カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の26件の記事

2009.09.06

九段で知り合いの歴史学者にばったり会う

東京都内を散歩するのは、久しぶりであるが、先日九段から神保町までブラブラと散策した。

実は、手伝っている「千葉県の戦争遺跡」(http://www.shimousa.net/)に「『首都防衛』の飛行場」というコーナーを作ることになり、とりあえず柏飛行場と印西市にあった印旛飛行場のページはアップしたが、松戸飛行場について記事自体はできているのに、写真がなかなか良いものが揃わず、特に松戸の飛行第五三戦隊や柏の飛行第七○戦隊からも四機、四名ずつ出して編成されたという震天制空隊の写真ですぐに使えるものがない。

もちろん、それについて研究している人のHPがあったり、鎌ヶ谷市郷土資料館が出した冊子にも載っているのだが、勝手に使うわけにもいかず、困っていた。

それで、頭の中は震天制空隊のことでいっぱいで、海法秀一が描いたB29に体当りする戦闘機の絵はがきでも売っていないかと靖国神社の遊就館に行ったのであった。

<靖国神社>

Oomura

海法秀一は、元陸軍軍曹で加藤隼戦闘隊で有名な陸軍飛行第六四戦隊に所属していたこともあるパイロットで、日本における空戦画の先駆者かつ第一人者だそうだ。空戦を描いた絵では、昔子供の頃にみた零戦などの空中戦の絵を思い出すが、そういう絵は戦闘機が宙返りしたり、かなり無理な態勢で飛んでいたり、現実離れしていた。この海法秀一の絵は決してうまい絵ではないが、なぜか説得力があるように思う。

海法秀一の絵は、靖国神社にもあるようだが、絵はがきのようなものは売っておらず、あきらめて帰ろうとした。

すると、意外なことに、同じ大学、同じ先生門下で、今は大学教授をしているYさんにばったりと会った。小生が学生のときには、Yさんは大学院の博士課程にいたと思う。他にも小生は、経済学部の院生で今はR大学の教授をしているOさんなども知っていた。

Yさんによれば、靖国神社には靖国偕行文庫という付属の図書館があって、戦史や戦友会誌などが豊富にあるとのこと。館長は防衛大学の名誉教授か何かしている人らしいのであるが、こういうことが調べたいというと資料をだしてきてくれる、煩わしい手続きもいらないし、古本屋で買えば何万円もする本がただで読めたり、靖国神社の奉賛会に入ると三冊まで借りられるということであった。

Yさんと小生の恩師は、陸軍士官学校を出て、大陸打通作戦など中国戦線を転戦、終戦時陸軍大尉であったが、戦後東大に入って歴史学者になった。先生は、なくなる2年くらい前に、1年に二冊本を書くと言っておられたが、本当にタフであり、元中隊長らしく統率力があった。文章は平明で、かつ具体的であり、事実に基づいたものであった。今やその先生のあとを、Yさんが継いだような格好である。

なお、小生の近況報告として軍事史学会に入ったことと、最近の大学の先生たちと柏で掩体壕の調査をしていると言ったところ、「その先生は知っている、自分も最近韓国に戦争遺跡の調査に行った」ということであった。

<チェジュ島の岸壁>

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チェジュ島には日本軍の特攻基地がたくさんあって、「チャングムの誓い」のドラマで撮影に使われた洞窟もそういう場所であったとのこと。例のモーターボートに爆弾を取り付けたような震洋の基地がたくさんあったそうだ。また海軍の飛行基地が近くにあった関係で掩体壕もたくさんあったと言っておられた。

現在の韓国にまで、日本軍は特攻基地をつくっていたとは、驚きである。

<チェジュ島の洞窟>

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本土決戦時、朝鮮半島を南下して、九州から連合軍が上陸してくることを想定し、日本軍はこれを水際でたたくことをかんがえていたのであろうか。千葉の九十九里浜にも、防衛線を張ろうとしていたが、連合軍が攻め込んでくるルートは複数想定していたのだろう。

Yさんと別れてからも、道々戦争のことを考えていた。曾祖父は戊辰戦争、祖父は日露戦争の終わったころに兵隊にとられた。父は太平洋戦争を体験している。自分は戦争の体験者でない。当たり前であるが、平和な時代に生まれてよかったと思う。

小生の父は海軍出身者であり、小生は子供の頃はよく靖国神社に連れてこられた。靖国神社の大村益次郎の銅像のある場所と本殿の間を横切る道沿いに、富国生命が建てたという大きな一対の燈籠がある。その社殿に向かって左側が陸軍、右側が海軍のいろいろな事跡をレリーフにしている。たしか、爆弾三勇士のレリーフも社殿向かって左側の燈籠基壇にあったはずであるが、いつも右側の海軍の方しか見ない。小生の父が、ほとんど海軍の方しか説明しなかったせいもある。そこに刻まれているのは、東郷平八郎の日本海海戦の例の三笠艦上にたっている姿、その横には旅順港閉塞の広瀬中佐の姿。

<靖国神社の燈籠基壇にある広瀬中佐のレリーフ>

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海軍の軍人だったのは、小生の身内には結構いる。父方にもいるし、母方にもいる。海軍では通常志願兵ばかりであるが、小生の親戚も志願というか、元々職業軍人になろうと海軍にはいったものばかりである。母方の親戚で兵曹長か何かで軍艦に乗っていた人らしいが、戦死したものがいる。この人は、子供のころ、「海軍のおじさん」と呼んでいたが、正確な名前を失念した。

また親戚で海軍の軍医になって、皇族の侍医から各地の海軍病院長を歴任した人がいる。東大を出て、海軍にはいって軍医中尉になった。結局、軍医では最高位までのぼりつめたが、戦後は公職追放となり、田舎の開業医になった。追放解除になってからと思うが、東大のほうで教授をやらないかと後輩に誘われたらしい。しかし、もう表舞台でやる気はないとのことで断り、田舎で医者を続けた。子供の頃から頭は良すぎるくらいだし、服装などには無頓着で、変わった人だったというが、自分なりの考えを通したのだと思う。

往診にいくのに、地下足袋をはいていったので、長靴をはいた猫ならぬ、地下足袋を履いた元海軍病院長の医者では、童話のネタにはならないだろう。軍隊では最初から中尉で、歩くか運転手付きの自動車に乗っていたため、一度も自転車に乗ったことがなく、年取ってから自転車に乗る練習をしたらしい。結局、軍医だった親戚は、自転車に終生乗れないまま、なくなってしまった。

<震天制空隊が乗った屠龍>

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話がそれたが、結局あれこれと考えたあげく、震天制空隊の写真は鎌ヶ谷市の学芸員さんと話をして、鎌ヶ谷市郷土資料館が発行した冊子から転載してよいことになり、一件落着したのであった。

だから靖国神社まで行く必要はなかったが、行かなければYさんには会わなかったのである。

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2009.04.18

ああ武豊線

武豊線は愛知県知多半島の武豊から北をはしるJRの路線であり、一応大府までなのであるが、朝などは通勤用に名古屋への直通電車も走っている。武豊から、大府までの駅は、武豊―東成岩―半田―乙川―亀崎―東浦―石浜―緒川―尾張森岡―大府と10駅のみである。

小生は、武豊線にはもっぱら東成岩駅から乗るのであるが、それは会社の正門が駅から歩いて1分という立地であり、車を会社の駐車場において出かけることができるためである。以前、といっても27年も前頃は、名鉄の知多武豊駅の駅前に無料の駐車場があり、名古屋などに出かける場合には、そこに車を置いていた。しかし、その駐車場は何年も前に廃止され、今は有料の小さな駐車場があるほか、武豊町役場の駐車場が金曜日の夜から日曜日まで開放されているが、土曜日、日曜日には朝早く行かないと満車になってしまう。

この東成岩駅は、かつては有人駅で、小生が会社に入って転勤によって、最初に知多に配属となった昭和57年(1982年)頃は、まだ二人くらい駅員さんがいたと記憶している。今でも駅舎の庭にセメントでつくったような花壇があるが、それは駅員さんがいたころのものであろう。今は乗降客が多いものの、乙川などと同じように無人駅である。

<東成岩駅>

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武豊線というように、武豊港に揚げられた荷物を名古屋方面に運ぶというのが、貨物としては明治19年(1886年)の開業当初からの目的になっていたらしい。しかし、武豊駅は、当初今の場所ではなく、国道の里中交差点付近にあった。どうも、里中のあたりから、道沿いに細長い空き地があり、廃線跡ではないかと思っていたが、そのとおりであった。

何気なく乗降していた武豊線であるが、明治19年(1886年)の開業という古い歴史をもっており、駅舎などの設備にも歴史的なものがある。開設にあたっては、測量はイギリス人顧問のウイリアム・ヴィッツから助言をうけ、鉄道技術については技師長ボイルの指導も仰いだ。当初鉄橋材料は、日本国内では調達出来ず、イギリスから輸入しなければならなかったという。しかし、開設当初苦労して誕生したにも関わらず、その後の飛躍的発展はなく、いまだに単線、しかもディーゼル車が走っている。単線のため、上下線は決まって緒川駅ですれ違うことなる。こんなローカル色が強い路線は、全国的にも珍しい。

武豊線の年表(Wikipediaより)

1886年(明治19年)3月1日 - 武豊 - 熱田間が開業。開業当初の通称は半田線。現在の武豊線にあたる区間に緒川駅(初代)、亀崎駅、半田駅、武豊駅開業。
1887年(明治20年)9月10日 - 緒川駅(初代)廃止。大府駅開業。
1888年(明治21年)9月1日 - 東海道線浜松 - 大府間が開業し、大府 - 武豊間(12M53C18L≒20.38km)は東海道線の支線となる。
1889年(明治22年)7月6日 - 営業距離の単位をマイル・チェーンのみに簡略化(12M53C18L→12M54C)。
1892年(明治25年)6月1日 - 武豊駅が現在地に移転、53C(≒1.07km)短縮。
1895年(明治28年)4月1日 - 線路名称制定により東海道線の一部となる。
1900年(明治33年)3月1日 - 緒川駅(2代目)開業。
1902年(明治35年)11月12日 - 営業距離の単位をマイルのみに簡略化(12M1C→12.0M)。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定、大府 - 武豊間が武豊線となる。
1915年(大正4年)2月15日 - 武豊駅構内扱いで武豊港まで路線を延伸。
1930年(昭和5年)4月1日 - 営業距離の単位をマイルからメートルに変更(大府 - 武豊間 12M→19.3km)。貨物支線 武豊 - 武豊港間 (1.0km) が正式に開業。旧武豊駅の場所に武豊港駅開業。
1933年(昭和8年)12月7日 - 尾張森岡駅、尾張生路駅、乙川駅、東成岩駅開業。
1934年(昭和9年)8月22日 - 藤江駅開業。
1942年(昭和17年)3月31日 - 東成岩駅休止。
1944年(昭和19年)11月11日 - 東成岩駅再開。尾張森岡駅休止。尾張生路駅と藤江駅を統合し東浦駅開業。
1957年(昭和32年)4月15日 - 尾張森岡駅再開。石浜駅開業。
1965年(昭和40年)8月20日 - 貨物支線 武豊 - 武豊港間 (1.0km) が廃止。武豊港駅廃止。
1984年(昭和59年)1月10日 - 東成岩 - 武豊間の貨物営業廃止。
1984年(昭和59年)2月1日 - 荷物輸送廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により東海旅客鉄道が承継。日本貨物鉄道が大府 - 東成岩間の第二種鉄道事業者となる。
1992年(平成4年)10月12日 - ワンマン運転開始。
2001年(平成13年)2月11日 - CTC化。
2006年(平成18年)11月25日 - 全駅にTOICA導入。ただし、大府駅以外の駅は簡易TOICA改札機であり、一般の磁気乗車券を処理するいわゆる自動改札機は大府駅以外の駅には設置されていない。

小生武豊駅には、たまに歩いて駅まで乗車していた。また、遠距離切符を買う時には、武豊駅か、半田駅にいくしかない。だから、武豊駅、東成岩駅、半田駅は、とくに身近な駅である。 武豊駅の一段高い入口付近には自動車も上がれるのである。それは自動車で家族などを送迎するために、そういう構造になっているのだが、さすがに車で乗り付けて、そのまま電車に乗る人はいない。

この武豊駅には、「高橋煕君之像」という胸像が駅の入口のところにある。昭和28年(1953)の13号台風の際に、武豊駅と東成岩駅の線路が流されたことに気付いた武豊駅の高橋煕駅員は、乗客を乗せて東成岩駅を出て武豊駅に向かう列車に対し、東成岩方面に走って発煙筒を焚いて列車を救ったが、自らは殉職した。武豊駅にあるのは、その高橋煕駅員の像である。殉職した高橋煕駅員は、「国鉄職員の鑑」と報道され、全国国鉄職員や小中学生などの募金により、像が建てられた。なお、これは銅像のように見えるが、常滑で作った陶製だそうだ。

<武豊駅~1953年の13号台風で殉職した駅員の像>

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実は武豊駅のある場所には、戦国時代に周辺の領主であった岩田氏が城を構えていた。長尾城というが、その城域は一部武豊駅の北側の一部敷地と重なっている。城主岩田氏は、武雄神社の神官を兼ねていたということであるが、京都に出自をもつらしい。城主では岩田杲貞の名が伝わっている。遺構は堀跡が多少残っている程度で、土塁などはなくなっている模様。国鉄武豊駅が出来たために、その城址の東半分が削られたが、たしかに武豊駅から電車に乗って西側をみると緑の木々に覆われた小高い台地が南北に100mほど続いており、そこに城があったのが納得できる。

最終的に、同じ知多半島の北部で力を蓄え、徐々に実力を発揮していった緒川水野氏の水野信元に、天文12年(1543)成岩城の榎本了圓が滅ぼされたのと同じ時期に攻められ、降伏している。その最後の城主は岩田左京亮安広、出家して杲貞と名乗った。

長尾城の周辺には、城に関係ある地名があるが、「上ゲ」というのも、その一つである。名鉄の駅に「上ゲ」という駅が知多武豊駅と青山駅の間にある。

<武豊の春祭りの様子>

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しょうもない話であるが、東成岩の成岩が「ならわ」と読めない人は、「なりいわ」と呼んでしまう。それで成岩を「ならわ」と説明するのが面倒で、小生なるべく東京などでは切符を買わないようにしていた。

成岩には成岩神社があり、その隣接した場所には鳳出観音がある。これは成岩の常楽寺の典空顕朗上人が、慶長元年(1596)、常楽寺の前身である天台宗仏性寺の観音堂を半田市有楽町二丁目の小高い丘に移したのが始まりである。鳳出観音の名前は、元は常滑の時宗の僧侶であった榎本良圓が城主をしていた成岩城を攻略するために、天文年間に緒川水野氏の勢力が築いた成岩砦に由来する。つまり、砦のきずかれた場所が「とりで山」と呼ばれ、そこに観音堂が建ったため、「とりで観音」と呼ばれるようになった。

成岩砦が対峙した成岩城は、東成岩駅をまっすぐ国道にむかって歩き、国道に突き当たった辺りの台地上にあった。しかし、現在は遺構がほとんど残っておらず、「成岩城址」と刻まれた石碑が建っているのみである。

考えてみると、武豊線周辺には、結構城跡などが多い。成岩から北では緒川城が緒川駅近くにあり、村木砦は尾張森岡駅の近くにあって、武豊線が砦跡の上を横断している。その他、乙川や亀崎の駅周辺にも小さな城跡がある。これは、中世から存在した集落を結ぶように、知多半島東浦沿いの平地を武豊線が走っているためである。

ただ、半田駅のすぐ近くには、文明、明応年間に築城されたという半田城、別名坂田城という城があったものの、城の遺構はない。ただ、堀崎、城屋敷という関連地名が残っているのみである。近くに紺屋海道という古い道があるが、染物屋が沿道にあり、商人や職人たちが往来した海岸線沿いの道である。また、紺屋海道付近の浄土真宗の順正寺には、伝来の絵像阿弥陀如来があり、それは永正10年(1513)に道場創立者宗閑法師に本山の法主實如上人から下附されたものであるが、その裏書に「尾州智多郡坂田郷」とある。その坂田郷が、「さかた」ではなく、「ばんだ」となり、「はんだ」となったのが半田の名前の由来だそうだ。

<半田駅のホーム>

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半田駅は、さすがに知多半島の中心とでもいうべき場所を象徴して、今は少しく寂れているが駅前は広く、中埜酢店経営者の広大な邸宅も近い。駅舎の一部である跨線橋は、明治43年(1910)11月に設置された全国で最も古い跨線橋である。跨線橋の支柱には「明四十三鐡道新橋」と鋳込まれている。現在の跨線橋は、塗装が新しくされているのと、ホームにおりてきたところに手すりが付け加えられている以外は改変されることなく、原型が保たれている。通路はひと二人がようやくすれ違うことができるほど。昔の建造物の割に、階段はさほど急ではない。跨線橋とともに、煉瓦造りの油脂庫もあって、かつては信号機用の灯油が保管されていた。

<半田駅の跨線橋と油脂庫>

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半田駅は、跨線橋以外、駅舎自体はさほど古いものではない。その隣の乙川駅も同様である。

ところが、亀崎駅については、駅舎自体が明治19年(1886)の開業当初のものであるというから、驚きである。亀崎駅は乙川駅とほぼ同規模で、逆に乗降客は乙川より少ないように思うが、ここは有人駅である。

しかも、明治19年の駅舎が、いまだに現役である。これはJRでは全国一古い駅舎らしい。ただ、120年もたっているのに、それほど古い建物という印象はなく、よく田舎で見かけるようなイメージの駅舎である。

<亀崎駅>

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亀崎の北は東浦町であり、武豊線の駅も東浦、石浜、緒川、尾張森岡と続く。

その歴史を書き出すと、長くなりすぎるのでカットするが、村木砦近くの尾張森岡駅を後にして、石ヶ瀬川をこえるときに、高い鉄橋の上になる。その景色は、下の貨物路線や自動車道路を見下ろす形となり、武豊線随一の見どころかもしれない。

