カテゴリー「関東の古寺と史跡」の27件の記事

2014.11.01

今日もこの城、松ヶ崎城

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「今日もこの城、松ヶ崎城」というタイトル。 何やら、「今日もこの街、近商ストア」を連想させるというか、明らかにパクリのような気もするが、関東の人は近商ストアという近鉄系のスーパーなど知らないので、千葉県でそういうタイトルのイベントをしても余り問題ないかもしれない。

それはともかく。

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会よりお知らせ

同会のURL↓

www.matsugasakijo.net

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会 創立15周年記念講演と演奏の集い

・後援:柏市教育委員会 
・会場 柏市勤労会館 
   会場住所  柏市柏下66-1柏市保健勤労会館2階 ~北柏駅より阪東バス慈恵医大下車徒歩6分)

・日程:2014年11月9日(日) 10時開場、午前中はミニ講座「今日もこの城、映像が語る松ヶ崎城」、三味線がたり 

午前の部: 10 時 ~演奏等:バイオリン・フルート(アルペジオ)、三味線がたり(茗荷さん)
・午後の部: 講演会
・講演1: 13時~「松ヶ崎城の性格を考える」 講師:間宮正光氏 (千葉県文化財保護指導委員)
・講演2: 14 時 40 分~ 「伝承にみる手賀沼周辺 の城 」 講師:佐脇敬一郎氏 (柏市史編さん委員会参与)
・参加費:500円(15周年記念会誌、資料代など)

問合せ先 手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会
TEL:岸事務局長(04-7131-3036)
費用 500円(会誌代・資料代)
URL www.matsugasakijo.net

以下の動画もどうぞ。

松ヶ崎城紹介 ↓

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会紹介  ↓

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2014.10.05

11月9日(日)に手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会15周年記念講演会 開催!

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手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会よりお知らせ

 

平成16年に柏市文化財と指定された松ヶ崎城跡。文化財保護の各種活動や地域の皆さんのご尽力により保存されてきました。城跡保存を目的とした当会も15周年を迎え、この機会に記念講演会を行います。

この松ヶ崎城跡は、首都圏では珍しく遺構がよく残った城跡です。今回、当会創立15周年記念として、研究者お二人にご講演をお願いし、松ヶ崎城はどんな城だったのかを再度検証するとともに、周辺城跡の歴史を含めた興味深いお話を語っていただこうと思います。 午前中も「今日もこの城、松ヶ崎城」のミニ講座やバイオリン・フルートのアンサンブル演奏、三味線がたりがあります。皆様、お気軽に。

  
・会場:柏市勤労会館会議室・研修室(柏市柏下66-1柏市保健勤労会館2階) ~北柏駅より阪東バス慈恵医大下車徒歩6分 
・日程:2014年11月9日(日) 10時開場、午前中はミニ講座「今日もこの城、松ヶ崎城」、バイオリン・フルート演奏、三味線がたり 

 講演会は、12時50分開演~16時10分頃まで  
・講演1: 13時~「松ヶ崎城の性格を考える」 講師:間宮正光氏 (千葉県文化財保護指導委員)
・講演2: 14 時 40 分~ 「伝承にみる手賀沼周辺 の城 」 講師:佐脇敬一郎氏 (柏市史編さん委員会参与)

・後援:柏市教育委員会

・参加費:500円(15周年記念会誌、資料代など)
・その他:申込不要。 お問合せは、info@matsugasakijo.net まで。勤労会館自体の駐車場は限られていますが、体育館裏に広い駐車場があります。

<「古城の丘にたちて」外伝より転載>

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2013.05.03

鎌ヶ谷市佐津間にある赤報隊渋谷総司の碑

この連休の初めに連れと出かける予定が中止になり、一人さびしく船取線を北上し、鎌ヶ谷を通って高柳辺りへ行った。 食事をする場所は高柳には数軒あり、高柳で食事をしようと中華の店を目指したが、あいにく連休で休みで引き返して佐津間まで戻った。新鎌ヶ谷と高柳の間には佐津間にお蕎麦屋さんがあるくらいである(といっても、小生が知らないだけかもしれないが)。

佐津間のお蕎麦屋さんで蕎麦を食べた後、佐津間の渋谷総司の生家や渋谷総司の石碑がある宝泉院に行ってみた。佐津間には渋谷姓の家が何軒かあるが、赤報隊幹部で有名な渋谷総司は当地の出身であり、その生家は佐津間城に近い場所にある。

佐津間城址は、東武野田線六実駅に比較的近い県道船取線の佐津間交差点から東へ下った、手賀沼に注ぐ大津川左岸の標高約25m、比高10mほどの台地端にある。 城の大きさは堀の外側で東西50m、南北76m、土塁の内側で東西21m、南北35mという単郭の小さな城で、元は相馬氏系の城であったようである。それが、なぜこの場所に城があったかといえば、実は当地は手賀沼東部から松戸、すなわち現在の江戸川下流に至る松戸街道が大津川と交わる水陸交通の要衝であったためである。もっとも中世においては明確な街道という形でなかったかと思うが、道があり、そこを行き来する人も多かったのだろう。

<佐津間城遠景>

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そういう中世の城跡のすぐ近くに幕末維新の頃に名をはせた人物が生まれたのだが、渋谷総司など赤報隊は明治新政府を形成した薩長などから「偽官軍」の汚名を着せられ処刑され、渋谷総司たちの名誉が回復されたのは実に昭和になってからである。

<渋谷総司の生家>

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渋谷総司の生家は、江戸時代には名主をつとめた古い家のようで、大宮神社の近く、台地直下の開けた場所にある。以前、佐津間城に行った折に、その辺にも行っているので若干土地勘はあった。

以前訪ねたときにも気付いたが家の前に低い土手がある。野馬土手がそんな場所にあるとも思えないが、あるいは古い屋敷囲いなのか。 また門の前には、渋谷総司の生家である旨の標がある。

