カテゴリー「歴史」の118件の記事

2015.01.03

太田道灌が攻めた下総の城

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<飯綱神社の鐘楼>

正月休みを利用して、八千代市萱田の飯綱権現山砦跡に行ってみた。

ここは砦跡というより、太田道灌の陣城跡の伝承地で、特に遺構などが残っているわけではない。 とはいえ、新川を北に臨む、低地面からの比高20mほどの台地上にあり、江戸時代の創建である飯綱神社が砦跡という場所にある。 北北東約1kmの場所には新川を挟んで米本城跡があり、伝承では太田道灌の軍勢は文明11年(1479)の臼井攻めの前後に米本城を落としたことになっている。 

飯綱神社の創建は、この場所に陣を構えた太田道潅が戦勝祈願して埋めた十一面観音像を、元和8年(1622) 白狐の神託により発見したという故事に由来するとのことであるが、神仏分離令の前は飯綱権現で、その名残の立派な鐘楼も健在である。 陣城なのだから遺構が残っていないのは仕方ないが、土塁の残欠の一つもないのは元々ないのか、後世になって削られたのか、陣城というのが単なる話なのか。

北側の台地斜面をみると、腰郭状の平場はあったが、遺構というより、ただの自然地形かもしれない。

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<腰郭状の平場>

飯綱神社を含む権現後(ごげんうしろ)遺跡の発掘調査(昭和52年からの千葉県文化財センター、八千代市による調査)では、弥生時代後期・古墳前期の住居73軒、方形周溝墓3基が見つかり、古墳時代中期以降は住居の検出数は少なくなるものの、奈良平安時代の住居も含めて、この場所には近世にいたるまで長期間集落があったことが分かっている。 残念ながら陣城の遺構に直接結びつくものは未検出のようであるが、年代不明の溝1条、近世の溝1条は発見されている。 その溝1条は、飯綱神社北側の低地から上がってくる参道の延長上に台地先端を区切るように伸びており、堀切ではないかと推測する。 それが堀切だとすると台地の最先端、飯綱神社の急な石段の部分から100m足らずと狭い範囲を区切っており、さらにその外側に堀切か何かで区画するものがあったかもしれない。

新川を隔てて対峙する米本には、米本城跡がある。 この米本城は天文の頃に村上氏が入って城主となったというが、村上氏は現在の市原市辺りの豪族であったようで、生実の原氏に従って、原氏が臼井に入るとその支城として米本城を守ったという。 その村上氏が活躍した年代は戦国時代後期であり、太田道灌の時代とは合わない。

元々、米本には長福寺がある場所に、中世の武士の居館があったらしく、村上の正覚院館と同様に低地に面し、裏山を背負ったような場所にあり、裏山である台地がくりぬかれ、平地にされた部分に館があったのであろう。この館の主が誰であったのか不明であるが、米本の複数の場所から室町期の板碑が出土し、特に長福寺から多くの板碑が発見されていることや、付近に妙見を祀る米本神社があることから 室町期に千葉氏系の氏族がいたことは確実であり、それが太田道灌の軍勢と戦ったのではないか。また、現在の米本城跡からは土塁の下から、焼き米が発見されている。これは一度焼けた建物の上に、新しく城を築き、より堅固にしたのであろう。

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<米本城跡に隣接する長福寺>

もちろん、太田道灌自身は下総まで来て指揮をとっていないが、太田道灌の弟図書をして臼井城を攻めさせたのが文明11年(1479)である。室町期に武士の居館で、長福寺の板碑がそれからやや新しい年代のものが多いことは、太田道灌が権現山に陣をおいたという伝承にあるように、太田軍が臼井城攻略の前後に「米本の龍ヶ城」すなわち元の米本城も落とし、その際の戦死者の供養の板碑が多いのではないか。

ちなみに龍ヶ城とは「要害」が訛ったもののようで、村上氏が天文年間頃に整備した城よりも小規模な城郭であったと思われる。 その当時の城を守っていたのが誰なのかは分からないが、太田軍によってすぐに攻略されたのであろう。

以下は、太田道灌の下総攻めに関する動画。

続きを読む "太田道灌が攻めた下総の城"

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2014.11.01

今日もこの城、松ヶ崎城

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「今日もこの城、松ヶ崎城」というタイトル。 何やら、「今日もこの街、近商ストア」を連想させるというか、明らかにパクリのような気もするが、関東の人は近商ストアという近鉄系のスーパーなど知らないので、千葉県でそういうタイトルのイベントをしても余り問題ないかもしれない。

それはともかく。

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会よりお知らせ

同会のURL↓

www.matsugasakijo.net

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会 創立15周年記念講演と演奏の集い

・後援:柏市教育委員会 
・会場 柏市勤労会館 
   会場住所  柏市柏下66-1柏市保健勤労会館2階 ~北柏駅より阪東バス慈恵医大下車徒歩6分)

・日程:2014年11月9日(日) 10時開場、午前中はミニ講座「今日もこの城、映像が語る松ヶ崎城」、三味線がたり 

午前の部: 10 時 ~演奏等:バイオリン・フルート(アルペジオ)、三味線がたり(茗荷さん)
・午後の部: 講演会
・講演1: 13時~「松ヶ崎城の性格を考える」 講師:間宮正光氏 (千葉県文化財保護指導委員)
・講演2: 14 時 40 分~ 「伝承にみる手賀沼周辺 の城 」 講師:佐脇敬一郎氏 (柏市史編さん委員会参与)
・参加費:500円(15周年記念会誌、資料代など)

問合せ先 手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会
TEL:岸事務局長(04-7131-3036)
費用 500円(会誌代・資料代)
URL www.matsugasakijo.net

