手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会は、千葉県柏市の松ヶ崎城跡の保存を目的として1999年に市民有志によって創立された団体です。
本会は、手賀沼と松ヶ崎城を中心とした、地域の身近な歴史を研究する中で、見失われがちな地域の文化を再認識し、再構築すること、および史跡と周囲の自然環境を一体として捉える『歴史的自然環境』を街づくりに活かすこと、をめざして活動しています。
経済成長とともに急激な開発がなされ、消滅したものが多い千葉県東葛地域の中で、今あるものを良い形で未来へ残し、伝えていきたいと思っています。
歴史シンポジウム
「手賀沼が海だった頃-松ヶ崎城と中世の柏北域
2009年の城跡見学会
会の紹介動画 ↓
会のHPはコチラ
→ http://www.matsugasakijo.net/
(ここまで)
なお、動画に出てくる女性は小生の知人で、元アナウンサー。 千葉氏のリポートを仕事でしたことがあるだけでなく、いろいろ歴史や文化財に縁のある方でもある。
今まで写真や動画も知り合いに頼んで来たし、身内ばかりで制作しているようで、恐縮である。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
写真の時計は、岡山のある喫茶店にかけてあったもので、店主のお母さんの実家にあったものだそうだ。
昭和初期のものだというが、”made in Japan”とあり、佐藤時計というメーカーのものであった。 実は自分の親の実家にも、こういう時計があった。 自分の親の実家の時計は、明治時代のものだったようだが、アメリカ製でもともとは女の子の絵が描いてあり、「メリーさん」の時計と呼んでいたらしい。 しかし、片田舎の小商人の家に、なぜ舶来の時計があったのか分からない。
今思いもよらず、岡山の片田舎にいるが、旧道沿いの30分に1本のバスが一番身近な交通手段である。 倉敷や逆方向の大学までのバスの停留所の名前は、結構変わったものがある。 自分が住んでいる場所は、あまり変わった地名ではないが、近くに由来のよく分からない地名があり、調べてみれば面白いかもしれない。
思えば、もうじき離れるとはいえ今岡山県にいるのも、仕事の都合で、それは就職するときに鉄鋼の会社を選んだことに始まり、色んな経過でそうなったのである。 もし、全然違う会社に就職していたら、どういう人生だったのだろう。 会社ではなく、自営業か何かだったら。
学生の時、歴史研究のサークルに入っていたが、本来は美術部に入るつもりだった。 新入生へのクラブ紹介のときに、美術部の紹介の部屋に行ったが、まだ部員が来ておらず、既に準備の整っていた歴史サークルに入ってしまっただけである。 それが発端で、色々な先輩と知り合い、ゼミも政治史のゼミに入った。 大学院生に指導を乞い、学習会をしたりしたが、どういう訳かその縁が就職にも関係している。 自分のゼミではない、別の先輩の出身ゼミの同窓生が勧誘していた会社に入ったのである。 そのゼミは中世史のゼミで、自分も今は政治史ではなく、どちらかといえば中世史に興味がある。
そして、もし芸術に関わるような仕事をしたり、そういう関係の人と親しく交際していたら、自分の生活はもっと文化的な、芸術の香りのするようなものになったかもしれない。 実際には鉄鋼の会社に入り、学生の時には思いもよらなかったコンピュータ関係の仕事に就いた。
しかし、平坦な道ばかりなら、人生は面白くないだろう。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
この連休の初めに連れと出かける予定が中止になり、一人さびしく船取線を北上し、鎌ヶ谷を通って高柳辺りへ行った。 食事をする場所は高柳には数軒あり、高柳で食事をしようと中華の店を目指したが、あいにく連休で休みで引き返して佐津間まで戻った。新鎌ヶ谷と高柳の間には佐津間にお蕎麦屋さんがあるくらいである(といっても、小生が知らないだけかもしれないが)。
