カテゴリー「歴史」の102件の記事

2009.10.31

馬加城と三山七年祭

今では、ハイテクの街として知られる幕張。かつて、ここが千葉氏の本家を倒し、それにとってかわった馬加氏の本拠地であったことを知る人は少ないだろう。

<武石の真蔵院>

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今の海浜幕張のビル街をまっすぐ北へ行くと、いまだに農村風景の名残をとどめる武石という場所にでる。そこにも千葉氏の一族である武石氏が鎌倉時代から住んでいた。武石には真蔵院という古寺があり、武石氏の祖である千葉常胤の子武石三郎胤盛の母のものと伝わる板碑が伝わっている。その板碑というのは、大字須賀原俗称愛宕山の古墳上に建っていた七基の板碑の一つで、のちに真蔵院に移されたもの。光明真言の梵字とともに「右為先妣聖霊出離生死証大菩薩也、永仁第二暦季秋卅之天」と陰刻されている。なお、裏面に施主常胤と彫られているが、それは後世の偽刻である。

<真蔵院の板碑>

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実は、武石三郎の弟である大須賀四郎胤信は、兄よりも早く当地におり、隣接する場所を領有したようである。大須賀氏が香取郡下総町に移り、武石氏の惣領家が東北へ転じた後、そこには千葉氏の本家筋ではあるが、庶子といわれる馬加康胤が城を構えて、一族眷属が住んだ。

馬加は、「まくわり」と読み、幕張の旧名である。その地名の起源は、当時この土地は軍馬の産地で、野馬を軍馬に仕立てて軍馬に加える土地という意味で馬加といったのだそうだ。幕張と名前を変えたのはそれほど昔のことではなく、現在の千葉市西側の花見川区幕張辺りを近世までは馬加と呼んでいた。

ある時代まで、その馬加康胤の城も、遺構が残っていたかもしれない。あるいは、千葉氏嫡流を倒し、足利将軍家から東常縁らの軍勢を差し向けられ、戦死した一族であり、その居城は跡かたもなく、合戦の後すぐに破却されたのかもしれない。
現在は、その馬加康胤の城跡の位置などについては、確かな遺構が残っていないために、古文書や伝承から推定するしかない。

◆馬加城の推定位置と概要

馬加城は、武石館のある台地に連なる花見川と浜田川に挟まれた舌状台地の西端にあったが、現在は遺構が残っていない。馬加城があったとされる場所には、現在はマンションや一戸建の住宅が建ち、その他は畑や駐車場などが広がっており、台地北端は京葉道路が通っていて掘削され、地形の原形を留めていない。この台地は、発掘調査も行われ、弥生時代の遺物など出土したが、馬加城の存在の証になるような中世期の遺構、遺物は発見されていない。また、馬加城の場所や規模、構造などを記した同時代の古文書も残っていない。当地に残る伝承や、後世に書かれた素加天王神社に関する神主中須加氏(中台氏)の記録から、アウトラインがわかるのみである。

なお、三代王神社周辺から、空堀跡とみられる遺構が検出されたという情報もあるが、詳しいことは分かっていない。

<馬加城があった幕張の台地>

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◆築城時期と城郭の成立

馬加城は、元々千葉常胤の四男の大須賀四郎胤信が、治承4年(1180)に大須賀庄本郷といっていた当地を所領として与えられ、居館を構えたのに、端を発している。大須賀四郎は、兄三郎胤盛のために武石の地を譲り、武石館が築かれたという伝承がある。実際は、胤盛、胤信それぞれ隣接する所領が与えられたのであろう。大須賀胤信の居館がどのようなものであったかは、遺構もないので分からないが、同時期のものと同じく単郭方形のものであったろう。場所は、馬加城の場所として比定されている当地であったか。

馬加城があったとされる台地上の場所には、「道場台」(俗称:ヤカタ)という地名が残っており、その台地の南側低地、すなわち城の大手の位置には「道場根」という地名が残っている。「道場台」には城の内郭があったとされるが、その東側、自然の谷を隔てた「椎崎」には、外郭部があり、家臣の屋敷や海隣寺、素加天王神社(後の子守神社)があったとされている。

大須賀四郎胤信が、現在の香取郡下総町に移ると、その後は千葉宗家の領有となり、代々家臣を城代として、番兵を置き城の守りに当たらせていた。
馬加城と領民の運命が大きく変わったのは、千葉介満胤の庶長子で、常陸の大椽氏に養子に行っていたが離縁して戻ってきた康胤が、千葉宗家が守ってきた幕張の屋形を修復し、居住するようになってからである。康胤は馬加氏を名乗ったが、これは幕張=「馬加」の地名に由来している。この「馬加」は、素加天王神社の記録によれば、享徳元年(1452)の幕張大明神の祭礼に祭馬を多く集めたことから、神号を馬加大明神と改号し、里名も馬加に改めたことに由来するというが、これはあくまで話である。「馬加」は野馬を捕えて、軍馬に仕立てたことに由来するという説があり、筆者はこちらの方が本当らしいと思う。ともあれ、15世紀半ばに千葉宗家筋の康胤が馬加康胤と名乗って、当地に城館を整備し、新領主として支配することになった。

◆馬加康胤の霊夢と三山七年祭の伝承

馬加城の東に隣接する三代王神社も、馬加氏所縁の神社であるが、伝承によれば文安2年(1445)馬加康胤の妻が臨産の際、康胤の霊夢に三代王神があらわれ、その後康胤の妻が無事に出産したという。この逸話により、二宮神社を中心とした三山の七年祭という行事が始まった。三山の七年祭とは、三山(船橋市)にある二宮神社を中心に、幕張の子安神社、子守神社、三代王神社、久々田(習志野市)の菊田神社、実籾の大原神社、高津(八千代市)の高津比z盗_社、時平神社(八千代市)、八王子神社(船橋市)が参加して丑と未の年に行われる祭である。各神社各々役割が決まっており、以下のようになっている。

<三代王神社>

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 ・二宮神社(船橋市三山)   :主人・父君
 ・子安神社(千葉市畑町)   :妻・母
 ・子守神社(千葉市幕張)   :子守
 ・三代王神社(千葉市武石)  :産婆
 ・菊田神社(習志野市津田沼) :叔父
 ・大原大宮神社(習志野市実籾) :叔母
 ・高津比咩神社(八千代市高津) :娘
 ・時平神社(八千代市萱田)  :息子
 ・八王子神社(船橋市古和釜) :息子

この祭のメインは、八つの神社の神輿が二宮神社に集まる神揃の祭と、磯辺に竹垣を結び、神輿を安置し安産の産屋の祭式を行う磯出祭からなっている。磯出祭は、明らかに馬加康胤の妻の安産祈願成就を起源としている。

その馬加康胤は、千葉氏のなかにあって当主ではないが、一族の重鎮であり、結城合戦など、千葉宗家に従って各地を転戦し、千葉宗家に忠実に従ってきた。馬加康胤は、関東公方、のちに古河に移って古河公方と呼ばれた足利成氏を支持する立場であった。しかし、千葉宗家は足利成氏支持ではなく、対立する関東管領の上杉氏支持に傾いていた。康正元年(1455)、ついに馬加康胤は旗幟を鮮明とし、千葉介胤直が家老である円城寺氏の勢力に依拠して、足利成氏に対立する関東管領上杉氏を支持すると見るや、足利成氏を支持する原胤房と呼応して千葉宗家打倒の兵を挙げた。

すなわち、康正元年(1455)3月、足利成氏に組みする馬加康胤は、同じく千葉氏の宿老として勢力を持ってきた原胤房らと共に、1千余騎の兵をもって、足利成氏と対立する千葉介胤直を討つべく、千葉城を急襲した。からくも千葉介胤直は、胤直の子胤宣や弟胤賢とともに千葉城を脱出し、九州千葉氏の本拠地である千田庄の志摩城や多古城に拠った。ここで千葉宗家は上杉氏の救援を待ったが、多古城にいた胤宣は、馬加康胤の攻撃を受けて「むさ(武射か)の阿弥陀堂」で自刃、また志摩城に拠った胤直、胤賢兄弟も原胤房に攻撃された。からくも、胤直、胤賢兄弟は志摩城を脱出し、土橋の如来堂に逃れたが、胤直はその如来堂で自刃した。弟胤賢も匝瑳郡小堤辺りで自刃し、鎌倉の有力御家人から大名として成長していた千葉宗家は一旦滅んだ。

この事態は将軍足利義政の逆鱗に触れることになり、幕府が追討の軍として派遣したのは、千葉一族である東常縁である。東常縁は、将軍足利義政の御教書を戴き、副将として浜民部少輔春利を伴って下総東庄に下向した。そして東常縁らは馬加康胤、胤持父子を攻め、馬加康胤は自刃、その子胤持も戦死した。