以下の動画もどうぞ。

松ヶ崎城紹介 ↓

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会紹介  ↓

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2014.08.02

手賀沼沿岸の風景

「手賀沼が海だったころ」 http://blog.matsugasakijo.net/ より転載。

--ここから

同じようなタイトルで、いくつか動画を作っていますが、どれも不発かもしれません。

今回は手賀沼沿岸といっても、柏市手賀、片山、下柳戸の3か所しか廻っていませんが、歴史散歩をしたときの写真を使って動画を作りました。 手賀城や旧ハリストス教会、そして北ノ作古墳、兵主神社など、見所も多い場所です。
なお、なぜかBGMは「ともしび」です。 ジャンルとしてはロシア民謡ではなく、旧ソビエト連邦の戦時歌謡でありますが、なぜか郷愁を感じさせます。 昔大学では、こういう歌がはやりました。 すくなくとも筆者の周りでは。
ともしび、心騒ぐ青春の歌、モスクワ郊外の夕べ、エルベ河など。。。 旧ソ連とのかかわりのある、日ソ協会の人たちだけでなく、一般のサークルや合唱団などでもこういう歌をよく歌っていたような気がします。 

今年で当会も創立15周年になります。 記念誌やらイベントなどの企画を推進中です。

--ここまで

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2012.12.30

復旧した庚申塔2

昨年、東日本大震災で受けた各地の庚申塔などの石造物の復旧を見てきたが、昨年末近くになって船橋市金堀の庚申塔が復旧されたことが分かった。 小室の庚申塔は割合はやくに復旧し、その後徐々に各地のものが復旧していったようである。

八千代市吉橋と尾崎の境目くらいにある吉祥院跡の庚申塔や石仏などは、復旧がやや遅かったようである。この吉祥院跡には優しい姿の寛文 8 年(1668)の勢至菩薩があるが、勢至菩薩も少し傾いた状態であった。しかし、今年の9月に行ったときには、倒れていたものや欠けていたものも含めて、石造物の修復がされ、コンクリートの台座に固定されていた。脇に「吉橋大師講 第一番札所」と刻まれた石塔が建っている。

<復旧した吉祥院跡の石造物>

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例の勢至菩薩はやはり傾いていたようであるが、特に損傷はなかったようである。以前は、見やすい場所にたっていたのだが、他の石造物とあわせて一つの土台に接地されたために、今度のは少し見づらい状態にある。前に小さな石仏があり、その石仏越しにみる形になったためである。

<優美な勢至菩薩像>

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少し窮屈であり、せめて石造物群が集められた場所の東側から北側の一列に並んだ、お地蔵様などの石造物のような形に配してほしかったと思った。

なお、この吉祥院跡とは吉橋の貞福寺の末寺である吉祥院があった場所で、大師堂が建っている。実は貞福寺がある場所には戦国時代に吉橋城があり、この吉祥院跡も城域である。周辺の低地に比べて半島状に少し高くなっており、櫓か何かがあったのかもしれない。

<東側の石仏群>

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それはともかく、各地の古い集落などにある庚申塔などの石造物が震災から復旧したことは、まだ集落の地力が残っていることを示している。時間はかかっても復旧したことは、やはり昔のものを大事にしていこうという地域の人たちの意思が働いているのだと思う。

ちなみに、近くの高本の農業協同館付近の石仏群も傾いたりしていたが、復旧し元の状態のように戻っていた。

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2011.05.05

東日本大震災の石造物への影響

先日、印西から車で帰る途中、普段通る八千代市の島田台から船橋市豊富のルートではなく、八千代市米本から吉橋を経て船橋市坪井に抜ける道を通って帰ったが、吉橋にさしかかったとき、ふと吉橋大師堂の勢至菩薩像を見てみたくなった。そこで、車をとめて、大師堂の石段をあがると、なんと石造物がいくつか倒れている。なかには、破片が落ちているものもあり、勢至菩薩まで心なしか斜めになってしまったようだ。

<斜めになってしまった勢至菩薩>

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石造物に詳しい方に聞くと、既に今年3月の段階で、八千代市郷土歴史研究会の活動として石造物の損傷緊急調査を行われたとのこと。また、その後の調査で墓地販売など石材店が関係している寺院は、修復が進んでいるが、地域で世話をしている小さな神社や無住仏堂のものなどは、地震後も修復がままならない状況とのことであった。

それで、にわかに気になった小生は、遅ればせながら各地の石造物はどうなっているのか、見て歩くことにした。といっても、小生の行動範囲は船橋から鎌ヶ谷、柏くらいであり、それも一部だけである。

船橋で自分が知っている石仏、石造物がいくつかまとまってある場所をあげると、海神の念仏堂の石仏など、前原の庚申塔群、薬円台の倶利伽羅不動境内の庚申塔など、楠ヶ山の庚申塔群、金堀の庚申塔群、小室の庚申塔群となる。これを実際どうなっているかまわって見てみた。

1.海神の念仏堂

ここは、もともと念仏堂の前の道路脇に石仏が並んでいたが、地震のおこるかなり前から石仏群は集約されてしまい、庚申塔と大きな地蔵は少し離れた場所にある。しかし、見た限りでは倒れたものもなく、損傷は受けていないようである。

<海神の念仏堂前>

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上の写真の古い石仏は、向かって左から宝永六年(1709)五月の片ひざをついた地蔵、享保四己亥(1719)五月の坐像の地蔵二体、文政十一子天(1828)二月の観音立像である。

念仏堂の横の道をガードをくぐった南側(行徳側)には、享保五庚子(1720)八月の地蔵と寛延二己巳年(1749)十月のいかにも派手な青面金剛像が並んでいる。良く見ると、その青面金剛像には牙が生えており、脇侍のように童子が刻まれている珍しいもの。これも無事であった。

<念仏堂の享保五年の地蔵と寛延の青面金剛像>

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2.前原の庚申塔群

成田街道から前原の道入庵の前で分岐する道を藤崎台方面に南下してすぐに、庚申塔が沢山ある場所がある。ここには、青面金剛の像容を刻んだ庚申塔が三基、他に文字庚申塔が40ほどあるが、特に倒れたものもない。特に中央の青面金剛像は、非常によく彫られていて、ショケラまで写実的である。

