カテゴリー「京の通りと町並み」の4件の記事

2008.10.05

月はおぼろに東山

小生、歌はあまり人前で歌わないし、熱烈な音楽ファンではないように思う。しかし、音楽はそこそこ聴いていた。聴くのも、学生時代は専らクラシックで、社会に出てからはヨーロッパのポップスとかになり、カーステレオでよく聴いてた。特に、シルビー・バルタン、ジリオラ・チンクエッティは。

ジリオラ・チンクエッティはサンレモの女王であるとともに、カンツォーネを一般に親しめるものにした。しかし、日本では「雨」くらいしか、知られていないかもしれない。

会社にはいった当時は、CDなどはなく、カセットテープばかり。レコードはあまり持っていなかったが、たまに買ってくると繰り返し聴き、うっかり傷つけてしまうと大変損した気分になった。兵庫から転勤で東京にかわったとき、だいぶ売るか、捨ててしまった。しかし、神戸のレコード店に売りに行ったが、逆にシルビー・バルタンのレコードを買ってしまったこともある。

そういう小生が、ときどき、無意識のうちに口ずさんでいる歌が、二曲ある。それは「祇園小唄」と「君恋し」。なぜ、その曲なのか、皆目わからない。かなり昔からだし、「君恋し」はフランク永井が歌っているのを聴いているが、自分の胸のなかにあるのは曲調が違い、もっとテンポが速い。これについては、最近変なことに気付いた。

祇園小唄など、京都出身でもない小生がなぜ口ずさむのか、自分でもよく分からない。小生の雅号は、「湖城」であるが、その湖は琵琶湖を意味し、早い話が琵琶湖湖畔の城にちなんでつけたもの。それは会社の用事で滋賀大学にときどき行っていたおりに、経済学部を訪問すると必ず彦根城を経由して自宅に帰っていたので、最初は彦根城をイメージしていたが、膳所城でも大津城でもどうでもよくなった。

滋賀大学は経済学部と教育学部の二つの学部であるが、その二つがえらく離れている。教育学部は石山、経済学部は彦根。二つとも一日でまわるのであるが、いつもはじめは教育学部に行き、次に経済学部にまわった。その教育学部のある石山へは、自宅近くのJR芦屋から電車に乗り、京都で乗り換えて行っていたが、京都ではおりたことはない。それは仕事中ということもあるが、JR京都駅で降りても歩いていけるのは西本願寺くらいで、バスで出かけると戻ってくるのに時間がかかりすぎ、完全にサボリになってしまう。

<祇園白川にかかる巽橋>

Gionsirakawa

小生と京都の縁は、やはり兵庫に住んでいたときに休日に阪急電車で四条河原町に出て、寺などをめぐるようになってからで、その前は一度高校の修学旅行で行ったきりである。阪急電車の終点が四条河原町。阪急百貨店や高島屋もあるが、電車を降りると四条大橋の近くに出て、木屋町を北へ川沿いに進むと先斗町、歌舞練場があって、さらに行くと三条大橋のたもとに出る。三条から四条にかけての鴨川の情景が、印象に残っている。

<鴨川~三条大橋から>

Kamogawa3

しかし、無意識に「祇園小唄」や「君恋し」を歌ってしまう、小生の変な癖は、ずっと前から、ごく若い頃からであるのが少々変である。

その「祇園小唄」を聴くと、なにか、祇園新橋あたりの光景が目に浮かんでくるようだ。しかし、ほとんど自分とは無縁の世界である。

祇園新橋界隈は、一番花街としての情趣を残している場所であろう。辰巳大明神や白川にかかる巽橋、茶屋の立ち並ぶ通りに向かい、白川を背にして吉井勇の歌碑がある。その白川は小さな川だが、ちゃんと鯉も棲んでいるし、水鳥もいる。

<舞妓のだらりの帯>

Minamiza1

辰巳大明神はちょうど、道が分岐する場所にある。辰巳大明神とは、何に対して辰巳(南東)の方角にあるというのだろうか。たぶん御所であろう。東京でも、門前仲町のあたりは辰巳といい、辰己芸者などもいたのだが、それは江戸城からみて辰巳の方角を指していた。