<石ヶ瀬川を越えたあたり>

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大府駅で、武豊線は東海道線に合流する。大府までくると、名古屋は目前である。そして、大府駅では、刈谷、岡崎方面の乗り換えができる。大府には、郊外には工場などもおおいが、駅周辺の商店街にとんでもない古い装いの店(よろずや風)があったりする。やはり歴史の古い町である。

<大府駅>

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今では東海道線になるが、大高駅の辺りから、丸根砦のある台地が見える。鷲津、丸根の両砦は、織田勢が今川方の守る大高城に対峙するために築いた砦である。駅から、そういう歴史的な場所が見えるのであるから、なんともすごいところである。 かつては、熱田までが武豊線(半田線)の領域であったが、今は大高駅も東海道線の駅である。

<車窓からみる丸根砦跡>

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2009.02.23

東葛地方で中世城郭発見か(続々報)

中世城郭発見というと、まったく新しい城を見つけたように聞こえるので、正確に言えば、なくなったと思われていた城跡があったということである。なぜ、なくなったとされたのか、小生にはその経緯は知る由もない。ただ、あったという確認をして、場所を特定し、縄張り図をかくために測量をしてきたのである。前回申し述べた通り、この城の主郭は東の隅を頂点とし、西側は円弧を描く、扇のような形であって、西側は低地に面し、いわゆる弧状塁線からは低地に侵入した敵に矢を広角で射掛けられる。

<主郭の土塁>

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弧状塁線の下の斜面は切岸で削られ、腰郭があるのだが、その腰郭も大きく二つあって、西側の腰郭は25mほどの長さがあり、思ったより大きい。そして、その腰郭から、もう一段小さな腰郭が開いている。こういう、入れ子構造の腰郭は、初めて見た。その腰郭のさらに西の斜面上には小さな郭があって、その郭は物見があったと思しき細長い郭と主郭をつなぐ役割をしている。これを小生は副郭と呼んでいるが、主郭より副郭は低くなっていて、細長い郭とは段切によって仕切られている。

副郭の北西側は主郭の土塁がのびているが、その反対側には土塁らしきものは見当たらない。本来なかったのか、削られたかであるが、現存する土塁は蔀土塁として、城内を敵に見せないためのものか。また副郭のなか、主郭のなかは、ともに、縁辺部より少し低くなっている。これもなるべく城の中を見せまいとする工夫であろう。

副郭に接する、細長い郭は、はじめ一つの郭であると思っていたが、藪のなかを調べると、堀と土塁で仕切られ、二つの郭に分かれることが分かった。つまり、山城でよくあるような連郭式の状態で、3つの小さな郭が並んでいるのである。低地からこの副郭の方にはいる虎口は、副郭とその隣の小さな郭の境界近くにあり、低地へは土塁が10mほどものび、その土塁を伝って下に下りることができる。その虎口は、あまり明瞭ではないが、枡形虎口のようであり、主郭に入る虎口が平虎口なのに、なぜ下の造作のほうが技巧的なのか、よく分からない。

なお、細長い郭は、現状が細長くなっているのでそう呼んでいるが、実は南側が破壊されていることが分かっており、本来の形と違うかもしれない。それにしても副郭は本来の形であり、それから類推するに、城全体は大きな扇形の開いた部分の一方から、細長い半島状の郭が伸びているという変わった形で、扇の開いている部分の下には、腰郭が二つある。

<崖下低地より主郭を見る>

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これは、想像であるが、もともと台地上に中世の土豪の居館か何かあって、戦国時代の後半にそれを改変して、防御を固めたのではないかと思う。その防御も、おそらく船着場があったであろう、入江状の谷津に面した部分に重点が置かれているようである。

なお、前回、「自然地形以外にいくつか井戸状のものがあって、城の遺構なのか、近現代で耕作か何かの都合で作られたものか判別がつかない。腰郭下の状態については、何かしたかどうか、地主に問い合わせてもらっているが、江戸時代に何かしたということなら、見当がつかないだろう。」と書いたが、その後地元の城探索の言い出しっぺの方に、その親戚である地主に確認してもらったところ、昭和17年(1942)頃に軍隊がその場所で馬を20頭ほど飼っていたとのことで、その改変があったかもしれない。

低地には副郭と細長い郭の境目から出ている土塁、細長い郭から出ている土橋状の土塁(坂土塁)と大きく2つの土塁があり、いずれも途中で切れているように見えるが、それがもしのびていたとすれば、いびつであるが方形となる。

その方形の場所は、平坦であり、その下は湿地で現在でも水が湧いている場所がいくつもある。なにか、土塁で囲んだところに建物があって、水辺(あるいは、そこには船着場があったかもしれない)が、すぐ近くにまで迫っていたのだろう。

<低地にある土塁を上から見たところ>

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すると、屋敷が台地下にあって、上の城の主郭と、下の土塁から副郭に通じる虎口を経由して、連絡していたのだろうか。

城の輪郭が、大体明らかになってきたので、細部の探索は別の機会として、誰が何のために築城したのか、今後はそちらを考えていくことになるが、縄張り図を仕上げて県や市の関係者と相談しようと思っている。

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2009.02.15

東葛地方で中世城郭発見か (続報)

前回、掲載した中世城郭を測量し、縄張り図をかきつつあるが、方形居館形式と思っていたのは誤りで、東の主郭の隅を頂点とし、西側は円弧を描く、扇のような形と判明した。

すなわち、西側は低地に面し、いわゆる弧状塁線をもった城ということになる。これは武田氏の丸馬出しと同様のつくりであり、低地にはいった敵に少ない人数で矢を射掛けられるという軍事的な利点をもっている。弧状塁線の下の斜面は切岸で削られ、下には削り残した竪土塁で仕切られた腰郭があり、さらにその下は自然地形以外にいくつか井戸状のものがあって、城の遺構なのか、近現代で耕作か何かの都合で作られたものか判別がつかない。腰郭下の状態については、何かしたかどうか、地主に問い合わせてもらっているが、江戸時代に何かしたということなら、見当がつかないだろう。

そのほか、主郭の西側に一段低く小さな副郭があり、さらにその東側には半円状の腰郭があるのがわかった。副郭からは南に細長い郭があり、その細長い郭とは段切で仕切っている。また細長い郭の先端近くに土橋状の土塁あることは、前回書いたとおりであるが、副郭と細長い郭の境界から5mほど南にいったところから土塁が低地にのび、その土塁を伝って下に下りることができることが分かった。つまり、そこにも虎口があったようである。

<西側の腰郭>

Kosikaku 

低地には横堀があるが、細長い郭から下に続く、土塁の先がきれていて、本来長く続いて下でも郭があったのか、もともと短い土塁なのかがよく分からない。井戸のような方形の窪地が何箇所かある。まさか障子堀ではなかろうが、なにせ、藪がすごく、腰郭辺りから、誰かが指揮して、数人で手分けして調べるとかしないと、全貌が掴み難い。

<土橋状の土塁を上から見たところ>

Dobashi

これは結構難物かもしれない。細長い郭は先端が少し低くなるが、台地の立ち上がり箇所にあって、遠く川のほうまで見渡せるので、櫓でも組んで物見としたかもしれない。とにかく、やたら低地からの侵入に警戒した作りになっている。

つまり、当初考えていた単純な地侍クラスの丘城ではなさそうである。もしかしたら、小田原北条氏関連か。

家でいえば、一階と二階と中二階があって、二階が半分円形になっているようなもので、小さいけれど、構造的にも面白い城である。

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2009.01.18

東葛地方で中世城郭発見か

かねて、中世城郭を調査していた東葛地方の某市において、先日千葉県文化財関連の研究者某氏と某市学芸員の方、および言い出した地元の方と郷土史研究の方々とともに、その中世城郭の遺構らしきものの踏査に行きました。

主郭と思われる郭は台地上にあって、一辺が40mから50mほどの方形であり、土塁、空堀、虎口、土橋を備えています。虎口は北にむいて開き、西側が入江状の低湿地を望む場所にあって、縁辺の土塁の下は切り岸か急になっていて、台地中腹に腰郭らしきものがあります。

<主郭らしき郭の周りを取り巻く空堀と土塁>

Kakunai

主郭らしき郭の東側の空堀は深く、人の腰ほどもありますが、落ち葉などの堆積を考えると、実際は3mとかあったかもしれません。

正確に計測はしていませんので、詳しい数字が出ていませんが、主郭はほぼ正方形に近い形と思われます。

西側は竪土塁のようなものを残して、切岸があり、腰郭状になっている平場の北側にさらに土橋があって、小さな郭(物見用か?)と連絡しています。土橋は比較的高く作られ、人が一人通るのがやっとというような幅しかありません。小さな郭の北側にはさらに溝がありますが、それが竪土塁に付随する空堀のあとか、近世以降に作られた溝または道路かは不明です。

<土橋は一人通る幅しかない>

Dobashi

主郭らしき郭の周囲を取り巻く土塁は比較的しっかりしていて、幅が1.5mほどはあり、上に乗って歩いてもびくともしません。版築構造になっているのでしょう。ぐるっと土塁の上を歩くと、最初入ってきた虎口の場所に出ます。

一応ここは『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書』にも出ていますが、「消滅」扱いになっています。これは新年早々に新発見かな。

<土塁の上をいく>

Doruiue

小生の推理では、西側にある池を伴う入江状の低湿地は、中世にはもっと広範囲に水をたたえた場所で、船着場あるいは船隠しがあったのではないかと思います。

多分、この城もその船着場を利用して、水運によって手賀沼、印旛沼(印旛浦)とつながり物資を移動させていた勢力が船着場を守るためにつくったか、何かと思います。

虎口が平虎口で、腰郭や切岸以外に目立った防御設備がないことから、戦国初期以前の城跡かもしれません。

なお、近くには塚もあり、ほかに土塁もありますが、城跡との関係などは不明です。というより、城跡の主や、近くにある城跡との関連も不明です。

文化財関連の方からは、正確な位置を確認し、縄張り図を描くように指導がありました。小生縄張り図が苦手でありますが、この際下手でも協力せねばならないようです。

(「古城の丘にたちて」外伝より転載)

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2008.12.13

芦屋から有馬へ

先日、仕事で有馬へ行った。別に温泉につかりにいったのではない。仕事の検討会の合宿に適した、あいている会社の保養所がそこしかなかったためである。かつて住んでいた芦屋に前泊し、朝バスに乗って有馬まで。およそ30分強でつく。

しかし、あまりにも最近来ていないので、途中の景色がはじめて見るような気がしてならなかった。JR芦屋の駅前から阪急バスにのり、芦屋川駅まで行くと、あとは登る一方である。それにしても、住んでいるころには、ライト邸などの有名な建物や観光名所には興味がなく、谷崎潤一郎記念館に何度か行ったきりであった。

そのライト邸などの脇をおかまいなしにバスは登っていくが、つづら折の山道はバスも登りづらかろうと思う。しばらく行くと、芦屋市の奥池という地域になり、ここで大半の乗客は降りてしまう。バスで芦屋市街から有馬まで行こうという人は、一部の地元の人しかいないのである。

<有馬までのバスの窓から>

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途中、芦有道路の「展望台」バス停付近では、わざとバスが速度を落としてくれる。バスに乗った状態で、下界を見ることができるようにとの配慮である。ちなみに、この芦有道路は芦屋と有馬を結ぶ道路という意味で、「ろゆう」道路と読むが、小生それを芦屋有料道路と思い、「あしゆう」道路と言っていて、かみさんから馬鹿にされた。

<展望台>

Tenboudai

<展望台付近の大阪湾をのぞむ景色>

Ariashi

もうあまり、このあたりも来ることがなくなるだろう。思えば、芦屋も良いところだったのだが、ほとんど小生にとっては、良いことがないまま、当地を離れることになった。それを再訪するのは、自分の意思ではなく、会社の用事があったからである。

有馬について、有馬グランドホテルにご飯だけ食べに行った。一人とぼとぼ歩いてきた小生をホテルの人が出迎えてくれたが、宿泊ではない旨を告げても、丁寧な応対であった(この人は帰りにも覚えていてくれてバスでおくると言ってくれたが、行き先があまりに近いのでそれは辞退した)。さすがに、ご飯はうまかったし、庭をぶらぶらしてようやく、有馬に来たという感じがした。このホテルの庭には噴水が2つあり、その展望台から、有馬の山が色づいているのが見晴らせた。

<有馬グランドホテルの庭からの景色>

Gurando

その後は結局1日半会社施設に缶詰となり、夜まで検討会は続いた。そして、合宿が終わると、最寄の神戸電鉄有馬温泉駅から急ぎ知多半島に戻ったのであった。

<有馬温泉駅付近の噴水>

Arima1

Arima2

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2008.11.27

徳川家康と知多半島(番外:曹洞宗心月斎の晋山式)

先日、くしくも心月斎にて参列した晋山式。初めての経験で、お寺のなかで、ずっと座っていたのも、久しぶりである。

晋山式とは、そのお寺が新しい住職を迎える、いわば住職交代の儀式である。それは、大体以下のとおりで、稚児行列はオプションかもしれない。なお、禅宗では、和尚さんを普段方丈にいるので方丈さんというが、新命方丈さんは新しく任命された和尚さんのことである。

<お稚児さんは本堂にも入ってくる>

Chigo

・三門法語  新命方丈さんが三門に到着、香をおたきになり、ご自身の見識を述べる

・大擂上殿  太鼓がとどろく中を本堂に入る

・仏殿法語  ご本尊様に対する新任のご挨拶
・土地堂法語 仏法の守り神である招宝七郎大権修理菩薩様の御前で、このお寺の繁栄と檀信徒の家内安全、子孫長久祈る

・祖堂法語 達磨大師へ法語
・開山堂法語 高祖道元禅師様・太祖瑩山禅師様・このお寺の御開山様・歴代住職へ法語
・拠室(こしつ) 新命方丈さんは初めてご自身の方丈の間に入る
・視篆(じてん) お寺に伝わる数々の印鑑を確かめる儀式

・空座問訊(くうざもんじん)  

・新命上殿  新命方丈さん、太鼓がとどろく中を本堂へ

・伝衣搭著(でんえとうじゃく)  御開山以来伝わる衣を着る

・新命登座  新命方丈さんは須弥壇上に登座

・拈香 

・ 問訊  問答に先立ち、問答の開始をお願いするお拝を行う

・白槌(びゃくつい)  白槌師さんが槌砧を打って問答開始を宣言

・垂語(すいご)   新命方丈さんは話のきっかけとなる言葉を述べて大衆を誘い、ここに大問答が開始される 

・問答

・拈香・結語

問答は、少し面白いものがあったのだが、 ある住職によれば、「禅問答等の重要性は勿論ですが、行持をご祖師方と同じく行うことができるということが何よりの幸せ」ということだそうだ。

(上記は曹洞宗のHPを参考に書いているので、当日概ねその通りであったように記憶するが、一部変わっていたかもしれない。当日は晋山開堂以外に、法戦式もあった)

<おでこにしるしを書いて無病息災>

Chigo2

なお、法戦式は、文字通り、問答を戦わせるものである。法戦式を取り仕切るのは、首座(しょそ)の役割で、首座とは修行僧の先頭に立つ役職である。首座は、和尚さんに代わって、問答をリードする。

和尚さんから、杖を受け取り、それで問答を展開していくのだが、今回首座の役を務めた僧は、音楽大学でチェロの演奏をしたいたという若いお坊さんである。音楽大学を出て、さらに仏教系の大学に入ったというのだから、たいしたもの。今でも、チェロなどを演奏しているのだろうか。それは、さておき。

これは、お釈迦様が霊鷲山においてお弟子の迦葉尊者にご自分の席を半分ゆずって説法を許されたという故事にならったものだそうだ。

(その問答の様子は、上記をクリックすれば、聞くことができます。)

参考サイト:

曹洞禅ネット http://www.sotozen-net.or.jp/

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2008.11.24

徳川家康と知多半島(その33:水野忠分と心月斎)

去る11月2日(日)、愛知県知多郡美浜町布土にある梨渓山心月斎という、曹洞宗の寺院の晋山式に行ってきた。

<晋山式が執り行われた心月斎>

Shingetsusai1

それは、岩滑城主、中山勝時ご子孫のSさんから誘われたからであるが、この心月斎の先代、当代住職はSさんのご親戚である。晋山式とは、新しい住職にかわるお披露目の式のようなものであるが、新しい住職とは、先代住職の息子さんで、副住職をつとめてこられた人である。小生の家も曹洞宗であるが、菩提寺は現住所と遠く離れ、今まであまりこういう行事にでることもなかった。  

当方、こういう式に参加するのも初めてなら、心月斎のお堂の中に入るのも今回が初めてである。もちろん、心月斎という寺については、知多に来てから知っているし、何度か来たことがある。この心月斎は、「花の寺」というだけに、季節の草花がいろいろ咲いている。お堂の前の鐘楼の東側に階段があって、裏山のような場所に上ることができる。そこは、公園のようになっていて、階段を上がったところに、蓮池があって、ぐるりとまわってあるくときに、いろいろな石造物や草花を見ることが出来る。以前来たときは、その裏山の植物がいろいろ植えられている公園のような場所を散策したりしたが、蓮池でハグロトンボを見かけて写真を撮った。

<ハグロトンボ>

hagurotonbo.

