カテゴリー「文化・芸術」の8件の記事

2014.10.05

11月9日(日)に手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会15周年記念講演会 開催!

Nishikoguchi


手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会よりお知らせ

 

平成16年に柏市文化財と指定された松ヶ崎城跡。文化財保護の各種活動や地域の皆さんのご尽力により保存されてきました。城跡保存を目的とした当会も15周年を迎え、この機会に記念講演会を行います。

この松ヶ崎城跡は、首都圏では珍しく遺構がよく残った城跡です。今回、当会創立15周年記念として、研究者お二人にご講演をお願いし、松ヶ崎城はどんな城だったのかを再度検証するとともに、周辺城跡の歴史を含めた興味深いお話を語っていただこうと思います。 午前中も「今日もこの城、松ヶ崎城」のミニ講座やバイオリン・フルートのアンサンブル演奏、三味線がたりがあります。皆様、お気軽に。

  
・会場:柏市勤労会館会議室・研修室(柏市柏下66-1柏市保健勤労会館2階) ~北柏駅より阪東バス慈恵医大下車徒歩6分 
・日程:2014年11月9日(日) 10時開場、午前中はミニ講座「今日もこの城、松ヶ崎城」、バイオリン・フルート演奏、三味線がたり 

 講演会は、12時50分開演~16時10分頃まで  
・講演1: 13時~「松ヶ崎城の性格を考える」 講師:間宮正光氏 (千葉県文化財保護指導委員)
・講演2: 14 時 40 分~ 「伝承にみる手賀沼周辺 の城 」 講師:佐脇敬一郎氏 (柏市史編さん委員会参与)

・後援:柏市教育委員会

・参加費:500円(15周年記念会誌、資料代など)
・その他:申込不要。 お問合せは、info@matsugasakijo.net まで。勤労会館自体の駐車場は限られていますが、体育館裏に広い駐車場があります。

<「古城の丘にたちて」外伝より転載>

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2008.07.20

徳川家康と知多半島(番外:続・村木砦から石ヶ瀬周辺を行く)

前回書いた村木砦だが、一般に村木砦というが、規模からすると村木城でもおかしくないと思う。村木砦跡の上にできた国道を走っていても、大府方面からは三井石油のスタンドあたりから、しばらく行って、いりみ貝最中を売っている和菓子屋さんの店舗前あたりまでが砦跡のはずなので、100mは走ることになる。それも砦の端であり、中心部はその倍くらいの長さがあったはずで、東西約150m、南北約240mといわれているので結構な大きさである。

<砦の北側には入江が入り込んでいた>

Murakitoride1

<上記を武豊線(鉄橋の上)から撮ったもの>

Murakitoride3

砦跡の北方に位置する三井石油の横の道は、砦を取り巻く海の入江があったと思われる場所を通っているが、その辺りからみると砦の内部はやや高くなっている。海面が今の陸地の一部まで進んでいた当時は、砦の北側は泥水が浸った入江に面した場所で、石ヶ瀬川は北西はるかな今の大府高校あたりで海に注いでいたという。今は砦跡北側の道沿いに家が建ち並んで、道路に車をとめて写真を写すのも近隣の方に迷惑をかけてしまう状況であるが、武豊線の車内からみると、かなり砦の内部が高くなっているのが分かる。

<武豊線から村木砦中心部を見たところ>

Murakitoride4

なぜ、こんなことを書いているかといえば、中世では物資の輸送が馬よりも、船で行われるケースが多く、それは街道が未整備であったり、馬自体も軍馬を除けば余りいなかったのかもしれず、そういう状況になったと思われる。そして、城は水辺に、しかも周囲より一段高い水辺の台地につくられることが多かった。当村木砦に近いところでは、横根城は境川流域で、周囲より一段高い台地のうえにあった。それは、敵が船で城までたどり着いても、高みから矢を射掛けたり、切岸で城の郭まで登り難くし、容易に落とせないようにしたものと思われる。

<村木神社ののぼり口>

Murakijinjya1

なお、明治、大正時代の地図を見ると、砦跡には人家がない。戦後まもなくの頃の航空写真をみても同様で、砦跡には人家がみられず、砦の西側に人家が集まっている。今は国道が通り、砦跡に該当する場所でも人家が建っているが、あるいは昔の人は合戦があった場所を忌避して、家を建てなかったのかもしれない。合戦の激戦地であった、村木砦南側には八剣神社が織田方の当事者で、当地出身の清水家重・権之助兄弟によって建てられ、西側国道から分岐する堀底を利用したと思われる道の分岐点には地蔵がある。もっとも、いろんな場所に地蔵があるので、合戦の戦死者供養かどうかは不明である。

<砦の西側の堀跡という国道から分岐する道(左)>

Murakijizou

村木砦の合戦時に、織田信長が陣をおいた村木神社は、村木の集落の西側の台地中腹のやや高くなった場所にある。ここも、明治・大正の地図では、村木の集落を見下ろす、人家がない場所であった。その境内は広く、地方都市の大きな神社くらいの規模があり、社殿前には五百人程度は楽に収容できる。それもあるだろうが、織田信長の実家織田弾正忠家は、津島の交易を背景に発展してきた家であるがゆえ、氏神と仰いで津島神社を信仰してきたため、そこに陣をおくことで氏神の力を借りて合戦に勝つとの決意を示したのだろう。

これは創建が不明ではあるが、延徳3年(1491)社殿再建の棟札があるため、戦国時代のはじめから存在した神社であることは間違いない。もともと祭神が須佐之男命という津島神社であった。一方、今の森岡保育園のある場所にあった八幡神社は、永禄4年(1561)に水野信元の家臣清水八右衛門家重が創建した。この八幡神社は学校用地を提供するために、大正2年(1913)に津島神社に合祀され、津島神社は村木神社と改名したのであった。

その村木神社には、現在でも須佐之男命を祭神とする津島神社と同じ天王祭があり、茅の輪くぐりの神事が執り行われる。

<村木神社社殿前に整列>

Chinowa2

先日、村木神社の茅の輪くぐりを見に行った。天王祭では茅の輪くぐり、そのほか小正月には左義長があり、おまんとという駆け馬の神事など、地域の行事は村木神社を中心にまわっている感がある。

さて、茅の輪くぐりは須佐之男命と関係があるそうだ。茅の輪を一回目左回りに、二回目は右回り、三回目はまた左回りと∞の字のようにぐるぐる回る。

<神主さんが祝詞をあげる>

Chinowa3

<玉串奉奠>

Chinowa5

祝詞、玉串奉奠の後、神主さんたちが茅の輪をくぐった。その後、巫女姿の小さい女の子たちがつづく。 その女の子たちの親御さんと思うが、お母さんたちが見守っている。

<茅の輪をくぐる>

Chinowa7

<最初は左回り>

Chinowa8

<ぐるぐる回る、目が回る?> 

Chinowa9

<まわり終えると拝殿へ>

Chinowa10

<いきなり拝殿にのぼらず、ここでも左回り>

Chinowa11

<拝殿のなかに入る>

Chinowa13

なお、このあと巫女さん姿の女の子たちの舞いもあるのだが、神殿の内部の撮影は遠慮した。

実は、合祀された八幡神社の旧在地(現森岡保育園)には、金鶏山古墳という小さな円墳があったが、これを学校用地整理の都合上、昭和5年(1930)に在郷軍人会が取り払ったところ、石室があり、提瓶5個・長頸壺・平瓶・有蓋高坏各1個出土した。そうした古墳もある場所ということで、村木という地名は郷村の支配者である「村君」が転訛したものという説がある。つまり、早くから開けていて、それなりの支配者が古代にはいたということか。