辰巳大明神は、実は狸を祀っているそうだ。巽橋に住む悪戯好きのタヌキが巽橋を渡る人を化かして、困った人たちが神として祀ったとをいう謂れがあるそうだ。それが、当地が花街となると、いつのまにか、芸妓さん、舞妓さんら、祇園芸能に関連する人たちから親しまれ、芸道上達の神様になったとのこと。

<お茶屋が建ち並ぶ風景>

Ochaya

「祇園小唄」の一番の歌詞で「月はおぼろに東山 霞む夜毎のかがり火に」とあるが、東山の山麓、円山公園の近くに、かがり火をたいた料亭か何かあった。また、円山公園は枝垂れ桜が有名であるが、毎年4月上旬には、かがり火も焚かれるそうである。それは祇園小唄を意識しているのか、まさにそんな感じであろうか。

<円山公園の夜景>

Maruyamakouen

2番の「夏は河原の夕涼み」も鴨川の河原に、川床を広げた店やそこに集まる人々が目に浮かぶようである。この鴨川は、夕暮れ時ともなると、アベックが集まり、等間隔に座ることで有名。はかったように、等間隔なのは、お互いの会話を聞かれたくないためかもしれない。アベックは、季節に関係ない。

しかし、出町柳あたりで、高野川と合流するYの字の地点から上流は加茂川で、下流が鴨川というのは、なぜだろう。あまり関係ないが、気になる。

<鴨川~四条大橋から>

Kamogawa3

<四条大橋のたもとにある南座>

Minamiza1

この「祇園小唄」の歌詞は、作家・長田幹彦が昭和3年(1928)、祇園の茶屋「吉うた」に滞在していたときに作ったものである。その後、長田幹彦の小説『絵日傘』が映画化されることになり、浅草オペラの佐々紅華が長田幹彦の詞に曲をつけたものを主題歌として、「祇園小唄」が誕生した。

その映画『祇園小唄 絵日傘 狸大尽』は、昭和5年(1930)マキノ御室が制作、監督:金森万象 出演:澤村国太郎、浅間昇子、小金井勝というが、サイレントである。しかし、舞妓姿の女優が字幕に合わせてスクリーン脇で歌うという興行形態がとられ、「月はおぼろに東山・・・」という主題歌とともに大ヒットしたという。ちなみに、澤村国太郎の長男が俳優の長門裕之、次男が俳優の津川雅彦である。

「祇園小唄」の音源は、いろいろあるが、以下は美空ひばりのもの。

祇園小唄 Gion Kouta - 美空ひばり Misora Hibari

なお、前に書いたように、変なことに気づいたというのは、「祇園小唄」も「君恋し」も昭和3年(1928)から5年(1930)にかけて成立した歌であり、どちらも佐々紅華が作曲していることである。それが、元々クラシックや洋楽ばかり聴いていた自分の潜在意識にあるのが、どうもおかしい。

二村定一が歌うオリジナルの「君恋し」が、YouTubeにあった。このような歌が懐かしいと思うのは、なぜだろうか。親も生まれたか生まれないかのころの歌であるから、じいさんの記憶でも、小生の脳に残っているのであろうか。そういえば、なくなった母方のじいさんは、大量のSPレコードを持っていた。考えすぎだろうか。

参考サイト:京都府のHP http://www.pref.kyoto.jp

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2007.09.16

鷺しらず

京都の中心を流れる鴨川、この鴨川は出町柳の加茂大橋のところで、高野川と合流しているが、その地点より上流を加茂川と表記する。別に川としては同じなのであるが、上流と下流で呼び方が違う。

鴨川といえば、夏の夕方になると川風で夕涼み、ニ条から五条にかけて、川の西岸の店が川に向かって床を伸ばす、納涼床が有名。公害が問題になっていなかった昔は、鴨川で友禅流しも行われていた。下流の鴨川のほうはともかく、加茂川はまだ自然が残っており、鷺などの水鳥もすんでいる。