赤報隊は慶応3年(1867)10月当時後の幹部が江戸の薩摩藩の屋敷にいたように、いわゆる官軍の側で動いていて、薩摩藩士西郷隆盛の指示により、公家の綾小路俊実と滋野井公寿を盟主に据え、近江国愛知郡の松尾山で慶応4年(1868)1月10日に結成された。彼らは、東山道を進軍する際に明治新政府側の政策として「年貢半減」を宣伝して歩いた。 また倒幕の戦いの呼応するように江戸市中に放火したり、なかには略奪行為などもあったようである。赤報隊が「偽官軍」の汚名を着せられた理由は、明治新政府側が当初唱えようとして撤回した「年貢半減」を宣伝したことが、明治新政府のもくろみと食い違っていたことが大きいようであるが、一緒に行動していた公家たちにはお咎めはなかった。

慶応4年(1868)、赤報隊長であった相楽総三らとともに渋谷総司は22歳の若さで信州の下諏訪で斬首となった。その下諏訪には後になって、彼らの慰霊のために魁塚が作られた。

<宝泉院>

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赤報隊の名誉回復運動は、大正から昭和にかけて行われたが、それまでは渋谷総司らの慰霊を公にはすることができず、事実佐津間の墓地にも渋谷総司の墓はない。

渋谷総司らの名誉回復は昭和3年(1928)になってからで、相楽総三には正三位、渋谷総司には従三位が贈られた。その記念碑は佐津間の宝泉院にある。

<渋谷総司の碑>

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(昭和4年(1929)になって渋谷総司の贈位を記念して建立された石碑)

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2012.12.30

復旧した庚申塔2

昨年、東日本大震災で受けた各地の庚申塔などの石造物の復旧を見てきたが、昨年末近くになって船橋市金堀の庚申塔が復旧されたことが分かった。 小室の庚申塔は割合はやくに復旧し、その後徐々に各地のものが復旧していったようである。

八千代市吉橋と尾崎の境目くらいにある吉祥院跡の庚申塔や石仏などは、復旧がやや遅かったようである。この吉祥院跡には優しい姿の寛文 8 年(1668)の勢至菩薩があるが、勢至菩薩も少し傾いた状態であった。しかし、今年の9月に行ったときには、倒れていたものや欠けていたものも含めて、石造物の修復がされ、コンクリートの台座に固定されていた。脇に「吉橋大師講 第一番札所」と刻まれた石塔が建っている。

<復旧した吉祥院跡の石造物>

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例の勢至菩薩はやはり傾いていたようであるが、特に損傷はなかったようである。以前は、見やすい場所にたっていたのだが、他の石造物とあわせて一つの土台に接地されたために、今度のは少し見づらい状態にある。前に小さな石仏があり、その石仏越しにみる形になったためである。

<優美な勢至菩薩像>

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少し窮屈であり、せめて石造物群が集められた場所の東側から北側の一列に並んだ、お地蔵様などの石造物のような形に配してほしかったと思った。

なお、この吉祥院跡とは吉橋の貞福寺の末寺である吉祥院があった場所で、大師堂が建っている。実は貞福寺がある場所には戦国時代に吉橋城があり、この吉祥院跡も城域である。周辺の低地に比べて半島状に少し高くなっており、櫓か何かがあったのかもしれない。

<東側の石仏群>

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それはともかく、各地の古い集落などにある庚申塔などの石造物が震災から復旧したことは、まだ集落の地力が残っていることを示している。時間はかかっても復旧したことは、やはり昔のものを大事にしていこうという地域の人たちの意思が働いているのだと思う。

ちなみに、近くの高本の農業協同館付近の石仏群も傾いたりしていたが、復旧し元の状態のように戻っていた。

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2009.10.31

馬加城と三山七年祭

今では、ハイテクの街として知られる幕張。かつて、ここが千葉氏の本家を倒し、それにとってかわった馬加氏の本拠地であったことを知る人は少ないだろう。

<武石の真蔵院>

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今の海浜幕張のビル街をまっすぐ北へ行くと、いまだに農村風景の名残をとどめる武石という場所にでる。そこにも千葉氏の一族である武石氏が鎌倉時代から住んでいた。武石には真蔵院という古寺があり、武石氏の祖である千葉常胤の子武石三郎胤盛の母のものと伝わる板碑が伝わっている。その板碑というのは、大字須賀原俗称愛宕山の古墳上に建っていた七基の板碑の一つで、のちに真蔵院に移されたもの。光明真言の梵字とともに「右為先妣聖霊出離生死証大菩薩也、永仁第二暦季秋卅之天」と陰刻されている。なお、裏面に施主常胤と彫られているが、それは後世の偽刻である。

<真蔵院の板碑>

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実は、武石三郎の弟である大須賀四郎胤信は、兄よりも早く当地におり、隣接する場所を領有したようである。大須賀氏が香取郡下総町に移り、武石氏の惣領家が東北へ転じた後、そこには千葉氏の本家筋ではあるが、庶子といわれる馬加康胤が城を構えて、一族眷属が住んだ。

馬加は、「まくわり」と読み、幕張の旧名である。その地名の起源は、当時この土地は軍馬の産地で、野馬を軍馬に仕立てて軍馬に加える土地という意味で馬加といったのだそうだ。幕張と名前を変えたのはそれほど昔のことではなく、現在の千葉市西側の花見川区幕張辺りを近世までは馬加と呼んでいた。

ある時代まで、その馬加康胤の城も、遺構が残っていたかもしれない。あるいは、千葉氏嫡流を倒し、足利将軍家から東常縁らの軍勢を差し向けられ、戦死した一族であり、その居城は跡かたもなく、合戦の後すぐに破却されたのかもしれない。
現在は、その馬加康胤の城跡の位置などについては、確かな遺構が残っていないために、古文書や伝承から推定するしかない。

◆馬加城の推定位置と概要

馬加城は、武石館のある台地に連なる花見川と浜田川に挟まれた舌状台地の西端にあったが、現在は遺構が残っていない。馬加城があったとされる場所には、現在はマンションや一戸建の住宅が建ち、その他は畑や駐車場などが広がっており、台地北端は京葉道路が通っていて掘削され、地形の原形を留めていない。この台地は、発掘調査も行われ、弥生時代の遺物など出土したが、馬加城の存在の証になるような中世期の遺構、遺物は発見されていない。また、馬加城の場所や規模、構造などを記した同時代の古文書も残っていない。当地に残る伝承や、後世に書かれた素加天王神社に関する神主中須加氏(中台氏)の記録から、アウトラインがわかるのみである。

