この連休の初めに連れと出かける予定が中止になり、一人さびしく船取線を北上し、鎌ヶ谷を通って高柳辺りへ行った。 食事をする場所は高柳には数軒あり、高柳で食事をしようと中華の店を目指したが、あいにく連休で休みで引き返して佐津間まで戻った。新鎌ヶ谷と高柳の間には佐津間にお蕎麦屋さんがあるくらいである(といっても、小生が知らないだけかもしれないが)。
佐津間のお蕎麦屋さんで蕎麦を食べた後、佐津間の渋谷総司の生家や渋谷総司の石碑がある宝泉院に行ってみた。佐津間には渋谷姓の家が何軒かあるが、赤報隊幹部で有名な渋谷総司は当地の出身であり、その生家は佐津間城に近い場所にある。
佐津間城址は、東武野田線六実駅に比較的近い県道船取線の佐津間交差点から東へ下った、手賀沼に注ぐ大津川左岸の標高約25m、比高10mほどの台地端にある。 城の大きさは堀の外側で東西50m、南北76m、土塁の内側で東西21m、南北35mという単郭の小さな城で、元は相馬氏系の城であったようである。それが、なぜこの場所に城があったかといえば、実は当地は手賀沼東部から松戸、すなわち現在の江戸川下流に至る松戸街道が大津川と交わる水陸交通の要衝であったためである。もっとも中世においては明確な街道という形でなかったかと思うが、道があり、そこを行き来する人も多かったのだろう。
<佐津間城遠景>
そういう中世の城跡のすぐ近くに幕末維新の頃に名をはせた人物が生まれたのだが、渋谷総司など赤報隊は明治新政府を形成した薩長などから「偽官軍」の汚名を着せられ処刑され、渋谷総司たちの名誉が回復されたのは実に昭和になってからである。
<渋谷総司の生家>
渋谷総司の生家は、江戸時代には名主をつとめた古い家のようで、大宮神社の近く、台地直下の開けた場所にある。以前、佐津間城に行った折に、その辺にも行っているので若干土地勘はあった。
以前訪ねたときにも気付いたが家の前に低い土手がある。野馬土手がそんな場所にあるとも思えないが、あるいは古い屋敷囲いなのか。 また門の前には、渋谷総司の生家である旨の標がある。
赤報隊は慶応3年(1867)10月当時後の幹部が江戸の薩摩藩の屋敷にいたように、いわゆる官軍の側で動いていて、薩摩藩士西郷隆盛の指示により、公家の綾小路俊実と滋野井公寿を盟主に据え、近江国愛知郡の松尾山で慶応4年(1868)1月10日に結成された。彼らは、東山道を進軍する際に明治新政府側の政策として「年貢半減」を宣伝して歩いた。 また倒幕の戦いの呼応するように江戸市中に放火したり、なかには略奪行為などもあったようである。赤報隊が「偽官軍」の汚名を着せられた理由は、明治新政府側が当初唱えようとして撤回した「年貢半減」を宣伝したことが、明治新政府のもくろみと食い違っていたことが大きいようであるが、一緒に行動していた公家たちにはお咎めはなかった。
慶応4年(1868)、赤報隊長であった相楽総三らとともに渋谷総司は22歳の若さで信州の下諏訪で斬首となった。その下諏訪には後になって、彼らの慰霊のために魁塚が作られた。
<宝泉院>
赤報隊の名誉回復運動は、大正から昭和にかけて行われたが、それまでは渋谷総司らの慰霊を公にはすることができず、事実佐津間の墓地にも渋谷総司の墓はない。
渋谷総司らの名誉回復は昭和3年(1928)になってからで、相楽総三には正三位、渋谷総司には従三位が贈られた。その記念碑は佐津間の宝泉院にある。
<渋谷総司の碑>
(昭和4年(1929)になって渋谷総司の贈位を記念して建立された石碑)
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