カテゴリー「関西の古寺と史跡」の4件の記事

2008.10.05

月はおぼろに東山

小生、歌はあまり人前で歌わないし、熱烈な音楽ファンではないように思う。しかし、音楽はそこそこ聴いていた。聴くのも、学生時代は専らクラシックで、社会に出てからはヨーロッパのポップスとかになり、カーステレオでよく聴いてた。特に、シルビー・バルタン、ジリオラ・チンクエッティは。

ジリオラ・チンクエッティはサンレモの女王であるとともに、カンツォーネを一般に親しめるものにした。しかし、日本では「雨」くらいしか、知られていないかもしれない。

会社にはいった当時は、CDなどはなく、カセットテープばかり。レコードはあまり持っていなかったが、たまに買ってくると繰り返し聴き、うっかり傷つけてしまうと大変損した気分になった。兵庫から転勤で東京にかわったとき、だいぶ売るか、捨ててしまった。しかし、神戸のレコード店に売りに行ったが、逆にシルビー・バルタンのレコードを買ってしまったこともある。

そういう小生が、ときどき、無意識のうちに口ずさんでいる歌が、二曲ある。それは「祇園小唄」と「君恋し」。なぜ、その曲なのか、皆目わからない。かなり昔からだし、「君恋し」はフランク永井が歌っているのを聴いているが、自分の胸のなかにあるのは曲調が違い、もっとテンポが速い。これについては、最近変なことに気付いた。

祇園小唄など、京都出身でもない小生がなぜ口ずさむのか、自分でもよく分からない。小生の雅号は、「湖城」であるが、その湖は琵琶湖を意味し、早い話が琵琶湖湖畔の城にちなんでつけたもの。それは会社の用事で滋賀大学にときどき行っていたおりに、経済学部を訪問すると必ず彦根城を経由して自宅に帰っていたので、最初は彦根城をイメージしていたが、膳所城でも大津城でもどうでもよくなった。

滋賀大学は経済学部と教育学部の二つの学部であるが、その二つがえらく離れている。教育学部は石山、経済学部は彦根。二つとも一日でまわるのであるが、いつもはじめは教育学部に行き、次に経済学部にまわった。その教育学部のある石山へは、自宅近くのJR芦屋から電車に乗り、京都で乗り換えて行っていたが、京都ではおりたことはない。それは仕事中ということもあるが、JR京都駅で降りても歩いていけるのは西本願寺くらいで、バスで出かけると戻ってくるのに時間がかかりすぎ、完全にサボリになってしまう。

<祇園白川にかかる巽橋>

Gionsirakawa

小生と京都の縁は、やはり兵庫に住んでいたときに休日に阪急電車で四条河原町に出て、寺などをめぐるようになってからで、その前は一度高校の修学旅行で行ったきりである。阪急電車の終点が四条河原町。阪急百貨店や高島屋もあるが、電車を降りると四条大橋の近くに出て、木屋町を北へ川沿いに進むと先斗町、歌舞練場があって、さらに行くと三条大橋のたもとに出る。三条から四条にかけての鴨川の情景が、印象に残っている。

<鴨川~三条大橋から>

Kamogawa3

しかし、無意識に「祇園小唄」や「君恋し」を歌ってしまう、小生の変な癖は、ずっと前から、ごく若い頃からであるのが少々変である。

その「祇園小唄」を聴くと、なにか、祇園新橋あたりの光景が目に浮かんでくるようだ。しかし、ほとんど自分とは無縁の世界である。

祇園新橋界隈は、一番花街としての情趣を残している場所であろう。辰巳大明神や白川にかかる巽橋、茶屋の立ち並ぶ通りに向かい、白川を背にして吉井勇の歌碑がある。その白川は小さな川だが、ちゃんと鯉も棲んでいるし、水鳥もいる。

<舞妓のだらりの帯>

Minamiza1

辰巳大明神はちょうど、道が分岐する場所にある。辰巳大明神とは、何に対して辰巳(南東)の方角にあるというのだろうか。たぶん御所であろう。東京でも、門前仲町のあたりは辰巳といい、辰己芸者などもいたのだが、それは江戸城からみて辰巳の方角を指していた。