なお、三代王神社周辺から、空堀跡とみられる遺構が検出されたという情報もあるが、詳しいことは分かっていない。

<馬加城があった幕張の台地>

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◆築城時期と城郭の成立

馬加城は、元々千葉常胤の四男の大須賀四郎胤信が、治承4年(1180)に大須賀庄本郷といっていた当地を所領として与えられ、居館を構えたのに、端を発している。大須賀四郎は、兄三郎胤盛のために武石の地を譲り、武石館が築かれたという伝承がある。実際は、胤盛、胤信それぞれ隣接する所領が与えられたのであろう。大須賀胤信の居館がどのようなものであったかは、遺構もないので分からないが、同時期のものと同じく単郭方形のものであったろう。場所は、馬加城の場所として比定されている当地であったか。

馬加城があったとされる台地上の場所には、「道場台」(俗称:ヤカタ)という地名が残っており、その台地の南側低地、すなわち城の大手の位置には「道場根」という地名が残っている。「道場台」には城の内郭があったとされるが、その東側、自然の谷を隔てた「椎崎」には、外郭部があり、家臣の屋敷や海隣寺、素加天王神社(後の子守神社)があったとされている。

大須賀四郎胤信が、現在の香取郡下総町に移ると、その後は千葉宗家の領有となり、代々家臣を城代として、番兵を置き城の守りに当たらせていた。
馬加城と領民の運命が大きく変わったのは、千葉介満胤の庶長子で、常陸の大椽氏に養子に行っていたが離縁して戻ってきた康胤が、千葉宗家が守ってきた幕張の屋形を修復し、居住するようになってからである。康胤は馬加氏を名乗ったが、これは幕張=「馬加」の地名に由来している。この「馬加」は、素加天王神社の記録によれば、享徳元年(1452)の幕張大明神の祭礼に祭馬を多く集めたことから、神号を馬加大明神と改号し、里名も馬加に改めたことに由来するというが、これはあくまで話である。「馬加」は野馬を捕えて、軍馬に仕立てたことに由来するという説があり、筆者はこちらの方が本当らしいと思う。ともあれ、15世紀半ばに千葉宗家筋の康胤が馬加康胤と名乗って、当地に城館を整備し、新領主として支配することになった。

◆馬加康胤の霊夢と三山七年祭の伝承

馬加城の東に隣接する三代王神社も、馬加氏所縁の神社であるが、伝承によれば文安2年(1445)馬加康胤の妻が臨産の際、康胤の霊夢に三代王神があらわれ、その後康胤の妻が無事に出産したという。この逸話により、二宮神社を中心とした三山の七年祭という行事が始まった。三山の七年祭とは、三山(船橋市)にある二宮神社を中心に、幕張の子安神社、子守神社、三代王神社、久々田(習志野市)の菊田神社、実籾の大原神社、高津(八千代市)の高津比z盗_社、時平神社(八千代市)、八王子神社(船橋市)が参加して丑と未の年に行われる祭である。各神社各々役割が決まっており、以下のようになっている。

<三代王神社>

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 ・二宮神社(船橋市三山)   :主人・父君
 ・子安神社(千葉市畑町)   :妻・母
 ・子守神社(千葉市幕張)   :子守
 ・三代王神社(千葉市武石)  :産婆
 ・菊田神社(習志野市津田沼) :叔父
 ・大原大宮神社(習志野市実籾) :叔母
 ・高津比咩神社(八千代市高津) :娘
 ・時平神社(八千代市萱田)  :息子
 ・八王子神社(船橋市古和釜) :息子

この祭のメインは、八つの神社の神輿が二宮神社に集まる神揃の祭と、磯辺に竹垣を結び、神輿を安置し安産の産屋の祭式を行う磯出祭からなっている。磯出祭は、明らかに馬加康胤の妻の安産祈願成就を起源としている。

その馬加康胤は、千葉氏のなかにあって当主ではないが、一族の重鎮であり、結城合戦など、千葉宗家に従って各地を転戦し、千葉宗家に忠実に従ってきた。馬加康胤は、関東公方、のちに古河に移って古河公方と呼ばれた足利成氏を支持する立場であった。しかし、千葉宗家は足利成氏支持ではなく、対立する関東管領の上杉氏支持に傾いていた。康正元年(1455)、ついに馬加康胤は旗幟を鮮明とし、千葉介胤直が家老である円城寺氏の勢力に依拠して、足利成氏に対立する関東管領上杉氏を支持すると見るや、足利成氏を支持する原胤房と呼応して千葉宗家打倒の兵を挙げた。

すなわち、康正元年(1455)3月、足利成氏に組みする馬加康胤は、同じく千葉氏の宿老として勢力を持ってきた原胤房らと共に、1千余騎の兵をもって、足利成氏と対立する千葉介胤直を討つべく、千葉城を急襲した。からくも千葉介胤直は、胤直の子胤宣や弟胤賢とともに千葉城を脱出し、九州千葉氏の本拠地である千田庄の志摩城や多古城に拠った。ここで千葉宗家は上杉氏の救援を待ったが、多古城にいた胤宣は、馬加康胤の攻撃を受けて「むさ(武射か)の阿弥陀堂」で自刃、また志摩城に拠った胤直、胤賢兄弟も原胤房に攻撃された。からくも、胤直、胤賢兄弟は志摩城を脱出し、土橋の如来堂に逃れたが、胤直はその如来堂で自刃した。弟胤賢も匝瑳郡小堤辺りで自刃し、鎌倉の有力御家人から大名として成長していた千葉宗家は一旦滅んだ。

この事態は将軍足利義政の逆鱗に触れることになり、幕府が追討の軍として派遣したのは、千葉一族である東常縁である。東常縁は、将軍足利義政の御教書を戴き、副将として浜民部少輔春利を伴って下総東庄に下向した。そして東常縁らは馬加康胤、胤持父子を攻め、馬加康胤は自刃、その子胤持も戦死した。

しかし、馬加康胤の子で、現在の酒々井町岩橋辺りに勢力をふるっていた岩橋輔胤は、原胤房ととも分散して戦いを続け、その子孫が本佐倉城を根拠に新しい千葉宗家となって代々下総をおさめた。

<三山の七年祭>

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「ハイテクの街幕張」、それは最近になって埋め立てで生まれた街であり、もともとの幕張、つまり馬加は中世の豪族にまつわる祭祀や合戦譚で彩られた古い土地なのである。