しかし、馬加康胤の子で、現在の酒々井町岩橋辺りに勢力をふるっていた岩橋輔胤は、原胤房ととも分散して戦いを続け、その子孫が本佐倉城を根拠に新しい千葉宗家となって代々下総をおさめた。

<三山の七年祭>

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「ハイテクの街幕張」、それは最近になって埋め立てで生まれた街であり、もともとの幕張、つまり馬加は中世の豪族にまつわる祭祀や合戦譚で彩られた古い土地なのである。

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2009.08.31

北小金の寺と神社

東漸寺(西山浄土宗)

1.場所
松戸市小金359 (北小金駅から南へ進み、歩いて約3分)

2.創建からの歴史
 文明13年(1481年)に、増上寺の音誉上人の弟子経誉愚底上人によって、根木内に開かれたのがはじまりという。この経誉愚底上人は俗名長瀬氏、信州あるいは遠州の出身といわれ、鷲野谷の医王寺薬師堂を再建した。戦国時代、第五世行誉吟公上人のときに当地の高城氏とのつながりを深め、小金に移転した。その寺域は広大で、小金大谷口城の出城としての機能をもっていたという。
 高城胤吉の三男胤知は出家して東漸寺に入り、第七世照誉了学上人となった。高城氏が天正18年(1590年)に小田原北条氏と命運を共にし、戦国大名としては滅亡した後、生実大厳寺の源誉上人によって関東十八壇林が定められ、東漸寺もその一つとなった。照誉了学上人は、慶長3年(1598年)に芝に移り、元和元年(1615年)には徳川家菩提所である増上寺の第十七世住職となり、徳川秀忠の葬儀の大導師をつとめた。
 このように、東漸寺は徳川家と強い結びつきがあり、徳川家康から朱印地百石を与えられたが、家光の代には三十五石に減らされた。しかし、東漸寺は、他にも寺領をもっていた。また、広大な境内を持ち、多くの建物を擁した。
 大改修が成就した享保7年(1722年)には本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門その他8つの学寮など、20数カ所もの堂宇を擁し、末寺35ヶ寺を数え、名実ともに大寺院へと発展した。末寺ほか支配下の寺や庵は、江戸後期の文政3年(1820年)には武蔵・下総両国内で44ヶ所を数えた。
 明治初頭には、明治天皇によって勅願所(皇室の繁栄無窮を祈願する所)となった。
 江戸時代に幕府の擁護を受けた東漸寺も、廃仏毀釈等で、神殿、開山堂、正定院、浄嘉院、鎮守院などの堂宇をなくした。また、学寮およびその敷地は、地域青尐年の育成のために寺子屋として利用され、後に黄金小学校(現・小金小学校)となった。

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3.みどころ
 水戸街道から勅願寺の碑をみて、寺に入り、長い参道を歩いていくと、仁王門がある。「仏法山」という扁額は装飾された字でちょっと読めない。緑に包まれた美しい境内は、春は桜の名所として知られている。
 仁王門からさらに本堂に向かって進むと、中雀門(ちゅうじゃくもん)という山門がある。門をはいるとすぐ右に鐘楼堂がある。正面の本堂には本尊の阿弥陀如来像が安置され、その手前左側には、聖観音像を安置した観音堂と枝垂れ桜がある。本堂右手にある松は亀の松で、元は鶴亀一対だったが、鶴の松のほうが失われ、幹の曲がった変わった姿の亀の松(樹齢400年以上)のみ残っている。

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【竹内廉之助、啓次郎の碑】
幕末は元治元年(1864年)3月、水戸藩では武田耕雲斎、藤田東湖らを首領とした天狗党が筑波山で挙兵し、各地で兵を募り藩の保守勢力と衝突した。小金の郷士で、芳野金陵の門下であった竹内廉之助、啓次郎兄弟も、この天狗党に参加したが、同年9月に啓次郎は戦死、廉之助は捕らえられて蟄居を命じられた。竹内廉之助は、慶応3年相楽総三の率いる薩摩藩邸の浪士隊に加わり、それが赤報隊となると、その幹部の一人となり、戊辰戦争を戦った。しかし、赤報隊が偽官軍とされて、小諸藩などの信州の兵に攻められた際に、赤報隊は壊滅、この戦いで廉之助も戦死した。
竹内兄弟の碑は、東漸寺の本堂の向かって左側にあるが、銘は兄弟と交友のあった渋沢栄一が明治45年(1912)に記し、建立されたものである。

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4.所蔵文化財など
本尊である阿弥陀如来像、聖観音像、釈迦坐像などの仏像や絵画では二十五菩薩来迎図、三尊来迎図、徳川家康公肖像があり、古文書では徳川家康、水戸光圀書簡、高城胤辰、胤則の制札、朱印状写などがある。また浄土宗の宗祖、法然上人所持伏鉦や圓光東漸大師香衣遺像などの寺宝が残る。

本土寺(日蓮宗)

1.場所
松戸市平賀65 (北小金駅から本土寺参道を北へ進み、歩いて約10分)

2.創建からの歴史
 文永6年(1269年)に、日蓮上人に帰依した蔭山土佐守が狩野の松原に法華堂をたて、建治3年(1277年)に当地の領主であった、やはり日蓮宗の大檀越の曽谷教信とはかって、この地に法華堂を移し、日蓮上人の高弟、日朗上人を招いたのが、本土寺のはじまりという。
 そして、日蓮上人より長谷山本土寺の名前を授かり、下総国守護千葉氏の庇護もあって、かつては日蓮宗の大山として、末寺百数十を数えたが、不授不施の法難に度々会い、また明治維新には廃仏毀釈のために衰微した。この本土寺は平賀家の三兄弟、日朗上人、日像上人、日輪上人のご出生の聖跡と伝えられ、とくに日朗上人は日蓮上人と法難の伝道をともにされたことで有名である。また、長谷山本土寺、長栄山本門寺(池上本門寺)、長興山妙本寺(鎌倉比企谷)と、同じ「長」という字を山号にもち、「本」という字を寺号にもつ、「朗門の三長三本の本山」のひとつに本土寺は数えられている。

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3.みどころ
 一般には「あじさい寺」として知られ、ミニ鎌倉の感もあり、けやき並木の続く長い参道と美しい境内は、人々の安らぎの場にもなっている。
 赤い仁王門を抜けると境内には、
本堂、祖師堂、五重塔、開山堂、像師堂、妙朗堂、宝蔵 などの建物がある。

<本土寺の紫陽花>

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<像師堂>

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【翁の碑】
この「翁」とは松尾芭蕉のこと。この句碑は、江戸時代の文化元年(1804年)に行われた芭蕉忌を期して建立されたもの。 碑面には「御命講や油のような酒五升」という句や、芭蕉忌にちなんだ「芭蕉忌に先づつつがなし菊の花」という句が刻まれている。
「東都今日庵門人小金原、藤風庵可長、松朧庵探翠、方閑斎一堂、避賢亭幾来、当山三十九世仙松斎一鄒、文化元子十月建之」とあり、江戸の今日庵元夢の門人である小金の藤風庵可長らが建立したことがわかる。

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【秋山夫人の墓】
本堂の東側に、秋山夫人の墓がある。この秋山夫人は於都摩といい、甲斐の武田家家臣の秋山家の出身。徳川家康の側室にして、武田信吉の母である。武田信吉は、家康の五男で、徳川家康が武田の名跡が絶えるのを惜しみ、信吉に武田家を継がせたため、家康の子でありながら、武田を名乗り、小金三万石の領主となった。しかし、於都摩は天正19年(1591年)に24歳で病没。武田信吉は病弱で、21歳で病没してしまった。

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4.所蔵文化財など
 国重要文化財の日蓮筆の「諸人御返事」「大学三郎御書」や県・市の有形文化財となっている「富城殿御返事」「本土寺過去帳」などの古文書が残る。

 中世の歴史の研究者にとっても、本土寺にのこる過去帳は、さまざまな人名が大名から一般庶民、なかには被差別民であった猿楽能役者まで詳細に記載されていることから、度重なる戦乱や武士たちの動静を含む下総あたりの中世の歴史をひもとく第一級の史料になっている。

慶林寺(曹洞宗)