この心月斎は、天文15年(1546)に、緒川水野氏一族の水野忠分が開基となって創建された。開山は、緒川から招かれたという大良喜歓大和尚。戦国時代、緒川水野氏は知多半島を制圧すべく、一族を知多半島の要所に配置したが、河和の戸田氏に対する備えとして、この布土に水野忠分を領主として配置したようである。 水野忠分は、水野忠政の六男、あるいは七男という。名前は「ただちか」と読むが、「ただわけ」と書いている本もある。水野忠分は、水野忠政の第何子か不明なのは、水野近守を忠政の子とするかどうか、説が分かれるためである。

水野近守が拠ったとされる、刈谷古城は、文明8年(1476)頃には築かれたらしい。通説では、緒川水野氏の祖である水野貞守が刈谷に進出したことになっており、その貞守は長享元年(1487)になくなっている。万里集九が書いた『梅花無尽蔵』という詩文集にも、文明17年(1485)9月の記事として「出刈谷城三里余」とあり、水野貞守存命中に水野氏が刈谷に城を構えていたことが知られる。その刈谷古城の築城が文明8年(1476)頃という訳は、三河守護細川氏と前守護一色氏の戦いが、その当時あり、そのころ水野氏は一色氏について知多半島から刈谷に進出したというのである。

その水野近守は、連歌を嗜んだ風流人であったようで、連歌師の柴屋軒宗長と親交があり、永正17年(1520)、宗長の師宗祇の句集「老葉」に注釈を加えた「老葉註」を与えられている。さらに、「宗長手記」から水野近守は「藤九郎」という通称であることや、大永2年(1522)の時点で和泉守の官途名を名乗っていたことが分かっている。

一方、その当時、水野忠政自身は、緒川にいたはずで、天文2年(1533)に今の亀城公園のところに刈谷城を築いた後、刈谷に移ったという。水野近守が拠った刈谷古城の南400mほど行った場所に、楞厳寺(りょうごんじ)という曹洞宗の寺がある。これは水野忠政が刈谷城を築き、刈谷に移住した際、この寺に帰信し、水野家の菩提寺になった。その楞厳寺に、水野忠政が残した享禄元年(1528)の年月の入った文書があるが、署名は妙茂となっている。

水野右衛門大夫妙茂寄進状

為月江道光毎日霊供□・・・□ 江末代
 渡申田之事
 合弐貫六百文目此内
  壱貫文目坪上松御会下之前次郎四郎散田之内
  壱貫六百文目坪江口御会下之前治郎五郎散田之内
  此田石米弐石六斗ニ延米在之
右於下地者子々孫々違乱煩不可
申上候、為其居印判所末代渡
進上如件
  享禄元年戊子拾二月廿六日 右衛門大夫 妙茂(花押・朱印)
楞厳寺 
   永諗東堂様

<楞厳寺本堂>
ryogonji

水野近守は忠政の文書が発給される前に、大永5年(1525)に楞厳寺に土地の寄進状を出しているが、その文書の体裁と、3年後忠政が出した文書の体裁が同じであり、花押の上に朱印を押し、その印判が瓜二つである。ということは、水野近守は水野氏一族ではあるが、水野忠政の子ではなく、刈谷における水野氏統治の前任者というような人物であった。大永5年(1525)から享禄元年(1528)の間で、刈谷の統治権力が、水野近守から水野妙茂(忠政)に移ったとみることができる。さらに、水野忠政は、築城後は本拠地を緒川から刈谷に移しており、徳川家康生母於大は刈谷城から岡崎の松平広忠に嫁している。

その水野忠政は、天文12年(1543)に刈谷でなくなっている。跡を継いだ水野信元は、今川との関係を断ち、織田方の旗幟を鮮明として、織田の勢力をバックにして知多半島を南進していった。それは、天文12年(1543)で、早くも阿久比町宮津の宮津城にいた新海淳尚を下し、その出城で榊原主殿が守る岩滑城を落とすと、中山勝時を城主としたのに始まり、時宗の僧といわれる榎本了圓がまもる成岩城を落とし、そのあとに梶川五左衛門を入れて城将とした。

また、さらに南の現在の武豊町にあった長尾城を攻め、城主岩田安弘をくだしている。岩田氏は、『知多郡史』によれば、室町時代初期、枳豆志庄は醍醐三宝院領となり、岩田氏がその管理者となったといい、醍醐三宝院に関連した武士であって、その三宝院領の管理のために京から下り、やがて土着して三宝院領を押領したとも考えられる。また室町時代になると、大野庄に入った一色氏が勢力をふるうと、対抗上岩田氏も武雄神社の南、金下(かなげ)の地に城を築いた。さらに、富貴にある富貴城も戸田法雲が築城したようにいわれているが、もともと岩田氏が長尾城の支城として活用していた。戸田法雲は、その岩田氏が衰退したために、富貴に進出、城を改修したものである。

もともと水野氏は、知多半島の要衝をおさえるべく、常滑、大高に一族を配していた。常滑水野氏しかり、大高水野氏しかりである。たとえば、常滑水野氏は緒川水野氏出身の水野忠綱を初代として、歴代当主が監物を名乗る家であったが、もともとは、大野や内海に勢力を張った佐治氏との対抗上配されたのであるが、伊勢との交易のために常滑に港を開き、経済力をつけていった。また、和歌などの風流をたしなみ、織田信長や徳川家康とも書状のやり取りを行う立場にあった。

知多半島の要衝に一族を配していった水野氏であるが、水野忠分もまたその一人といえるであろう。この水野忠分については、天文6年(1537年)生まれで、天正6年12月8日(1579年1月14日)に織田信長の有岡城攻めに従軍して討死にしたこと以外、明確な事績が伝わっていない。しかし、さまざまな歴史的文書や『信長公記』の記述から、以下のことが分かっている。また、於大の方の弟であるから、徳川家康にとっては叔父にあたる。

(1)名前 :

通称は、藤二郎(藤次郎、藤治郎ともかく)、あるいは藤十郎。 忠分は「ただちか」と読む。法名は、盛龍院殿心得全了大居士。

(2)本貫地 :

 終生、緒川であった(刈谷を本貫とした信元とは違う)。

(3)家族関係 :

 忠政の子、信元の弟(六男、七男、八男の諸説あり)。妻は大野の佐治為貞の娘。子としては後に緒川高藪城主となった分長や心月斎第三世寛秀和尚がいる。

(4)居城: 

 布土城(愛知県知多郡美浜町大字布土字明山)

  参考:「∞ヘロン『水野氏ルーツ採訪記』」ここをクリックしてください 縄張図等あり

(5)武功:

 天文23年(1554年)の村木砦攻めを織田信長とともに行ったらしい。天正6年12月(1579年1月)有岡城攻めで先鋒。討死。

<心月斎本堂>

Shingetsusai3

また、水野氏の勢力下には、曹洞宗の水野氏系の寺院を建立していったのであるが、この心月斎もその一つといえるだろう。たとえば、水野氏の本拠、緒川には水野忠政の墓のある乾坤院がある。その緒川の北の村木にも曹洞宗の寺院が、なくなった臨江寺も含めて五つもあった。常滑には常滑水野氏が創建した天澤院、大高には大高水野氏が開いた春江院があった。そういう寺院は、民衆の信仰の場であるとともに、同じ曹洞宗を信じる水野氏と、精神的に結合し、その統治を隅々までいきわたらせるためのものでもあった。

河和の戸田氏が水野氏の勢いに屈して、水野信元との和議によって河和を残すことを図って、水野氏の姻戚、一族に収まると、布土の戦略的な価値はなくなったといえよう。布土に城を構えた水野忠分がなくなったあと、跡継ぎの分長は水野忠重に従ったが、小牧長久手の合戦など数々の武功をあげ、慶長6年(1601)緒川一万石、高藪城の城主となった。

しかし、心月斎は徳川家康のいとこにあたる寛秀全廓和尚の代以降も、連綿として存続し、地域の大寺として今日に至っている。

<心月斎の山門>

Shingetsusai2

参考文献:

『戦国歴史年表』 木原克之編 美浜町教育委員会 (2002)

『刈谷市史』 刈谷市 (1989)

*長いので、晋山式の様子は、別の記事にしました 2008.11.27

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2008.10.05

月はおぼろに東山

小生、歌はあまり人前で歌わないし、熱烈な音楽ファンではないように思う。しかし、音楽はそこそこ聴いていた。聴くのも、学生時代は専らクラシックで、社会に出てからはヨーロッパのポップスとかになり、カーステレオでよく聴いてた。特に、シルビー・バルタン、ジリオラ・チンクエッティは。

ジリオラ・チンクエッティはサンレモの女王であるとともに、カンツォーネを一般に親しめるものにした。しかし、日本では「雨」くらいしか、知られていないかもしれない。

会社にはいった当時は、CDなどはなく、カセットテープばかり。レコードはあまり持っていなかったが、たまに買ってくると繰り返し聴き、うっかり傷つけてしまうと大変損した気分になった。兵庫から転勤で東京にかわったとき、だいぶ売るか、捨ててしまった。しかし、神戸のレコード店に売りに行ったが、逆にシルビー・バルタンのレコードを買ってしまったこともある。

そういう小生が、ときどき、無意識のうちに口ずさんでいる歌が、二曲ある。それは「祇園小唄」と「君恋し」。なぜ、その曲なのか、皆目わからない。かなり昔からだし、「君恋し」はフランク永井が歌っているのを聴いているが、自分の胸のなかにあるのは曲調が違い、もっとテンポが速い。これについては、最近変なことに気付いた。

祇園小唄など、京都出身でもない小生がなぜ口ずさむのか、自分でもよく分からない。小生の雅号は、「湖城」であるが、その湖は琵琶湖を意味し、早い話が琵琶湖湖畔の城にちなんでつけたもの。それは会社の用事で滋賀大学にときどき行っていたおりに、経済学部を訪問すると必ず彦根城を経由して自宅に帰っていたので、最初は彦根城をイメージしていたが、膳所城でも大津城でもどうでもよくなった。

滋賀大学は経済学部と教育学部の二つの学部であるが、その二つがえらく離れている。教育学部は石山、経済学部は彦根。二つとも一日でまわるのであるが、いつもはじめは教育学部に行き、次に経済学部にまわった。その教育学部のある石山へは、自宅近くのJR芦屋から電車に乗り、京都で乗り換えて行っていたが、京都ではおりたことはない。それは仕事中ということもあるが、JR京都駅で降りても歩いていけるのは西本願寺くらいで、バスで出かけると戻ってくるのに時間がかかりすぎ、完全にサボリになってしまう。

<祇園白川にかかる巽橋>

Gionsirakawa

小生と京都の縁は、やはり兵庫に住んでいたときに休日に阪急電車で四条河原町に出て、寺などをめぐるようになってからで、その前は一度高校の修学旅行で行ったきりである。阪急電車の終点が四条河原町。阪急百貨店や高島屋もあるが、電車を降りると四条大橋の近くに出て、木屋町を北へ川沿いに進むと先斗町、歌舞練場があって、さらに行くと三条大橋のたもとに出る。三条から四条にかけての鴨川の情景が、印象に残っている。

<鴨川~三条大橋から>

Kamogawa3

しかし、無意識に「祇園小唄」や「君恋し」を歌ってしまう、小生の変な癖は、ずっと前から、ごく若い頃からであるのが少々変である。

その「祇園小唄」を聴くと、なにか、祇園新橋あたりの光景が目に浮かんでくるようだ。しかし、ほとんど自分とは無縁の世界である。

祇園新橋界隈は、一番花街としての情趣を残している場所であろう。辰巳大明神や白川にかかる巽橋、茶屋の立ち並ぶ通りに向かい、白川を背にして吉井勇の歌碑がある。その白川は小さな川だが、ちゃんと鯉も棲んでいるし、水鳥もいる。

<舞妓のだらりの帯>

Minamiza1

辰巳大明神はちょうど、道が分岐する場所にある。辰巳大明神とは、何に対して辰巳(南東)の方角にあるというのだろうか。たぶん御所であろう。東京でも、門前仲町のあたりは辰巳といい、辰己芸者などもいたのだが、それは江戸城からみて辰巳の方角を指していた。

辰巳大明神は、実は狸を祀っているそうだ。巽橋に住む悪戯好きのタヌキが巽橋を渡る人を化かして、困った人たちが神として祀ったとをいう謂れがあるそうだ。それが、当地が花街となると、いつのまにか、芸妓さん、舞妓さんら、祇園芸能に関連する人たちから親しまれ、芸道上達の神様になったとのこと。

<お茶屋が建ち並ぶ風景>

Ochaya

「祇園小唄」の一番の歌詞で「月はおぼろに東山 霞む夜毎のかがり火に」とあるが、東山の山麓、円山公園の近くに、かがり火をたいた料亭か何かあった。また、円山公園は枝垂れ桜が有名であるが、毎年4月上旬には、かがり火も焚かれるそうである。それは祇園小唄を意識しているのか、まさにそんな感じであろうか。

<円山公園の夜景>

Maruyamakouen

2番の「夏は河原の夕涼み」も鴨川の河原に、川床を広げた店やそこに集まる人々が目に浮かぶようである。この鴨川は、夕暮れ時ともなると、アベックが集まり、等間隔に座ることで有名。はかったように、等間隔なのは、お互いの会話を聞かれたくないためかもしれない。アベックは、季節に関係ない。

しかし、出町柳あたりで、高野川と合流するYの字の地点から上流は加茂川で、下流が鴨川というのは、なぜだろう。あまり関係ないが、気になる。

<鴨川~四条大橋から>

Kamogawa3

<四条大橋のたもとにある南座>

Minamiza1

この「祇園小唄」の歌詞は、作家・長田幹彦が昭和3年(1928)、祇園の茶屋「吉うた」に滞在していたときに作ったものである。その後、長田幹彦の小説『絵日傘』が映画化されることになり、浅草オペラの佐々紅華が長田幹彦の詞に曲をつけたものを主題歌として、「祇園小唄」が誕生した。

その映画『祇園小唄 絵日傘 狸大尽』は、昭和5年(1930)マキノ御室が制作、監督:金森万象 出演:澤村国太郎、浅間昇子、小金井勝というが、サイレントである。しかし、舞妓姿の女優が字幕に合わせてスクリーン脇で歌うという興行形態がとられ、「月はおぼろに東山・・・」という主題歌とともに大ヒットしたという。ちなみに、澤村国太郎の長男が俳優の長門裕之、次男が俳優の津川雅彦である。

「祇園小唄」の音源は、いろいろあるが、以下は美空ひばりのもの。

祇園小唄 Gion Kouta - 美空ひばり Misora Hibari

なお、前に書いたように、変なことに気づいたというのは、「祇園小唄」も「君恋し」も昭和3年(1928)から5年(1930)にかけて成立した歌であり、どちらも佐々紅華が作曲していることである。それが、元々クラシックや洋楽ばかり聴いていた自分の潜在意識にあるのが、どうもおかしい。

二村定一が歌うオリジナルの「君恋し」が、YouTubeにあった。このような歌が懐かしいと思うのは、なぜだろうか。親も生まれたか生まれないかのころの歌であるから、じいさんの記憶でも、小生の脳に残っているのであろうか。そういえば、なくなった母方のじいさんは、大量のSPレコードを持っていた。考えすぎだろうか。

参考サイト:京都府のHP http://www.pref.kyoto.jp

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2008.06.09

三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所に秋水を訪ねて

少し前になるが、休みを利用して、三菱重工の名古屋航空宇宙システム製作所に行ってきた。目的は、その史料館にあるロケット戦闘機「秋水」の写真を撮ることである。それは柏で行うイベントのためで、柏に関する陸軍の施設や遺物の写真を集めようと、かつて森兵男のHPに協力して収集したものも含めて、良いものを整理しようとしたときに、肝心の「秋水」実物の写真がないことに気付いたことによる。

名古屋航空宇宙システム製作所と、名古屋の名前が付いているが、正確な住所は愛知県西春日井郡豊山町であるから、自分の住んでいる郡部と同様に田舎かもしれない。地図をみると、豊山町には電車の駅がない。近くに名古屋空港があるので、その交通機関を利用していくと、比較的楽に行ける。

<JR武豊駅>

Taketoyo

朝、会社の駐車場に車を置いて、JR武豊線に乗って名古屋に出た。名古屋まで出て、空港へのバスが発着するミッドランドスクエア前まで出るときに、滅多に名古屋に出ない小生、そのスクエアなるものがどこにあるのかが、まず分からなかった。大体、駅ビルの高島屋にも数えるくらいしか入ったことがない。どうせなら、大名古屋ビルヂング前とか、松坂屋前としてくれればすんなり行けたであろう。だが、もはやロートルとなり、新しい建物のなまえを言われても、まったくチンプンカンプンな小生、松坂屋の前でうろうろして、なんて名古屋も分かりにくくなったのかと思った次第。

結局、よく分からず、路線バスのバス停で時刻表をみると、近くまで行くバスがあった。そのバスで近くまで行って、後はタクシーで行った。ところが、タクシーですぐに着くかと思いきや、結構遠いのである。だんだん、田舎になってきて、半田近辺とたいして変わらない風景となってきた。訪問先には昼から行くように予約していたので、豊山町で食事をすることにしたが、名古屋にいるうちに食事をしておくべきだったかもしれない。

<三菱重工外から>

Mitubisi

名古屋空港のそばといっても、食事ができる場所は「伊予」という名前の喫茶店くらいしかない。タクシーでその喫茶店まで送ってもらって、食事をしてから、三菱重工に行った。

さすがに飛行機を作っている工場だけに、入門の際にはカメラ、カメラ付き携帯、パソコンの類は、守衛所にあずけていくようだ。しかし、小生は工場に入るわけではなく、史料館に来ただけなので、カメラを持ったままであった。

史料館にはいると、職員の人がいたが、どうも休憩時間が続いているようで、テレビを見ている。小生も13時と予約していたので、その史料館の展示をぶらぶらみているだけで、時間を潰した。13時になると休んでいた職員は帰り、一人だけ残った職員の人が案内してくれるのかなと思い、声をかけると、史料室に聞いてくださいとのこと。

みれば史料室があり、その室長さんに写真撮影と柏での展示の許可をもらって、数枚写真を撮った。室長さんは、柏では秋水の研究者がいるでしょうと名前もあげていたが、失念した。多分、図書館でみた秋水地下燃料格納庫の関係の本を書いた人のことだろうと思う。史料館は、なにかの倉庫に使われていたような建物で、零戦と秋水の二機が実機で、あとは機銃とかプロペラといったものや、飛行機の模型がたくさんあった。秋水は、ここに完全な形であるが、五機しか生産されなかったらしい。

<秋水近影>

Shusui

秋水はもともと、刀の名前だそうだ。鋭い切れ味の刀のように、B29のような米軍の爆撃機をばったばったと落とそうという願いが込められていたのであろう。ロケット戦闘機としては日本初であり、世界でも秋水がモデルとしたドイツのメッサーシュミットがあったくらいであった。

<メッサーシュミットの図面>

Zumen

<秋水近影2>

Shusui1

ずんぐりむっくりの形状から小さいもののように思えるが、翼を広げた全長が10m近くある。これは一人乗りで、写真のようにタイヤを履いているが、離陸した後、重みのあるタイヤは落としてしまい、1万メートルくらいまで上昇、何回か降下と上昇を繰り返したあと、最後は滑空した帰り、胴体の下にあるソリで着地するというから、舗装した場所には下りられず、また着地するのは名人芸を要したという。