<三条大橋から鴨川の河原を望む>

Sanjyoukamogawa

唐突であるが、有名な鉄道唱歌の五十三番は、以下の通りである。

「扇おしろい京都紅  また加茂川の鷺しらず 土産を提げていざ立たん あとに名残は残れども」

「扇おしろい京都紅」というと、京都祇園や先斗町に行き交う舞妓さんか、芸妓さんを思い出す人も多いだろう。筆者も一度だけ、先斗町歌舞練場まで「鴨川をどり」を見にいったことがある。小生、阪神間に住んでいた頃に、よく京都に来ていた。古い都へのあこがれもあり、寺をまわるのも好きだったので、自然そういう生活になった。但し、先斗町や祇園は歩くだけで、舞妓さんも歩いている姿を見るだけである。せいぜい、夕方になると、木屋町の焼き鳥屋さんで飲んで帰ってくるくらいで、祇園などにはまったく縁がない。今回も書きたいのは「鷺しらず」のほう。

<だらりの帯の舞妓さん>

Obi_maiko

ここに出てくる「鷺しらず」とは、昔の加茂川のお土産として売られていた、佃煮の一種である。鷺は、川などで小魚や両生類、昆虫などを捕まえて食べているのであるが、最近は護岸工事とかで鷺が住むような河川もだいぶ減ってしまった。その鷺といっても、青鷺もいるが、白鷺が殆どである。

「白鷺は小首かしげて水の中」と高田浩吉の白鷺三味線でも歌われているが、鷺はたいてい水の中にいる。鷺は加茂川でも、細い脚でたって、時々水面にくちばしを突っ込み、えさをついばむ。川幅が狭く、流れの急な場所とか、岩場にはあまりいないようだ。

<青鷺(一番左)と白鷺>

Shirasagi

白鷺は、知多半島でも田んぼのなかや、ちょっとした川によくいるし、河和の軍港跡にもいるのを目にしたが、以前兵庫県に住んでいたときにも、芦屋川の上流などで見かけた。さすがに東京では見たことがないが、千葉では今でも田んぼや沼地などにいるようだ。

<河和の軍港跡にいる白鷺>

Gunkou

「鷺しらず」は、水の中で朝からえさをついばんでいる鴨川の鷺も、見落としてしまうほどの小さい魚、鮠 (はや、はえ)の稚魚を、煮たった湯に通して、薄口しょうゆ・砂糖で煮つめたものである。それが、有名な、京都名物の「鷺しらず」であった。
「鷺しらず」は今でもあるようだが、鴨川も、護岸工事などで、現代的な川になってしまい、小魚も住みにくくなったため、京都みやげの代表の座から、おりてしまっている。

鮠 (はや、はえ)は、コイ科の淡水魚のうち、中型で細長い体型をもつものの総称であるが、オイカワ、ウグイなどが代表品種である。鮠は「柳鮠(やなぎばえ)」という季語もあるように、柳の葉の芽吹く春に川を上って産卵し、夏にその稚魚が川を下りるという。

<オイカワの幼魚>

Oikawa

「鷺しらず」は幕末からつくり始められたというが、残念ながら今では殆ど作られなくなった。実際小生、これを買ったこともなければ、売っているのを見たこともない。京都の高島屋で、川端道喜のちまきを買おうとして、買いに来たときには、いつも売り切れていたという小生にとっては、幻の佃煮かもしれない。

参考サイト:『京菓子処 鼓月』HP 「京ことば通信」<2001.9>  http://www.kogetsu.com/kotoba/index.html 

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2006.07.24

京都三哲~西本願寺周辺を行く

京都には、歴史のある地名が多いが、そのなかで京の通りの名となっているものは、「丸竹夷」など歌にもなっており、親しみを感じさせるものである。しかし、由来がよく分からないものもあった。例えば、京都駅近くにある「三哲」が、小生にとっては長年の謎であった。

<京都の駅前は変わってしまったが、京都タワーは健在>

Kyototower

以前、当ブログの「数字と地名」という記事(去年の8月の記事)で、小生以下のように書いていた。

「例えば、東西の通りの名を示す、有名な「丸竹夷」は、以下の歌詞である。

丸 竹 夷 ニ 押 御池
姉 三 六角 蛸 錦
四 綾 仏 高 松 万 五条
雪駄 ちゃらちゃら 魚の棚
六条 三哲 通り過ぎ
七条 越えれば 八 九条
十条 東寺で とどめさす

まるたけ えべす に おしおいけ
あねさん ろっかく たこにしき
しあやぶったか まつまん ごじょう
せきだ ちゃらちゃら うおのたな
ろくじょう さんてつ とおりすぎ
ひっちょう こえれば はっくじょう
じゅうじょう とうじで とどめさす