1.場所
松戸市殿平賀209-2

2.歴史
 大福薬師瑠璃光如来を本尊とする曹洞宗の寺で、山号は熊耳山(ゆうじさん)。戦国時代の永禄8年(1565)2月12日、小金大谷口城主の高城胤吉が没すると、その妻は出家し、桂林尼と号し、殿平賀の鹿島神霊のそばに庵を結んだ。その後、まもなく(翌月または翌年二月の胤吉命日という)桂林尼もなくなったので、その子胤辰は母の冥福を祈って花島勘解由を奉行に命じ桂林寺を建立した。
 天正19年(1591)11月、徳川家康から朱印地十石を寄進され、高城氏ゆかりの寺から脱却し、慶林寺と号するようになった。

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3.所蔵文化財など
 天正12年4月11日在銘の直径27センチの太鼓(市有形文化財指定)を所蔵。

 桂林尼墓所(市指定史跡)のほか、小金牧の野馬奉行を務めた綿貫氏の墓もある。

* 綿貫氏はもとは月見里(やまなし)氏。月見里土佐守政胤が高城氏滅亡後慶林寺に蟄居、その子綿貫政家が徳川家康に召しだされ、野馬奉行を命じられたという。

<桂林尼墓所>

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鹿島神社(殿平賀180)

常陸国一ノ宮の鹿島神宮を分社したもので、その主祭神である武甕槌神をまつっている。武甕槌神は武勇の神・雷の神として尊崇される。
鳥居の向かって左手には青面金剛の文字庚申投塔がある(寛政十二庚申年建立)。他に弘化四年や大正時代建立の石祠がいくつかあるが、「大山阿夫利神社」「月参講中」以外、碑面が崩壊し文字が判読できない。

大勝院(大谷口145-1:新義真言宗豊山派)

外番場の交差点尐し手前に看板があり、右折し直進したところに山門がある。
小金大谷口城の東北(鬼門)を守る寺院とされ、境内をはいると鐘楼、昭和58年(1983)に再建された本堂がある。
大勝院は、新義真言宗豊山派の寺院で、山号は遠矢山(矢を遠ざけるの意)。
文明12年(1480)の開基とも、永正3年(1506)の創建ともいうが、根木内城の高城氏の帰依をうけ、もとは根木内の小字・大勝院山にあったが、小金大谷口城の北部郭内に移され、高城氏の祈願所になった。
鎌倉時代の弘安年号をもつ板碑などを含め、南北朝・室町期の板碑多数が所蔵される。
常真寺(大谷口18:日蓮宗)
道行山常真寺といい、日蓮宗・本土寺の末寺。元和2年(1616)の創建と伝えられるが、明確ではない。しかし、寛文年間(1661~1673)以前に成立していたとみられる。観音堂があり、墓地には庚申塔がある。

八坂神社(小金443)

JR北小金駅の南口を出てすぐの駅前交差点のビル(サティ)の前に、「小金鎮守 八坂神社御跡地」の碑がたっているが、かつてこの地に八坂神社があった。現在地には、昭和48年(1973)に移転した。
これは京都の祇園社を勧請したもので、古くは牛頭天王社と称して小金の高城氏が信仰していたといわれる。

妙典寺(小金168:日蓮宗)

正覚山妙典寺といい、日蓮宗・中山法華経寺の末寺。水戸街道の小金宿本陣跡近くにある。
創建は江戸時代前期の寛永年間(1624~1644)と伝えられ、直井妙典が開山。

この寺で有名なのは、江戸後期文政8年(1825)に建立された芭蕉の句碑で、
「志ハらくは 花のうへなる 月夜可奈(かな)」と刻まれ、松朧庵探翠が建立している。
また、住職が所属していた陸軍歩兵第五十七連隊(佐倉連隊)のレイテ戦での戦没者慰霊碑がある。

<芭蕉の句碑>

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東雷神社(東平賀226-1)

JR北小金駅から南柏方面に線路沿いに400メートルほどいった場所にある。雷神をまつるが、創建は不詳(かなり古いらしい)。
昭和61年(1986)の火災で社殿を焼失し、現在の社殿は再建されたもの。また、かつては椎の古木や杉の木立といった極相林が鬱蒼と茂っていたが、現在は残っていない。靖国鳥居と明神鳥居の2基の鳥居がある。手水舎は嘉永9年(1857)作。江戸時代以前は神仏習合で、対応する寺があったらしい。
境内には青面金剛、二十三夜塔、大杉大明神、香取、鹿島神社といった末社の石祠などが祀られている。

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2009.06.20

松ヶ崎城跡の柏市との共催見学会は75名と犬1頭参加

ようやく、松ヶ崎城のオープン後の見学会を開催できた。準備としては城跡の整備のもろもろがあり、特に草刈りに動員がままならなかったのであるが、保存の活動の一環として見学会など、ここは松ヶ崎城の会が動かないと、と松ヶ崎城の会の総会でも決まっていることなので、当初考えていたタイミングより遅くなったが、市との共催でとりおこなった次第。

<見学者に説明する柏市吉田学芸員>

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Yoshida

すでに梅雨入りしていたが、心配された当日の天気も何とかもち、見学会の時には曇り空ではあったが、良い見学日和となった。
今回、柏市との共催で説明は、城の主な遺構や歴史の説明を柏市学芸員の吉田さんにお願いし、一部吉田さんの上司の井上さんが過去の発掘結果について、解説してもらった。

城の機能していたのは15世紀後半から16世紀初頭にかけてであることは、出土した常滑焼の壺や土塁の作り方などの遺構の状況から分かっている。しかし、築城したのがどの勢力であるか、また城そのものの用途は何かが不明である。

一説では、高田あたりにいた匝瑳氏が築いたともいうが、匝瑳氏が拠点にし、高田にあったという高田塁という城も遺構がないようで、伝承に近いものがあり、匝瑳氏云々というのもさほど根拠がないようである。

一方、南東対岸台地にあった中世の集落、中馬場遺跡、あるいは中世の館跡である法華坊遺跡、戦国時代後期の根戸城との関連を指摘する話もある。これは、最近周辺の調査が進むにつれ、有力になってきた。ただ、この松ヶ崎城跡付近にも「竹ノ台」つまり「館ノ台」が変化したと思われる地名があり、もともと在地勢力の館があって、戦国時代に城が築かれたと考える向きもある。

そうした城の成立の歴史は、いまひとつ分からないが、遺構の調査は進んでいる。井上さんの説明にもあったが、平成14年(2002)に発掘調査、その翌年にも追加調査がおこなわれており、東側の物見台という1号古墳とその横の2号古墳の間には、門跡という2本の柱跡が検出され、その間に硬化面があって、城道として使われていたようだ。また、北東側斜面からはピット列が出てきた。つまり、北側にあったという船着場と東側の門跡までは通路があり、さらに何か荷物を引き揚げる設備のようなものがあったらしい。

発掘では、西から北の土塁斜面に柵を造ったと思われるピット列も見つかっている。これは柵跡といわれるが、言うまでもなく柵は敵の侵入を防ぐためのものであるが、実際に使われたどうかは現在のところ不明である。

<土塁上から堀底をみる>

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今回は歴史だけでなく、植物の説明も行った。植物と不動尊跡については、会の川上会長代行より解説してもらった。小生、植物についてはドクダミとヨモギくらいしか分からず、川上さんが詳しいので助かった。

不動尊は近年まで現存したが、火事で焼失したのは残念である。不動尊風景図、同参拝図、藤原秀郷・平将門合戦図、文覚上人荒行図、女拝み図、倶利伽羅剣図など、10数点あった絵馬も、ことごとく灰になった。しかし、写真は撮ってあったので、それが往時を偲ぶよすがになるとともに、貴重な史料となった。

<不動尊風景図を示す松ヶ崎城の会会員>

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20人くらいしか来なかったら、ゆっくりマイペースで見学会ができるので、そのほうが良いかと思ったら、75名ほどの参加者があった。正確には犬を1頭連れていた人がいるので、プラス犬1頭である。

資料は50部しか刷っておらず、受付があとのほうの人には資料が渡らず、どうしてもほしいという人には郵送することにした。今回参加者が多かったとはいえ、中高年ばかりで若い人の比率が、圧倒的に低く、30代以下の人は10人弱ではないだろうか。多かったのは、団塊世代以上の人たち。これは、歴史関係の催しだけでなく、自然保護のイベントについても同様のようである。

会のホームページに見学会の様子とともに、植物の写真も載せたが、アジサイの写真が不鮮明だった。まさか本土寺のアジサイを掲載する訳にもいかず、昨日別件で柏に行ったついでに撮り直し、差し替えた。

<アジサイ>

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2009.05.21

中世の景観を残す旧沼南町藤ヶ谷

小生は、以前書いたように、もともとは単なる石垣と天守閣の名城が好きで、会社にはいって愛知県に配属となって犬山城を訪ねたり、関西では縁あって滋賀大学を何度か訪問する際に、同時に彦根城に行ったり、西の姫路城に行ってみたりしていた人間である。

