講演会「車ノ前五輪塔と柏市大井地区の中世世界」
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「今日もこの城、松ヶ崎城」というタイトル。 何やら、「今日もこの街、近商ストア」を連想させるというか、明らかにパクリのような気もするが、関東の人は近商ストアという近鉄系のスーパーなど知らないので、千葉県でそういうタイトルのイベントをしても余り問題ないかもしれない。
それはともかく。
手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会よりお知らせ
同会のURL↓
手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会 創立15周年記念講演と演奏の集い
・後援:柏市教育委員会
・会場 柏市勤労会館
会場住所 柏市柏下66-1柏市保健勤労会館2階 ~北柏駅より阪東バス慈恵医大下車徒歩6分)
・日程:2014年11月9日(日) 10時開場、午前中はミニ講座「今日もこの城、映像が語る松ヶ崎城」、三味線がたり
午前の部: 10 時 ~演奏等:バイオリン・フルート(アルペジオ)、三味線がたり(茗荷さん)
・午後の部: 講演会
・講演1: 13時~「松ヶ崎城の性格を考える」 講師:間宮正光氏 (千葉県文化財保護指導委員)
・講演2: 14 時 40 分~ 「伝承にみる手賀沼周辺 の城 」 講師:佐脇敬一郎氏 (柏市史編さん委員会参与)
・参加費:500円(15周年記念会誌、資料代など)
問合せ先 手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会
TEL:岸事務局長(04-7131-3036)
費用 500円(会誌代・資料代)
URL www.matsugasakijo.net
以下の動画もどうぞ。
松ヶ崎城紹介 ↓
手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会紹介 ↓
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平成16年に柏市文化財と指定された松ヶ崎城跡。文化財保護の各種活動や地域の皆さんのご尽力により保存されてきました。城跡保存を目的とした当会も15周年を迎え、この機会に記念講演会を行います。
この松ヶ崎城跡は、首都圏では珍しく遺構がよく残った城跡です。今回、当会創立15周年記念として、研究者お二人にご講演をお願いし、松ヶ崎城はどんな城だったのかを再度検証するとともに、周辺城跡の歴史を含めた興味深いお話を語っていただこうと思います。 午前中も「今日もこの城、松ヶ崎城」のミニ講座やバイオリン・フルートのアンサンブル演奏、三味線がたりがあります。皆様、お気軽に。
・会場:柏市勤労会館会議室・研修室(柏市柏下66-1柏市保健勤労会館2階) ~北柏駅より阪東バス慈恵医大下車徒歩6分
・日程:2014年11月9日(日) 10時開場、午前中はミニ講座「今日もこの城、松ヶ崎城」、バイオリン・フルート演奏、三味線がたり
講演会は、12時50分開演~16時10分頃まで
・講演1: 13時~「松ヶ崎城の性格を考える」 講師:間宮正光氏 (千葉県文化財保護指導委員)
・講演2: 14 時 40 分~ 「伝承にみる手賀沼周辺 の城 」 講師:佐脇敬一郎氏 (柏市史編さん委員会参与)
・後援:柏市教育委員会
・参加費:500円(15周年記念会誌、資料代など)
・その他:申込不要。 お問合せは、info@matsugasakijo.net まで。勤労会館自体の駐車場は限られていますが、体育館裏に広い駐車場があります。
<「古城の丘にたちて」外伝より転載>
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この連休の初めに連れと出かける予定が中止になり、一人さびしく船取線を北上し、鎌ヶ谷を通って高柳辺りへ行った。 食事をする場所は高柳には数軒あり、高柳で食事をしようと中華の店を目指したが、あいにく連休で休みで引き返して佐津間まで戻った。新鎌ヶ谷と高柳の間には佐津間にお蕎麦屋さんがあるくらいである(といっても、小生が知らないだけかもしれないが)。