辰巳大明神は、実は狸を祀っているそうだ。巽橋に住む悪戯好きのタヌキが巽橋を渡る人を化かして、困った人たちが神として祀ったとをいう謂れがあるそうだ。それが、当地が花街となると、いつのまにか、芸妓さん、舞妓さんら、祇園芸能に関連する人たちから親しまれ、芸道上達の神様になったとのこと。

<お茶屋が建ち並ぶ風景>

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「祇園小唄」の一番の歌詞で「月はおぼろに東山 霞む夜毎のかがり火に」とあるが、東山の山麓、円山公園の近くに、かがり火をたいた料亭か何かあった。また、円山公園は枝垂れ桜が有名であるが、毎年4月上旬には、かがり火も焚かれるそうである。それは祇園小唄を意識しているのか、まさにそんな感じであろうか。

<円山公園の夜景>

Maruyamakouen

2番の「夏は河原の夕涼み」も鴨川の河原に、川床を広げた店やそこに集まる人々が目に浮かぶようである。この鴨川は、夕暮れ時ともなると、アベックが集まり、等間隔に座ることで有名。はかったように、等間隔なのは、お互いの会話を聞かれたくないためかもしれない。アベックは、季節に関係ない。

しかし、出町柳あたりで、高野川と合流するYの字の地点から上流は加茂川で、下流が鴨川というのは、なぜだろう。あまり関係ないが、気になる。

<鴨川~四条大橋から>

Kamogawa3

<四条大橋のたもとにある南座>

Minamiza1

この「祇園小唄」の歌詞は、作家・長田幹彦が昭和3年(1928)、祇園の茶屋「吉うた」に滞在していたときに作ったものである。その後、長田幹彦の小説『絵日傘』が映画化されることになり、浅草オペラの佐々紅華が長田幹彦の詞に曲をつけたものを主題歌として、「祇園小唄」が誕生した。

その映画『祇園小唄 絵日傘 狸大尽』は、昭和5年(1930)マキノ御室が制作、監督:金森万象 出演:澤村国太郎、浅間昇子、小金井勝というが、サイレントである。しかし、舞妓姿の女優が字幕に合わせてスクリーン脇で歌うという興行形態がとられ、「月はおぼろに東山・・・」という主題歌とともに大ヒットしたという。ちなみに、澤村国太郎の長男が俳優の長門裕之、次男が俳優の津川雅彦である。

「祇園小唄」の音源は、いろいろあるが、以下は美空ひばりのもの。

祇園小唄 Gion Kouta - 美空ひばり Misora Hibari

なお、前に書いたように、変なことに気づいたというのは、「祇園小唄」も「君恋し」も昭和3年(1928)から5年(1930)にかけて成立した歌であり、どちらも佐々紅華が作曲していることである。それが、元々クラシックや洋楽ばかり聴いていた自分の潜在意識にあるのが、どうもおかしい。

二村定一が歌うオリジナルの「君恋し」が、YouTubeにあった。このような歌が懐かしいと思うのは、なぜだろうか。親も生まれたか生まれないかのころの歌であるから、じいさんの記憶でも、小生の脳に残っているのであろうか。そういえば、なくなった母方のじいさんは、大量のSPレコードを持っていた。考えすぎだろうか。

参考サイト:京都府のHP http://www.pref.kyoto.jp

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2006.07.24

京都三哲~西本願寺周辺を行く

京都には、歴史のある地名が多いが、そのなかで京の通りの名となっているものは、「丸竹夷」など歌にもなっており、親しみを感じさせるものである。しかし、由来がよく分からないものもあった。例えば、京都駅近くにある「三哲」が、小生にとっては長年の謎であった。

