カテゴリー「遺跡」の18件の記事

2009.05.21

中世の景観を残す旧沼南町藤ヶ谷

小生は、以前書いたように、もともとは単なる石垣と天守閣の名城が好きで、会社にはいって愛知県に配属となって犬山城を訪ねたり、関西では縁あって滋賀大学を何度か訪問する際に、同時に彦根城に行ったり、西の姫路城に行ってみたりしていた人間である。

初めて千葉県の城で、城跡めぐりをしたのは臼井城で、それは愛知県から戻ってきた昭和59年(1984)頃と記憶している。臼井城も、周囲に砦や支城があることはずっと知らず、当時畑だった主郭付近をうろうろ散策するだけであった。当時は、今のように駐車場がなかったので、路上に車を止めると、ほかの車の迷惑になりはしないかと思い、少し離れたお寺の駐車場に止めさせてもらったりした。

<現在の臼井城跡>

Usuijyo

臼井城の主郭の周囲でも、土塁の上に太田道灌の弟である太田図書の墓があったり、臼井城に隣接する、円応寺には幼い臼井興胤を志津氏からまもって戦ってなくなったという岩戸五郎の「供養碑があって、臼井城跡からは眼下に印旛沼を望むことができた。その後、関西に転勤になり、千葉の城にはしばらく行かなかったのであるが、平成となって神戸の震災前に帰ってくると、また城めぐりを始めたのである。

そのころには、臼井城だけではなく、自宅周辺のより身近な、また余り知られていない城もまわってみるようになり、その過程で船橋市が発行した報告書などを読み、初めて「横矢掛け」などという言葉を知るにいたった。船橋市以外では、お隣の市川市、八千代市、千葉市の西側の幕張方面に時々出かけて行った。

船橋には十五くらいの城跡がある、またはあったという。しかし、現存する城跡で、ある程度まとまった遺構が残っているのは、夏見城、高根城、金杉城くらいであろうか。楠ヶ山館が以前はほぼ完全に残っていると言われていたが、どこまで戦国時代の遺構で、どこからが江戸時代の屋敷跡なのか判別つきにくく、防御施設がほとんどないことから今では疑問視されている。

その船橋の城跡で、もっとも北にあるのが小野田城跡。これはどうも里見氏に関係しているのか、安房神社が近くにあり、その神社境内に土塁が残存している。そこまで北上すると、今度は国道16号線を通って、小生西に向かったのであるが、現在柏市になっている旧沼南町で実は初めて城跡を調べたのは大井で、その後対岸の戸張、さらに高柳のほうに足を伸ばした。

国道16号線をある日、途中旧沼南町で降りて歩いてみた。そこは藤ヶ谷であったのだが、広い道の端に車をとめ、周囲を歩いたのだが、実にのどかな光景が広がっていた。集落は台地下から台地にかけてあり、台地下の低地は谷津となって、そのだいぶ向こうにまた台地があった。そのとき、たしか、犬を連れたおじさんが散歩していたのを覚えている。

あるいは、この風景は中世ではどうだったのか。谷津田の向こうには寺堂があり、集落には農耕に従事する人々がいて、あるいは犬も飼われていたか。

<藤ヶ谷風景:今はかつての谷津田が畑になっている>

Fujigayata

ずっと、長い間、気まぐれで16号線を降りて沼南のどこかを歩いたことは忘れていたのだが、先日藤ヶ谷の持法院に行ってみようと思い立ち、行ってみるとまさにその場所が以前気まぐれで歩いた場所であったのである。

この藤ヶ谷は、手賀沼に注ぐ金山落としの左岸に位置するが、中世には金山落としの西が相馬郡、東が印西外郷と、はっきり分かれていた。

手賀沼周辺の相馬御厨があった地域は、千葉常胤の叔父常晴がおさめていたという。千葉常胤の父常重は、その常晴から天治6年(1124)に相続し、大治5年(1130)に伊勢神宮に寄進するが、公田官物未納を理由に国守藤原親通に取り上げられ、その後源義朝、源義宗が相馬郡を領有した。千葉氏は、その相馬領を復活させるために、いろいろ手をうったが、再び千葉氏が相馬郡を領有するのは治承4年(1180)の頼朝挙兵後である。

<藤ヶ谷にある持法院>

Fujigaya_jihouin

千葉常胤から次男の相馬次郎師常が相続した以降は相馬氏が支配し、相馬氏は奥州と下総の二流に分かれた鎌倉末期の後も下総相馬氏は罪科に処せられたものの、南北朝期から室町期、戦国初期まで下総相馬氏の宗家は当地に残っていたと思われる。しかし、相馬氏の主流は奥州相馬氏であり、下総に残った一族でも守谷を本拠とする相馬氏が勢力を保っていた。

その庶流であろうか、藤ヶ谷城の城主であったのは、相馬氏と伝えられる。高城氏関連の古文書に出てくる「藤ヶ谷修理」なる人物も、相馬一族であろう。それが地名を名乗ったものと思われるが、戦国末期には相馬胤吉という人がいて、高城氏とともに小田原参陣をしたらしい。その相馬胤吉ら、当地の相馬氏の菩提寺としたのが、登慶山如意輪寺持法院である。

小生が持法院に行ったのは、手賀沼周辺の歴史で、あるテーマについて調べているのであるが、そのなかで藤ヶ谷の相馬氏の動向を知る必要があったからである。

実は藤ヶ谷には今も相馬さんというお宅が何軒かあるが、そのお宅もまた藤ヶ谷城主の一族の子孫であろう。その相馬氏の家老は、勝柴氏であるが、家老の子孫といわれる勝柴姓のお宅も当地にはある。

<持法院の観音堂入口>

Fujigaya_jihouin2

持法院の開基は相馬忠重といわれるが、あくまで伝承である。ただし、藤ヶ谷の薬師堂からは相馬忠重と同時代の貞治3年(1364)年建立の阿弥陀尊板碑が出土しているので、あるいはその頃の開創かもしれない。

持法院は、この周辺によくありがちな質素な堂宇で、赤い門と庭にさるすべりが植えられているのが目立つ位であるが、本堂の手前を北の台地にあがった場所に観音堂と墓地がある。その長い階段を登った先にある観音堂には、千葉介常胤が寄進したという如意輪観音像が安置されている。その観音については、千葉常胤の霊夢云々という由来があるが、それはあくまで話である。

<観音堂>

Fujigaya_kannondou

柏市のHPには、以下のように書かれている。

「登慶山如意輪寺持法院の観音堂に安置されている尊像で、通常は非公開の秘仏です。尊像は、立て膝をして頬に手を触れる半跏思惟のポーズをとる、 戴冠六臂の木彫坐像です。白龕は水晶、目は玉眼で彩色はありません。これに対し、台座と二重円光の光背は金箔であるため、 元来尊像とこれらは別物であったと思われます。
むかし鎌倉時代に鎌倉で造られた如意輪観音像を登慶坊が相馬氏の領地である現地へ持参して祀ったのが寺の創建縁起となっています。 しかし、現存する観音像は、中世末期から江戸時代初期ごろの作品といわれています。」

なお、墓地の一段高くなった場所には、これも相馬氏に由来するのか、平将門の供養塔があった。供養塔の脇に、その関連の句碑まで建てられている。

<平将門の供養塔>

Fujigaya_masakado

なお、肝心の藤ヶ谷城であるが、あまり確たることが言えないので、ここで書くのは差し控えたい。いくらか遺構もあるようだが、集落と国道16号によって亡失した部分が多く、調べた結果は後日に報告したい。

参考サイト:

柏市HP(柏の文化財)

http://www.city.kashiwa.lg.jp/cityhall/sosiki/B_SYOG/SYOG_BNK/bunkanavi/KashiwaBunka/contents/shitei/y_nyoirin.htm

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2009.04.16

オープン直前、松ヶ崎城跡の整備状況

柏市の松ヶ崎城のオープン前の清掃活動に、先日行ってきました。

郭内の木が切られ、土塁や堀が表土まで露出する状態になったため、よく見渡せるようになった反面、東側の土塁など、だいぶへこんだり、損傷しているのも、よく分かるようになっていました。

写真は、「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」HPのトップにも掲げた、筆者が物見台(1号古墳)にのぼって撮った郭内の様子ですが、重機のわだちが痛々しい。

Kakunai

古墳は3基とも無事でしたが、2号墳、3号墳は、周囲に草木がなくなったため、前より大きく見えました。

そうした古墳の上にも、春のきざしが。なんと、わらび、ゼンマイの芽が出ており、タラの芽までありました。

Warabi 

柏市によって、土塁、虎口といった看板が取り付けられる予定ですが、清掃作業のときには、仮設のものでした。その他、台地縁には、木の柵が設置され、切った木も運び出される予定です。

オープン後には、4月29日に「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」の講演会が予定されており、さらに見学会も計画されています。

Hori

「古城の丘にたちて」外伝より転載

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2009.04.06

松ヶ崎城の今後に関する講演会

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会主催で、下記の講演会を行います。

松ヶ崎城は、柏市にある中世城郭です。昨年、市の指定文化財でありながら、遺構の破壊問題があり、いかに保存していくかが焦眉の課題となりました。

・テーマ:松ヶ崎城の明日を語り合う 基調講演 「これまでの松ヶ崎城とこれから」
・日時:2009年4月29日(水:祝日) 13時30分から15時30分(予定)
・場所:柏市中央公民館 集会室1,2
・講師:吉田敬氏(柏市教育委員会学芸員)
・会費:資料代程度
・問い合わせ先:久川さん方 TEL. 04-7134-8833

Matsugasakijomokei

「古城の丘にたちて」外伝より転載

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2009.03.04

BUMP OF CHICKEN の歌のモチーフとされる臼井城宿内砦跡

先日、テレビで佐倉市の紹介をしていたが、そのなかでBUMP OF CHICKENという佐倉市臼井出身者で結成されたバンドが、臼井城の宿内砦跡である宿内公園を歌のモチーフとしていると言っていた。そして、彼らの「グロリアスレボリューション」というの曲の撮影が行われたのも、宿内公園であった。宿内砦といっても、ほとんど知る人がいないだろうが、BUMP OF CHICKENの「くだらない唄」「続くだらない唄」という歌のモチーフになったという公園といえば、知っている人は多いかもしれない。

このBUMP OF CHICKENというバンドは、メンバーが佐倉市臼井の幼稚園か小学校からの仲間という佐倉郷土色の濃いバンドである。

臼井といえば、やはり臼井城。実は、小生は元は石垣に天守閣という彦根城や姫路城といった城には興味がおおいにあったが、土塁などの土造りの城にはそれほど興味がなかった。もともと、そういう土造りの城は、群馬県のある山城を手始めに、小学生のころから知っていたとはいえ、壮麗な石垣と白壁の城のほうに関心が向いていたのである。一時期、関西在住であったことが、その傾向を強めた。なにしろ、城といえば一番近くにあるのは神戸の花隈城で、住んでいた神戸市からは彦根城や姫路城といった城にも、快速電車に乗って出かけていけたのである。

長い関西での生活の後、千葉に戻ってきた小生は、たまたま車で行ったことのあった臼井城にまた行ってみようと思い立ち、小さな城と思いこんでいた臼井城の堀が意外に深いことを知り、それから中世の土造りの城に目を向けるようになっていった。

<宿内公園>

Shukunai3

臼井城には、小竹城や志津城といった支城と、5つの砦があった。その砦とは、北に洲崎砦、西北に仲台砦、西南に田久里砦、南に稲荷台砦、南東に宿内砦の5つである。そのうち、宿内砦は、「利根川図誌」にも「臼井旧事録」にも記載がない。しかし、臼井城の砦としては、唯一明確な遺構が現存する。この宿内砦は、かつては長源寺の寺域であった。「利根川図誌」には、その場所は長源寺として記載されている。長源寺は元亀元年(1570)、原氏に招かれた道誉上人により、「新大巌寺」として創建され、安永元年(1772)に火災で焼失するまで、宿内砦のある台地上にあり、かつてその台地は長源寺山と呼ばれていた。長源寺は、現在宿内砦のある台地下北西に隣接する谷合にある。

<道誉上人の墓>

Douyo

宿内砦は、長源寺の東南にある舌状台地の先端部分を占める。西側道誉上人の墓のある墓地は結構な広さがあるが、その墓地のある台地中腹の平場を通って台地の上まで階段が付いている。そこから階段の道を上り切った所に南北約150m、東西の最長部分約100m、短い所でも約50mの変形五角形の大きな郭がある。その南に高さ2m程の大きな土塁があって、南側の郭と区切っている。その土塁の一端は櫓台となり、主郭虎口防備のため、広角に矢を射るように配置されている。南側の郭は南北約100m、東西約60mの長方形で台地鞍部に続いている。

