カテゴリー「戦争・軍隊関連」の21件の記事

2014.09.21

ロケット戦闘機秋水の動画2題

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会では、昨年ロケット戦闘機秋水の地下燃料庫の見学会を行い、その前には秋水搭乗員養成部隊である海軍秋水隊の元中尉の方の聞き取りも行いました。

聞き取りは記録したものをまとめましたが、その際の映像または関連する画像などを使って短い動画を作成しています。

以下、YouTubeにもアップしましたが、2つ動画を作成しました。 なお、女性の声のナレーションは元アナウンサーの富澤さん、男性の声は会の会長です。

ロケット戦闘機秋水~海軍搭乗要員は語る~  ↓

ロケット戦闘機秋水と地下燃料庫  ↓

「古城の丘にたちて」外伝より

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2013.04.24

ロケット戦闘機秋水搭乗員の聞き取り

先日、柏市内でロケット戦闘機秋水の予定搭乗員だった海軍312空のいわゆる秋水隊の方から、いろいろ聞き取りを行った。

秋水は太平洋戦争末期に日本の陸海軍が当時としては珍しく共同で開発したロケット戦闘機である。それはドイツのメッサーシュミットMe163の資料をもとにつくられたのだが、それは巌谷英一海軍技術中佐がドイツから持ち帰った数点の外形図面などわずかな資料であり、ほかの技術資料は運んだUボートが撃沈されたために日本に届かなかった。

突貫作業で開発されたわけであるが、その搭乗要員として海軍は第312航空隊(略して312空)に選抜された若い士官(いずれも専門学校以上の高学歴者)を配属した。今回木聞き取りした相手も、そのお一人である。「秋水」という名は「秋水一閃驕敵を斬る」、あるいは「秋水三尺露を払う」の二通りの由来があるようだが、どちらかは覚えていないが、命名者は岡野勝敏という師範学校出の当時少尉だった方であることは間違いないそうだ。

百里で訓練をしているときに、桜花の訓練をしている部隊も同地にいて、その隊長がこわい顔をした人で、風呂場であった時に「お前はどこのものだ」と聞かれ、「秋水です」と答えるとただ一言「そうか」と言ったそうである。

しかし、高度1万メートルにわずか3分半で到達し、秋水の刃を二閃ほどB29に浴びせる程度で滑空して戻らなくてはならない、その間約10分で液体燃料を2トンも使うとは、一体このロケット戦闘機を大量に製造、配備したところで、どれだけの効果があったのかは疑問である。桜花とは違い、特攻機ではないものの、空気抵抗を減らすために離陸するやいなや車輪をおとし、かえってくるときは胴体からソリを出して着陸するのだから、職人芸を要し、実機がもし大量生産されて飛んだとしても生還率は低かっただろう。ほぼ特攻機に近いような気がする。事実、秋水隊の仲間内では、B29の編隊のなかに入って三号爆弾を爆発させるような使われ方をするのではないかと言っていたそうである。

「平和の礎」というと、古くなった言葉のように思われるかもしれないが、戦争中は日本全体がおかしくなっていた。軍隊だけでなく、新聞も教育もすべてが戦争に動員され、あたら失われなくていい尊い多くの命が犠牲になった。戦時の経済は、極端に軍事力を高めるために民生を犠牲にしながら破綻した。それは日本人に限らず、朝鮮半島や大陸、東南アジアの多くの民衆もまた、そうした「国家総動員」の犠牲になったのである。 「平和の礎」を見つめることは、昨今やたら過去の亡霊のような軍国主義を賛美し、国民の生活を滅茶苦茶に破壊した戦犯までも美化する風潮に抗って、世のあり方をただすことになるだろう。

そういう記録を今ビデオの形にしている。聞き取り自体は1時間半ほどだったが、編集して重複した質問などをカットしてなんとか40分くらいにしている。しかし、映像以外に記録を文字に残すのは少し時間がかかりそうである。

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(写真は三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所にある秋水実機)

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2010.12.31

今年1年を振り返って

今年はとにかく忙しい1年だった。

「公私ともに」と言いたいところであるが、「私」の部分は余りないのである。しようもないかもしれないが、時系列で出来事を追っていくと以下の通りになる。

1月 

柏市松ヶ崎城跡の植樹について、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会では樹木里親制度を考案し、市民有志を募集。小生は当時副会長。

2月

柏ロータリークラブが、松ヶ崎城跡に植樹(約70本) 

松ヶ崎城跡の市民有志による植樹(50本)の準備を行う。本来は、28日に植樹&記念式典を行う予定であったが、雨天により中止。植樹自体は、翌3月1日に地元の造園業者の手によって行われた。

28日は柏に用事がなくなり、船橋の飯盛り大仏を見に行く。

<飯盛り大仏>

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3月 

3日、柏市の秋山市長に対して、松ヶ崎城跡植樹樹木の目録などを贈呈する贈呈式に 出席(朝日新聞に掲載される)。

<贈呈式:右が秋山浩保市長>

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31日、長年つとめた鉄鋼メーカーを退職、子会社に移籍となる(その前に永年勤続者むけの旅行に三河湾に行くが、結局岡崎あたりをブラブラして帰ってきた)。

4月

4日、柏飛行場跡の周辺調査で、ロケット戦闘機秋水の燃料貯蔵庫跡を発見(これは後で手賀の湖と台地の歴史を考える会により、記者会見(7月)、説明会(8月)が行われ、読売、朝日、毎日、千葉日報の各紙が掲載)。

その後、戦争遺跡は、柏近辺をまわっただけで、今年はあまり活発にまわることがなかった。

<秋水地下燃料庫を発見した直後の様子と燃料庫内部>

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18日、柏の葉キャンパ.ス駅に近い千葉大での「柏の葉里さくらまつり」シンポにパネラーとして参加。

29日、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会総会にて会長に選出される。講演会は「保存運動から見た東葛の城と松ヶ崎城」というタイトルで、地域史研究家の田嶋昌治氏が講師。

<講演会のチラシに使った見学会の写真>

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5月

30日、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会の活動として、歴楽講座を開催(現在も続いている)。

6月

大高城に関する論文を書くため、7月まで東京都立中央図書館(有栖川宮公園)に通う。論文執筆の資料に関して、水野氏史研究会の水野青鷺氏にお世話になった。

7月

4日、松ヶ崎城跡にて、植樹里親記名板除幕式。柏市教育委員会や柏ロータリークラブ、ボーイスカウトから来賓。除幕式は里親をはじめ、関係者80名ほど参加。

<松ヶ崎城跡の除幕式>

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中旬  手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会で事務局長を務めたH氏が病気のため逝去。