<京都の駅前は変わってしまったが、京都タワーは健在>

Kyototower

以前、当ブログの「数字と地名」という記事(去年の8月の記事)で、小生以下のように書いていた。

「例えば、東西の通りの名を示す、有名な「丸竹夷」は、以下の歌詞である。

丸 竹 夷 ニ 押 御池
姉 三 六角 蛸 錦
四 綾 仏 高 松 万 五条
雪駄 ちゃらちゃら 魚の棚
六条 三哲 通り過ぎ
七条 越えれば 八 九条
十条 東寺で とどめさす

まるたけ えべす に おしおいけ
あねさん ろっかく たこにしき
しあやぶったか まつまん ごじょう
せきだ ちゃらちゃら うおのたな
ろくじょう さんてつ とおりすぎ
ひっちょう こえれば はっくじょう
じゅうじょう とうじで とどめさす

筆者が覚えていたのは、上記の歌詞である。
丸とは丸太町(まるたまち)、竹とは竹屋町(たけやまち)であり、夷とは夷川(えびすがわ)のことである。
次の二は二条(にじょう)通りであるが、なぜ二条からで一条がないのかといえば、御所があるので憚ったのかもしれない。押しは押小路(おしこうじ)、御池はそのまま御池(おいけ)。
次の覚えやすい姉三六角蛸錦の姉は姉小路(あねやこうじ)、三は三条(さんじょう)、六角は六角(ろっかく)である。
この六角は佐々木六角氏の名字の起こりになった。蛸は蛸薬師(たこやくし)、錦は市場で有名な錦小路(にしきこうじ)である。
次に四は四条(しじょう)、綾は綾小路(あやのこうじ)、仏は仏光寺(ぶっこうじ)、高は高辻(たかつじ)で、松の松原(まつばら)、万の万寿寺(まんじゅうじ)に五条(ごじょう)と続く。
さらに雪駄は雪駄屋町(せきだやまち)であるが、現在は楊梅通りになっている。この辺りに来ると、ぐっと庶民的になり、魚の棚(うおのたな)に、ちゃら=鍵屋町(かぎやまち)、ちゃら=銭屋町(ぜにやまち)と軽快な金属音が響く、職人や商人の町という雰囲気である。
その次の六条(ろくじょう)、三哲(さんてつ)から、通りの順番が南北に並んでおらず、三哲は七条(ひっちょう)の次なのでは。京都駅前からバスにのると、すぐに三哲のバス停がありましたっけと思い出すほど、三哲と八条(はっちょう)は近く、どう考えても六条ではなく、七条の南にある。この三哲自体、どういういわれのある地名なのかが分からない。なお、三哲通りとは、今の塩小路のことだそうだ。」

この三哲、いかなるいわれのある地名なりやと、思い続けていた小生、案ずるより産むがやすしではないが、関西出張の際に、また京都を訪ねたのである。

京都駅からほど近い場所に、三哲のバス停がある。近所の喫茶店のマスターにお聞きすると、以前三哲町という町名(といっても家が十数軒集まったような場所)があり、それから三哲通りとなったのではないかとのこと。近くの「魚の棚」や「大工町」、「油小路」といった地名についても、その周辺は本願寺の影響のあった場所で、そのため職人や商人が住んで本願寺に物品を納めていた関係からついたものだと教えられた。

<三哲のバス停>

Santetsu

しかし、三哲とは「大工町」というような商工業に関連した地名ではない。別のいわれがあるのだろうと思いつつ、その周辺を歩き回った。すると、小さな看板があり、「梅ヶ枝の手水鉢」とある。

Umegaechouzubachi

昔はやった、「梅ヶ枝の手水鉢、たたいてお金がでるならば」の「梅ヶ枝の手水鉢」である。これは、円柱状の石の上部がくり貫かれているもの。江戸末期まで堀川通下魚棚にあったが、長らく行方不明となり、太平洋戦争中に堀川の改修で発見され、その後円山公園に一時あったが、昭和45年(1970)地元の声により、元の場所に戻すことになり、現在地に移され今日に至っている。