<前原の百庚申>

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この庚申塔群は、「百庚申」というが、実際にはそれほどの数はなく、40数基で、庚申塔以外に馬頭観音も同じ場所にある。もともと百基庚申塔があったのか、前からそんなにはないが、多いという意味で、「百庚申」といったのだろうか。また、像容庚申塔は享保、延享と言った年号が入っているが、小さな文字庚申には年号が入っていない。

ちなみに、成田街道を西へ行った札場にも、成田山の道標とともに、石仏群があるが、そちらのほうも震災では何ともなっていないようだ。

3.薬円台の倶利伽羅不動境内の庚申塔

倶利伽羅不動の本尊は見たことがないが、倶利伽羅不動の境内にいくつか石造物があるので、それは昔からよく見ている。今回改めて見に行ったが、元のままである。

宝暦六丙子(1756)十一月の青面金剛像は、やや平面的ながら、正面を向いた邪鬼やニワトリ、三猿と約束事は満たしているものの、手にショケラは吊り下げていない。

<倶利伽羅不動境内の庚申塔>

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4.楠ヶ山の庚申塔群

楠ヶ山は、集落が台地下にあり、台地の上は畑と墓地くらいしかない。最近は、廃品回収業者や新しい寺院などが、台地上に進出しているが、人家が余りないので、妙な感じがする。庚申塔群のある場所も、以前は山林のような場所だったのが、すぐ近くに廃品回収業者の広い作業場ができて、鉄のフェンスで囲まれている。

<楠ヶ山の庚申塔群>

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青面金剛像は宝暦十庚辰年(1760)十一月の作。台座ごとコンクリートで固められており、ここまでは問題なし。

5.大穴の庚申塚

楠ヶ山庚申塔群の数十メートル先にある庚申塚を見た時、遂に恐れていた事態となったと思った。塚の上にあった殆どの石塔が倒れており、中には真中で横一文字に割れているものもある。

<石塔が倒れた庚申塚>

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塚の前には真新しい浄土真宗の寺があるが、元々あった寺ではなく、当地に根を張ったものではないらしい。

この庚申塚は、どうなるのだろうか。

6.金堀の庚申塔群

楠ヶ山の隣、金堀にも庚申塔群がある。それはバス通りに面した場所で、民家に囲まれた一角である。ここは無事だろうかと心配になって、次にまわったが、やはり損傷を受けている。

<金堀の庚申塔群>

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真中の文字庚申の向かって右(安政四年(1857)の庚申塔)と写真では左端(実際にはその左も、いずれも明治期のもの)の石塔が倒れている。実はこの画像では分かりにくいが、後列の像容の庚申塔の向かって右端の正徳三年(1713)の青面金剛像は殆ど無事であるが、その左側にある明和元年(1764)のものは笠石がとれており、さらに左側の彫刻が素晴らしい延享元年(1744)の青面金剛像は倒れている。

聖徳太子のいわゆる太子講の石碑もあるが、それは無事であった。

7.小室の庚申塔群

一番気がかりであったのは、この庚申塔群であったが、案の定良くないことになっていた。土の上に直接建っていたからである。

この庚申塔群は日蓮宗系で「帝釈天王」などと刻まれているものが多いが、それがことごとく倒れるか、ずれる、傾くなどしていた。

<「帝釈天王」と刻まれた庚申塔群>

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<像容の庚申塔>

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像容の庚申塔も二基あり、こちらは一見損傷がないように見えるが、向かって右の享保十四己酉天(1729)十月の青面金剛像は以前背面が欠けたようで生々しい補修の跡があり、また少し傾いている。左の寛延四未年(1751)のものも多少台石とずれが生じている。

また八幡神社にまわってみると、古峰神社の碑が倒れていた。

<小室の八幡神社のなか>

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もしやと思ったが、悪い予感が当ってしまった。

繰り返しになるが、前出の石造物に詳しい方の話のように、今回の震災で倒壊するなどの被害を受けた石造物で、いち早くなおったものは、石材店などが出入りしている寺院などに限られ、無住の寺院のもの、小さな集落や個人が管理するもの、路傍にあるようなものは1ヶ月を経過しても、そのままになっている場合が多いようだ。土台が既に地域の人たちによって固められ、耐震対策が施されたものは、あまり被害がなかったようだが、そうでないものでは大きな影響をうけたものがある。

文化財指定の有無はともかく、貴重な先祖からの遺産は、打ち捨てるようなことがあってはならない。といって、自分ではどうにもできないが、早く復旧してくれるように願うばかりである。

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2011.04.14

手賀の歴史散歩と今井の桜

手賀沼沿岸地域をめぐって、去年は手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会主催で歴史散歩ということで、手賀の史跡を歩いた。手賀という地名を冠している手賀沼という名前からして、手賀は当地の主要な集落であったのだろうが、今は柏の市街地からは遠く、交通手段としては東武バスとコミュニティバスが走っているのみで、いささか鄙びた場所になっている。

しかし、手賀には、手賀廃寺という古代の寺院があったし、戦国時代には手賀原氏が手賀城を根城に当地を治め、その勢力は手賀沼対岸の南は現在の白井市名内から北は我孫子市に至った。そして、明治時代にはロシア正教が布教され、その教会は現在もある。ロシア正教の教会はハリストス教会と呼ばれる。手賀にある旧ハリストス教会は、農家の離れを改造したもので、一見とても教会には見えないが、当時はここに、洗礼を受けた地元の有力者が集い、祈りをささげたのである。現在の教会は別の場所にあり、司祭は横浜の教会と掛持ちだという。

<手賀にある旧ハリストス教会>

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新教会には、山下りんが描いたイコンがあるが、旧教会にはその複製が飾られている。といっても、旧教会の公開は水曜日と土曜日のみで、時間も限定されている。われわれが行ったのは、去年の11月で土曜日であったが、案内は地元のボランティアさんがしており、聞いたところ信者ではないとのことであった。しかし、当地にはロシア正教の信者が十世帯ほどいるとのことで、たしかに近隣の墓地には仏教式の墓石にまじって、十字架ではないが明らかにキリスト教とわかる文字の刻まれた墓石がある。