佐津間のお蕎麦屋さんで蕎麦を食べた後、佐津間の渋谷総司の生家や渋谷総司の石碑がある宝泉院に行ってみた。佐津間には渋谷姓の家が何軒かあるが、赤報隊幹部で有名な渋谷総司は当地の出身であり、その生家は佐津間城に近い場所にある。
佐津間城址は、東武野田線六実駅に比較的近い県道船取線の佐津間交差点から東へ下った、手賀沼に注ぐ大津川左岸の標高約25m、比高10mほどの台地端にある。 城の大きさは堀の外側で東西50m、南北76m、土塁の内側で東西21m、南北35mという単郭の小さな城で、元は相馬氏系の城であったようである。それが、なぜこの場所に城があったかといえば、実は当地は手賀沼東部から松戸、すなわち現在の江戸川下流に至る松戸街道が大津川と交わる水陸交通の要衝であったためである。もっとも中世においては明確な街道という形でなかったかと思うが、道があり、そこを行き来する人も多かったのだろう。
<佐津間城遠景>
そういう中世の城跡のすぐ近くに幕末維新の頃に名をはせた人物が生まれたのだが、渋谷総司など赤報隊は明治新政府を形成した薩長などから「偽官軍」の汚名を着せられ処刑され、渋谷総司たちの名誉が回復されたのは実に昭和になってからである。
<渋谷総司の生家>
渋谷総司の生家は、江戸時代には名主をつとめた古い家のようで、大宮神社の近く、台地直下の開けた場所にある。以前、佐津間城に行った折に、その辺にも行っているので若干土地勘はあった。
以前訪ねたときにも気付いたが家の前に低い土手がある。野馬土手がそんな場所にあるとも思えないが、あるいは古い屋敷囲いなのか。 また門の前には、渋谷総司の生家である旨の標がある。
赤報隊は慶応3年(1867)10月当時後の幹部が江戸の薩摩藩の屋敷にいたように、いわゆる官軍の側で動いていて、薩摩藩士西郷隆盛の指示により、公家の綾小路俊実と滋野井公寿を盟主に据え、近江国愛知郡の松尾山で慶応4年(1868)1月10日に結成された。彼らは、東山道を進軍する際に明治新政府側の政策として「年貢半減」を宣伝して歩いた。 また倒幕の戦いの呼応するように江戸市中に放火したり、なかには略奪行為などもあったようである。赤報隊が「偽官軍」の汚名を着せられた理由は、明治新政府側が当初唱えようとして撤回した「年貢半減」を宣伝したことが、明治新政府のもくろみと食い違っていたことが大きいようであるが、一緒に行動していた公家たちにはお咎めはなかった。
慶応4年(1868)、赤報隊長であった相楽総三らとともに渋谷総司は22歳の若さで信州の下諏訪で斬首となった。その下諏訪には後になって、彼らの慰霊のために魁塚が作られた。
<宝泉院>
赤報隊の名誉回復運動は、大正から昭和にかけて行われたが、それまでは渋谷総司らの慰霊を公にはすることができず、事実佐津間の墓地にも渋谷総司の墓はない。
渋谷総司らの名誉回復は昭和3年(1928)になってからで、相楽総三には正三位、渋谷総司には従三位が贈られた。その記念碑は佐津間の宝泉院にある。
<渋谷総司の碑>
(昭和4年(1929)になって渋谷総司の贈位を記念して建立された石碑)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
先日、柏市内でロケット戦闘機秋水の予定搭乗員だった海軍312空のいわゆる秋水隊の方から、いろいろ聞き取りを行った。
秋水は太平洋戦争末期に日本の陸海軍が当時としては珍しく共同で開発したロケット戦闘機である。それはドイツのメッサーシュミットMe163の資料をもとにつくられたのだが、それは巌谷英一海軍技術中佐がドイツから持ち帰った数点の外形図面などわずかな資料であり、ほかの技術資料は運んだUボートが撃沈されたために日本に届かなかった。
突貫作業で開発されたわけであるが、その搭乗要員として海軍は第312航空隊(略して312空)に選抜された若い士官(いずれも専門学校以上の高学歴者)を配属した。今回木聞き取りした相手も、そのお一人である。「秋水」という名は「秋水一閃驕敵を斬る」、あるいは「秋水三尺露を払う」の二通りの由来があるようだが、どちらかは覚えていないが、命名者は岡野勝敏という師範学校出の当時少尉だった方であることは間違いないそうだ。
