カテゴリー「東海の古寺と史跡」の18件の記事

2009.05.02

徳川家康と知多半島(その34:「三州錯乱」と家康の自立)

今川義元の死後、知多半島で今川方となっていた諸将は織田方になり、松平元康、のちの徳川家康も大高城から岡崎に戻って、

駿河衆、岡崎之城ヲ明て退キケレバ、其時、捨城ナラバ拾ハント仰有テ、城へ移ラせ給ふ。」

と三河物語にあるように、いったん大樹寺に入って、岡崎城から今川の将兵が退いたのを見極めて岡崎城入りした。その動きは、非常に鮮やかであり、後の短期間での三河統一や、織田信長との同盟による勢力拡大の起点となった。それからは、岡崎を拠点として、松平元康は自立の道を歩むことになる。

<岡崎の大樹寺>

Daijyuji1

以前述べたように、「従来は、松平元康、のちの徳川家康は、今川氏真に父の仇を討つように進言し、自身は織田・水野の軍勢と各地で戦った。しかし、今川氏真は暗愚で政治、軍事に向いていなかったため、一向に尾張に攻め込もうとしなかった、そうするうち、水野信元の仲介で織田信長と手を結ぶことが提案され、永禄5年(1562)になって、それにしたがって織田・松平の同盟(清洲同盟)を結んだ、という説が根強く、江戸時代から支持されてきた」。

しかし、桶狭間合戦の時点で、今川家の家督は今川氏真に譲られており、その当主氏真は、桶狭間合戦で功績のあった家臣に対し、恩賞を与え、あるいは戦死した家臣の子には、所領を安堵するなどして、領国経営を進める努力をしてきたのである。たしかに、今川氏真は父義元の復仇のための兵を尾張に向けなかったが、それは松平元康自身が張本人で引き起こされた三河での今川からの離脱の動き、いわゆる「三州錯乱」や北からの武田の脅威に対抗する措置を行っていたため、そのような「余裕」がなかったというのが実態であった。

「三州錯乱」の張本人は、松平元康である。西三河を手始めに、今川方にいったんなっていた地域の豪族に戦いを挑み、あちこちに兵を進めているのである。その張本人が、今川氏真に親の仇を討つように進言するだろうか。

どうも、今川氏真という人は、徳川家康と武田信玄に領土を蚕食されて、領国を持ちこたえきれず、縁戚の後北条氏を頼って出奔し、京都四条あたりにくすぶっていたのを豊臣秀吉に拾われ、最終的に自分を駿府から追い出した徳川家康に仕えて、子孫が高家となったという晩年の姿や、蹴鞠ばかり得意で、政治に見向きもしない暗愚な武将という俗説から、非常に低い評価をされることが多い。しかし、縁戚の後北条氏を頼って出奔するまで、駿府から掛川に居城を移したりしながら、曲がりなりにも十年持ちこたえたのである。

前述のように、松平元康、のちの徳川家康は、進言したかどうかは別にしても、今川氏真がいつまでたっても、父義元の仇を討とうともせず、そうこうするうちに水野信元が織田信長との同盟の仲介をすることを提案してきたので、それにのって仕方なしに織田信長と同盟したというのは、どうであろうか。

<岡崎にある徳川家康の産土六所神社>

Rokusho2

これはあまりに、家康の側に都合の良い説明である。実際は、松平元康は早くから今川氏の支配の呪縛から脱し、自立しようとしていたが、まだ今川の勢力も根強く、一方領地を接する織田方の水野氏とは争わねばならない、それで後顧の憂いを絶って、今川と本格的に対峙しようとしたのではないか。

それをそのまま書いてしまうと、江戸時代に定着した「武士は二君にまみえず」という忠君思想とはかけ離れたものになってしまうため、後の道徳観念にあうように、水野信元の仲介でやむなくという筋書きにしたと思われる。水野信元の側では、松平元康と石ヶ瀬川の河原などで争うのはやめたいと思っていたかもしれないが、わざわざ織田・松平同盟の仲介の労をとることは積極的には考えていなかったと思われる。

むしろ、織田信長の側は、今川氏との桶狭間合戦の後は、矛先を美濃に向けようとしていたため、安心して美濃攻めをするためには、松平を使って東側の今川の動きを封じ込めたかったのである。その織田と松平の利害が一致したために、おそらく水野信元は織田信長の命令で仲介をしたに過ぎない。

<武豊線から見た現在の石ヶ瀬川>

Ishigase

もとを正せば、松平元康は、三河の豪族松平氏の「十八松平」といわれるうちの、宗家でもない安祥松平家の出身で、たまたま祖父清康が今川・織田の勢力を腹背にうけつつも、三河一円に勢力を伸ばし、織田信秀を攻めるまでにいたったものの、守山崩れで亡くなった後、跡を継いだ広忠が、今川の力を頼って家を存続させたのであって、譜代の今川家臣でもない。今川の強い統制下にあったのは、本来の領国である駿河、せいぜい遠江であって、三河や尾張の一部では独立の小豪族たちを服属させているのに過ぎなかった。

<岡崎城>

Okazakijyo2

「三州錯乱」と同時に、遠江でも今川方の部将が次々と今川の勢力から離脱していく「遠州忩劇」という事態が進行していった。

これは、「浜松御在城記」によれば、以下の通りである。

一、遠州引間ノ城主飯尾豊前守ハ駿州今川ノ先鉾(鋒)トシテ、尾州織田軍勢卜所々ニテ合戦、然ニ永禄三年(五月脱)十九日、義元、尾州桶狭間ニテ討死ノ後、氏真、亡父ノ弔合戦之心掛モ無之、朝夕酒宴遊興二長ラルゝ故、権現様、永禄四年ヨリ信長公卜御和睦被成候、遠州引間ノ城主飯尾豊前守・同国井伊谷ノ城主井伊肥後守・同国嵩山ノ城主奥村修理ヲ始、大方氏真ヲ叛キ、信長公及権現様江内通仕候、此由氏真聞及、永禄五年二月ハ井伊谷、同年四月ハ引間、同七月ハ嵩山、此三城へ駿河ヨリ人数ヲ差向被攻候、井伊谷・嵩山ハ落去、引間ノ城ニテハ、寄手ノ大将新野左馬助討死、城内ニモ、飯尾同心渥美・森川・内田等ノ歴々討死仕候得共、猶堅固二守二依テ、氏真、調略ヲ以テ、致和談候、此以後永禄七甲子、氏真三州江発向、権現様卜所々ニテ攻合、同国一ノ宮ヨリ人数ヲ引取被申候刻、飯尾ハ権現様江御味方ノ然相見候ニツキ、氏真ヨリ遠州二俣ノ城主松井左衛門、豊前守姉婿ナルニヨリ、渠ヲ媒トシテ縁二取クミ、駿府江呼寄、永禄八年極月廿日、駿府ニノ丸飯尾屋敷江押詰、被誅之、然共引間城ハ豊前守家臣江間安芸守・同加賀守持固候故、翌年二月、権現様より御慇之御書被下候由、

というものである。

この文献は「浜松市史」に収められているもので、オリジナルのものは浜松藩士永井随庵が延宝末から天和年間に著したという。さすがに江戸時代の書物だけに、家康中心の書き方であるが、すでに永禄4年(1561)には織田信長と和睦していたこと、永禄5年(1562)には今川方であった井伊、奥村、飯尾が離反したため、今川氏真が兵をつかわしてこれを攻めたこと、うち飯尾(連龍)は引間(曳馬)城に籠って城はなかなか落ちず、今川氏真が謀略をもって討ったことが分かる。そして、飯尾連龍などの諸将の背後には、家康や信玄の工作もあり、飯尾連龍は最後のころは家康と内通していたらしい。

<浜松城~前身は曳馬城>

Hamamatsujo

桶狭間合戦以降の松平元康の動きについて、簡単にまとめると、以下のようになる。

永禄3年(1560)5月~

5月19日、今川義元、桶狭間合戦で戦死。松平元康は5月20日大高城を脱し、5月20日岡崎城に戻り、今川氏の支配下から独立。早くも額田郡、碧海郡といった西三河では、吉良氏などを攻め、織田方であった水野信元とも石ヶ瀬川にて合戦。

永禄4年(1561)

松平元康、織田信長とこの頃和睦か。松平元康は、東三河にも進出。東三河の国衆である菅沼氏、西郷氏を服属させる。また西三河でも、9月13日に行われた東条城をめぐる、元三河守護吉良氏との藤波畷の闘いに勝利するなどして、吉良氏の当主吉良義昭をくだす。

永禄5年(1562)

1月15日 松平元康、清州に赴き、織田信長と会盟(「清州同盟」)。

2月4日 三河西郡城の鵜殿長照を攻め、その二子を捕える。鵜殿長照の二人の子と築山殿、嫡子信康、亀姫を交換。

遠江でも、今川家臣団の動揺が広がり、井伊、天野、飯尾といった諸将が離反。これに対し、今川氏真が兵をさし向ける。

6月(異説あり)、今川氏、松平氏は、牛久保城をめぐり、大規模な戦闘を行う。今川勢は吉田城・牛久保城の拠点に陣取るとともに、今川氏真自ら兵を率いて牛久保に着陣。松平勢の一宮砦を大軍で包囲するも、松平元康は、小勢で今川の攻囲を突破(「一宮の後詰」)。

永禄6年(1563)

3月2日 嫡子信康、織田信長の次女五徳と婚約。 

7月6日 松平元康の今川義元から与えられた偏諱である「元」の字を返上、家康と改名。

10月下旬 三河一向一揆勃発。本證寺(安城市野寺町)、上宮寺(岡崎市上佐々木町)、勝鬘寺(岡崎市針崎町)の、三河三ヶ寺と、本宗寺および桜井松平氏、大草松平氏、吉良氏、荒川氏などが反家康勢力となった。自らの一族家臣も含めた一揆勢との戦いは、半年に及んだ。そして、永禄7年(1564)2月13日に上宮寺の一揆が岡崎城に攻撃をしかけたのを最後として、一揆勢からの攻勢はなくなり、一揆との戦いに勝利。その一揆勢との戦いに勝った余勢をかって、6月には東三河の今川方の拠点であった吉田城(豊橋)を攻略。

永禄7年(1564)

曳馬城主飯尾連龍、今川氏真の謀略で、駿府にて誅せられる。

<一向一揆の拠点本證寺>

Honnshouji

永禄9年(1566)

この頃までに家康は、三河一国を統一。

12月19日、松平から徳川に「復姓」することを勅許にて認められ、朝廷から従五位下、三河守の叙任を受ける。得川という名字は、新田義重の四男義季が上野国新田郡得川郷(現在の群馬県太田市徳川町)を継承して得川と名乗ったのがはじめで、義季の嫡子頼氏は世良田郷を継承して世良田を名乗り、義季の庶長子頼有が得川郷を継ぎ、また得川を名乗った、親子二代しか続かなかったものである。どうも、家康は源姓が欲しかったらしく、吉良氏から系図を借りたりして研究し、わざわざ子孫がいないと思われる得川という家を見つけてきて、自分の先祖で時宗の僧だったという、松平親氏が新田源氏の出であるという設定にした。松平家に入り婿ではいった親氏の所縁により、先祖の姓に戻すという趣旨であるが、松平氏が賀茂姓であることは明らかであり、いささか強引なこじつけといわざるをえない。

永禄11年(1568)

今川義元存命中は、甲斐・駿河・相模の三国同盟を結んで、駿河に兵を動かすことなどなかった武田信玄であるが、急速な家康の台頭、今川領の蚕食をみて、今川氏真と手を切り、逆に徳川家康と結んで駿河を攻略する方向に出る。

武田信玄の駿河侵攻は、12月12日。その三日後には徳川家康は三河から遠江に攻め入った。武田信玄に駿河今川館を追われた今川氏真は、掛川城に逃げる。12月27日には、徳川勢が掛川城を包囲、今川氏真は半年ほど籠城する。

<掛川城>

Kakegawa11

永禄12年(1569)

掛川城を救援するための北条氏康の出動あるも、5月17日についに、氏真は家臣の助命と引き換えに掛川城を開場。それ以降、今川氏真は小田原北条氏を頼り、出奔。今川残存勢力にさかんに文書を発給するが、やがて武田勢などに切り崩され、家臣団も崩壊。

こうして、家康がまだ竹千代といっていた幼少期から、家康や岡崎衆をがんじがらめにして服属させてきた今川氏という大きな存在は、戦国大名としては滅亡した。しかし、かわって織田信長という存在が、徳川家康の前にクローズアップされることになる。

それに関しては、また次回。

参考文献:

『浜松市史』 浜松市

『徳川氏の研究』 小和田哲男編 吉川弘文館 (1983)

『駿府の大御所徳川家康』 小和田哲男 静岡新聞社 (2007) 

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2008.12.30

徳川家康と知多半島(番外:布土城跡再訪)

今年も押し詰まり、帰省の前に、布土城跡をもう一度訪問しようと思い、行ってきた。前にも一度見に行ったのだが、どうにもわからず、せめて土塁の端までも残っていないか再度確認に行ったのである。

思えば、知多半島に20何年ぶりかに住むようになって3年もたったが、いまだに下の方は武豊から美浜町の一部しか分かっていない。河和には何度か行ったけれど、内海や南知多町には足が向かないのである。

師崎には会社の忘年会で行ったけれど、昼間自分で車を運転して行ったことは、26年くらい前である。師崎の台地の上から、下界の夜景を見たが、どの明かりが灯台で、どれが日間賀島か、篠島か、さっぱり分かっていないのである。

さて、布土城跡は、愛知県知多郡美浜町大字布土字明山 にあるのだが、そこには城跡の案内板も何もない。近くに神明神社があり、そのちょうど西側が城跡だという。

<布土の神明神社>

Sinmeijinnjya

神明神社は国道方面から名鉄の線路をくぐり、心月斎にむかう途中にある。鳥居は低地にあるが、社殿は少し高い場所にある。

例の布土城跡があると言われているのは、神明神社の西側、道を隔てた畑だそうだが、あまりに狭く感じられ、城跡があるのにふさわしい場所だろうかと思った。もちろん、現在建っている家の場所には昔は人家はなかっただろうし、その家の敷地を含めても少し小さめである。

この城の主は、水野忠分。水野忠政の子で、信元の弟にあたる。明確な事績としては、天文6年(1537年)生まれで、天正6年12月8日(1579年1月14日)に織田信長の有岡城攻めに従軍して討死にした人である。天文年間にこの城を築き、南にいる戸田氏などの守りとしたらしい。

水野忠政の六男か七男とはいえ、水野金吾と言われ、緒川城周辺を守った人物の城にしてはスケールが小さい。もっとも、出城のようなものであるから、簡単な作事ですませ、場所もせまかったのかもしれない。戦国時代の城で、小さいものは50m四方くらいで収まってしまうものもある。しかし、それは地侍の城だ。

<神明神社の西側、城跡の比定地>

Futojyou1

おそらく、昔の絵図をみるに、台地ののぼり端のような場所を、南側を削って切り岸で登りにくくし、東西と北を堀で区画し、一重か二重の土塁で囲った単郭の居館形式の城であったのではないだろうか。そうすると、神明神社の西側の坂の途中の台地中腹の場所でも城としては適当な場所であったのだろう。

念のため、もう少し北へ台地をのぼってみた。すると、広々としすぎて、防御の作事をしようと思うと大工事になりそうである。

<北側から見下ろしたところ>

Futojyo2

結局、先ほどの場所でよかったと思い、また下っていった。道をしばらくおりていくと、以下のような場所に出た。見られるように、木立のあるところは神明神社のある林である。

<神明神社の西側田圃のある場所~ここが城跡中心部か>

Futojyou3

なんとなく雰囲気があるし、南側が一段下がって、切岸を設けたという地形のとおりである。ここが城の中心部ではないだろうか。最初見た場所は、この場所より70mくらい東側である。そこも城跡の一部であろうが、中心はこちらのような気がする。

結局、土塁のひとつも見つからず、一日が終わった。

しかし、なぜかくも城跡が跡形もないのであろうか。緒川城も土塁が一辺残っているのみである。

<緒川城跡の土塁>

Ogawajyositakara

*切岸は、城の防御のため、斜面を切り立った崖のように削り、敵が容易にのぼれないようにした作事

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2008.11.27

徳川家康と知多半島(番外:曹洞宗心月斎の晋山式)

先日、くしくも心月斎にて参列した晋山式。初めての経験で、お寺のなかで、ずっと座っていたのも、久しぶりである。

晋山式とは、そのお寺が新しい住職を迎える、いわば住職交代の儀式である。それは、大体以下のとおりで、稚児行列はオプションかもしれない。なお、禅宗では、和尚さんを普段方丈にいるので方丈さんというが、新命方丈さんは新しく任命された和尚さんのことである。