旧教会の内部は、普通の農家の居間とわずかばかりの土間があり、土間の窓は無双窓になっていた。案内のボランティアの人は、「水戸黄門のかげろうお銀が風呂に入っていると誰かが覗く例の窓」だと冗談を言っていた。風呂があったかどうかは分らないが、無双窓で煙を出したと思われるので、実際に風呂かかまどがあったかもしれない。この教会は、キリスト教が弾圧された戦時中には教会としては使用されず、疎開してきた人の住居になっていたという。

手賀城跡は集落のなかに断片的に残っており、台地全体を殆ど占有するような形で、往時にはかなり大きな城であったことが分かる。今興福院となっている場所が第二郭、その北の畑が第一郭ということである。よくこの第一郭のみが城跡だと思っている人がいるが、それは手賀城址の石碑があり、他に城跡らしい場所がないように見えるためか。しかし、手賀のバス停の北側の道沿いには土塁があり、住宅地のなかにも土塁がある。

<残存した土塁と堀跡(道になっている)>

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土塁で大きいのは第1郭の西側にある北の低地にむかって続く道沿いの土塁で、高さが3mほどある。その脇の道は、堀底道であり、今は生活道路として使用されている。この辺りは、道にクランクや曲がり角が多く、直線的に城の主要部にいくことができない作りになっている。面白いのは第二郭のすぐ南側に「陣屋」という屋号のある家があったり、明らかに手賀原氏の重臣の子孫だろうという名字の家が手賀の台地のなかに現存することで、分布を調べるとほぼ城域と重なった。また、それぞれの家が大きく、昔はそれぞれの家で馬を飼っていたり、結構豊かな暮らし向きだったようである。

興福院という真言宗の寺院は、古刹であることは間違いない。興福院は、寺伝や伝承によれば平安時代からあるというが、手賀廃寺との関連は不明である。しかし、本尊である十一面観音は室町時代以前の作であり、少なくとも室町時代には存在したのが推測できる。また十一面観音を祀っていることや、本堂にある九曜紋からみて、千葉氏系の寺であったであろう。これは戦国末期に当地で勢力を張った手賀原氏が来る以前からあったこと、原氏が信仰した曹洞宗ではないことから、手賀原氏が当地に来る以前の千葉氏系の勢力、おそらく相馬氏に関連性をもった寺だったのではないかと考えるのである。そうなると、南北朝期にはこの辺の相馬氏の領有関係が変わっていただろうから、鎌倉時代にはあったとみるべきか。

実は、この興福院と南蔵院のご住職は同じ方である。用事があって、南蔵院に行った折に、ご住職に興福院の創建は室町時代くらいですかと不躾な質問をしてしまい、もっと古いですと答えられたが、もっとだいぶ古い、お寺だったのである。

<興福院の本堂にあった九曜紋>

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手賀の歴史散歩では片山地区もまわり、北ノ作古墳やヨタイ観音を見学した。北ノ作古墳は、手賀沼沿岸の古墳ではもっとも古い部類の3世紀に作られたものとのことである。1号墳は方墳、二号墳は前方後方墳、あるいは1号墳も未発達な前方後方墳という。このあたりは、専門家ではないのでよく分からない。

面白いのは、ヨタイ観音。なぜヨタイ観音というのか、ご近所の人に聞いてもなかなかわからない。ご近所の老婦人は「ユーテイ観音」と呼んでいて、ますます分らなくなった。沼南町史によれば、祀ってある石仏が三十三観音の三十三体と花山院の一体をあわせて、三十四体あるので、ヨタイというとあった。十左衛門観音ともいうが、この観音堂の創建者が村田重左衛門という人であるので、そう呼ばれているらしい。こちらの方は、納得感がある。

この観音堂は、前記の老婦人によれば、村田家の所有になるもので以前は茅ぶきの屋根のお堂だったが、近年建て直したのだという。たしかに、お堂の建物は新しそうである。しかし、扁額は古いもので、宝暦二年四月吉日と日付が刻まれている。宝暦二年は1752年、今から259年前である。「西国三拾三所心願成就」とあり、西国三十三観音めぐりをしたことが、この観音堂の創建に関わっているようだ。

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その片山地区と手賀地区は台地の間に谷があり、それで隔てられているのみである。手賀城の城域は手賀地区に限られており、片山地区までは広がっていない。普通に家が建っている平場が、腰郭のあとだったりする。実は、手賀地区にある、大山、湯浅、今井、篠原、岩立といった名字の家は、手賀原氏の重臣の子孫のようだ。うち、台地下にある湯浅姓の家など、かなり大きいが、江戸時代は名主をつとめたという。的場が転訛したらしい、「松葉」という屋号の家もある。なぜか、そうした重臣の姓の家は、手賀地区に集中しており、それ以外にはあまりない。逆に、他地区から入ってきたと思われる姓の家は、手賀にも、別の地区にも分布している。

その手賀地区と片山地区の人たちが信仰する神社は、兵主八幡神社である。名前のごとく、兵主神社と八幡神社が合祀されたもので、祭神は兵主神社:大己貴神、八幡神社:応神天皇で文化14年(1817)に手賀村、片山村の両村の鎮守とされた。この参道は長く直線的なので、昔は手賀原氏の馬場として使われたとか、流鏑馬を行ったとされる。

<兵主八幡神社>

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兵主は、「ひょうしゅ」とか「ひょうす」と読むようであるが、兵庫県にある兵主神社は「ひょうず」神社と読むと思う。これは、嫁からおそわった数少ないことの一つである。もっとも、それはたまたま親戚が兵主神社の近くに住んでいたから知っていたにすぎない。そもそも、兵主神社は、兵庫県に多く、千葉県では、あるいは関東ではここだけかもしれない。