<村木神社に近い曹洞宗妙法寺>

Myouhouji

その村木は緒川のすぐ北で、五つある寺が水野氏と同じ曹洞宗、緒川を本拠としてきた水野氏の勢力下であるが、なぜか今川方の砦が構築された。それは前回述べたように、臨江庵と船着場を押さえた今川方は、三河から当地に物資や将兵を運び込み、地元の民衆も抱きこんで砦を作ったということだろうが、水野配下でありながら織田方の清水兄弟のような人物と別の勢力があったということになる。それになぜ刈谷、緒川の水野氏は、村木砦の造営を妨害しなかったのか。どうも、水野信元が村木砦の合戦の時点で、日和見だったと考えるしかない。

しかし、一方では永禄元年(1557)6月には、今川方の急先鋒である松平元康(徳川家康)と水野信元は石ヶ瀬で戦っているのである。永禄元年(1557)1月に今川義元の命で初陣を飾った松平元康は2月5日、今川方を離れて織田方に寝返った寺部城の鈴木重辰を攻めて、4月末には勝利をおさめている。その後まもなく石ヶ瀬合戦となるが、これは松平元康が岡崎勢を率いて知立を通り、沓掛の東で境川を渡り、緒川に向かう途中の石ヶ瀬で松平・水野両軍が対峙した。

<現在の石ヶ瀬川>

Isigase

桶狭間合戦の直後の永禄3年(1560)6月、一旦岡崎に帰った松平元康は再び水野信元と石ヶ瀬で戦っている。この時点では今川義元は戦死し、水野信元は再び織田方の旗幟を鮮明にしたはずである。では、松平元康、後の徳川家康は純粋に今川方として水野信元を攻めたのであろうか。今川氏真が命令したかもしれないが、松平元康自身の思惑が多分に働いている可能性もある。その辺りが、どうも釈然としない。二回目の戦いでは、6月18日に石ヶ瀬で戦った後、翌19日には松平元康は刈谷城外まで出張って、刈谷十八町畷で水野勢と戦い、炎暑により両軍引き揚げている。この引き揚げは、なにか裏がありそうである。さらに永禄4年(1561)2月には、石ヶ瀬で三度松平・水野両軍が戦ったと、「武徳編年集成」では書かれている。しかし、これは本当のところはどうなのか。小生、もっと前に松平元康は今川氏真から離反したと思っている。その永禄4年(1561)の石ヶ瀬合戦は、あるいはアリバイ的に戦われたのではないだろうか。そして、水野信元を仲介に松平元康は織田信長と同盟しようとしたのではないか。それは双方にとって、メリットがあった訳である。

その辺りは、歴史の謎かもしれない。

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2007.11.07

秋の本土寺

本土寺は、松戸市の北小金にある、日蓮宗の古刹である。このあたりは、平賀という地名が残っているが、もとは平賀家の屋敷がこの本土寺が創建される前に、本土寺がある場所にあったという。1269年(文永6年)に、日蓮上人に帰依した蔭山土佐守が狩野の松原に法華堂をたて、1277年(建治3年)に当地の領主であった、やはり日蓮宗の大檀越の曽谷教信とはかって、この地に法華堂を移し、日蓮上人の高弟、日朗上人を招いたのが、本土寺のはじまりという。

<本土寺の仁王門>
Hondoji_nioumon

そして、日蓮上人より長谷山本土寺の名前を授かり、下総国守護千葉氏の庇護もあって、かつては日蓮宗の大山として、末寺百数十を数えたが、不授不施の法難に度々会い、また明治維新には廃仏毀釈のために衰微した。この本土寺は平賀家の三兄弟、日朗上人、日像上人、日輪上人のご出生の聖跡と伝えられ、とくに日朗上人は日蓮上人と法難の伝道をともにされたことで有名である。また、谷山土寺、栄山門寺(池上本門寺)、興山妙寺(鎌倉比企谷)と、同じ「長」という字を山号にもち、「本」という字を寺号にもつ、「朗門の三長三本の本山」のひとつに本土寺は数えられている。

一般には「あじさい寺」として知られ、ミニ鎌倉の感もあり、けやき並木の続く長い参道と美しい境内は、人々の安らぎの場にもなっている。中世の歴史の研究者にとっても、本土寺にのこる過去帳は、さまざまな人名が大名から一般庶民、なかには被差別民であった猿楽能役者まで詳細に記載されていることから、下総あたりの中世の歴史をひもとく第一級の史料になっている。

さて、小生柏に旧陸海軍が共同で開発したロケット戦闘機「秋水」の実験隊員だった方々の話を聞きに行く途中、久しぶりに本土寺へ寄った。境内は、まだ紅葉が本格的でないためか、あまり人がおらず、逆にゆっくり散策できた。

長い参道を抜けると、目に入ってくるのが赤い仁王門である。「長谷山」の扁額が掲げてある。ここももみじに映えて、赤い門が美しい。

本堂に上がる前に、見落としがちであるが、「翁の碑」がある。この「翁」とは松尾芭蕉のこと。この句碑は、江戸時代の1804年(文化元年)に行われた芭蕉忌を期して建立されたものである。ラグビーボールを大きくしたような変わった形をしており、「翁」と刻まれている。
碑面には「御命講や油のような酒五升」という句や、芭蕉忌にちなんだ「芭蕉忌に先づつつがなし菊の花」という句が刻まれているそうだが、字がうすくなって判読できない。「東都今日庵門人小金原、藤風庵可長、松朧庵探翠、方閑斎一堂、避賢亭幾来、当山三十九世仙松斎一鄒、文化元子十月建之」というのは読めた。

実は寺も含めて、江戸時代には俳諧の趣味が、経済力をもった町人などを中心にはやり、この寺でも句会が催されている。小林一茶も出てきているそうだ。この本土寺のほかに、北小金の水戸街道にちかい妙典寺にも句碑がある。妙典寺は、やはり日蓮宗であるが、中山法華経寺の末寺である。

<「翁」の碑>
Hondoji_okinanohi

そして、本堂に参り、順路にしたがっていくと、秋山夫人の墓がある。この秋山夫人は於都摩といい、甲斐の武田家家臣の秋山家の出身。徳川家康の側室にして、武田信吉の母である。武田信吉は、家康の五男で、徳川家から武田の名跡を継ぐために武田を名乗り、小金三万石の領主となった。武田信吉は病弱で、21歳で病没してしまう。結局、武田家を存続させようとした徳川家康の思ったとおりにはならず、再興武田家も信吉の代で絶えてしまった。息子が小金三万石の領主になったため、その生母秋山夫人の墓が、甲斐とは離れた小金の本土寺にあるのである。