初めて千葉県の城で、城跡めぐりをしたのは臼井城で、それは愛知県から戻ってきた昭和59年(1984)頃と記憶している。臼井城も、周囲に砦や支城があることはずっと知らず、当時畑だった主郭付近をうろうろ散策するだけであった。当時は、今のように駐車場がなかったので、路上に車を止めると、ほかの車の迷惑になりはしないかと思い、少し離れたお寺の駐車場に止めさせてもらったりした。

<現在の臼井城跡>

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臼井城の主郭の周囲でも、土塁の上に太田道灌の弟である太田図書の墓があったり、臼井城に隣接する、円応寺には幼い臼井興胤を志津氏からまもって戦ってなくなったという岩戸五郎の「供養碑があって、臼井城跡からは眼下に印旛沼を望むことができた。その後、関西に転勤になり、千葉の城にはしばらく行かなかったのであるが、平成となって神戸の震災前に帰ってくると、また城めぐりを始めたのである。

そのころには、臼井城だけではなく、自宅周辺のより身近な、また余り知られていない城もまわってみるようになり、その過程で船橋市が発行した報告書などを読み、初めて「横矢掛け」などという言葉を知るにいたった。船橋市以外では、お隣の市川市、八千代市、千葉市の西側の幕張方面に時々出かけて行った。

船橋には十五くらいの城跡がある、またはあったという。しかし、現存する城跡で、ある程度まとまった遺構が残っているのは、夏見城、高根城、金杉城くらいであろうか。楠ヶ山館が以前はほぼ完全に残っていると言われていたが、どこまで戦国時代の遺構で、どこからが江戸時代の屋敷跡なのか判別つきにくく、防御施設がほとんどないことから今では疑問視されている。

その船橋の城跡で、もっとも北にあるのが小野田城跡。これはどうも里見氏に関係しているのか、安房神社が近くにあり、その神社境内に土塁が残存している。そこまで北上すると、今度は国道16号線を通って、小生西に向かったのであるが、現在柏市になっている旧沼南町で実は初めて城跡を調べたのは大井で、その後対岸の戸張、さらに高柳のほうに足を伸ばした。

国道16号線をある日、途中旧沼南町で降りて歩いてみた。そこは藤ヶ谷であったのだが、広い道の端に車をとめ、周囲を歩いたのだが、実にのどかな光景が広がっていた。集落は台地下から台地にかけてあり、台地下の低地は谷津となって、そのだいぶ向こうにまた台地があった。そのとき、たしか、犬を連れたおじさんが散歩していたのを覚えている。

あるいは、この風景は中世ではどうだったのか。谷津田の向こうには寺堂があり、集落には農耕に従事する人々がいて、あるいは犬も飼われていたか。

<藤ヶ谷風景:今はかつての谷津田が畑になっている>

Fujigayata

ずっと、長い間、気まぐれで16号線を降りて沼南のどこかを歩いたことは忘れていたのだが、先日藤ヶ谷の持法院に行ってみようと思い立ち、行ってみるとまさにその場所が以前気まぐれで歩いた場所であったのである。

この藤ヶ谷は、手賀沼に注ぐ金山落としの左岸に位置するが、中世には金山落としの西が相馬郡、東が印西外郷と、はっきり分かれていた。

手賀沼周辺の相馬御厨があった地域は、千葉常胤の叔父常晴がおさめていたという。千葉常胤の父常重は、その常晴から天治6年(1124)に相続し、大治5年(1130)に伊勢神宮に寄進するが、公田官物未納を理由に国守藤原親通に取り上げられ、その後源義朝、源義宗が相馬郡を領有した。千葉氏は、その相馬領を復活させるために、いろいろ手をうったが、再び千葉氏が相馬郡を領有するのは治承4年(1180)の頼朝挙兵後である。

<藤ヶ谷にある持法院>

Fujigaya_jihouin

千葉常胤から次男の相馬次郎師常が相続した以降は相馬氏が支配し、相馬氏は奥州と下総の二流に分かれた鎌倉末期の後も下総相馬氏は罪科に処せられたものの、南北朝期から室町期、戦国初期まで下総相馬氏の宗家は当地に残っていたと思われる。しかし、相馬氏の主流は奥州相馬氏であり、下総に残った一族でも守谷を本拠とする相馬氏が勢力を保っていた。

その庶流であろうか、藤ヶ谷城の城主であったのは、相馬氏と伝えられる。高城氏関連の古文書に出てくる「藤ヶ谷修理」なる人物も、相馬一族であろう。それが地名を名乗ったものと思われるが、戦国末期には相馬胤吉という人がいて、高城氏とともに小田原参陣をしたらしい。その相馬胤吉ら、当地の相馬氏の菩提寺としたのが、登慶山如意輪寺持法院である。

小生が持法院に行ったのは、手賀沼周辺の歴史で、あるテーマについて調べているのであるが、そのなかで藤ヶ谷の相馬氏の動向を知る必要があったからである。

実は藤ヶ谷には今も相馬さんというお宅が何軒かあるが、そのお宅もまた藤ヶ谷城主の一族の子孫であろう。その相馬氏の家老は、勝柴氏であるが、家老の子孫といわれる勝柴姓のお宅も当地にはある。

<持法院の観音堂入口>

Fujigaya_jihouin2

持法院の開基は相馬忠重といわれるが、あくまで伝承である。ただし、藤ヶ谷の薬師堂からは相馬忠重と同時代の貞治3年(1364)年建立の阿弥陀尊板碑が出土しているので、あるいはその頃の開創かもしれない。

持法院は、この周辺によくありがちな質素な堂宇で、赤い門と庭にさるすべりが植えられているのが目立つ位であるが、本堂の手前を北の台地にあがった場所に観音堂と墓地がある。その長い階段を登った先にある観音堂には、千葉介常胤が寄進したという如意輪観音像が安置されている。その観音については、千葉常胤の霊夢云々という由来があるが、それはあくまで話である。

<観音堂>

Fujigaya_kannondou

柏市のHPには、以下のように書かれている。

「登慶山如意輪寺持法院の観音堂に安置されている尊像で、通常は非公開の秘仏です。尊像は、立て膝をして頬に手を触れる半跏思惟のポーズをとる、 戴冠六臂の木彫坐像です。白龕は水晶、目は玉眼で彩色はありません。これに対し、台座と二重円光の光背は金箔であるため、 元来尊像とこれらは別物であったと思われます。
むかし鎌倉時代に鎌倉で造られた如意輪観音像を登慶坊が相馬氏の領地である現地へ持参して祀ったのが寺の創建縁起となっています。 しかし、現存する観音像は、中世末期から江戸時代初期ごろの作品といわれています。」

なお、墓地の一段高くなった場所には、これも相馬氏に由来するのか、平将門の供養塔があった。供養塔の脇に、その関連の句碑まで建てられている。

<平将門の供養塔>

Fujigaya_masakado

なお、肝心の藤ヶ谷城であるが、あまり確たることが言えないので、ここで書くのは差し控えたい。いくらか遺構もあるようだが、集落と国道16号によって亡失した部分が多く、調べた結果は後日に報告したい。

参考サイト:

柏市HP(柏の文化財)

http://www.city.kashiwa.lg.jp/cityhall/sosiki/B_SYOG/SYOG_BNK/bunkanavi/KashiwaBunka/contents/shitei/y_nyoirin.htm

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2009.05.02

徳川家康と知多半島(その34:「三州錯乱」と家康の自立)

今川義元の死後、知多半島で今川方となっていた諸将は織田方になり、松平元康、のちの徳川家康も大高城から岡崎に戻って、

駿河衆、岡崎之城ヲ明て退キケレバ、其時、捨城ナラバ拾ハント仰有テ、城へ移ラせ給ふ。」

と三河物語にあるように、いったん大樹寺に入って、岡崎城から今川の将兵が退いたのを見極めて岡崎城入りした。その動きは、非常に鮮やかであり、後の短期間での三河統一や、織田信長との同盟による勢力拡大の起点となった。それからは、岡崎を拠点として、松平元康は自立の道を歩むことになる。

<岡崎の大樹寺>

Daijyuji1

以前述べたように、「従来は、松平元康、のちの徳川家康は、今川氏真に父の仇を討つように進言し、自身は織田・水野の軍勢と各地で戦った。しかし、今川氏真は暗愚で政治、軍事に向いていなかったため、一向に尾張に攻め込もうとしなかった、そうするうち、水野信元の仲介で織田信長と手を結ぶことが提案され、永禄5年(1562)になって、それにしたがって織田・松平の同盟(清洲同盟)を結んだ、という説が根強く、江戸時代から支持されてきた」。