この南の県道沿いには森の中に手賀原氏の歴代の墓があるが、地元の人が定期的に掃除しているようできれいになっている。

歴史散歩の最後に、下柳戸の六所神社に行った。

ここは、南北朝時代からある集落であるが、戸数は少なく、県道に接する部分以外は、他の地区と接することがない。神社だけでなく、柳戸砦という砦跡がある。六所神社は、創建時期は不明ながら、国府斎場の形式で、柳戸が諸国往来の交流があった場所であったことを示すと言う。この神社と隣接する墓地を突き当りとする道が、この集落のメインストリートである。

その道を県道側に向かって戻ったとき、眼下に広がる今井の桜並木を見て、春にはさぞ美しく彩られるだろうと思った。

その後、しばらく忙しさにかまけて、そのことをすっかり忘れてしまった。 手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会の講演会が4月24日にあり、そのチラシを何ヶ所かに置いてもらった帰り、車で泉を通り、白井方面に出ようとした刹那、そのことを思い出して、今井に車をとめた。

<今井の桜>

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夕暮れ近く、陽が沈みかけていたが、川岸には大きなレンズのついたカメラを持った人たちが桜を撮っていた。もっと、時間があれば、と思うのだが、しばらくはどうにもならない。

なお、4月24日の講演会については、震災後の自粛ムードのさなかに行うことになった。それで、インターネットのイベント情報を取り上げたWEBサイトに掲載された案内が、先方の勘違いで勝手に中止という掲示にされてしまったり、事前準備ではよけいな雑音だらけであった。

講演会の内容については、近代の手賀沼の干拓計画に、地元の有望家である吉田甚左衛門や我孫子の杉村楚人冠らが生活環境を変え、景観を損ねるということで反対したという、郷土の歴史と環境の話である。講師は、旧沼南町の学芸員をしていた高野氏である。

場所は中央公民館を予約していたが、原発の問題で避難してきた人のために公民館を臨時の住居として市が提供しているので使えず、代わりにさわやかちば県民プラザの大研修室を借りた。身近な歴史で、手賀沼という環境の話であるから、分かりやすいと思う。

講演会の詳細は、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会のHP(以下がURL)をご覧頂きたい。

http://www.matsugasakijo.net/   

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2010.09.04

徳川家康と知多半島(番外:大高城に関する論文)

最近思い立って、大高城について論文というか、とにかく文章を書いた。それは、いままでネット上で書いたものは、何か論文等を書く場合の参考文献にならないことが多いと、知人から教えられたのと、城跡について自分の所属する地域の会の会報くらいにしか、実際紙の資料としては書いたことがなかったからである。それで、以前から関心のあった大高城について論文を書き、愛知中世城郭研究会の論文集「愛城研報告」に載せてもらおうと思ったのである。それにしても、なぜ、千葉県に住んでいるのに、愛知のことが気になるのか。自分の先祖が、あちらの人間だからであろうか。

大高城を最初に訪れた時は、歴史上有名な城なのに、遺構らしいものといえば、本丸の西南側にある堀くらいで、あまり面白くないと思っていたが、大高の地理的な位置付けや、今川義元が大高を是非ともおさえるべく、桶狭間合戦の際にも大高を目指していたことなどを知り、後からいろいろな関心が湧いてきたといえるだろう。

<大高城の一角にある土塁の名残>

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ところで、関東にいて愛知県の遺跡や歴史について論文を書こうとすると、まず困るのが文献である。以前、愛知県に住んでいた時は、自分の住所からも近い阿久比の図書館にいけば、殆どの愛知県内の市史や地域史関連の資料を閲覧することができた。阿久比になければ、常滑か半田の図書館を探せば大抵のものはあったと思うし、水野氏関連なら東浦町や刈谷市の郷土資料館に行けば、何かあったのある。小生は、刈谷まで行って、なぜ刈谷城は亀城といったのかと、変な質問をしたことがあるが、そういう質問にも資料館の人は親切に答えてくれる。

<大高城の北側>

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しかし、関東では文献がなかなかない。国会図書館にいくしかないか、と思っていたが、意外にも会社の近くからバス一本で行くことのできる、有栖川宮記念公園にある東京都図書館に、結構愛知県に限らず地方史関連の本があることが分った。それで、論文を書きはじめた今年の6月以降、ときどき帰りに東京都図書館に行って文献を読むことになった。また、東京都図書館になく、国会図書館にはマイクロフィルムでしかない、大高城についての古い冊子は、いくつかの愛知県内の図書館にあることが分ったが、そのために愛知県に行くのも大変であり、幸い通信販売もしている刈谷の古書店にあることが分ったので、郵送してもらった。

また、当然のことながら、愛知県在住時には時々現地に行ってみてくることが出来たが、もはやそれができなくなり、結局以前行った時の記憶に頼って文章を書くことになった。大高城にたどり着くまでの、道幅の狭さ、春江院などの周辺の寺院や街並み、書いているうちに記憶がいろいろ記憶が甦った。

ところで、文献をあたったなかで、図などを論文中で使用したいものがあり、それについては文献の発行元に使用許可をとることになった。小生の場合は、愛知県教育委員会、愛知県図書館、蓬左文庫の3か所から使用許可を得た。

ちなみに、以下が許可申請で提出したものである。

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      複写・複製物の使用(図版掲載・展示等)許可申請書

                                                                            平成22年6月24日

愛知県知事殿

                    申請者 氏 名  XXXX        

                            住 所 XXX・・・X

                                                        XXX-XXXX

                        電話番号   XXX・・・X

下記のとおり申請します。

1 使用する資料名 

  『愛知県中世城館跡調査報告 1 尾張地区』

   上記資料の P140 地籍図58

         P233  第6図 大高城

         P281  5. 知多郡大高村古城絵図(蓬左文庫蔵) 

                               を論文中に転載いたしたく

2 複製物の使用目的および掲載資料名(展示の場合は期間・場所)

    大高城に関する城郭研究論文のなかで、論考の資料として使用する

  掲載資料は、「愛城研報告」第14号 (愛知中世城郭研究会 発行)