<お稚児さんは本堂にも入ってくる>

Chigo

・三門法語  新命方丈さんが三門に到着、香をおたきになり、ご自身の見識を述べる

・大擂上殿  太鼓がとどろく中を本堂に入る

・仏殿法語  ご本尊様に対する新任のご挨拶
・土地堂法語 仏法の守り神である招宝七郎大権修理菩薩様の御前で、このお寺の繁栄と檀信徒の家内安全、子孫長久祈る

・祖堂法語 達磨大師へ法語
・開山堂法語 高祖道元禅師様・太祖瑩山禅師様・このお寺の御開山様・歴代住職へ法語
・拠室(こしつ) 新命方丈さんは初めてご自身の方丈の間に入る
・視篆(じてん) お寺に伝わる数々の印鑑を確かめる儀式

・空座問訊(くうざもんじん)  

・新命上殿  新命方丈さん、太鼓がとどろく中を本堂へ

・伝衣搭著(でんえとうじゃく)  御開山以来伝わる衣を着る

・新命登座  新命方丈さんは須弥壇上に登座

・拈香 

・ 問訊  問答に先立ち、問答の開始をお願いするお拝を行う

・白槌(びゃくつい)  白槌師さんが槌砧を打って問答開始を宣言

・垂語(すいご)   新命方丈さんは話のきっかけとなる言葉を述べて大衆を誘い、ここに大問答が開始される 

・問答

・拈香・結語

問答は、少し面白いものがあったのだが、 ある住職によれば、「禅問答等の重要性は勿論ですが、行持をご祖師方と同じく行うことができるということが何よりの幸せ」ということだそうだ。

(上記は曹洞宗のHPを参考に書いているので、当日概ねその通りであったように記憶するが、一部変わっていたかもしれない。当日は晋山開堂以外に、法戦式もあった)

<おでこにしるしを書いて無病息災>

Chigo2

なお、法戦式は、文字通り、問答を戦わせるものである。法戦式を取り仕切るのは、首座(しょそ)の役割で、首座とは修行僧の先頭に立つ役職である。首座は、和尚さんに代わって、問答をリードする。

和尚さんから、杖を受け取り、それで問答を展開していくのだが、今回首座の役を務めた僧は、音楽大学でチェロの演奏をしたいたという若いお坊さんである。音楽大学を出て、さらに仏教系の大学に入ったというのだから、たいしたもの。今でも、チェロなどを演奏しているのだろうか。それは、さておき。

これは、お釈迦様が霊鷲山においてお弟子の迦葉尊者にご自分の席を半分ゆずって説法を許されたという故事にならったものだそうだ。

(その問答の様子は、上記をクリックすれば、聞くことができます。)

参考サイト:

曹洞禅ネット http://www.sotozen-net.or.jp/

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2008.11.24

徳川家康と知多半島(その33:水野忠分と心月斎)

去る11月2日(日)、愛知県知多郡美浜町布土にある梨渓山心月斎という、曹洞宗の寺院の晋山式に行ってきた。

<晋山式が執り行われた心月斎>

Shingetsusai1

それは、岩滑城主、中山勝時ご子孫のSさんから誘われたからであるが、この心月斎の先代、当代住職はSさんのご親戚である。晋山式とは、新しい住職にかわるお披露目の式のようなものであるが、新しい住職とは、先代住職の息子さんで、副住職をつとめてこられた人である。小生の家も曹洞宗であるが、菩提寺は現住所と遠く離れ、今まであまりこういう行事にでることもなかった。  

当方、こういう式に参加するのも初めてなら、心月斎のお堂の中に入るのも今回が初めてである。もちろん、心月斎という寺については、知多に来てから知っているし、何度か来たことがある。この心月斎は、「花の寺」というだけに、季節の草花がいろいろ咲いている。お堂の前の鐘楼の東側に階段があって、裏山のような場所に上ることができる。そこは、公園のようになっていて、階段を上がったところに、蓮池があって、ぐるりとまわってあるくときに、いろいろな石造物や草花を見ることが出来る。以前来たときは、その裏山の植物がいろいろ植えられている公園のような場所を散策したりしたが、蓮池でハグロトンボを見かけて写真を撮った。

<ハグロトンボ>

hagurotonbo.

この心月斎は、天文15年(1546)に、緒川水野氏一族の水野忠分が開基となって創建された。開山は、緒川から招かれたという大良喜歓大和尚。戦国時代、緒川水野氏は知多半島を制圧すべく、一族を知多半島の要所に配置したが、河和の戸田氏に対する備えとして、この布土に水野忠分を領主として配置したようである。 水野忠分は、水野忠政の六男、あるいは七男という。名前は「ただちか」と読むが、「ただわけ」と書いている本もある。水野忠分は、水野忠政の第何子か不明なのは、水野近守を忠政の子とするかどうか、説が分かれるためである。

水野近守が拠ったとされる、刈谷古城は、文明8年(1476)頃には築かれたらしい。通説では、緒川水野氏の祖である水野貞守が刈谷に進出したことになっており、その貞守は長享元年(1487)になくなっている。万里集九が書いた『梅花無尽蔵』という詩文集にも、文明17年(1485)9月の記事として「出刈谷城三里余」とあり、水野貞守存命中に水野氏が刈谷に城を構えていたことが知られる。その刈谷古城の築城が文明8年(1476)頃という訳は、三河守護細川氏と前守護一色氏の戦いが、その当時あり、そのころ水野氏は一色氏について知多半島から刈谷に進出したというのである。

その水野近守は、連歌を嗜んだ風流人であったようで、連歌師の柴屋軒宗長と親交があり、永正17年(1520)、宗長の師宗祇の句集「老葉」に注釈を加えた「老葉註」を与えられている。さらに、「宗長手記」から水野近守は「藤九郎」という通称であることや、大永2年(1522)の時点で和泉守の官途名を名乗っていたことが分かっている。

一方、その当時、水野忠政自身は、緒川にいたはずで、天文2年(1533)に今の亀城公園のところに刈谷城を築いた後、刈谷に移ったという。水野近守が拠った刈谷古城の南400mほど行った場所に、楞厳寺(りょうごんじ)という曹洞宗の寺がある。これは水野忠政が刈谷城を築き、刈谷に移住した際、この寺に帰信し、水野家の菩提寺になった。その楞厳寺に、水野忠政が残した享禄元年(1528)の年月の入った文書があるが、署名は妙茂となっている。

水野右衛門大夫妙茂寄進状

為月江道光毎日霊供□・・・□ 江末代
 渡申田之事
 合弐貫六百文目此内
  壱貫文目坪上松御会下之前次郎四郎散田之内
  壱貫六百文目坪江口御会下之前治郎五郎散田之内
  此田石米弐石六斗ニ延米在之
右於下地者子々孫々違乱煩不可
申上候、為其居印判所末代渡
進上如件
  享禄元年戊子拾二月廿六日 右衛門大夫 妙茂(花押・朱印)
楞厳寺 
   永諗東堂様

<楞厳寺本堂>
ryogonji

水野近守は忠政の文書が発給される前に、大永5年(1525)に楞厳寺に土地の寄進状を出しているが、その文書の体裁と、3年後忠政が出した文書の体裁が同じであり、花押の上に朱印を押し、その印判が瓜二つである。ということは、水野近守は水野氏一族ではあるが、水野忠政の子ではなく、刈谷における水野氏統治の前任者というような人物であった。大永5年(1525)から享禄元年(1528)の間で、刈谷の統治権力が、水野近守から水野妙茂(忠政)に移ったとみることができる。さらに、水野忠政は、築城後は本拠地を緒川から刈谷に移しており、徳川家康生母於大は刈谷城から岡崎の松平広忠に嫁している。

その水野忠政は、天文12年(1543)に刈谷でなくなっている。跡を継いだ水野信元は、今川との関係を断ち、織田方の旗幟を鮮明として、織田の勢力をバックにして知多半島を南進していった。それは、天文12年(1543)で、早くも阿久比町宮津の宮津城にいた新海淳尚を下し、その出城で榊原主殿が守る岩滑城を落とすと、中山勝時を城主としたのに始まり、時宗の僧といわれる榎本了圓がまもる成岩城を落とし、そのあとに梶川五左衛門を入れて城将とした。

また、さらに南の現在の武豊町にあった長尾城を攻め、城主岩田安弘をくだしている。岩田氏は、『知多郡史』によれば、室町時代初期、枳豆志庄は醍醐三宝院領となり、岩田氏がその管理者となったといい、醍醐三宝院に関連した武士であって、その三宝院領の管理のために京から下り、やがて土着して三宝院領を押領したとも考えられる。また室町時代になると、大野庄に入った一色氏が勢力をふるうと、対抗上岩田氏も武雄神社の南、金下(かなげ)の地に城を築いた。さらに、富貴にある富貴城も戸田法雲が築城したようにいわれているが、もともと岩田氏が長尾城の支城として活用していた。戸田法雲は、その岩田氏が衰退したために、富貴に進出、城を改修したものである。

もともと水野氏は、知多半島の要衝をおさえるべく、常滑、大高に一族を配していた。常滑水野氏しかり、大高水野氏しかりである。たとえば、常滑水野氏は緒川水野氏出身の水野忠綱を初代として、歴代当主が監物を名乗る家であったが、もともとは、大野や内海に勢力を張った佐治氏との対抗上配されたのであるが、伊勢との交易のために常滑に港を開き、経済力をつけていった。また、和歌などの風流をたしなみ、織田信長や徳川家康とも書状のやり取りを行う立場にあった。

知多半島の要衝に一族を配していった水野氏であるが、水野忠分もまたその一人といえるであろう。この水野忠分については、天文6年(1537年)生まれで、天正6年12月8日(1579年1月14日)に織田信長の有岡城攻めに従軍して討死にしたこと以外、明確な事績が伝わっていない。しかし、さまざまな歴史的文書や『信長公記』の記述から、以下のことが分かっている。また、於大の方の弟であるから、徳川家康にとっては叔父にあたる。

(1)名前 :

通称は、藤二郎(藤次郎、藤治郎ともかく)、あるいは藤十郎。 忠分は「ただちか」と読む。法名は、盛龍院殿心得全了大居士。

(2)本貫地 :

 終生、緒川であった(刈谷を本貫とした信元とは違う)。

(3)家族関係 :

 忠政の子、信元の弟(六男、七男、八男の諸説あり)。妻は大野の佐治為貞の娘。子としては後に緒川高藪城主となった分長や心月斎第三世寛秀和尚がいる。

(4)居城: 

 布土城(愛知県知多郡美浜町大字布土字明山)

  参考:「∞ヘロン『水野氏ルーツ採訪記』」ここをクリックしてください 縄張図等あり

(5)武功:

 天文23年(1554年)の村木砦攻めを織田信長とともに行ったらしい。天正6年12月(1579年1月)有岡城攻めで先鋒。討死。

<心月斎本堂>

Shingetsusai3

また、水野氏の勢力下には、曹洞宗の水野氏系の寺院を建立していったのであるが、この心月斎もその一つといえるだろう。たとえば、水野氏の本拠、緒川には水野忠政の墓のある乾坤院がある。その緒川の北の村木にも曹洞宗の寺院が、なくなった臨江寺も含めて五つもあった。常滑には常滑水野氏が創建した天澤院、大高には大高水野氏が開いた春江院があった。そういう寺院は、民衆の信仰の場であるとともに、同じ曹洞宗を信じる水野氏と、精神的に結合し、その統治を隅々までいきわたらせるためのものでもあった。

河和の戸田氏が水野氏の勢いに屈して、水野信元との和議によって河和を残すことを図って、水野氏の姻戚、一族に収まると、布土の戦略的な価値はなくなったといえよう。布土に城を構えた水野忠分がなくなったあと、跡継ぎの分長は水野忠重に従ったが、小牧長久手の合戦など数々の武功をあげ、慶長6年(1601)緒川一万石、高藪城の城主となった。

しかし、心月斎は徳川家康のいとこにあたる寛秀全廓和尚の代以降も、連綿として存続し、地域の大寺として今日に至っている。

<心月斎の山門>

Shingetsusai2

参考文献:

『戦国歴史年表』 木原克之編 美浜町教育委員会 (2002)

『刈谷市史』 刈谷市 (1989)

*長いので、晋山式の様子は、別の記事にしました 2008.11.27

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2008.08.25

徳川家康と知多半島(その32:今川義元討死後の知多半島)

永禄3年(1560)5月19日桶狭間合戦で、今川義元が討死した後、今川の勢力は三河や知多半島から後退することになった。それは、知多半島では今の知多市にあった寺本城の城主であった花井氏が、今川方から離反し、織田方についたことに象徴される。

寺本城主は、花井播磨守と嫡男勘八郎であったが、桶狭間合戦に先立つ天正23年(1554)1月の村木砦の戦いの後に、織田信長に攻められている。この村木砦の戦いの頃には、織田信秀がなくなり、織田家中が相続で揺れる間隙をついて、今川の勢力は、西三河から知多半島を席巻していた。

この頃、「知多郡中の諸士織田家を捨て今川の幕下となる」(『峴山日記』)といわれ、今川方の勢力が知多郡を侵食していた。前記の花井氏は、寺本だけでなく、元々は今の大府市の吉川城にいたようで、その吉川城周辺も領有していた。鳴海城主の山口左馬助教継は、織田信秀の死後、家督相続をめぐって織田家中が揺れる中、今川義元の誘いにより織田家を離反、今川に走った。天文22年(1553)には、山口教継は笠寺砦、教継の子九郎二郎教吉が鳴海城を守備しており、山口教継父子は、こうして尾張南部に今川の勢力をくさびのように打ち込む先兵となり、大高、沓掛の両城を調略した。大高城は山口左馬助教継に永禄2年(1559)に落とされ、城主だった大高水野氏が追われ、今川方の鵜殿長照が城代となっている。

<大高城>

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それが、桶狭間合戦後となると、逆に今まで今川方についていた勢力が、織田方となり、今川方は勢力後退を余儀なくされた。寺本の花井氏も、織田方についた、そして花井勘八郎は、元亀2年(1571)の長島合戦には織田方である佐治信方に従って参陣し、戦功をあげている。

このように、その時々の強い勢力に従い、自分の家を守るのが戦国のならいであった。それは、もちろん知多郡だけではなく、三河においても同様であった。

刈谷の水野氏は、元は緒川から進出したもので、緒川水野氏本流そのものと言ってよい。水野貞守の代に、元刈谷に砦か、館のようなかたちで、刈谷古城を築き、その後忠政の代に今の亀城公園の場所に新城を築いたとされる。

刈谷古城は、文明8年(1476)頃には築かれたらしい。万里集九が書いた『梅花無尽蔵』という詩文集に文明17年(1485)9月の記事として「出刈谷城三里余」とあり、水野氏が刈谷に城を構えていたことが知られる。また、大永年間(1521~1528)、刈谷古城には和泉守の官途名を名乗る水野近守という人物(それは大高城主水野大膳亮忠守の父和泉守近守であったとされる)がいたことが発給文書などから分かっており、連歌師の柴屋軒宗長もたびたび、その館(刈谷古城)を訪れている。

<刈谷古城跡~右側の藪、道路には昔水路があった>

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<刈谷古城跡の一部か、台地端の畑地に残る土塁状のもの>

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亀城公園の場所の刈谷城は、天文2年(1533)に築かれたが、永禄3年(1560)、桶狭間の合戦で敗北し、鳴海城を開城して引き揚げる途中の今川軍の岡部元信によって焼かれてしまい、再建されたのは慶長5年(1600)の水野忠重が城主となった頃である。

その刈谷城は、松井宗信の子、宗恒に宛てた、以下の今川氏真判物写によって、一時今川方が入城していたことが分かる。

父左衛門佐宗信及度々抽軍忠之事

一 東取合之刻、於当国興国寺口今沢、自身砕手、親類・与力・被官数多討死、無比類動之事

一 参州入国以来、於田原城際、味方雖令敗軍相支、敵城内江押籠、随分之者四人討捕之事

一 松平蔵人・織田備後令同意、大平・作岡・和田彼三城就取立之、医王山堅固爾相拘、其以後於小豆坂、駿・遠・三人数及一戦相退之故、敵慕之処、宗信数度相返条、無比類之事

一 苅屋入城之砌、尾州衆出張、雖覆通路取切之処、直馳入、其以後度々及一戦、同心・親類・被官随分之者、数多討死粉骨之事

一 吉良於西条、味方令敗軍之刻、宗信相返敵追籠、依其防戦、同心両人・益田兄弟四人、遂討死之事

一 大給筋動之時、天野安芸・同小四郎其外手負大切処、宗信相支、無相違引取之旨、無比類之事

一 去五月十九日、天沢寺殿尾州於鳴海一戦、味方失勝利処、父宗信敵及度々追払、数十人手負仕出、雖相与之不叶、同心・親類・被官数人、宗信一所爾討死、誠後代之亀鏡、無比類之事