しかし、桶狭間合戦の時点で、今川家の家督は今川氏真に譲られており、その当主氏真は、桶狭間合戦で功績のあった家臣に対し、恩賞を与え、あるいは戦死した家臣の子には、所領を安堵するなどして、領国経営を進める努力をしてきたのである。たしかに、今川氏真は父義元の復仇のための兵を尾張に向けなかったが、それは松平元康自身が張本人で引き起こされた三河での今川からの離脱の動き、いわゆる「三州錯乱」や北からの武田の脅威に対抗する措置を行っていたため、そのような「余裕」がなかったというのが実態であった。

「三州錯乱」の張本人は、松平元康である。西三河を手始めに、今川方にいったんなっていた地域の豪族に戦いを挑み、あちこちに兵を進めているのである。その張本人が、今川氏真に親の仇を討つように進言するだろうか。

どうも、今川氏真という人は、徳川家康と武田信玄に領土を蚕食されて、領国を持ちこたえきれず、縁戚の後北条氏を頼って出奔し、京都四条あたりにくすぶっていたのを豊臣秀吉に拾われ、最終的に自分を駿府から追い出した徳川家康に仕えて、子孫が高家となったという晩年の姿や、蹴鞠ばかり得意で、政治に見向きもしない暗愚な武将という俗説から、非常に低い評価をされることが多い。しかし、縁戚の後北条氏を頼って出奔するまで、駿府から掛川に居城を移したりしながら、曲がりなりにも十年持ちこたえたのである。

前述のように、松平元康、のちの徳川家康は、進言したかどうかは別にしても、今川氏真がいつまでたっても、父義元の仇を討とうともせず、そうこうするうちに水野信元が織田信長との同盟の仲介をすることを提案してきたので、それにのって仕方なしに織田信長と同盟したというのは、どうであろうか。

<岡崎にある徳川家康の産土六所神社>

Rokusho2

これはあまりに、家康の側に都合の良い説明である。実際は、松平元康は早くから今川氏の支配の呪縛から脱し、自立しようとしていたが、まだ今川の勢力も根強く、一方領地を接する織田方の水野氏とは争わねばならない、それで後顧の憂いを絶って、今川と本格的に対峙しようとしたのではないか。

それをそのまま書いてしまうと、江戸時代に定着した「武士は二君にまみえず」という忠君思想とはかけ離れたものになってしまうため、後の道徳観念にあうように、水野信元の仲介でやむなくという筋書きにしたと思われる。水野信元の側では、松平元康と石ヶ瀬川の河原などで争うのはやめたいと思っていたかもしれないが、わざわざ織田・松平同盟の仲介の労をとることは積極的には考えていなかったと思われる。

むしろ、織田信長の側は、今川氏との桶狭間合戦の後は、矛先を美濃に向けようとしていたため、安心して美濃攻めをするためには、松平を使って東側の今川の動きを封じ込めたかったのである。その織田と松平の利害が一致したために、おそらく水野信元は織田信長の命令で仲介をしたに過ぎない。

<武豊線から見た現在の石ヶ瀬川>

Ishigase

もとを正せば、松平元康は、三河の豪族松平氏の「十八松平」といわれるうちの、宗家でもない安祥松平家の出身で、たまたま祖父清康が今川・織田の勢力を腹背にうけつつも、三河一円に勢力を伸ばし、織田信秀を攻めるまでにいたったものの、守山崩れで亡くなった後、跡を継いだ広忠が、今川の力を頼って家を存続させたのであって、譜代の今川家臣でもない。今川の強い統制下にあったのは、本来の領国である駿河、せいぜい遠江であって、三河や尾張の一部では独立の小豪族たちを服属させているのに過ぎなかった。

<岡崎城>

Okazakijyo2

「三州錯乱」と同時に、遠江でも今川方の部将が次々と今川の勢力から離脱していく「遠州忩劇」という事態が進行していった。

これは、「浜松御在城記」によれば、以下の通りである。

一、遠州引間ノ城主飯尾豊前守ハ駿州今川ノ先鉾(鋒)トシテ、尾州織田軍勢卜所々ニテ合戦、然ニ永禄三年(五月脱)十九日、義元、尾州桶狭間ニテ討死ノ後、氏真、亡父ノ弔合戦之心掛モ無之、朝夕酒宴遊興二長ラルゝ故、権現様、永禄四年ヨリ信長公卜御和睦被成候、遠州引間ノ城主飯尾豊前守・同国井伊谷ノ城主井伊肥後守・同国嵩山ノ城主奥村修理ヲ始、大方氏真ヲ叛キ、信長公及権現様江内通仕候、此由氏真聞及、永禄五年二月ハ井伊谷、同年四月ハ引間、同七月ハ嵩山、此三城へ駿河ヨリ人数ヲ差向被攻候、井伊谷・嵩山ハ落去、引間ノ城ニテハ、寄手ノ大将新野左馬助討死、城内ニモ、飯尾同心渥美・森川・内田等ノ歴々討死仕候得共、猶堅固二守二依テ、氏真、調略ヲ以テ、致和談候、此以後永禄七甲子、氏真三州江発向、権現様卜所々ニテ攻合、同国一ノ宮ヨリ人数ヲ引取被申候刻、飯尾ハ権現様江御味方ノ然相見候ニツキ、氏真ヨリ遠州二俣ノ城主松井左衛門、豊前守姉婿ナルニヨリ、渠ヲ媒トシテ縁二取クミ、駿府江呼寄、永禄八年極月廿日、駿府ニノ丸飯尾屋敷江押詰、被誅之、然共引間城ハ豊前守家臣江間安芸守・同加賀守持固候故、翌年二月、権現様より御慇之御書被下候由、

というものである。

この文献は「浜松市史」に収められているもので、オリジナルのものは浜松藩士永井随庵が延宝末から天和年間に著したという。さすがに江戸時代の書物だけに、家康中心の書き方であるが、すでに永禄4年(1561)には織田信長と和睦していたこと、永禄5年(1562)には今川方であった井伊、奥村、飯尾が離反したため、今川氏真が兵をつかわしてこれを攻めたこと、うち飯尾(連龍)は引間(曳馬)城に籠って城はなかなか落ちず、今川氏真が謀略をもって討ったことが分かる。そして、飯尾連龍などの諸将の背後には、家康や信玄の工作もあり、飯尾連龍は最後のころは家康と内通していたらしい。

<浜松城~前身は曳馬城>

Hamamatsujo

桶狭間合戦以降の松平元康の動きについて、簡単にまとめると、以下のようになる。

永禄3年(1560)5月~

5月19日、今川義元、桶狭間合戦で戦死。松平元康は5月20日大高城を脱し、5月20日岡崎城に戻り、今川氏の支配下から独立。早くも額田郡、碧海郡といった西三河では、吉良氏などを攻め、織田方であった水野信元とも石ヶ瀬川にて合戦。

永禄4年(1561)

松平元康、織田信長とこの頃和睦か。松平元康は、東三河にも進出。東三河の国衆である菅沼氏、西郷氏を服属させる。また西三河でも、9月13日に行われた東条城をめぐる、元三河守護吉良氏との藤波畷の闘いに勝利するなどして、吉良氏の当主吉良義昭をくだす。

永禄5年(1562)

1月15日 松平元康、清州に赴き、織田信長と会盟(「清州同盟」)。

2月4日 三河西郡城の鵜殿長照を攻め、その二子を捕える。鵜殿長照の二人の子と築山殿、嫡子信康、亀姫を交換。

遠江でも、今川家臣団の動揺が広がり、井伊、天野、飯尾といった諸将が離反。これに対し、今川氏真が兵をさし向ける。

6月(異説あり)、今川氏、松平氏は、牛久保城をめぐり、大規模な戦闘を行う。今川勢は吉田城・牛久保城の拠点に陣取るとともに、今川氏真自ら兵を率いて牛久保に着陣。松平勢の一宮砦を大軍で包囲するも、松平元康は、小勢で今川の攻囲を突破(「一宮の後詰」)。

永禄6年(1563)

3月2日 嫡子信康、織田信長の次女五徳と婚約。 

7月6日 松平元康の今川義元から与えられた偏諱である「元」の字を返上、家康と改名。

10月下旬 三河一向一揆勃発。本證寺(安城市野寺町)、上宮寺(岡崎市上佐々木町)、勝鬘寺(岡崎市針崎町)の、三河三ヶ寺と、本宗寺および桜井松平氏、大草松平氏、吉良氏、荒川氏などが反家康勢力となった。自らの一族家臣も含めた一揆勢との戦いは、半年に及んだ。そして、永禄7年(1564)2月13日に上宮寺の一揆が岡崎城に攻撃をしかけたのを最後として、一揆勢からの攻勢はなくなり、一揆との戦いに勝利。その一揆勢との戦いに勝った余勢をかって、6月には東三河の今川方の拠点であった吉田城(豊橋)を攻略。