<宿内砦の土塁>

Shukunai

舌状台地の先端が北側に向いている地形から見て、北側の最先端部分を占める大きな郭が主郭である。その郭の東側には、2~3m程低く、腰郭があり、その下台地中腹にも小さな腰郭が2つある。西側の道誉上人の墓のある墓地も台地中腹に付いた大きな腰郭である。南側の郭の東側にも小さな腰郭があり、その外側に堀底道と思われる切通し道がある。

<土塁は一部かなり高くなっている>

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かつては、長源寺自体がいわゆる城郭寺院として砦の役割を果たしていたと思われ、臼井城西の外郭や仲台砦とあわせて、臼井城の東西両翼の守りを固めていたと思われる。現在臼井城実城の北側直下にある円応寺もかつては今の場所でなく、第3郭のあった「外城」に隣接する「寺台」にあったという説もあり、円応寺も城郭寺院であった可能性がある。

宿内砦址は、長源寺移設後は原氏の家老だったという大森氏の私有地となり「おおもり山」と呼ばれていたが、市の借上と公園化、所有者の変更を経て、近年のマンション開発に抗した住民運動の結果、良好な遺構の保存状態のまま宿内公園として保存されている。
 

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2009.02.15

東葛地方で中世城郭発見か (続報)

前回、掲載した中世城郭を測量し、縄張り図をかきつつあるが、方形居館形式と思っていたのは誤りで、東の主郭の隅を頂点とし、西側は円弧を描く、扇のような形と判明した。

すなわち、西側は低地に面し、いわゆる弧状塁線をもった城ということになる。これは武田氏の丸馬出しと同様のつくりであり、低地にはいった敵に少ない人数で矢を射掛けられるという軍事的な利点をもっている。弧状塁線の下の斜面は切岸で削られ、下には削り残した竪土塁で仕切られた腰郭があり、さらにその下は自然地形以外にいくつか井戸状のものがあって、城の遺構なのか、近現代で耕作か何かの都合で作られたものか判別がつかない。腰郭下の状態については、何かしたかどうか、地主に問い合わせてもらっているが、江戸時代に何かしたということなら、見当がつかないだろう。

そのほか、主郭の西側に一段低く小さな副郭があり、さらにその東側には半円状の腰郭があるのがわかった。副郭からは南に細長い郭があり、その細長い郭とは段切で仕切っている。また細長い郭の先端近くに土橋状の土塁あることは、前回書いたとおりであるが、副郭と細長い郭の境界から5mほど南にいったところから土塁が低地にのび、その土塁を伝って下に下りることができることが分かった。つまり、そこにも虎口があったようである。

<西側の腰郭>

Kosikaku 

低地には横堀があるが、細長い郭から下に続く、土塁の先がきれていて、本来長く続いて下でも郭があったのか、もともと短い土塁なのかがよく分からない。井戸のような方形の窪地が何箇所かある。まさか障子堀ではなかろうが、なにせ、藪がすごく、腰郭辺りから、誰かが指揮して、数人で手分けして調べるとかしないと、全貌が掴み難い。

<土橋状の土塁を上から見たところ>

Dobashi

これは結構難物かもしれない。細長い郭は先端が少し低くなるが、台地の立ち上がり箇所にあって、遠く川のほうまで見渡せるので、櫓でも組んで物見としたかもしれない。とにかく、やたら低地からの侵入に警戒した作りになっている。

つまり、当初考えていた単純な地侍クラスの丘城ではなさそうである。もしかしたら、小田原北条氏関連か。

家でいえば、一階と二階と中二階があって、二階が半分円形になっているようなもので、小さいけれど、構造的にも面白い城である。

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2009.01.18

東葛地方で中世城郭発見か

かねて、中世城郭を調査していた東葛地方の某市において、先日千葉県文化財関連の研究者某氏と某市学芸員の方、および言い出した地元の方と郷土史研究の方々とともに、その中世城郭の遺構らしきものの踏査に行きました。

主郭と思われる郭は台地上にあって、一辺が40mから50mほどの方形であり、土塁、空堀、虎口、土橋を備えています。虎口は北にむいて開き、西側が入江状の低湿地を望む場所にあって、縁辺の土塁の下は切り岸か急になっていて、台地中腹に腰郭らしきものがあります。

<主郭らしき郭の周りを取り巻く空堀と土塁>

Kakunai

主郭らしき郭の東側の空堀は深く、人の腰ほどもありますが、落ち葉などの堆積を考えると、実際は3mとかあったかもしれません。

正確に計測はしていませんので、詳しい数字が出ていませんが、主郭はほぼ正方形に近い形と思われます。

西側は竪土塁のようなものを残して、切岸があり、腰郭状になっている平場の北側にさらに土橋があって、小さな郭(物見用か?)と連絡しています。土橋は比較的高く作られ、人が一人通るのがやっとというような幅しかありません。小さな郭の北側にはさらに溝がありますが、それが竪土塁に付随する空堀のあとか、近世以降に作られた溝または道路かは不明です。

<土橋は一人通る幅しかない>

Dobashi

主郭らしき郭の周囲を取り巻く土塁は比較的しっかりしていて、幅が1.5mほどはあり、上に乗って歩いてもびくともしません。版築構造になっているのでしょう。ぐるっと土塁の上を歩くと、最初入ってきた虎口の場所に出ます。

一応ここは『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書』にも出ていますが、「消滅」扱いになっています。これは新年早々に新発見かな。

<土塁の上をいく>

Doruiue

小生の推理では、西側にある池を伴う入江状の低湿地は、中世にはもっと広範囲に水をたたえた場所で、船着場あるいは船隠しがあったのではないかと思います。

多分、この城もその船着場を利用して、水運によって手賀沼、印旛沼(印旛浦)とつながり物資を移動させていた勢力が船着場を守るためにつくったか、何かと思います。

虎口が平虎口で、腰郭や切岸以外に目立った防御設備がないことから、戦国初期以前の城跡かもしれません。

なお、近くには塚もあり、ほかに土塁もありますが、城跡との関係などは不明です。というより、城跡の主や、近くにある城跡との関連も不明です。

文化財関連の方からは、正確な位置を確認し、縄張り図を描くように指導がありました。小生縄張り図が苦手でありますが、この際下手でも協力せねばならないようです。

(「古城の丘にたちて」外伝より転載)

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2008.07.01

徳川家康と知多半島(その31:大脇曹源寺と周辺の水野氏勢力)