佐津間のお蕎麦屋さんで蕎麦を食べた後、佐津間の渋谷総司の生家や渋谷総司の石碑がある宝泉院に行ってみた。佐津間には渋谷姓の家が何軒かあるが、赤報隊幹部で有名な渋谷総司は当地の出身であり、その生家は佐津間城に近い場所にある。
佐津間城址は、東武野田線六実駅に比較的近い県道船取線の佐津間交差点から東へ下った、手賀沼に注ぐ大津川左岸の標高約25m、比高10mほどの台地端にある。 城の大きさは堀の外側で東西50m、南北76m、土塁の内側で東西21m、南北35mという単郭の小さな城で、元は相馬氏系の城であったようである。それが、なぜこの場所に城があったかといえば、実は当地は手賀沼東部から松戸、すなわち現在の江戸川下流に至る松戸街道が大津川と交わる水陸交通の要衝であったためである。もっとも中世においては明確な街道という形でなかったかと思うが、道があり、そこを行き来する人も多かったのだろう。
<佐津間城遠景>
そういう中世の城跡のすぐ近くに幕末維新の頃に名をはせた人物が生まれたのだが、渋谷総司など赤報隊は明治新政府を形成した薩長などから「偽官軍」の汚名を着せられ処刑され、渋谷総司たちの名誉が回復されたのは実に昭和になってからである。
<渋谷総司の生家>
渋谷総司の生家は、江戸時代には名主をつとめた古い家のようで、大宮神社の近く、台地直下の開けた場所にある。以前、佐津間城に行った折に、その辺にも行っているので若干土地勘はあった。
以前訪ねたときにも気付いたが家の前に低い土手がある。野馬土手がそんな場所にあるとも思えないが、あるいは古い屋敷囲いなのか。 また門の前には、渋谷総司の生家である旨の標がある。
赤報隊は慶応3年(1867)10月当時後の幹部が江戸の薩摩藩の屋敷にいたように、いわゆる官軍の側で動いていて、薩摩藩士西郷隆盛の指示により、公家の綾小路俊実と滋野井公寿を盟主に据え、近江国愛知郡の松尾山で慶応4年(1868)1月10日に結成された。彼らは、東山道を進軍する際に明治新政府側の政策として「年貢半減」を宣伝して歩いた。 また倒幕の戦いの呼応するように江戸市中に放火したり、なかには略奪行為などもあったようである。赤報隊が「偽官軍」の汚名を着せられた理由は、明治新政府側が当初唱えようとして撤回した「年貢半減」を宣伝したことが、明治新政府のもくろみと食い違っていたことが大きいようであるが、一緒に行動していた公家たちにはお咎めはなかった。
慶応4年(1868)、赤報隊長であった相楽総三らとともに渋谷総司は22歳の若さで信州の下諏訪で斬首となった。その下諏訪には後になって、彼らの慰霊のために魁塚が作られた。
<宝泉院>
赤報隊の名誉回復運動は、大正から昭和にかけて行われたが、それまでは渋谷総司らの慰霊を公にはすることができず、事実佐津間の墓地にも渋谷総司の墓はない。
渋谷総司らの名誉回復は昭和3年(1928)になってからで、相楽総三には正三位、渋谷総司には従三位が贈られた。その記念碑は佐津間の宝泉院にある。
<渋谷総司の碑>
(昭和4年(1929)になって渋谷総司の贈位を記念して建立された石碑)
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昨年、東日本大震災で受けた各地の庚申塔などの石造物の復旧を見てきたが、昨年末近くになって船橋市金堀の庚申塔が復旧されたことが分かった。 小室の庚申塔は割合はやくに復旧し、その後徐々に各地のものが復旧していったようである。
八千代市吉橋と尾崎の境目くらいにある吉祥院跡の庚申塔や石仏などは、復旧がやや遅かったようである。この吉祥院跡には優しい姿の寛文 8 年(1668)の勢至菩薩があるが、勢至菩薩も少し傾いた状態であった。しかし、今年の9月に行ったときには、倒れていたものや欠けていたものも含めて、石造物の修復がされ、コンクリートの台座に固定されていた。脇に「吉橋大師講 第一番札所」と刻まれた石塔が建っている。
<復旧した吉祥院跡の石造物>
例の勢至菩薩はやはり傾いていたようであるが、特に損傷はなかったようである。以前は、見やすい場所にたっていたのだが、他の石造物とあわせて一つの土台に接地されたために、今度のは少し見づらい状態にある。前に小さな石仏があり、その石仏越しにみる形になったためである。