<秋水の特呂というエンジン>

Tokuro

<燃料輸送管など部品の数々>

Buhin

もちろん、三菱重工の史料館には秋水しかないわけではない。零戦があった。今はゼロ戦というが、当時の海軍ではあくまで「レイセン」である。この零戦は、多分人気があるのだろう。サイズ的には秋水より少し大きいようであるが、たいして変わらないように見えた。

<同じく展示されている零戦>

Reisen

帰りがけに史料室長さんにお礼をいうと、わざわざ見送ってくれた。

そして、三菱重工を後にした小生、どうやって帰ろうかと思ったが、タクシーを呼ぶまでもなく、役場の前に例の名古屋行きのバスのバス停があった。バスにスチュワーデスさんが一人乗っていたが、中部国際空港に行くようであった。名古屋空港と中部国際空港では1時間くらい移動にかかりそうである。

その後、柏での講演会は、展示も含めて無事に終わった。しかし、大きな問題が持ち上がりつつあることを、そのときには分かっていなかった。

<九九式爆撃機のプロペラ>

99shiki

注)当ブログで使用した写真はすべて筆者mori-chanが撮影したものですが、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会や小生の親戚森たけ男のHP(千葉県の戦争遺跡)で出てきた場合でも、それは筆者が許可したものであって、著作権侵害にはあたりません。

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2008.03.20

すこしばかり奇妙な話

小生は船橋の人間である。生まれたのは、東京南部で神奈川に近い場所であるが、東京には通算5年くらいしかおらず、就職してから愛知、兵庫と住処を変えながらも、基本的には千葉県は船橋に居住してきた年数が長い。

しかし、船橋の中心はJR船橋駅の辺であろうが、そちらより東に住んでおり、習志野市も一部生活圏内のようなかたちで、習志野市と船橋市をあまり意識していない。そもそも、なぜ習志野市が船橋の一地名である習志野を市の名前として名乗っているのか分からないし、習志野市は船橋市に市町村合併で吸収されるものとばかり思っていた。

<東船橋の店の「壁画」>

Funako

それはともかくとして、そんな地域に住んでいたために、小学校は小生の場合、近所のすぐ歩いていける小学校へ進み、中学校も同様であったのだが、近所の人の中にはわざわざ習志野市に越境通学する人がいた。同じ学年で、S君というのがいて、なぜか習志野市のT小学校に行った。小生も京成津田沼くらいまでは、歩いていけないこともなく、小学生の頃はそのあたりまで遊びにいったのであるが、T小学校をみて、ああここがS君が行った学校かと思ったものである。当時、T小学校にはある噂があり、子供ごころにも怖いと思ったが、その校舎は小生が通っていた小学校と同じように古く、木造2階建てくらいの建物で、金網越しに校庭をみると、なんとも狭いなあ、うちの小学校とたいして変わらないなあという印象であった。だから、なぜS君がわざわざその学校に越境して通っているのか、ますます分からなくなった。

<JR津田沼駅東側から新京成跨線橋を見る>

Sinkeisei

ずっと、後になり、大人になって「T小学校は京成津田沼駅の南側にあったよな」と地元出身の友人に言うと、みな違うという。実際に場所を確認しても、それはJR津田沼駅の南であって、京成津田沼駅からみると西側の坂の上の高い場所にある。京成津田沼駅の南のほうから移ってきたんじゃないかというと、昔からその場所にあるという。

自分の記憶では、T小学校は京成津田沼駅のすぐ南にあり、場所は平坦な地形でまっすぐな道に面していた。T中学校の間違いじゃないかとも思ったが、それは津田沼町だった頃には存在したが、津田沼町が習志野市になってからは習志野一中、二中というネーミングで、小生の小学校時代にはすでにT中学という名前ではなくなっていた。また、その該当する中学校は全然違う場所にある。

単なる小生の記憶違いなのだろうか。JRと京成を間違えていただけだろうか。しかし、校庭の広さをみると、今のT小学校は小生が通っていた小学校よりはるかに広く、倍ほども広い。昔見たT小学校の校庭は狭かったと覚えている。この矛盾はどうしたわけか。

ある日、習志野の図書館で借りて、コピーした本の挿絵で、昭和3年の津田沼の絵図があり、そこに描かれていたT尋常小学校はまさに小生が記憶していた場所にあった。地形や校庭の大きさも、それなら納得できる。

<T尋常小学校>

Tshougakko

やはり移転していたのだが、移転した日付はその小学校のHPによると小生が生まれた年に移転完了したことになっており、当然ながら小生の小学生時分には移転後の場所にあったことになる。では小生が見たと思っていたものは、何なのか。古い校舎が壊されずに残っていたのだろうか。もし、もう古い校舎もなかったとしたら、幻を見たのだろうか。

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2007.12.23

先祖の故地を訪ねて

自分の先祖がどこから来たのか、それは今の岐阜県多治見市、それも駅にごく近い場所ということは分かっているが、少なくとも140年も前であり、住んでいた家はもちろん現存しない。また、もともと江戸時代に可児郡中之郷といわれた、その場所に先祖代々いたかどうかも、よく分からない。それは足を棒にして、多治見市内を歩き回っても、図書館でいろいろ調べても出てこないのだから、どうにもならない。

小生の曽祖父は中之郷の児嶋覚治という人に従って、尾張藩のために戊辰戦争に従軍したらしいが、明治以降は関東に来て、小さな店を営む商人になっていた。児嶋家も今は多治見を去り、神奈川県に移住しているのだが、随分昔に多治見の社会教育施設で郷土史の担当の近藤さんから、「あなたのご先祖と同じ職業ですよ」と言われて驚いたことがある。ちなみに、その児嶋家は江戸時代には小島と表記していたが、その一帯には小島という家が多い。もとは「小島」だったのが、幕末・明治維新の時期に、一部は「児嶋」になったらしい。

<大原川にかかる団子橋>

Dangobashi

森という名字の家は、付近に何軒かある。曽祖父が生きていた明治の頃は、行き来もあったのだろうが、今は親戚付き合いをしておらず、親戚かどうかも分からない。しかし、同姓で曽祖父と一字違いの名前の人、それも大正くらいまで生きた人、三人ほどの名前が、神社や寺の石造物に刻まれている。曽祖父には兄弟がいなかった筈なので、どんな関係の人か分からない。しかし、ほぼ同時代の一字違いの三人の男性は、おそらく小生の曽祖父を知っていたのではないかと思うと、不思議な気がする。

一度、曽祖父が存命であった明治30年頃に、何か多治見に帰らねばならない用事があったそうだ。それは何か分からなかったが、それも以前多治見の社会教育施設で、鉄道用地の買収に関しての用事ではないかと教えられた。

<薬師稲荷にいた猫>

Inarinineko

江戸時代には住民の移動は禁止されていた訳ではないが、あまり遠くへ移動することは商売のために上方から江戸へ出てくるような場合を除いてはなかったであろう。もし、江戸時代の後期になって、下街道沿いで陶磁器の産地であり、経済が豊かになった多治見に出てきたとすれば、多治見周辺のどこかの出身なのだろう。一般的には、江戸時代の移動とは、歩いて一日で行くことのできる距離の場所からの場合が多いようである。森という名字の人が古くから多そうな、そういう周辺の場所をみると、多治見市内では根本、岐阜県可児市の西可児、愛知県春日井市の明知などとなる。多治見市街地にも、そういう場所はあるが、明治以降急速に人口の増えた場所であるだけに、一旦はずして考えたほうが良いだろう。

そのうち、多治見市根本と可児市の西可児には行ったことがある。多治見市根本は、若尾元昌という武田氏系の武将の城があった場所、その菩提寺である元昌寺が残っている。また、若尾氏歴代の墓所もある。岐阜県各地にある森長可、森蘭丸関連の伝承地と同様に、ここにも森長可の子供であるという松千代、のちに成人して森玄蕃長義と名乗ったという人物の伝承がある。その墓もあり、「元和五未年 自得院殿因岩道果一處士 四月廿五日」とあるが、戒名の立派さに反比例して墓は簡素で、現在は他の古い墓と一緒に固められ、あまり大切にされていないように思う。

<多治見の街中で>

Toukisho

西可児には、真禅寺という森長可の首塚がある寺がある。土田城主生駒道寿が菩提寺にしたという寺で、天正11年(1583)には当地を支配した森長可が寺領を安堵、菩提寺とした。実はこの裏山に天正12年(1584)4月、長久手の戦いで戦死した森長可の首級を葬ったあとに、宝篋印塔が残る。この場所を長可の弟忠政の子孫である赤穂森家の殿様が訪れた際に、道案内をした人が森姓で、同じ一族だと言ったという。それはその殿様が日記にも書き残したために、伝わった話である。

可児には、長山城(明智城)があり、土岐明智氏の城であったという。その長山城が落ちるとき、斎藤義龍が差し向けた軍勢に立ち向った明智一族とともに、森勘解由という人が戦ったらしい(「明智軍記」に記載あり)が、長山城の周辺には森という家が見当たらない。西可児、帷子あたりには、何軒かある。可児川には、変な歴史館をやっている家もあったが、どうなったのだろうか。

そもそも、また「明智軍記」の森勘解由が、森長可の家とどういう間柄になるのか、まったく無縁であるかも分からない。

<多治見で見かけた優しい表情の石仏>

Sekibutsu

森長可が出たために、戦国時代の有名な森一族は、勇猛な武将の家とされたが、本来は兼山城に近い兼山湊をおさえ、経済面の能力に秀でた一族だったように思う。

しかし、小生の先祖が、そういうビッグネームに連なる根拠は何もなく、分かっているのは曽祖父が成人して以降の話ばかり。誰か、その地域で研究している人とかいれば話が早い。一つ気になるのは、小生の家が家紋を変えたらしいということ。多治見周辺の森という家は紋が、桐か鶴の丸であるが、小生の家の紋は別の紋で曾祖母の実家の紋と同じ、つまり曾祖母の実家の紋に変えた可能性がある。ところが、曾祖母の家は、関東であり、曽祖父の家とは何にも関係がない。にも関わらず、その紋は多治見でよく見かける紋である。早い話が、前出の小島という家の紋と同じである。あるいは、小生の家は、その家と親戚だったのかもしれない。だから、児嶋翁と戊辰戦争を転戦したのだろうか。つまり、偶然にも曽祖父の家で裏紋か何かで使っていた紋が、曽祖母の家の紋と同じだけで、我々後世の人間が、紋を変えたと思っているだけかも知れない。

多治見は美濃とはいえ、尾張との国境に近く、尾張の春日井にも、別系統かもしれない森という名字が固まった場所があり、考えたくはないが、全然別のところから移住してきた可能性もなくはない。

そうなると、まったく手掛りがなくなるのだが、ふと見た石仏の表情の優しさは、もっと足元を見れば何か分かるかもしれないと言っているようであった。

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2007.10.08

彼岸花

前に松戸市は小金の鹿島神社に彼岸花が咲いていたことを、「古城の丘にたちて」外伝のほうに書いた。それは9月26日であったのだが、そのころ既に萎れている花も多かったようだ。

<小金の鹿島神社の彼岸花>

Kajimajinnjya

東京での短期の仕事を終えて、10月から愛知に帰ってくると、まだ彼岸花がかなり咲いている。萎れてしまったのもあるが、東京近辺より愛知のほうが時期が遅いのだろうか。

岩滑の矢勝川の土手には、たくさんの彼岸花が植えられていて、前の日曜日に行くと川沿いを散歩したり写真を撮っている人が大勢いた。

<矢勝川の彼岸花>

Yakachigawa3

Yakachigawa1

Yakachigawa2

岩滑でこれだけ彼岸花が矢勝川の土手に咲いているのは、新美南吉が歩いた岩滑の矢勝川の土手に彼岸花を植えて彩ろうと、市民の手で植えられたという。1990年、新美南吉を愛する地元の人たちから、「南吉がよく散策した矢勝川の堤をキャンバスに、彼岸花で真っ赤な風景を描こう」という発案がだされ、その運動が半田市と新美南吉顕彰会を巻き込んで広がった結果である。

彼岸花は、秋の彼岸のころに咲くから彼岸花。だいたい、川の土手とか、田んぼのあぜ、お寺の横の路地や墓地などに咲いていて、不思議に心象風景に残る。別名を曼珠沙華というが、これは梵語で「天上の花」を意味するそうだ。

「赤い花なら曼珠沙華 阿蘭陀屋敷に雨が降る 濡れて泣いてる じゃがたらお春」という歌もあった。

しかし、黄色い彼岸花もある。これは、鍾馗水仙という。キツネノカミソリというのも、この仲間か。半田の石川橋の近くの土手には、黄色い花と赤い花が混じって咲いていた。

<鍾馗水仙>

Shoukizuisen

ところで、彼岸花には毒性がある。それで、田の畦や墓地などに植えられて、小動物などが荒らさないようにしたため、今もそういう場所に生えているわけだ。

なお、小生、田舎で彼岸花は寺に隣接する墓地や土手などに咲いているのを見知っていたが、言ってみれば雑草であり、生えている場所柄、ソウシキバナ、ユーレイバナというような名前で呼ばれていたように記憶している。ハカバナとも言ったかな。とにかく大人では、縁起が悪いと忌み嫌っているような人がいた。昔は毒性を利用して蝿取りに使ったのか、蝿取り花(この呼び方は群馬だけらしい)という呼び方もあるようだ。だから、子供のころは彼岸花があまり好きではなかった。

しかし、20年くらい前に、鎌倉のやぐらの傍に彼岸花が咲いている様子を見て、なんとなく心惹かれるようになった。それは、のどかでもあり、世の無常を語っているようでもある。

<密生する彼岸花>

Higannbanakakudai 

本当はきれいな花であり、曼珠沙華というくらいだから、もっと見直されるべきと思う。

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2007.06.02

徳川家康と知多半島(番外:桶狭間古戦場まつり写真集)

先日、5月13日(日)に行われた桶狭間古戦場まつりで筆者が撮影した写真を公開する。なお、桶狭間の皆さんには、昨年の岩滑でのイベントに続き、またお世話になった。写真には人物も写っているが、プライバシーの関係で、顔がはっきり写っているのは入れないようにした。あまりうまく写っていないのもの(途中でデジカメのバッテリーが切れて、携帯でとったのと、筆者の腕が未熟なため)があるが、ご容赦あれ。

<桶狭間古戦場まつりのノボリ>

Arimatsusibori

有松絞りかな?

<長福寺本堂>

Choufukuji_1

長福寺は西山浄土宗の寺。桶狭間合戦当時、すでに当地に存在していた。阿弥陀如来を祀り、今川義元、松井宗信の木像がある。薄いグリーンの上着を着ているのは、Kさんら地元のガイドの方たち。一緒にまわった人たち(Hさん、Wさん)の姿もちらほら。

<長福寺の蓮池>

Hasuike

いずれがアヤメかカキツバタ?

Ayamekakitsubata_1

<桶狭間の古い湧き水>

Wakimizu_1

昔、桶狭間は南北朝時代の終わりに、南風競わず落ち延びた、梶野、青山両氏がひっそりと暮らし、後に近江の中山氏が入ってきて共同で生活していた。そのときから生活用水や田の水として使っていたのが、この湧き水という。

<林阿弥が首実検をさせられた場所で説明を聞くまつり参加者>

Rinamikubijikken

林阿弥(りんあみ)は今川の茶坊主で同朋衆といわれる。桶狭間合戦時に織田方に捕らえられ、この場で今川義元の首実検をさせられたという。なお、林阿弥は合戦で捕らえられたが、命は助けられ、後に長福寺に寄進もしている。

<長福寺の西側を流れる鞍流瀬川>

Kuranagasegawa

文字通り、合戦の後、鞍が流れていたから、そう呼ばれるのだそうだ。今は暗渠のようになっており、一部地上に顔を出しているが、前はもっと広い川だったらしい。

<今川義元本隊が行った近崎道~桶狭間と現在の大府市北崎を結ぶ>

Chikasakimichi

近崎道がそんな場所を通っていたかというコメントをいただいたが、現にあるし、古地図にものっているのだから仕方がない。

<義元本陣があった場所から西に大高方面を望む>

Yoshimotohonjin

<織田方が攻撃の機会をうかがっていたという武路釜ヶ谷>

Takejikamagaya

柵の向こうは、名古屋短大の敷地になっている。

<七つ塚>

Nanatsuduka

住宅地の一角にあり、なかなか見つけ難い。武路公園の近くにある。路地の奥のような場所にあり、説明し難い。合戦後に織田方から戦死者を埋葬するように言われた村人が、塚を七つつくって埋葬したと伝える。それでは、戦人塚のほうは何なの?となるが、中山氏出身の快翁龍喜和尚が引導供養をした故事と、仙人塚という道教か何かの伝説の地が混同されてできた「話」と思われる。

<武路公園付近より古戦場公園を望む>

Takejikouen

正面の白い二階家の上に黄緑の新緑が見えるあたりが、今川義元戦死の地と伝えられる桶狭間古戦場公園。

<桶狭間古戦場公園の古戦場案内図>

Kosennjyouchizu

古戦場公園の地図は多少デフォルメされている。義元軍は東浦街道、大高道を西へたどり大高をめざした。途中、近崎道を北上したのは単なる休憩のため? それにしても、当時は国道一号線も、江戸時代の東海道もありませんからー、残念(いつの間にか、ギター侍になっている)。

<「駿公墓碣」という小さな墓碑>

Sunkouboketsu

現在桶狭間古戦場公園にある、「駿公墓碣」という墓碑は、以前頭を少し地上に出して埋っていた。これは、村人が今川義元の菩提を弔った際に、尾張藩に見つからないように、墓碑を埋めたためという。

<馬つなぎの杜松の木>

Nezunoki_1

今川義元の馬を繋いだという伝説のある杜松(ねず)の木。義元は輿に乗って、いざというときに備えて馬も連れてきたのか。しかし、後で述べる戦評の松と同様、ここにもちょっと怖い、今川義元の伝説がある。