 

 (以下、3.複製の方法、4.使用条件を記載していたが、省略)

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なお、水野氏史研究会の水野青鷺さんには、非常にお世話になり、そのご教示があったので、何とか論文として完成したかと思う。愛知中世城郭研究会の石川さん、奥田さんにも、原稿の書き方その他を教えて頂き、お世話になった。

出来あがったものは、多少長くなったために、愛知中世城郭研究会のほうで2つに分割し、前半を「愛城研報告」第14号、後半を同第15号に掲載するとのことであった。

<「愛城研報告」第14号の表紙>

Aijyouken01

完成した原稿を送ったのが7月10日過ぎ、8月に入り、「愛城研報告」第14号が送られていた。早速、水野青鷺さんに一部送り、画像等使用申請を出した愛知県教育委員会、愛知県図書館、名古屋市蓬左文庫には成果物一部を寄贈することが使用許諾条件になっていたので、各一部を提出した。

愛知県教育委員会は、愛知県庁の西庁舎の中にある。西庁舎は何の変哲もない少し古いビルであるが、住所は中区三の丸で、文字通り名古屋城の三の丸跡にあるのである。たまたま平日が会社の休みとなり、東京から名古屋までトンボ帰りで行ってきたのだが、途中県庁から名古屋城の掘端を歩いた。うっそうとした木々の匂い、子供のころの夏の記憶が少しく甦った。

県図書館を出ると、近くのバスからバスに乗って徳川町へ行き、蓬左文庫へ。徳川園まで来ると、門のあたりは以前来たときと変わっていないように思ったが、徳川美術館の建物は昔来た時の建物ではなく、小さなビルのようになっていた。蓬左文庫で職員の方に、「愛城研報告」第14号を寄贈すると、徳川美術館で大名古屋城展をやっているので、是非見てくださいと勧められ、展示を見た。正面に徳川家康がお気に入りだったという白糸縅の鎧兜が飾られていた。茶道具などは見てもよく分からないが、金梨地に蒔絵の道具類、葵の紋が模様としてあしらわれ、内部にも絵が描かれた駕籠などは、一目で贅をこらした大名のものと分かる。ショップでは、空襲で焼失した名古屋城天守閣のオリジナルの姿を伝える、古写真のコピーが絵葉書になっていたので買い求めた。

<名古屋城の堀>

Hori

思えば徳川美術館にも蓬左文庫にも、随分久しぶりに来た気がする。もしかすると、20年以上来ていないのではないだろうか。帰りに新出来のバスの乗り場で、居合わせたおばあさんにバス料金のことを聞かれたのだが、小生のように瞬間的に戻ってきた人間に聞かないでほしかったなあ。

名古屋の新出来辺りのバスが道路の内側の車線を走り、道路の真ん中にバス停があるのも、今まで何度も見ていた筈なのに新鮮に見えた。

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2010.07.19

松ヶ崎城跡の植物

この連休中に、松ヶ崎城跡の植物のなかで安易に草刈りしてはいけないものを識別すべく、自然環境のグループに来て頂き、見て歩いた。

アキノタムラソウ、ジュウニヒトエ、コムラサキ、ヒヨドリバナ、ヤマユリ・・・

去年びっしりと斜面に生えていたキイチゴは、今でもあるが、かなりすくなくなった。

Kiichigo

<キイチゴ>

自分は、高校の時、理系であったが、クラスでドクダミを栽培していた。ドクダミには、その後もお世話になった。だから、ドクダミだけは自信をもって識別できるが、サンショウとシダなど、匂いを嗅いでみないとよく分からないし、そもそもミズヒキなど見ても分からない。ミズヒキでも、キンミズヒキというのは普通のとは別物らしい。

Akinotamurasou

<アキノタムラソウ>

それにしても、ヤマユリは神々しいほどで、ぎざぎざした花弁が印象的である。

Yamayuri

<ヤマユリ>

今日は、南側虎口に咲いているヤマユリのまわりを大きなクロアゲハが飛んでいた。

今後まだ詳細は決まっていないが、植物の観察会を開こうと考えている。歴史については、5月に歴楽会という講座のようなものを立ち上げた。その間、大高城に関する論文を書こうとして、水野氏史研究会の水野青鷺さんにご迷惑をかけたが、それなりにやってきた。しかし、自然環境については、まだこれからで、ようやく話の糸口を見つけたくらいかもしれない。

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2010.04.24

千葉大園芸学部でプレゼンを行う

先日、柏の葉里さくらまつりの第一会場である柏の葉の千葉大園芸学部千葉大学環境健康フィールド科学センターにて、柏の葉里さくらまつりのシンポジウム、市民団体の発表などが行われ、小生所属の松ヶ崎の会からはYさんと小生が出て報告やパネルディスカッションを行った。いささか、場違いの感があったが、たまたまこの2月から3月に松ヶ崎城跡の植樹を行い、柏市長と懇談したり、目録や桜の枝の贈呈式があったりして、その関係で呼ばれたのである。

市民と大学との連携では千葉大、カレッジリンク、かしはなプロジェクト、市民団体では当会とピースメーカーズ、NPO法人こんぶくろ池自然の森が報告を行ったが、来ている人は千葉大関係者、県・市の役所の人と市民団体関係者、植物に興味のある人などで、全部で80人くらいだったように思う。

<NPO法人こんぶくろ池自然の森の報告>

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千葉大安藤教授の基調講演は、桜に関する様々な研究、ソメイヨシノはなぜそう呼ばれるか、あるいはオオシマザクラとエドヒガンザクラのなかのコマツオトメ系の品種との交配で生まれたことを証明する話などで、アントシアニンとか塩基配列とか、昔高校の化学か生物の授業で習ったような用語がいろいろ出てくるが、35年以上前のことゆえすっかり忘れているので、一部よく分からないところがあった。これでも、理系出身なのだが。安藤教授の話の後、しばらく別の講演者から大学との連携の話が終わった後に少し休み時間があり、いきなり10人くらいがいなくなった。どうも、その人たちは安藤教授の話を聞きに来たらしい。