秋山夫人の墓を過ぎて、少し下り坂になり、菖蒲池に出る。その周りを半周すれば、日像菩薩をまつる像師堂のある場所となる。像師堂の近くに、稲荷と、1804年(文化元年)に芭蕉の句碑を建てた可長とその師匠の元夢の句碑があり、

表に、今日庵元夢の「世は夢のみな通ひ路か梅の花」

裏に、藤風庵可長の「秤目にかけるや年の梅椿」     とある。

<秋山夫人の墓>
Hondoji_akiyamafujinhaka

<菖蒲池>
Shoubuike

本土寺は6月頃はあじさい、春には菖蒲も美しい。広い菖蒲池は、春から夏にかけてが良いだろうが、清々しい。そして、秋は紅葉である。今回、その菖蒲池の周辺と、瑞鳳門の辺にわずかに、紅葉がみられた。11月下旬くらいは、もっと鮮やかになるであろう。また、来るのが楽しみである。

<瑞鳳門>
Hondoji_zuihoumon

本土寺のHPは以下URL

(この記事は森兵男「海鷲よ甦れ」より、許可を得て転載、キャプチャなど一部変更)

転載元:http://blogs.yahoo.co.jp/mori_takeo1sou/24791582.html

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2007.05.20

徳川家康と知多半島(その24:桶狭間古戦場を行く<前編>)

先日5月13日(日)に、桶狭間において桶狭間古戦場祭りがあり、尾張中山家御子孫S氏夫妻、ブログでお世話になっているヘロンさんたちと行ってきたので、その報告と地元の郷土史家梶野渡氏や梶野渡氏ご子息ら、桶狭間の地元の人たちから聞いた内容で、新しい知見も得たので、その説明をする。

小生、今まで桶狭間で今川義元が討たれた後、徳川家康が大高城からどのように脱出したかなど述べてきたが、桶狭間合戦について再度振り返ってみることにする。

以前、当ブログでも、この桶狭間合戦について、江戸時代に書かれた絵図から推定して「『義元本陣』の場所は現在の有松中学校のある高根山か、その南の武路(たけじ)山あたりとなる。高根山には、本隊ではなく松井宗信の別働隊がいたとされるため、実際は高根山の南の武路山辺りが妥当であろうか。そうであれば、織田軍は今川軍本隊から約2Kmの地点にある中島砦を発し、旧東海道沿いに兵をすすめ、今川の物見の兵の監視をものともせず、一気に攻め上ったことになる。その経路は、完全に旧東海道沿いではなく、大将ヶ根まで東へ進み、大将ヶ根から南下し、今川軍を急襲したといわれる。高根山以外に、幕山、巻山にも今川方の先遣隊が展開していた。義元本陣には5000名程度の兵がいたらしいが、大軍といっても、各台地に分散していたのでは、織田軍の集中攻撃を本隊に向けられれば弱い。なお、高徳院に本隊がいたというのは、収容人数に無理があろう。」と述べた。

しかし、今まで郷土史家の梶野渡氏や地元の方々から聞いた話では、今川義元が本陣を置いたのは武路山よりやや南で、田楽坪の桶狭間古戦場跡の東側の小高い丘陵地であった。それは長福寺の東を通り、北へ向かって鳴海道と合流する近崎道に沿った小松原が広がる場所であった。標高64.9mの場所もかつてはあったが、義元が陣を張ったのはそんなに高い場所ではなく、標高45mほどの場所であったという。なお、桶狭間の長福寺は、和光山天沢院と号し浄土宗西山派の寺である。長福寺があるのは、かつて桶狭間を領した中山氏の屋敷に隣接した法華堂があった場所と推定されるが、長福寺は天文7年(1538年)善空南立上人の開山となっており、桶狭間合戦の際には既に存在した。ここでは、今川義元の首実検を茶坊主の林阿弥がおこなったとされている。ちなみに、天沢院は義元の「天沢寺殿秀峰哲公大居士」という戒名にある、駿河の天沢寺に通じる号という。

義元が陣を張ったのは、「おけはざま山」の最も高い場所ではなく、標高45mほどの場所であったということは、永禄3年(1560)5月12日駿府を出発し、5月18日沓掛城で作戦会議をしてきた義元がわざわざ塗輿に乗ってきたことに関係している。塗輿に乗るのは朝廷の許可が必要だったようで、馬よりも機動力がなくなるが、相手を威圧するものである。しかし、義元の誤算は、相手が普通の人間でなく、権威をものともしない織田信長であったということ。梶野渡氏によれば、塗輿は補助も含め8名ほどの人数でかつぎ、少なくとも幅2m程の平面が必要で、上下2~2.5mくらいの空間を必要とした(前後の兵たちは槍や旗指物も持っているから、実際は上下4mくらいは必要:筆者註2007.6.19)。だから、そういう道を通ってこざるを得ず、沓掛から東浦道を南下し、阿野で大高道を西へ行き、さらに桶狭間で北上して近崎道を行ったとのことである。さらにどこへ向かっていたかと推定するに、進行方向は、鳴海方面で一旦周辺の織田方砦を落とし、鳴海城の包囲を解いた後、大高城に入ろうとしたのではないか。もちろん、桶狭間で今川義元が討死してしまった以上、それ以降の企図は推論でしかないが、尾張を制圧しようとしていたことは間違いない。

<桶狭間での織田・今川両軍衝突の経路>

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休息をとった場所には瀬名氏俊が義元本隊より2,3日前に来ていて陣地を設営していた。ちなみに、その瀬名氏俊が陣所を構えた場所が長福寺の裏手にあるが、かつては「セナ藪」、「センナ藪」と呼ばれ、一面竹薮であった。今は竹薮の名残りが一叢あるのと石碑が建っているだけである。

<瀬名氏俊の陣所跡>

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瀬名氏俊は、陣地を作る専門家であった。その軍評定の跡とつたえられる場所が、「戦評の松」として石碑が建てられ、枯死した松と新しく植えられた松がある。この松については、「5月19日の義元命日の日に白装束で白馬に跨った義元の亡霊が現れる」とか、「松を触ってはいけない」など、いろいろ「話」がある。まあ、それは後世に尾鰭をつけて作られたのであるが、合戦の目撃者である地元住民の禁忌として印象づけられるものがあったのであろう。

このように、今川義元本隊の行軍は、ちゃんとした街道を通り、休憩地といえども幕奉行と言われる専門家が事前に来て設営していったのである。これは梶野渡氏が当日15時からの講演で、自らの戦時中の師団参謀部勤務の経験から、軍隊は休憩地といっても綿密に事前調査や検討をしてから準備すると言っていた通りである。