右、度々忠節感閲也、然間、苅屋在城以後弐万疋、近年万疋、彼三万疋、以蔵入雖出置之、依今度忠節、為彼三万疋之改替、遠州蒲東方同名内膳亮、令扶助参拾貫文、其外相定引物之、参百拾八貫文余蔵入分、令扶助訖、此外於増分出来者、令所務随其可勤相当之役、殊於彼地先祖古山城討死之由申之間、彼地之事於子孫不可有相違、然者内膳公文等問答之未進事、可為左右方間、於向後此未進分一切不可有其綺、并長田・鶴見弐ケ村事、依訴訟今度相改、可令代官、但高辻弐百五貫文之外参拾貫者、如先代官時、為定納之余分令扶助、何茂知行分為不入上者、彼地事可為同前、弥守此旨、可専戦功之状如件


   永禄三庚申年 

      十二月二日
                         氏真(花押)

                  松井八郎殿

松井宗信は今川の重臣で、上記文書でも小豆坂合戦で、織田方の追撃を殿軍としてかわし、数々の戦いで戦功をあげたが、永禄3年(1560)の桶狭間合戦では「天沢寺殿尾州於鳴海一戦、味方失勝利処、父宗信敵及度々追払、数十人手負仕出、雖相与之不叶」とあるように、度々敵を追い払い、敵を良く防いだが、一族郎党と共に討死してしまったことが分かる。

同時に、時期は不明であるが、松井宗信が尾張衆、つまり織田方が出張り、通路をさえぎられ、占領されていたにも関わらず、これを打ち破って刈谷城に入城し、それ以後度々合戦していたことがわかる。記載が小豆坂の合戦の後、西条吉良の攻略戦の前であるので、時系列的に書かれているなら、それは天文17年(1548)の小豆坂合戦以降になる。西条吉良はたびたび今川に反抗しているので時期の特定が難しいが、小豆坂合戦に近い年代では天文18年(1549)の吉良義安が捕らえられた際の合戦か。大給筋の動きというのが大給松平親乗の大給城を大給松平当主の忠茂が攻め、今川義元に感状をもらったのが、天文21年(1552)であるから、多分そうなのであろう。つまり、天文18年(1549)年頃に、一旦今川方は刈谷城に入り、織田方と小競り合いを繰り広げていた、だから、天文23年(1554)の村木砦の戦いに際して、今川方が村木砦を築いていても、水野信元は手出しができなかったのではないか。後段に、「苅屋在城之以後」とあり、これが正しければ、一時刈谷城に松井宗信が在城していたということになる。そして、桶狭間合戦の折には、松井宗信は今川義元本隊の近くにあって、桶狭間山に義元本隊が陣取った際には高根山、幕山にあって、先鋒の中核をなしていた。

【亀城公園となっている刈谷城跡】

<刈谷城本丸跡・中央>
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<刈谷城本丸跡・表門付近>
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<刈谷城二の丸址から本丸跡へ>
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今川方に入城された刈谷城での松井宗信の立場は、城番という立場であろう。岡崎城の城主松平元康が今川の人質となり、今川の武将となって、岡崎城は実質的に今川の城となったのと状況はやや異なるが、天文18年(1549)年頃からの一定期間、刈谷城は今川の統制下に置かれていたものと推察する。

つまり、その当時は水野氏の本拠は刈谷、緒川とはいえ、刈谷城が今川に乗っ取られている以上、刈谷城には今川方の兵も詰めていたと見るべきで、桶狭間合戦当時、水野の兵力の主力は緒川城とその周辺に置かれていたものと思われる。実際、水野信元は、その当時刈谷にあって何かをしたという事績は寡聞にして、刈谷・緒川両城を支配したはずの水野信元の三河支配に関する発給文書が永禄3年(1560)以前はない。逆に、大府の延命寺の文書で、天文21年(1552)の水野信元朱印状(小塚弥助から延命寺への土地売券で、水野信元の裏書・朱印がある)があるが、そこには水野信元が「緒川御城殿様」と呼ばれている。それらは、その当時の刈谷がどういう状態であったかを知る状況証拠になる。

そして、永禄3年(1560)5月19日、桶狭間合戦で、織田方は今川義元を討取り、勝利をおさめた。今川方は桶狭間の合戦場から敗走するとともに、合戦終結直後から鳴海城以外の占領した城からは撤退する。大高城の松平元康、後の徳川家康も、翌日には引き揚げた。

当時刈谷城にも、今川方が詰めていたか、少なくとも刈谷周辺に今川方の軍勢がいたと思われるが、彼らも同じように引き揚げたであろう。ところが、その刈谷城に対して、鳴海城を開城し、開城と引き換えにと織田信長と交渉して貰った主君、今川義元の首を奉じて駿府に帰還する途中の岡部元信は攻撃をしかけ、放火をし、謀略をもって、水野信近を討取っている。これは、水野信元が今川に通じ、味方のような顔をしていたのに、敗走する今川勢に追い討ちをかけるか何かしたためではないかと思われる。それを知って、岡部元信は遺恨に思い、水野信近を討ったのではないか。

<刈谷水野氏の墓のある楞厳寺>

Ryogonji

桶狭間合戦後、「「捨城ナラバ拾ハン」との名セリフで、松平元康、後の徳川家康は、岡崎城に戻った。それも、大樹寺に一旦入って、今川勢が岡崎城から出て行ったことを確認し、城内、城下の様子を見極めてからの慎重さであった。松平元康(徳川家康)が岡崎城に復帰したことを、岡崎衆はもちろん、旧主を迎える城下の人々も喜んだに違いない。

同じ頃、刈谷城を焼かれ、弟信近を討たれた水野信元は、刈谷と周辺を固めることに腐心していたに違いない。今川方についていた知多郡、西三河の諸将も、織田方に復し、今度は彼らが対決する相手としての今川方の先鋒は岡崎に戻った松平元康(徳川家康)ということになった。

実際、桶狭間合戦直後の永禄元年(1557)6月18日には、今川方の急先鋒である松平元康(徳川家康)と水野信元は石ヶ瀬で戦っているのである。

<現在の石ヶ瀬川>

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この桶狭間合戦直後の石ヶ瀬合戦であるが、松平元康(徳川家康)は純粋に今川方として水野信元を攻めたのであろうか。これは桶狭間合戦前であれば、今川義元か今川氏真が命令したかもしれない。桶狭間合戦後、領国経営で手一杯で織田方とのリベンジの戦いができなかった今川氏真が、対水野のみ、松平元康(徳川家康)に下命したとは考えにくい。むしろ、石ヶ瀬合戦の二回目以降は、松平元康自身の思惑が多分に働いていると考えるべきかもしれない。

二回目の戦いでは、6月18日に石ヶ瀬で戦った後、翌19日には松平元康は刈谷城外まで出張って、刈谷十八町畷で水野勢と戦い、炎暑により両軍引き揚げている。この引き揚げは、なにか裏がありそうである。さらに永禄4年(1561)2月には、大府の横根城と石ヶ瀬で三度松平・水野両軍が戦ったと、「武徳編年集成」では書かれている。

しかし、これは本当のところはどうなのか。小生、もっと前に松平元康は今川氏真から離反したと思っている。その永禄4年(1561)の石ヶ瀬合戦は、あるいはアリバイ的に戦われたのではないだろうか。そして、水野信元を仲介に松平元康は織田信長と同盟しようとしたのではないか。それは双方にとって、メリットがあった訳である。つまり、水野氏にとっては、東からの脅威が少なくなり、領地経営により力をいれることができる、松平氏にとっては、同様に西側の脅威が少なくなり、岡崎領内の経営をすすめることができ、今川から独立して、あわよくば東側を切り取り領地拡大の戦いをしかけることができるといった思惑が働いたのであろう。

<岡崎城>

Okazakijyo4

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2008.07.20

徳川家康と知多半島(番外:続・村木砦から石ヶ瀬周辺を行く)

前回書いた村木砦だが、一般に村木砦というが、規模からすると村木城でもおかしくないと思う。村木砦跡の上にできた国道を走っていても、大府方面からは三井石油のスタンドあたりから、しばらく行って、いりみ貝最中を売っている和菓子屋さんの店舗前あたりまでが砦跡のはずなので、100mは走ることになる。それも砦の端であり、中心部はその倍くらいの長さがあったはずで、東西約150m、南北約240mといわれているので結構な大きさである。

<砦の北側には入江が入り込んでいた>

Murakitoride1

<上記を武豊線(鉄橋の上)から撮ったもの>

Murakitoride3

砦跡の北方に位置する三井石油の横の道は、砦を取り巻く海の入江があったと思われる場所を通っているが、その辺りからみると砦の内部はやや高くなっている。海面が今の陸地の一部まで進んでいた当時は、砦の北側は泥水が浸った入江に面した場所で、石ヶ瀬川は北西はるかな今の大府高校あたりで海に注いでいたという。今は砦跡北側の道沿いに家が建ち並んで、道路に車をとめて写真を写すのも近隣の方に迷惑をかけてしまう状況であるが、武豊線の車内からみると、かなり砦の内部が高くなっているのが分かる。

<武豊線から村木砦中心部を見たところ>

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なぜ、こんなことを書いているかといえば、中世では物資の輸送が馬よりも、船で行われるケースが多く、それは街道が未整備であったり、馬自体も軍馬を除けば余りいなかったのかもしれず、そういう状況になったと思われる。そして、城は水辺に、しかも周囲より一段高い水辺の台地につくられることが多かった。当村木砦に近いところでは、横根城は境川流域で、周囲より一段高い台地のうえにあった。それは、敵が船で城までたどり着いても、高みから矢を射掛けたり、切岸で城の郭まで登り難くし、容易に落とせないようにしたものと思われる。

<村木神社ののぼり口>

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なお、明治、大正時代の地図を見ると、砦跡には人家がない。戦後まもなくの頃の航空写真をみても同様で、砦跡には人家がみられず、砦の西側に人家が集まっている。今は国道が通り、砦跡に該当する場所でも人家が建っているが、あるいは昔の人は合戦があった場所を忌避して、家を建てなかったのかもしれない。合戦の激戦地であった、村木砦南側には八剣神社が織田方の当事者で、当地出身の清水家重・権之助兄弟によって建てられ、西側国道から分岐する堀底を利用したと思われる道の分岐点には地蔵がある。もっとも、いろんな場所に地蔵があるので、合戦の戦死者供養かどうかは不明である。

<砦の西側の堀跡という国道から分岐する道(左)>

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村木砦の合戦時に、織田信長が陣をおいた村木神社は、村木の集落の西側の台地中腹のやや高くなった場所にある。ここも、明治・大正の地図では、村木の集落を見下ろす、人家がない場所であった。その境内は広く、地方都市の大きな神社くらいの規模があり、社殿前には五百人程度は楽に収容できる。それもあるだろうが、織田信長の実家織田弾正忠家は、津島の交易を背景に発展してきた家であるがゆえ、氏神と仰いで津島神社を信仰してきたため、そこに陣をおくことで氏神の力を借りて合戦に勝つとの決意を示したのだろう。

これは創建が不明ではあるが、延徳3年(1491)社殿再建の棟札があるため、戦国時代のはじめから存在した神社であることは間違いない。もともと祭神が須佐之男命という津島神社であった。一方、今の森岡保育園のある場所にあった八幡神社は、永禄4年(1561)に水野信元の家臣清水八右衛門家重が創建した。この八幡神社は学校用地を提供するために、大正2年(1913)に津島神社に合祀され、津島神社は村木神社と改名したのであった。

その村木神社には、現在でも須佐之男命を祭神とする津島神社と同じ天王祭があり、茅の輪くぐりの神事が執り行われる。

<村木神社社殿前に整列>

Chinowa2

先日、村木神社の茅の輪くぐりを見に行った。天王祭では茅の輪くぐり、そのほか小正月には左義長があり、おまんとという駆け馬の神事など、地域の行事は村木神社を中心にまわっている感がある。

さて、茅の輪くぐりは須佐之男命と関係があるそうだ。茅の輪を一回目左回りに、二回目は右回り、三回目はまた左回りと∞の字のようにぐるぐる回る。

<神主さんが祝詞をあげる>

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<玉串奉奠>

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祝詞、玉串奉奠の後、神主さんたちが茅の輪をくぐった。その後、巫女姿の小さい女の子たちがつづく。 その女の子たちの親御さんと思うが、お母さんたちが見守っている。

<茅の輪をくぐる>

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<最初は左回り>

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<ぐるぐる回る、目が回る?> 

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<まわり終えると拝殿へ>

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<いきなり拝殿にのぼらず、ここでも左回り>

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<拝殿のなかに入る>

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なお、このあと巫女さん姿の女の子たちの舞いもあるのだが、神殿の内部の撮影は遠慮した。

実は、合祀された八幡神社の旧在地(現森岡保育園)には、金鶏山古墳という小さな円墳があったが、これを学校用地整理の都合上、昭和5年(1930)に在郷軍人会が取り払ったところ、石室があり、提瓶5個・長頸壺・平瓶・有蓋高坏各1個出土した。そうした古墳もある場所ということで、村木という地名は郷村の支配者である「村君」が転訛したものという説がある。つまり、早くから開けていて、それなりの支配者が古代にはいたということか。

<村木神社に近い曹洞宗妙法寺>

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その村木は緒川のすぐ北で、五つある寺が水野氏と同じ曹洞宗、緒川を本拠としてきた水野氏の勢力下であるが、なぜか今川方の砦が構築された。それは前回述べたように、臨江庵と船着場を押さえた今川方は、三河から当地に物資や将兵を運び込み、地元の民衆も抱きこんで砦を作ったということだろうが、水野配下でありながら織田方の清水兄弟のような人物と別の勢力があったということになる。それになぜ刈谷、緒川の水野氏は、村木砦の造営を妨害しなかったのか。どうも、水野信元が村木砦の合戦の時点で、日和見だったと考えるしかない。

しかし、一方では永禄元年(1557)6月には、今川方の急先鋒である松平元康(徳川家康)と水野信元は石ヶ瀬で戦っているのである。永禄元年(1557)1月に今川義元の命で初陣を飾った松平元康は2月5日、今川方を離れて織田方に寝返った寺部城の鈴木重辰を攻めて、4月末には勝利をおさめている。その後まもなく石ヶ瀬合戦となるが、これは松平元康が岡崎勢を率いて知立を通り、沓掛の東で境川を渡り、緒川に向かう途中の石ヶ瀬で松平・水野両軍が対峙した。

<現在の石ヶ瀬川>

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桶狭間合戦の直後の永禄3年(1560)6月、一旦岡崎に帰った松平元康は再び水野信元と石ヶ瀬で戦っている。この時点では今川義元は戦死し、水野信元は再び織田方の旗幟を鮮明にしたはずである。では、松平元康、後の徳川家康は純粋に今川方として水野信元を攻めたのであろうか。今川氏真が命令したかもしれないが、松平元康自身の思惑が多分に働いている可能性もある。その辺りが、どうも釈然としない。二回目の戦いでは、6月18日に石ヶ瀬で戦った後、翌19日には松平元康は刈谷城外まで出張って、刈谷十八町畷で水野勢と戦い、炎暑により両軍引き揚げている。この引き揚げは、なにか裏がありそうである。さらに永禄4年(1561)2月には、石ヶ瀬で三度松平・水野両軍が戦ったと、「武徳編年集成」では書かれている。しかし、これは本当のところはどうなのか。小生、もっと前に松平元康は今川氏真から離反したと思っている。その永禄4年(1561)の石ヶ瀬合戦は、あるいはアリバイ的に戦われたのではないだろうか。そして、水野信元を仲介に松平元康は織田信長と同盟しようとしたのではないか。それは双方にとって、メリットがあった訳である。

その辺りは、歴史の謎かもしれない。

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2008.07.09

徳川家康と知多半島(番外:村木砦から石ヶ瀬周辺を行く)

最近、急激に仕事が忙しくなり、休みもおちおち休んでいられないのだが、気分転換しないと潰れてしまう。そこで、以前夕方にトンボ帰りするような格好で行った村木砦の周辺を再度まわってみることにした。

いつも武豊線に乗ると大府と尾張森岡の間は、じっと窓から景色を見ているが、それは村木砦跡と石ヶ瀬合戦場跡があるからである。村木砦跡は、一般に八剣神社であると思われているが、八剣神社は砦の端のほうに建っているのである。神社の東側、JR武豊線の向こう側も砦跡である。本丸に相当する部分は神社の北側の住宅地の中となり、遺構は残っていない。実は神社のなかにも遺構らしきものは残っておらず、幸いにして神社の西側の堀跡が道となっているので、砦の規模は分かる。