<優美な勢至菩薩像>
少し窮屈であり、せめて石造物群が集められた場所の東側から北側の一列に並んだ、お地蔵様などの石造物のような形に配してほしかったと思った。
なお、この吉祥院跡とは吉橋の貞福寺の末寺である吉祥院があった場所で、大師堂が建っている。実は貞福寺がある場所には戦国時代に吉橋城があり、この吉祥院跡も城域である。周辺の低地に比べて半島状に少し高くなっており、櫓か何かがあったのかもしれない。
<東側の石仏群>
それはともかく、各地の古い集落などにある庚申塔などの石造物が震災から復旧したことは、まだ集落の地力が残っていることを示している。時間はかかっても復旧したことは、やはり昔のものを大事にしていこうという地域の人たちの意思が働いているのだと思う。
ちなみに、近くの高本の農業協同館付近の石仏群も傾いたりしていたが、復旧し元の状態のように戻っていた。
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松戸の駅をおりると、中世の城跡が駅の近くに3つある。戸定公園の裏から千葉大にかけてが松戸城、松戸市役所の近くには根本城、もうひとつ聖徳学園のある「相模台」と呼ばれる岩瀬地区には相模台城があった。松戸は中世には千葉氏が支配したが、室町から戦国時代には千葉氏の一族で重臣であった原氏、さらに原氏の家老格であった高城氏に支配が移っていった。現在ある城跡は、原氏、高城氏の時代のものであろうが、遺構が余り残っておらず、小金城のように発掘調査がなされたわけでもなく、文献資料も乏しい。
相模台城は、現在のJR松戸駅の東口をまっすぐ東へ進んだ「相模台」の台地上にあった城であり、その場所は天文7年(1538)の第一次国府台合戦の主要な合戦場のひとつである。「相模台」は、標高25mの台地で、戦前陸軍工兵学校などがあった、字「相模台」の松戸中央公園とその南の台地端の字「塚田」の法務局、検察庁の庁舎や職員住宅のある場所、および松戸中央公園の東にある、字「向山」の聖徳学園などがある場所が城域と考えられるが、遺構が残っておらず、郭展開どころか、城域が台地全体なのか、台地の一角に留まるのかすら明確でない。
<「相模台」の現況~中央公園入口(陸軍工兵学校の門跡)>
また、旧東葛飾郡岩瀬村にあったため、岩瀬城とも呼ばれたが、岩瀬城は相模台の北東の「岩瀬」の台地上にあった別の古い城であった可能性もある。この場所には、戦前陸軍工兵学校が置かれるなどして、土地の改変著しく、陸軍工兵学校の跡地が松戸中央公園になったほかにも、庁舎や学校がたって、整地されたため、遺構が残っていない。わずかに、駅前の市街地に通じる、台地の西南から低地へ下る切り通し状の道が、空堀(竪堀)跡と推定できる程度である。これは、かつて陸軍工兵学校があったときに、演習から疲れて帰ってきた軍人たちの最後の試練となった急な坂で、あともうすこしで工兵学校なのに、この急坂はまるで地獄坂だというような意味で名付けられた。
<「地獄坂」>
実は、この坂の麓から台地をのぼる階段があり、のぼりきったところにある公園を相模台公園というのだが、周囲からみると窪地のようになっていて、削平されている。また、ここは旧軍の馬場があったところであり、なにかの土台にような石造物がある。 最近、ここも相模台城の一部で、腰郭ではないかと思うようになった。南低地からの敵の侵入を防ぐ意味があったと思われるし、地獄坂の空堀を敵がのぼってきても、その周囲の高くなっている場所から矢を射ることもできたのではないかと思う。
<相模台公園>
後述するように、当城は天文7年(1538)には存在したが、築城時期も明らかではない。ただし、標高の高い台地上に存在したことから、鎌倉期の築城ではなく、時代の下った室町、戦国期の築城であり、その頃の当地域の支配者が築城にしたと考えるなら、その築城者は原氏、あるいは高城氏となる。 そもそも「相模台」とは、北条相模守高時が城を築いたため、そう名付けられた地名と伝えられる。『松戸の歴史案内』(松下邦夫著)によれば、 「建長元年(一二四九)に、房総三ヵ国の守護北条武蔵守長時が上総国山辺郡松之郷村と、松戸市の岩瀬村に城を築き、数代にわたってその家臣達が居城したといいます。 嘉歴元年(一三二六)になると、北条相模守高時が入道して崇鑑と号し、岩瀬に居城します。こうしたことでこの地が『相模台』といわれる様になったという訳です。」 とある。もちろん、これは「話」であって、信憑性は余りない。 北条相模守高時が松戸に住んでいたという滅茶苦茶な話は、もちろん信じがたい。北条高時の領地が松戸にもあったというなら、可能性はあるだろう。しかし、いまのところ、そういう文献上の証拠などがあったとは聞いていない。