休み時間の後、さっそく小生のプレゼンの時間となった。 少し遅れて会場に入ったために、メモリースティックに入れて持ってきたパワーポイントのデータをPCに格納して、たまたま持っていた会のビデオをDVD化したものをPCにセットした。柏市の公園管理課の人たちは、遅れて会場に入った小生たちには冷や冷やしたに違いない。どうもすみませんでした。ちなみに、PCへのデータのセットは課長自らやってくれた。

講演は2人で交代して実施、前半の小生の話は、歴史の話とか、会の活動についてで、多分会場の人たちにとって興味はあまりないものと思われた。後半Yさんが話した植樹については、会場のテーマとあっていただろう。

そもそも、この里さくらまつり自体、柏の葉に八重桜の並木道をつくるというのが主眼で、官民と大学あわせてのプロジェクトになっており、民とは三井不動産とTXである。産官学のプロジェクトと言う訳だ。

三井は、この辺には縁が深い。柏の葉は、もともとは幕府の牧のひとつ、高田台牧があったところで、明治新政府が主導した開墾があり、東京窮民や近在農家の次三男が厳しい環境と戦って開拓していったところである。その明治新政府の開墾で、開拓会社が作られたが、その開拓会社を実質的に支配する政商たちが大地主で、開拓民は小作農という関係が続き、明治新政府の不手際もあって、初期の東京窮民を中心とした開拓民は多くが脱落、わずかに残った初期開拓民と途中で開拓に加わった近隣農民の手で開拓は成し遂げられた。このように開拓会社は政商を中心としたが、そのなかに三井が入っていた。大隈重信も大地主であったが、明治期の古い地図には大隈の屋敷がのっている。巨大な屋敷が十余二の開墾地にあったわけだ。

今も、高田原開拓碑が柏市十余二のバス停近くに、厳島神社があるが、その小さな境内に、「高田原開拓碑」という石碑がたっている。これは昭和29年(1954)8月に建てられたが、この碑文は以下の通りである。

<「高田原開拓碑」>

Kaitakuhi

「当地は元小金原高田台牧也

明治二年より入植開拓せり初期入植者は自作農たるべき筈の処大隈及鍋島等の所有となりて八十余年昭和廿二年来の農地改革により初志貫徹すべて入植者の有に帰す」

その土地の管理は、三井組代理人であった市岡晋一郎という人物がしていたらしい。陸軍の飛行場になってからも三井が関係していたという説があるし、それが戦後ゴルフ場になってからは、三井のゴルフ場で三井資本は当地にあった。

十余二、高田原の開拓住民の運動の先頭にたった石塚与兵衛は、農民たちを糾合し裁判闘争に明け暮れ、何度も財産を強制処分されたにも関わらず、周囲の人たちに支えらた。そして80年もの歳月が過ぎ、遂に入植者の勝利となった。近くの豊四季でも同様な入植者の苦闘があり、農民の内職であった木釘の生産を記念した「木釘の碑」などがある。

こういう経緯は、柏の葉一帯に住むマンションや新しい一戸建ての新住民は、知っているのだろうか。

すこし、話が脱線したので、元に戻すと、ともかくも市民団体の講演というのが終わり、千葉大の先生の司会でパネルディスカッションを行ったが、すこし余計な話をしたようだ。後でYさんから、余計なことは言わないようにと言われた。

しかし、きれいなパンフレット、ヨーロッパのガーデニングのような話と当会の植樹のような泥臭い話は、大きな落差がある。小生個人は、他団体の発表で共感できるのが、こんぶくろの池の話くらいで、あとは余りに優等生的で、多少違和感を感じた。

ただ、帰り際に、小生にたいして平将門伝説について質問してきた人がいたのは、意外というか、自分のテリトリーの話が出来て、少しほっとした。

<最後に行われた八重桜並木寄贈式>

Kasiwanoha2

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2010.03.08

船橋の富士塚

先日、柏市のある団体の依頼で、ちょっとした講演を行ったときに、丸い塚状の土盛りが古墳であることがなぜ分かったかという質問があった。それは、発掘でその塚の周りに周溝という溝があったことで、古墳の周りには必ず周溝があるから、古墳と分かったと答えた。

確かに、古墳の円墳と、中世の塚、江戸時代からの富士塚は、よく似ている。富士塚も石碑や祠などがないと、ただの塚のように見える。もしかすると、後世富士塚とされたものも、もとは古墳や中世の塚だったものもあるかもしれない。しかし、よく富士塚には溶岩でできたものや、大部分土で出来ていても溶岩が転がっているものがある。

そもそも、富士塚は富士信仰による富士登山を行っていたのが、なかには高齢だったり、病身だったりして、本当の富士山にまで行けない人のために、富士山の溶岩などで、ご近所の神社の境内などにミニチュアを作り、地元にいながらにして富士登山が出来ることを目的としてつくられたという。やはり、既存の古墳や自然の地形を利用することは、しばしば行われたらしい。そうすると、古墳と富士塚の複合遺跡というのもありうるわけである。

ちょっと富士塚を確認してみようと思い、ふと出身高校の近くに江戸時代には「茂侶浅間神社」と呼ばれていた茂侶神社があることを思い出し、車を飛ばして行ってきた。しかし、富士塚と思われるものが見当たらない。なお、この茂侶神社は、戦国時代の花輪城という城跡に建っており、堀の跡や土塁の痕跡がわずかに残っている。