<村木砦跡に建つ八剣神社>

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村木砦を舞台とした戦いがあったのは、天文23年(1554)のこと。桶狭間合戦の6年前であった。村木砦をどのようにして作ったかについては興味深いが、今川方が三河方面から連れてきた人間以外に、当地の住民が今川方に協力したか、かり出されたことは間違いなかろう。砦の建物を作るための資材は、重原城から水運も使って運ばれたようである。今川が据えた砦の守将は、東條松平氏の松平甚太郎義春であった。

なお、八剣神社は村木砦の戦いの前にはなく、織田方で当地出身の清水家重・権之助兄弟がこの戦いで戦死した将兵の霊を鎮めるために神社を建てたものである。

<村木砦跡の碑>

Murakitoride1

村木砦の北東には、船着場があった。これは、この土地が水上交通、あるいはそれを利用した交易の拠点であったことを示している。村木砦は東西約150m、南北約240mの馬蹄形をなし、東側は浜に面して南北は直線的で、西側が丸く空堀がめぐっていた。村木砦の大手は、東側にあり、衣ヶ浦に面していた。つまり、村木砦は、海が正面で船で出入していたのである。

<村木砦位置推定図>

Muraki 

「於大の方と水野氏」 東浦町(2006)より

上の図は東浦町が発行した「於大の方と水野氏」という冊子に記載されていたものであるが、このほうが八剣神社の境内にある案内板の図より正確と思われる。図でうすい赤色の部分は、土の盛り上がっていた部分で、うす紫色が堀、もしくは低地、東側の衣ヶ浦と書かれた水色の部分が海、青い線は海岸線である。武豊線の敷設工事や県道新設工事ですっかり砦跡から土取りがされており、今は海抜5mほどの台地であるが、往時は海抜10m以上の丘のような場所であったという。城域は、うす紫色とうすい赤色の部分で、黄緑色の部分は城外となる。船着場のある砦北東側の南には細長い堀があるが、あるいはここに船を引き揚げて、船隠しとしたものかもしれない。

実際に村木が船津であったのは、近年まで尾張森岡駅北方の踏切を東に進んだ場所に、「土場」という船着場があったことでも分かる。これは五ヶ村川に合流し、衣ヶ浦に通じる水路の船着場であり、そこから伊勢参りの船が出て、亀崎の北浦で大船に乗換えて伊勢まで行ったそうだ。自動車のない昔は水上交通が重視され、「土場」には倉庫もあったという。現在よりも潮位が高かった中世では水路などではなく、海が砦のすぐそばまで迫っていた。だから渡し船程度の小船の船着場ではなく、伊勢湾まで運航できるような船も使う船津であったのだろう。村木砦の東側は今では水田が広がるが、当時は海であり、村木砦の北には入江が入り込み、南も海が少し東から入り込み、今の八剣神社の南は大堀とであった。

<八剣神社の鳥居~この鳥居下は大堀であった>

Yatsurugi

当地の村木神社という神社は、元は建速須佐男命を祭神とする津島社であり、大正2年(1913)に、水野信元の家臣という清水家重が創建した八幡社と合祀され、社名を村木神社と改めたものである。津島神社は、周知の通り商売の神様であり、川祭でも有名であるが、村木が知多半島北部の船津であったことと関係あるかもしれない。

村木砦ができる前から、当地には船着場があって、対岸の三河との間で船の行き来があった。その船着場の管理は、臨江庵という寺院が行っていた。臨江庵、後に月照山臨江寺と号した寺は、村木砦の西側の段上という場所にあったが、昭和57年(1982)に廃寺となった。今は臨江寺児童公園という、児童公園というには結構広い公園になっているが、もともと境内は362坪(約1,195平米)あった。ここは、「皇風学校」という学校が、明治5年(1872)から10年ほどあった場所でもある。その一角に昭和57年に移築された「村木大地蔵」願王寺のお堂が建っており、臨江寺跡という大きな石碑が傍らにある。

<臨江庵跡の一角に建つ村木大地蔵の堂>

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この臨江庵は、永禄6年(1563)の創建、開山は月山言公というが、実際には緒川の乾坤院の「血脈衆」に、文明11年(1479)の記載がある。すなわち室町時代には存在していたらしく、同時期の阿弥陀如来画像を所蔵していた。その阿弥陀如来画像は、着衣に細かい截金文様が施されている入魂の作であり、15世紀のものだそうだ。なお、段上という地名の通りの海辺の高台になっていた場所で、北東に村木砦と隣接する船着場があって、臨江庵は船の運航を監視できる位置にあった。寺の名前も入江を臨む寺からきているのは明白で、それも単に入り江に接しているだけでなく、船津を管理して利用税を取り扱う役所も兼ねていたと言われる。当時、僧侶は読み書き、そろばんができることから、そういう事務業務に使われることが多く、一見仏教とは関係ない商業的な実務についていたりする。千葉県の船橋でも、そうした業務を行っていたという律宗の僧侶のものといわれる、大きな墓塔がある。

<村木の市街地~道が細く湾曲している>

Muraki_2

村木砦の戦いの前に、今川方が当地に砦を築こうとしたとき、当然ながら臨江庵は真っ先に押さえられたと思われる。この寺と船着場を押さえた今川方は、三河から当地に物資や将兵を運び込み、地元の民衆も抱きこんで砦を作ったのだろう。そして、大浜街道を北へ進めば、知多半島西岸の大高にいたる。つまり知多半島の東西の要所を押さえて、尾張織田領の南側から楔を打ち込むことを、今川義元は考えていたのかもしれない。そして、織田信秀によって、今川氏豊が那古野城を追われた失地回復をはかろうとしたのであろう。

臨江寺跡の近くには、大悲山開眼寺という同じくらいの規模の寺がある。こちらは天正年間の創建である。元は慈眼庵という名前だったようだ。

<開眼寺>

Kaiganji

この開眼寺も、なくなった臨江寺も、その他村木の三つの寺(海印寺、極楽寺、妙法寺)も、皆曹洞宗で、緒川の乾坤院の末寺である。つまり、緒川水野氏が戦略上、緒川の北にあたる村木に寺を建て、いざというときに兵員が駐留し、城代わりに使えるようにしたのではないかと思われる。

村木砦跡は、現在も「取手」という名前で分かりやすい。そういう名前のバス停もある。国道沿いの「いりみ貝最中」を売っている和菓子屋さんと三井石油のガソリンスタンドの間、およびその国道の反対側の一角までが砦の縄張りに入っていたようである。国道も東側のJR武豊線も、村木砦の上を通過しているわけだ。

<「取手」という名前のバス停~この辺が砦の搦手である>

Toride

「いりみ貝もなか」の店の国道を挟んだ向かい側にある地蔵のある辺りから始まる道も、空堀の跡だそうだ。実は、その湾曲した道を北に向かってしばらく進んだあたりには、村木砦の合戦の後に、織田方の手によって、今川方に加担した村役人たちが処刑されたという場所がある。実際に処刑を担当させられたのは、村木出身の清水兄弟で、いくら敵方になったとはいえ土地の者を殺すにしのびなかったという。そこは、水野さんという方が居住する民家になっており、大きな椿がある。村木砦の合戦の碑もあるのだが、どうしてもそこに見に行ったり、カメラを向ける気になれない。首塚とかいっても、信憑性がない場所も多いが、当地の伝承はそうではなく、かなりリアルである。本当にそうなのだろう。

「いりみ最中」の国道の向こう側の地蔵より南側であるが、大きな木が茂っている場所があり、小生こちらのほうが空堀の跡らしいと思う。地蔵を起点にした路地も空堀の一部であろうが、後に堀底が道になり、通行のためにくぼみが埋められ、さらに住宅が建ったりしたあとでは道筋も少し変わるであろう。

<空堀跡の雰囲気を残す場所>

Karaborika

国道に戻り、北へしばらく行くと、とたんに人家がなくなる。三井石油でない、もうひとつのガソリンスタンドの先に、刈谷方面に分岐する箇所があり、右折してその方向にいけば武豊線の踏切などあって、やがて大府市街に入る。途中、川を渡るが、それが石ヶ瀬川である。

石ヶ瀬河畔では、永禄元年(1558)~同4年(1561)に織田・今川両軍、すなわち水野信元と松平元康(徳川家康)が合戦したという。その当時、村木と大府の間は入江で、石ヶ瀬川は今の大府高校南辺りで海に注いでいた。今よりも川幅も広かったであろうし、当然ながら護岸工事などしていなかったので、今の石ヶ瀬川からは当時の様子がすぐには想像できないが、広い河原に両軍が集結し、渡河すると同時に戦端が開かれたのであろうか。

<石ヶ瀬川>

Ishigase_2

この石ヶ瀬合戦で、甥の松平元康(徳川家康)の攻撃を受け、たまらないと思った水野信元が、松平との和睦を織田信長に進言したという。織田・徳川の同盟関係は、水野信元の保身から端を発し、やがて天下を統一する原動力になっていった。

<石ヶ瀬川~橋の上から>

Ishigase2

この石ヶ瀬川を越えると、大府の市街に入る。大府市街にはいり、しばらく行くと、水野氏や梶川五左衛門が寄進をしたという天台宗の大きな寺、延命寺がある。そこから更に東へ進み、境川までいくと、その河畔に南北朝時代に築城され、梶川五左衛門が修復して、後に合戦の舞台ともなったという横根城の城跡がある。城跡といっても、きれいさっぱり何も残っていない。ただ境川河畔に細長い台地で城を作るのには好立地の場所で、城があったであろうという雰囲気はある。岩滑城主となった中山氏の元の所領であった北尾にも「城畑」という地名があり、城があったという伝承が残っている。この境川流域には、そうした城郭がいくつもあったようだ。その件は、ともかく、松平元康と水野信元の石ヶ瀬での戦いについて、今後述べていくことにする。

<延命寺>

Enmeiji

参考文献:

「改訂 東浦歴史散歩」 梶川武著 2006年四訂版 東浦町教育委員会発行

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2008.07.01

徳川家康と知多半島(その31:大脇曹源寺と周辺の水野氏勢力)

用事で土曜日に関東に帰り、翌日曜日に愛知に戻ってくると、武豊線の車窓から見える光景は相変わらずであるが、よくみると田んぼのなかに、小さな白いものが動いている。

白鷺である。白鷺といえば、高田浩吉の白鷺三味線を思い出し、最近の流行についていけない小生は、いささか年取ったのであろうか。それはともかくとして、田んぼのなかには、白鷺以外にも雉もいる。雉のほうは、体が黒いのであまり目立たないが、白鷺は緑のなかに白なので、よく目だつ。しかし、目立とうが目立つまいが、白鷺は田の虫かタニシか何かを捕食しているだけだ。

<半田市内を流れる川にも白鷺が>

Goudogawa

白鷺を食べるような動物がいれば、目立つのは困るだろう。幸いそういう食物連鎖はないので、目立っても問題ない。

桶狭間合戦前の緒川・刈谷水野氏は、おそらく目立つまいとして必死だったのかもしれない。目立つ行動をとれば、今川氏の大軍の前に風前の灯になっていたであろう。そうならないために、水野氏は織田方でありながら今川氏にも密かに通じ、今川義元から書状まで貰っているのは前回述べた通りである。

その水野氏は、もともと愛知県瀬戸市あたりにいて、貞守といわれる人物の頃に、小川(緒川)の古城を拠点に、一円を支配するに至った。それは南朝について守護土岐氏に攻められて滅んだ小河氏の末裔で、故地に戻ったというが、実際は小河氏滅亡後に、その領地であった緒川の地に入り込んだもので、元々いた小河氏とは別系統であると思われる。当然、小河氏と同じ系統とすれば、中世の権威の考え方からは支配に都合がよかったので、そう名乗りはしたが、源氏である小河氏と別系統であることは、江戸時代の尾張藩などの識者の知るところで、彼らは水野氏の藤原姓の系図の存在を知っていた。実際、水野氏では、通称藤四郎、藤九郎などを名乗っている者が目立つ。源氏であれば、源四郎とかを名乗ったであろう。

<緒川城跡>

Ogawajyo

水野氏が知多半島に来たころの事跡は、以下の通りである。

延文5年 (1360) 小河正房、土岐氏に滅ぼされる
室町前期 (1350頃) 緒川の高薮城を竹内直道が築城し、以降竹内氏が治めるも、5代直玄は水野氏の臣下となる。
文明7年 (1475) 初代緒川城主水野貞守、乾坤院を創建する。
延徳3年(1491)水野為妙、万里集九より「養月斎」の号を贈られる。
明応8年(1499)歌人飛鳥井雅康、緒川城主水野為則(貞守の嫡男という)を訪ね、祝い歌「緒川」を詠む。
永正6年(1509)緒川城主水野為則没する。法名は前野州太守一初全妙禅定門。
大永2年(1522)連歌師柴屋軒宗長、刈谷水野和泉守(近守、大高城主水野大膳の父か)宿所で連歌を興行

<水野氏ゆかりの乾坤院>

Kenkonin

『寛政重修諸家譜』の水野貞守の説明では、「正房七代の蔵人貞守の代になって、旧臣牛田某と再興を図り、永見某、中山某、久松某等と君臣の義を結び、小河の旧塁修復し、三河国の刈谷、熊村、大日、大高、常滑の諸士を配下に治め、やがて刈谷に城を築いて移る」とある。

しかし、実際は瀬戸から来た水野氏が在地諸豪族を配下に取り込み、知多半島緒川周辺から刈谷へ勢力を伸ばしていったわけである。

桶狭間には、後に岩滑城主となった中山氏がいたが、中山重時が重原城で戦死し、その子の勝時は桶狭間合戦の頃には岩滑に入っていた。また今の大府市横根の横根城にいた梶川五左衛門も成岩城に移ったというから、桶狭間合戦のころは、桶狭間近辺の水野氏配下の武将たちはどこかに行っていた。

<刈谷古城>

Kariyakojyo2

桶狭間合戦の当時、既に水野氏も緒川から刈谷へ拠点を移していた。周辺の武将たちも岩滑、成岩など拠点をかえていた。その間隙をついて、今川義元は西三河から知多半島緒川の北の村木(尾張森岡)にまで進出し、さらには寺本(知多市)の花井氏を傘下におさめるなど、織田方であった地域もドミノ倒しのように今川方にかえていった。それで、本来水野氏という織田方の勢力圏であった筈の桶狭間に今川義元の休憩のための陣地も作ることができたわけである。

水野氏が、桶狭間合戦で前面に出てこない所以もまた、そのあたりにあり、知多半島の制圧に熱心なあまり有力な配下の武将を分散させてしまい、その隙を今川に取られ、緒川・刈谷の本拠地を守るのに汲々としてとても織田方として参戦することはできなかったのであろう。

<曹源寺の山門(拡大)>

Sougenjisitakara_2

しかし、桶狭間に近い地域にいた水野氏の勢力が、完全に拠点をかえていたかといえば、大脇城にいた梶川氏については別であろう。大脇は戦国時代には存在した集落であり、曹洞宗の古刹、曹源寺がある。この梶川氏は、水野氏の重臣であるが、別格のような待遇をされていたようである。公に平氏の出を名乗り、一般的には梶川五左衛門という戦国期の武将が有名である。

その梶川五左衛門は、天文12年(1543)に榎本了圓が守る成岩城を水野信元が落とした後、その城代として横根城から移されたというが、実名は文勝とされていた。年代的には同一人と思われるが、梶川五左衛門秀盛という人物がいる。「尾張志」「張州府志」によれば水野下野守信元の家人であり、「張州府志」ではさらに大脇、横根両城の城主であるとしている。

この人の文献での登場で、同時代のものといえば、天正11年(1583)に大府の延命寺に寺領を寄進したというのがあり、その際の実名が秀盛である。

梶川秀盛の父は梶川平九郎といい、実名は分からないが、法名は宗玄という。桶狭間合戦の際に、中島砦を守った梶川一秀と梶川秀盛は同姓であるが、小生別系と思っていた。以前、「中島砦をまもった梶川一秀は平氏の出で、織田信長の家臣である。出身も尾張国丹羽郡楽田といわれ、今の大府市横根に城を構え、水野信元の成岩城攻略後に成岩城主となった梶川五左衛門秀盛など、水野氏重臣の梶川氏とは関係ないかもしれない」と書いていた通りである。

しかし、二人は兄弟のようで、梶川平九郎の長男が梶川高秀、次男が一秀、三男が秀盛だそうだ。兄二人は織田信長に仕え、高秀の子高盛も含め数々の功名をあげていったが、三男五左衛門秀盛は地元の家を守る立場であったのかもしれない。