<「相模台」の現況~松戸一中横の道路>
おそらく、「相模台」は、相模守という受領名をもった別人に由来するか、何らかの縁で相模という名を付けられたのであろう。また聖徳学園がある場所を「向山」といい、さらにその東に「殿井戸」という地名がある。「向山」は、谷を挟んで向いの山ということであろうから、「相模台」の向いというより、北側の根本城のあった「根本」の台地の向いの山という意味であろう。また、「殿井戸」は城主が住んでいた居館の井戸を示すのではないかと思われる。「殿井戸」から西の「相模台」までは約500mほどあり、相模台城の井戸としては遠すぎる、さらに「殿井戸」の近くには「殿屋敷」という小字があったということであるから、城は「相模台」にあって、平時城主がいたのは、その東の台地下の居館であったのではないか。あるいは「殿井戸」などの地名は、相模台城とは別に中世の城館があって、その関連地名の可能性もある。 天文7年(1538)10月の第一次国府台合戦の折、安房の里見氏、上総の武田氏を率いた小弓公方足利義明は本陣を国府台に置いて、配下の椎津、村上、堀江、鹿島の諸士がこの相模台に在陣して後北条軍の太日川渡河を見張ったという。江戸城から出陣した北条氏綱の約三千の後北条軍は、10月7日に松戸へ渡河し、椎津、村上らの小弓軍を破って南下、これを知った足利義明は千の手勢を率いて北上して交戦、義明本人とその子義純、弟基頼をはじめ馬廻り約140名が討たれるなどして、小弓軍は敗れ、国府台に陣を張った里見義尭率いる里見軍は、早々に戦を見限って安房に帰陣したという。
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東漸寺(西山浄土宗)
1.場所
松戸市小金359 (北小金駅から南へ進み、歩いて約3分)
2.創建からの歴史
文明13年(1481年)に、増上寺の音誉上人の弟子経誉愚底上人によって、根木内に開かれたのがはじまりという。この経誉愚底上人は俗名長瀬氏、信州あるいは遠州の出身といわれ、鷲野谷の医王寺薬師堂を再建した。戦国時代、第五世行誉吟公上人のときに当地の高城氏とのつながりを深め、小金に移転した。その寺域は広大で、小金大谷口城の出城としての機能をもっていたという。
高城胤吉の三男胤知は出家して東漸寺に入り、第七世照誉了学上人となった。高城氏が天正18年(1590年)に小田原北条氏と命運を共にし、戦国大名としては滅亡した後、生実大厳寺の源誉上人によって関東十八壇林が定められ、東漸寺もその一つとなった。照誉了学上人は、慶長3年(1598年)に芝に移り、元和元年(1615年)には徳川家菩提所である増上寺の第十七世住職となり、徳川秀忠の葬儀の大導師をつとめた。
このように、東漸寺は徳川家と強い結びつきがあり、徳川家康から朱印地百石を与えられたが、家光の代には三十五石に減らされた。しかし、東漸寺は、他にも寺領をもっていた。また、広大な境内を持ち、多くの建物を擁した。
大改修が成就した享保7年(1722年)には本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門その他8つの学寮など、20数カ所もの堂宇を擁し、末寺35ヶ寺を数え、名実ともに大寺院へと発展した。末寺ほか支配下の寺や庵は、江戸後期の文政3年(1820年)には武蔵・下総両国内で44ヶ所を数えた。
明治初頭には、明治天皇によって勅願所(皇室の繁栄無窮を祈願する所)となった。
江戸時代に幕府の擁護を受けた東漸寺も、廃仏毀釈等で、神殿、開山堂、正定院、浄嘉院、鎮守院などの堂宇をなくした。また、学寮およびその敷地は、地域青尐年の育成のために寺子屋として利用され、後に黄金小学校(現・小金小学校)となった。