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2009.09.22

松戸にあった相模台城とは、どんな城だったのか

松戸の駅をおりると、中世の城跡が駅の近くに3つある。戸定公園の裏から千葉大にかけてが松戸城、松戸市役所の近くには根本城、もうひとつ聖徳学園のある「相模台」と呼ばれる岩瀬地区には相模台城があった。松戸は中世には千葉氏が支配したが、室町から戦国時代には千葉氏の一族で重臣であった原氏、さらに原氏の家老格であった高城氏に支配が移っていった。現在ある城跡は、原氏、高城氏の時代のものであろうが、遺構が余り残っておらず、小金城のように発掘調査がなされたわけでもなく、文献資料も乏しい。

相模台城は、現在のJR松戸駅の東口をまっすぐ東へ進んだ「相模台」の台地上にあった城であり、その場所は天文7年(1538)の第一次国府台合戦の主要な合戦場のひとつである。「相模台」は、標高25mの台地で、戦前陸軍工兵学校などがあった、字「相模台」の松戸中央公園とその南の台地端の字「塚田」の法務局、検察庁の庁舎や職員住宅のある場所、および松戸中央公園の東にある、字「向山」の聖徳学園などがある場所が城域と考えられるが、遺構が残っておらず、郭展開どころか、城域が台地全体なのか、台地の一角に留まるのかすら明確でない。

<「相模台」の現況~中央公園入口(陸軍工兵学校の門跡)>

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また、旧東葛飾郡岩瀬村にあったため、岩瀬城とも呼ばれたが、岩瀬城は相模台の北東の「岩瀬」の台地上にあった別の古い城であった可能性もある。この場所には、戦前陸軍工兵学校が置かれるなどして、土地の改変著しく、陸軍工兵学校の跡地が松戸中央公園になったほかにも、庁舎や学校がたって、整地されたため、遺構が残っていない。わずかに、駅前の市街地に通じる、台地の西南から低地へ下る切り通し状の道が、空堀(竪堀)跡と推定できる程度である。これは、かつて陸軍工兵学校があったときに、演習から疲れて帰ってきた軍人たちの最後の試練となった急な坂で、あともうすこしで工兵学校なのに、この急坂はまるで地獄坂だというような意味で名付けられた。

<「地獄坂」>

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実は、この坂の麓から台地をのぼる階段があり、のぼりきったところにある公園を相模台公園というのだが、周囲からみると窪地のようになっていて、削平されている。また、ここは旧軍の馬場があったところであり、なにかの土台にような石造物がある。 最近、ここも相模台城の一部で、腰郭ではないかと思うようになった。南低地からの敵の侵入を防ぐ意味があったと思われるし、地獄坂の空堀を敵がのぼってきても、その周囲の高くなっている場所から矢を射ることもできたのではないかと思う。

<相模台公園>

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後述するように、当城は天文7年(1538)には存在したが、築城時期も明らかではない。ただし、標高の高い台地上に存在したことから、鎌倉期の築城ではなく、時代の下った室町、戦国期の築城であり、その頃の当地域の支配者が築城にしたと考えるなら、その築城者は原氏、あるいは高城氏となる。 そもそも「相模台」とは、北条相模守高時が城を築いたため、そう名付けられた地名と伝えられる。『松戸の歴史案内』(松下邦夫著)によれば、 「建長元年(一二四九)に、房総三ヵ国の守護北条武蔵守長時が上総国山辺郡松之郷村と、松戸市の岩瀬村に城を築き、数代にわたってその家臣達が居城したといいます。 嘉歴元年(一三二六)になると、北条相模守高時が入道して崇鑑と号し、岩瀬に居城します。こうしたことでこの地が『相模台』といわれる様になったという訳です。」 とある。もちろん、これは「話」であって、信憑性は余りない。 北条相模守高時が松戸に住んでいたという滅茶苦茶な話は、もちろん信じがたい。北条高時の領地が松戸にもあったというなら、可能性はあるだろう。しかし、いまのところ、そういう文献上の証拠などがあったとは聞いていない。

<「相模台」の現況~松戸一中横の道路>

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おそらく、「相模台」は、相模守という受領名をもった別人に由来するか、何らかの縁で相模という名を付けられたのであろう。また聖徳学園がある場所を「向山」といい、さらにその東に「殿井戸」という地名がある。「向山」は、谷を挟んで向いの山ということであろうから、「相模台」の向いというより、北側の根本城のあった「根本」の台地の向いの山という意味であろう。また、「殿井戸」は城主が住んでいた居館の井戸を示すのではないかと思われる。「殿井戸」から西の「相模台」までは約500mほどあり、相模台城の井戸としては遠すぎる、さらに「殿井戸」の近くには「殿屋敷」という小字があったということであるから、城は「相模台」にあって、平時城主がいたのは、その東の台地下の居館であったのではないか。あるいは「殿井戸」などの地名は、相模台城とは別に中世の城館があって、その関連地名の可能性もある。 天文7年(1538)10月の第一次国府台合戦の折、安房の里見氏、上総の武田氏を率いた小弓公方足利義明は本陣を国府台に置いて、配下の椎津、村上、堀江、鹿島の諸士がこの相模台に在陣して後北条軍の太日川渡河を見張ったという。江戸城から出陣した北条氏綱の約三千の後北条軍は、10月7日に松戸へ渡河し、椎津、村上らの小弓軍を破って南下、これを知った足利義明は千の手勢を率いて北上して交戦、義明本人とその子義純、弟基頼をはじめ馬廻り約140名が討たれるなどして、小弓軍は敗れ、国府台に陣を張った里見義尭率いる里見軍は、早々に戦を見限って安房に帰陣したという。

この相模台には戦死者の塚と伝える「経世塚」が、聖徳学園構内にある。これは2基の円墳で、古代の古墳であり、その上に中世の板碑がのっている。なお、学園関係者によれば、この「経世塚」は、前は別の場所にあったが、事情により現在地にうつされたとのことで、時々近所のお年寄りが写真を撮りにくることがあるという。「経世塚」は、もともとは古墳であり、第一次国府台合戦とは関係ないのであるが、何時の頃か結び付けられて今日にいたっている。

<「経世塚」>
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2009.08.31

北小金の寺と神社

東漸寺(西山浄土宗)

1.場所
松戸市小金359 (北小金駅から南へ進み、歩いて約3分)