筆者が覚えていたのは、上記の歌詞である。
丸とは丸太町(まるたまち)、竹とは竹屋町(たけやまち)であり、夷とは夷川(えびすがわ)のことである。
次の二は二条(にじょう)通りであるが、なぜ二条からで一条がないのかといえば、御所があるので憚ったのかもしれない。押しは押小路(おしこうじ)、御池はそのまま御池(おいけ)。
次の覚えやすい姉三六角蛸錦の姉は姉小路(あねやこうじ)、三は三条(さんじょう)、六角は六角(ろっかく)である。
この六角は佐々木六角氏の名字の起こりになった。蛸は蛸薬師(たこやくし)、錦は市場で有名な錦小路(にしきこうじ)である。
次に四は四条(しじょう)、綾は綾小路(あやのこうじ)、仏は仏光寺(ぶっこうじ)、高は高辻(たかつじ)で、松の松原(まつばら)、万の万寿寺(まんじゅうじ)に五条(ごじょう)と続く。
さらに雪駄は雪駄屋町(せきだやまち)であるが、現在は楊梅通りになっている。この辺りに来ると、ぐっと庶民的になり、魚の棚(うおのたな)に、ちゃら=鍵屋町(かぎやまち)、ちゃら=銭屋町(ぜにやまち)と軽快な金属音が響く、職人や商人の町という雰囲気である。
その次の六条(ろくじょう)、三哲(さんてつ)から、通りの順番が南北に並んでおらず、三哲は七条(ひっちょう)の次なのでは。京都駅前からバスにのると、すぐに三哲のバス停がありましたっけと思い出すほど、三哲と八条(はっちょう)は近く、どう考えても六条ではなく、七条の南にある。この三哲自体、どういういわれのある地名なのかが分からない。なお、三哲通りとは、今の塩小路のことだそうだ。」

この三哲、いかなるいわれのある地名なりやと、思い続けていた小生、案ずるより産むがやすしではないが、関西出張の際に、また京都を訪ねたのである。

京都駅からほど近い場所に、三哲のバス停がある。近所の喫茶店のマスターにお聞きすると、以前三哲町という町名(といっても家が十数軒集まったような場所)があり、それから三哲通りとなったのではないかとのこと。近くの「魚の棚」や「大工町」、「油小路」といった地名についても、その周辺は本願寺の影響のあった場所で、そのため職人や商人が住んで本願寺に物品を納めていた関係からついたものだと教えられた。

<三哲のバス停>

Santetsu

しかし、三哲とは「大工町」というような商工業に関連した地名ではない。別のいわれがあるのだろうと思いつつ、その周辺を歩き回った。すると、小さな看板があり、「梅ヶ枝の手水鉢」とある。

Umegaechouzubachi

昔はやった、「梅ヶ枝の手水鉢、たたいてお金がでるならば」の「梅ヶ枝の手水鉢」である。これは、円柱状の石の上部がくり貫かれているもの。江戸末期まで堀川通下魚棚にあったが、長らく行方不明となり、太平洋戦争中に堀川の改修で発見され、その後円山公園に一時あったが、昭和45年(1970)地元の声により、元の場所に戻すことになり、現在地に移され今日に至っている。

<「梅が枝の手水鉢」を元の場所に移した地元自治会の人々>

Chouzubachi

それはともかく、三哲に話を戻すと、喫茶店のマスターの話で、三哲も本願寺に関係あるかもしれないと思った小生、一路本願寺へ。

<西本願寺>

Nisihonngannji

本願寺と言っても、行ったのは西本願寺である。東本願寺には以前時々行って、その庭園の見事さに驚いたものだ。西本願寺は、平成の大改修ということで、工事中のところ、御影堂など以外は、工事前そのままであった。国宝の唐門は、思ったより小さかったが、華麗な彫刻が目に付く。想像上の動物であろうが、一角獣のようなものが彫られている。麒麟ではないような。獅子なども、躍動感十分だ。

<壮麗な唐門>

Karamon_1

<唐門の彫刻>

Karamon2

西本願寺の隣というか、寺域の中というべき場所に、龍谷大学がある。綺麗な講堂に惹かれて、中をのぞくと、何と京都地名研究会が講演会をしているではないか。しかも、途中ではあるが、まだ十分聴講できるし、ついでに三哲について聞いてしまえ、とばかりに会場へ。