百里で訓練をしているときに、桜花の訓練をしている部隊も同地にいて、その隊長がこわい顔をした人で、風呂場であった時に「お前はどこのものだ」と聞かれ、「秋水です」と答えるとただ一言「そうか」と言ったそうである。
しかし、高度1万メートルにわずか3分半で到達し、秋水の刃を二閃ほどB29に浴びせる程度で滑空して戻らなくてはならない、その間約10分で液体燃料を2トンも使うとは、一体このロケット戦闘機を大量に製造、配備したところで、どれだけの効果があったのかは疑問である。桜花とは違い、特攻機ではないものの、空気抵抗を減らすために離陸するやいなや車輪をおとし、かえってくるときは胴体からソリを出して着陸するのだから、職人芸を要し、実機がもし大量生産されて飛んだとしても生還率は低かっただろう。ほぼ特攻機に近いような気がする。事実、秋水隊の仲間内では、B29の編隊のなかに入って三号爆弾を爆発させるような使われ方をするのではないかと言っていたそうである。
「平和の礎」というと、古くなった言葉のように思われるかもしれないが、戦争中は日本全体がおかしくなっていた。軍隊だけでなく、新聞も教育もすべてが戦争に動員され、あたら失われなくていい尊い多くの命が犠牲になった。戦時の経済は、極端に軍事力を高めるために民生を犠牲にしながら破綻した。それは日本人に限らず、朝鮮半島や大陸、東南アジアの多くの民衆もまた、そうした「国家総動員」の犠牲になったのである。 「平和の礎」を見つめることは、昨今やたら過去の亡霊のような軍国主義を賛美し、国民の生活を滅茶苦茶に破壊した戦犯までも美化する風潮に抗って、世のあり方をただすことになるだろう。
そういう記録を今ビデオの形にしている。聞き取り自体は1時間半ほどだったが、編集して重複した質問などをカットしてなんとか40分くらいにしている。しかし、映像以外に記録を文字に残すのは少し時間がかかりそうである。
(写真は三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所にある秋水実機)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
今年から仙台の仕事をしているが、東北にはまったく縁のなかった自分が、どういうめぐりあわせであろうか。
仙台といっても港の近くで、周囲には物流倉庫だらけの場所である。普段は東京に居て、仙台や東北のことは地震の話題がずっと語られていた頃には考えることがあったものの、地震から2年近くたった今ではすっかり忘れていた。
東京駅から新幹線に乗り、2時間もあれば仙台に着いてしまう。小生がもといた愛知県の知多半島より近い。
東日本大震災では、小生の会社の関連の電炉メーカーが被災し、生産をやめてしまった。その会社の水浸しになった施設の映像は見ていたが、まさかその場所に仕事で行くことになるとは思ってもいなかった。工場の事務所の2階の床まで水につかり、皆3階に逃げたと言っていた。工場の外壁は下から10mほどは色が変わっていた。工場でも何人かなくなっている。
港のある海の方から津波が来たのではなく、工場の正門から何百mも離れた川を逆流して津波がやってきたのだが、会社の駐車場にあった数百台の車は全て流され、今も何本か若い立木の上の方がなくなっている。
実は駐車場の向こう側、川の河口には街があったが、今はかろうじて道の名残や家の土台が残っているくらいで、荒野のようになっている。ぽつんと小さな神社が再建されたものか、鳥居とともに建っていた。
川沿いの道を少し遡上すると、家が何軒か建っていたが、1階部分はみな破壊されており、小学校も1階が壊れたままになっていた。 駐車している車があったが、住民がたまに戻ってくるのだそうだ。
自分も阪神大震災ではひどい目にあったが、2年もたったころには、すっかり復興して震災の傷跡はほぼなくなっていた。しかし、今なお東日本大震災の復興は進んでいない。あの操業をやめて事実上なくなった会社の敷地は、別の関連会社の敷地になっているが、そこには生産設備を取り払った建屋が倉庫代わりに使われ、大量のがれきが保管されている。がれき処理用に、巨大な焼却炉をグループのエンジニアリング会社がすぐに設置したそうだ。
