先日5月13日(日)に、桶狭間において桶狭間古戦場祭りがあり、尾張中山家御子孫S氏夫妻、ブログでお世話になっているヘロンさんたちと行ってきたので、その報告と地元の郷土史家梶野渡氏や梶野渡氏ご子息ら、桶狭間の地元の人たちから聞いた内容で、新しい知見も得たので、その説明をする。
小生、今まで桶狭間で今川義元が討たれた後、徳川家康が大高城からどのように脱出したかなど述べてきたが、桶狭間合戦について再度振り返ってみることにする。
以前、当ブログでも、この桶狭間合戦について、江戸時代に書かれた絵図から推定して「『義元本陣』の場所は現在の有松中学校のある高根山か、その南の武路(たけじ)山あたりとなる。高根山には、本隊ではなく松井宗信の別働隊がいたとされるため、実際は高根山の南の武路山辺りが妥当であろうか。そうであれば、織田軍は今川軍本隊から約2Kmの地点にある中島砦を発し、旧東海道沿いに兵をすすめ、今川の物見の兵の監視をものともせず、一気に攻め上ったことになる。その経路は、完全に旧東海道沿いではなく、大将ヶ根まで東へ進み、大将ヶ根から南下し、今川軍を急襲したといわれる。高根山以外に、幕山、巻山にも今川方の先遣隊が展開していた。義元本陣には5000名程度の兵がいたらしいが、大軍といっても、各台地に分散していたのでは、織田軍の集中攻撃を本隊に向けられれば弱い。なお、高徳院に本隊がいたというのは、収容人数に無理があろう。」と述べた。
しかし、今まで郷土史家の梶野渡氏や地元の方々から聞いた話では、今川義元が本陣を置いたのは武路山よりやや南で、田楽坪の桶狭間古戦場跡の東側の小高い丘陵地であった。それは長福寺の東を通り、北へ向かって鳴海道と合流する近崎道に沿った小松原が広がる場所であった。標高64.9mの場所もかつてはあったが、義元が陣を張ったのはそんなに高い場所ではなく、標高45mほどの場所であったという。なお、桶狭間の長福寺は、和光山天沢院と号し浄土宗西山派の寺である。長福寺があるのは、かつて桶狭間を領した中山氏の屋敷に隣接した法華堂があった場所と推定されるが、長福寺は天文7年(1538年)善空南立上人の開山となっており、桶狭間合戦の際には既に存在した。ここでは、今川義元の首実検を茶坊主の林阿弥がおこなったとされている。ちなみに、天沢院は義元の「天沢寺殿秀峰哲公大居士」という戒名にある、駿河の天沢寺に通じる号という。
義元が陣を張ったのは、「おけはざま山」の最も高い場所ではなく、標高45mほどの場所であったということは、永禄3年(1560)5月12日駿府を出発し、5月18日沓掛城で作戦会議をしてきた義元がわざわざ塗輿に乗ってきたことに関係している。塗輿に乗るのは朝廷の許可が必要だったようで、馬よりも機動力がなくなるが、相手を威圧するものである。しかし、義元の誤算は、相手が普通の人間でなく、権威をものともしない織田信長であったということ。梶野渡氏によれば、塗輿は補助も含め8名ほどの人数でかつぎ、少なくとも幅2m程の平面が必要で、上下2~2.5mくらいの空間を必要とした(前後の兵たちは槍や旗指物も持っているから、実際は上下4mくらいは必要:筆者註2007.6.19)。だから、そういう道を通ってこざるを得ず、沓掛から東浦道を南下し、阿野で大高道を西へ行き、さらに桶狭間で北上して近崎道を行ったとのことである。さらにどこへ向かっていたかと推定するに、進行方向は、鳴海方面で一旦周辺の織田方砦を落とし、鳴海城の包囲を解いた後、大高城に入ろうとしたのではないか。もちろん、桶狭間で今川義元が討死してしまった以上、それ以降の企図は推論でしかないが、尾張を制圧しようとしていたことは間違いない。
<桶狭間での織田・今川両軍衝突の経路>
休息をとった場所には瀬名氏俊が義元本隊より2,3日前に来ていて陣地を設営していた。ちなみに、その瀬名氏俊が陣所を構えた場所が長福寺の裏手にあるが、かつては「セナ藪」、「センナ藪」と呼ばれ、一面竹薮であった。今は竹薮の名残りが一叢あるのと石碑が建っているだけである。