3.みどころ
水戸街道から勅願寺の碑をみて、寺に入り、長い参道を歩いていくと、仁王門がある。「仏法山」という扁額は装飾された字でちょっと読めない。緑に包まれた美しい境内は、春は桜の名所として知られている。
仁王門からさらに本堂に向かって進むと、中雀門(ちゅうじゃくもん)という山門がある。門をはいるとすぐ右に鐘楼堂がある。正面の本堂には本尊の阿弥陀如来像が安置され、その手前左側には、聖観音像を安置した観音堂と枝垂れ桜がある。本堂右手にある松は亀の松で、元は鶴亀一対だったが、鶴の松のほうが失われ、幹の曲がった変わった姿の亀の松(樹齢400年以上)のみ残っている。
【竹内廉之助、啓次郎の碑】
幕末は元治元年(1864年)3月、水戸藩では武田耕雲斎、藤田東湖らを首領とした天狗党が筑波山で挙兵し、各地で兵を募り藩の保守勢力と衝突した。小金の郷士で、芳野金陵の門下であった竹内廉之助、啓次郎兄弟も、この天狗党に参加したが、同年9月に啓次郎は戦死、廉之助は捕らえられて蟄居を命じられた。竹内廉之助は、慶応3年相楽総三の率いる薩摩藩邸の浪士隊に加わり、それが赤報隊となると、その幹部の一人となり、戊辰戦争を戦った。しかし、赤報隊が偽官軍とされて、小諸藩などの信州の兵に攻められた際に、赤報隊は壊滅、この戦いで廉之助も戦死した。
竹内兄弟の碑は、東漸寺の本堂の向かって左側にあるが、銘は兄弟と交友のあった渋沢栄一が明治45年(1912)に記し、建立されたものである。
4.所蔵文化財など
本尊である阿弥陀如来像、聖観音像、釈迦坐像などの仏像や絵画では二十五菩薩来迎図、三尊来迎図、徳川家康公肖像があり、古文書では徳川家康、水戸光圀書簡、高城胤辰、胤則の制札、朱印状写などがある。また浄土宗の宗祖、法然上人所持伏鉦や圓光東漸大師香衣遺像などの寺宝が残る。
本土寺(日蓮宗)
1.場所
松戸市平賀65 (北小金駅から本土寺参道を北へ進み、歩いて約10分)
2.創建からの歴史
文永6年(1269年)に、日蓮上人に帰依した蔭山土佐守が狩野の松原に法華堂をたて、建治3年(1277年)に当地の領主であった、やはり日蓮宗の大檀越の曽谷教信とはかって、この地に法華堂を移し、日蓮上人の高弟、日朗上人を招いたのが、本土寺のはじまりという。
そして、日蓮上人より長谷山本土寺の名前を授かり、下総国守護千葉氏の庇護もあって、かつては日蓮宗の大山として、末寺百数十を数えたが、不授不施の法難に度々会い、また明治維新には廃仏毀釈のために衰微した。この本土寺は平賀家の三兄弟、日朗上人、日像上人、日輪上人のご出生の聖跡と伝えられ、とくに日朗上人は日蓮上人と法難の伝道をともにされたことで有名である。また、長谷山本土寺、長栄山本門寺(池上本門寺)、長興山妙本寺(鎌倉比企谷)と、同じ「長」という字を山号にもち、「本」という字を寺号にもつ、「朗門の三長三本の本山」のひとつに本土寺は数えられている。
3.みどころ
一般には「あじさい寺」として知られ、ミニ鎌倉の感もあり、けやき並木の続く長い参道と美しい境内は、人々の安らぎの場にもなっている。
赤い仁王門を抜けると境内には、
本堂、祖師堂、五重塔、開山堂、像師堂、妙朗堂、宝蔵 などの建物がある。
<本土寺の紫陽花>
<像師堂>
【翁の碑】
この「翁」とは松尾芭蕉のこと。この句碑は、江戸時代の文化元年(1804年)に行われた芭蕉忌を期して建立されたもの。 碑面には「御命講や油のような酒五升」という句や、芭蕉忌にちなんだ「芭蕉忌に先づつつがなし菊の花」という句が刻まれている。
「東都今日庵門人小金原、藤風庵可長、松朧庵探翠、方閑斎一堂、避賢亭幾来、当山三十九世仙松斎一鄒、文化元子十月建之」とあり、江戸の今日庵元夢の門人である小金の藤風庵可長らが建立したことがわかる。
【秋山夫人の墓】
本堂の東側に、秋山夫人の墓がある。この秋山夫人は於都摩といい、甲斐の武田家家臣の秋山家の出身。徳川家康の側室にして、武田信吉の母である。武田信吉は、家康の五男で、徳川家康が武田の名跡が絶えるのを惜しみ、信吉に武田家を継がせたため、家康の子でありながら、武田を名乗り、小金三万石の領主となった。しかし、於都摩は天正19年(1591年)に24歳で病没。武田信吉は病弱で、21歳で病没してしまった。