<龍谷大学の講堂>

Ryuukokudai

ここでの講演内容はおくとして、京都地名研究会の人に三哲について聞いたみた。すると、意外や「そんなこと、急に聞かれても、答えられますかいな」という返事。「京都の通りの名の歌にもなっている地名でっせ」という言葉を押し殺し、小生帰路についた。

悶々とした気持ちを抱きつつ、快速電車で京都から神戸へ向い、外人さんがよく泊まっている、ホリデイインホテルで一泊した。ホテルにはインターネットが使えるパソコンがあるので、英語モードでない日本語キーボードのついているパソコンを借りて「三哲」を検索してみた。

すると、何のことはない、京菓子の老舗、鼓月さんのHPに「三哲」の解説が載っているではないか。「京ことば通信」というコンテンツで、「京ことば 『さんてつ』 相馬 大」のなかに、その答えはあった。

「『いま、三哲と呼ぶこと、この通り、大宮東入る町、北側に、渋川三哲と言ひし人の屋敷ありし故』(京町鑑)とある。三哲は、その屋敷を、立願寺(りゅうがんじ)という寺にした。古地図の立願寺をみると、三哲が、見える。」とあり、渋川三哲という人が住んでいたことから、三哲という地名が出来たというのが明快に書かれている。

あちこち聞き歩いたことは、無駄ではなかった。しかし、人名から来た地名という、あっけなく分かった真相に、世の中分からないことの種は尽きず、分かってしまっても、次に疑問が出てくると思った次第。立願寺(りゅうがんじ)という寺まで建てた、渋川三哲という人とは、何者?また、調べるネタが出来たというものか。

<民家横の消火器の箱に残る「三哲町」の文字>

Santetsuchou

参考サイト: 京菓子處   鼓月

http://www.kogetsu.com 

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2005.08.30

数字と地名

数字のついている地名は、どういういわれがあるのだろうと想像することがある。
数字を冠する地名はいろいろあるが、例えば東京23区でサンプルを拾ってみる。七で始まるのが、見当たらないが、東京23区だけで、下記のようにある。

一ツ木 一ツ橋 一ツ家(足立) 一之江(江戸川) 
二子玉川 二葉(品川)
三崎町(神田) 三原 三田(港・目黒) 三栄町(新宿) 三ノ輪 三宿 三軒茶屋 三園(板橋) 三好(江東) 三筋(台東) 三原台(練馬) 
四つ木 四谷 四葉(板橋) 
五反田 五反野 五本木(目黒)
六本木 六郷(大田) 
七??
八重洲 八丁堀 八雲 八幡山 八広(墨田) 八潮(品川)
九段 九品仏
十条
二十騎町(新宿)
百人町(新宿)
千代田 千駄木 千駄ヶ谷 千川 千住 千歳台 千束(台東・大田) 千早(豊島) 千鳥(大田) 千田(江東) 千石(文京・江東)

東京23区の例にはないが、一宮、二宮とか、単純な連続番号で一、ニ、三とついているのは分かりやすい。六本木のように、六本の木があったのだろうとか、三軒茶屋とは三軒の茶屋があったのだろう、というような地名もいわれを想像しやすい。

日本全国について考えると、単純な連続番号が付いている典型が、京都の通りの名であろう。これは東西に走る通りの名が、北から、一条、二条・・・と付けられているし、南北に走る通りの名を覚えておけば、街中のある地点が、たとえば四条通りと烏丸(からすま)通りの交点であれば、四条烏丸といった具合に、場所も特定しやすい。

<四条木屋町の一角>
shijyo-kiyamachi

勿論、東西に走る通りも、かつての条坊制による○条通り(あるいは大路)というものだけでなく、細かな△△小路や▲▲道というものがある。私が京都でよく利用していた京阪三条駅近くの縄手通りにある力餅食堂も、縄手通りから新門前通りの入り口との角地にあるが、住所も東山区縄手新門前角という分かりやすさである。ちなみに、門前とは八坂神社の門前町ではなく、知恩院の門前町という意味で、新門前通りも古門前(ふるもんぜん)通りも骨董街であるが、どちらも京都らしい景観の残る通りである。
要は東西、南北の通りの名さえ覚えれば、大体の住所は見当がつくというものである。それで、京都の人はよくしたもので、通りの名を覚えるための童歌もある。