<泉水跡>

Okehazamanoido

<戦評の松>

Senpyounomatsu_1

瀬名氏俊がここで軍評定をしたという。もともとの木は、伊勢湾台風で倒れてかれてしまい、今のはその際に植え替えたもの。

<「戦評の松」の碑>

Senpyoumatsuhi

「5月19日の義元命日の日に白装束で白馬に跨った義元の亡霊が現れる」とか、「松を触ってはいけない」など、いろいろ「話」がある。

<祭り風景・・・太鼓>

Taiko_1

Taiko2_1 

<武者揃え>

Musha_1

なぜか、武者が老若男女いる。

<大池での万灯会>

Mantou

Mantou2

Manto3_1

この灯は、三千人余りの戦死者の数にあわせて、三千あるそうだ。「戦争は絶対にしちゃいかん」という郷土史家、梶野渡氏の言葉が耳に残った。

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2007.05.10

東海市名和にある「トドメキ」という地名

連休中の前半は、東海市にある物流会社で、ちょっとした仕事があり、結局つぶれてしまい、後半は自宅に帰ったが、やはり連休明けの仕事に備えて早めに帰ってきたので余り長い休暇でもなかった。去年の連休は、鎌倉に行ったりして、割とのんびりしていたのだが。

<鎌倉の報国寺にて>

Houkokuji4

東海市の物流会社は、海に近いその手の会社の集まったところにある。半田からは西へ走り、常滑市内から産業道路を北上していけば近いのであるが、その行き方は最近その会社の人から教わったのであり、前は知多半島道路で大府の先に降りるか、半田街道をまっすぐ進んで東海市に入り、東海市役所の脇を通って行くかして、伊勢湾岸道より北は名和の住宅街の細い道を抜けて行った。名和の手前は、大田町、荒尾町という場所になるが、ここには大池公園や市役所などがあるとともに、なにやら城址に関係ありそうないわくありげな地名がある。「内堀」「白拍子」「大城」「坊ノ下」など。また、このあたりも「狭間」、「廻間」という地名がある。

名和は大高の西にあり、元禄頃の絵地図にもあるので、古くから開けた場所であったのであろう。この名和には、船津神社という神社がある。船津というくらいであるから、船が出入する湊、船溜りがあったのであろう。船津の津とは、湊の意味である。その昔、名和船津というのがあり、織田信長が村木砦を攻略する際に、熱田湊から海路、名和船津の辺りに上陸し、それから名和、大高を経て村木(現在の尾張森岡)まで進軍したと伝えられている。

<名和の船津神社>

Funatsujinjya

津の代わりに戸として、船戸という地名もあるが、これも同様の意味である。戸は渡に通じ、渡し舟で渡っていた渡河地点のような場所に、船戸地名が分布するのは、千葉県の印旛沼周辺での船戸地名の分布調査でも分かっている。

この船津神社の近くに、「トドメキ」という地名がある。実は、連休中の仕事で、朝協力会社の人と待ち合わせしていたら、こっちのほうが大分早く着いてしまい、時間つぶしに周囲を車でまわっていたときに、「トドメキ」という地名表示が交差点にあるのに気がついた。

<「トドメキ」地名の表示にある交差点>

Todomeki

この「トドメキ」地名については、面白いいわれがある。船津神社の縁起に曰く、「平治元年(1159)源義朝が長田忠致に殺害された際、家来の渋谷金王丸が義朝の首を奪い返そうと、長田の後を追って神社の前を過ぎ、橋を渡ろうとしたが馬がどうしても進まないので、これは船渡大神の神意の故であろうと、神前に引き返し三条小鍛冶宗近を奉納するとようやく進むことが出来た、世にこれを下馬代の宝刀といい、その橋を今トドメキ橋という。
後、正親町(おうぎまち)天皇の代永禄3年(1560)、今川義元に正宗と取り替えられ、これを達磨正宗といい今も保存されている。」 いったん奉納された小鍛冶宗近が、なぜ永禄3年(1560)、今川義元に正宗と取り替えられたのか分からないが、永禄3年(1560)といえば、桶狭間合戦の年である。その頃、今川方の勢力が当地にもおよんだということか。

なにやら、源義朝や今川義元というビッグネームが出てくるが、特に前半部分は俄かに信じがたい。特に「トドメキ」地名のおこりである、トドメキ橋は、すなわち「留め置き」の橋だというのだが、なぜ神様が主君の仇を討とうとする家臣を留め置くのか、理由が分からない。

源義朝は、平治元年(1159)の平治の乱に敗れて東国へ落ち延びる途中、尾張国野間で、「相伝の家人」である長田忠致のもとに身を寄せる。だが、長田忠致、景致父子の裏切りによって、長田の郎党に入浴中を襲われた源義朝は「せめて木太刀にてもあらば」と悔やみながら、法山寺の湯殿で命を落としたという。法山寺は、野間大坊から東へ700mほど行った、小さな山の上にあり、現在の名鉄野間駅がすぐ西側にある。その際、源義朝に従っていた鎌田正清も別の場所で討たれたという。それで、野間大坊には義朝と、その従者である鎌田正清の墓があり、義朝の墓には、その最期の伝承(「尾張名所図会」などやその影響を受けた芝居、物語で広く知られている)にちなんで木太刀が供えられている。しかし、愚管抄では、この義朝の最期について、長田に謀られて監禁され、もはや脱出不可能であるという鎌田正清の言に対して、「サフナシ、皆存タリ、此頸打テヨ」と義朝は言い、正清が義朝の首を打った上、自決したと伝えており、状況が異なっている。

この源義朝が長田忠致に討たれた話は、相当インパクトがあったようで、それにまつわる伝説は野間だけでなく、筆者の住んでいる武豊にもあって、当地に流れ着いた僧を村人が助けたら、僧は実は源 義朝を討った長田忠致の子孫で、先祖の罪の償いと義朝の供養のため当地に庵を結び、地蔵尊を祀った。その僧は徳正道慶和尚で、その庵は慶亀山徳正寺となったという。

<源義朝が討たれたという湯殿跡>

Yudonoato

このような伝承が遠く、名和にまであるのが面白い。もちろん、前述の船津神社縁起の渋谷金王丸が云々は「話」であって、「トドメキ」を漢字表記した川や橋の名前として、土留木川とか土留木橋というのがあり、木を留めるという意味であることが一目瞭然である。つまり、名和船津には、貯木場もあり、その木を留めていた川が土留木川と呼ばれ、「トドメキ」という地名を派生させたのであろう。

土留木川周辺の地図

名和には、渋谷金王丸は来なかっただろうが、織田信長が上陸云々は地理的にみて、ありうる話である。また、桶狭間合戦の際に、一向宗の僧で弥富二之江の領主である服部左京助は今川義元方につき、船団を率いて大高河口にいて、熱田に放火したように、今川の影響力は知多半島西岸に及んだから、船津神社の縁起に今川義元が登場してきても不思議ではない。名和に熱田湊に相対する船津と大高、村木へ通じる陸路があったという意味で、名和が水陸の交通の要衝であったことは、間違いない。

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2007.04.01

桜咲く小山城

先日、栃木県の小山市に少し行ってきた。小山といえば、「♪おやまゆうえんち~」という有名なCMがあったが、今や小山遊園地は稼動していないようで。

小山は、関ヶ原合戦の際に、徳川家康が小山評定という重要な会議を行った場所。その際に、山内一豊が豊臣家に近しい部将達を徳川家康に味方させるような発言をして、合戦後の国持ち大名への飛躍をしたといわれる。

小山駅前には、「小山評定の小山」というような、宣伝用の柱も立っているし、評定通りなどという通りもある。しかし、今回訪ねたのは、小山評定の場所ではなく、小山城。もっとも小山評定の場所も、城の一部のようである。城址にむかう途中、桜が満開になっていた木があった。早速、写真に撮ったのだが、なぜか風俗店が隣にあり、写らないようにするので一苦労。小生、いろいろ城址をめぐったが、城址の近くに風俗店が集まっているのは、小山城以外には知らない(もちろん、小生そういう場所には足を踏み入れていない)。

<小山城の東部にあたる住宅地>

Oyamajyouhukin

この小山には小山城という城がJRの駅からも歩いて7分くらいのところにある。桜がそろそろ満開になりかけており、翌日桜まつりがあるとのことで、準備の人たちが城址に集まっていた。屋台もはやスタンバイ。そこで、桜を見ながら、城址めぐりをした次第。

小山城は祇園城ともいい、戦国時代の大規模な城址が、思川流域の東側の台地にあるが、その範囲は現在の城山公園だけでなく、北側の寺境内まで含め、相当に広かったようである。

<主郭(Ⅰ郭)があったとされる城山公園>

Oyamajyoshukaku

<城址付近の桜もだいぶ咲いていた>

Sirohukinnsakura

この城を築城した小山氏は、藤原秀郷の後胤といわれ、平安末期から北関東に根を張った勢力を誇り、源平合戦の頃に源頼朝のもとに馳せ参じて、鎌倉時代を通じて下野守護に任ぜられた。さらに、鎌倉倒幕にあたっても新田義貞に随って鎌倉攻め、後に南朝と北朝に分立すると、北朝・足利尊氏方につき、宇都宮氏とともに下野の勢力を二分した。その後、室町時代に入り、康暦二年(1380)、義政は以前より対立していた宇都宮基綱と争い、鎌倉公方からの制止にも従わず、河内郡裳原の戦いで基綱を敗死させる。そのため、鎌倉公方足利氏満から追討を受け、小山義政は敗れて自刃、その子若犬丸も奥州に逃れて会津で果てたという。ここに小山氏の嫡流は途絶えるが、平安以来の名跡を惜しんだ足利氏満が、同族結城基光の次男泰朝を迎えて小山氏を継がせた。

<主郭(第Ⅰ郭)と第Ⅱ郭の間にある堀の手前の大きな土塁>

Dorui

その後、再興小山氏は、小山をなんとか名跡を保っていたが、関東が享徳3年(1454)の上杉禅秀の乱に端を発した享徳の大乱で、関東公方(後の古河公方)と上杉氏との対立を機軸にして戦国時代に突入すると、小山氏は古河公方についていたものの、その後家中の対立などあって次第に衰退し、その小山氏を勢力を立て直したが、結城から入った高朝であった。高朝の課題は、乱れていた小山氏一族および家臣団を統制することで、、水谷(みずのや)氏等反抗的家臣に対しては武力で抑え、協力的家臣には所領安堵や加増、一字付与等を行って結束を固め、奪われていた旧小山氏領を回復していった。

<主郭(第Ⅰ郭)と第Ⅱ郭の間の堀>

12hori_1

<堀越にみる思川>

Hori12omoigawa

しかし、上杉氏や後北条氏の勢力には勝てず、高朝とその子秀綱はその間で翻弄され、やがて後北条氏は小山氏領に進攻し、結局、天正3年(1575)後北条氏の猛攻によって小山城は落城、秀綱は常陸の佐竹義重のもとへ逃れた。天正18年(1590)の小田原の役では、後北条氏配下にいたため、結城晴朝の攻撃を受け小山城は再び落城。 元和2年(1616)、徳川将軍家側近の本多正純が三万石で小山城に入ったが、本多正純が元和5年(1619)に宇都宮に転封になると、小山城は廃城になった。

<Ⅱ郭>

2kaku

<第Ⅱ郭の郭と馬出しの間の堀>

Hori2

この城、単純に言ってしまえば、南になる第Ⅰ郭から、北へ第Ⅱ郭、第Ⅲ郭と連郭式になっており、郭と郭の間には深い堀があり、今はコンクリート製の橋が架かっているが、かつては木橋が架かっていたようである。しかし、堀の深いこと。第Ⅰ郭と第Ⅱ郭の間の堀で10mくらいあるだろうか。東側の住宅地になっている場所も、昔は低湿地であったようで、西は思川であるので、東西からは攻められず、攻めるとすれば南北からであるが、そこは土塁などで防御を固めている。

道路を隔てて南にある小山御殿址も、実は城址の一角であり、ここは本多正純が元和5年(1619)に宇都宮に転封になり、小山城が廃城になった後、徳川将軍家の日光社参のための宿泊所、休憩所として作られたものである。この小山御殿にも堀と二重になった土塁が周囲をめぐり、十六もの番所を備えて警固にあたったというから、徳川将軍家用の特別な施設といえるであろう。

<小山御殿址>

Gotenato

なお、当日城址と道路を隔てて南の御殿址には、桜まつりの準備の人たちと地元の行楽客が多少いたのだが、桜まつりの最中には沢山の人出となることは明らかで、その場合には城をゆっくり見ることは出来なかったかもしれない。気の早い人たちは、もう花見をしていたし、出店も一部は営業していた。

第Ⅱ郭にあるあづまやで、付近の女子中学生?2人組が無心にりんご飴を食べていたが、口の周りを赤くして可愛いかった。親子連れなども多く、のどかな雰囲気。とても、室町から戦国時代にかけて攻防が行われた城址とは思えなかった。

<第Ⅲ郭>

3kaku

<Ⅱ郭とⅢ郭の間の堀にかかる橋>

23hashi

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2007.03.30

船橋の「橋」

船橋市民といっても、今は単身赴任で愛知県にいる身、それももはや1年半となり、仕事の関係で頻繁には帰ることができない。仕事がひと段落した現在、そろそろ異動の話が出ないかと思っているのだが、いっこうに話がない。むしろ、先日行われた会社の部課長懇親会では、寮の食堂でよく同じ時間帯に食べていた、関西へ転出する人から挨拶を受けてしまう有様。車を走らせ、常滑まで行って「なぜだ!」と海に叫んでみても、帰ってくるのは波の音だけである。

<常滑の海>

Tokonameumi_1

子供の頃、船橋といえば、ヘルスセンターや競馬などのギャンブルで有名で、何か遊び人の町のようで、たしかに柄も悪かった。しかし、しばらく離れていると、どちらかといえば嫌いであった船橋駅周辺のごみごみした雑踏や、どこか寂しげな本町通り、今は東船橋駅が出来て人家も増えたが、花輪から中野木、前原にかけての少し田舎じみた地域などが、懐かしく思えるのだから不思議である。

<船橋大神宮坂下の交差点>

Daijinngushita_1

この船橋という地名は古く、鎌倉時代からあったという。お隣の津田沼が、谷津の「津」、久々田(菊田)の「田」、鷺沼の「沼」を組み合わせた、明治の新地名であるのと対照的だ。知らない人は、津田沼という沼があると思っている人も、もしかしたらいるかもしれない。だが、船橋とはどんな地名なのであろうか。その船橋という地名のおこりについては、船を連ねて橋としたことから来ているのは、間違いない。それが、今の船橋のどこかといえば、海老川河口付近といわれている。

<海老川橋にある「船橋地名発祥の地」のプレート>

Funabashi

船橋市のHPによれば、

「伝説では、 日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折、海老川を渡るために船で橋を作ったのが地名の由来とされている。実際、船橋の地名が世間で言われるようになったのは鎌倉時代とされており、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に『船橋』という地名が出てくる。地名の由来は現在でも定かでは無いが、最も有力な説として、市内を流れる海老川(現在よりも水量、川幅があったとされ、現在の陸地の一部には夏見干潟と呼ばれる大きな入り江があり、湊として栄えていたという)に船を並べ、その上に板を渡し橋を造った事に由縁するといわれている。※そのような船で造られた橋の事を「船橋」と言う。 」とある。

<海老川橋を北側から望む>

Ebigawa

もし、文中にある入り江、つまり夏見入江に架橋できれば、中世の人々も交通の便利が良かったであろうが、実際には海神から夏見へ、夏見の日枝神社、薬王寺辺りから南下し、現在の市場を通って、峰台にいたる鎌倉街道が使われた。

<夏見入江と現在の船橋地図を重ねると>

Natsumigata

なお、船橋大神宮の西側、現在京成大神宮下駅から北へ市場から夏見方面へ抜ける道は、夏見入江の水際とほぼ重なるようである。現在の海老川の河畔からは100mも離れているが、当時と水域が多少ずれているにしても、それだけ入江が幅広かったということであろう。国府台合戦のおりに夏見から大神宮の北側台地上の峰台を経由して里見軍が退却した道筋が、まさに、その入江の北側に沿って通る鎌倉街道であると推定されている。つまり、近世、おそらく江戸開府まで、海老川河口付近には、きちんとした橋がなく、大神宮神官で船橋の豪族であった富氏も、夏見入江の東側に大神宮、入江南西部の御殿地に屋敷を構えながら、大神宮と屋敷との往復には船を使っていたようである。

<万代(よろずよ)橋から海老川を望む>

Yorozuyobashi_1

では、なぜ「船橋」という臨時の橋や渡し船による往来にたより、ちゃんとした橋を架けなかったのであろうか。それは現在の海老川の川幅よりも、かつての夏見入江の東西の幅が広く、また中世においてはそれだけ大規模な架橋を行うほどの財力、政治力、軍事力をもった豪族が当地にいなかったためといわれている。

しかし、船橋は湊を背景に中世では栄えた地域である。実際、御殿地に隣接(あるいは御殿地の一部といっていいか)する御蔵稲荷の近くや、峰台にあったという慈雲寺の境内地からは、埋蔵銭が大量に発見されていおり、戦乱に際して当時の有徳人(富豪)が隠したのではないかとされている。戦国時代でも、後北条氏の勢力が船橋地域を支配したのに際して、船橋を拠点として近藤万栄という人物が商業・流通活動を行っていたことが文書でも明らかになっている。このように、船橋には富の匂いがプンプンするのである。それをあえて架橋しなかったのは、お金がなかったというのではなく、軍事目的ではないかと小生推量するのだが、如何に。

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2007.03.11

徳川家康と知多半島(番外2:桶狭間合戦後、徳川家康はいかに岡崎に戻ったか)

昨日も出勤。最近、どうも忙しく、欲求不満が溜まっている。先週、手賀沼南岸の鷲野谷の歴史散策に行って、大分解消されたのだが、会社が始まると来年度の計画や何やらで頭の痛いことばかりである。