また梶川平九郎の法名「宗玄」から曹源寺の名前がついた(あるいは改名した)という可能性もあることから、戦国時代には大脇にいたのではないだろうか。長男高秀の名乗りは平左衛門尉で、やはり「平」の字がつく。この人は、永禄11年(1568)に70歳でなくなったとされているので、明応7年(1498)頃の生まれになる。その父となれば、25歳のときに長男誕生とすれば、文明5年(1473)頃の生まれになる。もし、梶川平九郎が曹源寺の開創の前年になくなっていたならば、31歳のときとなり、一応矛盾はない。

<曹源寺>

Sougenji 

梶川氏が平氏かどうかは不明で、紀姓の梶川氏というのもあるようだ。その出身は「知多郡梶村」とあるが、甚目寺町今宿梶村らしいので、「知多郡」ではないだろう。その一族は、水野氏の重臣でありながら、一部は織田信長の家臣にもなったのかもしれない。

そのルーツや系譜はさだかではないが、梶川氏は水野氏の重臣であったことは間違いない。その拠点は戦国時代から大脇に元々あり、やがて水野氏の知多半島制圧の動きに応じて、横根へ、さらに成岩へと移っていった。しかし、大脇には長く一族が住んでいたらしく、桶狭間合戦時も含めて拠点としていたらしい。

実際大脇には、地元の住民から「梶川五左衛門の屋敷跡」と呼ばれてきた大脇城跡があり、伊勢湾岸道路の建設に伴う発掘調査では、約60m四方の方形居館跡が検出され、「天正四年」(1576年)と年がかかれた大御堂寺の護摩札などの遺物が出土している。

その大脇城跡と大脇に永正2年(1505)西明寺三世実田以転和尚によって創建されたという曹源寺の旧在地は比較的近く、曹源寺は城の西北250mほどにあった。以下の図で赤く丸で囲ったのが曹源寺の現在地で、地図の2が江戸時代前期承応3年(1654)の火事で移る前の曹源寺の旧在地である。この位置関係をみても、曹源寺の開創に、梶川氏が関わっているか、梶川氏のために建てられたのではないかと考えるのは別段おかしくない。そうなると、曹源寺という寺の名前も、梶川平九郎の法名「宗玄」の字を変えたものとも思えるのである。

<大脇城跡と曹源寺の旧在地>

Oowakijyo

(『大脇城遺跡』 1999  愛知県埋蔵文化財センター より)

ちなみに、曹源寺には、享保2年(1717)に桶狭間の梶野清右衛門が寄進した立派な山門があるが、曹源寺は桶狭間の梶野氏一族の菩提寺である。宗派の関係もあるが、桶狭間にある長福寺が創建されたのが天文7年(1539)であるため、戦国期以前から当所にいた古い住民は曹源寺の檀家になっていたのであろう。

<曹源寺の山門>

Sougenji_sanmon

曹源寺の二世住職は快翁龍喜禅師である。快翁龍喜禅師は、後に岩滑城主となった中山氏の出身で、水野忠政の家臣中山又助の次男であったという。また、曹源寺は曹洞宗であり、二世の快翁龍喜和尚は水野氏の菩提寺である乾坤院で芝岡和尚について得度している。

つまり、曹源寺は水野氏の影響を多分に受けた寺であり、元来その地域はそういう土地であったわけである。

ところが、今川義元の発給文書で、丹羽隼人正に宛てたものであるが、以下のようなものが残っている。

「沓掛 高大根 部田村之事

右 去六月福谷外在城以来 別令馳走之間 令還付之畢 前々売地等之事 今度一変之上者 只今不及其沙汰 可令所務之 并近藤右京亮相拘名職 自然彼者雖属味方 為本地之条 令散田一円可収務之 横根大脇之事 是又数年令知行之上者 領掌不可有相違 弥可抽奉公者也 

仍如件

天文十九

 十二月朔日        治部大輔(花押)

                              丹羽隼人佐殿」

西三河を制圧した今川義元は、天文19年(1550)頃になると、尾張にも勢力を及ぼし、このような安堵状を発給するようになった。この丹羽氏は一色氏系で、尾張国丹羽庄から起こる在地領主であり、本郷城主であったものが移動して、4代続けて岩崎城主として戦国時代を生きた一族である。この丹羽氏は、同姓の丹羽長秀とは別系統である。その岩崎丹羽氏の丹羽氏勝は、最初、織田信長の叔父守山城主信次に仕え、守山籠城の後は織田信長にも仕えるが、後に佐久間信盛らとともに追放され、徳川家康に仕えている。織田氏に近い在地領主も、一時は今川義元についていたわけで、有為転変は世の習いといわんばかりである。

なお、文中で味方に属するといわれている近藤右京亮とは、沓掛城主近藤景春のことである。近藤氏もまた、松平広忠に従っていたが、織田方が勢力を伸ばすとこれに組していたが、また鳴海城の山口教継によって今川方に転じた、戦国時代にはありがちであった二股膏薬的な生き方をしていた。

丹羽氏が横根、大脇の知行を安堵されていた頃、梶川氏はどうしていたのだろうか。大脇城をでて、ひたすら知多半島に水野氏勢力を拡大するために、戦っていたのだろうか。そんなことはあるまい。大脇城は、その後も梶川氏が継続して維持したようである。前述のように、大脇城跡からは、「天正四年」(1576年)と書かれた大御堂寺の護摩札が出土している。天正4年といえば、水野信元が織田信長に誅された翌年であり、その当時梶川五左衛門は水野氏を離れ佐久間氏に従った。さらに織田信雄に仕え、小牧長久手合戦後は岐阜城主であった池田輝政に仕えたらしい。

<野間の大御堂寺>

Nomataibou1

天正11年(1583)には梶川五左衛門は大府の延命寺に寺領を寄進したが、その発給文書が残っている。

延命寺領為 寄進合田畠拾九貫四百七十八文目此内田方拾四貫五百七十文目畠方四貫九百八文目 並山壱ヶ所寺之後 不可有相違者也 田畠坪付之儀別紙在之候

仍如件

      梶川五左衛門尉

天正十一癸未九月七日  秀盛(花押)

延命寺

 御坊中」

この文書が出された頃、梶川氏は大府の延命寺周辺を統治していたことがわかる。つまり、天文19年(1550)頃から10年くらいはその領地を今川氏に蹂躙されたかもしれないが、このころには梶川氏は延命寺に寺領を寄進するまでになっていた。

少し、話が回り道をしたが、桶狭間合戦当時、水野信元らがおとなしくしていた背景には上述したような大脇など水野氏勢力圏の情勢があった。

(参考文献)

『豊明市史 資料編補2 桶狭間の戦い』  2002 豊明市

『大脇城遺跡』 1999  愛知県埋蔵文化財センター 

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2008.04.17

半田・武豊の春祭り

知多半島は春になると、各地区で春祭りを行う。半島の南のほうから、小生が住んでいる武豊町や半田市、あるいは常滑市といった地域は4月には祭りのシーズンになるが、よそから来た小生のような人間は交通規制が一番の関心事である。

半田は特に山車で有名で、図書館に隣接した博物館には大きな山車が展示され、五年に一回秋に行われる山車祭りには市内だけでなく、愛知県・近県から観光客が集まる。山車の巡行は京都の祇園祭の山鉾巡行に似ているが、あれほど大きなものでなく、各町の地区ごとに小ぶりな山車を持っていて、それがその地区の神社などから出発し、町の主だった筋をまわっていく。

<成岩神社の山車>

Narawadashi

もともと、知多半島は中世から海運で栄え、農業・漁業に加えて窯業が盛んな地域であったが、半田や武豊は江戸時代から酒、酢、味噌、醤油などの醸造業が盛んなところであった。江戸時代、灘の酒と称して、知多半島で作られた酒がかなり出回っていたようだ。酒は今でも、国盛とか半田郷などあり、初夢桜というきれいなネーミングの銘酒もある。また酢では、有名なミツカン酢、中埜酢店の本社は半田にある。

<国盛の甘酒>

Amazake

例年、三月下旬から五月上旬まで、各町それぞれの氏神社に、豊作、豊漁、繁栄、息災を祈願して春祭りが行われるが、会社の人でも祭りに熱心な人もおり、この時期になると知多半島のケーブルテレビでは祭りの様子を延々と流している。なぜ、かくも祭りに熱心なのだろうか。

祭りの出物は、山車や踊りなど。まあ、何といっても山車であろうか。山車は江戸時代に作られたものから明治、大正、昭和のものがある。成岩神社のは、一台が江戸時代、あと三台は大正期に作られたものである。抱き地蔵の近くに格納されている旭車という、山車は、大正13年(1924)建造のものであるが、大幕という、山車の胴の部分にかけられる朱色の布幕にはきれいな亀の刺繍がほどこされている。

<美しい山車の飾り>

Narawadashi_sishu

各地区、各神社ごとに色々な山車があり、その彫刻や飾り物の贅を競っているように見えるが、彫刻は古今の豪傑英雄や神々、竜虎、亀といった動物、説話の登場人物などが題材である。大幕には、金糸銀糸でやはり英雄や竜虎などが刺繍される。

稚児が三番叟を舞うのも、祭り情緒をかもし出す。下は、偶然撮ったもので、おそらく家族と思われる人たちが稚児役の少年を背負っていく様子。だいたい、カメラ持参で、さあ撮るぞと向かったときには失敗が多いが、偶然カメラを持っていて撮ったもののほうが良いものが撮れるものである。

<三番叟の稚児一行>

Taketoyosen

昼食で、魚料理の店にいったところ、カウンターに山車の模型が置いてあった。知多半島は、春は祭り一色のようである。

<山車の模型>

Uokatsu

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2007.12.23

先祖の故地を訪ねて

自分の先祖がどこから来たのか、それは今の岐阜県多治見市、それも駅にごく近い場所ということは分かっているが、少なくとも140年も前であり、住んでいた家はもちろん現存しない。また、もともと江戸時代に可児郡中之郷といわれた、その場所に先祖代々いたかどうかも、よく分からない。それは足を棒にして、多治見市内を歩き回っても、図書館でいろいろ調べても出てこないのだから、どうにもならない。

小生の曽祖父は中之郷の児嶋覚治という人に従って、尾張藩のために戊辰戦争に従軍したらしいが、明治以降は関東に来て、小さな店を営む商人になっていた。児嶋家も今は多治見を去り、神奈川県に移住しているのだが、随分昔に多治見の社会教育施設で郷土史の担当の近藤さんから、「あなたのご先祖と同じ職業ですよ」と言われて驚いたことがある。ちなみに、その児嶋家は江戸時代には小島と表記していたが、その一帯には小島という家が多い。もとは「小島」だったのが、幕末・明治維新の時期に、一部は「児嶋」になったらしい。

<大原川にかかる団子橋>

Dangobashi

森という名字の家は、付近に何軒かある。曽祖父が生きていた明治の頃は、行き来もあったのだろうが、今は親戚付き合いをしておらず、親戚かどうかも分からない。しかし、同姓で曽祖父と一字違いの名前の人、それも大正くらいまで生きた人、三人ほどの名前が、神社や寺の石造物に刻まれている。曽祖父には兄弟がいなかった筈なので、どんな関係の人か分からない。しかし、ほぼ同時代の一字違いの三人の男性は、おそらく小生の曽祖父を知っていたのではないかと思うと、不思議な気がする。

一度、曽祖父が存命であった明治30年頃に、何か多治見に帰らねばならない用事があったそうだ。それは何か分からなかったが、それも以前多治見の社会教育施設で、鉄道用地の買収に関しての用事ではないかと教えられた。

<薬師稲荷にいた猫>

Inarinineko

江戸時代には住民の移動は禁止されていた訳ではないが、あまり遠くへ移動することは商売のために上方から江戸へ出てくるような場合を除いてはなかったであろう。もし、江戸時代の後期になって、下街道沿いで陶磁器の産地であり、経済が豊かになった多治見に出てきたとすれば、多治見周辺のどこかの出身なのだろう。一般的には、江戸時代の移動とは、歩いて一日で行くことのできる距離の場所からの場合が多いようである。森という名字の人が古くから多そうな、そういう周辺の場所をみると、多治見市内では根本、岐阜県可児市の西可児、愛知県春日井市の明知などとなる。多治見市街地にも、そういう場所はあるが、明治以降急速に人口の増えた場所であるだけに、一旦はずして考えたほうが良いだろう。

そのうち、多治見市根本と可児市の西可児には行ったことがある。多治見市根本は、若尾元昌という武田氏系の武将の城があった場所、その菩提寺である元昌寺が残っている。また、若尾氏歴代の墓所もある。岐阜県各地にある森長可、森蘭丸関連の伝承地と同様に、ここにも森長可の子供であるという松千代、のちに成人して森玄蕃長義と名乗ったという人物の伝承がある。その墓もあり、「元和五未年 自得院殿因岩道果一處士 四月廿五日」とあるが、戒名の立派さに反比例して墓は簡素で、現在は他の古い墓と一緒に固められ、あまり大切にされていないように思う。

<多治見の街中で>

Toukisho

西可児には、真禅寺という森長可の首塚がある寺がある。土田城主生駒道寿が菩提寺にしたという寺で、天正11年(1583)には当地を支配した森長可が寺領を安堵、菩提寺とした。実はこの裏山に天正12年(1584)4月、長久手の戦いで戦死した森長可の首級を葬ったあとに、宝篋印塔が残る。この場所を長可の弟忠政の子孫である赤穂森家の殿様が訪れた際に、道案内をした人が森姓で、同じ一族だと言ったという。それはその殿様が日記にも書き残したために、伝わった話である。

可児には、長山城(明智城)があり、土岐明智氏の城であったという。その長山城が落ちるとき、斎藤義龍が差し向けた軍勢に立ち向った明智一族とともに、森勘解由という人が戦ったらしい(「明智軍記」に記載あり)が、長山城の周辺には森という家が見当たらない。西可児、帷子あたりには、何軒かある。可児川には、変な歴史館をやっている家もあったが、どうなったのだろうか。

そもそも、また「明智軍記」の森勘解由が、森長可の家とどういう間柄になるのか、まったく無縁であるかも分からない。

<多治見で見かけた優しい表情の石仏>

Sekibutsu

森長可が出たために、戦国時代の有名な森一族は、勇猛な武将の家とされたが、本来は兼山城に近い兼山湊をおさえ、経済面の能力に秀でた一族だったように思う。

しかし、小生の先祖が、そういうビッグネームに連なる根拠は何もなく、分かっているのは曽祖父が成人して以降の話ばかり。誰か、その地域で研究している人とかいれば話が早い。一つ気になるのは、小生の家が家紋を変えたらしいということ。多治見周辺の森という家は紋が、桐か鶴の丸であるが、小生の家の紋は別の紋で曾祖母の実家の紋と同じ、つまり曾祖母の実家の紋に変えた可能性がある。ところが、曾祖母の家は、関東であり、曽祖父の家とは何にも関係がない。にも関わらず、その紋は多治見でよく見かける紋である。早い話が、前出の小島という家の紋と同じである。あるいは、小生の家は、その家と親戚だったのかもしれない。だから、児嶋翁と戊辰戦争を転戦したのだろうか。つまり、偶然にも曽祖父の家で裏紋か何かで使っていた紋が、曽祖母の家の紋と同じだけで、我々後世の人間が、紋を変えたと思っているだけかも知れない。

多治見は美濃とはいえ、尾張との国境に近く、尾張の春日井にも、別系統かもしれない森という名字が固まった場所があり、考えたくはないが、全然別のところから移住してきた可能性もなくはない。

そうなると、まったく手掛りがなくなるのだが、ふと見た石仏の表情の優しさは、もっと足元を見れば何か分かるかもしれないと言っているようであった。

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2007.05.10

東海市名和にある「トドメキ」という地名

連休中の前半は、東海市にある物流会社で、ちょっとした仕事があり、結局つぶれてしまい、後半は自宅に帰ったが、やはり連休明けの仕事に備えて早めに帰ってきたので余り長い休暇でもなかった。去年の連休は、鎌倉に行ったりして、割とのんびりしていたのだが。

<鎌倉の報国寺にて>

Houkokuji4

東海市の物流会社は、海に近いその手の会社の集まったところにある。半田からは西へ走り、常滑市内から産業道路を北上していけば近いのであるが、その行き方は最近その会社の人から教わったのであり、前は知多半島道路で大府の先に降りるか、半田街道をまっすぐ進んで東海市に入り、東海市役所の脇を通って行くかして、伊勢湾岸道より北は名和の住宅街の細い道を抜けて行った。名和の手前は、大田町、荒尾町という場所になるが、ここには大池公園や市役所などがあるとともに、なにやら城址に関係ありそうないわくありげな地名がある。「内堀」「白拍子」「大城」「坊ノ下」など。また、このあたりも「狭間」、「廻間」という地名がある。

