カテゴリー「音楽」の8件の記事

2009.12.22

ジリオラ・チンクエッティ の日本語の歌

ジリオラ・チンクエッティの歌には、意外に日本語のものがあるものだ。イタリア語は、母音の発音が割とはっきりしており、イタリア人にとって日本語になじみやすいのかもしれない。

サンレモの女王として、ジリオラ・チンクエッティをスターダムに押し上げた「雨」も、オーラはクリアな日本語で歌っている。「雨」という題名であるが、テンポの速い曲で、軽やかな感じである。前奏からイントロ部分が、雨だれをあらわしているらしい。

<日本語バージョンの「雨」>

<サンレモで歌った「雨」(1969)>

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サンレモでは、バックコーラス付きで昔ながらのフルオーケストラの演奏で歌っている。古いので音質が良くないが、オーラも少しポーズがぎこちないのは新人らしい。この曲は、何年か前にトヨタ自動車のCMソングになった。

また、「夢見る思い」(NON HO L'ETÀ)も、オーラの代表曲であり、小生も好きな歌の一つである。これも日本語で歌っているが、巻き舌がところどころに混じり、聞いているとちょっと調子がくるってしまう。べらんめえ調で、愛を語るのは変である。

<「夢見る想い」>

フランス・ギャルが歌う日本語バージョンの「夢見るフランス人形」などは、いかにも外国人タレントの歌う歌に聞こえるが、オーラの場合は日本人が歌っているように聞こえるのだから不思議である。

<フランス・ギャルの「夢見るフランス人形」~日本語>

ダニエル・ビダルも、日本語で歌っていたが、やはり同じような感じである。なお、フランス・ギャルが日本でも本国のフランスでも有名な歌手だったのに対し、ダニエル・ビダルは日本では有名であるが、本国のフランスでは殆ど無名に近かったようだ。ダニエル・ビダルのデビュー曲は邦題「天使のらくがき」であるが、そのレコードはフランスではなく、日本で発売された。ただ、ダニエル・ビダルは、シャルル・アズナブールと同じグル―プにいたことからもわかるように、単なる外国人タレントではなく、ちゃんとした歌手ではあった。

<ダニエル・ビダルの「小さな鳩」~日本語>

<ダニエル・ビダルの「天使のらくがき」~フランス語>

なんだか、聞いていると、ノスタルジーの世界に浸ってしまうような感じである。

サンレモで「雨」を歌ったときの、ジリオラ・チンクエッティの開放感ある歌いっぷりが、非常に懐かしく感じる。オーラは、元祖「癒し系」だろうか。

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2009.10.28

HPで注意が必要な音楽著作権

音楽著作権については、注意しているつもりであるが、50年以上昔の歌でも著作権が残っていたりする。そういう場合、日本の歌、楽曲であれば、日本音楽著作権協会に申請してインタラクティブ配信の許可を得るしかない。日本の歌はそれで済むが、外国曲は独自の著作権をもっていて、厄介である。それは、MIDI、MP3を埋め込み、なにげなく使っているBGMであっても、好きな歌の歌詞を載せていても、その音楽がどんな作品かによって、著作権の問題が必要である。

小生も、ついに、そういう事態にたちいたった。といっても、当ブログのことではなく、別に手伝っているHPのことである。

そこに載せる歌(歌など載せなければいいのだが)で、ちょっと困っている。それは「鐘がなれば」という歌。これは、実はソ連が出来るか出来ないかの頃のソビエトの軍歌である。作曲、作詞ともに著作権は消滅、しかし関鑑子の訳詞の著作権は日本音楽著作権協会に全信託されている。原文の歌詞を載せ、訳詞を自分で作ることができればいいのかもしれないが、何れにしても関鑑子の訳詞は掲載しないわけにいかず、正直に日本音楽著作権協会に申請することにした。

それはまず、申請するための書面を作り、基本契約を結ぶことから始まる。その申請の書類には概要書として、ディレクトリ構成を含むHP自体の概要、音楽配信の内容、課金をする場合にはその仕組み、リクエスト回数の把握可能な仕組みなどを記載したものを添付しなくてはならない。契約書面には署名、捺印すればいいのだが、この概要書が面倒である。

さらに外国曲では著作権が日本音楽著作権協会についてクリアできても、本国の著作権団体が権利を持っているとそちらにも許可を得ないといけない。

さらに、契約が締結された後も、定期的にどれだけ音楽が利用されたか、申告することになっている。それで、その煩わしさが敬遠されているのだろう。しかし、そんなことは本質的な話ではなく、著作権は適正に守られなくてはならない。

<モスクワ>

Roshia4

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2009.03.04

BUMP OF CHICKEN の歌のモチーフとされる臼井城宿内砦跡

先日、テレビで佐倉市の紹介をしていたが、そのなかでBUMP OF CHICKENという佐倉市臼井出身者で結成されたバンドが、臼井城の宿内砦跡である宿内公園を歌のモチーフとしていると言っていた。そして、彼らの「グロリアスレボリューション」というの曲の撮影が行われたのも、宿内公園であった。宿内砦といっても、ほとんど知る人がいないだろうが、BUMP OF CHICKENの「くだらない唄」「続くだらない唄」という歌のモチーフになったという公園といえば、知っている人は多いかもしれない。

このBUMP OF CHICKENというバンドは、メンバーが佐倉市臼井の幼稚園か小学校からの仲間という佐倉郷土色の濃いバンドである。

臼井といえば、やはり臼井城。実は、小生は元は石垣に天守閣という彦根城や姫路城といった城には興味がおおいにあったが、土塁などの土造りの城にはそれほど興味がなかった。もともと、そういう土造りの城は、群馬県のある山城を手始めに、小学生のころから知っていたとはいえ、壮麗な石垣と白壁の城のほうに関心が向いていたのである。一時期、関西在住であったことが、その傾向を強めた。なにしろ、城といえば一番近くにあるのは神戸の花隈城で、住んでいた神戸市からは彦根城や姫路城といった城にも、快速電車に乗って出かけていけたのである。

長い関西での生活の後、千葉に戻ってきた小生は、たまたま車で行ったことのあった臼井城にまた行ってみようと思い立ち、小さな城と思いこんでいた臼井城の堀が意外に深いことを知り、それから中世の土造りの城に目を向けるようになっていった。

<宿内公園>

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臼井城には、小竹城や志津城といった支城と、5つの砦があった。その砦とは、北に洲崎砦、西北に仲台砦、西南に田久里砦、南に稲荷台砦、南東に宿内砦の5つである。そのうち、宿内砦は、「利根川図誌」にも「臼井旧事録」にも記載がない。しかし、臼井城の砦としては、唯一明確な遺構が現存する。この宿内砦は、かつては長源寺の寺域であった。「利根川図誌」には、その場所は長源寺として記載されている。長源寺は元亀元年(1570)、原氏に招かれた道誉上人により、「新大巌寺」として創建され、安永元年(1772)に火災で焼失するまで、宿内砦のある台地上にあり、かつてその台地は長源寺山と呼ばれていた。長源寺は、現在宿内砦のある台地下北西に隣接する谷合にある。

<道誉上人の墓>

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宿内砦は、長源寺の東南にある舌状台地の先端部分を占める。西側道誉上人の墓のある墓地は結構な広さがあるが、その墓地のある台地中腹の平場を通って台地の上まで階段が付いている。そこから階段の道を上り切った所に南北約150m、東西の最長部分約100m、短い所でも約50mの変形五角形の大きな郭がある。その南に高さ2m程の大きな土塁があって、南側の郭と区切っている。その土塁の一端は櫓台となり、主郭虎口防備のため、広角に矢を射るように配置されている。南側の郭は南北約100m、東西約60mの長方形で台地鞍部に続いている。

<宿内砦の土塁>

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舌状台地の先端が北側に向いている地形から見て、北側の最先端部分を占める大きな郭が主郭である。その郭の東側には、2~3m程低く、腰郭があり、その下台地中腹にも小さな腰郭が2つある。西側の道誉上人の墓のある墓地も台地中腹に付いた大きな腰郭である。南側の郭の東側にも小さな腰郭があり、その外側に堀底道と思われる切通し道がある。

<土塁は一部かなり高くなっている>

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かつては、長源寺自体がいわゆる城郭寺院として砦の役割を果たしていたと思われ、臼井城西の外郭や仲台砦とあわせて、臼井城の東西両翼の守りを固めていたと思われる。現在臼井城実城の北側直下にある円応寺もかつては今の場所でなく、第3郭のあった「外城」に隣接する「寺台」にあったという説もあり、円応寺も城郭寺院であった可能性がある。

宿内砦址は、長源寺移設後は原氏の家老だったという大森氏の私有地となり「おおもり山」と呼ばれていたが、市の借上と公園化、所有者の変更を経て、近年のマンション開発に抗した住民運動の結果、良好な遺構の保存状態のまま宿内公園として保存されている。
 

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2008.10.05

月はおぼろに東山

小生、歌はあまり人前で歌わないし、熱烈な音楽ファンではないように思う。しかし、音楽はそこそこ聴いていた。聴くのも、学生時代は専らクラシックで、社会に出てからはヨーロッパのポップスとかになり、カーステレオでよく聴いてた。特に、シルビー・バルタン、ジリオラ・チンクエッティは。

ジリオラ・チンクエッティはサンレモの女王であるとともに、カンツォーネを一般に親しめるものにした。しかし、日本では「雨」くらいしか、知られていないかもしれない。

会社にはいった当時は、CDなどはなく、カセットテープばかり。レコードはあまり持っていなかったが、たまに買ってくると繰り返し聴き、うっかり傷つけてしまうと大変損した気分になった。兵庫から転勤で東京にかわったとき、だいぶ売るか、捨ててしまった。しかし、神戸のレコード店に売りに行ったが、逆にシルビー・バルタンのレコードを買ってしまったこともある。

そういう小生が、ときどき、無意識のうちに口ずさんでいる歌が、二曲ある。それは「祇園小唄」と「君恋し」。なぜ、その曲なのか、皆目わからない。かなり昔からだし、「君恋し」はフランク永井が歌っているのを聴いているが、自分の胸のなかにあるのは曲調が違い、もっとテンポが速い。これについては、最近変なことに気付いた。

祇園小唄など、京都出身でもない小生がなぜ口ずさむのか、自分でもよく分からない。小生の雅号は、「湖城」であるが、その湖は琵琶湖を意味し、早い話が琵琶湖湖畔の城にちなんでつけたもの。それは会社の用事で滋賀大学にときどき行っていたおりに、経済学部を訪問すると必ず彦根城を経由して自宅に帰っていたので、最初は彦根城をイメージしていたが、膳所城でも大津城でもどうでもよくなった。

滋賀大学は経済学部と教育学部の二つの学部であるが、その二つがえらく離れている。教育学部は石山、経済学部は彦根。二つとも一日でまわるのであるが、いつもはじめは教育学部に行き、次に経済学部にまわった。その教育学部のある石山へは、自宅近くのJR芦屋から電車に乗り、京都で乗り換えて行っていたが、京都ではおりたことはない。それは仕事中ということもあるが、JR京都駅で降りても歩いていけるのは西本願寺くらいで、バスで出かけると戻ってくるのに時間がかかりすぎ、完全にサボリになってしまう。

<祇園白川にかかる巽橋>

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小生と京都の縁は、やはり兵庫に住んでいたときに休日に阪急電車で四条河原町に出て、寺などをめぐるようになってからで、その前は一度高校の修学旅行で行ったきりである。阪急電車の終点が四条河原町。阪急百貨店や高島屋もあるが、電車を降りると四条大橋の近くに出て、木屋町を北へ川沿いに進むと先斗町、歌舞練場があって、さらに行くと三条大橋のたもとに出る。三条から四条にかけての鴨川の情景が、印象に残っている。

<鴨川~三条大橋から>

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しかし、無意識に「祇園小唄」や「君恋し」を歌ってしまう、小生の変な癖は、ずっと前から、ごく若い頃からであるのが少々変である。

その「祇園小唄」を聴くと、なにか、祇園新橋あたりの光景が目に浮かんでくるようだ。しかし、ほとんど自分とは無縁の世界である。

祇園新橋界隈は、一番花街としての情趣を残している場所であろう。辰巳大明神や白川にかかる巽橋、茶屋の立ち並ぶ通りに向かい、白川を背にして吉井勇の歌碑がある。その白川は小さな川だが、ちゃんと鯉も棲んでいるし、水鳥もいる。

<舞妓のだらりの帯>

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辰巳大明神はちょうど、道が分岐する場所にある。辰巳大明神とは、何に対して辰巳(南東)の方角にあるというのだろうか。たぶん御所であろう。東京でも、門前仲町のあたりは辰巳といい、辰己芸者などもいたのだが、それは江戸城からみて辰巳の方角を指していた。

辰巳大明神は、実は狸を祀っているそうだ。巽橋に住む悪戯好きのタヌキが巽橋を渡る人を化かして、困った人たちが神として祀ったとをいう謂れがあるそうだ。それが、当地が花街となると、いつのまにか、芸妓さん、舞妓さんら、祇園芸能に関連する人たちから親しまれ、芸道上達の神様になったとのこと。

<お茶屋が建ち並ぶ風景>

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「祇園小唄」の一番の歌詞で「月はおぼろに東山 霞む夜毎のかがり火に」とあるが、東山の山麓、円山公園の近くに、かがり火をたいた料亭か何かあった。また、円山公園は枝垂れ桜が有名であるが、毎年4月上旬には、かがり火も焚かれるそうである。それは祇園小唄を意識しているのか、まさにそんな感じであろうか。

<円山公園の夜景>

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2番の「夏は河原の夕涼み」も鴨川の河原に、川床を広げた店やそこに集まる人々が目に浮かぶようである。この鴨川は、夕暮れ時ともなると、アベックが集まり、等間隔に座ることで有名。はかったように、等間隔なのは、お互いの会話を聞かれたくないためかもしれない。アベックは、季節に関係ない。

しかし、出町柳あたりで、高野川と合流するYの字の地点から上流は加茂川で、下流が鴨川というのは、なぜだろう。あまり関係ないが、気になる。

<鴨川~四条大橋から>

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<四条大橋のたもとにある南座>

Minamiza1

この「祇園小唄」の歌詞は、作家・長田幹彦が昭和3年(1928)、祇園の茶屋「吉うた」に滞在していたときに作ったものである。その後、長田幹彦の小説『絵日傘』が映画化されることになり、浅草オペラの佐々紅華が長田幹彦の詞に曲をつけたものを主題歌として、「祇園小唄」が誕生した。

その映画『祇園小唄 絵日傘 狸大尽』は、昭和5年(1930)マキノ御室が制作、監督:金森万象 出演:澤村国太郎、浅間昇子、小金井勝というが、サイレントである。しかし、舞妓姿の女優が字幕に合わせてスクリーン脇で歌うという興行形態がとられ、「月はおぼろに東山・・・」という主題歌とともに大ヒットしたという。ちなみに、澤村国太郎の長男が俳優の長門裕之、次男が俳優の津川雅彦である。

「祇園小唄」の音源は、いろいろあるが、以下は美空ひばりのもの。

祇園小唄 Gion Kouta - 美空ひばり Misora Hibari

なお、前に書いたように、変なことに気づいたというのは、「祇園小唄」も「君恋し」も昭和3年(1928)から5年(1930)にかけて成立した歌であり、どちらも佐々紅華が作曲していることである。それが、元々クラシックや洋楽ばかり聴いていた自分の潜在意識にあるのが、どうもおかしい。

二村定一が歌うオリジナルの「君恋し」が、YouTubeにあった。このような歌が懐かしいと思うのは、なぜだろうか。親も生まれたか生まれないかのころの歌であるから、じいさんの記憶でも、小生の脳に残っているのであろうか。そういえば、なくなった母方のじいさんは、大量のSPレコードを持っていた。考えすぎだろうか。

参考サイト:京都府のHP http://www.pref.kyoto.jp

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2007.09.16

鷺しらず

京都の中心を流れる鴨川、この鴨川は出町柳の加茂大橋のところで、高野川と合流しているが、その地点より上流を加茂川と表記する。別に川としては同じなのであるが、上流と下流で呼び方が違う。

鴨川といえば、夏の夕方になると川風で夕涼み、ニ条から五条にかけて、川の西岸の店が川に向かって床を伸ばす、納涼床が有名。公害が問題になっていなかった昔は、鴨川で友禅流しも行われていた。下流の鴨川のほうはともかく、加茂川はまだ自然が残っており、鷺などの水鳥もすんでいる。

<三条大橋から鴨川の河原を望む>

Sanjyoukamogawa

唐突であるが、有名な鉄道唱歌の五十三番は、以下の通りである。

「扇おしろい京都紅  また加茂川の鷺しらず 土産を提げていざ立たん あとに名残は残れども」

「扇おしろい京都紅」というと、京都祇園や先斗町に行き交う舞妓さんか、芸妓さんを思い出す人も多いだろう。筆者も一度だけ、先斗町歌舞練場まで「鴨川をどり」を見にいったことがある。小生、阪神間に住んでいた頃に、よく京都に来ていた。古い都へのあこがれもあり、寺をまわるのも好きだったので、自然そういう生活になった。但し、先斗町や祇園は歩くだけで、舞妓さんも歩いている姿を見るだけである。せいぜい、夕方になると、木屋町の焼き鳥屋さんで飲んで帰ってくるくらいで、祇園などにはまったく縁がない。今回も書きたいのは「鷺しらず」のほう。

<だらりの帯の舞妓さん>

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ここに出てくる「鷺しらず」とは、昔の加茂川のお土産として売られていた、佃煮の一種である。鷺は、川などで小魚や両生類、昆虫などを捕まえて食べているのであるが、最近は護岸工事とかで鷺が住むような河川もだいぶ減ってしまった。その鷺といっても、青鷺もいるが、白鷺が殆どである。

「白鷺は小首かしげて水の中」と高田浩吉の白鷺三味線でも歌われているが、鷺はたいてい水の中にいる。鷺は加茂川でも、細い脚でたって、時々水面にくちばしを突っ込み、えさをついばむ。川幅が狭く、流れの急な場所とか、岩場にはあまりいないようだ。

<青鷺(一番左)と白鷺>

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白鷺は、知多半島でも田んぼのなかや、ちょっとした川によくいるし、河和の軍港跡にもいるのを目にしたが、以前兵庫県に住んでいたときにも、芦屋川の上流などで見かけた。さすがに東京では見たことがないが、千葉では今でも田んぼや沼地などにいるようだ。

<河和の軍港跡にいる白鷺>

Gunkou

「鷺しらず」は、水の中で朝からえさをついばんでいる鴨川の鷺も、見落としてしまうほどの小さい魚、鮠 (はや、はえ)の稚魚を、煮たった湯に通して、薄口しょうゆ・砂糖で煮つめたものである。それが、有名な、京都名物の「鷺しらず」であった。
「鷺しらず」は今でもあるようだが、鴨川も、護岸工事などで、現代的な川になってしまい、小魚も住みにくくなったため、京都みやげの代表の座から、おりてしまっている。

鮠 (はや、はえ)は、コイ科の淡水魚のうち、中型で細長い体型をもつものの総称であるが、オイカワ、ウグイなどが代表品種である。鮠は「柳鮠(やなぎばえ)」という季語もあるように、柳の葉の芽吹く春に川を上って産卵し、夏にその稚魚が川を下りるという。

<オイカワの幼魚>

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「鷺しらず」は幕末からつくり始められたというが、残念ながら今では殆ど作られなくなった。実際小生、これを買ったこともなければ、売っているのを見たこともない。京都の高島屋で、川端道喜のちまきを買おうとして、買いに来たときには、いつも売り切れていたという小生にとっては、幻の佃煮かもしれない。

参考サイト:『京菓子処 鼓月』HP 「京ことば通信」<2001.9>  http://www.kogetsu.com/kotoba/index.html 

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2006.12.26

軍歌・懐メロから盗用されたフレーズ

以前、松本零士の「銀河鉄道999」のなかのセリフを槇原敬之が盗作したという、疑惑報道がなされ、両者の間で争う動きがあった。その後、10月下旬一旦和解に向ったというが、11月には再燃しており、一体どうなったのか、良く分からないが、最近は報道がないことから収束したのかも。本件、松本零士の側が「無断使用と指摘したのは、歌詞の『夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」とのサビの部分。これが『銀河鉄道-』の名セリフ「時間は夢を裏切らない、夢も時間を裏切ってはならない」に合致すると主張。(以下省略)この騒動は、ネット上でも話題になり、掲示板やブログでたくさん取り上げられたが、どちらかというと槇原支持が多いようだ。『短い文章だけに、似てしまうこともある』『2つの文は意味が異なる』『大御所なのに小さいことを気にしている』 」(J-CASTニュース、2006年11月9日)と報じられた。

「短い文章だけに、似てしまうこともある」という槇原支持の声に対し、小生疑問を感じる。短くても印象的なフレーズは、インパクトがあり、盗作もされやすい。かくいう小生、「夜霧の古城」とは「夜霧の慕情」のタイトルをパクったのではという疑惑を持たれても仕方がない。一時は「夜霧の第二古城」という、明らかに「夜霧の第二国道」をパクったブログもあり、「薔薇の古城」と改名した。

したがって、そんな小生が言っても、あまり説得力がないが、結構歌謡曲のタイトルや決めゼリフのようなフレーズが、古い歌、それも軍歌や何らかの事情で著作権が放棄されたような懐メロの類から剽窃されているのに、最近気付いた。

<陸軍四式戦闘機「疾風」>

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例えば、「燃える闘魂」、これはアントニオ猪木の専売特許のようになっている。もっとも、アントニオ猪木の発案ではなく、NET(現テレビ朝日)のアナウンサーの命名だという。

ところが、「燃える闘魂」というフレーズは、「特幹の歌」という軍歌の歌詞に出てくるのである。もちろん、「特幹の歌」は陸軍特別幹部候補生を歌った、戦時中の歌であるから、アントニオ猪木の方が新しい。

「特幹の歌」では、

「翼輝く 日の丸に 燃える闘魂 眼にも見よ 今日もさからう 雲切れば 風も静まる 太刀洗 ああ特幹の 太刀洗」

というように歌われている。この「太刀洗」とは陸軍の太刀洗航空隊のことで、陸軍特別幹部候補生とは、海軍の予科練にあたる少年航空兵たちのことである。

<陸軍一式戦闘機「隼」>

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それから、軍歌、「皇軍大捷の歌」。この中のフレーズが武田鉄矢、海援隊の歌の題名になっていることを、最近ある人から教えてもらった。その人のブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/jyo_takuya/folder/946233.html)を引用すると、

「実は、小生、新たな疑惑を発見した。それは軍歌のあるフレーズに、海援隊の有名な歌のフレーズ、というか題名がそっくりなのである。

その軍歌とは『皇軍大捷の歌』。知らない人は知らないだろうが、割と有名な軍歌である。

皇軍大捷の歌
作詞 福田米三郎 作曲 堀内敬三 

一番 国を発つ日の万歳に しびれるほどの感激を こめてふったもこの腕ぞ 
   今その腕に長城を こえてはためく日章旗

二番 焦りつく雲に弾丸の音 敵せん滅の野にむすぶ 露営の夢は短夜に 
   ああぬかるみの追撃の 汗を洗えと大黄河

三番 地平か空か内蒙の 砂塵に勝利の眼が痛む 思えば遠く来たものぞ
   朔風すでに吹き巻いて 北支の山野敵もなし (以下、省略)  

海援隊の歌とは、『思えば遠くへ来たもんだ』である。

思えば遠くへ来たもんだ
作詞 武田鉄矢 作曲 山本康世  歌 海援隊

タイトルだけでなく、このなかで『レールの響き聞きながら 遙かな旅路夢見てた 思えば遠くへ来たもんだ』というフレーズがある。
『皇軍大捷の歌』の『思えば遠く来たものぞ』と『思えば遠くへ来たもんだ』、そっくりではないか。文語体を口語体に直し、『遠く』を『遠くへ』に替えただけ。(以下省略)」

なお、JYOさんの説はユニークなものであるが、中原中也の詩の盗作という説もある。

「道楽親父の独り言」(http://himajin-nobu.at.webry.info/200511/article_15.html)というブログでも、「 思えば遠くへ来たもんだ ☆ 海援隊と中原中也」という記事のなかで、 「ところで、このタイトルはどこかで聞いたことがある。中原中也の『頑是ない歌』の冒頭のフレーズだ。紹介すれば次のとおりだ。

思えば遠く来たもんだ 十二の冬のあの夕べ

港の空に鳴り響いた 汽笛の湯気は今いずこ

(詩集「在りし日の歌」所収)

盗作だとかパクリなんて野暮は言いたくない。似てるけど内容はちょっぴり違う。私もそうだが気に入ったフレーズが詩を作ると思わずにじんでくるときもある。」と書かれている。

軍歌か詩か、いずれにせよ、パクリであることは間違いなさそうである。

<「思えば遠く来たものぞ」~中国南部に侵攻した日本軍>

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また、JYOさんによれば、あきれたぼういず、後の川田義雄とミルクブラザースの「地球の上に朝が来る」も、やはり軍歌の「日の丸行進曲」の歌詞の確信犯的盗用、「浪花節だよ 人生は」は、竹腰ひろ子が歌っていた「東京流れ者」の歌詞からの盗用だそうだ。

そういえば、最近氷川きよしが歌っていた「白雲の城」は、昔三橋美智也が歌っていた「古城」と曲の感じがよく似ている。やはり、盗作だと騒がれた。但し、歌の出来は、三橋美智也の「古城」の方が数百倍良い。

<犬山城>

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なぜ、こういう他人の歌、それも作詞、作曲者が明確な新しい歌ではなく、著作権が消滅、あるいは当事者が死んでしまって権利者が名乗って出てこないような歌がターゲットにされるかといえば、やはり著作権の問題があるのだろう。相手がはっきりしていると、訴えられる可能性も高いが、そうでなければ、使い得という感覚があるのである。まあ、あきれたぼういずの「地球の上に朝が来る」は、洒落であろうが、あとの例は余り潔いとはいえませんな。

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2005.12.21

歌いつつ歩まん

スチール統合プロジェクトで仕事をしていた忙しい時、私は会社の往き帰りに好きな音楽を聴いていた。例えば黛ジュンのデビュー曲「恋のハレルヤ」*などは、良く聴いていた。もはや「懐メロ」の部類になってしまった曲しか分からないというのは、年のせいだろうか。しかし、黛ジュンはデビューの時から歌唱力がすごいと思っていたが、実は本当のデビューはもっと前で米軍キャンプなどで歌っていたのだということを最近知った。黛ジュンは、歌は目茶苦茶うまいが、格別美人でもなく、親戚のお姉さんみたいな感じでフレンドリーであったためか、その歌はよく替歌が作られていた。「恋のハレルヤ」も、たしか「ハレルヤ~」を「禿げるヤ~」にして、「花は散っても」を「髪は散っても」とし、頭髪の薄い方を揶揄するような、けしからん内容の替歌になっていたと思う。他の曲も同様で、黛ジュンの歌ほど、替歌になったものは余りない。

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しかし、「恋のハレルヤ」はでだしが、「ハレルヤ~」といっているだけで、それ以降は少しもキリスト教的な文句がない。しいていえば「愛されたくて愛したんじゃない」がアガペーの愛を感じさせる程度である。*日本音楽著作権協会作品コード 031-1579-8 ISWC T- 101.229.647-6 

話はちょっと脱線する。植木等の「スーダラ節」**は、青島幸男作詞だが、根がまじめな植木等はその歌をもらったとき、歌詞の内容に悩んだそうである。そして、寺の住職をしていたお父さんにこんな歌詞だけど歌うのはどうかと思っていると、相談したところ、お父さん曰く、この歌詞の「分かっちゃいるけどやめられない」というのが仏の道に通じるということで、植木等も納得したという。**日本音楽著作権協会作品コード 043-0001-7  ISWC T- 101.317.016-4

「ハレルヤ」が歌詞のなかに出てくる歌を、私はもう一つ知っている。夜、武豊と半田の間を車で走る時、赤いライトで縁取られた十字架を屋根にのせた教会が二つ、沿道にあるのが見える。私はキリスト教ではないが、そんな時ふと、ある賛美歌を思い出すのである。その賛美歌とは、そういう類の歌で、メロディーもしっかり覚えていた唯一の歌、聖歌498番「歌いつつ歩まん」である。

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高校生の頃であるから、もう30年も前のことであるが、私はなぜかバプテスト教会の集会に行ったことがある。その時、上映されていた映画のバックに、その歌が流れていた。

♪ 歌いつつ歩まん ♪

1、主にすがる我に 悩みはなし
  十字架の御許に荷を降ろせば
  歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ
  歌いつつ歩まん この世の旅路を

2、恐れは変わりて 祈りとなり
  嘆きは変わりて 歌となりぬ
  歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ
  歌いつつ歩まん この世の旅路を

3、主はいと優しく 我と語り
  乏しきときには 満たしたもう
  歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ
  歌いつつ歩まん この世の旅路を

4、主の御約束に 変わりはなし
  御許に行くまで 支えたまわん
  歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ
  歌いつつ歩まん この世の旅路を

実際には、メロディーは正確に覚えていたものの、歌詞については「この世の旅路を」を「心の旅路を」と覚えていた(「心の旅路」では記憶喪失をテーマにした古い映画である)し、それ以外でもかなり間違って覚えていたので、私のなかではほとんど別の歌になっていた。

この歌が流れていた教会の映画では、ある少女がお母さんの死をきっかけに絶望し、駅のホームから身を投げて自殺しようとしたが、奇跡的に命が助かったものの、両足と片腕(左腕と思いますが)を失い、残った腕も、指が3本という状態になってしまった。そして病院で意識を取り戻した少女は、再度自殺をしようとするが、キリスト教によって救われ、やがて牧師さんと結婚し、子供ももうけて充実した日々を送っているという内容であった。映画の最後に、その本人、市川在住の田原米子さんが登場し、台所で料理をしたり、家事をしている様子やインタビューに答える声などが流されていた。

その後、私はキリスト教徒にはならず、千葉県の県立高校から、大学へ進み、会社勤めをしている。会社でも勤続25年になるのだから、もうロートルの部類に入りそうである。家の仏壇には線香もあげるし、先祖の位牌に手を合わせるので、家の宗派である禅宗の信者といえなくはない。だが、前記の賛美歌と田原米子さんの姿は、ずっと記憶の底にあった。

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思えば「歌いつつ歩まん」は、きわめて楽天的な歌である。主にすがって悩みはなく、荷をおろしているのだから、足取りも軽く、歌いながら歩けるよ、というのは言いすぎかもしれないが、表面的にはそんな歌詞である。しかし、実際にはそう思いたい、つらい悩みを負った人の負担を何とか軽くしたいということであろう。田原米子さんも、多分生還したが三肢を失った障害者になって一時は絶望したのであろうが、キリスト教の信仰に支えられ、まだ片腕と3本の指があるというものすごいプラス志向で、生き抜いてきたのである。これこそ、奇跡である。

だが、田原米子さんも今年なくなってしまった。生前はライフカウンセラーとして、活発に活動されていたそうであるが、そういう人の活動が重要になっているだけに実に惜しいことである。今年なくなった有名な人は、いろいろいるが、私にとっては、田原米子さんがなくなったことが惜しまれる。

あらためて、ご冥福をお祈りいたします。

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2005.08.30

数字と地名

数字のついている地名は、どういういわれがあるのだろうと想像することがある。
数字を冠する地名はいろいろあるが、例えば東京23区でサンプルを拾ってみる。七で始まるのが、見当たらないが、東京23区だけで、下記のようにある。

一ツ木 一ツ橋 一ツ家(足立) 一之江(江戸川) 
二子玉川 二葉(品川)
三崎町(神田) 三原 三田(港・目黒) 三栄町(新宿) 三ノ輪 三宿 三軒茶屋 三園(板橋) 三好(江東) 三筋(台東) 三原台(練馬) 
四つ木 四谷 四葉(板橋) 
五反田 五反野 五本木(目黒)
六本木 六郷(大田) 
七??
八重洲 八丁堀 八雲 八幡山 八広(墨田) 八潮(品川)
九段 九品仏
十条
二十騎町(新宿)
百人町(新宿)
千代田 千駄木 千駄ヶ谷 千川 千住 千歳台 千束(台東・大田) 千早(豊島) 千鳥(大田) 千田(江東) 千石(文京・江東)

東京23区の例にはないが、一宮、二宮とか、単純な連続番号で一、ニ、三とついているのは分かりやすい。六本木のように、六本の木があったのだろうとか、三軒茶屋とは三軒の茶屋があったのだろう、というような地名もいわれを想像しやすい。

日本全国について考えると、単純な連続番号が付いている典型が、京都の通りの名であろう。これは東西に走る通りの名が、北から、一条、二条・・・と付けられているし、南北に走る通りの名を覚えておけば、街中のある地点が、たとえば四条通りと烏丸(からすま)通りの交点であれば、四条烏丸といった具合に、場所も特定しやすい。

<四条木屋町の一角>
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勿論、東西に走る通りも、かつての条坊制による○条通り(あるいは大路)というものだけでなく、細かな△△小路や▲▲道というものがある。私が京都でよく利用していた京阪三条駅近くの縄手通りにある力餅食堂も、縄手通りから新門前通りの入り口との角地にあるが、住所も東山区縄手新門前角という分かりやすさである。ちなみに、門前とは八坂神社の門前町ではなく、知恩院の門前町という意味で、新門前通りも古門前(ふるもんぜん)通りも骨董街であるが、どちらも京都らしい景観の残る通りである。
要は東西、南北の通りの名さえ覚えれば、大体の住所は見当がつくというものである。それで、京都の人はよくしたもので、通りの名を覚えるための童歌もある。

<縄手通り(手前)と新門前通り(左)の角にあるレトロな雰囲気の力餅食堂>
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例えば、東西の通りの名を示す、有名な「丸竹夷」は、以下の歌詞である。

丸 竹 夷 ニ 押 御池
姉 三 六角 蛸 錦
四 綾 仏 高 松 万 五条
雪駄 ちゃらちゃら 魚の棚
六条 三哲 通り過ぎ
七条 越えれば 八 九条
十条 東寺で とどめさす

まるたけ えべす に おしおいけ
あねさん ろっかく たこにしき
しあやぶったか まつまん ごじょう
せきだ ちゃらちゃら うおのたな
ろくじょう さんてつ とおりすぎ
ひっちょう こえれば はっくじょう
じゅうじょう とうじで とどめさす

筆者が覚えていたのは、上記の歌詞である。
丸とは丸太町(まるたまち)、竹とは竹屋町(たけやまち)であり、夷とは夷川(えびすがわ)のことである。
次の二は二条(にじょう)通りであるが、なぜ二条からで一条がないのかといえば、御所があるので憚ったのかもしれない。押しは押小路(おしこうじ)、御池はそのまま御池(おいけ)。
次の覚えやすい姉三六角蛸錦の姉は姉小路(あねやこうじ)、三は三条(さんじょう)、六角は六角(ろっかく)である。
この六角は佐々木六角氏の名字の起こりになった。蛸は蛸薬師(たこやくし)、錦は市場で有名な錦小路(にしきこうじ)である。
次に四は四条(しじょう)、綾は綾小路(あやのこうじ)、仏は仏光寺(ぶっこうじ)、高は高辻(たかつじ)で、松の松原(まつばら)、万の万寿寺(まんじゅうじ)に五条(ごじょう)と続く。
さらに雪駄は雪駄屋町(せきだやまち)であるが、現在は楊梅通りになっている。この辺りに来ると、ぐっと庶民的になり、魚の棚(うおのたな)に、ちゃら=鍵屋町(かぎやまち)、ちゃら=銭屋町(ぜにやまち)と軽快な金属音が響く、職人や商人の町という雰囲気である。
その次の六条(ろくじょう)、三哲(さんてつ)から、通りの順番が南北に並んでおらず、三哲は七条(ひっちょう)の次なのでは。京都駅前からバスにのると、すぐに三哲のバス停がありましたっけと思い出すほど、三哲と八条(はっちょう)は近く、どう考えても六条ではなく、七条の南にある。この三哲自体、どういういわれのある地名なのかが分からない。なお、三哲通りとは、今の塩小路のことだそうだ。
また、八条(はっちょう)の次が九条(くじょう)であるのは良いが、何で十条(じゅうじょう)、東寺で最後なのだろうか。関西に住んでいた頃、筆者は弘法市や東寺の南門近くで開かれる骨董市に行く時は、バスで九条大宮で下りていた記憶があるが、やはり東寺は九条である。九条通り沿いには、平安京の南限である羅生門址があり、かつては九条までしかなく、十条通りができたのはそれほど昔のことではない。九条では、京野菜の一つである九条ねぎが栽培されていたのだから、昔は市街地から離れた農村地帯が、九条以南には広がっていたのであろう。今は、交通量も多く、立派な十条通りはあるし、十条の駅もあるが。
十条通りは、明治以降に作られた道路であり、したがってこの歌も明治以降に作られた歌である。といっても、室町時代からの伝承資料に京の縦横の通りの名を書いたものがあったらしく、謡曲『便用謡』の「九重」にも同様の京都の縦横町区名がみられるなど、古い資料や謡曲をもとに、明治の頃に「丸竹夷」は作られ、広く歌われるようになったのであろう。

<三条大橋から四条方面、鴨川を望む>
sanjyou-kamogawa

なお、この歌にはニューバージョンがあり、それは以下の歌詞である。

丸 竹 夷 ニ 押 御池
姉 三 六角 蛸 錦
四 綾 仏 高 松 万 五条
雪駄 ちゃらちゃら 魚の棚
六条 七条 通り過ぎ
八条 越えれば 東寺道
九条大路で とどめさす

まるたけ えべす に おしおいけ
あねさん ろっかく たこにしき
しあやぶったか まつまん ごじょう
せきだ ちゃらちゃら うおのたな
ろくじょう ひっちょう とおりすぎ
はっちょう こえれば とうじみち
くじょうおおじで とどめさす

この歌詞では通りの名が北から順に並んでおり、上記のような矛盾もない。十条は登場しておらず、かつての京都の範囲に収まっている。

さらに「丸竹夷」には替え歌があり、それは以下の歌詞である。

坊さん頭は丸太町、つるっとすべって竹屋町、
水の流れは夷川、二条で買(こ)うた生薬を、
ただでやるのは押小路、御池で出会うた姉三(さん)に、
六銭もろて蛸買うて、錦で落として四(し)かられて、
綾(あや)まったけど仏々と、高(たか)がしれてる松(ま)どしたろ

「まどしたろ」は京都弁で「弁償しようか」という意味である。これも、「姉さんに六銭もろて」というあたりに時代を感じさせる替え歌である。

<おなじみの東寺五重塔>
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本来連続しているのに、連続せずに、いきなりある数字が付いた地名は、良く分からない。実際には一宮も二宮もあるが、三宮という地名がクローズアップされている神戸の三宮は、何で三なの?と思ってしまう。
この三宮は、生田神社の一宮神社から八宮神社までの裔神八社の一つである三宮神社に由来する。伝説によれば神功皇后が摂征元年2月に朝鮮半島へ出兵した帰りに、敏馬の浦(現在の神戸)で船が進まなくなった。そのおり神功皇后に、稚日女尊(わかひるめのみこと)が降臨、ご神託あって、それにより稚日女尊を祀ったのが生田神社のはじまりで、生田神社を囲むように八社が建てられたという。神戸は、もともとは神戸駅周辺を中心に繁華街があったが、いつしか東寄りの現在の三宮・元町辺りが、華やかな場所になった。それで神戸といえば、三宮が中心のようなイメージがあるが、元は八つの神社の一つに由来する小地名であったのである。このように由来を知れば、納得できる。
実は、筆者が現在住んでいる船橋市にも、二宮神社という神社があるが、この周囲に数字がつくのはこの神社きりで、一宮神社というような名前の神社は近くには存在しない。明らかに二宮神社からついた地名として、周囲には二宮という場所(かつては二宮町であった)があり、二宮小学校、二宮中学校もある。但し、二宮神社のある場所は、かつては二宮町三山であったが、二宮町が船橋市に併合されてなくなったため、現在は船橋市三山である。三山は、宮山か御山が転じたらしいが、二宮の二から三山の三にカウントアップしているのが面白い。しかし、二宮神社が、なぜいきなり二宮なのか、いまだに分からない。

<二宮神社>
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そのほか、何でその数字がついているのかよく分からないものがある。先ほどの「丸竹夷」にあった三哲もそうであるが、例えば名古屋に八事(やごと)という地名がある。これは、八の日毎に市がたったとか、琴の名手の老人がいたとか、諸説あるそうであるが、確たる由来が分からない。

別に大きいことは良いことでもないが、大きな数字がついた地名では、千葉などはもっともポピュラーな部類であろう。だが、なぜ千の葉っぱなのだろうか。葉っぱでは迫力に欠けるし、森や林にいけばたくさんあるではないか、と思ってしまう。千田とかなら、広い田があって豊作になるようになど、願望もこめてつけられたと分かりやすいが。
千より大きい単位の万となると、万場や万代とかがあるが、少ない。万に対して、四万温泉の四万は四倍だ。かすかに大きいのは四国の四万十川の四万十か。しかし、なぜ四万と十なのだろうか。四万とびとびの十である。
大きな数字で最たるものは、京都の百万遍であろうか。千や万でもなく、何しろミリオン、百万である。但し、これは正式な地名ではなく、百万遍知恩寺から来ているのだそうな。京都だけあって、地名にもお寺や仏教用語が登場してくるのである。それ以上の千万や億のつく地名は聞いたことがない。新地名ではあるかもしれないが。
いや京都自体が、大きな数字のついた地名の最たるものかもしれない。なぜなら、京(けい)なのだから。

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