そこで、今日は、久しぶりに知多半島のどこかに行ってみようかと思い、朝食を喫茶店ですませ、住んでいる武豊から国道247号線を南下し、河和方面へ車を走らせた。どうも頭がすっきりせず、暫くハンドルのおもむくままというか、気の向くままに走りながら考えた。なぜ、徳川家康は桶狭間合戦後の敵が大勢いるなかを、三河の岡崎まで無事に帰ることができたのだろうか。既に「徳川家康と知多半島」を書き始めて大分たつというのに、この答えが自分のなかに明確になかった。前回まで、大高城への兵糧入れと丸根砦攻略まで書いたのに、すっかり筆が止まったまま。忙しいというのもあるが、明確に自分で説が唱えられなかったからというのが、実際のところであった。

それで、前から何度も歩いて、大体のところが分かっていた、「船橋市街地の寺社を訪ねて」などという記事を5回にわたって書いてしまった感がある。勿論、それはそれで書きたかったことなのであるが。

いつの間にか、名鉄の河和口駅前を通り過ぎ、ふと左の海面を見ると朝の光のなかを水鳥がたくさん浮かんでいる。時志観音も例の戸塚ヨットスクールも過ぎ、河和の駅の近く、道が左右に分岐するところまで来た。ここまで来て、ふと美浜町の図書館に行って何か本でも調べてみるかと思い、右折して河和駅を過ぎて、役所のところで右折し、美浜町の図書館へ。最初から、そうする気であれば、国道を布土の橋のところで右に入り、心月斎の脇を通って、山道を通っていけば近いのだが、布土は道が狭いから、まあ良いか。

<美浜町生涯学習センターの1階ホールに展示されていた生け花>

Ikebana

美浜町の生涯学習センター(図書館を併設している)に着いたが、まだ8時半である。開館時間まで30分も時間がある。生涯学習センターのホールにいると、ご婦人方が生け花を整えていた。開館まで間があるので、ブラブラしていると、戦国知多年表という冊子が置いてあったので、手にとって見た。非常に興味深く、早速買ってしまった。もう9時を過ぎたが、いっこうに図書館が開く様子がない。聞けば、図書館は閉館なのだそうだ。それでは、常滑の図書館に行ってみようかとも思ったが、常滑の図書館には徳川家康関連の書籍が少ない。阿久比町なら多いが、阿久比まで行くのはここからでは少々遠い。それで、武豊にとりあえず戻ることにした。

武豊にもどろうとして、例の心月斎の脇にでる山道へ。しかし、右折:武豊の表示が見えているのに、どうも素直に帰る気がしない。それで真直ぐ行けば、野間の方へ出る。そうだ、野間大坊へ久しぶりに行ってみようと思い、一路上野間へ行く。

<野間大坊、大御堂寺根本堂>

Nomataibou1

野間大坊の本殿の前でぼんやりしていると、お寺の方 住職が声をかけて来た。年配の、お坊さんではないように見える(第一髪をそっていない)が、お寺の関係者であることは間違いない。 2007.03.12削除、以下「お寺の人」、「老人」を住職に変更 失礼しました。水野住職でした。

この本殿は何年前のものか聞くと、四百年前のものだという答え。メンテナンスするのに、一坪一千万円かかるといっていたが、「百何十坪もあるのに、あなた十億だよ、どうするかね」とのこと。「どうするかね」といわれても、小生にはどうにもなりません。この水野住職、意外に歴史に詳しいらしく、自然と話は戦国時代の話へ。知多半島の大部分は水野氏が支配していて、三河の松平も水野あってのものである。知多で水野以外は、大野の佐治と、河和の戸田、師崎(羽豆崎)の千賀くらいなもの。戸田はしまいには水野にやられてしまって、水野に随った。水野が強いのは、亀崎に稲生水軍を持っていたからね、それで東浦を支配したんだなどと言っていた。野間大坊の鐘も、何かの戦い(住職はその名前を言っていたが失念した)で敵に持っていかれた云々。

やがて、名古屋からの団体さんという集団が来て、住職はその案内へ。小生、「知多半島は殆ど水野」というのを改めて聞くと新鮮であったが、「水野が強かったのは水軍を持っていたから」という住職の言葉が印象に残った。

<水野住職から話を聞いた野間大坊の本殿>

Nomataibou

そして、武豊に帰った小生、いつものようにJAへ行くと、時間はまだ10時前で、いつもの魚屋さんが来ていた。今日は珍しく、奥さんと一緒に商売をしている。見ると、生きた蛸が売られていた。

待てよ、家康は大高から海を通って南下し、どこかで上陸して成岩まで行き、常楽寺で休憩後、やはり海路三河に戻ったのでは、全部陸上を行ったのではどこかで織田勢に遭遇したはずである。そのように、ようやく思い至った。

<JAで売られていた蛸>

Tako

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2007.01.06

三重海軍航空隊跡を訪ねて

昨年末であるが、三重に行ったとき、津の駅前からバスで香良洲まで行き、三重海軍航空隊跡を訪ねた。その場所には、もう二十年くらい前に、一度行ったことがある。

<津市香良洲にある三重海軍航空隊跡>

Karasuchou

実は、小生の父がこの奈良分遣隊の出身である。また、どういうわけか、うちの親戚にはこの奈良分遣隊(のちの奈良航空隊)の出身者も含め海軍出身者が多い。海軍は基本的に志願兵によって構成されており、親父の兵籍番号も、「横志飛・・・」である。横は横須賀鎮守府、志は志願兵、飛は飛行兵といった具合である。奈良分遣隊は、終戦直前に三重空から独立し、奈良海軍航空隊になった。終戦間際に、海軍は高野山にまで、航空隊を作ったのだから、海のない奈良県天理市の奈良空、高野山の高野山空と、船山に登るならぬ、海軍山に登るである。

この三重海軍航空隊は、三重県にあったから三重空なのだが、鈴鹿海軍航空隊、宝塚海軍航空隊や、横須賀海軍航空隊のように、都市や地域の名前を冠しなかったのは、香良洲にあるため、そのままでは香良洲海軍航空隊で、カラスがカーカー鳴いて飛んでいるようなイメージをもたれては困るという配慮だろうか。いずれにせよ、西の三重、東の霞ヶ浦と、予科練のメッカであった三重空では、多くの航空兵が養成されたが、ある者は戦闘機や爆撃機搭乗時に撃墜され、ある者は回天、震洋搭乗などを含めた特攻によって戦死した。太平洋戦争末期につくられた奈良空ではさすがに飛行機搭乗での戦死者は三重空本隊と比べると少なかったが、やはり特攻兵器による戦死が多く、あまり知られていないが、かなりの人が病死している。奈良分遣隊を含め、三重空の隊門をくぐった航空兵は六万五千人ほどであるが、戦死者数は約五千人。つまり十二人に一人くらいの割で戦死したことになるが、年次が古い程、その率は高くなる。

三重海軍航空隊の跡地には、以前訪ねたときには、若桜福祉会館といっていたが、今は香良洲町、さらに合併後津市の運営となった、津市香良洲歴史資料館があって、戦死した人の遺品などを展示している。

<今も残る隊門>

Mieku1

<入口にある錨>

Ikari

津市香良洲歴史資料館では1階がロビー、2階が地域の郷土資料(漁具、農具など)、3階が三重空関連資料となっているが、3階は撮影禁止とのことであった。1階には、練習機である白菊の模型が置いてあり、戦後になって発行された三重空関連の印刷物なども展示されていた。

<白菊の模型>

Siragiku

<白菊を後から撮ったところ>

Shiragiku2

本当は3階の展示物を撮りたかったのだが、残念。一番印象に残ったのは、三重空予備学生で、終戦直後に三重空近くの浜辺で割腹自殺した森崎湊海軍少尉候補生の遺影である。予備学生ということで、もっと優しい面影をイメージしていたが、なくなった森崎湊少尉候補生の顔はエラの張り、目が鋭い、まさに海軍軍人の顔であった。日本の敗北を彼は受け入れることが出来なかった。なかには終戦のドサクサで軍の物資を隠匿して、私的に使ったり、持ち逃げする軍人、それも高級軍人といわれる人々が多かったのに、予備学生のような人々が一番純粋だったのであろう。父の話でも、終戦直後、焼野原となった東京では、大学教授だった人が橋の下で乞食のような状態で寝ていたり、米軍のジープを見ると物をねだりに人が殺到する、あるいは都会の真ん中で救世軍の炊き出しの鍋で飢えをしのぐといった時勢になるのだが、そういう光景を見ずに森崎湊少尉候補生は逝ってしまった。

<三重航空隊の碑~他にも年次ごとなど多くの石碑があったが、これが一番隊碑らしい>

Miekuhi

<鈴鹿航空隊の点鐘台>

Suzukatenshoudai

予科練では甲種、乙種、丙種と区分があり、本来は乙種しかなかったのが、促成栽培のような甲種と水兵や機関兵、それも下士官に既になっているような者の転科のための丙種が新設され、三重空はもとは乙種中心であったが、昭和18年(1943)には大量に甲種飛行練習生(甲飛十三期)が入隊、彼らは奈良分遣隊に配属される。この奈良分遣隊は、大量に採用した特攻要員を寝泊りさせるために、天理教の教会を利用したものであり、そこでは兵舎は天理教の畳を敷いた教会であった。畳の部屋で、ハンモックをつって寝ていたのである。三重空奈良分遣隊、のちの奈良空は、飛行機が一機もない航空隊であった。わずかにあるのは、シミュレータのみで、彼らは最終的には回天、震洋などの特攻要員とされるものも少なくなかった。

<戦死者の多かった甲種飛行練習生十一期の石碑>

Kou11

終戦の際、奈良空でも、いわゆる玉音放送を隊員を召集して聞かせた。しかし、軍内部の反乱軍が発する妨害電波のため、よく聞こえなかったという。而して、下士官になっていた小生の父は復員、東京に出て軍歴を隠して就職するに至る。

<海軍のマークの入った消火栓>

Shoukasen

いまだに、この津市香良洲歴史資料館では、軍艦旗を掲げている。しかし、敗戦と同時に、どこの航空隊でも軍艦旗を降ろして、焼いた筈である。森崎少尉候補生のような人を除いて、敗戦の日からも多くの海軍軍人は生き残り、その知識や技術を生かして、戦後復興に貢献した人も少なくない。しかし、軍艦旗を焼いた時に、心のなかの軍国主義の考え方も焼いただろうか。そのままもち続けた人も、少なからずいたのではないか。その辺りに、戦後の矛盾があり、諸外国の注意喚起や批判にも関わらず、喜んで靖国神社に参拝する首相や大臣連中が大勢いるという病理現象に繋がっている。

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2006.12.26

軍歌・懐メロから盗用されたフレーズ

以前、松本零士の「銀河鉄道999」のなかのセリフを槇原敬之を盗作したという、疑惑報道がなされ、両者の間で争う動きがあった。その後、10月下旬一旦和解に向ったというが、11月には再燃しており、一体どうなったのか、良く分からないが、最近は報道がないことから収束したのかも。本件、松本零士の側が「無断使用と指摘したのは、歌詞の『夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」とのサビの部分。これが『銀河鉄道-』の名セリフ「時間は夢を裏切らない、夢も時間を裏切ってはならない」に合致すると主張。(以下省略)この騒動は、ネット上でも話題になり、掲示板やブログでたくさん取り上げられたが、どちらかというと槇原支持が多いようだ。『短い文章だけに、似てしまうこともある』『2つの文は意味が異なる』『大御所なのに小さいことを気にしている』 」(J-CASTニュース、2006年11月9日)と報じられた。

「短い文章だけに、似てしまうこともある」という槇原支持の声に対し、小生疑問を感じる。短くても印象的なフレーズは、インパクトがあり、盗作もされやすい。かくいう小生、「夜霧の古城」とは「夜霧の慕情」のタイトルをパクったのではという疑惑を持たれても仕方がない。一時は「夜霧の第二古城」という、明らかに「夜霧の第二国道」をパクったブログもあり、「薔薇の古城」と改名した。

したがって、そんな小生が言っても、あまり説得力がないが、結構歌謡曲のタイトルや決めゼリフのようなフレーズが、古い歌、それも軍歌や何らかの事情で著作権が放棄されたような懐メロの類から剽窃されているのに、最近気付いた。

<陸軍四式戦闘機「疾風」>

4sikisen

例えば、「燃える闘魂」、これはアントニオ猪木の専売特許のようになっている。もっとも、アントニオ猪木の発案ではなく、NET(現テレビ朝日)のアナウンサーの命名だという。

ところが、「燃える闘魂」というフレーズは、「特幹の歌」という軍歌の歌詞に出てくるのである。もちろん、「特幹の歌」は陸軍特別幹部候補生を歌った、戦時中の歌であるから、アントニオ猪木の方が新しい。

「特幹の歌」では、

「翼輝く 日の丸に 燃える闘魂 眼にも見よ 今日もさからう 雲切れば 風も静まる 太刀洗 ああ特幹の 太刀洗」

というように歌われている。この「太刀洗」とは陸軍の太刀洗航空隊のことで、陸軍特別幹部候補生とは、海軍の予科練にあたる少年航空兵たちのことである。

<陸軍一式戦闘機「隼」>

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それから、軍歌、「皇軍大捷の歌」。この中のフレーズが武田鉄矢、海援隊の歌の題名になっていることを、最近ある人から教えてもらった。その人のブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/jyo_takuya/folder/946233.html)を引用すると、

「実は、小生、新たな疑惑を発見した。それは軍歌のあるフレーズに、海援隊の有名な歌のフレーズ、というか題名がそっくりなのである。

その軍歌とは『皇軍大捷の歌』。知らない人は知らないだろうが、割と有名な軍歌である。

皇軍大捷の歌
作詞 福田米三郎 作曲 堀内敬三 

一番 国を発つ日の万歳に しびれるほどの感激を こめてふったもこの腕ぞ 
   今その腕に長城を こえてはためく日章旗

二番 焦りつく雲に弾丸の音 敵せん滅の野にむすぶ 露営の夢は短夜に 
   ああぬかるみの追撃の 汗を洗えと大黄河

三番 地平か空か内蒙の 砂塵に勝利の眼が痛む 思えば遠く来たものぞ
   朔風すでに吹き巻いて 北支の山野敵もなし (以下、省略)  

海援隊の歌とは、『思えば遠くへ来たもんだ』である。

思えば遠くへ来たもんだ
作詞 武田鉄矢 作曲 山本康世  歌 海援隊

タイトルだけでなく、このなかで『レールの響き聞きながら 遙かな旅路夢見てた 思えば遠くへ来たもんだ』というフレーズがある。
『皇軍大捷の歌』の『思えば遠く来たものぞ』と『思えば遠くへ来たもんだ』、そっくりではないか。文語体を口語体に直し、『遠く』を『遠くへ』に替えただけ。(以下省略)」

なお、JYOさんの説はユニークなものであるが、中原中也の詩の盗作という説もある。

「道楽親父の独り言」(http://himajin-nobu.at.webry.info/200511/article_15.html)というブログでも、「 思えば遠くへ来たもんだ ☆ 海援隊と中原中也」という記事のなかで、 「ところで、このタイトルはどこかで聞いたことがある。中原中也の『頑是ない歌』の冒頭のフレーズだ。紹介すれば次のとおりだ。

思えば遠く来たもんだ 十二の冬のあの夕べ

港の空に鳴り響いた 汽笛の湯気は今いずこ

(詩集「在りし日の歌」所収)

盗作だとかパクリなんて野暮は言いたくない。似てるけど内容はちょっぴり違う。私もそうだが気に入ったフレーズが詩を作ると思わずにじんでくるときもある。」と書かれている。

軍歌か詩か、いずれにせよ、パクリであることは間違いなさそうである。

<「思えば遠く来たものぞ」~中国南部に侵攻した日本軍>

Arita23

また、JYOさんによれば、あきれたぼういず、後の川田義雄とミルクブラザースの「地球の上に朝が来る」も、やはり軍歌の「日の丸行進曲」の歌詞の確信犯的盗用、「浪花節だよ 人生は」は、竹腰ひろ子が歌っていた「東京流れ者」の歌詞からの盗用だそうだ。

そういえば、最近氷川きよしが歌っていた「白雲の城」は、昔三橋美智也が歌っていた「古城」と曲の感じがよく似ている。やはり、盗作だと騒がれた。但し、歌の出来は、三橋美智也の「古城」の方が数百倍良い。

<犬山城>

Inuyamajyo

なぜ、こういう他人の歌、それも作詞、作曲者が明確な新しい歌ではなく、著作権が消滅、あるいは当事者が死んでしまって権利者が名乗って出てこないような歌がターゲットにされるかといえば、やはり著作権の問題があるのだろう。相手がはっきりしていると、訴えられる可能性も高いが、そうでなければ、使い得という感覚があるのである。まあ、あきれたぼういずの「地球の上に朝が来る」は、洒落であろうが、あとの例は余り潔いとはいえませんな。

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2006.10.26

ああ掛川城

「歴史川柳」というのを密かにやっている。昔からであるが、一種の自己満足の世界かもしれない。

あまり面白くないかもしれないが、以下に披露する。

掛川城 個人の家と 間違われ

新幹線に乗っていると、掛川駅の辺りで、車窓から掛川城が見えるのであるが、小山の上に天守閣が建っている様は、割とこじんまりしていて個人の邸宅に見えないこともない。先日、新幹線で東京に向う途中、若い女性4人組が乗っていて、そのうちの1人が掛川城を見て、「あんな家を建てるなんて、趣味悪いよね」とか言っていた。これは、青森の某H藤吉郎秀吉さんの邸宅(Hさんの家が趣味悪いとは小生思っていませんが)と混同していたのだろうか。しかし、良く見れば、やっぱり城だろうと思うのだが。。。

気になるので、新幹線を降りてみた。
掛川には、10年以上前に来たことがあるが、あまり変わったところもない、田舎の町という感じであった。今回掛川の町を歩いてみると、大河ドラマを意識して「功名が辻」の幟はそこらじゅうにあり、観光都市になったかのよう。

<掛川駅>

Kakegawaeki

駅のロータリーからも掛川城の天守の頭の部分は見えるが、北のほうへ歩くにつれて、掛川城が近くなる。途中、清水銀行の壁に山内一豊と千代の像がレリーフになって取り付けられている。千代が馬のくつわをとっているが、この図はジェンダー的には問題にならないのだろうか。高知城の千代の像は千代が馬を引いているというものだが、この像では馬の上に一豊が乗っている。