名和は大高の西にあり、元禄頃の絵地図にもあるので、古くから開けた場所であったのであろう。この名和には、船津神社という神社がある。船津というくらいであるから、船が出入する湊、船溜りがあったのであろう。船津の津とは、湊の意味である。その昔、名和船津というのがあり、織田信長が村木砦を攻略する際に、熱田湊から海路、名和船津の辺りに上陸し、それから名和、大高を経て村木(現在の尾張森岡)まで進軍したと伝えられている。

<名和の船津神社>

Funatsujinjya

津の代わりに戸として、船戸という地名もあるが、これも同様の意味である。戸は渡に通じ、渡し舟で渡っていた渡河地点のような場所に、船戸地名が分布するのは、千葉県の印旛沼周辺での船戸地名の分布調査でも分かっている。

この船津神社の近くに、「トドメキ」という地名がある。実は、連休中の仕事で、朝協力会社の人と待ち合わせしていたら、こっちのほうが大分早く着いてしまい、時間つぶしに周囲を車でまわっていたときに、「トドメキ」という地名表示が交差点にあるのに気がついた。

<「トドメキ」地名の表示にある交差点>

Todomeki

この「トドメキ」地名については、面白いいわれがある。船津神社の縁起に曰く、「平治元年(1159)源義朝が長田忠致に殺害された際、家来の渋谷金王丸が義朝の首を奪い返そうと、長田の後を追って神社の前を過ぎ、橋を渡ろうとしたが馬がどうしても進まないので、これは船渡大神の神意の故であろうと、神前に引き返し三条小鍛冶宗近を奉納するとようやく進むことが出来た、世にこれを下馬代の宝刀といい、その橋を今トドメキ橋という。
後、正親町(おうぎまち)天皇の代永禄3年(1560)、今川義元に正宗と取り替えられ、これを達磨正宗といい今も保存されている。」 いったん奉納された小鍛冶宗近が、なぜ永禄3年(1560)、今川義元に正宗と取り替えられたのか分からないが、永禄3年(1560)といえば、桶狭間合戦の年である。その頃、今川方の勢力が当地にもおよんだということか。

なにやら、源義朝や今川義元というビッグネームが出てくるが、特に前半部分は俄かに信じがたい。特に「トドメキ」地名のおこりである、トドメキ橋は、すなわち「留め置き」の橋だというのだが、なぜ神様が主君の仇を討とうとする家臣を留め置くのか、理由が分からない。

源義朝は、平治元年(1159)の平治の乱に敗れて東国へ落ち延びる途中、尾張国野間で、「相伝の家人」である長田忠致のもとに身を寄せる。だが、長田忠致、景致父子の裏切りによって、長田の郎党に入浴中を襲われた源義朝は「せめて木太刀にてもあらば」と悔やみながら、法山寺の湯殿で命を落としたという。法山寺は、野間大坊から東へ700mほど行った、小さな山の上にあり、現在の名鉄野間駅がすぐ西側にある。その際、源義朝に従っていた鎌田正清も別の場所で討たれたという。それで、野間大坊には義朝と、その従者である鎌田正清の墓があり、義朝の墓には、その最期の伝承(「尾張名所図会」などやその影響を受けた芝居、物語で広く知られている)にちなんで木太刀が供えられている。しかし、愚管抄では、この義朝の最期について、長田に謀られて監禁され、もはや脱出不可能であるという鎌田正清の言に対して、「サフナシ、皆存タリ、此頸打テヨ」と義朝は言い、正清が義朝の首を打った上、自決したと伝えており、状況が異なっている。

この源義朝が長田忠致に討たれた話は、相当インパクトがあったようで、それにまつわる伝説は野間だけでなく、筆者の住んでいる武豊にもあって、当地に流れ着いた僧を村人が助けたら、僧は実は源 義朝を討った長田忠致の子孫で、先祖の罪の償いと義朝の供養のため当地に庵を結び、地蔵尊を祀った。その僧は徳正道慶和尚で、その庵は慶亀山徳正寺となったという。

<源義朝が討たれたという湯殿跡>

Yudonoato

このような伝承が遠く、名和にまであるのが面白い。もちろん、前述の船津神社縁起の渋谷金王丸が云々は「話」であって、「トドメキ」を漢字表記した川や橋の名前として、土留木川とか土留木橋というのがあり、木を留めるという意味であることが一目瞭然である。つまり、名和船津には、貯木場もあり、その木を留めていた川が土留木川と呼ばれ、「トドメキ」という地名を派生させたのであろう。

土留木川周辺の地図

名和には、渋谷金王丸は来なかっただろうが、織田信長が上陸云々は地理的にみて、ありうる話である。また、桶狭間合戦の際に、一向宗の僧で弥富二之江の領主である服部左京助は今川義元方につき、船団を率いて大高河口にいて、熱田に放火したように、今川の影響力は知多半島西岸に及んだから、船津神社の縁起に今川義元が登場してきても不思議ではない。名和に熱田湊に相対する船津と大高、村木へ通じる陸路があったという意味で、名和が水陸の交通の要衝であったことは、間違いない。

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2006.12.17

知多武豊にある長尾城

前にも述べたように、愛知県知多郡武豊町は、昔長尾村と大足村の二ヶ村であったのが、明治の大合併で合併し、武豊町となった。それも長尾村の鎮守、武雄神社と大足村の鎮守、豊足神社の一字を合成して武豊となった。

単純に村の一字を合成していたら、長足町とか、大長町という名前になっていたのだろうが、それでは通りがわるいということだろうか。

その長尾村には長尾城という城があった。その場所はJR武豊駅を含む、武雄神社東南の台地である。その長尾城の城主岩田氏は、武雄神社の神官を兼ねていたということであるが、京都に出自をもつらしい。岩田氏が、いつから当地にいるかといえば、鎌倉時代であるという。その昔、現在の武豊町は枳豆志(きづし)庄という荘園の一部であった。その地頭であったのは、鎌倉の有力御家人であった名越氏であり、名越遠江守朝時という名が知られている。岩田氏は、この名越氏の代官として入部したといわれ、元寇に際して、岩田兵衛将監弘直なる人物が、一族郎党を率いて九州へ赴いたとされる。しかし、名越朝時は北条義時の次男であり、一時は鎌倉三代将軍源実朝の怒りを買って失脚、その後和田義盛の乱や承久の変で武功をあげ、許されて加賀、越後、大隈の守護に任ぜられた人物である。名越朝時の子光時の代に寛元4年(1246)の宮騒動で没落、光時の弟時章が跡を継いだ。そうして存続した名越氏は尾張の守護にも任じられたが、元弘の乱の頃は、名越宗教が守護であった。したがって、鎌倉期に枳豆志庄の地頭を名越氏がつとめていても、不思議ではないが、岩田氏が名越氏の代官だったかどうかは疑問が残る。岩田氏の鎌倉期の大先祖は、岩田遠江守朝弘というが、名前が名越遠江守朝時とよく似ている、鎌倉期における岩田氏の通字は「朝」の字であるが、通常主君から名前を貰う場合は下の字を貰うことが多い(上の字を貰う場合もあるが、同族とか上級家臣の場合である)ということからみても、架空の人物ではないかと考えられる。なお、武豊町誌では、子孫の方に配慮してか、そこまで明確には言っていない。

<岩田氏の居館があったという武雄神社>

Takeo1

『知多郡史』によれば、室町時代初期、枳豆志庄は醍醐三宝院領となり、岩田氏がその管理者となった。岩田氏の名字の地、石田(いわた)もその醍醐近くの「石田の杜」と歌枕にもされる土地であるという。となると、岩田氏は名越氏の代官ではなしに、醍醐三宝院に関連した武士であって、その三宝院領の管理のために京から下り、やがて土着して三宝院領を押領したとも考えられる。こちらの方が、岩田氏が京都から下向してきた理由も納得感があるのだが、如何に。

また室町時代になると、大野庄に入った一色氏が勢力をふるうと、対抗上岩田氏も武雄神社の南、金下(かなげ)の地に城を築いた。この城とは、通常城跡として信じられている武雄神社は、本来岩田氏の居館であって、別に城が現在のJR武豊駅の場所およびその西隣の小さな台地にあったということで、江戸時代に書かれた絵図には、確かに「本城」という名で、その城址が示されている。

<長尾城と岩田氏居館の位置>

Nagaojyo

<江戸時代の絵図~武豊町誌資料編から引用>

Nagaomura_1

(着色、文字入れは筆者)

その城以外に、名鉄富貴駅近くにある富貴城、あるいは常滑市の苅屋城も、岩田氏のものであったという。すなわち、室町時代においても、かつての枳豆志庄の範囲で、勢力を保っていたと見られる。岩田氏の系譜について、鎌倉時代の話は裏付け資料もなく、信じがたいのであるが、室町以降、いくつか城を構えていた岩田氏は、尾張守護の勢力が知多半島の中央から南には及ばないのをいいことに、自由に振舞っていた戦国の土着領主そのものであった。最終的に、同じ知多半島の北部で力を蓄え、徐々に実力を発揮していった緒川水野氏の水野信元に、天文12年(1543)成岩城の榎本了圓が滅ぼされたのと同じ時期に攻められ、降伏している。その最後の城主は岩田左京亮安広、出家して杲貞と名乗った。杲貞は右京亮光秋の子であり、鎌倉時代中頃の遠江守朝弘の代から代々長尾の地にいたというが、前述の通り信じ難い。杲貞の子は、盛俊、さらにその子は、光忠。その光忠の代から先は、岩田氏の系譜には名がない。とはいえ、現在でも、岩田という名字の家は、常滑市や武豊町、半田市でも結構残っている。それらの家のうち、よそから移ってきた家は別として、元々先祖代々住んでいる人は岩田杲貞に連なるのかもしれない。

岩田氏の家臣では、名前が伝えられているのは、神谷氏であり、家老であったという。その墓が武豊町内に残っている。このように、ある程度、岩田氏に関する情報は、武豊町周辺に残っている。成岩城の榎本了圓について、出自が分からなければ、落城後どうなったのかも不明というのと好対照であろう。

長尾城の遺構は堀跡が多少残っている程度で、土塁などはなくなっている模様である。国鉄武豊駅が出来たため、その駅員用の官舎が建設された際に、その城址の東半分が削られたが、たしかに武豊駅から電車に乗って西側をみると緑の木々に覆われた小高い台地が南北に100mほど続いており、そこに城があった様子がわかる。

<長尾城~北側>

Kitagawa

<長尾城~北側堀跡>

Kitagawahori

周辺には「西門」という地名があり、文字通り城の西門があったという。さらに、城址に密着し、関連していると思われる地名である「上ゲ」は、一説には城主や有力家臣の屋敷があったために、敬うべきひとが住むということで「上ゲ」としたという。名鉄の上ゲ駅がある「下門」も城址の北側に位置し、「キタモン」が訛って「シタモン」になったということで、関連地名らしい。

さらに、長尾城の本城があった、「金下」は神奈備の下という意味で、「カナゲ」なのだそうである。この城は、元は海がすぐ下に迫るような微高地にあり、また南北に長いということで成岩城に似ている。郭構造が分からないが、想像では細長い尾根状の台地をいくつかの堀で分断したようなつくりであった可能性がある。

<長尾城跡をJR武豊駅から見る>

Nagaojyominami

天文年間に、はや岩田氏は歴史の表舞台から消えた。その後は、岩田氏の拠った長尾城は廃城になったと思われ、富貴城は戸田氏もしくは緒川水野氏の手に渡った。苅屋城は古く室町期(大永年間頃か)は鵜飼福元、あるいは下って常滑水野氏の水軍宮崎久左衛門が城主として見え、結局は常滑水野氏の配下にされたと思われる。こうして、かつての秩序は崩れ、実力ある豪族たちの跳梁跋扈する時代となった。そして、知多半島は本格的な戦国の時代に突入する。

<岩田氏が拠ったといわれる、苅屋城跡遠望>

Kariya

参考文献:

『武豊町誌』  武豊町   (1984)

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2006.11.23

知多半島半田・武豊地名考

地名の由来を考えると、隠れた歴史が分かることがあるので面白い。

小生知多半島は武豊町に住んではいるが、会社勤務、外食や余暇もあわせて一日の大部分をお隣の半田市で過ごしているので、実際に住んでいる武豊より半田にいる時間のほうが長い。まあ、隣接しているので、半田も武豊も大きな違いもないが、地名としての武豊は旧長尾村と旧大足村の合併に際して、長尾村の鎮守の武雄神社と大足神社の鎮守の豊石神社の頭文字をとった合成地名であり、分かりやすい。一方、地名の由来が分からないのは、半田のほうである。

もっとも、武豊の元の地名はといえば、長尾は長い尾根のような台地が続いているという意味だろうが、大足のほうは、まさか本当に大きな足ではないだろう。

<JR武豊駅>

Teketoyoeki

大足とは、今では武豊町の一地区で「おおあし」と読む。しかし、本来は「おおたり」だったらしい。つまり、大きく足りる、豊かな場所という意味であろう。それで、鎮守も豊石神社というわけか。

実は、長尾村の鎮守、武雄神社は長尾城という城があった場所である。城主岩田氏は、武雄神社の神官を兼ねていたということであるが、京都に出自をもつらしい。城主では岩田杲貞の名が伝わっている。遺構は堀跡が多少残っている程度で、土塁などはなくなっている模様。国鉄武豊駅が出来たために、その城址の東半分が削られたが、たしかに武豊駅から電車に乗って西側をみると緑の木々に覆われた小高い台地が南北に100mほど続いており、そこに城があったのが納得できる。

周辺には「西門」という地名があり、文字通り城の西門があったという。さらに、城址に密着し、関連していると思われる地名である「上ゲ」。「上ゲ」の「ゲ」はカタカナのゲであり、変わった地名である。これは名鉄の駅名になっており、戦時中上ゲ駅は空襲を受け、電車待ちをしていたサラリーマンら2名が駅でなくなっている。上ゲ駅自体は、「下門」という場所にあり、この「下門」も城址の北側に位置し、関連地名らしい。

<上ゲ駅>

Ageeki

かつて、この「上ゲ」という場所には、岩田氏および有力家臣の屋敷があったという。周辺の民衆からは敬われるような存在の人たちが住んでいたから「上ゲ」なのか、土地が高いから「上ゲ」なのだろうか。やはり、尊ばれる人たちが住んでいたために「上ゲ」というらしい。一説では、武雄神社の氏神を「上げ」奉ることから、「上ゲ」というという説もある。

その「上ゲ」の近くには「ヱヶ屋敷」という地名があり、大日寺という寺のある古そうな住宅地である。こちらは何がなんだか分からない地名であるが、「ヱヶ屋敷」と書いて、「えげやしき」と読む。「屋敷」というのは、愛知県では誰かの屋敷と言う意味ではなく、集落のことを指すことが多い。「ヱヶ」の集落ということになるが、一体「ヱヶ」とは何であろうか。一説には、岩田氏が神官だったことから、その屋敷があったということで、禰宜屋敷となり、それが訛ったものという。以前、住んでいた兵庫県でも神戸市と芦屋市に会下山(えげのやま、えげやま)といった地名があったが、全国各地に頭のように高くなった場所という意味の「会下」の地名はあり、その「会下」の表記が変わったということも考えられる。「ヱヶ屋敷」とは、「会下」の集落という意味ではないか。

一方、半田はどうだろうか。半田とは、半分の田?そんな地名はおかしいように思う。

<半田の運河沿いの蔵>

Kura1

半田といえば蔵の町として有名だが、元々酒や酢といった醸造業が盛んであった。また水運なども、そうした生産とともに発達した。物が生産され、物資が行き来されると、人も大勢住み着くことになる。

今年も「はんだふれあい産業まつり」があり、当日出勤していたこともあり、ふらりと会場を覘いた。半田消防署によるブラスバンド演奏やフリーマーケット、地元企業団体による模擬店などがあった。竹細工のコーナーがあり、青竹で作った器やおもちゃなどが売られていたが、凝った細工のものは非売品ということであった。この非売品のほうが良いのだが、もちろん非売品だから売ってもらえない。久保田早紀の「異邦人」の音楽が聞こえてきたので、寄ってみるとバンド演奏をしていたのだが、演奏の方はなかなかうまい。だが、女性のボーカルが今ひとつ。折角、うまく演奏できたのに惜しいと思った次第。

<はんだふれあい産業まつり>

Handa1

<竹細工の販売会場>

Handa2

それは良いとして、この半田は、上半田、下半田、亀崎、乙川、岩滑、成岩、板山の各地区とも古い歴史もあり、それぞれに特色のある地域である。

ではなぜ半田というのだろうか。乙川や岩滑もひとくせある地名であるが、まずは半田を片付けたい。ところが、半田のルーツがよく分からない。そもそも平安時代以前、半田辺りが何と呼ばれていたかがよく分からないのである。北隣の阿久比については、英比と書いて、「あぐい」で古くからある地名である。