<瀬名氏俊が軍議をおこなったという「戦評の松」>

Senpyounomatsu

そして義元本陣は大軍の将兵が休むことのできる場所で、先鋒である松井宗信隊や井伊直盛隊が展開していた高根山、幕山、巻山がよく見渡せ、遠く大高も望むことのできる丘陵が選ばれた。もちろん、桶狭間合戦伝説地の近くにある高徳院の裏山では収容人数だけでなく、先鋒隊を見通しにくい点から無理がある。また、それは、一部の学者が言うように、標高64.9mの最高所ではなく、近崎道から余り離れていない標高45mほどの場所であったという。なぜならば、標高64.9mの最高所は道のない山林であり、わざわざ乗ってきた塗輿を降りて、全軍歩兵となって急斜面をよじ登る必要はなかったのである。今川義元本隊は約5,000だったが、実際に本陣にいたのは、1,500程度で、その他の将兵は長福寺やほかの陣地にいたそうだ。その今川義元本陣は、今では住宅が密集しており、何も残っていない。というより、仮の陣地なのだから、残っているほうがおかしい。

<義元本陣跡から西を望む~左側に巻山、その向うに大高がある>

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昔よく面白おかしく言われていたのは、今川義元は田楽ヶ窪、田楽狭間で勝利の宴会をはっていて、また折からの雷雨で織田勢が迂回してすぐ近くに来ているのに気付かず、高みから急襲されて田楽ヶ窪で義元以下討ち取られたということ。しかし、これは後世に作られた「話」であって、太田牛一の『信長公記』が世に出てから「おけはざま山」に今川義元が陣をはったということが主流の説になった。

<昔から面白おかしく言われてきた義元油断の図>

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ただ、江戸時代に書かれた軍記や紀行文などの類に田楽ヶ窪、田楽狭間に義元本陣があったというもの以外に、館狭間に義元本陣があったとするものがある。館狭間は、「館」「南館」の東にある細い谷をいう。これは全くの創作とまではいえない根拠があり、現在のホシザキ電機のある豊明市栄町南館(みなみやかた)に中世、戦国の城館と思われる「石塚山塁」があり、今川義元の墓、あるいは陣所という伝承があるからである。そこを襲われて、沓掛方面に逃げようとして国史跡に指定された桶狭間合戦伝説地の辺りで、今川将兵が討ち取られたという説明になる。もっとも、今川義元が当地に出張ってきたのは、桶狭間合戦の時だけであるから、「石塚山塁」を義元が築いたわけではない。それは、大脇城の梶川氏か、在地勢力の誰かが築いた訳であるが、誰の城館かは不明である。この「石塚山塁」を今川義元と結びつけて考える者が後世にでて、「館」という、おそらくこの中世城館に関わる地名が「お屋形様」の「屋形」の陣があったかのように付会されて、誤って伝えられたのではないだろうか。

しかし、実際に現場に行ってみればわかるが、そんな場所に陣を張っていたのでは、先鋒隊のいた高根山、幕山、巻山などを見通すことはおろか、大高方面など見えないのである。下の写真は、武路公園付近から桶狭間の主要部をのぞんだものであるが、見ている場所と角度はずれているが、かつての今川義元本陣からも、このようなパノラマが見えていた筈である。

<高所から見た桶狭間の主要部分>

Okehazamapanorama_2

そもそも、今川義元がここまで来たのは、小説などで言われるように天下に号令をかけるために上洛しようとしたのではない。この織田、今川の争いは、桶狭間合戦に始まったことではなく、長年にわたる織田、今川の抗争の延長に、この桶狭間合戦があったとみるべきである。すでに、織田弾正忠信秀の代に、尾張における今川氏の拠点、那古野の柳之丸を天文7年(1538)頃織田方が奪取して今川氏と対立、その後三河の松平氏とも小豆坂で二度戦っている。

徳川家康の祖父、松平清康は、今川氏が柳之丸を失った頃、東の今川氏、西の織田氏に挟まれた三河を統一したが、天文4年(1535)12月、「守山崩れ」でなくなり、天文11年(1542)今川氏が軍勢数万を岡崎東部生田原(しょうだはら)に進めると、松平清康死後跡を継ぎ、今川の勢力を頼っていた家康の父、松平広忠率いる岡崎勢と今川義元の軍勢は、出撃してきた織田勢4千とこの小豆坂で戦った。この小豆坂の戦いは両度におよび、天文17年(1548)再度岡崎攻撃にむかった織田信秀の軍勢と松平・今川軍は小豆坂で合戦、松平・今川が勝利し、今川は勢力を西へ伸ばし、尾張進攻への足がかりを得る結果となった。

さらに、織田信秀が天文20年(1551)に死去すると、嫡子信長が一族内紛と反対勢力との抗争に明け暮れているのに乗じて、天文22年(1553)、現在の東浦町森岡に村木砦を築き、ここを尾張進攻の足がかりとしようとした。一方、今川の進攻に対し、知多半島をほぼ手中にいれた水野氏は、重原城、村木砦と今川方の城砦と目と鼻の先にいるという危うい位置にあった。翌天文23年(1554)1月、尾張の地を守るべく出動した織田信長と水野の軍勢が今川軍と村木砦で合戦、織田、水野軍が勝利している。

一方、今川方としても、鳴海の山口教継を寝返らせ、大高城にも三河の鵜殿長照を入れて、尾張の喉元にクサビを打ち込んだのである。こうしてみると、永禄3年(1560)の桶狭間合戦は、今川氏の村木砦の戦いのリベンジをかけた戦いであり、今川が尾張への本格進出をはかる決戦であったと考えられる。

だが、勅許を得た塗輿に乗り、尾張の田舎大名など一ひねりと思っていた今川義元は、織田信長が普通の思考パターンの人ではなく、「想定外」の行動をとる人物であったために、逆に討たれることになった。

その今川義元の菩提を密かに、桶狭間の住人が弔っていた。公式には、桶狭間の長福寺が今川義元や松井宗信らの供養を行ってきた(今も今川義元、松井宗信の木像がある)のであるが、明治27年(1890)に高野山から高徳院が移って来ると、義元らの供養を高徳院が行うようになり、長福寺はお株を奪われた格好になった。その公の弔いとは別に、現在桶狭間古戦場公園にある、「駿公墓碣」という墓碑が、以前頭を少し地上に出して埋っていたのは、村人が今川義元の菩提を弔った際に、尾張藩に見つからないように、墓碑を埋めたためという。これについては、思い当たることがある。同様の例が岐阜県可児市の長山城にもあり、斎藤義龍に滅ぼされた明智氏(明智光秀の親族といわれる)を弔った「六親眷属幽魂塔」がやはり近隣住民(明智氏の家臣の子孫)によって建てられたが城址の一角の地中に埋められていたのと符合するのである。
これは、徳川家が同盟し、のち従った織田家に敵対した勢力を村方が公然と祀ることができなかったということであろう。

<「駿公墓碣」という墓碑>

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では、織田信長は、どんな見通しや戦略をもって、桶狭間合戦に臨んだのであろうか。なぜ、「東海一の覇者」と言われた今川義元は、簡単に討たれたのであろうか。それについては、長くなったので、また次回。