仙台の街中と仙台でも津波にあった土地では全然違う。まして東京とは。
仙台塩釜港の近くの被災地には、防潮堤もまだ建設されていない。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
昨年、東日本大震災で受けた各地の庚申塔などの石造物の復旧を見てきたが、昨年末近くになって船橋市金堀の庚申塔が復旧されたことが分かった。 小室の庚申塔は割合はやくに復旧し、その後徐々に各地のものが復旧していったようである。
八千代市吉橋と尾崎の境目くらいにある吉祥院跡の庚申塔や石仏などは、復旧がやや遅かったようである。この吉祥院跡には優しい姿の寛文 8 年(1668)の勢至菩薩があるが、勢至菩薩も少し傾いた状態であった。しかし、今年の9月に行ったときには、倒れていたものや欠けていたものも含めて、石造物の修復がされ、コンクリートの台座に固定されていた。脇に「吉橋大師講 第一番札所」と刻まれた石塔が建っている。
<復旧した吉祥院跡の石造物>
例の勢至菩薩はやはり傾いていたようであるが、特に損傷はなかったようである。以前は、見やすい場所にたっていたのだが、他の石造物とあわせて一つの土台に接地されたために、今度のは少し見づらい状態にある。前に小さな石仏があり、その石仏越しにみる形になったためである。
<優美な勢至菩薩像>
少し窮屈であり、せめて石造物群が集められた場所の東側から北側の一列に並んだ、お地蔵様などの石造物のような形に配してほしかったと思った。
なお、この吉祥院跡とは吉橋の貞福寺の末寺である吉祥院があった場所で、大師堂が建っている。実は貞福寺がある場所には戦国時代に吉橋城があり、この吉祥院跡も城域である。周辺の低地に比べて半島状に少し高くなっており、櫓か何かがあったのかもしれない。
<東側の石仏群>
それはともかく、各地の古い集落などにある庚申塔などの石造物が震災から復旧したことは、まだ集落の地力が残っていることを示している。時間はかかっても復旧したことは、やはり昔のものを大事にしていこうという地域の人たちの意思が働いているのだと思う。
ちなみに、近くの高本の農業協同館付近の石仏群も傾いたりしていたが、復旧し元の状態のように戻っていた。
| 固定リンク
| コメント (1)
| トラックバック (0)
震災後、各地の庚申塔などの石造物の復旧が進む中、金堀の庚申塔が震災後なかなか元に戻っていなかったようであるが、先日前を車で通ったときに、きれいに並べてあり、復旧されたことが分かった。 それで昨日、近くの農作物直販所に用事があった帰りに写真を撮った。
<復旧した金堀の庚申塔群>
文字庚申のうち、向かって右(安政四年(1857)の庚申塔)と左側明治期の文字塔が倒れていた。後列の三基ある像容の庚申塔のうち、明和元年(1764)のものは笠石がとれており、さらに左側の彫刻が素晴らしい延享元年(1744)の青面金剛像は倒れていたが、すべて元に戻っており、倒れた像塔などきちんとコンクリートの台に固定化されていた。
<倒れていた延享元年の像塔も元通り>
聖徳太子の太子講の石碑は、庚申塔群の手前にあったのだが、同じ台の左側に据えられ、庚申塔の間隔が少し狭まったようである。しかし、金堀の人たちの共同の力によると思うが、きれいに復旧して良かった。
なお、同日もう一つ石仏がらみでうれしい話があり、坪井の入口にある庚申塔に正月のお供えをしている女性から話を聞いた。
<坪井入口の庚申塔にお供え>
以前は祠になっていたが、最近こういう形で祀られている。 その女性は、近隣の出身のようで、この庚申塔は坪井、神保新田などの守り神として、疫病や災難が入ってこないように守っているのだという。
しかし、最近では開発によって、こうしたものがなくなっていく、また、ごみを不法投棄する人がいて困るとのことであった。
路傍の石仏でも守る人がいて、後世に伝えられるというもので、有難いことである。
<庚申塔の前の正月のお供え>
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント