カテゴリー「遺跡」の28件の記事

2014.10.05

11月9日(日)に手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会15周年記念講演会 開催!

Nishikoguchi


手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会よりお知らせ

 

平成16年に柏市文化財と指定された松ヶ崎城跡。文化財保護の各種活動や地域の皆さんのご尽力により保存されてきました。城跡保存を目的とした当会も15周年を迎え、この機会に記念講演会を行います。

この松ヶ崎城跡は、首都圏では珍しく遺構がよく残った城跡です。今回、当会創立15周年記念として、研究者お二人にご講演をお願いし、松ヶ崎城はどんな城だったのかを再度検証するとともに、周辺城跡の歴史を含めた興味深いお話を語っていただこうと思います。 午前中も「今日もこの城、松ヶ崎城」のミニ講座やバイオリン・フルートのアンサンブル演奏、三味線がたりがあります。皆様、お気軽に。

  
・会場:柏市勤労会館会議室・研修室(柏市柏下66-1柏市保健勤労会館2階) ~北柏駅より阪東バス慈恵医大下車徒歩6分 
・日程:2014年11月9日(日) 10時開場、午前中はミニ講座「今日もこの城、松ヶ崎城」、バイオリン・フルート演奏、三味線がたり 

 講演会は、12時50分開演~16時10分頃まで  
・講演1: 13時~「松ヶ崎城の性格を考える」 講師:間宮正光氏 (千葉県文化財保護指導委員)
・講演2: 14 時 40 分~ 「伝承にみる手賀沼周辺 の城 」 講師:佐脇敬一郎氏 (柏市史編さん委員会参与)

・後援:柏市教育委員会

・参加費:500円(15周年記念会誌、資料代など)
・その他:申込不要。 お問合せは、info@matsugasakijo.net まで。勤労会館自体の駐車場は限られていますが、体育館裏に広い駐車場があります。

<「古城の丘にたちて」外伝より転載>

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2013.10.19

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会紹介動画

ブログ「手賀沼が海だったころ」より転載。

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会は、千葉県柏市の松ヶ崎城跡の保存を目的として1999年に市民有志によって創立された団体です。
本会は、手賀沼と松ヶ崎城を中心とした、地域の身近な歴史を研究する中で、見失われがちな地域の文化を再認識し、再構築すること、および史跡と周囲の自然環境を一体として捉える『歴史的自然環境』を街づくりに活かすこと、をめざして活動しています。
経済成長とともに急激な開発がなされ、消滅したものが多い千葉県東葛地域の中で、今あるものを良い形で未来へ残し、伝えていきたいと思っています。

歴史シンポジウム
「手賀沼が海だった頃-松ヶ崎城と中世の柏北域
1999年シンポ

2009年の城跡見学会
2009年見学会

会の紹介動画 ↓


会のHPはコチラ 
→ http://www.matsugasakijo.net/

(ここまで)

なお、動画に出てくる女性は小生の知人で、元アナウンサー。 千葉氏のリポートを仕事でしたことがあるだけでなく、いろいろ歴史や文化財に縁のある方でもある。

今まで写真や動画も知り合いに頼んで来たし、身内ばかりで制作しているようで、恐縮である。

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2011.07.04

門前の小僧習わぬ植物観察会

小生の入っている地域の会の事務局長だった方がなくなって、もうすぐ1年になります。

城跡の植物を含めた保全というテーマは、大変重く、植樹はしたものの、これからどうしていくか、歩きながら考えるしかありません。

門前の小僧習わぬ経を読みではありませんが、習わぬ植物観察会を今度7月16日(土)の午前中に予定しています。しかし、よりによって歴史、それも無粋な中世の戦乱や城跡に興味があり、野にある植物の名前といえば、ドクダミとその他数種類しか知らないような自分が植物観察会を主催するとは、どういうめぐりあわせでしょうか。

<キンラン>

Kinran

*この記事は「古城の丘にたちて」外伝の記事の転載です

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2011.05.05

東日本大震災の石造物への影響

先日、印西から車で帰る途中、普段通る八千代市の島田台から船橋市豊富のルートではなく、八千代市米本から吉橋を経て船橋市坪井に抜ける道を通って帰ったが、吉橋にさしかかったとき、ふと吉橋大師堂の勢至菩薩像を見てみたくなった。そこで、車をとめて、大師堂の石段をあがると、なんと石造物がいくつか倒れている。なかには、破片が落ちているものもあり、勢至菩薩まで心なしか斜めになってしまったようだ。

<斜めになってしまった勢至菩薩>

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石造物に詳しい方に聞くと、既に今年3月の段階で、八千代市郷土歴史研究会の活動として石造物の損傷緊急調査を行われたとのこと。また、その後の調査で墓地販売など石材店が関係している寺院は、修復が進んでいるが、地域で世話をしている小さな神社や無住仏堂のものなどは、地震後も修復がままならない状況とのことであった。

それで、にわかに気になった小生は、遅ればせながら各地の石造物はどうなっているのか、見て歩くことにした。といっても、小生の行動範囲は船橋から鎌ヶ谷、柏くらいであり、それも一部だけである。

船橋で自分が知っている石仏、石造物がいくつかまとまってある場所をあげると、海神の念仏堂の石仏など、前原の庚申塔群、薬円台の倶利伽羅不動境内の庚申塔など、楠ヶ山の庚申塔群、金堀の庚申塔群、小室の庚申塔群となる。これを実際どうなっているかまわって見てみた。

1.海神の念仏堂

ここは、もともと念仏堂の前の道路脇に石仏が並んでいたが、地震のおこるかなり前から石仏群は集約されてしまい、庚申塔と大きな地蔵は少し離れた場所にある。しかし、見た限りでは倒れたものもなく、損傷は受けていないようである。

<海神の念仏堂前>

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上の写真の古い石仏は、向かって左から宝永六年(1709)五月の片ひざをついた地蔵、享保四己亥(1719)五月の坐像の地蔵二体、文政十一子天(1828)二月の観音立像である。

念仏堂の横の道をガードをくぐった南側(行徳側)には、享保五庚子(1720)八月の地蔵と寛延二己巳年(1749)十月のいかにも派手な青面金剛像が並んでいる。良く見ると、その青面金剛像には牙が生えており、脇侍のように童子が刻まれている珍しいもの。これも無事であった。

<念仏堂の享保五年の地蔵と寛延の青面金剛像>

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2.前原の庚申塔群

成田街道から前原の道入庵の前で分岐する道を藤崎台方面に南下してすぐに、庚申塔が沢山ある場所がある。ここには、青面金剛の像容を刻んだ庚申塔が三基、他に文字庚申塔が40ほどあるが、特に倒れたものもない。特に中央の青面金剛像は、非常によく彫られていて、ショケラまで写実的である。

<前原の百庚申>

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この庚申塔群は、「百庚申」というが、実際にはそれほどの数はなく、40数基で、庚申塔以外に馬頭観音も同じ場所にある。もともと百基庚申塔があったのか、前からそんなにはないが、多いという意味で、「百庚申」といったのだろうか。また、像容庚申塔は享保、延享と言った年号が入っているが、小さな文字庚申には年号が入っていない。

ちなみに、成田街道を西へ行った札場にも、成田山の道標とともに、石仏群があるが、そちらのほうも震災では何ともなっていないようだ。

3.薬円台の倶利伽羅不動境内の庚申塔

倶利伽羅不動の本尊は見たことがないが、倶利伽羅不動の境内にいくつか石造物があるので、それは昔からよく見ている。今回改めて見に行ったが、元のままである。

宝暦六丙子(1756)十一月の青面金剛像は、やや平面的ながら、正面を向いた邪鬼やニワトリ、三猿と約束事は満たしているものの、手にショケラは吊り下げていない。

<倶利伽羅不動境内の庚申塔>

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4.楠ヶ山の庚申塔群

楠ヶ山は、集落が台地下にあり、台地の上は畑と墓地くらいしかない。最近は、廃品回収業者や新しい寺院などが、台地上に進出しているが、人家が余りないので、妙な感じがする。庚申塔群のある場所も、以前は山林のような場所だったのが、すぐ近くに廃品回収業者の広い作業場ができて、鉄のフェンスで囲まれている。

<楠ヶ山の庚申塔群>

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青面金剛像は宝暦十庚辰年(1760)十一月の作。台座ごとコンクリートで固められており、ここまでは問題なし。

5.大穴の庚申塚

楠ヶ山庚申塔群の数十メートル先にある庚申塚を見た時、遂に恐れていた事態となったと思った。塚の上にあった殆どの石塔が倒れており、中には真中で横一文字に割れているものもある。

<石塔が倒れた庚申塚>

Kusugayama_0504

塚の前には真新しい浄土真宗の寺があるが、元々あった寺ではなく、当地に根を張ったものではないらしい。

この庚申塚は、どうなるのだろうか。

6.金堀の庚申塔群

楠ヶ山の隣、金堀にも庚申塔群がある。それはバス通りに面した場所で、民家に囲まれた一角である。ここは無事だろうかと心配になって、次にまわったが、やはり損傷を受けている。

<金堀の庚申塔群>

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真中の文字庚申の向かって右(安政四年(1857)の庚申塔)と写真では左端(実際にはその左も、いずれも明治期のもの)の石塔が倒れている。実はこの画像では分かりにくいが、後列の像容の庚申塔の向かって右端の正徳三年(1713)の青面金剛像は殆ど無事であるが、その左側にある明和元年(1764)のものは笠石がとれており、さらに左側の彫刻が素晴らしい延享元年(1744)の青面金剛像は倒れている。

聖徳太子のいわゆる太子講の石碑もあるが、それは無事であった。

7.小室の庚申塔群

一番気がかりであったのは、この庚申塔群であったが、案の定良くないことになっていた。土の上に直接建っていたからである。

この庚申塔群は日蓮宗系で「帝釈天王」などと刻まれているものが多いが、それがことごとく倒れるか、ずれる、傾くなどしていた。

<「帝釈天王」と刻まれた庚申塔群>

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<像容の庚申塔>

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像容の庚申塔も二基あり、こちらは一見損傷がないように見えるが、向かって右の享保十四己酉天(1729)十月の青面金剛像は以前背面が欠けたようで生々しい補修の跡があり、また少し傾いている。左の寛延四未年(1751)のものも多少台石とずれが生じている。

また八幡神社にまわってみると、古峰神社の碑が倒れていた。

<小室の八幡神社のなか>

Omuro_hachiman_0503

もしやと思ったが、悪い予感が当ってしまった。

繰り返しになるが、前出の石造物に詳しい方の話のように、今回の震災で倒壊するなどの被害を受けた石造物で、いち早くなおったものは、石材店などが出入りしている寺院などに限られ、無住の寺院のもの、小さな集落や個人が管理するもの、路傍にあるようなものは1ヶ月を経過しても、そのままになっている場合が多いようだ。土台が既に地域の人たちによって固められ、耐震対策が施されたものは、あまり被害がなかったようだが、そうでないものでは大きな影響をうけたものがある。

文化財指定の有無はともかく、貴重な先祖からの遺産は、打ち捨てるようなことがあってはならない。といって、自分ではどうにもできないが、早く復旧してくれるように願うばかりである。

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2010.12.31

今年1年を振り返って

今年はとにかく忙しい1年だった。

「公私ともに」と言いたいところであるが、「私」の部分は余りないのである。しようもないかもしれないが、時系列で出来事を追っていくと以下の通りになる。

1月 

柏市松ヶ崎城跡の植樹について、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会では樹木里親制度を考案し、市民有志を募集。小生は当時副会長。

2月

柏ロータリークラブが、松ヶ崎城跡に植樹(約70本) 

松ヶ崎城跡の市民有志による植樹(50本)の準備を行う。本来は、28日に植樹&記念式典を行う予定であったが、雨天により中止。植樹自体は、翌3月1日に地元の造園業者の手によって行われた。

28日は柏に用事がなくなり、船橋の飯盛り大仏を見に行く。

<飯盛り大仏>

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3月 

3日、柏市の秋山市長に対して、松ヶ崎城跡植樹樹木の目録などを贈呈する贈呈式に 出席(朝日新聞に掲載される)。

<贈呈式:右が秋山浩保市長>

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31日、長年つとめた鉄鋼メーカーを退職、子会社に移籍となる(その前に永年勤続者むけの旅行に三河湾に行くが、結局岡崎あたりをブラブラして帰ってきた)。

4月

4日、柏飛行場跡の周辺調査で、ロケット戦闘機秋水の燃料貯蔵庫跡を発見(これは後で手賀の湖と台地の歴史を考える会により、記者会見(7月)、説明会(8月)が行われ、読売、朝日、毎日、千葉日報の各紙が掲載)。

その後、戦争遺跡は、柏近辺をまわっただけで、今年はあまり活発にまわることがなかった。

<秋水地下燃料庫を発見した直後の様子と燃料庫内部>

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18日、柏の葉キャンパ.ス駅に近い千葉大での「柏の葉里さくらまつり」シンポにパネラーとして参加。

29日、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会総会にて会長に選出される。講演会は「保存運動から見た東葛の城と松ヶ崎城」というタイトルで、地域史研究家の田嶋昌治氏が講師。

<講演会のチラシに使った見学会の写真>

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5月

30日、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会の活動として、歴楽講座を開催(現在も続いている)。

6月

大高城に関する論文を書くため、7月まで東京都立中央図書館(有栖川宮公園)に通う。論文執筆の資料に関して、水野氏史研究会の水野青鷺氏にお世話になった。

7月

4日、松ヶ崎城跡にて、植樹里親記名板除幕式。柏市教育委員会や柏ロータリークラブ、ボーイスカウトから来賓。除幕式は里親をはじめ、関係者80名ほど参加。

<松ヶ崎城跡の除幕式>

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中旬  手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会で事務局長を務めたH氏が病気のため逝去。

8月

大高城の論文が、愛知中世城郭研究会の『愛城研報告』第14号に掲載される(長いため、前半が第14号、後半が15号に分割掲載)。

<『愛城研報告』表紙>

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この頃、将門伝説を訪ね、柏市岩井、我孫子市をブラブラする

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8月初めから仕事の都合で、客先常駐(現在にいたる)

9月

松ヶ崎城祭りの準備を始める

10月

6日、地元中学の要請により、中学生11名に対し、松ヶ崎城跡の説明を実施

23日、小西城跡発掘現地説明会に参加。遺構は古城という15世紀の城跡と戦国期に新たに作られた大きな城跡の二つが隣接し、戦国期の大きな城の方が公開されていた。
外城、中城、本城、と大きく3つの郭があり、本城が主郭で、一番高い場所にある。特に本城の周囲を取り巻く堀が巨大で、本城の虎口は高い場所にあって、中城の土塁とは木橋で連絡していたとのこと。橋を落とせば、本城に立て籠っても、敵は侵入できないようになっていた。説明者は県文化財センターの井上哲朗氏。

<小西城の堀から本城を眺める>

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11月

7日、白井市郷土史研究会の小林さんの講演「白井市内の城跡とその周辺」を聞く。

14日、松ヶ崎城祭りを開催(第2回、約300名 の人出)。

見学会は午前、午後の2回。演者を集め、特にオープニングでは呼魂太鼓の総勢17名での和太鼓演奏を行い、大迫力であった。銭太鼓とどじょうすくい、茗荷さんの三味線がたり、尺八演奏、オカリナ&ギター演奏も。その他、野菜やアジア雑貨の販売もあり、会でも書籍、DVD、絵葉書を販売。

ロータリークラブからは、コーヒーショップが出店してくれた。

<見学会>

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<呼魂太鼓の演奏>

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27日、手賀の歴史散歩を開催。これは、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会主催で18名参加、手賀バス停を起点に手賀城跡、興福院、ハリストス教会、北ノ作古墳、兵主八幡神社、原氏墓所、下柳戸などをまわったもの。手賀原氏を調査すると、手賀原氏の家臣と同姓の家が城跡周辺に何軒もあり、屋号などからそのように判断される家もあった。

文化財めぐりなどと称する、地域の見学会はあるが、下柳戸までまわるものはないだろう。下柳戸には、かつて唯一の水源であった、一ッ井戸があり、参加者がみると満々と水が湧いていた。

<手賀歴史散歩の行程図>

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<兵主八幡神社>

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12月

11日、白井市郷土史の会有志と小森城跡近辺の旧家などに調査、聞取りにいく、平塚では板碑を見せてもらう。

この頃から旧沼南町箕輪の調査をはじめる。

<箕輪の香取神社>

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17日、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会の記事が地域新聞に掲載される。

今年は、なかなかブログまで手が回らず、忙しかったけれど、来年も充実した年であることを期待したい。

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2010.07.19

松ヶ崎城跡の植物

この連休中に、松ヶ崎城跡の植物のなかで安易に草刈りしてはいけないものを識別すべく、自然環境のグループに来て頂き、見て歩いた。

アキノタムラソウ、ジュウニヒトエ、コムラサキ、ヒヨドリバナ、ヤマユリ・・・

去年びっしりと斜面に生えていたキイチゴは、今でもあるが、かなりすくなくなった。

Kiichigo

<キイチゴ>

自分は、高校の時、理系であったが、クラスでドクダミを栽培していた。ドクダミには、その後もお世話になった。だから、ドクダミだけは自信をもって識別できるが、サンショウとシダなど、匂いを嗅いでみないとよく分からないし、そもそもミズヒキなど見ても分からない。ミズヒキでも、キンミズヒキというのは普通のとは別物らしい。

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<アキノタムラソウ>

それにしても、ヤマユリは神々しいほどで、ぎざぎざした花弁が印象的である。

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<ヤマユリ>

今日は、南側虎口に咲いているヤマユリのまわりを大きなクロアゲハが飛んでいた。

今後まだ詳細は決まっていないが、植物の観察会を開こうと考えている。歴史については、5月に歴楽会という講座のようなものを立ち上げた。その間、大高城に関する論文を書こうとして、水野氏史研究会の水野青鷺さんにご迷惑をかけたが、それなりにやってきた。しかし、自然環境については、まだこれからで、ようやく話の糸口を見つけたくらいかもしれない。

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2010.04.24

千葉大園芸学部でプレゼンを行う

先日、柏の葉里さくらまつりの第一会場である柏の葉の千葉大園芸学部千葉大学環境健康フィールド科学センターにて、柏の葉里さくらまつりのシンポジウム、市民団体の発表などが行われ、小生所属の松ヶ崎の会からはYさんと小生が出て報告やパネルディスカッションを行った。いささか、場違いの感があったが、たまたまこの2月から3月に松ヶ崎城跡の植樹を行い、柏市長と懇談したり、目録や桜の枝の贈呈式があったりして、その関係で呼ばれたのである。

市民と大学との連携では千葉大、カレッジリンク、かしはなプロジェクト、市民団体では当会とピースメーカーズ、NPO法人こんぶくろ池自然の森が報告を行ったが、来ている人は千葉大関係者、県・市の役所の人と市民団体関係者、植物に興味のある人などで、全部で80人くらいだったように思う。

<NPO法人こんぶくろ池自然の森の報告>

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千葉大安藤教授の基調講演は、桜に関する様々な研究、ソメイヨシノはなぜそう呼ばれるか、あるいはオオシマザクラとエドヒガンザクラのなかのコマツオトメ系の品種との交配で生まれたことを証明する話などで、アントシアニンとか塩基配列とか、昔高校の化学か生物の授業で習ったような用語がいろいろ出てくるが、35年以上前のことゆえすっかり忘れているので、一部よく分からないところがあった。これでも、理系出身なのだが。安藤教授の話の後、しばらく別の講演者から大学との連携の話が終わった後に少し休み時間があり、いきなり10人くらいがいなくなった。どうも、その人たちは安藤教授の話を聞きに来たらしい。

休み時間の後、さっそく小生のプレゼンの時間となった。 少し遅れて会場に入ったために、メモリースティックに入れて持ってきたパワーポイントのデータをPCに格納して、たまたま持っていた会のビデオをDVD化したものをPCにセットした。柏市の公園管理課の人たちは、遅れて会場に入った小生たちには冷や冷やしたに違いない。どうもすみませんでした。ちなみに、PCへのデータのセットは課長自らやってくれた。

講演は2人で交代して実施、前半の小生の話は、歴史の話とか、会の活動についてで、多分会場の人たちにとって興味はあまりないものと思われた。後半Yさんが話した植樹については、会場のテーマとあっていただろう。

そもそも、この里さくらまつり自体、柏の葉に八重桜の並木道をつくるというのが主眼で、官民と大学あわせてのプロジェクトになっており、民とは三井不動産とTXである。産官学のプロジェクトと言う訳だ。

三井は、この辺には縁が深い。柏の葉は、もともとは幕府の牧のひとつ、高田台牧があったところで、明治新政府が主導した開墾があり、東京窮民や近在農家の次三男が厳しい環境と戦って開拓していったところである。その明治新政府の開墾で、開拓会社が作られたが、その開拓会社を実質的に支配する政商たちが大地主で、開拓民は小作農という関係が続き、明治新政府の不手際もあって、初期の東京窮民を中心とした開拓民は多くが脱落、わずかに残った初期開拓民と途中で開拓に加わった近隣農民の手で開拓は成し遂げられた。このように開拓会社は政商を中心としたが、そのなかに三井が入っていた。大隈重信も大地主であったが、明治期の古い地図には大隈の屋敷がのっている。巨大な屋敷が十余二の開墾地にあったわけだ。

今も、高田原開拓碑が柏市十余二のバス停近くに、厳島神社があるが、その小さな境内に、「高田原開拓碑」という石碑がたっている。これは昭和29年(1954)8月に建てられたが、この碑文は以下の通りである。

<「高田原開拓碑」>

Kaitakuhi

「当地は元小金原高田台牧也

明治二年より入植開拓せり初期入植者は自作農たるべき筈の処大隈及鍋島等の所有となりて八十余年昭和廿二年来の農地改革により初志貫徹すべて入植者の有に帰す」

その土地の管理は、三井組代理人であった市岡晋一郎という人物がしていたらしい。陸軍の飛行場になってからも三井が関係していたという説があるし、それが戦後ゴルフ場になってからは、三井のゴルフ場で三井資本は当地にあった。

十余二、高田原の開拓住民の運動の先頭にたった石塚与兵衛は、農民たちを糾合し裁判闘争に明け暮れ、何度も財産を強制処分されたにも関わらず、周囲の人たちに支えらた。そして80年もの歳月が過ぎ、遂に入植者の勝利となった。近くの豊四季でも同様な入植者の苦闘があり、農民の内職であった木釘の生産を記念した「木釘の碑」などがある。

こういう経緯は、柏の葉一帯に住むマンションや新しい一戸建ての新住民は、知っているのだろうか。

すこし、話が脱線したので、元に戻すと、ともかくも市民団体の講演というのが終わり、千葉大の先生の司会でパネルディスカッションを行ったが、すこし余計な話をしたようだ。後でYさんから、余計なことは言わないようにと言われた。

しかし、きれいなパンフレット、ヨーロッパのガーデニングのような話と当会の植樹のような泥臭い話は、大きな落差がある。小生個人は、他団体の発表で共感できるのが、こんぶくろの池の話くらいで、あとは余りに優等生的で、多少違和感を感じた。

ただ、帰り際に、小生にたいして平将門伝説について質問してきた人がいたのは、意外というか、自分のテリトリーの話が出来て、少しほっとした。

<最後に行われた八重桜並木寄贈式>

Kasiwanoha2

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2010.02.20

松ヶ崎城の植樹

松ヶ崎城の植樹が2月11日には、柏ロータリークラブにより行われた。さらに、2月28日には手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会と柏市がタイアップして、植樹を市民の「里親制度」によって行うことになっている。この「里親制度」は、植樹サポーター制度であり、市民が一人2千円を出して、集団で苗木を購入し、買った苗木を植えて市に寄贈するというもの。

ロータリークラブの方の植樹には、この間行ってきたが、作業はボーイスカウトが形式上行ったのであるが、実際の植え付けには園芸のプロの技術が必要であった。それで造園会社か何かの人が最後は面倒見ていたようである。ボーイスカウトは、チーバ君の着ぐるみが来ていると、滅茶苦茶する子がいるのは困ったもんだが、植樹とは何かを知ったことも含めて、良い経験をしたかもしれない。

ロータリークラブの植樹では、柏市長の秋山浩保さんをはじめ、わが松ヶ崎城の会の川上会長代行が来賓で、あと柏市役所の文化課からは課長や学芸員のおなじみの面々が来ていた。小生は写真を撮りに来ただけであるのに、ロータリークラブ会長や柏市長の秋山さんとも、名刺交換をした。

われわれにとっては、今度の28日の方が本番。見学会をあわせてやることになっていて、そのために資料を増刷したり、いろいろある。植樹は河津桜を50本ほど植えるのだが、桜の中でも丈夫な品種とのことで、2,3年後には花を咲かせるらしい。シンボルツリーを将来的は植えるのだが、そちらはまだ何を植えるか決まっていない。昔の植生なら、松なのだが。大きな松二本と桜では変だろうか。柏市だから、柏? 専門家に考えてほしいが、なぜか植樹も柏市の文化課が担当、松ヶ崎城の会も歴史系というのか、少なくとも植物に詳しい人の集まりではない。

城の保存でも、自然環境も絡むのに、なぜか自然保護団体は何も言ってこない。多分、遺跡は別物というか、こちらからの接点も少なかったと思う。城の保存で何か言ってくるのは、文化財関連、歴史系の人だけだ。例のおととしの騒動でも、真っ先に声をあげたのは松ヶ崎城の会と文化財保護委員のIさんで、すぐに千葉城郭研究会、千葉歴史学会に話が伝わり、同時に文化財保護全国協議会も動いたようだ。

それはともかく、今度の市民の「里親」による植樹祭では、小生も設営の指揮やら、事後もいろいろやることになっているので、準備をきちんとしておきたい。

<ロータリークラブの植樹での柏秋山市長>

Shichou

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2010.01.17

松ヶ崎城クイズ

去年行われた松ヶ崎城まつり。

その際に配布されたクイズの解答は、その場で参加者にお見せし、ある程度以上の正解率の方には認定証をお渡しした。全員に配ってもよかったのだが。

Matsu_quiz

以下が問題とその解答である。

松ヶ崎   城   クイズラリー          
(答えは城にある立て札などにある文章を見るなどして考えてください)   

問1.松ヶ崎城の北側から西側を取りまく、みぞのようなものを何といいますか?   こたえ
  答 1. 堀 ( ほり )      2. 土塁 ( どるい )      3.落し穴          1

Hori

問2.松ヶ崎城跡には、 古墳 ( こふん ) はいくつありますか?   
 答 1.1つ    2.2つ     3.3つ                          3

Kofuninoboru

問3.松ヶ崎城跡から見える、北柏駅近くの別の遺跡はなんですか?   
 答 1. 中馬場 ( なかばば ) 遺跡 2.大森貝塚   3. 姫路城 ( ひめじじょう )  1

問4.松ヶ崎城跡にあった、お不動様は、なんのお不動様と呼ばれていましたか?   
 答 1.目黒のお不動様 2. 三郡境 のお不動様 3. 三国境 のお不動様      2

Emashasinn

問5.松ヶ崎城跡にある、大きな古墳はなんと呼ばれていますか ?   
 答 1. 物干し ( ものほし ) 台    2.すべり台   3. 物見 ( ものみ ) 台      3

問6.松ヶ崎城跡にある、地面から出っ張った土手のようなものを何と言います か?   
 答 1.土管    2. 土塁 ( どるい )      3.土びん                2

問7.城の出入口を何と呼びますか ?   
 答 1.中口    2. 虎口 ( こぐち )      3.大口                  2

Koguchi

問8.松ヶ崎城跡にある、 虎口 ( こぐち ) で西側にあるものの特徴は何です か?   
 答 1.食いちがい 2.すれちがい  3.かんちがい                  1

問9.松ヶ崎城が使われていた15世紀終りから16世紀前半の間に生きていた人は誰 ?   
 答 1.直江兼続  2.武田信玄   3.聖徳太子                     2

問10.松ヶ崎城跡に ない 樹木 ( じゅもく ) は、何ですか ?   
 答 1.杉     2.シイ     3.バオバブの木                    3

Sugikodachi

問11.松ヶ崎城跡にある植物で、薬にもなるもの は 何です か?   
 答 1.ドクダミ  2.バナナの木  3.ヤシ                        1

問12.松ヶ崎城跡にあったお不動様跡の近くにあるわき水は何といいます か?   
 答 1.南アルプス天然水 2. 子和清水  3.松ヶ崎 湧水 (ゆうすい)               3

Yusui

問13.松ヶ崎城跡を築いた人は、どんな人です か?   
 答 1.織田信長    2.徳川家康  3.わかっていない                             3

問14.「松ヶ崎」という地名は、中世の古い文書に出てきますが、どれでしょうか?   
 答 1.香取神宮文書 2.金鳥かとり文書 3.香取 慎吾 文書                        1

問15.松ヶ崎城跡のある場所は「腰巻」以外に何と呼ばれていましたか ?   
 答 1.青山      2.城山     3. げんこつ 山                                 2

Yoshida

殆ど三択ではなく、一択のようなものもあるが、一部のものは現地にいかないと分からない問題。

城まつりは、また来年も継続する予定。

来る4月29日には、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会の総会&講演会。講演会の講師は交渉中であったが、本日決まり、保存と歴史の観点から松ヶ崎城について語って頂く予定である。

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2009.10.31

馬加城と三山七年祭

今では、ハイテクの街として知られる幕張。かつて、ここが千葉氏の本家を倒し、それにとってかわった馬加氏の本拠地であったことを知る人は少ないだろう。

<武石の真蔵院>

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今の海浜幕張のビル街をまっすぐ北へ行くと、いまだに農村風景の名残をとどめる武石という場所にでる。そこにも千葉氏の一族である武石氏が鎌倉時代から住んでいた。武石には真蔵院という古寺があり、武石氏の祖である千葉常胤の子武石三郎胤盛の母のものと伝わる板碑が伝わっている。その板碑というのは、大字須賀原俗称愛宕山の古墳上に建っていた七基の板碑の一つで、のちに真蔵院に移されたもの。光明真言の梵字とともに「右為先妣聖霊出離生死証大菩薩也、永仁第二暦季秋卅之天」と陰刻されている。なお、裏面に施主常胤と彫られているが、それは後世の偽刻である。

<真蔵院の板碑>

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実は、武石三郎の弟である大須賀四郎胤信は、兄よりも早く当地におり、隣接する場所を領有したようである。大須賀氏が香取郡下総町に移り、武石氏の惣領家が東北へ転じた後、そこには千葉氏の本家筋ではあるが、庶子といわれる馬加康胤が城を構えて、一族眷属が住んだ。

馬加は、「まくわり」と読み、幕張の旧名である。その地名の起源は、当時この土地は軍馬の産地で、野馬を軍馬に仕立てて軍馬に加える土地という意味で馬加といったのだそうだ。幕張と名前を変えたのはそれほど昔のことではなく、現在の千葉市西側の花見川区幕張辺りを近世までは馬加と呼んでいた。

ある時代まで、その馬加康胤の城も、遺構が残っていたかもしれない。あるいは、千葉氏嫡流を倒し、足利将軍家から東常縁らの軍勢を差し向けられ、戦死した一族であり、その居城は跡かたもなく、合戦の後すぐに破却されたのかもしれない。
現在は、その馬加康胤の城跡の位置などについては、確かな遺構が残っていないために、古文書や伝承から推定するしかない。

◆馬加城の推定位置と概要

馬加城は、武石館のある台地に連なる花見川と浜田川に挟まれた舌状台地の西端にあったが、現在は遺構が残っていない。馬加城があったとされる場所には、現在はマンションや一戸建の住宅が建ち、その他は畑や駐車場などが広がっており、台地北端は京葉道路が通っていて掘削され、地形の原形を留めていない。この台地は、発掘調査も行われ、弥生時代の遺物など出土したが、馬加城の存在の証になるような中世期の遺構、遺物は発見されていない。また、馬加城の場所や規模、構造などを記した同時代の古文書も残っていない。当地に残る伝承や、後世に書かれた素加天王神社に関する神主中須加氏(中台氏)の記録から、アウトラインがわかるのみである。

なお、三代王神社周辺から、空堀跡とみられる遺構が検出されたという情報もあるが、詳しいことは分かっていない。

<馬加城があった幕張の台地>

Makuhari

◆築城時期と城郭の成立

馬加城は、元々千葉常胤の四男の大須賀四郎胤信が、治承4年(1180)に大須賀庄本郷といっていた当地を所領として与えられ、居館を構えたのに、端を発している。大須賀四郎は、兄三郎胤盛のために武石の地を譲り、武石館が築かれたという伝承がある。実際は、胤盛、胤信それぞれ隣接する所領が与えられたのであろう。大須賀胤信の居館がどのようなものであったかは、遺構もないので分からないが、同時期のものと同じく単郭方形のものであったろう。場所は、馬加城の場所として比定されている当地であったか。

馬加城があったとされる台地上の場所には、「道場台」(俗称:ヤカタ)という地名が残っており、その台地の南側低地、すなわち城の大手の位置には「道場根」という地名が残っている。「道場台」には城の内郭があったとされるが、その東側、自然の谷を隔てた「椎崎」には、外郭部があり、家臣の屋敷や海隣寺、素加天王神社(後の子守神社)があったとされている。

大須賀四郎胤信が、現在の香取郡下総町に移ると、その後は千葉宗家の領有となり、代々家臣を城代として、番兵を置き城の守りに当たらせていた。
馬加城と領民の運命が大きく変わったのは、千葉介満胤の庶長子で、常陸の大椽氏に養子に行っていたが離縁して戻ってきた康胤が、千葉宗家が守ってきた幕張の屋形を修復し、居住するようになってからである。康胤は馬加氏を名乗ったが、これは幕張=「馬加」の地名に由来している。この「馬加」は、素加天王神社の記録によれば、享徳元年(1452)の幕張大明神の祭礼に祭馬を多く集めたことから、神号を馬加大明神と改号し、里名も馬加に改めたことに由来するというが、これはあくまで話である。「馬加」は野馬を捕えて、軍馬に仕立てたことに由来するという説があり、筆者はこちらの方が本当らしいと思う。ともあれ、15世紀半ばに千葉宗家筋の康胤が馬加康胤と名乗って、当地に城館を整備し、新領主として支配することになった。

◆馬加康胤の霊夢と三山七年祭の伝承

馬加城の東に隣接する三代王神社も、馬加氏所縁の神社であるが、伝承によれば文安2年(1445)馬加康胤の妻が臨産の際、康胤の霊夢に三代王神があらわれ、その後康胤の妻が無事に出産したという。この逸話により、二宮神社を中心とした三山の七年祭という行事が始まった。三山の七年祭とは、三山(船橋市)にある二宮神社を中心に、幕張の子安神社、子守神社、三代王神社、久々田(習志野市)の菊田神社、実籾の大原神社、高津(八千代市)の高津比z盗_社、時平神社(八千代市)、八王子神社(船橋市)が参加して丑と未の年に行われる祭である。各神社各々役割が決まっており、以下のようになっている。

<三代王神社>

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 ・二宮神社(船橋市三山)   :主人・父君
 ・子安神社(千葉市畑町)   :妻・母
 ・子守神社(千葉市幕張)   :子守
 ・三代王神社(千葉市武石)  :産婆
 ・菊田神社(習志野市津田沼) :叔父
 ・大原大宮神社(習志野市実籾) :叔母
 ・高津比咩神社(八千代市高津) :娘
 ・時平神社(八千代市萱田)  :息子
 ・八王子神社(船橋市古和釜) :息子

この祭のメインは、八つの神社の神輿が二宮神社に集まる神揃の祭と、磯辺に竹垣を結び、神輿を安置し安産の産屋の祭式を行う磯出祭からなっている。磯出祭は、明らかに馬加康胤の妻の安産祈願成就を起源としている。

その馬加康胤は、千葉氏のなかにあって当主ではないが、一族の重鎮であり、結城合戦など、千葉宗家に従って各地を転戦し、千葉宗家に忠実に従ってきた。馬加康胤は、関東公方、のちに古河に移って古河公方と呼ばれた足利成氏を支持する立場であった。しかし、千葉宗家は足利成氏支持ではなく、対立する関東管領の上杉氏支持に傾いていた。康正元年(1455)、ついに馬加康胤は旗幟を鮮明とし、千葉介胤直が家老である円城寺氏の勢力に依拠して、足利成氏に対立する関東管領上杉氏を支持すると見るや、足利成氏を支持する原胤房と呼応して千葉宗家打倒の兵を挙げた。

すなわち、康正元年(1455)3月、足利成氏に組みする馬加康胤は、同じく千葉氏の宿老として勢力を持ってきた原胤房らと共に、1千余騎の兵をもって、足利成氏と対立する千葉介胤直を討つべく、千葉城を急襲した。からくも千葉介胤直は、胤直の子胤宣や弟胤賢とともに千葉城を脱出し、九州千葉氏の本拠地である千田庄の志摩城や多古城に拠った。ここで千葉宗家は上杉氏の救援を待ったが、多古城にいた胤宣は、馬加康胤の攻撃を受けて「むさ(武射か)の阿弥陀堂」で自刃、また志摩城に拠った胤直、胤賢兄弟も原胤房に攻撃された。からくも、胤直、胤賢兄弟は志摩城を脱出し、土橋の如来堂に逃れたが、胤直はその如来堂で自刃した。弟胤賢も匝瑳郡小堤辺りで自刃し、鎌倉の有力御家人から大名として成長していた千葉宗家は一旦滅んだ。

この事態は将軍足利義政の逆鱗に触れることになり、幕府が追討の軍として派遣したのは、千葉一族である東常縁である。東常縁は、将軍足利義政の御教書を戴き、副将として浜民部少輔春利を伴って下総東庄に下向した。そして東常縁らは馬加康胤、胤持父子を攻め、馬加康胤は自刃、その子胤持も戦死した。

しかし、馬加康胤の子で、現在の酒々井町岩橋辺りに勢力をふるっていた岩橋輔胤は、原胤房ととも分散して戦いを続け、その子孫が本佐倉城を根拠に新しい千葉宗家となって代々下総をおさめた。

<三山の七年祭>

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「ハイテクの街幕張」、それは最近になって埋め立てで生まれた街であり、もともとの幕張、つまり馬加は中世の豪族にまつわる祭祀や合戦譚で彩られた古い土地なのである。

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