<清水銀行の一豊、千代像>

Shimizubank

掛川城は、美しい城であったらしい。今の天守閣は再建されたものであるが、嘉永7年(1854)に地震で倒壊して以来、最近まで天守は建てられなかった。今日の天守は平成6年(1994)に再建されたが、嘉永年間に書かれた絵図面や同じく山内一豊が建てた高知城の天守を参考にして、比較的往時を忠実にうつしているという。

<掛川城の天守閣(再建)>

Kakegawa11

<ライトアップされた掛川城の天守閣>

Kakegawayakei_1

掛川城といえば、大河ドラマ「功名が辻」で俄かに注目を浴びることになった山内一豊の居城として知られる。元は今川氏の家臣である朝比奈泰煕が築城した城であるが、桶狭間合戦で今川義元が戦死した後、後継者となった今川氏真が武田信玄の進攻を受け、また内部的には家臣の離反にあい、駿河の城を維持できずに、掛川城を一時居城とするということもあった。今川義元は、桶狭間合戦で討たれはしたが、やはり乱世の雄の一人であった。しかし、子の氏真は全く武将に不向きな人物で、政治や軍事より蹴鞠が得意というのだから、今川氏の崩壊は早かった。

今川氏真が後北条氏の食客として去り、大名としての今川氏が滅びると、掛川も徳川家康が領するところとなった。掛川城には、城代として石川家成が入った。天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めで敗れた後北条氏のあとに、徳川家康が関東に移封されると、今度は掛川城に豊臣秀吉の直臣、山内一豊が5万1千石(のち5万9千石)で入った。山内一豊は、後に土佐高知城主として有名になったが、関ヶ原合戦前は掛川城主であり、掛川城の大幅な拡張を実施し、石垣を構え、瓦葺の櫓や天守など近世城郭としての体裁を整えた城郭とした。

<掛川城遠景>

Kakegawa21

本来岩倉織田氏の重臣の家柄の出身で、尾張や美濃に所縁のある山内一豊にとって、掛川は縁のある土地ではなかったが、秀吉から近江唐国、長浜に続いて掛川5万1千石が与えられ、掛川城主になった訳である。この山内一豊という人物、女房のお千代さんの内助の功で有名であるが、一豊自身は武断派の武将とはいえ、それほど豪傑ではなく、平凡な人物に近かった。むしろ世渡りのうまさ、運の良さで、実力以上の出世をした感が強い。

雲霧城 霧吹き井戸の 底深し 

この掛川城、その美しさもさることながら、色々な伝説のある城である。例えば、霧吹き井戸。その昔、城主朝比奈氏が守るこの城を、徳川家康が攻めた折、井戸から立ちこめた霧が城をすっぽりと覆い、城は危難を避けることができたといわれている。霧隠才蔵のお城版ともいうべき、アンビリーバボーな伝説である。

<伝説の霧吹き井戸>

Kakegawaido_1

掛川城 天下分け目の 出世城

小山にて 一豊一声 土佐を得る

一豊は 口先一つで 国をとり

これらは、すべて関ヶ原合戦の直前、上杉景勝を討伐する道すがらの小山で行われた、小山評定での山内一豊の発言が、関ヶ原合戦で東軍に武将たちを結束させることになり、一豊は合戦でさしたる武功はないものの、土佐高知城の城主となり、二十万石を賜る結果となったことをいっている。

小山評定では、まだ徳川につくかどうか去就を決めていない武将もいたと思われる。その折に、家康に味方する発言の口火を切ったのは福島正則、その後をうけて山内一豊が関ヶ原への道中の途中にある掛川城を家康に提供するという大胆な発言をした。これによって同じように家康に城や知行を差し出すという申し出が東海地方の武将から相次ぎ、去就を決めかねていた武将たちが家康方となるとともに、結局徳川家康の関ヶ原入りが容易になったのである。

しかし、この発案、山内一豊のオリジナルではないようだ。藩翰譜にあるように堀尾忠氏の受け売りだったか(あるいは、堀尾忠氏の親父の堀尾茂助もしくは中村一氏の発案かもしれない)、千代の入れ知恵であったかよく分からないが、とにかくその一言で、山内一豊は土佐二十万石を手に入れたといっても過言ではない。

<掛川で見た、これは???>

Tukutuku

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2006.09.17

愛知県美浜町の河和海軍航空隊跡

河和海軍航空隊跡のある美浜町は、知多半島の中央よりやや南に下がったところにある。武豊からはお隣の町とはいえ、休みでもたまにしか行かず、それも野間以外の場所には、とんと縁遠かったが、そんな美浜町に最近二度ほど続けて行った。

というのも、「千葉県の戦争遺跡」HPに、「日本各地の戦争遺跡」をのせる手始めに河和海軍航空隊について記載するということで、何でもいいから写真でも撮ってきてくれという森兵男からのアバウトな指示があり、まあ隣町だしちょっと行ってくるか、という軽い気持ちで行ったのである。

河和の古布地区に、航空隊跡があるとは知っていたが、行ってみると目ぼしい遺構らしきものは、海岸のスリップ以外は見当たらず、近所の人に聞いても知らないので、一旦美浜町生涯学習センターへ。美浜町生涯学習センターでは、まさに「河和海軍航空隊と美浜町」という展示を行っており、特攻隊の鉢巻やら士官、下士官の軍装の一部、飛行機のプロペラ、水上機の訓練風景を描いた絵などとともに、遺構の場所と写真をパネルにしていて、最初から美浜町生涯学習センターへ行けばよかったと思った次第。

<心育館前の「未来へ」(竹内英章)>

Miraie

なお、河和海軍航空隊は、第一航空隊(整備、新兵教育)と第二航空隊(水上機訓練と実戦部隊)とあり、それぞれ歴史がある。

昭和16年(1941)、海軍は河和の古布に海軍航空隊を建設し、水上機の基地としようと計画、古布の集落の用地を買収して、古布集落の人々は山間部へ強制移転される(『美浜町誌』によれば、その折衝の際、「買収に同意しない者は非国民である」という海軍側の発言に対し、「今の発言を取り消せ」という住民側の応酬もあったという)

昭和18年(1943)6月、追浜海軍航空隊知多分遣隊 開設(整備教育)

昭和18年(1943)12月、河和海軍航空隊 設立、第十八連合航空隊 編入(整備教育)

昭和19年(1944)4月 第二河和海軍航空隊 開設、第十一連合航空隊 編入(水上機操縦教育で航空艇の搭乗員の養成が行われた)

昭和20年(1945)2月、河和海軍航空隊は第一河和海軍航空隊となる

昭和20年(1945)5月、第二河和海軍航空隊は第十一連合航空隊から第三航空艦隊第十三連合航空戦隊に編入

昭和20年(1945)2月26日、第二河和海軍航空隊でも神風特別攻撃隊が編成される(神風特別攻撃隊御楯隊河和隊)

昭和20年(1945)8月5日、零式観測機35機と48名の隊員が出撃のため河和から福岡県深江へ移動、8月15日未明特攻出撃命令あるも、終戦のため命令解除

終戦により、武装解除され、昭和20年(1945)9月航空隊員は解員帰郷

戦後、基地跡は農地などになった。内陸部の第一航空隊地区は、土地が払い下げられ、多くは農耕地となり、海に近い第二航空隊のほうは学校、住宅地になっている部分が多いが、工場、港湾設備が民生用に転用された。

<河和漁港~かつて石炭などの陸揚港として利用された>

Kouwagyokou

太平洋戦争直前の昭和16年(1941)に、海軍がこの地を買い上げて、水上機基地建設を計画、実際に土地買収(というより強制収用に近い)により、旧古布地区(旧都築紡績工場跡から旧大川周辺の一角)の住民は、窮屈な強制移住を余儀なくされたのは、前述の通り。道路の付け替えや大川の流路変更なども含んだ大規模な工事(いわゆる海軍道路が建設された)の後、当初、昭和18年(1943)12月には、水上機整備員の教育を目的とした河和海軍航空隊(後の第一河和海軍航空隊)が設立され、翌19年4月には、水上機操縦教育を目的とした第二河和海軍航空隊が開設され、航空艇の搭乗員の養成が行われるなど、整備要員の養成から搭乗員の養成まで行う航空隊となった。

<第一航空隊本部用シェルター>

Honbugou

これほど、大規模な教育訓練を主たる目的とした航空隊が戦争も敗色が濃くなってきたころに建設されたのは、多くの実戦要員が戦死してしまい、その補充を急いだということであろう。小生の父も、実は奈良の海軍航空隊に所属していた(ニ飛曹)が、兵舎は天理教の教会を改造したもので、皆畳敷きの部屋にハンモックを吊って寝ていたそうである。それも、航空兵を収容する広い場所ということで、戦時中弾圧をうけて休業(宗教の場合はなんと言うのかわからないが)状態であった奈良県天理の天理教の教会に目をつけたらしい。 ちなみに、同じ理由で、戦争末期には高野山の宿坊が兵舎にされ、高野山海軍航空隊も開設された(海軍基地を山の上に作ってどうしようというのであろうか)。

今は第二航空隊跡は海に近く、しかも国道沿いで、学校と住宅地、農地となり、第一航空隊のほうは航空標識所のほかは、ほとんど農地になっている。第一航空隊跡は内陸部にあり、航空標識所の敷地に防空壕などが残っている。しかし、大規模な遺構が残っているのは、第二航空隊のほうであろう。

その遺構をニ三紹介する。

まずは、水上機のスリップ。河和漁港に近い、北側スリップ一箇所と東側スリップ二箇所があるが、特に東側の実戦機用機体に使われたスリップは200m以上の長さがあり、大規模である。細い道路が海沿いにあり、堤防が4mほど開口しているため、スリップへ向う通路となり、車も出入する。東側スリップは、今やマリンスポーツのメッカであるが、水上機の離陸場所であったことを知っている人がどれだけいるのであろうか。小生が行った時には、9月にも関わらず、泳いだり、水遊びをしている人も大勢いた。北側も、東側もスリップに大きなひびがはいっている場所が何箇所かあったが、爆撃によるものだそうである。

*スリップとは、日本語では「すべり」。水上機は海から飛び立ち、海へ着水するので、陸上から海へ下ろし、海からまた陸へ引揚げねばならない。普通の飛行機は、足にタイヤが付いているが、水上機の場合は小さな船のようなものが付いている。飛行場がいらない代わりに、スリップがないと海から飛び立ったり、海に着いたのが陸へ上れなくなってしまう訳である。

<北側スリップ>

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<東側の大きなスリップ>

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<東側スリップの北端>

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東側スリップの南には、故障、墜落した機体を台船で運びこむ軍港跡があるが、入江となっており、白鷺が住んでいる。多分えさとなるゴカイの類がいるからであろう。この軍港跡の入り江の周囲をぐるりと石垣が取り囲んでいるが、その下段部分が軍港当時のものである。

<軍港跡>

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<軍港跡に群れる白鷺>

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その入江の山側には、第一航空隊と第二航空隊の連絡用陸橋跡(入江に近い東側のみ)がある。当然、第一航空隊に繋がる山側には通路があったはずであるが、現在では陸橋跡の道を挟んで山側(西側)は藪になっていて国道から入る通路自体はなくなっている(ちょうど陸橋跡の西側の藪があいて牛舎への通路があるが、その通路ではなく、その通路南側の水路のすぐ南に当時の通路があった)。*2006年9月22日改

<連絡用陸橋跡>

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ちょっと変わった所では、田圃の中にある修理工場の土台。これは稲が伸びている頃には撮影できない。9月初めに行った時には、稲がまだ刈り取られておらず、見えなかったので、後日行って撮ってきた次第。ちょうど稲刈りに出ていた農家の方にことわって、田の中に入り、その土台を撮影した。「河和航空隊について調べているので、工場の土台を撮影させてほしい」旨告げると、農家の方は快諾してくれたが、「珍しいかねー」と言っていた。土台はなんていうこともないコンクリートの塊ではあるが、鉄筋が通り、整然と並んでいた。上ものもきっちり作ってあったのであろう。

<「珍しいかねー」という農家のおじさん>

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<顔を出した河和海軍航空隊の修理工場土台>

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そのほか、河和航空隊の石碑があったが、そのような石碑(隊碑、忠魂碑など)には小生あまり関心がないので省略する。

河和中学校の敷地に、第二航空隊で使っていた水タンクがあるが、訪問した日は土曜日で教職員の方がおらず、敷地内に入って撮影する許可をとる相手がいなかったため、撮影できず。水タンクについては、後日、連絡して撮影させてもらうことにする。河和中学校は、兵舎跡に建っており、水タンクの他にも第二航空隊の本部正門の基部が残っていた。それについては道路上であったため、撮影した。海軍の兵舎だけあって、周囲の道は直線で、しかも海まで続いている。他にも、河和の内陸部の神社で、偶然見つけたものもあり、帰りに寄った半田の旧カブトビールの機銃掃射跡も写真に撮ったが、本文とそれるのでこの辺で。

<第二航空隊本部正門の基部>

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なお、美浜町社会教育課、生涯学習センターの皆さんには、お世話になりました。多分、この記事を含めて、取材内容は「千葉県の戦争遺跡」HP(http://www.shimousa.net/ )、「日本各地の戦争遺跡」に掲載されると思います。

*2006.09.21追記 以下の記事(森兵男)参照 (2007.9.19 HP移転に伴い、URL変更)

http://www.geocities.jp/takechan_mori/kowa/kokutai.html

註)当記事内容が「千葉県の戦争遺跡」HP http://www.shimousa.net/ 
に掲載された場合、それは小生の同意に基づくものであり、著作権侵害にはあたりません。また美浜町生涯学習センターから、「河和海軍航空隊と美浜町」の展示内容のHP掲載を許可されたのは、小生のブログではなく、森兵男の上記HPですので、今回美浜町の河和海軍航空隊の展示については紹介しませんでした。

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2006.07.17

徳川家康と知多半島(その17:尾張に残った中山氏の後裔)

前々回、「岩滑の中山氏」というタイトルで、現在半田市岩滑となっている知多半島は岩滑に居城を構え、徳川家康の母方の姻戚(義理の叔父)でもあった中山勝時の系譜について書いた。また、前回は「幕臣となった岩滑中山氏の後裔」と題して、中山勝時の子、勝政、勝尚の子孫で旗本になった中山氏後裔について述べた。これらについては、旗本となった中山氏の御子孫から、コメントを頂いたりしたが、前回までの記事では地元尾張に残った中山氏、つまり尾張徳川家に仕えた尾張中山氏については、あまり触れていなかった。

この7月15日、愛知県半田市岩滑西町にある新美南吉記念館において、「『ごんぎつね』の殿様 中山家と新美南吉」という特別展が開催され、その開催初日に尾張中山氏の御子孫とヘロン氏と小生で、新美南吉記念館を訪れた。新美南吉記念館では矢口館長、遠山学芸員が応対してくれ、記念館側の計らいで尾張中山氏子孫の中山文夫氏と生前懇意だった郷土史家小栗大造氏も同席し、色々と中山氏と岩滑の昔について聞くことができた。

今回、新美南吉記念館で尾張中山氏を取り上げるのも、「ごんぎつね」に「むかしは、私たちの村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまが、おられたそうです」というくだりがあるように、岩滑の象徴的存在でもあるし、新美南吉自身が岩滑に帰って住み着いていた尾張中山氏の子孫の人々と深い付き合いがあったからであろう。

<矢勝川河畔にある南吉の碑>

Nankichihi

前に述べたように、尾張中山氏は、岩滑城主であった中山刑部大輔勝時の三男、五平次勝尚の子勝秀の娘が尾張徳川家家臣である安井長高に嫁し、その子長清が母方の姓を名乗って中山瀬左衛門と称したことに始まる。安井長高は御弓役、御馬廻、中山瀬左衛門長清が御徒頭、その子清純は御馬廻頭などをつとめた。そのように、尾張中山氏は、代々御馬廻役などを務め、幕末の頃の勝重は、尾張藩で武術師範をつとめた。武術師範では千人を越える門弟がいたといい、そのなかには附家老の成瀬氏など尾張藩でも要職にあった人達もみられる。

<岩滑八幡社境内にたつ岩滑開村の石碑>

Yanabe

中山勝時の子勝政、勝尚の血をひく他の系統が徳川将軍家に仕えたのに対し、尾張徳川家に仕えるもう一つの系統を残した訳である。古来、武家の慣習として、嫡流家以外に、地元に別系統をたてる例は多い。この尾張中山氏、明治維新の後、かつての旧領である岩滑に移住した。それは、地元に在住していた森権左衛門家からの勧誘による。実は、その森家のルーツをたどると、中山氏の家老格であったといわれる。そして、小学校校長をしていた中山元若(勝重の子)の代には、家の近かった新美南吉と中山家とは深い交流があったという。すなわち、中山家の六女ちゑに対して南吉は思いを寄せていたし、ちゑだけでなく、母しゑや妹なつ、弟文夫とも家族ぐるみの付き合いがあった。実は新美南吉の童話のもとになっているのは、中山元若の妻しゑが語る民話だったという説もある。そうなると、新美南吉の童話のオリジナルは、中山家にあったということになる。

<「『ごんぎつね』の殿様 中山家と新美南吉」特別展の案内>

Niiminankichinakayama_1

それはともかく、徳川家康の従兄弟中山勝尚のひ孫にあたる中山瀬左衛門長清から始まる尾張中山氏、その系譜については、亡き中山文夫氏が書いた資料や今回の展示内容から、もう少し掘り下げてみたい。それについては次回。

なお、中山文夫氏の著書「私の南吉覚書」のまえがきにある、小栗大造氏の俳句が印象に残った。

半田口 言わねど語る 彼岸花

<甲城山常福院~南吉の童話の舞台にもなった>

Jyouhuku

<常福院の前の道>

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<Wikipedia 「中山勝時」の項で、一部このブログから引用して投稿しましたが、それは作者の森です>