賽銭箱についている神社の紋は、棕櫚葉。これは浅間神社の紋であり、形は、天狗が持っている団扇と同じである。

茂侶神社の縁起によれば、

「当茂侶神社の起源は古く、延喜式神明帳に『下総国葛飾郡二座茂侶神社・意富比神社』とあり、今を去る千六十年前すでにこの地に鎮座されていたのであります。愛媛県越智郡瀬戸内海大三島、祭神は阿多の豪族大山祇神の姫御子で日本の女性の表徴である木花開耶姫を祀り、古来、縁結び・安産子育ての神として地元民の崇敬する処でありました。
摂社として祭神の姉命磐長姫を祀り、御嶽神社と申して居ります。
三代実録に清和天皇の貞観十三年十一月十一日、下総国従五位下茂侶神に従五位上を授くとありました。
陽成天皇の元慶三年九月二十五日、下総国正五位下茂侶神に正五位上を授くとあります。西北にある湧水は『天の真名井』と称する当社の神泉であります。江戸名所図会によれば年の始に隔年この神域より柳営に根引若松を選び上納する旧例とあります。古来例祭は旧暦六月一日に行います。」とある。

<茂侶神社>

Morosengen2

木花開耶姫を祀ることも、浅間神社と同じである。また、この茂侶神社は、砂山浅間神社とも呼ばれていた。砂山というのは、この辺りの砂岩質の土地からきた地名である。では、なぜ「茂侶神社」を名乗るのだろうか。茂侶神社は、奈良県の三輪山の前の名前である御諸山(みもろやま)の「諸(もろ)」から、その名前が付けられたという。実際、松戸、流山にある茂侶神社は、祭神が御諸山に祀られていたという大物主命である。船橋の茂呂神社だけが、浅間神社とも呼ばれ、祭神が木花開耶姫命であるということは何を意味しているのだろうか。

実は、境内に一つ社があり、これを御嶽神社と書いているHPなどもあるが、浅間社である。砂山浅間神社とは、本来この浅間社をいうのだろうか。推測であるが、茂侶神社は「江戸名所図絵」にのっているのだから、それが書かれた天保年間当時から当地にあった筈であるが、その前は別の場所にあって花輪城という戦国時代の城跡に移転したものと思われる。その際に浅間神社と一体となったのではないだろうか。浅間社の鳥居の向かって右横が多少高くなっているが、そこはその地に戦国時代に城があった時の櫓台の痕跡だという。これを富士塚に見立てていたのだろうか。そうだとしても、かなり小さいであろう。

なお花輪城は、大正時代に書かれた文書によれば、茂侶神社の境内から東の住宅地内に城跡が展開していた。今や、堀跡がかろうじてある程度で、遺構が殆ど残っていない。その花輪城という城の性格は、南に上総道、また鎌倉街道がすぐ西を通っていることから、交通の要衝をおさえるものに他ならないが、誰がいつ築城したかなど、詳しい史実が明らかになっていない。

しかし、鳥居横の高くなっている部分は、余りにも目立たない。道を作った時のあまった土を盛ったのかと思う。

<境内にある浅間社>

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この茂侶神社は、船橋大神宮の摂社で、正月に大神宮を飾る若松は、この境内から切り出されていた。小さな神社ではあるが、昔は「江戸名所図絵」にのるほど富士、房総、筑波を望む眺望の良い場所で名所であった。あるいは、富士が見えるために、浅間社が出来、本物の富士山が見えるので、あえて富士塚も作らなかったのだろうか。

<江戸名所図絵にかかれた茂侶神社>

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結局、茂侶神社には明確な富士塚がなかったので、東へ中野木の八坂神社に行くことにした。前に行ったときは、富士塚の写真に変な光が入り込み、うまく撮れなかったので、リベンジである。

<中野木の八坂神社の富士塚>

Nakanogi_yasaka

中野木の八坂神社の富士塚は、木の根っこが張って、それが階段代わりになって登ることができる。上にある石祠は、前回字を読むことが出来なかったが、今回一字目が「仙」であることが分かった。「仙元宮」とでも彫ってあったのだろうか。また、中段にある石碑には「登山記念碑」とあり、裏面に参加者や先達何某と名前が彫られている。

また、飯山満にある大宮神社には、溶岩積みのようで、形も整っているようである。しかし、どうみても新しく、「危険だから登るな」と書いた看板があり、この富士塚に登るのはやめておこう。

<飯山満・大宮神社の富士塚>

Hazama_oomiya2

富士塚の脇に石碑が嵌めこまれており、それを見ると昭和3年(1928)とある。道理で新しそうに見えたわけだ。富士塚としては、新しい部類であろう。

<大宮神社の富士塚の石碑>

Hazama_oomiya3

他にも周辺の神社に富士塚はあるのだろうが、小生が知っているのは、夏見の稲荷神社にあるもの。その稲荷神社の東側には長福寺という古い曹洞宗の寺院があり、その境内の一角には、夏見城の郭跡が残っている。

稲荷神社の道を挟んですぐ隣の長福寺墓地は平坦に整地され、現在遺構が見られないが、かつては土塁の痕跡が長く続き、その延長には、北西側にある道を挟んだ稲荷神社の境内にある土塁が続いていたという。稲荷神社に現存する土塁の残欠は、江戸期に今のような富士塚にされたと思われる。それは2m位の高さの土塁の残欠であり、富士塚に仕立てられたために、石段が敷設され、頂上に円盤状の石碑が建てられている。

<夏見の稲荷神社の富士塚>

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<富士塚の上の石碑>

Natsumi_inari2

この円盤状の石碑には、「不二」「八行」と刻まれている。富士塚の下の石碑には、「浅間大神」と大書された文字と、山の図柄の下に割菱の紋が刻まれている。これは富士講のうちの割菱八行講のものでろうか。この稲荷神社の富士塚の周辺は石碑が多いが、いずれも文字が磨滅して読みにくい。通りかかった人が「写真撮っているのか」と声をかけてきたが、その人に聞いても明治大正頃のものだろうがはっきりとは分からない。「管理するひとがいないだべ」と船橋弁で答えてくれた。

日が暮れてきたので、これ以上の探索は諦めて帰途に就いた。もっと、富士塚は周辺にあると思うが、そして実際に登ったこともあるのだが、どこだったか思い出せない。その時記録しておかないと、忘れてしまうことが最近は多いので困ったものである。いずれ機会があれば、また探索したい。

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