松ヶ崎城跡の柏市との共催見学会は75名と犬1頭参加
ようやく、松ヶ崎城のオープン後の見学会を開催できた。準備としては城跡の整備のもろもろがあり、特に草刈りに動員がままならなかったのであるが、保存の活動の一環として見学会など、ここは松ヶ崎城の会が動かないと、と松ヶ崎城の会の総会でも決まっていることなので、当初考えていたタイミングより遅くなったが、市との共催でとりおこなった次第。
<見学者に説明する柏市吉田学芸員>
すでに梅雨入りしていたが、心配された当日の天気も何とかもち、見学会の時には曇り空ではあったが、良い見学日和となった。
今回、柏市との共催で説明は、城の主な遺構や歴史の説明を柏市学芸員の吉田さんにお願いし、一部吉田さんの上司の井上さんが過去の発掘結果について、解説してもらった。
城の機能していたのは15世紀後半から16世紀初頭にかけてであることは、出土した常滑焼の壺や土塁の作り方などの遺構の状況から分かっている。しかし、築城したのがどの勢力であるか、また城そのものの用途は何かが不明である。
一説では、高田あたりにいた匝瑳氏が築いたともいうが、匝瑳氏が拠点にし、高田にあったという高田塁という城も遺構がないようで、伝承に近いものがあり、匝瑳氏云々というのもさほど根拠がないようである。
一方、南東対岸台地にあった中世の集落、中馬場遺跡、あるいは中世の館跡である法華坊遺跡、戦国時代後期の根戸城との関連を指摘する話もある。これは、最近周辺の調査が進むにつれ、有力になってきた。ただ、この松ヶ崎城跡付近にも「竹ノ台」つまり「館ノ台」が変化したと思われる地名があり、もともと在地勢力の館があって、戦国時代に城が築かれたと考える向きもある。
そうした城の成立の歴史は、いまひとつ分からないが、遺構の調査は進んでいる。井上さんの説明にもあったが、平成14年(2002)に発掘調査、その翌年にも追加調査がおこなわれており、東側の物見台という1号古墳とその横の2号古墳の間には、門跡という2本の柱跡が検出され、その間に硬化面があって、城道として使われていたようだ。また、北東側斜面からはピット列が出てきた。つまり、北側にあったという船着場と東側の門跡までは通路があり、さらに何か荷物を引き揚げる設備のようなものがあったらしい。
発掘では、西から北の土塁斜面に柵を造ったと思われるピット列も見つかっている。これは柵跡といわれるが、言うまでもなく柵は敵の侵入を防ぐためのものであるが、実際に使われたどうかは現在のところ不明である。
<土塁上から堀底をみる>
今回は歴史だけでなく、植物の説明も行った。植物と不動尊跡については、会の川上会長代行より解説してもらった。小生、植物についてはドクダミとヨモギくらいしか分からず、川上さんが詳しいので助かった。
不動尊は近年まで現存したが、火事で焼失したのは残念である。不動尊風景図、同参拝図、藤原秀郷・平将門合戦図、文覚上人荒行図、女拝み図、倶利伽羅剣図など、10数点あった絵馬も、ことごとく灰になった。しかし、写真は撮ってあったので、それが往時を偲ぶよすがになるとともに、貴重な史料となった。
<不動尊風景図を示す松ヶ崎城の会会員>
20人くらいしか来なかったら、ゆっくりマイペースで見学会ができるので、そのほうが良いかと思ったら、75名ほどの参加者があった。正確には犬を1頭連れていた人がいるので、プラス犬1頭である。
資料は50部しか刷っておらず、受付があとのほうの人には資料が渡らず、どうしてもほしいという人には郵送することにした。今回参加者が多かったとはいえ、中高年ばかりで若い人の比率が、圧倒的に低く、30代以下の人は10人弱ではないだろうか。多かったのは、団塊世代以上の人たち。これは、歴史関係の催しだけでなく、自然保護のイベントについても同様のようである。
会のホームページに見学会の様子とともに、植物の写真も載せたが、アジサイの写真が不鮮明だった。まさか本土寺のアジサイを掲載する訳にもいかず、昨日別件で柏に行ったついでに撮り直し、差し替えた。
<アジサイ>
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