<瀬名氏俊の陣所跡>
瀬名氏俊は、陣地を作る専門家であった。その軍評定の跡とつたえられる場所が、「戦評の松」として石碑が建てられ、枯死した松と新しく植えられた松がある。この松については、「5月19日の義元命日の日に白装束で白馬に跨った義元の亡霊が現れる」とか、「松を触ってはいけない」など、いろいろ「話」がある。まあ、それは後世に尾鰭をつけて作られたのであるが、合戦の目撃者である地元住民の禁忌として印象づけられるものがあったのであろう。
このように、今川義元本隊の行軍は、ちゃんとした街道を通り、休憩地といえども幕奉行と言われる専門家が事前に来て設営していったのである。これは梶野渡氏が当日15時からの講演で、自らの戦時中の師団参謀部勤務の経験から、軍隊は休憩地といっても綿密に事前調査や検討をしてから準備すると言っていた通りである。
<瀬名氏俊が軍議をおこなったという「戦評の松」>
そして義元本陣は大軍の将兵が休むことのできる場所で、先鋒である松井宗信隊や井伊直盛隊が展開していた高根山、幕山、巻山がよく見渡せ、遠く大高も望むことのできる丘陵が選ばれた。もちろん、桶狭間合戦伝説地の近くにある高徳院の裏山では収容人数だけでなく、先鋒隊を見通しにくい点から無理がある。また、それは、一部の学者が言うように、標高64.9mの最高所ではなく、近崎道から余り離れていない標高45mほどの場所であったという。なぜならば、標高64.9mの最高所は道のない山林であり、わざわざ乗ってきた塗輿を降りて、全軍歩兵となって急斜面をよじ登る必要はなかったのである。今川義元本隊は約5,000だったが、実際に本陣にいたのは、1,500程度で、その他の将兵は長福寺やほかの陣地にいたそうだ。その今川義元本陣は、今では住宅が密集しており、何も残っていない。というより、仮の陣地なのだから、残っているほうがおかしい。
<義元本陣跡から西を望む~左側に巻山、その向うに大高がある>
昔よく面白おかしく言われていたのは、今川義元は田楽ヶ窪、田楽狭間で勝利の宴会をはっていて、また折からの雷雨で織田勢が迂回してすぐ近くに来ているのに気付かず、高みから急襲されて田楽ヶ窪で義元以下討ち取られたということ。しかし、これは後世に作られた「話」であって、太田牛一の『信長公記』が世に出てから「おけはざま山」に今川義元が陣をはったということが主流の説になった。
<昔から面白おかしく言われてきた義元油断の図>
ただ、江戸時代に書かれた軍記や紀行文などの類に田楽ヶ窪、田楽狭間に義元本陣があったというもの以外に、館狭間に義元本陣があったとするものがある。館狭間は、「館」「南館」の東にある細い谷をいう。これは全くの創作とまではいえない根拠があり、現在のホシザキ電機のある豊明市栄町南館(みなみやかた)に中世、戦国の城館と思われる「石塚山塁」があり、今川義元の墓、あるいは陣所という伝承があるからである。そこを襲われて、沓掛方面に逃げようとして国史跡に指定された桶狭間合戦伝説地の辺りで、今川将兵が討ち取られたという説明になる。もっとも、今川義元が当地に出張ってきたのは、桶狭間合戦の時だけであるから、「石塚山塁」を義元が築いたわけではない。それは、大脇城の梶川氏か、在地勢力の誰かが築いた訳であるが、誰の城館かは不明である。この「石塚山塁」を今川義元と結びつけて考える者が後世にでて、「館」という、おそらくこの中世城館に関わる地名が「お屋形様」の「屋形」の陣があったかのように付会されて、誤って伝えられたのではないだろうか。
しかし、実際に現場に行ってみればわかるが、そんな場所に陣を張っていたのでは、先鋒隊のいた高根山、幕山、巻山などを見通すことはおろか、大高方面など見えないのである。下の写真は、武路公園付近から桶狭間の主要部をのぞんだものであるが、見ている場所と角度はずれているが、かつての今川義元本陣からも、このようなパノラマが見えていた筈である。