8月

大高城の論文が、愛知中世城郭研究会の『愛城研報告』第14号に掲載される(長いため、前半が第14号、後半が15号に分割掲載)。

<『愛城研報告』表紙>

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この頃、将門伝説を訪ね、柏市岩井、我孫子市をブラブラする

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8月初めから仕事の都合で、客先常駐(現在にいたる)

9月

松ヶ崎城祭りの準備を始める

10月

6日、地元中学の要請により、中学生11名に対し、松ヶ崎城跡の説明を実施

23日、小西城跡発掘現地説明会に参加。遺構は古城という15世紀の城跡と戦国期に新たに作られた大きな城跡の二つが隣接し、戦国期の大きな城の方が公開されていた。
外城、中城、本城、と大きく3つの郭があり、本城が主郭で、一番高い場所にある。特に本城の周囲を取り巻く堀が巨大で、本城の虎口は高い場所にあって、中城の土塁とは木橋で連絡していたとのこと。橋を落とせば、本城に立て籠っても、敵は侵入できないようになっていた。説明者は県文化財センターの井上哲朗氏。

<小西城の堀から本城を眺める>

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11月

7日、白井市郷土史研究会の小林さんの講演「白井市内の城跡とその周辺」を聞く。

14日、松ヶ崎城祭りを開催(第2回、約300名 の人出)。

見学会は午前、午後の2回。演者を集め、特にオープニングでは呼魂太鼓の総勢17名での和太鼓演奏を行い、大迫力であった。銭太鼓とどじょうすくい、茗荷さんの三味線がたり、尺八演奏、オカリナ&ギター演奏も。その他、野菜やアジア雑貨の販売もあり、会でも書籍、DVD、絵葉書を販売。

ロータリークラブからは、コーヒーショップが出店してくれた。

<見学会>

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<呼魂太鼓の演奏>

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27日、手賀の歴史散歩を開催。これは、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会主催で18名参加、手賀バス停を起点に手賀城跡、興福院、ハリストス教会、北ノ作古墳、兵主八幡神社、原氏墓所、下柳戸などをまわったもの。手賀原氏を調査すると、手賀原氏の家臣と同姓の家が城跡周辺に何軒もあり、屋号などからそのように判断される家もあった。

文化財めぐりなどと称する、地域の見学会はあるが、下柳戸までまわるものはないだろう。下柳戸には、かつて唯一の水源であった、一ッ井戸があり、参加者がみると満々と水が湧いていた。

<手賀歴史散歩の行程図>

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<兵主八幡神社>

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12月

11日、白井市郷土史の会有志と小森城跡近辺の旧家などに調査、聞取りにいく、平塚では板碑を見せてもらう。

この頃から旧沼南町箕輪の調査をはじめる。

<箕輪の香取神社>

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17日、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会の記事が地域新聞に掲載される。

今年は、なかなかブログまで手が回らず、忙しかったけれど、来年も充実した年であることを期待したい。

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2009.10.05

Legend of Xanadu 木更津海軍航空隊の伝説 part.2

前回、巌根という駅から歩いて木更津海軍航空隊の戦争遺跡をめぐった。

今回、陸自木更津航空祭にあわせて、木更津を再訪することとしたが、ちょっと横着して木更津駅からタクシーで、陸上自衛隊の木更津駐屯地まで行こうと考えた。

相変わらず出足が遅く、10時過ぎに家を出て、千葉に着いたのが11時少し回ったころ。カメラのSDカードの残量が少ないことを知っていたが、家の近くで買っておけばよかったのに千葉駅で売っているとおもいこんでいた小生、千葉駅内のどこにも売ってそうにないことを現地で知り、やむなく木更津で買うことにした。

ところが、木更津駅西口から歩き、殆ど店が閉まっていることに驚いた。写真スタジオを見つけて聞くと、西口の店は大抵やっていない、SDカードは確実にあるのはヤマダ電機ということであったが、それは一体どこにあるのか。

前回時間がなく回れなかった、西口近くの光明寺で、切られ与三郎の墓に参ると、なぜか写真にはうっすらと影のようなものが。小生得意の心霊写真か。光の加減と思うことにしたい。

<切られ与三郎の墓>

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そして、SDカードを買うため東口にまわると、駅から少し離れた場所にカメラ屋があり、ようやくSDカードを買うことができた。しかし、あたりは太鼓の音などしており、木更津航空祭のイベントを駅前でやっているかと思っていた。カメラ屋を出ると、法被などの衣装を着た人が集団でおり、木更津の何か祭をやっていると知った。

また昼過ぎだったので、近所の寿司屋で握りを食べた。あさりのお吸い物がうまい。人のよさそうなマスターで、甘酢のイカを一貫おまけしてもらった。店を出ると先ほどの衣装の軍団はさらに大勢になっていた。

歩行者天国になっている路上で、女性がダンスをしている。それを取り囲んで人垣ができていたが、図々しい小生は脇から撮影。隣に大きな望遠レンズを構えた人がいたが、お構いなしに写真を撮った。動きが激しいため、かなり難しい。連写で撮れば良かったが、そういう知恵はその場では出てこない。

<路上でのダンス>

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木更津駅の東口からタクシーで、陸自木更津駐屯地の門前につける。タクシーの運転手さんの話では、西口から無料のバスが出ていたそうだ。小生、どうもそういうのは苦手で、会社のような集団生活でないときは、一人で勝手に行動することが多い。木更津駅から800円ほど、安いものである。

陸上自衛隊の門を招待客と同様に入ると、目の前に大きなヘリが展示されている。巨大な格納庫は、松戸駐屯地のものより大きく、これは戦後作られたものであろう。ここでも、やはり祭の音楽が聞こえるが、下志津の高射部隊の楽隊が演奏している。模擬店はあるが、松戸のほうが多いくらい。やはり、この航空祭の目玉は、ヘリへの試乗のようで、見れば順番待ちの行列が長くなっている。

小生の関心は、もっぱら旧軍遺構であるから、そちらのほうには向かわず、端の方にある大きな土手やコンクリートの建造物のほうに向かっていった。

<航空祭に展示されているヘリコプター>

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<演奏で使用されていた格納庫>

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端の方には車が止まっているため、その車を出しに来る人もおり、小生のように旧軍遺構が目当てでも、不自然ではない。さっそく、大きな土手が目に入るが、軍隊でこのような土手があるのは、火薬庫か何かであるが、これは一体なにか。コンクリートが中にあり、その上に覆土されている。また、周囲を赤レンガの壁で囲まれた、ボイラー室が残っているが、缶まであるとはすごい。

<レンガ壁で囲まれたボイラー室跡>

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しばらく、北の海自のほうに向かって歩いていると、今度はなにやら壕のようなものが。近くに寄って見てみると、防空壕であった。防空壕もピンからキリまであるが、これは何人のものの人間が退避できるコンクリート製の壕で、覆土が残っている。陸軍の飛行場にも、こういう防空壕はあったのだろうが、こんなにしっかりと残っているものも珍しいだろう。

入口は斜めに地上に突き出て、人一人が出入りできるほどのスペースで、かつては扉も付いていたと思うが、爆風除けに手前にコンクリートの低い壁がある。また空気穴が筒状に天井から突き出している。中は横穴が掘られ、部屋が出来ている。

<防空壕>

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資料室に行くと、陸攻のプロペラが珍しく感じた位で、他に武器や軍服、木更津出身の軍人の遺品などが展示されてあるものの、肝心の海軍航空隊の説明があまりなく、すぐに出てきてしまった。

帰りがけに、広い飛行場跡を見渡せば、遠く海の向こうに見えるのは自分の会社の溶鉱炉ではなく、S日鉄さんのものであった。その手前に小山のようにみえるのは、掩体壕。しかし、写真ではゴマの粒位にしか見えない。

<製鉄所をバックに見えるゴマ粒のような掩体壕>

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海自の補給処には格納庫がいくつかあるが、小型な格納庫のいくつかは旧軍のものらしい。一番古そうな格納庫は、旧軍のものだろう。

白い境界標石があったが、旧軍のものだろうか。「海軍」ではなく、別の字が書いてあったので自衛隊になってからのものかもしれない。

<古い格納庫>

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最後に、海上自衛隊の門を出るときに、門の内側にも錨が飾られているのに気付いた。

今回、陸上自衛隊から海上自衛隊まで敷地内を南北に歩いてみたが、肝心の掩体壕はきれいに写真を撮ることができなかった。近くの民有地から望遠で撮るしかなさそうである、

<海自の門のところに飾られている錨>

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2009.09.23

Legend of Xanadu 木更津海軍航空隊の伝説

「千葉県の戦争遺跡」http://www.shimousa.net のHPを手伝っているのであるが、最近では自分のHPを更新する間もないほど、こちらのほうに専念してしまっている。ほかにも、某団体のHPを頼まれて面倒みており、こちらはそれほど更新があるわけではないが、負担は少しある。もう一団体、面倒みることになったら、小生は完全にパンクするだろう。なんとか、それだけは避けたい。

「千葉県の戦争遺跡」の構成は、左サイドにメニューがあって、以下のような構成である。

<千葉県の戦争遺跡のメニュー>

Chibaken

主頁:国破在山河

血涙の軍隊手帳

千葉県の戦争遺跡

軍郷習志野

陸軍習志野学校

「支那囲壁砲台」

「首都防衛」の飛行場

鉄道連隊の戦争遺跡

日本各地の戦争遺跡

戦時中国の写真集

大東亜共栄圏の虚妄

資料室

と、一応HPらしく構成してある。

メインの「千葉県の戦争遺跡」はメニュー画面だけで、同名のブログにリンクさせている。だから、ブログ「千葉県の戦争遺跡」を直接見ている人が多く、そのアクセスは今までに約7万9千。といってもアクセスカウンターは途中からつけたため、正確なアクセス数は不明で、10万はとっくに超えているはず。一方、HPのアクセスのほうは、3万いくらであり、もうこの時点で主客転倒している。

アクセス解析では、結構アクセスが多いのは、「千葉県の戦争遺跡」のメニューを除けば「軍郷習志野」が突出し、「陸軍習志野学校」や「血涙の軍隊手帳」のページも多い。

内容的には、以前から鉄道連隊を取り上げており、最近は「『首都防衛』の飛行場」として、柏、松戸、印旛の各飛行場(いずれも陸軍)を取り上げるなど、幅広くなってきてはいるが、「千葉県の」とうたっている割には、東葛地域に偏っている感じで、もっと幅広いテーマを取り上げるよう、計画している。しかし、あれこれ注文が多く、他のHPなどとあわせて、維持するのに汲々としている。

あれこれ使われることへの抵抗感もあって、「資料室」のページではHPの趣旨と多少ずれた洋楽系のページでもいれてしまおうかなと思ったりしたが、オーナーの了解が得られず、音楽は軍歌どまりとなっている。また、ソ連の軍歌をいれるとのことで、お前の好きな洋楽だといっていますが、それじゃ洋楽とは言えないと思う。

一方、前述の通り、「軍郷習志野」とか「陸軍習志野学校」、鉄道連隊系のページは結構見ている人がいるらしく、それなりにアクセスがあるのだが、最近設置した「『首都防衛』の飛行場」はさっぱりである。松戸、柏、印西と飛び歩き、市の学芸員からのヒアリングなどはもっぱら小生の仕事としてやってきたが、資料集めなどはおん大将がやっているとはいえ、大変である。

さらに、松戸の陸軍工兵学校や房総の木更津、茂原、香取といった海軍基地、航空隊跡についてもページを作ることになった。鉄道連隊がらみの近くの写真も撮ってあり、工兵学校のほうは、ネタ的には前からの蓄積もあるし、いざというときは松戸市に聞けばいいので何ということもないが。海軍基地のほうは、今から困難が予想される。

<松戸の陸軍工兵学校跡>

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「お前はいつから陸軍ばかりやっているんだ、こっちは海軍だぞ」、といわれても、小生自身は軍隊にはいったことはござんせん。やむなく、先日木更津に行ってきた。

JR総武線の快速に乗り、内房線に入ると、蘇我までは見慣れた風景。しかし、浜野からは、ほとんど知らない世界。といっても、おととしくらいには八幡宿には行ったっけ。快速電車を袖ヶ浦で降り、乗り継ぎが20分ほどの待ちとなり、外へ出て昼飯を食べることにした。しかし、駅前に殆ど店がない。少し歩くと、ホテルの一階がレストランになっていたので、そこで寿司を食べた。もともと、寿司屋だったのが、ホテルになったようなところであった。にぎりがやけに大きく、ネタも大きい。この辺は、そういう寿司なのだろうか。

結局電車でまた一駅行って、巌根という駅からとぼとぼと、航空廠跡や航空隊の跡を訪ねて行ったが、とにかく広い。また、現在の航空自衛隊と海上自衛隊の間にある「海軍道路」という広い直線的な道路沿いには、店がまばらにしかない。途中間違えて引き返し、ヤマザキデイリーストアを発見したときには地獄に仏という気がした。

<海上自衛隊補給処の門前にある錨>

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ヤマザキデイリーストアで、海上自衛隊補給処へ行きたい旨言うと、「ああ、陸海とならんでますからね、手前が海自で、まっすぐ行ったT字路の先ですよ」ということだった。さっき、小生が曲がってきたのは、どうみても十字路。おかしいなあと思いながら進めば、自分が曲がってきたのは、途中の交差点で、さらに道は延々と続いていた。

ヤマザキデイリーストアの店の人は、「陸海」と言っていたが、巌根駅に近いところには航空自衛隊もある。つまり、「陸海空」と旧海軍基地を自衛隊は仲良く分け合っているのである。海軍の基地だったのだから、海自がもっとのさばっていてもよさそうだが、広い飛行場跡は陸自の航空隊が押さえている。この広い海軍道路といい、これはもしかして、キサナドゥならぬ、木更津の伝説ではないか。

<海軍道路>

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海自の補給処の前を南に道なりにいくと、堀そいに基地のフェンスがあり、それがずっと続いている。堀は、だんだん広くなる感じで、水門もいくつかあった。魚がいるようで、親子で釣りをしている人もいた。さすが、木更津である。だいたい、陸自の門のあたりなど、船橋で良く見る漁港風景のようではないか。

陸自の門は、海軍航空隊の門があった場所で、周辺の公園になっている場所にも、射撃の的を置いた台のようなものがある。また古い給水栓があり、もしや旧海軍のものかとおもいきや、マークは海軍のものではなく、自衛隊のもののようであった。

<木更津海軍航空隊跡~現在の陸上自衛隊木更津駐屯地の門>

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上の写真の左側の船が並んでいる、さらに左(南)にはやはり水門があり、もっと行くと本格的に漁業をやっている場所になるが、その辺はかつての水雷基地である。しかし、今回は余りゆっくりできない。10月4日の木更津航空祭の際に、また来るとしよう。

結局、見学はそのくらいにして、帰途についた。といっても、バスの時間には間が空きすぎ、木更津駅まで徒歩である。途中、店がある程度建てこんだ場所に出たのだが、閉まっている店ばかりで、御土産を買うような店もない。なにか寂れた商店街だと思いながら、ふと上をみると、小さな看板に「木更津銀座」とあった。地方都市が、こんなに疲弊しているとは。

切られ与三郎とかこうもり安の墓だか、供養塔か何かがある寺というのも、駅の近くにあったのであるが、疲れてしまい、まっすぐに駅へ向かった。

文章は余り書かなくていいとはいえ、「千葉県の戦争遺跡」HP取材は結構しんどい。だれかアルバイトでやってくれないかなあ、と思ってしまう。以前、漫画を書いてくれる人を探そうとしていたが、本気でカメラマンとかスタッフを募集しようか。

なお、今回は、旧国鉄から海軍航空廠への引き込み線の線路を見つけたのが、一番の収穫だろうか。自衛隊の中に入らないと、肝心な遺構はなかなか見られない。

<引き込み線の線路>

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2009.09.06

九段で知り合いの歴史学者にばったり会う

東京都内を散歩するのは、久しぶりであるが、先日九段から神保町までブラブラと散策した。

実は、手伝っている「千葉県の戦争遺跡」(http://www.shimousa.net/)に「『首都防衛』の飛行場」というコーナーを作ることになり、とりあえず柏飛行場と印西市にあった印旛飛行場のページはアップしたが、松戸飛行場について記事自体はできているのに、写真がなかなか良いものが揃わず、特に松戸の飛行第五三戦隊や柏の飛行第七○戦隊からも四機、四名ずつ出して編成されたという震天制空隊の写真ですぐに使えるものがない。

もちろん、それについて研究している人のHPがあったり、鎌ヶ谷市郷土資料館が出した冊子にも載っているのだが、勝手に使うわけにもいかず、困っていた。

それで、頭の中は震天制空隊のことでいっぱいで、海法秀一が描いたB29に体当りする戦闘機の絵はがきでも売っていないかと靖国神社の遊就館に行ったのであった。

<靖国神社>

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海法秀一は、元陸軍軍曹で加藤隼戦闘隊で有名な陸軍飛行第六四戦隊に所属していたこともあるパイロットで、日本における空戦画の先駆者かつ第一人者だそうだ。空戦を描いた絵では、昔子供の頃にみた零戦などの空中戦の絵を思い出すが、そういう絵は戦闘機が宙返りしたり、かなり無理な態勢で飛んでいたり、現実離れしていた。この海法秀一の絵は決してうまい絵ではないが、なぜか説得力があるように思う。

海法秀一の絵は、靖国神社にもあるようだが、絵はがきのようなものは売っておらず、あきらめて帰ろうとした。

すると、意外なことに、同じ大学、同じ先生門下で、今は大学教授をしているYさんにばったりと会った。小生が学生のときには、Yさんは大学院の博士課程にいたと思う。他にも小生は、経済学部の院生で今はR大学の教授をしているOさんなども知っていた。

Yさんによれば、靖国神社には靖国偕行文庫という付属の図書館があって、戦史や戦友会誌などが豊富にあるとのこと。館長は防衛大学の名誉教授か何かしている人らしいのであるが、こういうことが調べたいというと資料をだしてきてくれる、煩わしい手続きもいらないし、古本屋で買えば何万円もする本がただで読めたり、靖国神社の奉賛会に入ると三冊まで借りられるということであった。

Yさんと小生の恩師は、陸軍士官学校を出て、大陸打通作戦など中国戦線を転戦、終戦時陸軍大尉であったが、戦後東大に入って歴史学者になった。先生は、なくなる2年くらい前に、1年に二冊本を書くと言っておられたが、本当にタフであり、元中隊長らしく統率力があった。文章は平明で、かつ具体的であり、事実に基づいたものであった。今やその先生のあとを、Yさんが継いだような格好である。

なお、小生の近況報告として軍事史学会に入ったことと、最近の大学の先生たちと柏で掩体壕の調査をしていると言ったところ、「その先生は知っている、自分も最近韓国に戦争遺跡の調査に行った」ということであった。

<チェジュ島の岸壁>

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チェジュ島には日本軍の特攻基地がたくさんあって、「チャングムの誓い」のドラマで撮影に使われた洞窟もそういう場所であったとのこと。例のモーターボートに爆弾を取り付けたような震洋の基地がたくさんあったそうだ。また海軍の飛行基地が近くにあった関係で掩体壕もたくさんあったと言っておられた。

現在の韓国にまで、日本軍は特攻基地をつくっていたとは、驚きである。

<チェジュ島の洞窟>

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本土決戦時、朝鮮半島を南下して、九州から連合軍が上陸してくることを想定し、日本軍はこれを水際でたたくことをかんがえていたのであろうか。千葉の九十九里浜にも、防衛線を張ろうとしていたが、連合軍が攻め込んでくるルートは複数想定していたのだろう。

Yさんと別れてからも、道々戦争のことを考えていた。曾祖父は戊辰戦争、祖父は日露戦争の終わったころに兵隊にとられた。父は太平洋戦争を体験している。自分は戦争の体験者でない。当たり前であるが、平和な時代に生まれてよかったと思う。

小生の父は海軍出身者であり、小生は子供の頃はよく靖国神社に連れてこられた。靖国神社の大村益次郎の銅像のある場所と本殿の間を横切る道沿いに、富国生命が建てたという大きな一対の燈籠がある。その社殿に向かって左側が陸軍、右側が海軍のいろいろな事跡をレリーフにしている。たしか、爆弾三勇士のレリーフも社殿向かって左側の燈籠基壇にあったはずであるが、いつも右側の海軍の方しか見ない。小生の父が、ほとんど海軍の方しか説明しなかったせいもある。そこに刻まれているのは、東郷平八郎の日本海海戦の例の三笠艦上にたっている姿、その横には旅順港閉塞の広瀬中佐の姿。

<靖国神社の燈籠基壇にある広瀬中佐のレリーフ>

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海軍の軍人だったのは、小生の身内には結構いる。父方にもいるし、母方にもいる。海軍では通常志願兵ばかりであるが、小生の親戚も志願というか、元々職業軍人になろうと海軍にはいったものばかりである。母方の親戚で兵曹長か何かで軍艦に乗っていた人らしいが、戦死したものがいる。この人は、子供のころ、「海軍のおじさん」と呼んでいたが、正確な名前を失念した。

また親戚で海軍の軍医になって、皇族の侍医から各地の海軍病院長を歴任した人がいる。東大を出て、海軍にはいって軍医中尉になった。結局、軍医では最高位までのぼりつめたが、戦後は公職追放となり、田舎の開業医になった。追放解除になってからと思うが、東大のほうで教授をやらないかと後輩に誘われたらしい。しかし、もう表舞台でやる気はないとのことで断り、田舎で医者を続けた。子供の頃から頭は良すぎるくらいだし、服装などには無頓着で、変わった人だったというが、自分なりの考えを通したのだと思う。

往診にいくのに、地下足袋をはいていったので、長靴をはいた猫ならぬ、地下足袋を履いた元海軍病院長の医者では、童話のネタにはならないだろう。軍隊では最初から中尉で、歩くか運転手付きの自動車に乗っていたため、一度も自転車に乗ったことがなく、年取ってから自転車に乗る練習をしたらしい。結局、軍医だった親戚は、自転車に終生乗れないまま、なくなってしまった。

<震天制空隊が乗った屠龍>

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話がそれたが、結局あれこれと考えたあげく、震天制空隊の写真は鎌ヶ谷市の学芸員さんと話をして、鎌ヶ谷市郷土資料館が発行した冊子から転載してよいことになり、一件落着したのであった。

だから靖国神社まで行く必要はなかったが、行かなければYさんには会わなかったのである。

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2009.08.29

日大生産工学部構内にある戦車隊の碑

千葉県船橋市から習志野市にまたがっているが、日本大学生産工学部構内には、旧陸軍の記念碑がいくつかある。その多くが、騎兵第14連隊に関わるものである。

習志野市大久保一帯は、まさに騎兵の町と言うべき場所であったようで、騎兵旅団司令部跡や騎兵連隊の跡が残っているが、旅団司令部は公園のなかに石碑と門柱、騎兵連隊については日本大学生産工学部や隣の東邦大学薬学部構内に石碑などが残っている。

<かつての騎兵旅団司令部>

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もとをただせば、明治6年(1873年)の明治天皇行幸に際して、近衛兵による演習が行われ、それによって演習が行われた大和田原が「習志野原」と名づけられた。「習志野原」については、演習に用いられたので、「『馴らし』の原」と言われたとか、篠原国幹が演習で目覚ましい働きをしたので、明治天皇が「篠原に習え」ということで「習篠原」から「習志野原」と命名したとか、説がある。現在の陸上自衛隊習志野駐屯地には、空挺館という建物があるが、これはかつて「御馬見所」という建物であった。建てられたのは、明治44年(1911)、明治天皇存命中に目黒にあった騎兵学校内で、明治天皇も騎兵学校の修業式に臨席、学生の馬術を見学したという。大正5年(1916)に、騎兵学校が船橋市習志野の現在空挺館がある地に移されて、「御馬見所」も移築された。以降は、迎賓館と利用されたようである。

<「御馬見所」として建てられた空挺館>

Kuteikan

明治天皇の習志野原での演習に伴う行幸以来、周辺に軍関係の施設なども拡張配備されてきた。明治32年(1899)には、日本陸軍初の快速兵団として騎兵連隊が習志野原に創設された。明治34年(1901)には、現在の習志野市域である大久保に転営、東邦大学、日大生産工学部付近に第十三、十四連隊からなる第一旅団、東邦中学校・東邦高校付近に第十五、十六連隊からなる第二旅団がおかれた。また、八幡公園、旧習志野郵便局の場所に前述の旅団司令部がおかれたのである。日露戦争には両旅団が、日中戦争時には第一旅団が派遣された。その日露戦争当時の第一旅団長であったのが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」でも有名な秋山好古陸軍少将である。

NHKのドラマの関係で、秋山好古も注目されているようで、その銅像というかレリーフが、大久保の商店街のなかに最近作られた。夜見ただけで、近くなのにどうも足が向かず、いまだに写真も撮っていない。商店街では、町おこしのつもりなのだろうが、歩いている人が増えているとも思えない。

その秋山好古旅団長は、ロシアのコサック騎兵部隊に対してよく戦い、騎兵に砲隊も組み込むという独自の編成と騎兵を時には歩兵として使う戦術もあえて行った。しかし、軍隊の機械化により、騎兵連隊はその役割を終え、機械化部隊に再編成されていく。

なお戦後、連隊の兵舎は、学校の校舎、寮などになり、昭和50年(1975)前位まではかなり残っていたが、いつの間にか新校舎などに建て替えられてしまった。旅団司令部の建物も、郵便局となり、その郵便局も移転した。八幡公園にある旅団司令部の門は現存する。騎兵旅団司令部の隊門付近に、「騎兵第一旅団司令部跡」と書かれた石柱碑「軍馬之碑」などがある。「軍馬之碑」とは、戦場では文字通り、人馬一体となって、騎兵を背にして戦場を駆け抜けた軍馬の霊を慰めるために建てられたもので、「軍馬之碑」「馬頭観世音」「軍馬忠魂塔」と三つが並んでいる。