2.創建からの歴史
 文明13年(1481年)に、増上寺の音誉上人の弟子経誉愚底上人によって、根木内に開かれたのがはじまりという。この経誉愚底上人は俗名長瀬氏、信州あるいは遠州の出身といわれ、鷲野谷の医王寺薬師堂を再建した。戦国時代、第五世行誉吟公上人のときに当地の高城氏とのつながりを深め、小金に移転した。その寺域は広大で、小金大谷口城の出城としての機能をもっていたという。
 高城胤吉の三男胤知は出家して東漸寺に入り、第七世照誉了学上人となった。高城氏が天正18年(1590年)に小田原北条氏と命運を共にし、戦国大名としては滅亡した後、生実大厳寺の源誉上人によって関東十八壇林が定められ、東漸寺もその一つとなった。照誉了学上人は、慶長3年(1598年)に芝に移り、元和元年(1615年)には徳川家菩提所である増上寺の第十七世住職となり、徳川秀忠の葬儀の大導師をつとめた。
 このように、東漸寺は徳川家と強い結びつきがあり、徳川家康から朱印地百石を与えられたが、家光の代には三十五石に減らされた。しかし、東漸寺は、他にも寺領をもっていた。また、広大な境内を持ち、多くの建物を擁した。
 大改修が成就した享保7年(1722年)には本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門その他8つの学寮など、20数カ所もの堂宇を擁し、末寺35ヶ寺を数え、名実ともに大寺院へと発展した。末寺ほか支配下の寺や庵は、江戸後期の文政3年(1820年)には武蔵・下総両国内で44ヶ所を数えた。
 明治初頭には、明治天皇によって勅願所(皇室の繁栄無窮を祈願する所)となった。
 江戸時代に幕府の擁護を受けた東漸寺も、廃仏毀釈等で、神殿、開山堂、正定院、浄嘉院、鎮守院などの堂宇をなくした。また、学寮およびその敷地は、地域青尐年の育成のために寺子屋として利用され、後に黄金小学校(現・小金小学校)となった。

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3.みどころ
 水戸街道から勅願寺の碑をみて、寺に入り、長い参道を歩いていくと、仁王門がある。「仏法山」という扁額は装飾された字でちょっと読めない。緑に包まれた美しい境内は、春は桜の名所として知られている。
 仁王門からさらに本堂に向かって進むと、中雀門(ちゅうじゃくもん)という山門がある。門をはいるとすぐ右に鐘楼堂がある。正面の本堂には本尊の阿弥陀如来像が安置され、その手前左側には、聖観音像を安置した観音堂と枝垂れ桜がある。本堂右手にある松は亀の松で、元は鶴亀一対だったが、鶴の松のほうが失われ、幹の曲がった変わった姿の亀の松(樹齢400年以上)のみ残っている。

Kamematsu

【竹内廉之助、啓次郎の碑】
幕末は元治元年(1864年)3月、水戸藩では武田耕雲斎、藤田東湖らを首領とした天狗党が筑波山で挙兵し、各地で兵を募り藩の保守勢力と衝突した。小金の郷士で、芳野金陵の門下であった竹内廉之助、啓次郎兄弟も、この天狗党に参加したが、同年9月に啓次郎は戦死、廉之助は捕らえられて蟄居を命じられた。竹内廉之助は、慶応3年相楽総三の率いる薩摩藩邸の浪士隊に加わり、それが赤報隊となると、その幹部の一人となり、戊辰戦争を戦った。しかし、赤報隊が偽官軍とされて、小諸藩などの信州の兵に攻められた際に、赤報隊は壊滅、この戦いで廉之助も戦死した。
竹内兄弟の碑は、東漸寺の本堂の向かって左側にあるが、銘は兄弟と交友のあった渋沢栄一が明治45年(1912)に記し、建立されたものである。

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4.所蔵文化財など
本尊である阿弥陀如来像、聖観音像、釈迦坐像などの仏像や絵画では二十五菩薩来迎図、三尊来迎図、徳川家康公肖像があり、古文書では徳川家康、水戸光圀書簡、高城胤辰、胤則の制札、朱印状写などがある。また浄土宗の宗祖、法然上人所持伏鉦や圓光東漸大師香衣遺像などの寺宝が残る。

本土寺(日蓮宗)

1.場所
松戸市平賀65 (北小金駅から本土寺参道を北へ進み、歩いて約10分)

2.創建からの歴史
 文永6年(1269年)に、日蓮上人に帰依した蔭山土佐守が狩野の松原に法華堂をたて、建治3年(1277年)に当地の領主であった、やはり日蓮宗の大檀越の曽谷教信とはかって、この地に法華堂を移し、日蓮上人の高弟、日朗上人を招いたのが、本土寺のはじまりという。
 そして、日蓮上人より長谷山本土寺の名前を授かり、下総国守護千葉氏の庇護もあって、かつては日蓮宗の大山として、末寺百数十を数えたが、不授不施の法難に度々会い、また明治維新には廃仏毀釈のために衰微した。この本土寺は平賀家の三兄弟、日朗上人、日像上人、日輪上人のご出生の聖跡と伝えられ、とくに日朗上人は日蓮上人と法難の伝道をともにされたことで有名である。また、長谷山本土寺、長栄山本門寺(池上本門寺)、長興山妙本寺(鎌倉比企谷)と、同じ「長」という字を山号にもち、「本」という字を寺号にもつ、「朗門の三長三本の本山」のひとつに本土寺は数えられている。

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3.みどころ
 一般には「あじさい寺」として知られ、ミニ鎌倉の感もあり、けやき並木の続く長い参道と美しい境内は、人々の安らぎの場にもなっている。
 赤い仁王門を抜けると境内には、
本堂、祖師堂、五重塔、開山堂、像師堂、妙朗堂、宝蔵 などの建物がある。

<本土寺の紫陽花>

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<像師堂>

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【翁の碑】
この「翁」とは松尾芭蕉のこと。この句碑は、江戸時代の文化元年(1804年)に行われた芭蕉忌を期して建立されたもの。 碑面には「御命講や油のような酒五升」という句や、芭蕉忌にちなんだ「芭蕉忌に先づつつがなし菊の花」という句が刻まれている。
「東都今日庵門人小金原、藤風庵可長、松朧庵探翠、方閑斎一堂、避賢亭幾来、当山三十九世仙松斎一鄒、文化元子十月建之」とあり、江戸の今日庵元夢の門人である小金の藤風庵可長らが建立したことがわかる。