用事で土曜日に関東に帰り、翌日曜日に愛知に戻ってくると、武豊線の車窓から見える光景は相変わらずであるが、よくみると田んぼのなかに、小さな白いものが動いている。

白鷺である。白鷺といえば、高田浩吉の白鷺三味線を思い出し、最近の流行についていけない小生は、いささか年取ったのであろうか。それはともかくとして、田んぼのなかには、白鷺以外にも雉もいる。雉のほうは、体が黒いのであまり目立たないが、白鷺は緑のなかに白なので、よく目だつ。しかし、目立とうが目立つまいが、白鷺は田の虫かタニシか何かを捕食しているだけだ。

<半田市内を流れる川にも白鷺が>

Goudogawa

白鷺を食べるような動物がいれば、目立つのは困るだろう。幸いそういう食物連鎖はないので、目立っても問題ない。

桶狭間合戦前の緒川・刈谷水野氏は、おそらく目立つまいとして必死だったのかもしれない。目立つ行動をとれば、今川氏の大軍の前に風前の灯になっていたであろう。そうならないために、水野氏は織田方でありながら今川氏にも密かに通じ、今川義元から書状まで貰っているのは前回述べた通りである。

その水野氏は、もともと愛知県瀬戸市あたりにいて、貞守といわれる人物の頃に、小川(緒川)の古城を拠点に、一円を支配するに至った。それは南朝について守護土岐氏に攻められて滅んだ小河氏の末裔で、故地に戻ったというが、実際は小河氏滅亡後に、その領地であった緒川の地に入り込んだもので、元々いた小河氏とは別系統であると思われる。当然、小河氏と同じ系統とすれば、中世の権威の考え方からは支配に都合がよかったので、そう名乗りはしたが、源氏である小河氏と別系統であることは、江戸時代の尾張藩などの識者の知るところで、彼らは水野氏の藤原姓の系図の存在を知っていた。実際、水野氏では、通称藤四郎、藤九郎などを名乗っている者が目立つ。源氏であれば、源四郎とかを名乗ったであろう。

<緒川城跡>

Ogawajyo

水野氏が知多半島に来たころの事跡は、以下の通りである。

延文5年 (1360) 小河正房、土岐氏に滅ぼされる
室町前期 (1350頃) 緒川の高薮城を竹内直道が築城し、以降竹内氏が治めるも、5代直玄は水野氏の臣下となる。
文明7年 (1475) 初代緒川城主水野貞守、乾坤院を創建する。
延徳3年(1491)水野為妙、万里集九より「養月斎」の号を贈られる。
明応8年(1499)歌人飛鳥井雅康、緒川城主水野為則(貞守の嫡男という)を訪ね、祝い歌「緒川」を詠む。
永正6年(1509)緒川城主水野為則没する。法名は前野州太守一初全妙禅定門。
大永2年(1522)連歌師柴屋軒宗長、刈谷水野和泉守(近守、大高城主水野大膳の父か)宿所で連歌を興行

<水野氏ゆかりの乾坤院>

Kenkonin

『寛政重修諸家譜』の水野貞守の説明では、「正房七代の蔵人貞守の代になって、旧臣牛田某と再興を図り、永見某、中山某、久松某等と君臣の義を結び、小河の旧塁修復し、三河国の刈谷、熊村、大日、大高、常滑の諸士を配下に治め、やがて刈谷に城を築いて移る」とある。

しかし、実際は瀬戸から来た水野氏が在地諸豪族を配下に取り込み、知多半島緒川周辺から刈谷へ勢力を伸ばしていったわけである。

桶狭間には、後に岩滑城主となった中山氏がいたが、中山重時が重原城で戦死し、その子の勝時は桶狭間合戦の頃には岩滑に入っていた。また今の大府市横根の横根城にいた梶川五左衛門も成岩城に移ったというから、桶狭間合戦のころは、桶狭間近辺の水野氏配下の武将たちはどこかに行っていた。

<刈谷古城>

Kariyakojyo2

桶狭間合戦の当時、既に水野氏も緒川から刈谷へ拠点を移していた。周辺の武将たちも岩滑、成岩など拠点をかえていた。その間隙をついて、今川義元は西三河から知多半島緒川の北の村木(尾張森岡)にまで進出し、さらには寺本(知多市)の花井氏を傘下におさめるなど、織田方であった地域もドミノ倒しのように今川方にかえていった。それで、本来水野氏という織田方の勢力圏であった筈の桶狭間に今川義元の休憩のための陣地も作ることができたわけである。

水野氏が、桶狭間合戦で前面に出てこない所以もまた、そのあたりにあり、知多半島の制圧に熱心なあまり有力な配下の武将を分散させてしまい、その隙を今川に取られ、緒川・刈谷の本拠地を守るのに汲々としてとても織田方として参戦することはできなかったのであろう。

<曹源寺の山門(拡大)>

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しかし、桶狭間に近い地域にいた水野氏の勢力が、完全に拠点をかえていたかといえば、大脇城にいた梶川氏については別であろう。大脇は戦国時代には存在した集落であり、曹洞宗の古刹、曹源寺がある。この梶川氏は、水野氏の重臣であるが、別格のような待遇をされていたようである。公に平氏の出を名乗り、一般的には梶川五左衛門という戦国期の武将が有名である。

その梶川五左衛門は、天文12年(1543)に榎本了圓が守る成岩城を水野信元が落とした後、その城代として横根城から移されたというが、実名は文勝とされていた。年代的には同一人と思われるが、梶川五左衛門秀盛という人物がいる。「尾張志」「張州府志」によれば水野下野守信元の家人であり、「張州府志」ではさらに大脇、横根両城の城主であるとしている。

この人の文献での登場で、同時代のものといえば、天正11年(1583)に大府の延命寺に寺領を寄進したというのがあり、その際の実名が秀盛である。

梶川秀盛の父は梶川平九郎といい、実名は分からないが、法名は宗玄という。桶狭間合戦の際に、中島砦を守った梶川一秀と梶川秀盛は同姓であるが、小生別系と思っていた。以前、「中島砦をまもった梶川一秀は平氏の出で、織田信長の家臣である。出身も尾張国丹羽郡楽田といわれ、今の大府市横根に城を構え、水野信元の成岩城攻略後に成岩城主となった梶川五左衛門秀盛など、水野氏重臣の梶川氏とは関係ないかもしれない」と書いていた通りである。