<習志野騎兵旅団司令部の隊門>

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<騎兵旅団司令部址の記念碑>

Ryodanhi

なお、騎兵は次第に機械化の波によって、過去のものとなり、活躍の場を失っていく。特に、第一次世界大戦を契機として、世界的に近代戦へ戦術だけでなく、そのインフラというべき兵器も大きく変化した。日本陸軍でも、機械化部隊が、大きく表舞台に登場し、野戦重砲兵や戦車部隊などが活躍することになる。また、騎兵部隊も、自動車化・機械化が研究されるようになった。そして、戦闘の第一線ではなく、偵察や伝令などを任務とする捜索部隊として、騎兵は第二次大戦まで存続することになる。かわって、台頭したもののひとつが、戦車部隊である。

奇しくも、日大構内には、騎兵第14連隊とそれが移動した後に入った戦車第2連隊の碑が、同じ場所に集められている。

<日大構内の騎兵第14連隊の碑>

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戦車部隊の碑は、自然石を薄く切ったような形であり、はめ込まれた銅板には以下のような碑文が書かれている。かなり細かい字で、読むのに苦労した。

戦車第二聯隊の跡

 戦車第二聯隊は昭和八年八月千葉陸軍歩兵学校教導隊戦車隊を強化改編して、国軍最初の戦車聯隊として創設され、騎兵第十四聯隊駐屯の跡に移駐した。その教育部に、全国歩兵聯隊から派遣された将校・下士官の教育に専念し、後に陸軍戦車学校に発展した。
 昭和十二年七月動員下命、聯隊の主力は北支に出動、保定会戦、黄河以北戡定作戦、徐州会戦等に赫々たる武勲を揚げた。十三年七月、部隊は戦車第八聯隊に改編され、中原会戦、満州・北支警備等の後、十七年秋、南海のラバウルへ転進した。
 戦車第二聯隊は昭和十三年七月留守隊を強化し、此処習志野で再編成された。十六年秋再び動員され、蘭印作戦に参加し各地に善戦した。分遣された第一中隊はビルマ、第四中隊はガタルカナルに於て悪戦苦闘した。聯隊は十七年秋習志野に帰還した。
 この間、習志野で編成した戦車第四大隊は昭和九年奉天に、支那駐屯軍戦車隊は十一年天津に、戦車第十七聯隊は十七年綏遠省平地泉、独立戦車第七・第八中隊は十九年夏フィリッピンに派遣された。
河野第七中隊はレイテ島に、岩下第八中隊はマニラ飛行場周辺に三度壮烈な出撃戦を展開、戦車魂を発揮して全員華と散った。
戦局緊迫するや、動員令により戦車第二聯隊は昭和十九年相模地区に移動、その補充隊は二十年四月新たに六個の戦車聯隊を編成し、相共に配備につき本土決戦に備えたが、八月終戦を迎えた。
この度、日本大学当局より理解ある御協力を戴き、有志相図り、幾多戦友の偉勲を偲びつつ、此処戦車第2聯隊駐屯の跡に、この碑を建て聯隊の事蹟を永く伝う。

昭和六十三年八月一日
戦車第二聯隊会

<戦車第2連隊の碑>

Senshahi

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2009.07.24

続・印旛飛行場跡地周辺の掩体壕

前回、印旛飛行場の掩体壕をみてきて、どういう背景で掩体壕が三十以上も作られたのかを少し考えてみた。

<印旛飛行場跡地周辺に残る掩体壕>

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印旛飛行場を根拠にした陸軍飛行第23戦隊の戦隊長(谷口正義少佐)が戦後書いた記録でも、

「戦爆連合部隊の来襲に際しては各飛行場の誘導路に分散遮蔽して退避秘匿することとなった。この準備のため飛大(注:飛行場大隊のこと)は、飛行場周辺の民間の協力を得て、民間の畑地、竹林、森林等を開設して前述の分散用誘導路と遮蔽各個掩体を作った」

とある。

それは、借りて読んでいる陸軍飛行第23戦隊印旛会の『飛行第23戦隊 想い出の記』のなかにある谷口正義元少佐の「飛行第二十三戦隊概史」のなかにある文章である。その『想い出の記』には元隊員たちやゆかりのある料理旅館のおかみの記事まで載っており、隊員の訓練や実戦での想い出などがいろいろ書かれていて、それはそれで面白いのであるが、さすがに掩体壕の話となると、上記谷口戦隊長の記事ともう一つの記事に多少触れられている程度であった。ちなみに飛行場大隊は戦隊とは別に、飛行場の警備や施設や日常運営に関わる業務を行うもので、師団の下に飛行場ごとにおかれたものである。戦隊は、必ずしも一つの戦隊が一つの飛行場に駐屯するわけではないが、飛行場大隊は地上勤務で上記のような仕事をしていた。

しかし、印旛飛行場の掩体壕については、昭和20年(1945)3月に陸軍飛行第23戦隊の上部の第10飛行師団(柏の第70戦隊の師団でもある)の師団長が吉田喜八郎少将から近藤兼利中将に交代し、新師団長の近藤中将の方針で、空襲時の飛行機および搭乗員の減耗を防止するため、あえて迎撃せず、飛行機を誘導路に分散、掩体に秘匿するということになり、掩体壕がさかんに作られるようになったということが分かった。

その吉田少将が師団長の任を解かれる直前の2月16日、17日に、米軍機グラマンの編隊が首都圏を攻撃することがあり、飛行第23戦隊の前任の戦隊長藤田重郎少佐は、その戦闘で敵機を迎撃しようとしたが、他の戦隊員とともに印旛飛行場上空で戦死した。実は亡くなった藤田重郎少佐は13機の撃墜記録をもつ歴戦の勇者であったが、隼に乗り、グラマンの編隊にむかって単機で突入して邀撃したが、空しいこととなった。

他にも両日の戦闘で少尉3名、准尉1名、軍曹1名が戦死。飛行第23戦隊の保有する戦闘機は二式単戦、一式Ⅲ型(隼)が合わせて25機程度であったのが、2月18日の出動可能機はわずかに一機のみとなった。

<二式単戦 鍾馗>

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数日後、吉田師団長の部隊視察があったが、吉田師団長は「ご苦労さんでした」と丁寧に挨拶をしたが、「鬼の喜八郎」の面影はなく、元気のない様子であったという。そのあと、吉田師団長は更迭され、パイロット出身の近藤兼利中将に交代した。

なお、その藤田少佐の未亡人は、葬式を済ませ、諸々の始末をした後に、亡き夫の後を追って自決したという。

今や、ニュータウンとなり、ほとんど飛行場の面影はないが、印旛飛行場という小さな飛行場にも伝えれねばならない話がある。

<印旛飛行場跡>

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(追記)

なお、この手の記事を書くと、必ずといっていいほど、迷惑コメントを送ってくる人間がいます。何か特殊な考え方を信奉されているかもしれないが、当方は単純に平和を祈念しているだけで、それ以上でも以下でもないのです。いくら迷惑コメントやトラックバックを送ったところで、niftyに通知して削除するだけであり、労力の無駄と思いますが、如何。