<「梅が枝の手水鉢」を元の場所に移した地元自治会の人々>

Chouzubachi

それはともかく、三哲に話を戻すと、喫茶店のマスターの話で、三哲も本願寺に関係あるかもしれないと思った小生、一路本願寺へ。

<西本願寺>

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本願寺と言っても、行ったのは西本願寺である。東本願寺には以前時々行って、その庭園の見事さに驚いたものだ。西本願寺は、平成の大改修ということで、工事中のところ、御影堂など以外は、工事前そのままであった。国宝の唐門は、思ったより小さかったが、華麗な彫刻が目に付く。想像上の動物であろうが、一角獣のようなものが彫られている。麒麟ではないような。獅子なども、躍動感十分だ。

<壮麗な唐門>

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<唐門の彫刻>

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西本願寺の隣というか、寺域の中というべき場所に、龍谷大学がある。綺麗な講堂に惹かれて、中をのぞくと、何と京都地名研究会が講演会をしているではないか。しかも、途中ではあるが、まだ十分聴講できるし、ついでに三哲について聞いてしまえ、とばかりに会場へ。

<龍谷大学の講堂>

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ここでの講演内容はおくとして、京都地名研究会の人に三哲について聞いたみた。すると、意外や「そんなこと、急に聞かれても、答えられますかいな」という返事。「京都の通りの名の歌にもなっている地名でっせ」という言葉を押し殺し、小生帰路についた。

悶々とした気持ちを抱きつつ、快速電車で京都から神戸へ向い、外人さんがよく泊まっている、ホリデイインホテルで一泊した。ホテルにはインターネットが使えるパソコンがあるので、英語モードでない日本語キーボードのついているパソコンを借りて「三哲」を検索してみた。

すると、何のことはない、京菓子の老舗、鼓月さんのHPに「三哲」の解説が載っているではないか。「京ことば通信」というコンテンツで、「京ことば 『さんてつ』 相馬 大」のなかに、その答えはあった。

「『いま、三哲と呼ぶこと、この通り、大宮東入る町、北側に、渋川三哲と言ひし人の屋敷ありし故』(京町鑑)とある。三哲は、その屋敷を、立願寺(りゅうがんじ)という寺にした。古地図の立願寺をみると、三哲が、見える。」とあり、渋川三哲という人が住んでいたことから、三哲という地名が出来たというのが明快に書かれている。

あちこち聞き歩いたことは、無駄ではなかった。しかし、人名から来た地名という、あっけなく分かった真相に、世の中分からないことの種は尽きず、分かってしまっても、次に疑問が出てくると思った次第。立願寺(りゅうがんじ)という寺まで建てた、渋川三哲という人とは、何者?また、調べるネタが出来たというものか。

<民家横の消火器の箱に残る「三哲町」の文字>

Santetsuchou

参考サイト: 京菓子處   鼓月

http://www.kogetsu.com 

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2006.02.21

播磨城めぐり見聞録

ご家老の言いつけにより、江戸勤番から尾張の国は知多郡成岩村にある屋敷勤めをすることになった森知安(ちゃん)でしたが、くろがねの荷運びを行うご親戚家の何とか計画書なる巻物づくりをお手伝いし、連日のお勤めに疲れ気味。本来のお勤めもこなせねばならぬし、困ったものよと思案の最中。そして、ご親戚家のご家老への報告をもって、そのお勤めからは解き放たれたのを良いしおに、かつて住んでいた摂津の国の隣、播磨の国に骨休めに参ったのでありました。しかし、町医者からは禁酒を言い渡され、新幹線なる乗り合い馬車の中でも麦で作った酒が飲めないとは、つらいなあ。

二月十八日朝。天気は晴れというより、薄曇。
では、出発は尾張の国は知多郡長尾村(武豊)より。「じぇーあーる」とか申す乗り合い馬車に乗り込んで、いざ名古屋まで。ここまでなら、知多に来てからでも何回か行ったたことがあるが、はてさて新幹線で岡山行きとな。途中、姫路で降りるのでござるな。