しかし、二人は兄弟のようで、梶川平九郎の長男が梶川高秀、次男が一秀、三男が秀盛だそうだ。兄二人は織田信長に仕え、高秀の子高盛も含め数々の功名をあげていったが、三男五左衛門秀盛は地元の家を守る立場であったのかもしれない。

また梶川平九郎の法名「宗玄」から曹源寺の名前がついた(あるいは改名した)という可能性もあることから、戦国時代には大脇にいたのではないだろうか。長男高秀の名乗りは平左衛門尉で、やはり「平」の字がつく。この人は、永禄11年(1568)に70歳でなくなったとされているので、明応7年(1498)頃の生まれになる。その父となれば、25歳のときに長男誕生とすれば、文明5年(1473)頃の生まれになる。もし、梶川平九郎が曹源寺の開創の前年になくなっていたならば、31歳のときとなり、一応矛盾はない。

<曹源寺>

Sougenji 

梶川氏が平氏かどうかは不明で、紀姓の梶川氏というのもあるようだ。その出身は「知多郡梶村」とあるが、甚目寺町今宿梶村らしいので、「知多郡」ではないだろう。その一族は、水野氏の重臣でありながら、一部は織田信長の家臣にもなったのかもしれない。

そのルーツや系譜はさだかではないが、梶川氏は水野氏の重臣であったことは間違いない。その拠点は戦国時代から大脇に元々あり、やがて水野氏の知多半島制圧の動きに応じて、横根へ、さらに成岩へと移っていった。しかし、大脇には長く一族が住んでいたらしく、桶狭間合戦時も含めて拠点としていたらしい。

実際大脇には、地元の住民から「梶川五左衛門の屋敷跡」と呼ばれてきた大脇城跡があり、伊勢湾岸道路の建設に伴う発掘調査では、約60m四方の方形居館跡が検出され、「天正四年」(1576年)と年がかかれた大御堂寺の護摩札などの遺物が出土している。

その大脇城跡と大脇に永正2年(1505)西明寺三世実田以転和尚によって創建されたという曹源寺の旧在地は比較的近く、曹源寺は城の西北250mほどにあった。以下の図で赤く丸で囲ったのが曹源寺の現在地で、地図の2が江戸時代前期承応3年(1654)の火事で移る前の曹源寺の旧在地である。この位置関係をみても、曹源寺の開創に、梶川氏が関わっているか、梶川氏のために建てられたのではないかと考えるのは別段おかしくない。そうなると、曹源寺という寺の名前も、梶川平九郎の法名「宗玄」の字を変えたものとも思えるのである。

<大脇城跡と曹源寺の旧在地>

Oowakijyo

(『大脇城遺跡』 1999  愛知県埋蔵文化財センター より)

ちなみに、曹源寺には、享保2年(1717)に桶狭間の梶野清右衛門が寄進した立派な山門があるが、曹源寺は桶狭間の梶野氏一族の菩提寺である。宗派の関係もあるが、桶狭間にある長福寺が創建されたのが天文7年(1539)であるため、戦国期以前から当所にいた古い住民は曹源寺の檀家になっていたのであろう。

<曹源寺の山門>

Sougenji_sanmon

曹源寺の二世住職は快翁龍喜禅師である。快翁龍喜禅師は、後に岩滑城主となった中山氏の出身で、水野忠政の家臣中山又助の次男であったという。また、曹源寺は曹洞宗であり、二世の快翁龍喜和尚は水野氏の菩提寺である乾坤院で芝岡和尚について得度している。

つまり、曹源寺は水野氏の影響を多分に受けた寺であり、元来その地域はそういう土地であったわけである。

ところが、今川義元の発給文書で、丹羽隼人正に宛てたものであるが、以下のようなものが残っている。

「沓掛 高大根 部田村之事

右 去六月福谷外在城以来 別令馳走之間 令還付之畢 前々売地等之事 今度一変之上者 只今不及其沙汰 可令所務之 并近藤右京亮相拘名職 自然彼者雖属味方 為本地之条 令散田一円可収務之 横根大脇之事 是又数年令知行之上者 領掌不可有相違 弥可抽奉公者也 

仍如件

天文十九

 十二月朔日        治部大輔(花押)

                              丹羽隼人佐殿」

西三河を制圧した今川義元は、天文19年(1550)頃になると、尾張にも勢力を及ぼし、このような安堵状を発給するようになった。この丹羽氏は一色氏系で、尾張国丹羽庄から起こる在地領主であり、本郷城主であったものが移動して、4代続けて岩崎城主として戦国時代を生きた一族である。この丹羽氏は、同姓の丹羽長秀とは別系統である。その岩崎丹羽氏の丹羽氏勝は、最初、織田信長の叔父守山城主信次に仕え、守山籠城の後は織田信長にも仕えるが、後に佐久間信盛らとともに追放され、徳川家康に仕えている。織田氏に近い在地領主も、一時は今川義元についていたわけで、有為転変は世の習いといわんばかりである。

なお、文中で味方に属するといわれている近藤右京亮とは、沓掛城主近藤景春のことである。近藤氏もまた、松平広忠に従っていたが、織田方が勢力を伸ばすとこれに組していたが、また鳴海城の山口教継によって今川方に転じた、戦国時代にはありがちであった二股膏薬的な生き方をしていた。

丹羽氏が横根、大脇の知行を安堵されていた頃、梶川氏はどうしていたのだろうか。大脇城をでて、ひたすら知多半島に水野氏勢力を拡大するために、戦っていたのだろうか。そんなことはあるまい。大脇城は、その後も梶川氏が継続して維持したようである。前述のように、大脇城跡からは、「天正四年」(1576年)と書かれた大御堂寺の護摩札が出土している。天正4年といえば、水野信元が織田信長に誅された翌年であり、その当時梶川五左衛門は水野氏を離れ佐久間氏に従った。さらに織田信雄に仕え、小牧長久手合戦後は岐阜城主であった池田輝政に仕えたらしい。

<野間の大御堂寺>

Nomataibou1

天正11年(1583)には梶川五左衛門は大府の延命寺に寺領を寄進したが、その発給文書が残っている。

延命寺領為 寄進合田畠拾九貫四百七十八文目此内田方拾四貫五百七十文目畠方四貫九百八文目 並山壱ヶ所寺之後 不可有相違者也 田畠坪付之儀別紙在之候

仍如件

      梶川五左衛門尉

天正十一癸未九月七日  秀盛(花押)