4.所蔵文化財など
国重要文化財の日蓮筆の「諸人御返事」「大学三郎御書」や県・市の有形文化財となっている「富城殿御返事」「本土寺過去帳」などの古文書が残る。
中世の歴史の研究者にとっても、本土寺にのこる過去帳は、さまざまな人名が大名から一般庶民、なかには被差別民であった猿楽能役者まで詳細に記載されていることから、度重なる戦乱や武士たちの動静を含む下総あたりの中世の歴史をひもとく第一級の史料になっている。
慶林寺(曹洞宗)
1.場所
松戸市殿平賀209-2
2.歴史
大福薬師瑠璃光如来を本尊とする曹洞宗の寺で、山号は熊耳山(ゆうじさん)。戦国時代の永禄8年(1565)2月12日、小金大谷口城主の高城胤吉が没すると、その妻は出家し、桂林尼と号し、殿平賀の鹿島神霊のそばに庵を結んだ。その後、まもなく(翌月または翌年二月の胤吉命日という)桂林尼もなくなったので、その子胤辰は母の冥福を祈って花島勘解由を奉行に命じ桂林寺を建立した。
天正19年(1591)11月、徳川家康から朱印地十石を寄進され、高城氏ゆかりの寺から脱却し、慶林寺と号するようになった。
3.所蔵文化財など
天正12年4月11日在銘の直径27センチの太鼓(市有形文化財指定)を所蔵。
桂林尼墓所(市指定史跡)のほか、小金牧の野馬奉行を務めた綿貫氏の墓もある。
* 綿貫氏はもとは月見里(やまなし)氏。月見里土佐守政胤が高城氏滅亡後慶林寺に蟄居、その子綿貫政家が徳川家康に召しだされ、野馬奉行を命じられたという。
<桂林尼墓所>
鹿島神社(殿平賀180)
常陸国一ノ宮の鹿島神宮を分社したもので、その主祭神である武甕槌神をまつっている。武甕槌神は武勇の神・雷の神として尊崇される。
鳥居の向かって左手には青面金剛の文字庚申投塔がある(寛政十二庚申年建立)。他に弘化四年や大正時代建立の石祠がいくつかあるが、「大山阿夫利神社」「月参講中」以外、碑面が崩壊し文字が判読できない。
大勝院(大谷口145-1:新義真言宗豊山派)
外番場の交差点尐し手前に看板があり、右折し直進したところに山門がある。
小金大谷口城の東北(鬼門)を守る寺院とされ、境内をはいると鐘楼、昭和58年(1983)に再建された本堂がある。
大勝院は、新義真言宗豊山派の寺院で、山号は遠矢山(矢を遠ざけるの意)。
文明12年(1480)の開基とも、永正3年(1506)の創建ともいうが、根木内城の高城氏の帰依をうけ、もとは根木内の小字・大勝院山にあったが、小金大谷口城の北部郭内に移され、高城氏の祈願所になった。
鎌倉時代の弘安年号をもつ板碑などを含め、南北朝・室町期の板碑多数が所蔵される。
常真寺(大谷口18:日蓮宗)
道行山常真寺といい、日蓮宗・本土寺の末寺。元和2年(1616)の創建と伝えられるが、明確ではない。しかし、寛文年間(1661~1673)以前に成立していたとみられる。観音堂があり、墓地には庚申塔がある。
八坂神社(小金443)
JR北小金駅の南口を出てすぐの駅前交差点のビル(サティ)の前に、「小金鎮守 八坂神社御跡地」の碑がたっているが、かつてこの地に八坂神社があった。現在地には、昭和48年(1973)に移転した。
これは京都の祇園社を勧請したもので、古くは牛頭天王社と称して小金の高城氏が信仰していたといわれる。
妙典寺(小金168:日蓮宗)
正覚山妙典寺といい、日蓮宗・中山法華経寺の末寺。水戸街道の小金宿本陣跡近くにある。
創建は江戸時代前期の寛永年間(1624~1644)と伝えられ、直井妙典が開山。
この寺で有名なのは、江戸後期文政8年(1825)に建立された芭蕉の句碑で、
「志ハらくは 花のうへなる 月夜可奈(かな)」と刻まれ、松朧庵探翠が建立している。
また、住職が所属していた陸軍歩兵第五十七連隊(佐倉連隊)のレイテ戦での戦没者慰霊碑がある。
<芭蕉の句碑>
JR北小金駅から南柏方面に線路沿いに400メートルほどいった場所にある。雷神をまつるが、創建は不詳(かなり古いらしい)。
昭和61年(1986)の火災で社殿を焼失し、現在の社殿は再建されたもの。また、かつては椎の古木や杉の木立といった極相林が鬱蒼と茂っていたが、現在は残っていない。靖国鳥居と明神鳥居の2基の鳥居がある。手水舎は嘉永9年(1857)作。江戸時代以前は神仏習合で、対応する寺があったらしい。