永禄7年(1564)

曳馬城主飯尾連龍、今川氏真の謀略で、駿府にて誅せられる。

<一向一揆の拠点本證寺>

Honnshouji

永禄9年(1566)

この頃までに家康は、三河一国を統一。

12月19日、松平から徳川に「復姓」することを勅許にて認められ、朝廷から従五位下、三河守の叙任を受ける。得川という名字は、新田義重の四男義季が上野国新田郡得川郷(現在の群馬県太田市徳川町)を継承して得川と名乗ったのがはじめで、義季の嫡子頼氏は世良田郷を継承して世良田を名乗り、義季の庶長子頼有が得川郷を継ぎ、また得川を名乗った、親子二代しか続かなかったものである。どうも、家康は源姓が欲しかったらしく、吉良氏から系図を借りたりして研究し、わざわざ子孫がいないと思われる得川という家を見つけてきて、自分の先祖で時宗の僧だったという、松平親氏が新田源氏の出であるという設定にした。松平家に入り婿ではいった親氏の所縁により、先祖の姓に戻すという趣旨であるが、松平氏が賀茂姓であることは明らかであり、いささか強引なこじつけといわざるをえない。

永禄11年(1568)

今川義元存命中は、甲斐・駿河・相模の三国同盟を結んで、駿河に兵を動かすことなどなかった武田信玄であるが、急速な家康の台頭、今川領の蚕食をみて、今川氏真と手を切り、逆に徳川家康と結んで駿河を攻略する方向に出る。

武田信玄の駿河侵攻は、12月12日。その三日後には徳川家康は三河から遠江に攻め入った。武田信玄に駿河今川館を追われた今川氏真は、掛川城に逃げる。12月27日には、徳川勢が掛川城を包囲、今川氏真は半年ほど籠城する。

<掛川城>

Kakegawa11

永禄12年(1569)

掛川城を救援するための北条氏康の出動あるも、5月17日についに、氏真は家臣の助命と引き換えに掛川城を開場。それ以降、今川氏真は小田原北条氏を頼り、出奔。今川残存勢力にさかんに文書を発給するが、やがて武田勢などに切り崩され、家臣団も崩壊。

こうして、家康がまだ竹千代といっていた幼少期から、家康や岡崎衆をがんじがらめにして服属させてきた今川氏という大きな存在は、戦国大名としては滅亡した。しかし、かわって織田信長という存在が、徳川家康の前にクローズアップされることになる。

それに関しては、また次回。

参考文献:

『浜松市史』 浜松市

『徳川氏の研究』 小和田哲男編 吉川弘文館 (1983)

『駿府の大御所徳川家康』 小和田哲男 静岡新聞社 (2007) 

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2009.04.18

ああ武豊線

武豊線は愛知県知多半島の武豊から北をはしるJRの路線であり、一応大府までなのであるが、朝などは通勤用に名古屋への直通電車も走っている。武豊から、大府までの駅は、武豊―東成岩―半田―乙川―亀崎―東浦―石浜―緒川―尾張森岡―大府と10駅のみである。

小生は、武豊線にはもっぱら東成岩駅から乗るのであるが、それは会社の正門が駅から歩いて1分という立地であり、車を会社の駐車場において出かけることができるためである。以前、といっても27年も前頃は、名鉄の知多武豊駅の駅前に無料の駐車場があり、名古屋などに出かける場合には、そこに車を置いていた。しかし、その駐車場は何年も前に廃止され、今は有料の小さな駐車場があるほか、武豊町役場の駐車場が金曜日の夜から日曜日まで開放されているが、土曜日、日曜日には朝早く行かないと満車になってしまう。

この東成岩駅は、かつては有人駅で、小生が会社に入って転勤によって、最初に知多に配属となった昭和57年(1982年)頃は、まだ二人くらい駅員さんがいたと記憶している。今でも駅舎の庭にセメントでつくったような花壇があるが、それは駅員さんがいたころのものであろう。今は乗降客が多いものの、乙川などと同じように無人駅である。

<東成岩駅>

Higashinarawa_station_03

武豊線というように、武豊港に揚げられた荷物を名古屋方面に運ぶというのが、貨物としては明治19年(1886年)の開業当初からの目的になっていたらしい。しかし、武豊駅は、当初今の場所ではなく、国道の里中交差点付近にあった。どうも、里中のあたりから、道沿いに細長い空き地があり、廃線跡ではないかと思っていたが、そのとおりであった。

何気なく乗降していた武豊線であるが、明治19年(1886年)の開業という古い歴史をもっており、駅舎などの設備にも歴史的なものがある。開設にあたっては、測量はイギリス人顧問のウイリアム・ヴィッツから助言をうけ、鉄道技術については技師長ボイルの指導も仰いだ。当初鉄橋材料は、日本国内では調達出来ず、イギリスから輸入しなければならなかったという。しかし、開設当初苦労して誕生したにも関わらず、その後の飛躍的発展はなく、いまだに単線、しかもディーゼル車が走っている。単線のため、上下線は決まって緒川駅ですれ違うことなる。こんなローカル色が強い路線は、全国的にも珍しい。

武豊線の年表(Wikipediaより)

1886年(明治19年)3月1日 - 武豊 - 熱田間が開業。開業当初の通称は半田線。現在の武豊線にあたる区間に緒川駅(初代)、亀崎駅、半田駅、武豊駅開業。
1887年(明治20年)9月10日 - 緒川駅(初代)廃止。大府駅開業。
1888年(明治21年)9月1日 - 東海道線浜松 - 大府間が開業し、大府 - 武豊間(12M53C18L≒20.38km)は東海道線の支線となる。
1889年(明治22年)7月6日 - 営業距離の単位をマイル・チェーンのみに簡略化(12M53C18L→12M54C)。
1892年(明治25年)6月1日 - 武豊駅が現在地に移転、53C(≒1.07km)短縮。
1895年(明治28年)4月1日 - 線路名称制定により東海道線の一部となる。
1900年(明治33年)3月1日 - 緒川駅(2代目)開業。
1902年(明治35年)11月12日 - 営業距離の単位をマイルのみに簡略化(12M1C→12.0M)。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定、大府 - 武豊間が武豊線となる。
1915年(大正4年)2月15日 - 武豊駅構内扱いで武豊港まで路線を延伸。
1930年(昭和5年)4月1日 - 営業距離の単位をマイルからメートルに変更(大府 - 武豊間 12M→19.3km)。貨物支線 武豊 - 武豊港間 (1.0km) が正式に開業。旧武豊駅の場所に武豊港駅開業。
1933年(昭和8年)12月7日 - 尾張森岡駅、尾張生路駅、乙川駅、東成岩駅開業。
1934年(昭和9年)8月22日 - 藤江駅開業。
1942年(昭和17年)3月31日 - 東成岩駅休止。
1944年(昭和19年)11月11日 - 東成岩駅再開。尾張森岡駅休止。尾張生路駅と藤江駅を統合し東浦駅開業。
1957年(昭和32年)4月15日 - 尾張森岡駅再開。石浜駅開業。
1965年(昭和40年)8月20日 - 貨物支線 武豊 - 武豊港間 (1.0km) が廃止。武豊港駅廃止。
1984年(昭和59年)1月10日 - 東成岩 - 武豊間の貨物営業廃止。
1984年(昭和59年)2月1日 - 荷物輸送廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により東海旅客鉄道が承継。日本貨物鉄道が大府 - 東成岩間の第二種鉄道事業者となる。
1992年(平成4年)10月12日 - ワンマン運転開始。
2001年(平成13年)2月11日 - CTC化。
2006年(平成18年)11月25日 - 全駅にTOICA導入。ただし、大府駅以外の駅は簡易TOICA改札機であり、一般の磁気乗車券を処理するいわゆる自動改札機は大府駅以外の駅には設置されていない。

小生武豊駅には、たまに歩いて駅まで乗車していた。また、遠距離切符を買う時には、武豊駅か、半田駅にいくしかない。だから、武豊駅、東成岩駅、半田駅は、とくに身近な駅である。 武豊駅の一段高い入口付近には自動車も上がれるのである。それは自動車で家族などを送迎するために、そういう構造になっているのだが、さすがに車で乗り付けて、そのまま電車に乗る人はいない。