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【秋山夫人の墓】
本堂の東側に、秋山夫人の墓がある。この秋山夫人は於都摩といい、甲斐の武田家家臣の秋山家の出身。徳川家康の側室にして、武田信吉の母である。武田信吉は、家康の五男で、徳川家康が武田の名跡が絶えるのを惜しみ、信吉に武田家を継がせたため、家康の子でありながら、武田を名乗り、小金三万石の領主となった。しかし、於都摩は天正19年(1591年)に24歳で病没。武田信吉は病弱で、21歳で病没してしまった。

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4.所蔵文化財など
 国重要文化財の日蓮筆の「諸人御返事」「大学三郎御書」や県・市の有形文化財となっている「富城殿御返事」「本土寺過去帳」などの古文書が残る。

 中世の歴史の研究者にとっても、本土寺にのこる過去帳は、さまざまな人名が大名から一般庶民、なかには被差別民であった猿楽能役者まで詳細に記載されていることから、度重なる戦乱や武士たちの動静を含む下総あたりの中世の歴史をひもとく第一級の史料になっている。

慶林寺(曹洞宗)

1.場所
松戸市殿平賀209-2

2.歴史
 大福薬師瑠璃光如来を本尊とする曹洞宗の寺で、山号は熊耳山(ゆうじさん)。戦国時代の永禄8年(1565)2月12日、小金大谷口城主の高城胤吉が没すると、その妻は出家し、桂林尼と号し、殿平賀の鹿島神霊のそばに庵を結んだ。その後、まもなく(翌月または翌年二月の胤吉命日という)桂林尼もなくなったので、その子胤辰は母の冥福を祈って花島勘解由を奉行に命じ桂林寺を建立した。
 天正19年(1591)11月、徳川家康から朱印地十石を寄進され、高城氏ゆかりの寺から脱却し、慶林寺と号するようになった。

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3.所蔵文化財など
 天正12年4月11日在銘の直径27センチの太鼓(市有形文化財指定)を所蔵。

 桂林尼墓所(市指定史跡)のほか、小金牧の野馬奉行を務めた綿貫氏の墓もある。

* 綿貫氏はもとは月見里(やまなし)氏。月見里土佐守政胤が高城氏滅亡後慶林寺に蟄居、その子綿貫政家が徳川家康に召しだされ、野馬奉行を命じられたという。

<桂林尼墓所>

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鹿島神社(殿平賀180)

常陸国一ノ宮の鹿島神宮を分社したもので、その主祭神である武甕槌神をまつっている。武甕槌神は武勇の神・雷の神として尊崇される。
鳥居の向かって左手には青面金剛の文字庚申投塔がある(寛政十二庚申年建立)。他に弘化四年や大正時代建立の石祠がいくつかあるが、「大山阿夫利神社」「月参講中」以外、碑面が崩壊し文字が判読できない。

大勝院(大谷口145-1:新義真言宗豊山派)

外番場の交差点尐し手前に看板があり、右折し直進したところに山門がある。
小金大谷口城の東北(鬼門)を守る寺院とされ、境内をはいると鐘楼、昭和58年(1983)に再建された本堂がある。
大勝院は、新義真言宗豊山派の寺院で、山号は遠矢山(矢を遠ざけるの意)。
文明12年(1480)の開基とも、永正3年(1506)の創建ともいうが、根木内城の高城氏の帰依をうけ、もとは根木内の小字・大勝院山にあったが、小金大谷口城の北部郭内に移され、高城氏の祈願所になった。
鎌倉時代の弘安年号をもつ板碑などを含め、南北朝・室町期の板碑多数が所蔵される。
常真寺(大谷口18:日蓮宗)
道行山常真寺といい、日蓮宗・本土寺の末寺。元和2年(1616)の創建と伝えられるが、明確ではない。しかし、寛文年間(1661~1673)以前に成立していたとみられる。観音堂があり、墓地には庚申塔がある。

八坂神社(小金443)

JR北小金駅の南口を出てすぐの駅前交差点のビル(サティ)の前に、「小金鎮守 八坂神社御跡地」の碑がたっているが、かつてこの地に八坂神社があった。現在地には、昭和48年(1973)に移転した。
これは京都の祇園社を勧請したもので、古くは牛頭天王社と称して小金の高城氏が信仰していたといわれる。

妙典寺(小金168:日蓮宗)

正覚山妙典寺といい、日蓮宗・中山法華経寺の末寺。水戸街道の小金宿本陣跡近くにある。
創建は江戸時代前期の寛永年間(1624~1644)と伝えられ、直井妙典が開山。

この寺で有名なのは、江戸後期文政8年(1825)に建立された芭蕉の句碑で、
「志ハらくは 花のうへなる 月夜可奈(かな)」と刻まれ、松朧庵探翠が建立している。
また、住職が所属していた陸軍歩兵第五十七連隊(佐倉連隊)のレイテ戦での戦没者慰霊碑がある。

<芭蕉の句碑>

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東雷神社(東平賀226-1)

JR北小金駅から南柏方面に線路沿いに400メートルほどいった場所にある。雷神をまつるが、創建は不詳(かなり古いらしい)。
昭和61年(1986)の火災で社殿を焼失し、現在の社殿は再建されたもの。また、かつては椎の古木や杉の木立といった極相林が鬱蒼と茂っていたが、現在は残っていない。靖国鳥居と明神鳥居の2基の鳥居がある。手水舎は嘉永9年(1857)作。江戸時代以前は神仏習合で、対応する寺があったらしい。
境内には青面金剛、二十三夜塔、大杉大明神、香取、鹿島神社といった末社の石祠などが祀られている。

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2009.05.21

中世の景観を残す旧沼南町藤ヶ谷

小生は、以前書いたように、もともとは単なる石垣と天守閣の名城が好きで、会社にはいって愛知県に配属となって犬山城を訪ねたり、関西では縁あって滋賀大学を何度か訪問する際に、同時に彦根城に行ったり、西の姫路城に行ってみたりしていた人間である。