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2009.07.06

印旛飛行場跡地周辺の掩体壕

最近、ある研究会で、掩体壕のことを調べている。その調べている掩体壕は、東葛地方のとある場所にあるのだが、本当に掩体壕なのか、他の具体的な例と比較しようと思い、無蓋掩体壕が多く残っているという印西市に行ってみた。

印西市といっても、掩体壕のあるのは、草深(そうふけ)という地区とその周辺である。草深というくらいだから、昔は草深いところだったろうし、印西牧があった広大な原野を連想させるが、現在はそういうイメージは薄れている。

今は印西牧の原駅近くと言った方が、分かりが早いであろう。北総線印西牧の原行きの電車などで、行けば良いのだろうが、普段は行く用事もなく、何しろ遠いという印象であった。いざ行く段になって、地図でみれば距離的にはそうでもない。以前、車で臼井まで行くのに、八千代市の米本経由で保品を通り、印旛村から印旛沼を越えていくと、成田街道をずっと行くより時間がかからないことに気付き、よくそのルートを使った。今度も車を使い、似たようなコースで、米本の近くの島田台という場所から印西に向かっていった。

<印西牧の原駅周辺>

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その掩体壕のある場所には、かつて印旛飛行場という飛行場があった。別名は、草深飛行場。

その印旛飛行場は、日中戦争が始まった昭和12年(1937)頃に建設が企画されて、その後逓信省航空局により現地測量、用地買収、道路建設、滑走路などの整備、道路新設が行われた。周辺住民もかりだされて工事がおこなわれたのだが、昭和16年(1941)に太平洋戦争がはじまると、一層工事が急がれた。

印旛飛行場は、昭和17年(1942)6月に一旦完成した。その完成前の昭和17年(1942)4月、逓信省管轄の印旛地方航空機乗員養成所がその地に開設された。これは松戸市にあった松戸高等航空機乗員養成所とともに、千葉県内の航空機乗員養成所として、逓信省の新航空政策に基づく民間航空の拡充、陸海軍の予備航空要員確保を目的として、航空機乗員の養成を行った。

<印旛地方航空機乗員養成所の跡地>

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養成所には、本科生と操縦生の二つの制度があり、本科生は国民学校卒業後入所で修業年限が5年、旧制中学の普通学科と適性により操縦・航法・通信・機関などの専門技術を習得した。操縦生は旧制中学三年修了後入所し、1年間の基本操縦技術を習得後、義務として軍の飛行学校にて6ヶ月の専門分野教育をうけるというものであった。

養成所は陸軍系と海軍系があり、印旛は陸軍系であったため、所長以下の幹部職員は陸軍の軍人で、教育はすべて陸軍方式で行われた。

印旛地方航空機乗員養成所では、毎年本科生が約60名入所し、毎年進級するとともに、操縦生は4月、10月の年2回それぞれ約50名がはいって、1年後には陸軍飛行学校に転出した。

逓信省所管といっても、陸海軍の操縦士養成を主な任務とし、実際、印旛に限らず、逓信省航空機乗員養成所を出て、陸海軍の飛行機操縦士となった人は多い。

印旛地方航空機乗員養成所の飛行場として出発した、印旛飛行場は、太平洋戦争の激化に伴い、首都・京浜地区防衛のために防空戦隊が進出することになり、昭和18年(1943)の後半から翌年にかけて、多数の労務者が動員され、勤労動員も含めて、2,000m級の3本の滑走路など拡張整備された。

<現在の航空写真上に重ねた飛行場の範囲>

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上図で、黄色い線は滑走路跡で、3本が東西、南西から北東にのび、水色で囲ったのが飛行場主要部で、周辺には掩体壕などがあった。誘導路がどのようにのびていたかがよく分からないが、図にはない掩体壕跡が飛行場北側にもあったことから、飛行場を中心に 東西南北にのびていたと思われる。

戦局が暗転し、敗色濃厚となった太平洋戦争末期、昭和19年(1944)11月には、陸軍飛行第23戦隊などが進出し、印旛飛行場は事実上陸軍の飛行場となった。

また、印旛飛行場には飛行場大隊が戦隊とは別におかれ、飛行場の整備、警備などの後方支援にあたった。

陸軍飛行第23戦隊は、第10飛行師団(略称:天翔)隷下で、印旛での編成当初、一式戦闘機・隼、二式単座戦闘機・鐘馗で編成された20機ほどの戦闘機を保有していたが、11月27に一個中隊12機を硫黄島に派遣、翌昭和20年(1945)1月17日にも12機を再派し、新設部隊としては手痛い人員、器材の損失を蒙った。

<一式戦闘機・隼>

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さらに、昭和20年(1945)2月16,17日の米軍機動部隊から発したグラマンヘルキャット、コルセアなど数百機は、関東の各飛行場を急襲し、印旛飛行場にも来襲、これに対し、飛行第23戦隊は邀撃したものの、藤田重郎戦隊長(陸軍少佐)など5名が戦死した。

藤田戦隊長の戦死により、次の戦隊長は谷口正義陸軍少佐となり、同じころ師団の方でも師団長が戦闘パイロット出身の近藤兼利陸軍中将となったが、迎撃要領が操縦士温存のため、P-51など戦闘機・爆撃機連合部隊の迎撃はおこなわず、B‐29など爆撃機のみの侵攻に対して行うように改められた。

米軍の戦闘機・爆撃機連合部隊の来襲に際しては、飛行機を飛行場の誘導路に分散遮蔽して、掩体壕に退避、秘匿することになったのである。その誘導路や掩体壕の敷設にあたっては、飛行場大隊が主体で行ったが、また周辺住民などが動員された。

当時は印旛地方航空機乗員養成所では生徒の教育・訓練どころではなくなり、飛行場の整備、土運搬、盛土などの作業に従事した。また練習機を他の飛行場に移動したり、生徒の転属、疎開も進められ、印旛飛行場は一部を除いて、防空戦隊の専用基地となった。しかし、前述のように、戦闘機・爆撃機連合部隊の来襲には迎撃せず、7月4日のP-51の来襲で、印旛地方航空機乗員養成所も銃爆撃を受け、7名の本科生がなくなった。

<無蓋掩体壕の構造>

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さて、掩体壕は、上にコンクリートなどで固定的な屋根をつけて、ある程度直接的な銃撃、砲撃などに耐え、間接的な爆撃の被害から守るようにした有蓋掩体壕と、周囲を土手で覆い、固定的な屋根がなく、木などで覆って飛行機を隠し、間接的な銃爆撃の被害からのみ救済できる無蓋掩体壕と大きく分けられる。印西にあるのは、無蓋掩体壕のタイプである。形状も、1機のみ隠蔽する馬蹄形のものや箱形のもの、2機まとめて隠蔽するE字形のものがあるが、印西は馬蹄形のものが圧倒的に多い。