<JR武豊駅:1953年の13号台風の際に列車を救い殉職した駅員さんの像(銅像のように見えるが、常滑で作った陶製だそうだ)がある>

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<名古屋駅新幹線ホーム>

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姫路城は、白鷺城とも呼ばれているそうな。確かに美しい城でござるな。たしか池田様の城であった。高田浩吉と申す歌手の歌で「白鷺は 小首かしげて 水の中・・・」* というのがあったが、関係ないじゃろの。 *白鷺三味線 日本音楽著作権協会作品コード:039-0324-9

<姫路城の大手門>

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<姫路城の堀>

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うーん、天守閣に子天守がついて、これはなかなか見所の多い城でござる。

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この城の西の丸には、かつて千姫様がおいでになった、化粧櫓という櫓があった。この辺りかの・・・おや、東の空に筋のような変わった雲があるわい。

<西の丸の櫓付近から飛行機雲を見る>

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しかし、姫路ばかりには居られぬ。脇坂様の龍野城も見聞しておくとしよう。では、姫路からまた乗り合い馬車に乗るのでござるか。「じぇーあーる」姫新線とな。初めて聞くような名じゃが。姫路と播磨新宮を結んでおるとか。

<姫路駅の姫新線ホーム>

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何と? 自動扉ではなく、釦を指で押して開閉するとは、初めて見聞するな。上野の国と下野の国を結ぶ両毛線では、扉を手で開け閉めする荒技を使っていたが、これは折衷方式でござるか。龍野城へ行くには、本竜野で降りればよろしいな。

<本竜野駅>

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ここから歩いて、城下へ参ろう。途中、揖保川にかかる龍野橋という橋がござるが、手前の橋の東詰の近くには醤油作りを生業としている町人がいるとか。ヒガシマルとか申したな。また、揖保乃糸という素麺でも有名じゃ。手延べ素麺協同組合の建物もある。町人の寄り合いじゃな。そうこうするうち、龍野橋じゃ。おお、橋の上から龍野城が見える。足利将軍のころ、赤松村秀という武将が鶏籠山の山頂に築いたのにはじまるとか。赤松四代の城であったが、天正五年、織田信長様の命により豊臣秀吉様が行った播州征伐で開城したとか。また山麓にある御殿は、徳川の御世になってからのものと聞く。

<龍野橋からみる鶏籠山>

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<江戸期の龍野城(復元)>

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城下は町屋の蔵や格子戸が目立つのう。そして、寺も多い。また、幅がちと狭いが、堀であるのか、水路がめぐっておるぞ。

<城下町の風情を残す龍野の町並み>

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龍野城は御殿に上げて頂けるのか。しかも金子をとらないとは。さすが龍野は醤油や素麺で商売繁盛している土地柄であるな。かたじけない。もう、そろそろ日も傾いてきたから、茶でも一服。そうじゃ、龍野橋の東詰に、古風な茶屋があった。そこで一休みしよう。「しふぉんけーき」という南蛮渡来の菓子に「こーひー」という茶で、一組になったものを注文しよう。六百文なら安いではないか。

<龍野橋東詰の喫茶店~入り口に細かいタイルがはってある>

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<喫茶店の店内~よく見なかったがアンティーク喫茶らしい>

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では、また姫路へ戻るとするか。何、「いべんと」があるとな。落とし噺でござるか。聞きたいのはやまやまじゃが、拙者尾張より隠密で上方に来ている身。また、明日は置塩城についての学者の話があると聞いておる。それでは、明日も早いので。龍野の町よ、さらば。

明けて、二月十九日。天気曇り。
昨日、お役目に少々疲れ、骨休めに上方へ飛んだ森知安(ちゃん)、姫路城と龍野城を見聞し、龍野の茶屋で一休み。そして、姫路に戻って旅籠に泊まりました。今日は朝から、置塩城の話を聞きに姫路の北なる前之庄へ乗り合い馬車に乗っていったのでありました。

神姫バスなる小型の乗り合い馬車で来たが、山の中じゃな。拙者の親の田舎の上州黒川山中の風景にも似ておる。終点のここが前之庄か。姫路市に統合される夢前町の中心じゃな。しかし、旧道も新道も店がまばらじゃ。早く着いたので、置塩城に寄ってからとするか。ほう、地図が出ている。・・・これは、大分遠いなあ、しかも乗り合い馬車で通った場所ではないか。山城だし、簡単に登れるものでもあるまい。拙者の認識が甘かった。仕方ない、昼食を取って、喫茶店か何かで待つとしよう。