境内には青面金剛、二十三夜塔、大杉大明神、香取、鹿島神社といった末社の石祠などが祀られている。
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小生は、以前書いたように、もともとは単なる石垣と天守閣の名城が好きで、会社にはいって愛知県に配属となって犬山城を訪ねたり、関西では縁あって滋賀大学を何度か訪問する際に、同時に彦根城に行ったり、西の姫路城に行ってみたりしていた人間である。
初めて千葉県の城で、城跡めぐりをしたのは臼井城で、それは愛知県から戻ってきた昭和59年(1984)頃と記憶している。臼井城も、周囲に砦や支城があることはずっと知らず、当時畑だった主郭付近をうろうろ散策するだけであった。当時は、今のように駐車場がなかったので、路上に車を止めると、ほかの車の迷惑になりはしないかと思い、少し離れたお寺の駐車場に止めさせてもらったりした。
<現在の臼井城跡>
臼井城の主郭の周囲でも、土塁の上に太田道灌の弟である太田図書の墓があったり、臼井城に隣接する、円応寺には幼い臼井興胤を志津氏からまもって戦ってなくなったという岩戸五郎の「供養碑があって、臼井城跡からは眼下に印旛沼を望むことができた。その後、関西に転勤になり、千葉の城にはしばらく行かなかったのであるが、平成となって神戸の震災前に帰ってくると、また城めぐりを始めたのである。
そのころには、臼井城だけではなく、自宅周辺のより身近な、また余り知られていない城もまわってみるようになり、その過程で船橋市が発行した報告書などを読み、初めて「横矢掛け」などという言葉を知るにいたった。船橋市以外では、お隣の市川市、八千代市、千葉市の西側の幕張方面に時々出かけて行った。
船橋には十五くらいの城跡がある、またはあったという。しかし、現存する城跡で、ある程度まとまった遺構が残っているのは、夏見城、高根城、金杉城くらいであろうか。楠ヶ山館が以前はほぼ完全に残っていると言われていたが、どこまで戦国時代の遺構で、どこからが江戸時代の屋敷跡なのか判別つきにくく、防御施設がほとんどないことから今では疑問視されている。
その船橋の城跡で、もっとも北にあるのが小野田城跡。これはどうも里見氏に関係しているのか、安房神社が近くにあり、その神社境内に土塁が残存している。そこまで北上すると、今度は国道16号線を通って、小生西に向かったのであるが、現在柏市になっている旧沼南町で実は初めて城跡を調べたのは大井で、その後対岸の戸張、さらに高柳のほうに足を伸ばした。
国道16号線をある日、途中旧沼南町で降りて歩いてみた。そこは藤ヶ谷であったのだが、広い道の端に車をとめ、周囲を歩いたのだが、実にのどかな光景が広がっていた。集落は台地下から台地にかけてあり、台地下の低地は谷津となって、そのだいぶ向こうにまた台地があった。そのとき、たしか、犬を連れたおじさんが散歩していたのを覚えている。
あるいは、この風景は中世ではどうだったのか。谷津田の向こうには寺堂があり、集落には農耕に従事する人々がいて、あるいは犬も飼われていたか。
<藤ヶ谷風景:今はかつての谷津田が畑になっている>
ずっと、長い間、気まぐれで16号線を降りて沼南のどこかを歩いたことは忘れていたのだが、先日藤ヶ谷の持法院に行ってみようと思い立ち、行ってみるとまさにその場所が以前気まぐれで歩いた場所であったのである。
この藤ヶ谷は、手賀沼に注ぐ金山落としの左岸に位置するが、中世には金山落としの西が相馬郡、東が印西外郷と、はっきり分かれていた。
手賀沼周辺の相馬御厨があった地域は、千葉常胤の叔父常晴がおさめていたという。千葉常胤の父常重は、その常晴から天治6年(1124)に相続し、大治5年(1130)に伊勢神宮に寄進するが、公田官物未納を理由に国守藤原親通に取り上げられ、その後源義朝、源義宗が相馬郡を領有した。千葉氏は、その相馬領を復活させるために、いろいろ手をうったが、再び千葉氏が相馬郡を領有するのは治承4年(1180)の頼朝挙兵後である。
<藤ヶ谷にある持法院>
千葉常胤から次男の相馬次郎師常が相続した以降は相馬氏が支配し、相馬氏は奥州と下総の二流に分かれた鎌倉末期の後も下総相馬氏は罪科に処せられたものの、南北朝期から室町期、戦国初期まで下総相馬氏の宗家は当地に残っていたと思われる。しかし、相馬氏の主流は奥州相馬氏であり、下総に残った一族でも守谷を本拠とする相馬氏が勢力を保っていた。