延命寺

 御坊中」

この文書が出された頃、梶川氏は大府の延命寺周辺を統治していたことがわかる。つまり、天文19年(1550)頃から10年くらいはその領地を今川氏に蹂躙されたかもしれないが、このころには梶川氏は延命寺に寺領を寄進するまでになっていた。

少し、話が回り道をしたが、桶狭間合戦当時、水野信元らがおとなしくしていた背景には上述したような大脇など水野氏勢力圏の情勢があった。

(参考文献)

『豊明市史 資料編補2 桶狭間の戦い』  2002 豊明市

『大脇城遺跡』 1999  愛知県埋蔵文化財センター 

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2008.03.08

鎌ヶ谷市初富周辺の牧遺構

新京成の二和向台と滝不動の間と思うが、小学校の横に土塁状のものがあるのを電車に乗りながら見た。新京成線にはたまにしか乗らず、しかも津田沼から北習志野より先は殆ど乗ることがないため、今まで気付かなかった。それは勢子土手であり、江戸時代の牧遺構であることを最近知った。

先日鎌ヶ谷に行く用事があり、初富稲荷がすぐ近くにあったので、その境内に建った開墾記念碑をみた。これは「初富開拓百ヶ年記念碑」とかかれ、題字は当時の友納千葉県知事である。

下総台地の集落をのぞいた、大昔は原野であった部分をほぼ占める広大な牧は、中世以来軍馬の供給地として形成され、江戸時代には小金牧や佐倉牧という幕府直轄 の牧がつくられた。その牧はかならずしも固定的ではなく、牧での新田開発、開墾は江戸時代から一部行われて いた。明治維新で明治新政府ができると、家禄を失った旧武士階級や都市困窮民の救済のため、 下総の牧の大規模な開墾が新政府によって企てられ、入植が行われた。これは農業を振興させるという意味もあったろうが、士族授産や窮民対策の意味が強かったのだろう。

<初富稲荷神社>

Hatsutomiinari

入植者は旧武士階級のほかは、東京にいた非農業の窮民であるが、彼らも元は農民であったものが多い。入植はしたものの、慣れない農作業、厳しい自然 環境に加え、新政府側の不手際もあって、開墾は困難を極めた。結局、当初の入植者は耐え切れずに少数しか残らず、少数残った東京窮民と近辺の農家の次男三男が最終的に開墾を成し遂げた。しかし、明治新政府、開拓会社は、開墾に苦闘する人々を途中で見捨てるような動きをしたため、開墾を成し遂げた人々の心境は複雑で、いくつか建てられた開墾記念碑のなかには、銘文がまったくないものもある。

開墾地には、、開墾順序に合わせて地名がつけられたが、その最初が現・鎌ヶ谷市の初富。初めて富を得る場所という意味か。以降、二和(船橋市)、三咲(船橋市)、豊四季(柏市)、五香(松戸市)、六実(松戸市)、七栄 (富里市)、八街(八街市)、九美上(香取市)、十倉(富里市)、十余一(白井市)、十余二(柏市)、十余三(成田市、多古町)と続く。

初富、二和、三咲は新京成の駅名にもなっているが、近接した場所である。四番目の豊四季をとばせば、五香、六実も比較的近い。

しかし、初めて富を得るはずだった初富での開墾が困難であったことは、想像に難くない。

<初富稲荷の開墾記念碑>

Hatsutomihi

初富周辺には、牧の遺構もある。たとえば、小金牧のうち、中野牧というのがあり、その込跡がある。これは、ぐるりと土塁が取り囲んで、馬を捕り込むもの。これは、「捕込(とっこめ)」ともいう。土塁が高く、またその製法は中世城郭と殆ど同じようであるから、よく中世城郭跡と間違えられるそうである。今も、中世城郭とされているもののうち、いくつかは「捕込」である可能性があるという。以前、鎌ヶ谷市道野辺にある道野辺八幡神社の境内が中沢城跡で、周辺にある土塁が城の土塁であるとされていたが、それは間違いで、土塁は牧遺構らしいということである。それで、中沢城は、未だに明確な比定地がない。

去年の7月16日、第5回千葉県北西部地区文化財発表会
「Good Job!!」-昔の人のものづくりテクニックを学ぼう!-(開催場所:鎌ケ谷市中央公民館)という催しに行ったとき、発表会のあとで国の史跡となった野馬土手、すなわち小金中野牧の込跡の見学会もあったのだが、小生愛知に帰らねばならず、そのときには見ることが出来なかった。

<中野牧の込跡>

Nakanomaki

中野牧込跡は、国の史跡の指定を受けているが、野馬土手はどんどんなくなっているらしい。それは住宅開発のためであったり、道路建設などの都合もあるだろう。かつてはありふれた光景であったのが、開発によって変貌し、貴重な文化財が失われるのは残念なことである。

中野牧込跡の近くを横道にはいると、貝柄山公園というのがある。

ちょっと、その公園によってみた。

<貝柄山公園へ>

Kaigarayamahe

貝柄山といっても、山ではない。写真の犬を連れた女の子も同じ方向を歩いているが、むしろ低地に向かっている。実は貝柄山とは縄文時代に貝塚があった場所であり、谷津田のような低湿地であったそうだ。

<貝柄山公園>

Kouen

貝柄山公園には池があり、水鳥がのどかに泳いでいた。ここは市民の憩いの場になっているようである。

鎌ヶ谷、船橋には中野牧込跡以外にも、いろいろ牧遺構はあるようである。とりあえず、一度新京成電車を途中下車して二和の勢子土手をみてみようと思った。

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2008.02.25

徳川家康と知多半島(番外:東海市にある「今川義元の塚」伝承地)

最近、仕事で何回か、半田・武豊から外に出て、東海市や名古屋に行く機会があり、小生東海市で気になる地名を目にした。それは「城之腰」というもの。車で東海市の物流会社に行ったときに、車のなかから交差点にかかった標識で見たが、以前から半田街道に「内堀南」とか「白拍子」という交差点が近くにあり、中世城郭かなにかあったらしいと気になっていた。「城之腰」の読み方は「しろのこし」か「じょうのこし」か知らなかったが、どちらにせよ明らかな城郭地名である。

<「城之腰」の交差点>

Shironokoshi

調べてみると、その「城之腰」の東側には、「城山」という地名があり、その「城山」に木田城という城があったことがわかった。実際に現地にいって、城跡周辺をあるいてみると、まず「城之腰」は「しろのこし」とよむことがわかった。その交差点から東にのぼっていった「城山」という場所に木田城の主郭があるというが、現在は住宅地になっていることがわかった。途中、浅間神社の祠があったが、そこも一段高くなっていて、防御施設があったかもしれない。また、土塁の残欠らしきもの、竪堀らしきものを見たが、不正確なことを書いても仕方がないので、図書館ででもよく調べてから、別途書くことにしたい。