<前之庄にある町役場と講演会会場になった公民館(後ろ)>

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これは参ったな。新道沿いを見ても、喫茶店どころか、食堂もないぞ。旧道沿いは・・・おや、食堂はあるが、閉まっておる。肉屋はあるから、「ころっけ」でも食するとしよう。おお、肉屋には猪の肉もある。確か、丹波篠山に行ったときにも、猪肉が名物であった。牡丹鍋にするのであったな。旧道沿いには、見過ごしそうな路傍に石の道標があり、「たじま たんご道」と書いてある。

<松の本にある道標>

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講演会の会場は、中央公民館でござるか。結構、立派な建物でござる。受付をすませ、大ホールで開会を待つとしよう。何か、童謡のような歌を繰り返し流しているが、夢前町の歌でござるか。そうこうするうち、開会じゃ。最初、置塩城の発掘の様子をスライド上映でござるか。その後に、置塩城発掘調査の指導者であった、おおざかの大学院名誉教授、村田修三殿の講演でござるな。

<置塩城発掘調査結果の講演会の様子>

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<置塩城発掘調査結果を説明する村田修三・大阪大学大学院名誉教授>

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なるほど、置塩城を築城した赤松氏は、この山中に播磨国守護として公家や寺家も滞在できるような、居住性の高い都市空間を作ろうとしたのでござるか。それで、山城なのに、「麓に居館、山には詰めの城」で山城のほうは防御性を重視、居住性はあまり問わないという、従来の常識とはかけ離れているのでござるな。それにしても、大規模で石垣や瓦葺きの建物なども立派な山城であった様子じゃ。この城には庭園もあったのが、発掘で明らかになっている。しかし、生活物資を運ぶのは大変であったろう。

帰りはまた乗り合い馬車に乗らねばならぬ。拙者と同様に停車場で待つ御仁、神戸の住人の方でござるか。拙者が昔住んでいた摂津の国の、しかもお近くの方ではないか。拙者より少し年上の五十二、三歳の方とお見受けしたが、いづれ同好の士でござる。乗り合い馬車のなかでも、いろいろ話をした。置塩城だけでなく、白旗城や高取城など山城をいろいろまわっているそうな。置塩城の「ぱんふれっと」を下さるのか。これは、かたじけない。また、山城は危険な場所がいろいろあり、一人で行かないほうがよい、置塩城であれば教育委員会に電話すれば団体でのぼれるように手配してくれる云々、ご忠言重ねてかたじけない。

<バス車中から撮った置塩城址のある城山>

okijiojyo

神戸の御仁とは姫路で別れ、拙者は「じぇーあーる」新幹線で名古屋へ向い、武豊線に乗るのでござる。短い間であったが、いろいろ見聞をいたした。知多郡長尾村(武豊)に戻り、また明日からはお勤めじゃ。

<JR武豊駅>

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2005.09.03

地獄に仏

六道絵というものがある。六道、すなわち地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人道、天道(天上道)という、地獄から天道にいたる各界の姿を描き出したもので、仏教画のひとつである。
では六道を形成する各界とは何か。地獄道は、文字通り阿鼻叫喚の世界であり、血の池や針の山があるだけでなく、無間地獄のような苦しみの絶えることがない世界、餓鬼道は食べ物を食べようにもすぐに炎に変わり、食べられないとか、そこの住人は手足が極端に細く腹が異様に大きい餓鬼(実際に餓死した人の姿をうつしたものか)などとなっている世界。畜生道は牛馬のような家畜として人からこき使われたり、猟師に追われたり、動物同士でも弱肉強食で気の休まることのない世界。阿修羅道は年中戦争をしている、不穏な世界。人道は通常の人間界。天道は天人が住むという苦の少ない世界で、極楽と人間界の中間のような世界か。