<古戦場祭り風景>

Musha

<同じく万灯と篝火>

Manto2

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2006.11.02

常滑に呂号甕をたずねて

先日、常滑に行ってきた。といっても住んでいる武豊からは車で20分もあれば中心街にたどり着くので、たいしたことはない。これは、また森タケ男さんからの「秋水燃料を製造する際に使った常滑焼の呂号甕について調べてきてほしい」との要請(というより命令)による。最近、常滑にも行っていないからたまにはいいかと思いつつ、保示の正住院の前を通って一路、常滑市民俗資料館へ。

<正住院の山門>

Shoujyuin

常滑市民俗資料館の駐車場に車を置き、中に入ろうとすると、いきなり園庭に置かれた大きな甕が目に付く。これこそ、呂号甕と思い、とりあえず撮影した。ずらっと呂号甕が並んでいる(写真手前は普通の土管)。ちなみに、この呂号の’呂’とは、ロケットの’ロ’だそうだ。昔の軍部も単純なネーミングをしたもんで。

<常滑市民俗資料館の庭にあった呂号甕>

Rogo5

早速、民俗資料館の中に入ると、平成18年度第4回収蔵品展として「重要文化財・涅槃図と常滑水野家文書を中心として」というものが開催されていた。小生、呂号甕より、こちらのほうに興味があるのだが。

涅槃図は中国の寧波で元末明初の頃に書かれたもので、中之坊寺に伝わった。常滑水野家文書は、以前当ブログでも紹介したもので、水野監物にあてた織田信長の黒印状や徳川家康の書状などである。水野監物守隆は、本能寺の変の際に明智方についたため没落、常滑に帰ることなく京に隠棲せざるを得ず、その未亡人総心が岩滑城主中山勝時の長子光勝の子保雅を養子に迎え、常滑水野氏は尾張徳川家家臣として存続した。

また、戦国時代から安土桃山時代の壺とか、尾張徳川家で使っていた煙硝壺などが展示されていた。よく分からないが、茶陶として使われたらしい壺は、全体に自然釉がかかって良いもののように思える。鑑定団に出したら、いくらぐらいの値段がつくのだろうか。

<常滑水野家文書~織田信長の黒印状>

Kokuin

<戦国時代~安土桃山時代の壺>

Tokonameyaki1

<尾張徳川家の煙硝壺>

Enshoutsubo

話がそれたが、民俗資料館の中には、常設展示として平安時代から江戸時代の甕や壺、茶碗、朱泥急須といった陶器、現代の陶製土管、電線を埋設するための電纜管やら器具の類が展示されている。そのなかに、一際大きな呂号甕がある。高さは2mほどもあろうか。人間の背丈より大きそうである。この呂号甕には2,000リットル入るそうである。つまり1升ビン1,111本分である。これが、硫酸瓶などと一緒に展示されている。

<民俗資料館に展示されている呂号甕>

Rogo1

よく見ると、下部に小さな口が開いており、フレンジパイプが繋がっている。呂号コニカルフレンジパイプというものらしい。他にフレンジの繋がっていない、口の部分が露出したものが民俗資料館の庭にもあったが、丁度口の部分はラッパ状に突起しており、呂号コニカルフレンジパイプの管端部も張り出していて、パイプの先端がはまるようになっていた。

<呂号甕下部の拡大写真>

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<民俗資料館の庭にある呂号甕>

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常滑市民俗資料館の職員の方にうかがったが、呂号甕に関するまとまった資料はないそうだ。しかし、太平洋戦争当時の常滑については、いろいろな文献で知ることが出来た。

戦時統制下、食料増産のため湿田改良が行われ、常滑では農地改良用の土管などが量産されていた。太平洋戦争末期になると戦局は暗転し、一発逆転を狙う軍部はロケット機とその燃料の生産が急務としたが、燃料については厄介な問題があった。

ロケット機「秋水」は、甲液すなわち過酸化水素80%と安定剤の混合と、乙液すなわち水化ヒドラジン、メタノール、水の混合溶液に微量の銅シアン化カリを添加したものを反応させて推力を得る。ロケット燃料として、大量の濃縮過酸化水素の生産が計画されたが、その過酸化水素濃縮装置には耐酸性が必要であった。鉄などの一般的な金属製では、すぐに腐食してしまい、使い物にならない。そこで、過酸化水素の濃縮装置には陶磁器が最適とされ、日本碍子(現日本ガイシ)をはじめとして陶磁器業界が必要な装置類を生産した。その陶磁器を利用した燃料装置、特に貯蔵槽等の一大生産拠点が常滑であった。なかでも高さが1.5m以上、容量も3,000リットルもあるような貯蔵用の大甕は、大型土管製造の技術をもつ、伊奈製陶でなければ難しかった。

実は、常滑の土は鉄分を多く含んでいる。たとえば、朱泥の急須が常滑焼では有名であるが、常滑焼の赤い色は、陶土自体に鉄分を含んでいるから、そういう色になるのである。この鉄分を多く含むという陶土の性質から、呂号甕などの容器には常滑以外の適地の土が使用され、製造は常滑で行ったというのが実態である。伊奈製陶(現INAX)の元部長、渡辺栄造氏が「戦争と常滑焼」(『友の会だより』第五号所収 常滑市民俗資料館)に当時の状況を書いている。

昭和19年(1944)7月下旬、伊奈製陶へ海軍省燃料局から呂号兵器の生産命令がきた
(呂号兵器とは、正式には呂号乙薬甲液製造装置といい、酸やアルカリに最も強い耐酸炻器を、ロケット推進に必要な高度の濃縮過酸化水素製造装置に用いるもの)。
その生産命令の中身は、大量の大小貯蔵槽、反応塔、真空瓶、各種パイプ、蒸留装置等を8月末から11月中頃までに納入せよというもので、この新兵器は航空機以上の急用品だという。
伊奈製陶は、早速それまでの受注品を全部辞退し、中・小型の貯蔵槽など比較的簡単な物は、地域の中小工場を指導して製造を委託することになった。

このように、昭和19年(1944)8月頃からは伊奈製陶だけでなく、常滑全体をあげて、本来の陶器生産そっちのけで呂号兵器の生産にシフトすることになった。

この呂号甕、常滑では大量に生産されたようで、街中でよく見かけた。結局、ロケット機「秋水」が実用に乗らず、呂号兵器は常滑に溢れかえったのであろう。例えば、下の喫茶店の看板代わりに使われている大甕、これも呂号甕である。口が小さく、ほぼ球体をしている。 喫茶店の名前も「壺」といい、そのままである。

<喫茶店「壺」店頭の呂号甕>  

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さらに常滑市陶磁器会館の前にも、小ぶりながら呂号甕がある。この甕は、下部の開口部がきちんと残っている。実は、前に紹介した民俗資料館の呂号甕を、陶磁器会館にあると間違って紹介しているHPがあったのであるが、確かに呂号甕は陶磁器会館のにはあった。ちょっと小振りではあるが。