この木田城こそ、今の東海市域の主要部を戦国時代に支配していた荒尾氏の居城であった。木田城は鎌倉末期に一色左馬助が築城したものを、戦国期に荒木空善が改修して居城とした。それは、今川方の知多侵攻に備えたためといわれる。荒尾氏というと、鎌倉幕府の御家人であった家があったが、戦国期に荒尾空善からはじまる系譜とは別であると思われる。その空善以降の荒尾氏は戦国時代を生き抜いて、池田輝政を祖とする鳥取藩池田家の家臣として存続した。その先祖は在原業平というが、それは伝承上のことで、実際には在地土豪であったと思われる。

実は室町時代には、当地には富田氏という氏族(尾張守護であった土岐氏の家臣という)がいたが、戦国期に緒川の水野氏が進出するに及んで、花井氏が水野氏と組んで富田氏の富田城を攻め、富田氏を退去させたか、あるいは、この荒尾氏が水野氏と結んで、富田氏を追放したらしい。荒尾氏は一応独立した豪族ながら、水野貞守から知多半島におおいに威をふるった水野氏にしたがっていたようである。

<木田城の主郭部附近>

Kidajyo

この荒尾氏は、織田信長の村木砦攻めに一役買っている。すなわち、天文23年(1554)1月、今川方が緒川の北、現在のJR尾張森岡駅近くに築いた村木砦をめぐった戦いにおいて、織田信長が自ら軍勢を築いてこれを攻めた際、途中にある鳴海城や大高城がすでに今川の手に落ちていたために、織田勢は一旦、海路これらの拠点を避けて、村木砦に向かうことにした。そして、1月22日、織田勢が熱田湊から船で馬走瀬(東海市横須賀)の浜(可家湊の辺り)に上陸、木田城に一泊した後、1月24日払暁、村木砦を襲った。可家の湊とは、以下の通り、万葉集にも詠まれた古くからある湊であった。その可家の湊があったあたりに建つ諏訪神社には、万葉の歌碑がある。古い歌碑は字が薄れてきたために、新しい歌碑も建っている。

<諏訪神社にある万葉の歌碑~小さい右側の碑が本来の歌碑>

Manyoukahi                                                                                

諏訪神社の石碑には、以下の歌が刻まれている。

年魚市方塩干家良思知多乃浦爾 朝榜舟毛奥爾依所見

あゆち潟潮干にけらし知多の浦に 朝こく舟も沖に寄る見ゆ

また、万葉集にある可家の湊を詠んだ歌は、以下の通り。

味鎌の可家の湊に 入る潮の こてたずくもか 入りて寝まくも

要は、今は陸地がその西側にずっと広がっているが、昔はその付近まで海だったということ。

ところで、荒尾空善は今川氏の尾張侵入によって戦死、村木砦の戦いの頃の当主は、大野佐治氏から養子に入った善次である。 大野の佐治氏や寺本の花井氏は、知多半島に今川家が侵攻した際に今川氏に付いたようで、花井氏はその後も桶狭間合戦にいたるまで今川方であり続けたのに対し、佐治氏は荒尾氏と養子縁組をするなど、途中で織田方に懐柔されたらしい。

荒尾善次は信長の軍を迎え、織田の軍勢は木田城だけでなく、周辺の長源寺、観福寺(高横須賀町山屋敷)にも分かれて駐屯、そして村木砦を攻めるのであるが、荒尾氏もこれに加わったとされる。

「城之腰」の交差点を「城山」とは逆に西へむかうとすぐに観福寺があり、しばらく歩くと長源寺の門のあたりに出る。長源寺は、延徳4年(1492)、大中一介禅師により開山された曹洞宗の寺。観福寺は知多でも有数の古刹で、寺伝によれば大宝2年(702)行基の建立といわれている。その沿革も宝徳2年(1450)に前身の本堂を建立したことが、寺蔵の棟札によって知られているだけで、そのほかの詳しいことは不明。しかし、相当の古寺であることは間違いなく、尾張徳川家の尊崇をうけ、文化財も多数所蔵している。また、当時は今より寺域が広く、「城之腰」交差点まで広がっていた。こうした寺院は、戦国期には荒尾氏の出城のように使われた可能性もある。

<仁王門から見た観福寺本堂>

Kanpukuji

一方、寺本の花井氏は、代々現在の知多市の寺本城を居城とした。寺本城は青い瓦葺であったといい、青鱗城ともいう。花井氏は尾張守護であった土岐氏の被官だったというが、寺本の津島神社には、寺本城主花井信忠が嘉吉3年(1443)5月に津島社を建立した棟札が今も保存されている。戦国期には花井播磨守、勘八郎の二代が寺本城主であった。この花井氏は、今川勢の知多侵攻に伴い、今川方となっていた。天文23年(1554)1月25日、村木砦攻めに勝利して帰った、織田軍により攻められ、寺本城下は戦火にあい、甚大な被害を受けた。桶狭間の戦いの後は、花井氏は織田信長に従い、大野城主の佐治氏の大野水軍とともに、寺本水軍として西浦の海で活躍したという。

桶狭間合戦の際の伝承として、織田方である荒尾氏の勢力圏内の可家湊、前述の諏訪神社近くに、どういうわけか「今川義元の塚」がある。それは長源寺、観福寺とも近い、今の横須賀小学校に隣接した場所にあり、その土地は「今川」と呼ばれている。

その場所は、航空写真で示すと、以下のようになる。

大きな地図で見る

伝承では、桶狭間の戦いで敗れた今川方の家来たちが、この地まで逃れ、義元の遺体を現在はない永昌寺に葬り、墓を守るためにこの地に住み着いたという。その子孫で「北川」「早川」という姓の者の子孫がいまでもいるという。

今川義元の首級は織田勢が首実検のために持ち帰ったが、それを鳴海城を守った岡部元信が強くアピールし、岡部が駿府に帰還させたという。また、胴塚も豊川の牛久保にあって、義元の嫡子氏真が供養したりしているので、そこに遺骸が葬られているのだろう。方角も桶狭間からは西にあたり、織田勢の多い当地に今川義元の塚があるのは、もちろん信じがたい。