初めて千葉県の城で、城跡めぐりをしたのは臼井城で、それは愛知県から戻ってきた昭和59年(1984)頃と記憶している。臼井城も、周囲に砦や支城があることはずっと知らず、当時畑だった主郭付近をうろうろ散策するだけであった。当時は、今のように駐車場がなかったので、路上に車を止めると、ほかの車の迷惑になりはしないかと思い、少し離れたお寺の駐車場に止めさせてもらったりした。

<現在の臼井城跡>

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臼井城の主郭の周囲でも、土塁の上に太田道灌の弟である太田図書の墓があったり、臼井城に隣接する、円応寺には幼い臼井興胤を志津氏からまもって戦ってなくなったという岩戸五郎の「供養碑があって、臼井城跡からは眼下に印旛沼を望むことができた。その後、関西に転勤になり、千葉の城にはしばらく行かなかったのであるが、平成となって神戸の震災前に帰ってくると、また城めぐりを始めたのである。

そのころには、臼井城だけではなく、自宅周辺のより身近な、また余り知られていない城もまわってみるようになり、その過程で船橋市が発行した報告書などを読み、初めて「横矢掛け」などという言葉を知るにいたった。船橋市以外では、お隣の市川市、八千代市、千葉市の西側の幕張方面に時々出かけて行った。

船橋には十五くらいの城跡がある、またはあったという。しかし、現存する城跡で、ある程度まとまった遺構が残っているのは、夏見城、高根城、金杉城くらいであろうか。楠ヶ山館が以前はほぼ完全に残っていると言われていたが、どこまで戦国時代の遺構で、どこからが江戸時代の屋敷跡なのか判別つきにくく、防御施設がほとんどないことから今では疑問視されている。

その船橋の城跡で、もっとも北にあるのが小野田城跡。これはどうも里見氏に関係しているのか、安房神社が近くにあり、その神社境内に土塁が残存している。そこまで北上すると、今度は国道16号線を通って、小生西に向かったのであるが、現在柏市になっている旧沼南町で実は初めて城跡を調べたのは大井で、その後対岸の戸張、さらに高柳のほうに足を伸ばした。

国道16号線をある日、途中旧沼南町で降りて歩いてみた。そこは藤ヶ谷であったのだが、広い道の端に車をとめ、周囲を歩いたのだが、実にのどかな光景が広がっていた。集落は台地下から台地にかけてあり、台地下の低地は谷津となって、そのだいぶ向こうにまた台地があった。そのとき、たしか、犬を連れたおじさんが散歩していたのを覚えている。

あるいは、この風景は中世ではどうだったのか。谷津田の向こうには寺堂があり、集落には農耕に従事する人々がいて、あるいは犬も飼われていたか。

<藤ヶ谷風景:今はかつての谷津田が畑になっている>

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ずっと、長い間、気まぐれで16号線を降りて沼南のどこかを歩いたことは忘れていたのだが、先日藤ヶ谷の持法院に行ってみようと思い立ち、行ってみるとまさにその場所が以前気まぐれで歩いた場所であったのである。

この藤ヶ谷は、手賀沼に注ぐ金山落としの左岸に位置するが、中世には金山落としの西が相馬郡、東が印西外郷と、はっきり分かれていた。

手賀沼周辺の相馬御厨があった地域は、千葉常胤の叔父常晴がおさめていたという。千葉常胤の父常重は、その常晴から天治6年(1124)に相続し、大治5年(1130)に伊勢神宮に寄進するが、公田官物未納を理由に国守藤原親通に取り上げられ、その後源義朝、源義宗が相馬郡を領有した。千葉氏は、その相馬領を復活させるために、いろいろ手をうったが、再び千葉氏が相馬郡を領有するのは治承4年(1180)の頼朝挙兵後である。

<藤ヶ谷にある持法院>

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千葉常胤から次男の相馬次郎師常が相続した以降は相馬氏が支配し、相馬氏は奥州と下総の二流に分かれた鎌倉末期の後も下総相馬氏は罪科に処せられたものの、南北朝期から室町期、戦国初期まで下総相馬氏の宗家は当地に残っていたと思われる。しかし、相馬氏の主流は奥州相馬氏であり、下総に残った一族でも守谷を本拠とする相馬氏が勢力を保っていた。

その庶流であろうか、藤ヶ谷城の城主であったのは、相馬氏と伝えられる。高城氏関連の古文書に出てくる「藤ヶ谷修理」なる人物も、相馬一族であろう。それが地名を名乗ったものと思われるが、戦国末期には相馬胤吉という人がいて、高城氏とともに小田原参陣をしたらしい。その相馬胤吉ら、当地の相馬氏の菩提寺としたのが、登慶山如意輪寺持法院である。

小生が持法院に行ったのは、手賀沼周辺の歴史で、あるテーマについて調べているのであるが、そのなかで藤ヶ谷の相馬氏の動向を知る必要があったからである。

実は藤ヶ谷には今も相馬さんというお宅が何軒かあるが、そのお宅もまた藤ヶ谷城主の一族の子孫であろう。その相馬氏の家老は、勝柴氏であるが、家老の子孫といわれる勝柴姓のお宅も当地にはある。

<持法院の観音堂入口>

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持法院の開基は相馬忠重といわれるが、あくまで伝承である。ただし、藤ヶ谷の薬師堂からは相馬忠重と同時代の貞治3年(1364)年建立の阿弥陀尊板碑が出土しているので、あるいはその頃の開創かもしれない。

持法院は、この周辺によくありがちな質素な堂宇で、赤い門と庭にさるすべりが植えられているのが目立つ位であるが、本堂の手前を北の台地にあがった場所に観音堂と墓地がある。その長い階段を登った先にある観音堂には、千葉介常胤が寄進したという如意輪観音像が安置されている。その観音については、千葉常胤の霊夢云々という由来があるが、それはあくまで話である。

<観音堂>

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柏市のHPには、以下のように書かれている。

「登慶山如意輪寺持法院の観音堂に安置されている尊像で、通常は非公開の秘仏です。尊像は、立て膝をして頬に手を触れる半跏思惟のポーズをとる、 戴冠六臂の木彫坐像です。白龕は水晶、目は玉眼で彩色はありません。これに対し、台座と二重円光の光背は金箔であるため、 元来尊像とこれらは別物であったと思われます。
むかし鎌倉時代に鎌倉で造られた如意輪観音像を登慶坊が相馬氏の領地である現地へ持参して祀ったのが寺の創建縁起となっています。 しかし、現存する観音像は、中世末期から江戸時代初期ごろの作品といわれています。」