<縄手通り(手前)と新門前通り(左)の角にあるレトロな雰囲気の力餅食堂>
sanjyou-monzen

例えば、東西の通りの名を示す、有名な「丸竹夷」は、以下の歌詞である。

丸 竹 夷 ニ 押 御池
姉 三 六角 蛸 錦
四 綾 仏 高 松 万 五条
雪駄 ちゃらちゃら 魚の棚
六条 三哲 通り過ぎ
七条 越えれば 八 九条
十条 東寺で とどめさす

まるたけ えべす に おしおいけ
あねさん ろっかく たこにしき
しあやぶったか まつまん ごじょう
せきだ ちゃらちゃら うおのたな
ろくじょう さんてつ とおりすぎ
ひっちょう こえれば はっくじょう
じゅうじょう とうじで とどめさす

筆者が覚えていたのは、上記の歌詞である。
丸とは丸太町(まるたまち)、竹とは竹屋町(たけやまち)であり、夷とは夷川(えびすがわ)のことである。
次の二は二条(にじょう)通りであるが、なぜ二条からで一条がないのかといえば、御所があるので憚ったのかもしれない。押しは押小路(おしこうじ)、御池はそのまま御池(おいけ)。
次の覚えやすい姉三六角蛸錦の姉は姉小路(あねやこうじ)、三は三条(さんじょう)、六角は六角(ろっかく)である。
この六角は佐々木六角氏の名字の起こりになった。蛸は蛸薬師(たこやくし)、錦は市場で有名な錦小路(にしきこうじ)である。
次に四は四条(しじょう)、綾は綾小路(あやのこうじ)、仏は仏光寺(ぶっこうじ)、高は高辻(たかつじ)で、松の松原(まつばら)、万の万寿寺(まんじゅうじ)に五条(ごじょう)と続く。
さらに雪駄は雪駄屋町(せきだやまち)であるが、現在は楊梅通りになっている。この辺りに来ると、ぐっと庶民的になり、魚の棚(うおのたな)に、ちゃら=鍵屋町(かぎやまち)、ちゃら=銭屋町(ぜにやまち)と軽快な金属音が響く、職人や商人の町という雰囲気である。
その次の六条(ろくじょう)、三哲(さんてつ)から、通りの順番が南北に並んでおらず、三哲は七条(ひっちょう)の次なのでは。京都駅前からバスにのると、すぐに三哲のバス停がありましたっけと思い出すほど、三哲と八条(はっちょう)は近く、どう考えても六条ではなく、七条の南にある。この三哲自体、どういういわれのある地名なのかが分からない。なお、三哲通りとは、今の塩小路のことだそうだ。
また、八条(はっちょう)の次が九条(くじょう)であるのは良いが、何で十条(じゅうじょう)、東寺で最後なのだろうか。関西に住んでいた頃、筆者は弘法市や東寺の南門近くで開かれる骨董市に行く時は、バスで九条大宮で下りていた記憶があるが、やはり東寺は九条である。九条通り沿いには、平安京の南限である羅生門址があり、かつては九条までしかなく、十条通りができたのはそれほど昔のことではない。九条では、京野菜の一つである九条ねぎが栽培されていたのだから、昔は市街地から離れた農村地帯が、九条以南には広がっていたのであろう。今は、交通量も多く、立派な十条通りはあるし、十条の駅もあるが。
十条通りは、明治以降に作られた道路であり、したがってこの歌も明治以降に作られた歌である。といっても、室町時代からの伝承資料に京の縦横の通りの名を書いたものがあったらしく、謡曲『便用謡』の「九重」にも同様の京都の縦横町区名がみられるなど、古い資料や謡曲をもとに、明治の頃に「丸竹夷」は作られ、広く歌われるようになったのであろう。

<三条大橋から四条方面、鴨川を望む>
sanjyou-kamogawa

なお、この歌にはニューバージョンがあり、それは以下の歌詞である。

丸 竹 夷 ニ 押 御池
姉 三 六角 蛸 錦
四 綾 仏 高 松 万 五条
雪駄 ちゃらちゃら 魚の棚
六条 七条 通り過ぎ
八条 越えれば 東寺道
九条大路で とどめさす