<戦国時代頃の常滑焼>

Tokonameyaki2

平安時代、知多半島に荘園がみられるようになったころは、野間内海庄という知多半島南部の荘園など伊勢湾に面した荘園とは別に、小河庄、生道郷、乙川御薗、英比郷といった荘園があった。堤田庄という荘園があったことは、長らく所伝のままであったが、治暦2年(1066)に藤原頼通の弟教通によって、仁和寺に寄進されたことが、仁和寺資料にあるのが分かり、古文書の上でも実在が確認された。その堤田庄が、現在の常滑、半田の両市域を含む海東、知多、丹羽、中嶋の四郡に渡って存在したと考えられている。

その後の中世の半田も、よく分からない。応仁、文明の乱で、守護一色氏の支配力が衰退し、遂に退転した後も知多郡には守護の補任もなく、尾張守護斯波氏や守護代織田氏の支配も及ばず、中小の在地領主が割拠することになった。その頃、いくつかの城が築かれたようである。

中世の半田は、知多半島の他の地域、常滑などと同様に古窯があったり、前述のように一色氏退転後に中小領主が局地的な支配を行った。戦国時代、天文年間くらいになると、岩滑城に中山勝時が拠り、成岩城は榎本了圓が城主であったが、水野信元に攻められて落ちたなどという話は、比較的よく知られている。そのほかにも、飯森(ゆもり)城には水野氏の水軍衆であった稲生光春が拠ったとか、亀崎にも亀崎城が飯森城と同時期に築かれたようで、やはり水野氏配下の稲生政勝が入った。

実は、文明、明応年間に築城されたという半田城、別名坂田城という城が半田市堀崎にあった。現在、その辺りは古い住宅街で、大きな寺や教会があり、美しい洋館のある新美眼科(小生も一時通院)など、住宅が密集した場所であり、城の遺構はない。ただ、堀崎、城屋敷という関連地名が残っているのみである。

この辺りに住んでいる人から、近くに紺屋海道という古い道があることを聞いていた小生、少々紺屋海道について調べてみた。そもそも、紺屋海道の紺屋とは染物屋であるが、その染物屋が沿道にあり、商人や職人たちが往来した海岸線沿いの道が、紺屋海道である。また、紺屋海道の付近には摂取院、龍台院、薬師寺とともに、浄土真宗の順正寺が出ており、順正寺に半田の地名の由来を語る物的証拠があることが分かった。小生、順正寺は新美眼科のすぐ近くにあるので、新美眼科に行く時に常にその前を通っていた。しかし、そんな歴史資料のある寺とは知らなかった。順正寺に伝わる絵像阿弥陀如来は永正10年(1513)に道場創立者宗閑法師に本山の法主實如上人から下附されたものであるが、その裏書に「尾州智多郡坂田郷」とあるが、この坂田郷というのが問題だ。

<紺屋海道>

Konyakaido

「順正寺(堀崎町)には、蓮如上人の第八子で本願寺九世の實如上人より、永正10年(1513)6月28日に下附された絵像本尊が伝えられていて、その裏書きには「尾州智多郡坂田郷」と記されている。これによると、上半田地域を16世紀頃には坂田郷と書き、「サカタ」と称していたのが、音読みして「ハンダ」となり、半田と書かれるようになったのではないかとも考えられる」(1998年7月1日「はんだ市報」:はんだの歴史散歩(47) 「半田の地名」 津田豊彦)とあるように、元々は半田ではなく、坂田といっていたようである。順正寺の山号は坂田山、半田城が別名坂田城というのも、もともと坂田郷だったからであろう。半田郷という日本酒があるが、それは現代のネーミングである。

<順正寺>

Jyunnseiji

ところで、紺屋海道という名の通り、半田の東半分は海で、堀崎町が海岸線であったのだろう。薬師寺という寺の山号は、海照山である。紺屋海道は、詳細な道筋はよく分からなくなっているが、大雑把にいえば海岸線沿いを通っていたのである。

<海照山薬師寺>

Yakusiji

乙川などの地名の由来については、別に述べることにする。

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2006.10.26

ああ掛川城

「歴史川柳」というのを密かにやっている。昔からであるが、一種の自己満足の世界かもしれない。

あまり面白くないかもしれないが、以下に披露する。

掛川城 個人の家と 間違われ

新幹線に乗っていると、掛川駅の辺りで、車窓から掛川城が見えるのであるが、小山の上に天守閣が建っている様は、割とこじんまりしていて個人の邸宅に見えないこともない。先日、新幹線で東京に向う途中、若い女性4人組が乗っていて、そのうちの1人が掛川城を見て、「あんな家を建てるなんて、趣味悪いよね」とか言っていた。これは、青森の某H藤吉郎秀吉さんの邸宅(Hさんの家が趣味悪いとは小生思っていませんが)と混同していたのだろうか。しかし、良く見れば、やっぱり城だろうと思うのだが。。。

気になるので、新幹線を降りてみた。
掛川には、10年以上前に来たことがあるが、あまり変わったところもない、田舎の町という感じであった。今回掛川の町を歩いてみると、大河ドラマを意識して「功名が辻」の幟はそこらじゅうにあり、観光都市になったかのよう。

<掛川駅>

Kakegawaeki

駅のロータリーからも掛川城の天守の頭の部分は見えるが、北のほうへ歩くにつれて、掛川城が近くなる。途中、清水銀行の壁に山内一豊と千代の像がレリーフになって取り付けられている。千代が馬のくつわをとっているが、この図はジェンダー的には問題にならないのだろうか。高知城の千代の像は千代が馬を引いているというものだが、この像では馬の上に一豊が乗っている。

<清水銀行の一豊、千代像>

Shimizubank

掛川城は、美しい城であったらしい。今の天守閣は再建されたものであるが、嘉永7年(1854)に地震で倒壊して以来、最近まで天守は建てられなかった。今日の天守は平成6年(1994)に再建されたが、嘉永年間に書かれた絵図面や同じく山内一豊が建てた高知城の天守を参考にして、比較的往時を忠実にうつしているという。

<掛川城の天守閣(再建)>

Kakegawa11

<ライトアップされた掛川城の天守閣>

Kakegawayakei_1

掛川城といえば、大河ドラマ「功名が辻」で俄かに注目を浴びることになった山内一豊の居城として知られる。元は今川氏の家臣である朝比奈泰煕が築城した城であるが、桶狭間合戦で今川義元が戦死した後、後継者となった今川氏真が武田信玄の進攻を受け、また内部的には家臣の離反にあい、駿河の城を維持できずに、掛川城を一時居城とするということもあった。今川義元は、桶狭間合戦で討たれはしたが、やはり乱世の雄の一人であった。しかし、子の氏真は全く武将に不向きな人物で、政治や軍事より蹴鞠が得意というのだから、今川氏の崩壊は早かった。

今川氏真が後北条氏の食客として去り、大名としての今川氏が滅びると、掛川も徳川家康が領するところとなった。掛川城には、城代として石川家成が入った。天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めで敗れた後北条氏のあとに、徳川家康が関東に移封されると、今度は掛川城に豊臣秀吉の直臣、山内一豊が5万1千石(のち5万9千石)で入った。山内一豊は、後に土佐高知城主として有名になったが、関ヶ原合戦前は掛川城主であり、掛川城の大幅な拡張を実施し、石垣を構え、瓦葺の櫓や天守など近世城郭としての体裁を整えた城郭とした。

<掛川城遠景>

Kakegawa21

本来岩倉織田氏の重臣の家柄の出身で、尾張や美濃に所縁のある山内一豊にとって、掛川は縁のある土地ではなかったが、秀吉から近江唐国、長浜に続いて掛川5万1千石が与えられ、掛川城主になった訳である。この山内一豊という人物、女房のお千代さんの内助の功で有名であるが、一豊自身は武断派の武将とはいえ、それほど豪傑ではなく、平凡な人物に近かった。むしろ世渡りのうまさ、運の良さで、実力以上の出世をした感が強い。

雲霧城 霧吹き井戸の 底深し 

この掛川城、その美しさもさることながら、色々な伝説のある城である。例えば、霧吹き井戸。その昔、城主朝比奈氏が守るこの城を、徳川家康が攻めた折、井戸から立ちこめた霧が城をすっぽりと覆い、城は危難を避けることができたといわれている。霧隠才蔵のお城版ともいうべき、アンビリーバボーな伝説である。

<伝説の霧吹き井戸>

Kakegawaido_1

掛川城 天下分け目の 出世城

小山にて 一豊一声 土佐を得る

一豊は 口先一つで 国をとり

これらは、すべて関ヶ原合戦の直前、上杉景勝を討伐する道すがらの小山で行われた、小山評定での山内一豊の発言が、関ヶ原合戦で東軍に武将たちを結束させることになり、一豊は合戦でさしたる武功はないものの、土佐高知城の城主となり、二十万石を賜る結果となったことをいっている。

小山評定では、まだ徳川につくかどうか去就を決めていない武将もいたと思われる。その折に、家康に味方する発言の口火を切ったのは福島正則、その後をうけて山内一豊が関ヶ原への道中の途中にある掛川城を家康に提供するという大胆な発言をした。これによって同じように家康に城や知行を差し出すという申し出が東海地方の武将から相次ぎ、去就を決めかねていた武将たちが家康方となるとともに、結局徳川家康の関ヶ原入りが容易になったのである。

しかし、この発案、山内一豊のオリジナルではないようだ。藩翰譜にあるように堀尾忠氏の受け売りだったか(あるいは、堀尾忠氏の親父の堀尾茂助もしくは中村一氏の発案かもしれない)、千代の入れ知恵であったかよく分からないが、とにかくその一言で、山内一豊は土佐二十万石を手に入れたといっても過言ではない。

<掛川で見た、これは???>

Tukutuku

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2005.11.19

再び野間の源義朝終焉の地へ

「はんだふれあい産業まつり」の本日11月19日、本来は会場である会社へまつり見物に真っ先に行くのが、社員の務め?かもしれないが、小生知多の工場在勤とはいえ、本社在籍であり、前に野間大坊の紹介をしたときの反省から、朝から野間へ行ってきたのである。その後、半田に戻って、ちゃんと「はんだふれあい産業まつり」には行った。以下の写真が証拠である(実は山車が出ないという事前情報を得ていたので、朝一番から行く気になれなかった)。

<はんだふれあい産業まつりの様子>
handafureai

前に野間大坊をご紹介したが、長田氏館址(通称「長田屋敷」)、源義朝の討たれた場所について、説明が十分でなかった。
また、使ったデジカメの画像が今ひとつ不鮮明だったので、再アップすることにする。
野間大坊は、多分源義朝を討った長田忠致らが日常的に使っていた場所ではあるが、長田氏の館そのものではなく、長田氏館は野間大坊の東へ200~300mほど離れた場所にあったらしい。現在、付近の水田や畑のなかを細い道が通っており、その道沿いの畑のなかに「長田屋敷」と書かれた、地元の史跡保存会が立てた看板がある。また、その近くには、源義朝に返り忠を行った長田忠致父子が、後に頼朝によって磔に処された後、松を目印に埋葬されたという場所もあり、「磔の松」といわれている。

<「長田屋敷」~すっかり何の変哲もない畑になっている>
osadayashiki

源義朝は、平治元年(1159)の平治の乱に敗れて東国へ落ち延びる途中、尾張国野間で、「相伝の家人」である長田忠致のもとに身を寄せる。だが、長田忠致、景致父子の裏切りによって、長田の郎党に入浴中を襲われた源義朝は「せめて木太刀にてもあらば」と悔やみながら、法山寺の湯殿で命を落としたという。なお、その法山寺は、「長田屋敷」から東へ600mほど行った、小さな山の上にあり、現在の名鉄野間駅がすぐ西側にある。その際、源義朝に従っていた鎌田正清も別の場所で討たれたという。それで、野間大坊には義朝と、その従者である鎌田正清の墓があり、義朝の墓には、その最期の伝承(「尾張名所図会」などやその影響を受けた芝居、物語で広く知られている)にちなんで木太刀が供えられている。しかし、愚管抄では、この義朝の最期について、長田に謀られて監禁され、もはや脱出不可能であるという鎌田正清の言に対して、「サフナシ、皆存タリ、此頸打テヨ」と義朝は言い、正清が義朝の首を打った上、自決したと伝えており、状況が異なっている。
実際、法山寺に行って見たが、石組みの露天風呂風の湯船は、伝承に基づいて作ったもののようだ。しかし、知多にも温泉は多く、野間周辺でも野間の病院に付随した温泉や内海にかけて海岸にある温泉、坂井温泉など温泉が出るところがあるし、法山寺にも御湯殿薬師といったいかにも温泉の効能をあらわしてくれそうな仏様がいるのだから、ここに温泉が出ていても不思議ではない。しかし、源義朝が温泉につかっていたか、どうかはさだかではなく、むしろ法山寺にかくまうと言って連れてこられ、そこで監禁されたという方が正しいように思われる。

<法山寺の湯殿址>
yudono

そもそも長田忠致とは、どんなプロフィールかといえば、伊勢国飯野郡長田庄を根拠にしていたが、知多半島へ移住したものか尾張国内海庄司となった人物で、桓武平氏ではあったが、平清盛らと同じ国香流ではなく、良茂流であったらしく、中央政界からは遠い存在であった。また源義朝の「相伝の家人」と呼ばれたように、平氏と勢力を競っていた源氏とも結びつきをはかり、何とか領地の保全、地位の向上を図ったらしい。
長田忠致は、鎌田正清の妻の父であったというから、主筋の源義朝と同時に娘婿を討ったことになる。少しはためらったかもしれないが、その後の言動を見ると、やはり手中に良い獲物が飛び込んできた、これで干されていた身にも運が向いてきたと、長田父子は思ったのであろう。一方、鎌田正清の妻となっていた長田忠致の娘はどうだったのか。伝承では鎌田正清の妻は、正清の後を追って自決した貞女となっている。しかし、実際その場所に妻がいたのかどうかも含めて、史実は不明である。
長田忠致父子は、義朝を討った手柄で、長田忠致は壱岐守に、子の景致は左兵衛尉に任ぜられた。しかし、長田忠致はこれが不満で、せめて「尾張国をも給はるべきにて候」とたびたび申し立てたというから、図々しいにも限度がある。これを清盛が怒ったという説と、周りの怒りを清盛が抑えたという説とあるようだ。父の仇として内心うらみ続けた源頼朝が、表面的には許した振りをして長田父子を利用したあげく、磔にしたというのが、一般的な伝承であるが、実際には、中央政界の平氏の怒りによって、長田父子は一旦与えられた官位を取り上げられ、首を切られそうになって内海に逃げ帰ったらしい。
そのときの様子を詠んだ平治物語記載の狂歌は、

  おちゆけば命ばかりは壱岐(生き)の守
           そのおはり(終り、尾張)こそきかまほしけれ

というもの。尾張一国をねだったために、せっかく主殺し、婿殺しまでして手に入れた壱岐守の官位も棒に振り、落ち延びて命だけは助かったが、もう終りだというような意味である。
この狂歌が、伝承のなかで尾ひれがついて、以下のようになった。

   ながらへて命ばかりは壱岐(生き)の守
           身のをはり(身の終り、美濃尾張)をぞ今ぞ賜はる

すなわち、源頼朝が平氏に対抗して関東で復活し、力をつけてきた頃、長田父子は鎌倉に赴いて頼朝に謝罪したが、頼朝は本心を隠して長田父子を許した振りをして、身命を惜しまず、平氏討伐に邁進して軍功をあげるなら、罪を許して、美濃尾張を与えると申し渡した。長田父子は、その言葉に感激して、平氏討伐で数々の軍功をあげた。これに対し、天下を平定した源頼朝は約束通り、美濃尾張(身の終わり)を与えるとして、義朝の墓前で長田父子を磔にし、亡骸を長田屋敷の裏山の松の根方に埋めたというのである。その死に際して、前述の歌が高札にかかれたとも、長田忠致の辞世であったともいう。

<磔の松と石碑>
haritsuke

しかし、これはあくまで「話」である。実際には、平氏の怒りをかった長田忠致は、野間内海の庄司としても失脚し、歴史の表舞台から姿を消す。「保暦間記」によると、後に長田忠致は捕らえられ、建久元年(1190)10月の頼朝の上洛の際に、美濃青墓で斬首されたことになっている。
この建久元年(1190)の上洛の際、頼朝は、尾張の御家人須細為基の案内で、父義朝の墓に参じている。墓が荒れ果てているかと思っていたら、意外に綺麗になっており、かつて平康頼が義朝の墓の荒廃ぶりを嘆いて整備してくれたためと知って、あらためて平康頼に感謝している。実は野間大坊自体、承暦年中白河天皇の勅願で建てられたという寺伝はあるが、実際は平康頼が義朝供養の堂宇を創建し、源頼朝が伽藍として整備したのが事実であろう。