<六道絵(江戸時代の模写)~滋賀県大津市下坂本の聖衆来迎寺にて>
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このうち、天道に生きる者でさえ、いつかは寿命がつき、六道のどこかに輪廻しなければならないという悩みを抱えており、六道の全ての者が救済を必要とするのである。京都にある「六道の辻」の六道とは、この六道である。六道のどこかに、輪廻転生するという考え方を仏教は持っている。そして、六道輪廻の衆生は、何かしら苦しみを持っているが、それを救うのが地蔵菩薩であるという。そういえば、よく六地蔵が寺などにあるが、この六道にいる衆生の救済をすることを示している。地蔵が手に持っている錫丈は、六道を廻るためで、お遍路さんを思わせるいでたちである。

<神戸 須磨寺の六地蔵(後姿)~現代作>
suma-jizou

六道といっても、今のような豊かで平和な世の中に生きる身からは、地獄や餓鬼道などは現実感がないが、人の世のはかなさ、辛さ、苦しさは古来、詩や歌にもなって、我々の共感するところとなっている。
例えば、もう30年も前になるが、高校時代の漢文の時間に漢詩で「碩鼠」というのを習ったが、その時は変なタイトルの漢詩というのと、「せきそおー」と語尾を伸ばす漢文教師の吟じ方が印象に残っただけであった。しかし、その漢詩については、年を経て内容が実感をもってよく分かるようになった。

碩鼠碩鼠 無食我黍
三歳貫女 莫我肯顧
逝將去女 適彼樂土
樂土樂土 爰得我所

碩鼠碩鼠 無食我麥
三歳貫女 莫我肯德
逝將去女 適彼樂國
樂國樂國 爰得我直

碩鼠碩鼠 無食我苗
三歳貫女 莫我肯勞
逝將去女 適彼樂郊
樂郊樂郊 誰之永號

(書き下し)     

碩鼠  碩鼠
我が黍を  食う なかれ
三歳 汝に つかうれども
我を 肯えて顧るなし
逝きて 将に 汝を 去り
彼の 楽土に 適(ゆ)かんとす
楽土 楽土
ここに 我が所を 得ん

碩鼠  碩鼠
我が麦を 食う なかれ
三歳 汝に つかうれども
我を 肯えてめぐむなし
逝きて 将に 汝を 去り
彼の 楽国に 適(ゆ)かんとす
楽国 楽国 
ここに 我が直きを 得ん

碩鼠  碩鼠
我が苗を 食う なかれ
三歳 汝に つかうれども
我を 肯えていつくしむなし
逝きて 将に 汝を 去り
彼の 楽郊に 適(ゆ)かんとす
楽郊 楽郊
誰か ゆきて とこしなへに 號(さけ)ばん

これは詩経にある、古代中国農民の悲哀に満ちた詩であり、碩鼠は大きな鼠、実は自分の仕える領主あるいは地主を示し、長年仕えてきたのに、俺たちを気にかけてくれることもなく、黍や麦などの年貢を取る一方である。もう、重税を課すのは止めてくれ、お前を見放して楽土に行くぞ。そこで悠悠自適に暮らすのだ。というような意味である。
古代では、碩鼠は王であり、貴族であり、また中世では碩鼠は在地領主や守護、地頭であり、近世から近代では大名であっただろう。現代の碩鼠は、大企業だろうか。今井正監督の「武士道残酷物語」という映画を見たことがあるが、島原の乱で主君の失態の責任をかぶって切腹した武士の話から始まって、主人公の歴代の先祖が「武士道」精神の犠牲になっていく様子を描いていた。支配者はさまざまに形を変えてきたが、支配するものと支配されるもの、抑圧するものとされるものの構造は、時代を通じて変わっていないのかもしれない。これこそ、まさに無間地獄といったら、大袈裟だろうか。
六道輪廻というが、古代から時代は下って、宋の時代になっても、同じような詩が書かれている。
これは江蘇民歌(中国江蘇地方の民謡)となり、第2次大戦直後に「一江春水向東流」という映画の挿入曲となったため、原文とは大分違っていると思われるが、「月兒彎彎照九洲」というのがある。