この武豊駅には、「高橋煕君之像」という胸像が駅の入口のところにある。昭和28年(1953)の13号台風の際に、武豊駅と東成岩駅の線路が流されたことに気付いた武豊駅の高橋煕駅員は、乗客を乗せて東成岩駅を出て武豊駅に向かう列車に対し、東成岩方面に走って発煙筒を焚いて列車を救ったが、自らは殉職した。武豊駅にあるのは、その高橋煕駅員の像である。殉職した高橋煕駅員は、「国鉄職員の鑑」と報道され、全国国鉄職員や小中学生などの募金により、像が建てられた。なお、これは銅像のように見えるが、常滑で作った陶製だそうだ。

<武豊駅~1953年の13号台風で殉職した駅員の像>

Taketoyoeki

実は武豊駅のある場所には、戦国時代に周辺の領主であった岩田氏が城を構えていた。長尾城というが、その城域は一部武豊駅の北側の一部敷地と重なっている。城主岩田氏は、武雄神社の神官を兼ねていたということであるが、京都に出自をもつらしい。城主では岩田杲貞の名が伝わっている。遺構は堀跡が多少残っている程度で、土塁などはなくなっている模様。国鉄武豊駅が出来たために、その城址の東半分が削られたが、たしかに武豊駅から電車に乗って西側をみると緑の木々に覆われた小高い台地が南北に100mほど続いており、そこに城があったのが納得できる。

最終的に、同じ知多半島の北部で力を蓄え、徐々に実力を発揮していった緒川水野氏の水野信元に、天文12年(1543)成岩城の榎本了圓が滅ぼされたのと同じ時期に攻められ、降伏している。その最後の城主は岩田左京亮安広、出家して杲貞と名乗った。

長尾城の周辺には、城に関係ある地名があるが、「上ゲ」というのも、その一つである。名鉄の駅に「上ゲ」という駅が知多武豊駅と青山駅の間にある。

<武豊の春祭りの様子>

Taketoyo

しょうもない話であるが、東成岩の成岩が「ならわ」と読めない人は、「なりいわ」と呼んでしまう。それで成岩を「ならわ」と説明するのが面倒で、小生なるべく東京などでは切符を買わないようにしていた。

成岩には成岩神社があり、その隣接した場所には鳳出観音がある。これは成岩の常楽寺の典空顕朗上人が、慶長元年(1596)、常楽寺の前身である天台宗仏性寺の観音堂を半田市有楽町二丁目の小高い丘に移したのが始まりである。鳳出観音の名前は、元は常滑の時宗の僧侶であった榎本良圓が城主をしていた成岩城を攻略するために、天文年間に緒川水野氏の勢力が築いた成岩砦に由来する。つまり、砦のきずかれた場所が「とりで山」と呼ばれ、そこに観音堂が建ったため、「とりで観音」と呼ばれるようになった。

成岩砦が対峙した成岩城は、東成岩駅をまっすぐ国道にむかって歩き、国道に突き当たった辺りの台地上にあった。しかし、現在は遺構がほとんど残っておらず、「成岩城址」と刻まれた石碑が建っているのみである。

考えてみると、武豊線周辺には、結構城跡などが多い。成岩から北では緒川城が緒川駅近くにあり、村木砦は尾張森岡駅の近くにあって、武豊線が砦跡の上を横断している。その他、乙川や亀崎の駅周辺にも小さな城跡がある。これは、中世から存在した集落を結ぶように、知多半島東浦沿いの平地を武豊線が走っているためである。

ただ、半田駅のすぐ近くには、文明、明応年間に築城されたという半田城、別名坂田城という城があったものの、城の遺構はない。ただ、堀崎、城屋敷という関連地名が残っているのみである。近くに紺屋海道という古い道があるが、染物屋が沿道にあり、商人や職人たちが往来した海岸線沿いの道である。また、紺屋海道付近の浄土真宗の順正寺には、伝来の絵像阿弥陀如来があり、それは永正10年(1513)に道場創立者宗閑法師に本山の法主實如上人から下附されたものであるが、その裏書に「尾州智多郡坂田郷」とある。その坂田郷が、「さかた」ではなく、「ばんだ」となり、「はんだ」となったのが半田の名前の由来だそうだ。

<半田駅のホーム>

Handaeki

半田駅は、さすがに知多半島の中心とでもいうべき場所を象徴して、今は少しく寂れているが駅前は広く、中埜酢店経営者の広大な邸宅も近い。駅舎の一部である跨線橋は、明治43年(1910)11月に設置された全国で最も古い跨線橋である。跨線橋の支柱には「明四十三鐡道新橋」と鋳込まれている。現在の跨線橋は、塗装が新しくされているのと、ホームにおりてきたところに手すりが付け加えられている以外は改変されることなく、原型が保たれている。通路はひと二人がようやくすれ違うことができるほど。昔の建造物の割に、階段はさほど急ではない。跨線橋とともに、煉瓦造りの油脂庫もあって、かつては信号機用の灯油が保管されていた。

<半田駅の跨線橋と油脂庫>

Handa_station_bridge

半田駅は、跨線橋以外、駅舎自体はさほど古いものではない。その隣の乙川駅も同様である。

ところが、亀崎駅については、駅舎自体が明治19年(1886)の開業当初のものであるというから、驚きである。亀崎駅は乙川駅とほぼ同規模で、逆に乗降客は乙川より少ないように思うが、ここは有人駅である。

しかも、明治19年の駅舎が、いまだに現役である。これはJRでは全国一古い駅舎らしい。ただ、120年もたっているのに、それほど古い建物という印象はなく、よく田舎で見かけるようなイメージの駅舎である。

<亀崎駅>

Kamesakieki

亀崎の北は東浦町であり、武豊線の駅も東浦、石浜、緒川、尾張森岡と続く。

その歴史を書き出すと、長くなりすぎるのでカットするが、村木砦近くの尾張森岡駅を後にして、石ヶ瀬川をこえるときに、高い鉄橋の上になる。その景色は、下の貨物路線や自動車道路を見下ろす形となり、武豊線随一の見どころかもしれない。

<石ヶ瀬川を越えたあたり>

Ishigase

大府駅で、武豊線は東海道線に合流する。大府までくると、名古屋は目前である。そして、大府駅では、刈谷、岡崎方面の乗り換えができる。大府には、郊外には工場などもおおいが、駅周辺の商店街にとんでもない古い装いの店(よろずや風)があったりする。やはり歴史の古い町である。

<大府駅>

Oobu

今では東海道線になるが、大高駅の辺りから、丸根砦のある台地が見える。鷲津、丸根の両砦は、織田勢が今川方の守る大高城に対峙するために築いた砦である。駅から、そういう歴史的な場所が見えるのであるから、なんともすごいところである。 かつては、熱田までが武豊線(半田線)の領域であったが、今は大高駅も東海道線の駅である。

<車窓からみる丸根砦跡>

Oodaka2

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2009.04.16

オープン直前、松ヶ崎城跡の整備状況

柏市の松ヶ崎城のオープン前の清掃活動に、先日行ってきました。

郭内の木が切られ、土塁や堀が表土まで露出する状態になったため、よく見渡せるようになった反面、東側の土塁など、だいぶへこんだり、損傷しているのも、よく分かるようになっていました。

写真は、「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」HPのトップにも掲げた、筆者が物見台(1号古墳)にのぼって撮った郭内の様子ですが、重機のわだちが痛々しい。

Kakunai

古墳は3基とも無事でしたが、2号墳、3号墳は、周囲に草木がなくなったため、前より大きく見えました。

そうした古墳の上にも、春のきざしが。なんと、わらび、ゼンマイの芽が出ており、タラの芽までありました。

Warabi 

柏市によって、土塁、虎口といった看板が取り付けられる予定ですが、清掃作業のときには、仮設のものでした。その他、台地縁には、木の柵が設置され、切った木も運び出される予定です。

オープン後には、4月29日に「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」の講演会が予定されており、さらに見学会も計画されています。

Hori

「古城の丘にたちて」外伝より転載

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2009.04.06

松ヶ崎城の今後に関する講演会

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会主催で、下記の講演会を行います。

松ヶ崎城は、柏市にある中世城郭です。昨年、市の指定文化財でありながら、遺構の破壊問題があり、いかに保存していくかが焦眉の課題となりました。

・テーマ:松ヶ崎城の明日を語り合う 基調講演 「これまでの松ヶ崎城とこれから」
・日時:2009年4月29日(水:祝日) 13時30分から15時30分(予定)
・場所:柏市中央公民館 集会室1,2
・講師:吉田敬氏(柏市教育委員会学芸員)
・会費:資料代程度
・問い合わせ先:久川さん方 TEL. 04-7134-8833