<今川塚>

Imagawaduka

面白いのは、傍らにある石塔に「今川義基墳」とあること。「義元」を「義基」として祀っているのは,織田の勢力が強いために遠慮して字を変えていると言われているが、一字替えたところで、すぐ分かるのではないか。

<「今川義基墳」の文字のある石塔>

Imagawafun

今川塚近くの地に、戦いに敗れた今川義元の家臣が逃れてきたが、ついに息絶え、村人が12人の亡骸を葬ったとされる十二塚という地名も残っているが、落ち延びてすぐに全員死んだとも思えない。
元治元年(1864)には,今谷要蔵という船頭が,伊勢の海で難破しかけたとき,日頃から信仰していた「今川さん」に助けられたとして,塚の周辺の地を買い取り,祠(ほこら)を建てたという話も残っており、確かに今谷要蔵の寄進した石造物が残っていた。
よくわからないが、今川方の敗残兵が桶狭間合戦の後、当地に漂着した。今川方であった花井氏の本拠である寺本に逃げたのかもしれないが、着いたところは、まだ織田方の可家湊であった。しかし、それを憐れんだ地元民がかくまったか何かで、彼らは当地に土着した。その伝承が残り、今川義元に結び付けられたのではないか。
<今川塚の本当の主は?>

Imagawaduka1

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2008.01.30

終戦直前に空襲された豊川海軍工廠

より作者、森兵男の許可を得て転載
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終戦直前に現在の愛知県豊川市にあった豊川海軍工廠は、米軍機による爆撃にあい、壊滅的な被害を被った。そして、そこで働く、海軍軍人・軍属工員、徴用工、そして多くの勤労動員された人々が亡くなったのである。
1945年(昭和20年)8月7日午前2時40分から3時10分にかけて、グアム・テニアン・サイパンを米軍B29爆撃機、4爆撃団、計124機が飛び立ち、硫黄島からは護衛のP51戦闘機100機が飛び立って、豊川海軍工廠を目指した。同日午前10時13分、最初の空襲が始まり、4つの爆撃団は3つの編隊を組み、合計3,256発の500ポンド爆弾を10時39分までの26分間投下した。8月7日といえば、広島に原子爆弾が投下された翌日であり、長崎への原子爆弾投下とソ連参戦のあった8月9日の2日前である。まさに終戦直前ともいうべき時期に、米軍は気息奄々たる日本に駄目押しの如く、非戦闘要員である多くの職員・工員が勤務する海軍工廠への大規模爆撃を仕掛けてきたのである。

この空襲に対し、日本軍戦闘機の迎撃はなく、御津町大恩寺山の高角砲が一斉射撃を行い、工廠内の高角砲からも射撃したが、大恩寺山の高角砲により一機が被弾、帰還途中の硫黄島付近で墜落したのみで、ほとんど無防備の状態であった。

豊川海軍工廠では、この空襲により2,670名の人が亡くなったとされている。しかし、朝鮮人徴用工の被災者の実数が正確に把握されているとは言い難く、実際には3,000名以上の貴重な人命が失われた模様である。当日、通常通り勤務していた彼らはわずか20数分の間に爆撃と機銃掃射にさらされ、工廠は阿鼻叫喚の巷と化した。
Bakudan

防空壕に入ってもなくなる人はかなりおり、工廠周囲の堀の中に遺体が折り重なるようになっていたという。現在、名古屋大学太陽地球科学研究所の敷地内となっている火工部跡地の北西部分に、爆弾が落ちた跡があるが、直径3mほどで人が一人立って頭が出るか出ないかの深さ(1.5m以上)がある。さらに、残存する火薬庫や材料倉庫にも爆弾の破片が当たった跡や機銃で撃たれた跡が今も残っている。
この防空壕は、指揮官壕以外は、一般に海軍の基地にあるようなコンクリートで固められ、半地下式の頑丈なものではなく、多くのものが地面を掘って天井に丸太などを渡して、土で覆ったようなもので、上からみるとCの字の形をした3mほどの長さのものか、人一人が隠れることのできるタコツボ状のものである。巨大な工廠の割には、防空壕などは貧弱であるといえる。すぐに生産活動に戻ることができるようにわざと簡素にしたといわれるが、これは軍の人命軽視のあらわれともいえる。

特に、この工廠には多くの女子挺身隊員、動員学徒が働いていた。年齢的には現在の中学生位の年少者も多く、まだ人生の喜び、楽しみも知らない、そうした年少者からも多くの犠牲者が出た。

実際に豊橋市立高等女学校から勤労動員で、豊川海軍工廠で働いていて、被爆した方の話を、工廠跡の見学会の際に小生のHPに協力してくれている親戚の森-CHANが聞いてきたが、それによると、「空襲警報が出たときには、既に頭上にB29の編隊が飛んでいた。そして、そのうちの1機が高角砲により被弾していた。その編隊を見た海軍の将校さんが『総員退避』と叫び、ふだん入場していた北東門ではなく、そのときにいた信管工場に近い正門から逃げた。防空壕に隠れたが、幸いに無事であった。防空壕に隠れた人でも、爆撃を受けたり、生き埋めになって死んだ人が多い。500ポンド爆弾が落ちた時の爆音は、腹の皮が震えるくらいに響いた。正門の近くで、整列した状態で死んでいる人たちがいた。防空壕に入って死んだ人もいれば、防空壕から出て機銃掃射で死んだ人もいる。私は正門に逃げたのが早かったから助かったが、爆撃の激しかった正門や西門に逃げて助からなかった人は多い。工廠では、部署によって逃げる門が決められていた。西門は、『命令がないと開けられない』と門番が頑張っていたので、逃げ遅れたり、門ではなく柵の下を這いくぐりモンペがボロボロになりながら北へ逃げた人もいる。北門や北東門に逃げた人は、割合助かっている。生死は、殆ど運次第であった。」という。

その豊橋市立高等女学校の動員学徒からも、空襲の犠牲者は出た。豊橋市立高等女学校四五会が編んだ「最後の女学生-わたしたちの昭和」には、その生々しい体験が綴られている。
Gairotou

(写真は、名大敷地内に残る爆弾が落ちた跡のクレーター(上)、浅丘ルリ子主演の映画「早咲きの花」にも撮られた街路灯(下):森-CHAN撮影)
*転載者注
 文中、森-CHANとあるのは、小生mori-chanのことです。
 豊橋高女出身の女医、Wさんたち元勤労学徒の皆様には、いろいろお話をうかがった上に本までいただきました。あらためて御礼申し上げます。

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