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2006.02.21

播磨城めぐり見聞録

ご家老の言いつけにより、江戸勤番から尾張の国は知多郡成岩村にある屋敷勤めをすることになった森知安(ちゃん)でしたが、くろがねの荷運びを行うご親戚家の何とか計画書なる巻物づくりをお手伝いし、連日のお勤めに疲れ気味。本来のお勤めもこなせねばならぬし、困ったものよと思案の最中。そして、ご親戚家のご家老への報告をもって、そのお勤めからは解き放たれたのを良いしおに、かつて住んでいた摂津の国の隣、播磨の国に骨休めに参ったのでありました。しかし、町医者からは禁酒を言い渡され、新幹線なる乗り合い馬車の中でも麦で作った酒が飲めないとは、つらいなあ。

二月十八日朝。天気は晴れというより、薄曇。
では、出発は尾張の国は知多郡長尾村(武豊)より。「じぇーあーる」とか申す乗り合い馬車に乗り込んで、いざ名古屋まで。ここまでなら、知多に来てからでも何回か行ったたことがあるが、はてさて新幹線で岡山行きとな。途中、姫路で降りるのでござるな。

<JR武豊駅:1953年の13号台風の際に列車を救い殉職した駅員さんの像(銅像のように見えるが、常滑で作った陶製だそうだ)がある>

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<名古屋駅新幹線ホーム>

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姫路城は、白鷺城とも呼ばれているそうな。確かに美しい城でござるな。たしか池田様の城であった。高田浩吉と申す歌手の歌で「白鷺は 小首かしげて 水の中・・・」* というのがあったが、関係ないじゃろの。 *白鷺三味線 日本音楽著作権協会作品コード:039-0324-9

<姫路城の大手門>

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<姫路城の堀>

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うーん、天守閣に子天守がついて、これはなかなか見所の多い城でござる。

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この城の西の丸には、かつて千姫様がおいでになった、化粧櫓という櫓があった。この辺りかの・・・おや、東の空に筋のような変わった雲があるわい。

<西の丸の櫓付近から飛行機雲を見る>

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しかし、姫路ばかりには居られぬ。脇坂様の龍野城も見聞しておくとしよう。では、姫路からまた乗り合い馬車に乗るのでござるか。「じぇーあーる」姫新線とな。初めて聞くような名じゃが。姫路と播磨新宮を結んでおるとか。

<姫路駅の姫新線ホーム>

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何と? 自動扉ではなく、釦を指で押して開閉するとは、初めて見聞するな。上野の国と下野の国を結ぶ両毛線では、扉を手で開け閉めする荒技を使っていたが、これは折衷方式でござるか。龍野城へ行くには、本竜野で降りればよろしいな。

<本竜野駅>

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ここから歩いて、城下へ参ろう。途中、揖保川にかかる龍野橋という橋がござるが、手前の橋の東詰の近くには醤油作りを生業としている町人がいるとか。ヒガシマルとか申したな。また、揖保乃糸という素麺でも有名じゃ。手延べ素麺協同組合の建物もある。町人の寄り合いじゃな。そうこうするうち、龍野橋じゃ。おお、橋の上から龍野城が見える。足利将軍のころ、赤松村秀という武将が鶏籠山の山頂に築いたのにはじまるとか。赤松四代の城であったが、天正五年、織田信長様の命により豊臣秀吉様が行った播州征伐で開城したとか。また山麓にある御殿は、徳川の御世になってからのものと聞く。

<龍野橋からみる鶏籠山>

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<江戸期の龍野城(復元)>

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城下は町屋の蔵や格子戸が目立つのう。そして、寺も多い。また、幅がちと狭いが、堀であるのか、水路がめぐっておるぞ。

<城下町の風情を残す龍野の町並み>

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龍野城は御殿に上げて頂けるのか。しかも金子をとらないとは。さすが龍野は醤油や素麺で商売繁盛している土地柄であるな。かたじけない。もう、そろそろ日も傾いてきたから、茶でも一服。そうじゃ、龍野橋の東詰に、古風な茶屋があった。そこで一休みしよう。「しふぉんけーき」という南蛮渡来の菓子に「こーひー」という茶で、一組になったものを注文しよう。六百文なら安いではないか。

<龍野橋東詰の喫茶店~入り口に細かいタイルがはってある>

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<喫茶店の店内~よく見なかったがアンティーク喫茶らしい>

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では、また姫路へ戻るとするか。何、「いべんと」があるとな。落とし噺でござるか。聞きたいのはやまやまじゃが、拙者尾張より隠密で上方に来ている身。また、明日は置塩城についての学者の話があると聞いておる。それでは、明日も早いので。龍野の町よ、さらば。

明けて、二月十九日。天気曇り。
昨日、お役目に少々疲れ、骨休めに上方へ飛んだ森知安(ちゃん)、姫路城と龍野城を見聞し、龍野の茶屋で一休み。そして、姫路に戻って旅籠に泊まりました。今日は朝から、置塩城の話を聞きに姫路の北なる前之庄へ乗り合い馬車に乗っていったのでありました。

神姫バスなる小型の乗り合い馬車で来たが、山の中じゃな。拙者の親の田舎の上州黒川山中の風景にも似ておる。終点のここが前之庄か。姫路市に統合される夢前町の中心じゃな。しかし、旧道も新道も店がまばらじゃ。早く着いたので、置塩城に寄ってからとするか。ほう、地図が出ている。・・・これは、大分遠いなあ、しかも乗り合い馬車で通った場所ではないか。山城だし、簡単に登れるものでもあるまい。拙者の認識が甘かった。仕方ない、昼食を取って、喫茶店か何かで待つとしよう。

<前之庄にある町役場と講演会会場になった公民館(後ろ)>

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これは参ったな。新道沿いを見ても、喫茶店どころか、食堂もないぞ。旧道沿いは・・・おや、食堂はあるが、閉まっておる。肉屋はあるから、「ころっけ」でも食するとしよう。おお、肉屋には猪の肉もある。確か、丹波篠山に行ったときにも、猪肉が名物であった。牡丹鍋にするのであったな。旧道沿いには、見過ごしそうな路傍に石の道標があり、「たじま たんご道」と書いてある。

<松の本にある道標>

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講演会の会場は、中央公民館でござるか。結構、立派な建物でござる。受付をすませ、大ホールで開会を待つとしよう。何か、童謡のような歌を繰り返し流しているが、夢前町の歌でござるか。そうこうするうち、開会じゃ。最初、置塩城の発掘の様子をスライド上映でござるか。その後に、置塩城発掘調査の指導者であった、おおざかの大学院名誉教授、村田修三殿の講演でござるな。

<置塩城発掘調査結果の講演会の様子>

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<置塩城発掘調査結果を説明する村田修三・大阪大学大学院名誉教授>

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なるほど、置塩城を築城した赤松氏は、この山中に播磨国守護として公家や寺家も滞在できるような、居住性の高い都市空間を作ろうとしたのでござるか。それで、山城なのに、「麓に居館、山には詰めの城」で山城のほうは防御性を重視、居住性はあまり問わないという、従来の常識とはかけ離れているのでござるな。それにしても、大規模で石垣や瓦葺きの建物なども立派な山城であった様子じゃ。この城には庭園もあったのが、発掘で明らかになっている。しかし、生活物資を運ぶのは大変であったろう。

帰りはまた乗り合い馬車に乗らねばならぬ。拙者と同様に停車場で待つ御仁、神戸の住人の方でござるか。拙者が昔住んでいた摂津の国の、しかもお近くの方ではないか。拙者より少し年上の五十二、三歳の方とお見受けしたが、いづれ同好の士でござる。乗り合い馬車のなかでも、いろいろ話をした。置塩城だけでなく、白旗城や高取城など山城をいろいろまわっているそうな。置塩城の「ぱんふれっと」を下さるのか。これは、かたじけない。また、山城は危険な場所がいろいろあり、一人で行かないほうがよい、置塩城であれば教育委員会に電話すれば団体でのぼれるように手配してくれる云々、ご忠言重ねてかたじけない。

<バス車中から撮った置塩城址のある城山>

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神戸の御仁とは姫路で別れ、拙者は「じぇーあーる」新幹線で名古屋へ向い、武豊線に乗るのでござる。短い間であったが、いろいろ見聞をいたした。知多郡長尾村(武豊)に戻り、また明日からはお勤めじゃ。

<JR武豊駅>

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2006.01.28

海軍大尉は「てんとう虫」に乗って

世の中便利になったもので、愛知県は知多半島にいても、インターネットで本の注文ができ、宅配便で届く。亡くなった実家の近所に住んでいたおじさん(友達のお父さん)が日本海軍について書いた古本全三巻を注文し、先日手元に届いたが、そのおじさんは作家、あるいは軍事評論家というような仕事をしていた。奥付に書いてあった著者略歴を読んで、昔の住所が書いてあったので涙が出てきた。昭和36年(1961)刊行された本で、ちょうど小生の家が東京から船橋へ引っ越してきた頃のものである。

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そのおじさん自身が、兵学校出身の歴戦の元海軍大尉で、潜水艦乗りだった。レイテ沖夜戦では敵との交戦で魚雷を撃ちつくした後、さらに敵と遭遇、約40時間も潜航したそうである。小生の父親も海軍だったが、三重海軍航空隊奈良分遣隊、後の奈良海軍航空隊所属のポツダム下士官(つまり終戦直前に兵長から二飛曹に昇任した)で、一度も出撃しなかった。もし、出撃となれば、戦争末期の奈良海軍航空隊の場合は、回天や震洋に乗ることになっていたであろうから、出撃イコール戦死である。といっても、三重空では練習機に乗っていて失神し、操縦不能で墜落して死んだ人もいるようだし、奈良空でも病気で死んだ人が結構いたらしいので、出撃しなかったからといって全員生きて帰れたわけではない。小生の父親は、本当は陸軍幼年学校に行きたかったが、将校になるのに時間がかかるので、手っ取り早い海軍の予科練に志願したそうだが、その当時は世の中が軍国一色で、入る時は華々しい思いだったのであろう。そして、奈良空で玉音放送を聞いて復員してきた後、田舎の山に登り、「国破れて山河あり」と思ったそうである。

日本は勝つことの不可能な無謀な戦争をしていた、そのために国民の生活は犠牲とされ、天皇の命令の名の元に軍人は将棋の駒のように動かされ、犠牲になっていった。戦病死した軍人のほとんどが、餓死であったことは藤原彰先生の研究で明らかになっている。つまらん連中が戦争を美化しているが、実態は仏教でいう阿修羅道、餓鬼道であったのである。アジアの罪もない人々も多く犠牲になったが、個々の具体的な作戦の如何に関わらず、全ての根源は奉勅命令であり、天皇を大元帥とした統帥権は当時何人も侵犯できなかったのである。でも、昭和天皇は、なんら詫びることなく死んでしまった。軍人に対しても、非戦闘員の国民に対しても。そして、戦争の反省もなしに、無責任な言動をしている政治家や言論人が、大手を振って歩いている。今度は女系天皇だそうだが、天皇も選びきらんのなら、いっそのこと、今後は皇族全てが皇族をやめてしまえば良い。そして昭和天皇の戦争責任を国民審判で決めたら良い。

<聖衆来迎寺の六道絵>

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亡くなった、そのおじさんは、友達と小生をよく車に乗せて、ドライブに連れて行ってくれた。車は、「てんとう虫」と呼ばれたスバル車である(スバル車を製造していた富士重工は、戦前中島飛行機と言っていたが、偶然にも小生の伯父は戦前中島飛行機に勤めていた)。

そして、そのおじさんはその車で事故に遭い、亡くなった。その時、週刊誌に連載が決まっていたそうである。ミッドウェーやレイテなど数々の海戦を生き延びた歴戦の勇士が、戦後事故で自家用車の中で死んでしまったのは皮肉なことである。確か、力道山が亡くなったのと同じ頃だったと記憶しているが、お葬式の後出されたお茶が余りに熱かったことを鮮明に覚えている。

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近所の友達も小生もこの世に生まれてきたのは、志願して海軍に入った親が戦死せず、生き残り家庭をつくったからである。小生の祖父は陸軍に応召されたが、日露戦争が終わった頃だったので、特段のことはなかった。但し、本人は模範兵だったのに、思うように昇任できなかったのが不満で、歩哨に立ったときはやることがないので髭を抜いたり、星を見ていたりしたそうだ。曽祖父は、尾張徳川家の兵隊として戊辰戦争に行ったようであるが、生き残った。曽祖父の刀は戦後のドサクサでなくなったけれども。その前はもう江戸時代だが、もっと前の戦国時代の先祖となると、いつ死んでいてもおかしくありませんな??? いずれにしても子孫が残ったのは、先祖が子供を作るまで生き延びた結果であり、天皇は万世一系とか昔は言っていたが、誰でも万世一系である。

多分、亡くなったおじさんは、天国でもスバル車に乗ってドライブしているのだろう。戦争を知らないくせに、あるいは元軍人でも主計将校か何かして弾の飛んでこないところにいたくせに、威勢の良いことばかり言っている連中を苦々しく天上から見ているかもしれない。

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2005.12.21

歌いつつ歩まん

スチール統合プロジェクトで仕事をしていた忙しい時、私は会社の往き帰りに好きな音楽を聴いていた。例えば黛ジュンのデビュー曲「恋のハレルヤ」*などは、良く聴いていた。もはや「懐メロ」の部類になってしまった曲しか分からないというのは、年のせいだろうか。しかし、黛ジュンはデビューの時から歌唱力がすごいと思っていたが、実は本当のデビューはもっと前で米軍キャンプなどで歌っていたのだということを最近知った。黛ジュンは、歌は目茶苦茶うまいが、格別美人でもなく、親戚のお姉さんみたいな感じでフレンドリーであったためか、その歌はよく替歌が作られていた。「恋のハレルヤ」も、たしか「ハレルヤ~」を「禿げるヤ~」にして、「花は散っても」を「髪は散っても」とし、頭髪の薄い方を揶揄するような、けしからん内容の替歌になっていたと思う。他の曲も同様で、黛ジュンの歌ほど、替歌になったものは余りない。

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しかし、「恋のハレルヤ」はでだしが、「ハレルヤ~」といっているだけで、それ以降は少しもキリスト教的な文句がない。しいていえば「愛されたくて愛したんじゃない」がアガペーの愛を感じさせる程度である。*日本音楽著作権協会作品コード 031-1579-8 ISWC T- 101.229.647-6 

話はちょっと脱線する。植木等の「スーダラ節」**は、青島幸男作詞だが、根がまじめな植木等はその歌をもらったとき、歌詞の内容に悩んだそうである。そして、寺の住職をしていたお父さんにこんな歌詞だけど歌うのはどうかと思っていると、相談したところ、お父さん曰く、この歌詞の「分かっちゃいるけどやめられない」というのが仏の道に通じるということで、植木等も納得したという。**日本音楽著作権協会作品コード 043-0001-7  ISWC T- 101.317.016-4

「ハレルヤ」が歌詞のなかに出てくる歌を、私はもう一つ知っている。夜、武豊と半田の間を車で走る時、赤いライトで縁取られた十字架を屋根にのせた教会が二つ、沿道にあるのが見える。私はキリスト教ではないが、そんな時ふと、ある賛美歌を思い出すのである。その賛美歌とは、そういう類の歌で、メロディーもしっかり覚えていた唯一の歌、聖歌498番「歌いつつ歩まん」である。

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高校生の頃であるから、もう30年も前のことであるが、私はなぜかバプテスト教会の集会に行ったことがある。その時、上映されていた映画のバックに、その歌が流れていた。

♪ 歌いつつ歩まん ♪

1、主にすがる我に 悩みはなし
  十字架の御許に荷を降ろせば
  歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ
  歌いつつ歩まん この世の旅路を

2、恐れは変わりて 祈りとなり
  嘆きは変わりて 歌となりぬ
  歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ
  歌いつつ歩まん この世の旅路を

3、主はいと優しく 我と語り
  乏しきときには 満たしたもう
  歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ
  歌いつつ歩まん この世の旅路を

4、主の御約束に 変わりはなし
  御許に行くまで 支えたまわん
  歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ
  歌いつつ歩まん この世の旅路を

実際には、メロディーは正確に覚えていたものの、歌詞については「この世の旅路を」を「心の旅路を」と覚えていた(「心の旅路」では記憶喪失をテーマにした古い映画である)し、それ以外でもかなり間違って覚えていたので、私のなかではほとんど別の歌になっていた。

この歌が流れていた教会の映画では、ある少女がお母さんの死をきっかけに絶望し、駅のホームから身を投げて自殺しようとしたが、奇跡的に命が助かったものの、両足と片腕(左腕と思いますが)を失い、残った腕も、指が3本という状態になってしまった。そして病院で意識を取り戻した少女は、再度自殺をしようとするが、キリスト教によって救われ、やがて牧師さんと結婚し、子供ももうけて充実した日々を送っているという内容であった。映画の最後に、その本人、市川在住の田原米子さんが登場し、台所で料理をしたり、家事をしている様子やインタビューに答える声などが流されていた。

その後、私はキリスト教徒にはならず、千葉県の県立高校から、大学へ進み、会社勤めをしている。会社でも勤続25年になるのだから、もうロートルの部類に入りそうである。家の仏壇には線香もあげるし、先祖の位牌に手を合わせるので、家の宗派である禅宗の信者といえなくはない。だが、前記の賛美歌と田原米子さんの姿は、ずっと記憶の底にあった。

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思えば「歌いつつ歩まん」は、きわめて楽天的な歌である。主にすがって悩みはなく、荷をおろしているのだから、足取りも軽く、歌いながら歩けるよ、というのは言いすぎかもしれないが、表面的にはそんな歌詞である。しかし、実際にはそう思いたい、つらい悩みを負った人の負担を何とか軽くしたいということであろう。田原米子さんも、多分生還したが三肢を失った障害者になって一時は絶望したのであろうが、キリスト教の信仰に支えられ、まだ片腕と3本の指があるというものすごいプラス志向で、生き抜いてきたのである。これこそ、奇跡である。

だが、田原米子さんも今年なくなってしまった。生前はライフカウンセラーとして、活発に活動されていたそうであるが、そういう人の活動が重要になっているだけに実に惜しいことである。今年なくなった有名な人は、いろいろいるが、私にとっては、田原米子さんがなくなったことが惜しまれる。

あらためて、ご冥福をお祈りいたします。

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