Matsugasakijomokei

「古城の丘にたちて」外伝より転載

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2009.03.04

BUMP OF CHICKEN の歌のモチーフとされる臼井城宿内砦跡

先日、テレビで佐倉市の紹介をしていたが、そのなかでBUMP OF CHICKENという佐倉市臼井出身者で結成されたバンドが、臼井城の宿内砦跡である宿内公園を歌のモチーフとしていると言っていた。そして、彼らの「グロリアスレボリューション」というの曲の撮影が行われたのも、宿内公園であった。宿内砦といっても、ほとんど知る人がいないだろうが、BUMP OF CHICKENの「くだらない唄」「続くだらない唄」という歌のモチーフになったという公園といえば、知っている人は多いかもしれない。

このBUMP OF CHICKENというバンドは、メンバーが佐倉市臼井の幼稚園か小学校からの仲間という佐倉郷土色の濃いバンドである。

臼井といえば、やはり臼井城。実は、小生は元は石垣に天守閣という彦根城や姫路城といった城には興味がおおいにあったが、土塁などの土造りの城にはそれほど興味がなかった。もともと、そういう土造りの城は、群馬県のある山城を手始めに、小学生のころから知っていたとはいえ、壮麗な石垣と白壁の城のほうに関心が向いていたのである。一時期、関西在住であったことが、その傾向を強めた。なにしろ、城といえば一番近くにあるのは神戸の花隈城で、住んでいた神戸市からは彦根城や姫路城といった城にも、快速電車に乗って出かけていけたのである。

長い関西での生活の後、千葉に戻ってきた小生は、たまたま車で行ったことのあった臼井城にまた行ってみようと思い立ち、小さな城と思いこんでいた臼井城の堀が意外に深いことを知り、それから中世の土造りの城に目を向けるようになっていった。

<宿内公園>

Shukunai3

臼井城には、小竹城や志津城といった支城と、5つの砦があった。その砦とは、北に洲崎砦、西北に仲台砦、西南に田久里砦、南に稲荷台砦、南東に宿内砦の5つである。そのうち、宿内砦は、「利根川図誌」にも「臼井旧事録」にも記載がない。しかし、臼井城の砦としては、唯一明確な遺構が現存する。この宿内砦は、かつては長源寺の寺域であった。「利根川図誌」には、その場所は長源寺として記載されている。長源寺は元亀元年(1570)、原氏に招かれた道誉上人により、「新大巌寺」として創建され、安永元年(1772)に火災で焼失するまで、宿内砦のある台地上にあり、かつてその台地は長源寺山と呼ばれていた。長源寺は、現在宿内砦のある台地下北西に隣接する谷合にある。

<道誉上人の墓>

Douyo

宿内砦は、長源寺の東南にある舌状台地の先端部分を占める。西側道誉上人の墓のある墓地は結構な広さがあるが、その墓地のある台地中腹の平場を通って台地の上まで階段が付いている。そこから階段の道を上り切った所に南北約150m、東西の最長部分約100m、短い所でも約50mの変形五角形の大きな郭がある。その南に高さ2m程の大きな土塁があって、南側の郭と区切っている。その土塁の一端は櫓台となり、主郭虎口防備のため、広角に矢を射るように配置されている。南側の郭は南北約100m、東西約60mの長方形で台地鞍部に続いている。

<宿内砦の土塁>

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舌状台地の先端が北側に向いている地形から見て、北側の最先端部分を占める大きな郭が主郭である。その郭の東側には、2~3m程低く、腰郭があり、その下台地中腹にも小さな腰郭が2つある。西側の道誉上人の墓のある墓地も台地中腹に付いた大きな腰郭である。南側の郭の東側にも小さな腰郭があり、その外側に堀底道と思われる切通し道がある。

<土塁は一部かなり高くなっている>

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かつては、長源寺自体がいわゆる城郭寺院として砦の役割を果たしていたと思われ、臼井城西の外郭や仲台砦とあわせて、臼井城の東西両翼の守りを固めていたと思われる。現在臼井城実城の北側直下にある円応寺もかつては今の場所でなく、第3郭のあった「外城」に隣接する「寺台」にあったという説もあり、円応寺も城郭寺院であった可能性がある。

宿内砦址は、長源寺移設後は原氏の家老だったという大森氏の私有地となり「おおもり山」と呼ばれていたが、市の借上と公園化、所有者の変更を経て、近年のマンション開発に抗した住民運動の結果、良好な遺構の保存状態のまま宿内公園として保存されている。
 

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2009.02.23

東葛地方で中世城郭発見か(続々報)

中世城郭発見というと、まったく新しい城を見つけたように聞こえるので、正確に言えば、なくなったと思われていた城跡があったということである。なぜ、なくなったとされたのか、小生にはその経緯は知る由もない。ただ、あったという確認をして、場所を特定し、縄張り図をかくために測量をしてきたのである。前回申し述べた通り、この城の主郭は東の隅を頂点とし、西側は円弧を描く、扇のような形であって、西側は低地に面し、いわゆる弧状塁線からは低地に侵入した敵に矢を広角で射掛けられる。

<主郭の土塁>

Shukakudorui

弧状塁線の下の斜面は切岸で削られ、腰郭があるのだが、その腰郭も大きく二つあって、西側の腰郭は25mほどの長さがあり、思ったより大きい。そして、その腰郭から、もう一段小さな腰郭が開いている。こういう、入れ子構造の腰郭は、初めて見た。その腰郭のさらに西の斜面上には小さな郭があって、その郭は物見があったと思しき細長い郭と主郭をつなぐ役割をしている。これを小生は副郭と呼んでいるが、主郭より副郭は低くなっていて、細長い郭とは段切によって仕切られている。

副郭の北西側は主郭の土塁がのびているが、その反対側には土塁らしきものは見当たらない。本来なかったのか、削られたかであるが、現存する土塁は蔀土塁として、城内を敵に見せないためのものか。また副郭のなか、主郭のなかは、ともに、縁辺部より少し低くなっている。これもなるべく城の中を見せまいとする工夫であろう。

副郭に接する、細長い郭は、はじめ一つの郭であると思っていたが、藪のなかを調べると、堀と土塁で仕切られ、二つの郭に分かれることが分かった。つまり、山城でよくあるような連郭式の状態で、3つの小さな郭が並んでいるのである。低地からこの副郭の方にはいる虎口は、副郭とその隣の小さな郭の境界近くにあり、低地へは土塁が10mほどものび、その土塁を伝って下に下りることができる。その虎口は、あまり明瞭ではないが、枡形虎口のようであり、主郭に入る虎口が平虎口なのに、なぜ下の造作のほうが技巧的なのか、よく分からない。

なお、細長い郭は、現状が細長くなっているのでそう呼んでいるが、実は南側が破壊されていることが分かっており、本来の形と違うかもしれない。それにしても副郭は本来の形であり、それから類推するに、城全体は大きな扇形の開いた部分の一方から、細長い半島状の郭が伸びているという変わった形で、扇の開いている部分の下には、腰郭が二つある。

<崖下低地より主郭を見る>

Teichiyabukara

これは、想像であるが、もともと台地上に中世の土豪の居館か何かあって、戦国時代の後半にそれを改変して、防御を固めたのではないかと思う。その防御も、おそらく船着場があったであろう、入江状の谷津に面した部分に重点が置かれているようである。

なお、前回、「自然地形以外にいくつか井戸状のものがあって、城の遺構なのか、近現代で耕作か何かの都合で作られたものか判別がつかない。腰郭下の状態については、何かしたかどうか、地主に問い合わせてもらっているが、江戸時代に何かしたということなら、見当がつかないだろう。」と書いたが、その後地元の城探索の言い出しっぺの方に、その親戚である地主に確認してもらったところ、昭和17年(1942)頃に軍隊がその場所で馬を20頭ほど飼っていたとのことで、その改変があったかもしれない。

低地には副郭と細長い郭の境目から出ている土塁、細長い郭から出ている土橋状の土塁(坂土塁)と大きく2つの土塁があり、いずれも途中で切れているように見えるが、それがもしのびていたとすれば、いびつであるが方形となる。

その方形の場所は、平坦であり、その下は湿地で現在でも水が湧いている場所がいくつもある。なにか、土塁で囲んだところに建物があって、水辺(あるいは、そこには船着場があったかもしれない)が、すぐ近くにまで迫っていたのだろう。

<低地にある土塁を上から見たところ>

Sitanodorui2

すると、屋敷が台地下にあって、上の城の主郭と、下の土塁から副郭に通じる虎口を経由して、連絡していたのだろうか。

城の輪郭が、大体明らかになってきたので、細部の探索は別の機会として、誰が何のために築城したのか、今後はそちらを考えていくことになるが、縄張り図を仕上げて県や市の関係者と相談しようと思っている。

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