なお、墓地の一段高くなった場所には、これも相馬氏に由来するのか、平将門の供養塔があった。供養塔の脇に、その関連の句碑まで建てられている。

<平将門の供養塔>

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なお、肝心の藤ヶ谷城であるが、あまり確たることが言えないので、ここで書くのは差し控えたい。いくらか遺構もあるようだが、集落と国道16号によって亡失した部分が多く、調べた結果は後日に報告したい。

参考サイト:

柏市HP(柏の文化財)

http://www.city.kashiwa.lg.jp/cityhall/sosiki/B_SYOG/SYOG_BNK/bunkanavi/KashiwaBunka/contents/shitei/y_nyoirin.htm

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2009.04.16

オープン直前、松ヶ崎城跡の整備状況

柏市の松ヶ崎城のオープン前の清掃活動に、先日行ってきました。

郭内の木が切られ、土塁や堀が表土まで露出する状態になったため、よく見渡せるようになった反面、東側の土塁など、だいぶへこんだり、損傷しているのも、よく分かるようになっていました。

写真は、「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」HPのトップにも掲げた、筆者が物見台(1号古墳)にのぼって撮った郭内の様子ですが、重機のわだちが痛々しい。

Kakunai

古墳は3基とも無事でしたが、2号墳、3号墳は、周囲に草木がなくなったため、前より大きく見えました。

そうした古墳の上にも、春のきざしが。なんと、わらび、ゼンマイの芽が出ており、タラの芽までありました。

Warabi 

柏市によって、土塁、虎口といった看板が取り付けられる予定ですが、清掃作業のときには、仮設のものでした。その他、台地縁には、木の柵が設置され、切った木も運び出される予定です。

オープン後には、4月29日に「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」の講演会が予定されており、さらに見学会も計画されています。

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「古城の丘にたちて」外伝より転載

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2009.03.04

BUMP OF CHICKEN の歌のモチーフとされる臼井城宿内砦跡

先日、テレビで佐倉市の紹介をしていたが、そのなかでBUMP OF CHICKENという佐倉市臼井出身者で結成されたバンドが、臼井城の宿内砦跡である宿内公園を歌のモチーフとしていると言っていた。そして、彼らの「グロリアスレボリューション」というの曲の撮影が行われたのも、宿内公園であった。宿内砦といっても、ほとんど知る人がいないだろうが、BUMP OF CHICKENの「くだらない唄」「続くだらない唄」という歌のモチーフになったという公園といえば、知っている人は多いかもしれない。

このBUMP OF CHICKENというバンドは、メンバーが佐倉市臼井の幼稚園か小学校からの仲間という佐倉郷土色の濃いバンドである。

臼井といえば、やはり臼井城。実は、小生は元は石垣に天守閣という彦根城や姫路城といった城には興味がおおいにあったが、土塁などの土造りの城にはそれほど興味がなかった。もともと、そういう土造りの城は、群馬県のある山城を手始めに、小学生のころから知っていたとはいえ、壮麗な石垣と白壁の城のほうに関心が向いていたのである。一時期、関西在住であったことが、その傾向を強めた。なにしろ、城といえば一番近くにあるのは神戸の花隈城で、住んでいた神戸市からは彦根城や姫路城といった城にも、快速電車に乗って出かけていけたのである。

長い関西での生活の後、千葉に戻ってきた小生は、たまたま車で行ったことのあった臼井城にまた行ってみようと思い立ち、小さな城と思いこんでいた臼井城の堀が意外に深いことを知り、それから中世の土造りの城に目を向けるようになっていった。

<宿内公園>

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臼井城には、小竹城や志津城といった支城と、5つの砦があった。その砦とは、北に洲崎砦、西北に仲台砦、西南に田久里砦、南に稲荷台砦、南東に宿内砦の5つである。そのうち、宿内砦は、「利根川図誌」にも「臼井旧事録」にも記載がない。しかし、臼井城の砦としては、唯一明確な遺構が現存する。この宿内砦は、かつては長源寺の寺域であった。「利根川図誌」には、その場所は長源寺として記載されている。長源寺は元亀元年(1570)、原氏に招かれた道誉上人により、「新大巌寺」として創建され、安永元年(1772)に火災で焼失するまで、宿内砦のある台地上にあり、かつてその台地は長源寺山と呼ばれていた。長源寺は、現在宿内砦のある台地下北西に隣接する谷合にある。

<道誉上人の墓>

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宿内砦は、長源寺の東南にある舌状台地の先端部分を占める。西側道誉上人の墓のある墓地は結構な広さがあるが、その墓地のある台地中腹の平場を通って台地の上まで階段が付いている。そこから階段の道を上り切った所に南北約150m、東西の最長部分約100m、短い所でも約50mの変形五角形の大きな郭がある。その南に高さ2m程の大きな土塁があって、南側の郭と区切っている。その土塁の一端は櫓台となり、主郭虎口防備のため、広角に矢を射るように配置されている。南側の郭は南北約100m、東西約60mの長方形で台地鞍部に続いている。

<宿内砦の土塁>

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舌状台地の先端が北側に向いている地形から見て、北側の最先端部分を占める大きな郭が主郭である。その郭の東側には、2~3m程低く、腰郭があり、その下台地中腹にも小さな腰郭が2つある。西側の道誉上人の墓のある墓地も台地中腹に付いた大きな腰郭である。南側の郭の東側にも小さな腰郭があり、その外側に堀底道と思われる切通し道がある。

<土塁は一部かなり高くなっている>

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かつては、長源寺自体がいわゆる城郭寺院として砦の役割を果たしていたと思われ、臼井城西の外郭や仲台砦とあわせて、臼井城の東西両翼の守りを固めていたと思われる。現在臼井城実城の北側直下にある円応寺もかつては今の場所でなく、第3郭のあった「外城」に隣接する「寺台」にあったという説もあり、円応寺も城郭寺院であった可能性がある。

宿内砦址は、長源寺移設後は原氏の家老だったという大森氏の私有地となり「おおもり山」と呼ばれていたが、市の借上と公園化、所有者の変更を経て、近年のマンション開発に抗した住民運動の結果、良好な遺構の保存状態のまま宿内公園として保存されている。
 

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