<野間大坊にある源義朝の木太刀で覆われた供養墓>
yoshitomo

<義朝の供養墓の近くにある鎌田正清夫妻の墓>
kamata

なお、同じ場所に織田信孝の墓もあるが、今回関係ないので省略する。

<野間大坊を創建したか平康頼の墓>
tairayasuyori

<源頼朝が寄進した野間大坊の大門>
oomon

なお、非常に分かりやすいアンチヒーローである長田忠致父子は、後世になっても狂歌の題材となった。

   主を切り聟を殺すは美濃尾張(身の終り)
           昔は長田今は山城

これは、主人である土岐頼芸らを追って、美濃の国取りをおこなった、斎藤山城守、つまり斎藤道三について歌った狂歌であるが、「主を切り聟を殺すは美濃尾張」は「昔は長田」の長田忠致の所業である。斎藤道三は主人を追放し、息子である義龍と戦ったが、そこまでのことはしていない。

ところで、野間には長田屋敷や磔の松以外にも、源義朝の最期や長田父子に関連して、いろいろ伝承が残っている。

血の池

野間大坊の大門東側にある池で、長田父子が義朝の首級を洗ったという言い伝えがある。今でも正月7日にここで国家鎮護の祈祷がおこなわれる。もしかしたら、野間大坊を城代わりに使う際に、水堀が周囲を回っていて、その一部が池のように残ったものか。

<どう見ても堀の一部のように見える「血の池」>
chinoike

乱れ橋

野間の田上と長田屋敷址の間を杉谷川という小さな川が流れているが、その橋で乱れ橋というのがある。これは、渋谷金王丸や鷲津玄光たち源義朝の郎党が、主君の危機を聞いて、この橋まで来たときに長田の郎党と乱戦になったというのが由来のひとつ。しかし、誰がわざわざ源義朝の郎党に、義朝の危機を伝えたのだろう。

<田圃のなかにある乱れ橋の碑>
midarebashi

胴塚

田上の法山寺の西の山頂に五輪塔があり、源義朝の胴塚(千人塚)と呼ばれている。長田氏が渋谷金王丸や鷲津玄光たちと戦ったときの戦死者の首を葬ったともいう。仙人塚、耳塚、古墳塚など、いろいろな呼び方があって、なぜそんなに別名があるのか、よくわからない塚である。

<源義朝の胴塚と伝承される塚>
senninduka

(最後に・・・)
長田父子のような話は、源平の頃だけでなく、鎌倉時代以降、特に戦国時代においてもよく聞かれた話である。人の世の愚かしさ、罪深さは、時代を経ても変わらないものか。しかし、かつての殺伐とした話の舞台とは思えないように、野間の里はのどかである。

<法山寺のある山の麓から乱れ橋方面を見る>
midarebashi-enkei

<<参考文献>>
 『美浜町誌』  愛知県南知多郡美浜町 (1983)

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2005.11.12

犬山城主成瀬氏と船橋

犬山城についてはすでに「犬山城は日本の名城」の項で書いたが、その城主成瀬氏は、船橋と所縁がある。
犬山城主となった成瀬氏と船橋との関わりは、犬山城主初代の正成の代から始まる。成瀬正成は徳川家康の側近であったが、天正18年(1590)に家康が豊臣秀吉によって関東に移封された際、栗原郷といわれていた現在の船橋市西部の四千石の所領を与えられた。成瀬正成は、能力のあった人物であったらしく、関ヶ原の合戦で軍功をあげ、堺の行政官としても業績をあげた。その功績に対して、甲斐で2万石、三河で1万石を与えられ、大名に列する。しかも、後の老中に相当する年寄り衆に慶長12年(1607)から元和2年(1616)の9年間任ぜられた。

<木曽川沿いの道から見た犬山城>
inuyamajyo

ところが成瀬正成は、元和3年(1617)、徳川家康の九男義直が尾張徳川家を興したときに、家康に懇願されて付家老となった。これによって、将軍側近の譜代大名であった立場から、将軍家からみると陪臣となる。家康存命の頃や秀忠、家光が将軍であった頃には、成瀬氏と徳川家康の近しさ、正成の業績を知る人も多く、正成やその子の正虎は、大名でなくともそれなりに処遇されていた。しかし、後世になると、陪臣扱いが顕著になっていく。つまり3万石以上の所領をもちながら、大名ではなくなったことが、後の成瀬家に影を落すのである。
成瀬正成は、家康の有能な部下であったがゆえに、普通の大名で生涯を終えることができなかった。そのアイロニーは、正成の次男之成が将軍秀忠の小姓として千石を与えられていたのに、正成が犬山城主となったときに、正成の所領の一部である栗原郷四千石と三河の一万石を譲って、之成が大名となったことにも現れている。つまり成瀬本家は尾張徳川家の付家老、之成の栗原成瀬家は大名となったのである。
その後、正成は寛永2年(1625)に江戸で没し、船橋の宝成寺で荼毘にふされた。さらに、日光の家康の廟近くに埋葬された。その犬山の家督は長男正虎が継ぎ、以降連綿として明治維新を迎える。

<船橋の宝成寺>
houseiji

<宝成寺の成瀬家墓地~大きな石塔が犬山城主七代正寿の墓>
masatoshi

一方、栗原の成瀬之成は寛永11年(1634)に39歳で亡くなり、家督はわずか1歳の之虎が継いだ。その之成の亡くなった際に、平野宇平次、青木右源太、藤村仁右衛門の3名が殉死している。幼くして家督を継いだ之虎も、4年後に病死し、他に男子がなかったため、栗原成瀬家は断絶した。ただ、船橋の宝成寺は、成瀬氏の江戸における菩提寺のひとつとして存続し、現に7代城主の墓もある。
現在も船橋の宝成寺には之成、之虎、之成夫人と殉死した3名の墓がある。そして犬山成瀬家の7代正寿(まさなが)の墓もあるが、これは3m以上ある大きなもので墓としては県内最大級のものという。殉死した家臣の墓が主君と同じ場所に建立されるのは極めてめずらしく、また之成の墓の裏面には三人の殉死者の名前が刻されるなど異例のことである。よほど、成瀬家はオープンマインドであったのか。それにしても、殉死とは現代に生きる我々には想像しにくいことである。忠誠心だけでなく、家名をあげるとか、いろいろな思惑があったのかもしれないが。なお、之成の墓や殉死者の墓のところに全国成瀬会と書いた卒塔婆があったが、全国成瀬会とは何だろう?
全国の成瀬さんの親睦団体か、それとも犬山成瀬家ゆかりの人々?

<之成の墓~駒形のもの>
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<之成の墓の裏~殉死三人の文字あり>
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宝成寺の近く、京成西船駅の北側道路沿いに成瀬地蔵という地蔵がまつられている。いわれとしては、成瀬之成が宇都宮の釣り天井事件に連座して切腹し、その菩提を弔うためとか、近郷の早世した子供の冥福を祈るためとか、伝承にも諸説あるらしく、はっきりしない。ただ、成瀬地蔵というからには、成瀬家の遺風を懐かしむ何かがあったのであろう。

<成瀬地蔵>
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2005.11.11

犬山城は日本の名城

犬山城は木曽川の右岸崖上、端正な天守閣が聳える日本の名城である。彦根城、姫路城、松本城とともに、国宝に指定されているが、そのうちで最古の城である。犬山城は天文6年(1537)に信長の叔父、織田信康によって築城されたというが、現存する天守閣は兼山城の天守閣の部材で建造されたというから、慶長年間(1600年頃)の建造と思われる。

<木曽川上の犬山橋から望む>
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<木曽川沿いの道から>
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<旅館街から>
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犬山城は別名白帝城といい、比較的小さな城でありながら、木曽川沿いの低地から眺める姿など美しく、さすがに国宝に指定されるだけのことはある。犬山城が他の有名な城と異なるのは、個人の持ち物、具体的には尾張徳川家の附家老をしていた成瀬氏のものであることである。その成瀬氏の先祖、成瀬正成が尾張徳川家の始祖徳川義直の尾張入りに際して、平岩氏に替わって、義直の守役となり、三万五千石の犬山城主となったのが、元和3年(1617)であった。以来、代々の成瀬氏が城主となり、明治の廃藩置県を経て、明治24年(1891)の濃尾震災で天守閣東南角の付櫓などが壊れ、修復することを条件に再び成瀬氏の所有になって以降、現代にいたるまで犬山城は成瀬氏が所有してきた。
その成瀬氏と船橋は、実は関係がある。西船橋にある宝成寺は、犬山城主成瀬氏の江戸在勤時における菩提寺だったようで、寺には成瀬氏所縁のものがいろいろある。大きな墓があるだけでなく、寺の什器などにも。

<犬山城の門>
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<犬山城の天守閣>
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<天守閣内の武者隠し>

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さて、犬山辺り、濃尾平野の奥の犬山から各務原にかけては、古くから開けていたらしく、大きな古墳もある。実は、先日11月6日(日)に犬山に行ったのも、東之宮古墳のシンポジウムが犬山の国際観光センター、フロイデであったからである。東之宮古墳は犬山の白山平(はくさんびら)の山頂にあり、多くの鏡や鉄剣などの副葬品が出土した貴重な遺跡であり、国の史跡に指定されている。山の麓に位置する妙感寺古墳とともに、付近を治めていた王の墓であるという。予定では、シンポジウムは、朝の10時から夕方16時までであったが、犬山城にも行きたかった私は、シンポジウムの方は昼過ぎで切り上げ、雨のなかを犬山城に向ったのである。なお、シンポジウムは無料で予約も不要、犬山市長やそうそうたる学者の人が出ているのにである。また、ずうずうしい私は、パンフレットを2部貰ってきたし、なんと犬山の皆さんは太っ腹なんだろう。

<東之宮古墳シンポジウムの様子>
IMG_0631

それはともかく、犬山城は何度来ても美しい。夕暮れの木曽川に天守閣が映える美しさを、犬山遊園方面から、鵜沼から何度となく見てきた。それだけでなく、内部に入ったものしか分からないが、天守閣の階段が急なのも変わらない。よく、昔の人はこんな階段を上り下りしていたものだ。コント仕立ての古い時代劇などで、階段から落ちるシーンがあったが、やはり本当に転げ落ちた人もいたのだろうか。

<天守閣 近影>
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<天守閣から木曽川を見る>
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<同、ツインブリッジ方面>
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2005.11.06

知多半島、武豊から常滑と野間へ

「振り出しに戻る」、「元の木阿弥」というと表現が悪いが、鉄鋼メーカーJ社のシステム統合で一仕事終えて、J社の前身であるK社に入社した後の初任配属の地である、愛知県は知多半島に、一時的にせよ舞い戻ってきた小生は、早速昔の(20数年前のであるが)土地勘で、知多半島でも休みに良く行っていた常滑、そして野間に行ってきたのであった。
まず土曜日の朝、車を飛ばして常滑のスカイラークという喫茶店(外食チェーンの「すかいらーく」とは全く関係なく、昔からそういう名前)に行き、20数年振りにそこでコーヒーを飲んだ。東京生まれで、東京西部の学校を出た私には、知多の喫茶店のコーヒーで口にあうのは、この店のものくらいしかなく、住んでいた武豊町から自然と通うようになった。昔住んでいた寮は既にないが、今は近くの別の寮にいて知多の工場に在勤している。そして、武豊から常滑へと、かつてのルートで、その喫茶店に行ったのである。しかし、20数年振りに行ってみると、かつての店構えと少し変わり、2階は使っておらず、「名古屋名物あんかけスパゲティ」が売り物の店になったいた。
昔の感傷を振り切るように、一路南下し、野間へ行った。野間は、野間大坊と灯台で有名な場所である。野間の灯台には、夜でも良く行った。

<野間の海岸>
nomakaigan

その灯台にちなんで、野間の町には灯台ラーメンという店もあり、実際店の駐車場の一角に灯台を模した宣伝用の塔が立っている。実は灯台ラーメンと野間大坊は、すぐ近くだということを、ずっと忘れていたが、行ってみて思い出した。昔は野間大坊の門のところに、路上駐車していたのだが、今は道路もきれいになり、そうするのは憚れる(第一交通違反だ)ので、信徒会館の駐車場に車を止めた。
野間大坊の建つ野間の地は、源義朝が暗殺された場所で、その義朝を裏切り湯殿で討った張本人である長田忠致の館址も野間大坊にほど近い所にあったことで有名である。そういう意味では、野間大坊付近も中世の武士の館址の延長なのだが、例によって、遺構らしいものが残っていない。野間大坊の門の両側に土塁痕のような、土盛もあるのだが、多分ただの境界土手址であろう。

<野間大坊の門:源頼朝が寄進したもの>
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<源義朝の墓>
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ここには、桃山城の客殿の一部を移築した建物がある。それは本殿であるが、県の指定文化財だそうで、ただの田舎の寺ではないと自己主張しているようだ。だが、元は鎌倉時代以前の武士の館に近接した、長田氏にとっては庭のような場所であったのが、源義朝の供養のためか真言宗の寺となったのである。実際本堂へ行ってみると、何やら加持祈祷をしている。そういえば、境内にはマニ車というものがあって、回すとそれだけ経文をよんだことになるそうだ。知多には、他にも古刹といえる寺があるのであろうが、私の知る限りでは、野間大坊が一番古刹らしい。そのうち、寺に行っているのに不謹慎なのだが、寮の部屋で酒を飲むときに、ぐい呑みがあればと思っていたことを思い出した。

<桃山城から移築した本殿>
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<何やら祈祷もしています>
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野間やもっと先の内海でも探したが、ぐい呑みを売っている店がないようで、やはり常滑に戻るしかないかとまた常滑へ行ったのである。常滑でも、植木鉢を専門に扱っている店などあり、大きい店構えだからといっても、ぐい呑みのような酒器や茶器を扱っているかどうかは分からない。実は、最初はいった店には、安い大きな品物ばかりで、作家物のぐい呑みもあったが、気に入ったものはなかった。
常滑は知多半島の西側中央部にあたり、今でも常滑焼の工場の四角い煉瓦作りの煙突が建ち並ぶ、風光明媚な所である。ここには、常滑焼の散歩道という観光スポットがあって、道沿いに常滑焼の工場やギャラリー、展示場、登り窯などあるが、観光客に混じって少し歩いてみた。以前、知多にいた頃は、陶磁器には興味がなく、常滑の町をゆっくり歩いてみたこともなかった。そういう場所があること自体、よくわかっていなかったのである。

<常滑風景>
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<散歩道で>
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<登り窯>
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散歩道の途中で、ガラスケースにぐい呑みと茶陶(水差し)を飾ってあった家があった。そこで、しばらく立ち止まっていると、中から年配の男性が出てきて、いらっしゃいと言う。家の土間にはなぜか工具やいろいろな物が散らばっており、また工事もしていて騒々しく、正直ここでぐい呑みを買う気は余りなかった。ぐい呑みを探している旨を言うと、中にもあるからと私を誘い、ガラスケースのなかのぐい呑みを全部出して、家の中にあるテーブルに置いた。好きなものを選んでくれという訳である。男性は「猪飼です」と名乗り、それらは自分が作陶したもので、陶芸家であるという。普通の、そこらにいる初老の男性のように見えるのだが。なるほど、この人を写した、四つ切くらいに引き伸ばし、いかにも写真家が撮ったような写真が飾ってある。また、自分の経歴書をくれたが、それによればいろいろな展覧会で入選したようなことが書いてある。
猪飼さんは、ぐい呑みをいくつか選び、それぞれにお茶をついで、飲み比べてみてくださいと言う。ぐい呑みは、いずれも肉厚で黒か茶の釉がかかっている。光に反射するので、何の薬をかけているか聞くと、鉄釉だという。鉄屋なのだから、鉄釉のかかったぐい呑みで飲むのは、ピッタリではないか。
後で寮に帰って渡された経歴書をじっくり見ると、以下のようであった。

「一友窯 猪飼眞吾  (その次に住所と電話番号)
陶暦
昭和十五年二月 愛知県常滑市に生まれる
(略)
昭和四十六年 江崎一生先生の指導を受け作家活動を始める
(略)
昭和五十年   (略)
          東海伝統工芸展入選
          朝日陶芸展入選
          (略~入選多数のようだ)
昭和五十一年 谷川徹三先生に知遇を受ける
          東京南青山グリーンギャラリー個展
          (以下略)                」

なるほど、ちょっとした陶芸家ではないか。買ったぐい呑みも、ごろっとした感じで、重量感があって手になじみ、なかなか良いのである。やはり、このぐい呑みを買って良かった。

<猪飼眞吾作のぐい呑み>
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