昭和57年(1982)に当時の印西町石造物調査会が、当地の掩体壕の位置、形状などを調査したが、その時には36基確認されている。

しかし、その後ニュータウンの建設など、開発が進むにつれて、掩体壕は破壊され、消滅したものが多い。わずかに東の原の調整池周辺の県所有地に数基残っているが、風前の灯といってよい。

首都防空の任をおった印旛飛行場、多くの若者が巣立ち、その中からはレイテ湾にて敵輸送船団に体当りした長濱少尉を含め戦死者も出した印旛地方航空機乗員養成所は、今や建物や滑走路、営門すらあとかたもなくなって、その上に印西牧の原の住宅地が建っている。

<現在も残る掩体壕>

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今やほとんど痕跡をとどめない印旛飛行場跡であるが、せめて現在残っている掩体壕は保存してもらいたいと思う。

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2008.06.09

三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所に秋水を訪ねて

少し前になるが、休みを利用して、三菱重工の名古屋航空宇宙システム製作所に行ってきた。目的は、その史料館にあるロケット戦闘機「秋水」の写真を撮ることである。それは柏で行うイベントのためで、柏に関する陸軍の施設や遺物の写真を集めようと、かつて森兵男のHPに協力して収集したものも含めて、良いものを整理しようとしたときに、肝心の「秋水」実物の写真がないことに気付いたことによる。

名古屋航空宇宙システム製作所と、名古屋の名前が付いているが、正確な住所は愛知県西春日井郡豊山町であるから、自分の住んでいる郡部と同様に田舎かもしれない。地図をみると、豊山町には電車の駅がない。近くに名古屋空港があるので、その交通機関を利用していくと、比較的楽に行ける。

<JR武豊駅>

Taketoyo

朝、会社の駐車場に車を置いて、JR武豊線に乗って名古屋に出た。名古屋まで出て、空港へのバスが発着するミッドランドスクエア前まで出るときに、滅多に名古屋に出ない小生、そのスクエアなるものがどこにあるのかが、まず分からなかった。大体、駅ビルの高島屋にも数えるくらいしか入ったことがない。どうせなら、大名古屋ビルヂング前とか、松坂屋前としてくれればすんなり行けたであろう。だが、もはやロートルとなり、新しい建物のなまえを言われても、まったくチンプンカンプンな小生、松坂屋の前でうろうろして、なんて名古屋も分かりにくくなったのかと思った次第。

結局、よく分からず、路線バスのバス停で時刻表をみると、近くまで行くバスがあった。そのバスで近くまで行って、後はタクシーで行った。ところが、タクシーですぐに着くかと思いきや、結構遠いのである。だんだん、田舎になってきて、半田近辺とたいして変わらない風景となってきた。訪問先には昼から行くように予約していたので、豊山町で食事をすることにしたが、名古屋にいるうちに食事をしておくべきだったかもしれない。

<三菱重工外から>

Mitubisi

名古屋空港のそばといっても、食事ができる場所は「伊予」という名前の喫茶店くらいしかない。タクシーでその喫茶店まで送ってもらって、食事をしてから、三菱重工に行った。

さすがに飛行機を作っている工場だけに、入門の際にはカメラ、カメラ付き携帯、パソコンの類は、守衛所にあずけていくようだ。しかし、小生は工場に入るわけではなく、史料館に来ただけなので、カメラを持ったままであった。

史料館にはいると、職員の人がいたが、どうも休憩時間が続いているようで、テレビを見ている。小生も13時と予約していたので、その史料館の展示をぶらぶらみているだけで、時間を潰した。13時になると休んでいた職員は帰り、一人だけ残った職員の人が案内してくれるのかなと思い、声をかけると、史料室に聞いてくださいとのこと。

みれば史料室があり、その室長さんに写真撮影と柏での展示の許可をもらって、数枚写真を撮った。室長さんは、柏では秋水の研究者がいるでしょうと名前もあげていたが、失念した。多分、図書館でみた秋水地下燃料格納庫の関係の本を書いた人のことだろうと思う。史料館は、なにかの倉庫に使われていたような建物で、零戦と秋水の二機が実機で、あとは機銃とかプロペラといったものや、飛行機の模型がたくさんあった。秋水は、ここに完全な形であるが、五機しか生産されなかったらしい。

<秋水近影>

Shusui

秋水はもともと、刀の名前だそうだ。鋭い切れ味の刀のように、B29のような米軍の爆撃機をばったばったと落とそうという願いが込められていたのであろう。ロケット戦闘機としては日本初であり、世界でも秋水がモデルとしたドイツのメッサーシュミットがあったくらいであった。

<メッサーシュミットの図面>

Zumen

<秋水近影2>

Shusui1

ずんぐりむっくりの形状から小さいもののように思えるが、翼を広げた全長が10m近くある。これは一人乗りで、写真のようにタイヤを履いているが、離陸した後、重みのあるタイヤは落としてしまい、1万メートルくらいまで上昇、何回か降下と上昇を繰り返したあと、最後は滑空した帰り、胴体の下にあるソリで着地するというから、舗装した場所には下りられず、また着地するのは名人芸を要したという。

<秋水の特呂というエンジン>

Tokuro

<燃料輸送管など部品の数々>

Buhin

もちろん、三菱重工の史料館には秋水しかないわけではない。零戦があった。今はゼロ戦というが、当時の海軍ではあくまで「レイセン」である。この零戦は、多分人気があるのだろう。サイズ的には秋水より少し大きいようであるが、たいして変わらないように見えた。

<同じく展示されている零戦>

Reisen

帰りがけに史料室長さんにお礼をいうと、わざわざ見送ってくれた。

そして、三菱重工を後にした小生、どうやって帰ろうかと思ったが、タクシーを呼ぶまでもなく、役場の前に例の名古屋行きのバスのバス停があった。バスにスチュワーデスさんが一人乗っていたが、中部国際空港に行くようであった。名古屋空港と中部国際空港では1時間くらい移動にかかりそうである。

その後、柏での講演会は、展示も含めて無事に終わった。しかし、大きな問題が持ち上がりつつあることを、そのときには分かっていなかった。

<九九式爆撃機のプロペラ>

99shiki

注)当ブログで使用した写真はすべて筆者mori-chanが撮影したものですが、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会や小生の親戚森たけ男のHP(千葉県の戦争遺跡)で出てきた場合でも、それは筆者が許可したものであって、著作権侵害にはあたりません。

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