月兒彎彎照九洲 
幾家歓楽幾家愁
幾家高楼飲美酒
幾家流落在野呀嗎在街頭
依呀呀得喂
聲聲叫不平
何時才能消我的那心頭恨

この歌詞は、月は遍く全国を照らすのに、贅沢をして楽しんでいる家もあれば、貧窮して路頭に迷っている家もある、全く世の中は不公平だというような意味である。これも、田畑を失い、路頭に迷った貧窮農民の恨みの歌であり、中国革命前夜で脚色されているとはいえ、その不平不満、思うにまかせない憤りは、いつの世も変わらないといえるだろう。まさに、仏教の六道世界の苦しみは、代替わりしても絶えることがない。

前述の通り、この六道の世界に救いの手を差し伸べる仏は、地蔵菩薩である。実は地蔵菩薩は、釈迦如来が入滅した後、後継の弥勒菩薩が如来として登場してくるまでの56億7千万年もの無仏の期間、中継ぎをするのである。よく墓地や寺の境内にある六地蔵(延命地蔵ほか)は、六道輪廻の衆生を救うという地蔵の本質を具現化したものであり、煩悩深い、俗世に未練たっぷりな普通の人々にとって、地蔵菩薩はありがたい存在である。
そして、釈迦も弥勒も、民衆にとっては近寄りがたい、遠い世界の仏というイメージがあるが、56億7千万年ものロングリリーフをする地蔵菩薩は実にフレンドリーである。信仰の対象としては最高であるが、釈迦如来や大日如来たち、如来という仏は、余りに偉過ぎる。
かといって明王はというと、容姿からしてちょっと異様で、一面二臂(顔が一つで腕が二本)と人間そっくりで顔が怖いだけの不動明王は別として、一面六臂で三つ目の愛染明王、三面六臂の金剛夜叉明王、三面八臂の軍茶利明王や降三世明王は人間離れしており、大威徳明王にいたっては六面六臂六足で牛にまたがっているという奇妙な姿である。孔雀明王は穏やかな表情をしているし、姿も一面四臂で比較的人間に近いが、孔雀に乗れる身軽さは何だろうと思ってしまう。
菩薩は憤怒の形相をしている馬頭観音を除けば、弥勒や文殊菩薩、虚空蔵菩薩、聖観音、如意輪観音など、皆穏やかな顔をしており、特に地蔵菩薩は僧形で一番人間らしい。地獄からも救ってくれるという切実な願望を託する仏ということで、見た目だけではないが、地蔵菩薩が民衆から慕われるのがよく分かる。
また地蔵とは読んで字の如く、大地の恵みをつかさどる仏である。それゆえ、古代から人口の大多数を占めていた農民の生活感覚に密着していたともいえるであろう。その姿は一般的には剃髪の僧形で、左手に宝珠を持ち、大抵右手には錫杖を持っている。立像が多いが、坐像、半跏像もある。野の仏として、石仏となっているのは、やはり地蔵が多い。

<聖衆来迎寺の地蔵菩薩立像>
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よく絵画で描かれている地蔵は、賽の河原で赤子を救っている姿で、その手に持った錫杖に赤子がよじ登っているような絵柄が多い。
ところが、穏やかなはずの地蔵が、いかめしく甲冑を身にまとい、馬にまたがった勝軍地蔵というのがあり、戦国武将が剃髪し僧形になったのを思わせる。延命地蔵とか、子育地蔵なら、違和感はないのだが、勝軍地蔵は地蔵の本来の姿と矛盾しているのではと思えるが、多面性を持っているということか。
また、地蔵は閻魔の本地仏という。本地仏という考え方自体、本地垂迹説という、神道と仏教を融合させる日本独自のものである。一方で閻魔として人を裁き、他方で地蔵として救済するというのが一見矛盾しているように思うが、地獄の管理者として、閻魔と地蔵には表裏一体の関係があると昔の人は考えていたのであろうか。

<明和4年(1767)造立の地蔵~千葉市花見川区武石にて>
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