<高所から見た桶狭間の主要部分>
そもそも、今川義元がここまで来たのは、小説などで言われるように天下に号令をかけるために上洛しようとしたのではない。この織田、今川の争いは、桶狭間合戦に始まったことではなく、長年にわたる織田、今川の抗争の延長に、この桶狭間合戦があったとみるべきである。すでに、織田弾正忠信秀の代に、尾張における今川氏の拠点、那古野の柳之丸を天文7年(1538)頃織田方が奪取して今川氏と対立、その後三河の松平氏とも小豆坂で二度戦っている。
徳川家康の祖父、松平清康は、今川氏が柳之丸を失った頃、東の今川氏、西の織田氏に挟まれた三河を統一したが、天文4年(1535)12月、「守山崩れ」でなくなり、天文11年(1542)今川氏が軍勢数万を岡崎東部生田原(しょうだはら)に進めると、松平清康死後跡を継ぎ、今川の勢力を頼っていた家康の父、松平広忠率いる岡崎勢と今川義元の軍勢は、出撃してきた織田勢4千とこの小豆坂で戦った。この小豆坂の戦いは両度におよび、天文17年(1548)再度岡崎攻撃にむかった織田信秀の軍勢と松平・今川軍は小豆坂で合戦、松平・今川が勝利し、今川は勢力を西へ伸ばし、尾張進攻への足がかりを得る結果となった。
さらに、織田信秀が天文20年(1551)に死去すると、嫡子信長が一族内紛と反対勢力との抗争に明け暮れているのに乗じて、天文22年(1553)、現在の東浦町森岡に村木砦を築き、ここを尾張進攻の足がかりとしようとした。一方、今川の進攻に対し、知多半島をほぼ手中にいれた水野氏は、重原城、村木砦と今川方の城砦と目と鼻の先にいるという危うい位置にあった。翌天文23年(1554)1月、尾張の地を守るべく出動した織田信長と水野の軍勢が今川軍と村木砦で合戦、織田、水野軍が勝利している。
一方、今川方としても、鳴海の山口教継を寝返らせ、大高城にも三河の鵜殿長照を入れて、尾張の喉元にクサビを打ち込んだのである。こうしてみると、永禄3年(1560)の桶狭間合戦は、今川氏の村木砦の戦いのリベンジをかけた戦いであり、今川が尾張への本格進出をはかる決戦であったと考えられる。
だが、勅許を得た塗輿に乗り、尾張の田舎大名など一ひねりと思っていた今川義元は、織田信長が普通の思考パターンの人ではなく、「想定外」の行動をとる人物であったために、逆に討たれることになった。
その今川義元の菩提を密かに、桶狭間の住人が弔っていた。公式には、桶狭間の長福寺が今川義元や松井宗信らの供養を行ってきた(今も今川義元、松井宗信の木像がある)のであるが、明治27年(1890)に高野山から高徳院が移って来ると、義元らの供養を高徳院が行うようになり、長福寺はお株を奪われた格好になった。その公の弔いとは別に、現在桶狭間古戦場公園にある、「駿公墓碣」という墓碑が、以前頭を少し地上に出して埋っていたのは、村人が今川義元の菩提を弔った際に、尾張藩に見つからないように、墓碑を埋めたためという。これについては、思い当たることがある。同様の例が岐阜県可児市の長山城にもあり、斎藤義龍に滅ぼされた明智氏(明智光秀の親族といわれる)を弔った「六親眷属幽魂塔」がやはり近隣住民(明智氏の家臣の子孫)によって建てられたが城址の一角の地中に埋められていたのと符合するのである。
これは、徳川家が同盟し、のち従った織田家に敵対した勢力を村方が公然と祀ることができなかったということであろう。
<「駿公墓碣」という墓碑>
では、織田信長は、どんな見通しや戦略をもって、桶狭間合戦に臨んだのであろうか。なぜ、「東海一の覇者」と言われた今川義元は、簡単に討たれたのであろうか。それについては、長くなったので、また次回。
<古戦場祭り風景>
<同じく万灯と篝火>
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