Rogo4

さらに陶磁器会館から歩いて、「散歩道」を行くと、懐かしいレンガ作りの煙突など、常滑らしい風景に出会うことになる。「散歩道」周辺でも、呂号甕はありそうである。その途中で、妙齢の女性2人組が細い路地に入っていくので、ふと見るとギャラリー何とかという案内板があった。ギャラリーとは壺か何かを展示しているのか、それとも絵?と、その女性2人に導かれるように、小生路地に入ったとたん、呂号甕が道の脇の雑草の中にあるのを発見。女性2人はお互いに記念写真を撮っていたが、小生は雑草の中の甕にカメラを向けたのであった。多分、「何でこの人は雑草だらけのところを撮っているのかしら」と思われていたであろう。また、ギャラリー何とかという店に行くことも忘れ、俄然呂号甕探しを思い出したのであった。

今回写真に撮らなかったが、陶芸工房の敷地に呂号甕が置いてあったりした。また、呂号のパイプを壁にしている呂号壁というのもある。

<懐かしいレンガ作りの煙突>

Tokoname

<散歩道の途中で>

Sampomichi1

<雑草に隠れた呂号甕>

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帰りがけ、陶芸道場の前に動物たちを陶器にした陶製人形が飾ってあった。猫と豚と、あとは何かな?近くには土管坂という、尺土管を土留めにした坂道がある。一つの観光スポットなのだが、それほど驚くほどのものではない。やれやれ、今日は、呂号甕で終った一日であった。そこを通って、帰ることにした。

<陶芸道場前の陶製人形>

Tougeidoujyo 

すると、土管坂のところで、猫がこちらを見ていた。そして、ゆっくりと土管坂を登っていったのである。

一句浮かんだ。

秋日和 猫のぼりける 土管坂

<土管坂にいた猫>

Dokanzaka1

<猫が悠然と土管坂を登る>

Dokanzaka3

参考文献

・『常滑陶業の100年』 とこなめ焼協同組合 常滑市民俗資料館 (2000年)

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2006.04.25

徳川家康と知多半島(番外:緒川の於大まつり)

毎年、4月下旬になると、知多半島の付け根にあたる知多郡東浦町緒川では、町をあげたイベントである於大まつりが行われる。スタンプラリーや於大公園ステージでの各種イベントなどあるが、メインは、中央図書館から明徳寺川の左岸を於大公園ステージまで歩いていく、於大行列である。その於大まつりは、今年は4月22日(土)に行われた。

<ウォークラリーの宣伝の甲冑姿(JR緒川駅)>

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ウォークラリーの宣伝を駅でしていた甲冑姿の人に頼んで写真を撮らせてもらったが、兜の前立てがなぜか織田家の紋章になっていた。うーん、ここは水野家のお膝元なのに、一足飛びに織田?という疑問もあったが、その人に行列の行われる明徳寺川を教えてもらい、小生は素直に街中へ。

以前行った地蔵院の周囲にも、人だかりが。見ると菓子屋でお土産のお菓子に群がっている人たちであった。

<緒川の地蔵院付近>

Ogawajizouin

そうこうするうち、明徳寺川へ。丸いドームのような建物があったが、図書館とのことである。やがて行列が始まった。

<於大行列~図書館付近から行列がはじまった>

Odaigyouretsu2

川の両岸には、八重桜の花が咲いていた。行列の先頭はどこかの学校のバンドで、於大姫たちの直前には踊りの○○連の人々が踊っていた。

<先頭にはブラスバンドや踊りの何とか連が>

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<水野忠政が先達で進む>

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<籠にのった於大姫>

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<手を振る於大姫>

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<於大姫は花束を手に>

Odaigyouretsu6

<一体誰だろう? 水野忠政の前を歩く人>

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<於大姫もご苦労さん>

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ここで登場する於大の方は刈谷城に移る前の緒川にいたころの於大の方なので、6歳までの姫御前となり、その「於大姫」役として地元の6歳以下の女の子が抽選で選出される。その他、腰元役も20名抽選で選ばれる。今年は82名の応募があったとのことであるから、約4分の一の確率である。於大姫の籠の周りには、常にカメラ持参の人がついていてちょっと邪魔。小生は川の対岸から写真をとっていたのだが、肝心な時にカメラマン?が邪魔で写真をとるのも一苦労。なお、行列には女の子のお母さんと思しき女性が付き添っていたが、2年前の東浦町発行の於大まつりの資料には、皆単独で歩いている写真が載っていた。つまり、昨今の連れ去りなどの事件から、警戒を厳重にしているということだろうか。まったく物騒な世の中になったものである。

その他、父君である水野忠政に扮した人や水野信元役(これも少年である)、その他水野一族に扮した人々、さらには縁者として松平広忠、徳川家康も登場する。徳川家康は、当然ながら於大の方が緒川から刈谷に移った当時は、まだ生まれておらず、また今回の行列に登場した家康に扮した人は、どう見ても年配の方なので、時代が合わないところもあるが、これはご愛嬌であろう。小生の近くで見ていた人が知り合いらしく、「徳川家康」さんは挨拶していたが、なんとフレンドリーな神君家康公であろう。

<行列の後方には水野一族および縁故の武者が続く>

Odaigyouretsu12

緒川については、以前書いたが、今でも武家屋敷の趣きのある家があったり、黒い木壁の商家などが細い路地に沿って建ち並んでいて、古い日本へタイムスリップしたような情緒がある。また、緒川には於大公園に於大の道、さらには於大クリニック(こちらは阿久比にもあり、於大の方由緒の場所にあるようだが、設備も整った病院らしい)まで存在する。一方では郊外型の大きなスーパーもあるが、中世からの歴史を感じさせる古い町並みが緒川には残っている。

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2005.11.06

知多半島、武豊から常滑と野間へ

「振り出しに戻る」、「元の木阿弥」というと表現が悪いが、鉄鋼メーカーJ社のシステム統合で一仕事終えて、J社の前身であるK社に入社した後の初任配属の地である、愛知県は知多半島に、一時的にせよ舞い戻ってきた小生は、早速昔の(20数年前のであるが)土地勘で、知多半島でも休みに良く行っていた常滑、そして野間に行ってきたのであった。
まず土曜日の朝、車を飛ばして常滑のスカイラークという喫茶店(外食チェーンの「すかいらーく」とは全く関係なく、昔からそういう名前)に行き、20数年振りにそこでコーヒーを飲んだ。東京生まれで、東京西部の学校を出た私には、知多の喫茶店のコーヒーで口にあうのは、この店のものくらいしかなく、住んでいた武豊町から自然と通うようになった。昔住んでいた寮は既にないが、今は近くの別の寮にいて知多の工場に在勤している。そして、武豊から常滑へと、かつてのルートで、その喫茶店に行ったのである。しかし、20数年振りに行ってみると、かつての店構えと少し変わり、2階は使っておらず、「名古屋名物あんかけスパゲティ」が売り物の店になったいた。
昔の感傷を振り切るように、一路南下し、野間へ行った。野間は、野間大坊と灯台で有名な場所である。野間の灯台には、夜でも良く行った。