その庶流であろうか、藤ヶ谷城の城主であったのは、相馬氏と伝えられる。高城氏関連の古文書に出てくる「藤ヶ谷修理」なる人物も、相馬一族であろう。それが地名を名乗ったものと思われるが、戦国末期には相馬胤吉という人がいて、高城氏とともに小田原参陣をしたらしい。その相馬胤吉ら、当地の相馬氏の菩提寺としたのが、登慶山如意輪寺持法院である。
小生が持法院に行ったのは、手賀沼周辺の歴史で、あるテーマについて調べているのであるが、そのなかで藤ヶ谷の相馬氏の動向を知る必要があったからである。
実は藤ヶ谷には今も相馬さんというお宅が何軒かあるが、そのお宅もまた藤ヶ谷城主の一族の子孫であろう。その相馬氏の家老は、勝柴氏であるが、家老の子孫といわれる勝柴姓のお宅も当地にはある。
<持法院の観音堂入口>
持法院の開基は相馬忠重といわれるが、あくまで伝承である。ただし、藤ヶ谷の薬師堂からは相馬忠重と同時代の貞治3年(1364)年建立の阿弥陀尊板碑が出土しているので、あるいはその頃の開創かもしれない。
持法院は、この周辺によくありがちな質素な堂宇で、赤い門と庭にさるすべりが植えられているのが目立つ位であるが、本堂の手前を北の台地にあがった場所に観音堂と墓地がある。その長い階段を登った先にある観音堂には、千葉介常胤が寄進したという如意輪観音像が安置されている。その観音については、千葉常胤の霊夢云々という由来があるが、それはあくまで話である。
<観音堂>
柏市のHPには、以下のように書かれている。
「登慶山如意輪寺持法院の観音堂に安置されている尊像で、通常は非公開の秘仏です。尊像は、立て膝をして頬に手を触れる半跏思惟のポーズをとる、 戴冠六臂の木彫坐像です。白龕は水晶、目は玉眼で彩色はありません。これに対し、台座と二重円光の光背は金箔であるため、 元来尊像とこれらは別物であったと思われます。
むかし鎌倉時代に鎌倉で造られた如意輪観音像を登慶坊が相馬氏の領地である現地へ持参して祀ったのが寺の創建縁起となっています。 しかし、現存する観音像は、中世末期から江戸時代初期ごろの作品といわれています。」
なお、墓地の一段高くなった場所には、これも相馬氏に由来するのか、平将門の供養塔があった。供養塔の脇に、その関連の句碑まで建てられている。
<平将門の供養塔>
なお、肝心の藤ヶ谷城であるが、あまり確たることが言えないので、ここで書くのは差し控えたい。いくらか遺構もあるようだが、集落と国道16号によって亡失した部分が多く、調べた結果は後日に報告したい。
参考サイト:
柏市HP(柏の文化財)
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柏市の松ヶ崎城のオープン前の清掃活動に、先日行ってきました。
郭内の木が切られ、土塁や堀が表土まで露出する状態になったため、よく見渡せるようになった反面、東側の土塁など、だいぶへこんだり、損傷しているのも、よく分かるようになっていました。
写真は、「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」HPのトップにも掲げた、筆者が物見台(1号古墳)にのぼって撮った郭内の様子ですが、重機のわだちが痛々しい。
古墳は3基とも無事でしたが、2号墳、3号墳は、周囲に草木がなくなったため、前より大きく見えました。
そうした古墳の上にも、春のきざしが。なんと、わらび、ゼンマイの芽が出ており、タラの芽までありました。
柏市によって、土塁、虎口といった看板が取り付けられる予定ですが、清掃作業のときには、仮設のものでした。その他、台地縁には、木の柵が設置され、切った木も運び出される予定です。
オープン後には、4月29日に「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」の講演会が予定されており、さらに見学会も計画されています。
「古城の丘にたちて」外伝より転載
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