まるたけ えべす に おしおいけ
あねさん ろっかく たこにしき
しあやぶったか まつまん ごじょう
せきだ ちゃらちゃら うおのたな
ろくじょう ひっちょう とおりすぎ
はっちょう こえれば とうじみち
くじょうおおじで とどめさす

この歌詞では通りの名が北から順に並んでおり、上記のような矛盾もない。十条は登場しておらず、かつての京都の範囲に収まっている。

さらに「丸竹夷」には替え歌があり、それは以下の歌詞である。

坊さん頭は丸太町、つるっとすべって竹屋町、
水の流れは夷川、二条で買(こ)うた生薬を、
ただでやるのは押小路、御池で出会うた姉三(さん)に、
六銭もろて蛸買うて、錦で落として四(し)かられて、
綾(あや)まったけど仏々と、高(たか)がしれてる松(ま)どしたろ

「まどしたろ」は京都弁で「弁償しようか」という意味である。これも、「姉さんに六銭もろて」というあたりに時代を感じさせる替え歌である。

<おなじみの東寺五重塔>
toji

本来連続しているのに、連続せずに、いきなりある数字が付いた地名は、良く分からない。実際には一宮も二宮もあるが、三宮という地名がクローズアップされている神戸の三宮は、何で三なの?と思ってしまう。
この三宮は、生田神社の一宮神社から八宮神社までの裔神八社の一つである三宮神社に由来する。伝説によれば神功皇后が摂征元年2月に朝鮮半島へ出兵した帰りに、敏馬の浦(現在の神戸)で船が進まなくなった。そのおり神功皇后に、稚日女尊(わかひるめのみこと)が降臨、ご神託あって、それにより稚日女尊を祀ったのが生田神社のはじまりで、生田神社を囲むように八社が建てられたという。神戸は、もともとは神戸駅周辺を中心に繁華街があったが、いつしか東寄りの現在の三宮・元町辺りが、華やかな場所になった。それで神戸といえば、三宮が中心のようなイメージがあるが、元は八つの神社の一つに由来する小地名であったのである。このように由来を知れば、納得できる。
実は、筆者が現在住んでいる船橋市にも、二宮神社という神社があるが、この周囲に数字がつくのはこの神社きりで、一宮神社というような名前の神社は近くには存在しない。明らかに二宮神社からついた地名として、周囲には二宮という場所(かつては二宮町であった)があり、二宮小学校、二宮中学校もある。但し、二宮神社のある場所は、かつては二宮町三山であったが、二宮町が船橋市に併合されてなくなったため、現在は船橋市三山である。三山は、宮山か御山が転じたらしいが、二宮の二から三山の三にカウントアップしているのが面白い。しかし、二宮神社が、なぜいきなり二宮なのか、いまだに分からない。

<二宮神社>
miyama-01

そのほか、何でその数字がついているのかよく分からないものがある。先ほどの「丸竹夷」にあった三哲もそうであるが、例えば名古屋に八事(やごと)という地名がある。これは、八の日毎に市がたったとか、琴の名手の老人がいたとか、諸説あるそうであるが、確たる由来が分からない。

別に大きいことは良いことでもないが、大きな数字がついた地名では、千葉などはもっともポピュラーな部類であろう。だが、なぜ千の葉っぱなのだろうか。葉っぱでは迫力に欠けるし、森や林にいけばたくさんあるではないか、と思ってしまう。千田とかなら、広い田があって豊作になるようになど、願望もこめてつけられたと分かりやすいが。
千より大きい単位の万となると、万場や万代とかがあるが、少ない。万に対して、四万温泉の四万は四倍だ。かすかに大きいのは四国の四万十川の四万十か。しかし、なぜ四万と十なのだろうか。四万とびとびの十である。
大きな数字で最たるものは、京都の百万遍であろうか。千や万でもなく、何しろミリオン、百万である。但し、これは正式な地名ではなく、百万遍知恩寺から来ているのだそうな。京都だけあって、地名にもお寺や仏教用語が登場してくるのである。それ以上の千万や億のつく地名は聞いたことがない。新地名ではあるかもしれないが。
いや京都自体が、大きな数字のついた地名の最たるものかもしれない。なぜなら、京(けい)なのだから。

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