<野間の海岸>
nomakaigan

その灯台にちなんで、野間の町には灯台ラーメンという店もあり、実際店の駐車場の一角に灯台を模した宣伝用の塔が立っている。実は灯台ラーメンと野間大坊は、すぐ近くだということを、ずっと忘れていたが、行ってみて思い出した。昔は野間大坊の門のところに、路上駐車していたのだが、今は道路もきれいになり、そうするのは憚れる(第一交通違反だ)ので、信徒会館の駐車場に車を止めた。
野間大坊の建つ野間の地は、源義朝が暗殺された場所で、その義朝を裏切り湯殿で討った張本人である長田忠致の館址も野間大坊にほど近い所にあったことで有名である。そういう意味では、野間大坊付近も中世の武士の館址の延長なのだが、例によって、遺構らしいものが残っていない。野間大坊の門の両側に土塁痕のような、土盛もあるのだが、多分ただの境界土手址であろう。

<野間大坊の門:源頼朝が寄進したもの>
nomataibo

<源義朝の墓>
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ここには、桃山城の客殿の一部を移築した建物がある。それは本殿であるが、県の指定文化財だそうで、ただの田舎の寺ではないと自己主張しているようだ。だが、元は鎌倉時代以前の武士の館に近接した、長田氏にとっては庭のような場所であったのが、源義朝の供養のためか真言宗の寺となったのである。実際本堂へ行ってみると、何やら加持祈祷をしている。そういえば、境内にはマニ車というものがあって、回すとそれだけ経文をよんだことになるそうだ。知多には、他にも古刹といえる寺があるのであろうが、私の知る限りでは、野間大坊が一番古刹らしい。そのうち、寺に行っているのに不謹慎なのだが、寮の部屋で酒を飲むときに、ぐい呑みがあればと思っていたことを思い出した。

<桃山城から移築した本殿>
nomataibo3

<何やら祈祷もしています>
nomataibo1

野間やもっと先の内海でも探したが、ぐい呑みを売っている店がないようで、やはり常滑に戻るしかないかとまた常滑へ行ったのである。常滑でも、植木鉢を専門に扱っている店などあり、大きい店構えだからといっても、ぐい呑みのような酒器や茶器を扱っているかどうかは分からない。実は、最初はいった店には、安い大きな品物ばかりで、作家物のぐい呑みもあったが、気に入ったものはなかった。
常滑は知多半島の西側中央部にあたり、今でも常滑焼の工場の四角い煉瓦作りの煙突が建ち並ぶ、風光明媚な所である。ここには、常滑焼の散歩道という観光スポットがあって、道沿いに常滑焼の工場やギャラリー、展示場、登り窯などあるが、観光客に混じって少し歩いてみた。以前、知多にいた頃は、陶磁器には興味がなく、常滑の町をゆっくり歩いてみたこともなかった。そういう場所があること自体、よくわかっていなかったのである。

<常滑風景>
tokoname1

<散歩道で>
tokoname2

<登り窯>
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散歩道の途中で、ガラスケースにぐい呑みと茶陶(水差し)を飾ってあった家があった。そこで、しばらく立ち止まっていると、中から年配の男性が出てきて、いらっしゃいと言う。家の土間にはなぜか工具やいろいろな物が散らばっており、また工事もしていて騒々しく、正直ここでぐい呑みを買う気は余りなかった。ぐい呑みを探している旨を言うと、中にもあるからと私を誘い、ガラスケースのなかのぐい呑みを全部出して、家の中にあるテーブルに置いた。好きなものを選んでくれという訳である。男性は「猪飼です」と名乗り、それらは自分が作陶したもので、陶芸家であるという。普通の、そこらにいる初老の男性のように見えるのだが。なるほど、この人を写した、四つ切くらいに引き伸ばし、いかにも写真家が撮ったような写真が飾ってある。また、自分の経歴書をくれたが、それによればいろいろな展覧会で入選したようなことが書いてある。
猪飼さんは、ぐい呑みをいくつか選び、それぞれにお茶をついで、飲み比べてみてくださいと言う。ぐい呑みは、いずれも肉厚で黒か茶の釉がかかっている。光に反射するので、何の薬をかけているか聞くと、鉄釉だという。鉄屋なのだから、鉄釉のかかったぐい呑みで飲むのは、ピッタリではないか。
後で寮に帰って渡された経歴書をじっくり見ると、以下のようであった。

「一友窯 猪飼眞吾  (その次に住所と電話番号)
陶暦
昭和十五年二月 愛知県常滑市に生まれる
(略)
昭和四十六年 江崎一生先生の指導を受け作家活動を始める
(略)
昭和五十年   (略)
          東海伝統工芸展入選
          朝日陶芸展入選
          (略~入選多数のようだ)
昭和五十一年 谷川徹三先生に知遇を受ける
          東京南青山グリーンギャラリー個展
          (以下略)                」

なるほど、ちょっとした陶芸家ではないか。買ったぐい呑みも、ごろっとした感じで、重量感があって手になじみ、なかなか良いのである。やはり、このぐい呑みを買って良かった。

<猪飼眞吾作のぐい呑み>
tokoname5

 

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2005.09.03

地獄に仏

六道絵というものがある。六道、すなわち地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人道、天道(天上道)という、地獄から天道にいたる各界の姿を描き出したもので、仏教画のひとつである。
では六道を形成する各界とは何か。地獄道は、文字通り阿鼻叫喚の世界であり、血の池や針の山があるだけでなく、無間地獄のような苦しみの絶えることがない世界、餓鬼道は食べ物を食べようにもすぐに炎に変わり、食べられないとか、そこの住人は手足が極端に細く腹が異様に大きい餓鬼(実際に餓死した人の姿をうつしたものか)などとなっている世界。畜生道は牛馬のような家畜として人からこき使われたり、猟師に追われたり、動物同士でも弱肉強食で気の休まることのない世界。阿修羅道は年中戦争をしている、不穏な世界。人道は通常の人間界。天道は天人が住むという苦の少ない世界で、極楽と人間界の中間のような世界か。

<六道絵(江戸時代の模写)~滋賀県大津市下坂本の聖衆来迎寺にて>
rokudoue

このうち、天道に生きる者でさえ、いつかは寿命がつき、六道のどこかに輪廻しなければならないという悩みを抱えており、六道の全ての者が救済を必要とするのである。京都にある「六道の辻」の六道とは、この六道である。六道のどこかに、輪廻転生するという考え方を仏教は持っている。そして、六道輪廻の衆生は、何かしら苦しみを持っているが、それを救うのが地蔵菩薩であるという。そういえば、よく六地蔵が寺などにあるが、この六道にいる衆生の救済をすることを示している。地蔵が手に持っている錫丈は、六道を廻るためで、お遍路さんを思わせるいでたちである。

<神戸 須磨寺の六地蔵(後姿)~現代作>
suma-jizou

六道といっても、今のような豊かで平和な世の中に生きる身からは、地獄や餓鬼道などは現実感がないが、人の世のはかなさ、辛さ、苦しさは古来、詩や歌にもなって、我々の共感するところとなっている。
例えば、もう30年も前になるが、高校時代の漢文の時間に漢詩で「碩鼠」というのを習ったが、その時は変なタイトルの漢詩というのと、「せきそおー」と語尾を伸ばす漢文教師の吟じ方が印象に残っただけであった。しかし、その漢詩については、年を経て内容が実感をもってよく分かるようになった。

碩鼠碩鼠 無食我黍
三歳貫女 莫我肯顧
逝將去女 適彼樂土
樂土樂土 爰得我所

碩鼠碩鼠 無食我麥
三歳貫女 莫我肯德
逝將去女 適彼樂國
樂國樂國 爰得我直

碩鼠碩鼠 無食我苗
三歳貫女 莫我肯勞
逝將去女 適彼樂郊
樂郊樂郊 誰之永號

(書き下し)     

碩鼠  碩鼠
我が黍を  食う なかれ
三歳 汝に つかうれども
我を 肯えて顧るなし
逝きて 将に 汝を 去り
彼の 楽土に 適(ゆ)かんとす
楽土 楽土
ここに 我が所を 得ん

碩鼠  碩鼠
我が麦を 食う なかれ
三歳 汝に つかうれども
我を 肯えてめぐむなし
逝きて 将に 汝を 去り
彼の 楽国に 適(ゆ)かんとす
楽国 楽国 
ここに 我が直きを 得ん

碩鼠  碩鼠
我が苗を 食う なかれ
三歳 汝に つかうれども
我を 肯えていつくしむなし
逝きて 将に 汝を 去り
彼の 楽郊に 適(ゆ)かんとす
楽郊 楽郊
誰か ゆきて とこしなへに 號(さけ)ばん

これは詩経にある、古代中国農民の悲哀に満ちた詩であり、碩鼠は大きな鼠、実は自分の仕える領主あるいは地主を示し、長年仕えてきたのに、俺たちを気にかけてくれることもなく、黍や麦などの年貢を取る一方である。もう、重税を課すのは止めてくれ、お前を見放して楽土に行くぞ。そこで悠悠自適に暮らすのだ。というような意味である。
古代では、碩鼠は王であり、貴族であり、また中世では碩鼠は在地領主や守護、地頭であり、近世から近代では大名であっただろう。現代の碩鼠は、大企業だろうか。今井正監督の「武士道残酷物語」という映画を見たことがあるが、島原の乱で主君の失態の責任をかぶって切腹した武士の話から始まって、主人公の歴代の先祖が「武士道」精神の犠牲になっていく様子を描いていた。支配者はさまざまに形を変えてきたが、支配するものと支配されるもの、抑圧するものとされるものの構造は、時代を通じて変わっていないのかもしれない。これこそ、まさに無間地獄といったら、大袈裟だろうか。
六道輪廻というが、古代から時代は下って、宋の時代になっても、同じような詩が書かれている。
これは江蘇民歌(中国江蘇地方の民謡)となり、第2次大戦直後に「一江春水向東流」という映画の挿入曲となったため、原文とは大分違っていると思われるが、「月兒彎彎照九洲」というのがある。

月兒彎彎照九洲 
幾家歓楽幾家愁
幾家高楼飲美酒
幾家流落在野呀嗎在街頭
依呀呀得喂
聲聲叫不平
何時才能消我的那心頭恨

この歌詞は、月は遍く全国を照らすのに、贅沢をして楽しんでいる家もあれば、貧窮して路頭に迷っている家もある、全く世の中は不公平だというような意味である。これも、田畑を失い、路頭に迷った貧窮農民の恨みの歌であり、中国革命前夜で脚色されているとはいえ、その不平不満、思うにまかせない憤りは、いつの世も変わらないといえるだろう。まさに、仏教の六道世界の苦しみは、代替わりしても絶えることがない。

前述の通り、この六道の世界に救いの手を差し伸べる仏は、地蔵菩薩である。実は地蔵菩薩は、釈迦如来が入滅した後、後継の弥勒菩薩が如来として登場してくるまでの56億7千万年もの無仏の期間、中継ぎをするのである。よく墓地や寺の境内にある六地蔵(延命地蔵ほか)は、六道輪廻の衆生を救うという地蔵の本質を具現化したものであり、煩悩深い、俗世に未練たっぷりな普通の人々にとって、地蔵菩薩はありがたい存在である。
そして、釈迦も弥勒も、民衆にとっては近寄りがたい、遠い世界の仏というイメージがあるが、56億7千万年ものロングリリーフをする地蔵菩薩は実にフレンドリーである。信仰の対象としては最高であるが、釈迦如来や大日如来たち、如来という仏は、余りに偉過ぎる。
かといって明王はというと、容姿からしてちょっと異様で、一面二臂(顔が一つで腕が二本)と人間そっくりで顔が怖いだけの不動明王は別として、一面六臂で三つ目の愛染明王、三面六臂の金剛夜叉明王、三面八臂の軍茶利明王や降三世明王は人間離れしており、大威徳明王にいたっては六面六臂六足で牛にまたがっているという奇妙な姿である。孔雀明王は穏やかな表情をしているし、姿も一面四臂で比較的人間に近いが、孔雀に乗れる身軽さは何だろうと思ってしまう。
菩薩は憤怒の形相をしている馬頭観音を除けば、弥勒や文殊菩薩、虚空蔵菩薩、聖観音、如意輪観音など、皆穏やかな顔をしており、特に地蔵菩薩は僧形で一番人間らしい。地獄からも救ってくれるという切実な願望を託する仏ということで、見た目だけではないが、地蔵菩薩が民衆から慕われるのがよく分かる。
また地蔵とは読んで字の如く、大地の恵みをつかさどる仏である。それゆえ、古代から人口の大多数を占めていた農民の生活感覚に密着していたともいえるであろう。その姿は一般的には剃髪の僧形で、左手に宝珠を持ち、大抵右手には錫杖を持っている。立像が多いが、坐像、半跏像もある。野の仏として、石仏となっているのは、やはり地蔵が多い。

<聖衆来迎寺の地蔵菩薩立像>
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よく絵画で描かれている地蔵は、賽の河原で赤子を救っている姿で、その手に持った錫杖に赤子がよじ登っているような絵柄が多い。
ところが、穏やかなはずの地蔵が、いかめしく甲冑を身にまとい、馬にまたがった勝軍地蔵というのがあり、戦国武将が剃髪し僧形になったのを思わせる。延命地蔵とか、子育地蔵なら、違和感はないのだが、勝軍地蔵は地蔵の本来の姿と矛盾しているのではと思えるが、多面性を持っているということか。
また、地蔵は閻魔の本地仏という。本地仏という考え方自体、本地垂迹説という、神道と仏教を融合させる日本独自のものである。一方で閻魔として人を裁き、他方で地蔵として救済するというのが一見矛盾しているように思うが、地獄の管理者として、閻魔と地蔵には表裏一体の関係があると昔の人は考えていたのであろうか。

<明和4年(1767)造立の地蔵~千葉市花見川区武石にて>
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