カテゴリー「猫」の3件の記事

2013.10.19

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会紹介動画

ブログ「手賀沼が海だったころ」より転載。

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会は、千葉県柏市の松ヶ崎城跡の保存を目的として1999年に市民有志によって創立された団体です。
本会は、手賀沼と松ヶ崎城を中心とした、地域の身近な歴史を研究する中で、見失われがちな地域の文化を再認識し、再構築すること、および史跡と周囲の自然環境を一体として捉える『歴史的自然環境』を街づくりに活かすこと、をめざして活動しています。
経済成長とともに急激な開発がなされ、消滅したものが多い千葉県東葛地域の中で、今あるものを良い形で未来へ残し、伝えていきたいと思っています。

歴史シンポジウム
「手賀沼が海だった頃-松ヶ崎城と中世の柏北域
1999年シンポ

2009年の城跡見学会
2009年見学会

会の紹介動画 ↓


会のHPはコチラ 
→ http://www.matsugasakijo.net/

(ここまで)

なお、動画に出てくる女性は小生の知人で、元アナウンサー。 千葉氏のリポートを仕事でしたことがあるだけでなく、いろいろ歴史や文化財に縁のある方でもある。

今まで写真や動画も知り合いに頼んで来たし、身内ばかりで制作しているようで、恐縮である。

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2006.11.02

常滑に呂号甕をたずねて

先日、常滑に行ってきた。といっても住んでいる武豊からは車で20分もあれば中心街にたどり着くので、たいしたことはない。これは、また森タケ男さんからの「秋水燃料を製造する際に使った常滑焼の呂号甕について調べてきてほしい」との要請(というより命令)による。最近、常滑にも行っていないからたまにはいいかと思いつつ、保示の正住院の前を通って一路、常滑市民俗資料館へ。

<正住院の山門>

Shoujyuin

常滑市民俗資料館の駐車場に車を置き、中に入ろうとすると、いきなり園庭に置かれた大きな甕が目に付く。これこそ、呂号甕と思い、とりあえず撮影した。ずらっと呂号甕が並んでいる(写真手前は普通の土管)。ちなみに、この呂号の’呂’とは、ロケットの’ロ’だそうだ。昔の軍部も単純なネーミングをしたもんで。

<常滑市民俗資料館の庭にあった呂号甕>

Rogo5

早速、民俗資料館の中に入ると、平成18年度第4回収蔵品展として「重要文化財・涅槃図と常滑水野家文書を中心として」というものが開催されていた。小生、呂号甕より、こちらのほうに興味があるのだが。

涅槃図は中国の寧波で元末明初の頃に書かれたもので、中之坊寺に伝わった。常滑水野家文書は、以前当ブログでも紹介したもので、水野監物にあてた織田信長の黒印状や徳川家康の書状などである。水野監物守隆は、本能寺の変の際に明智方についたため没落、常滑に帰ることなく京に隠棲せざるを得ず、その未亡人総心が岩滑城主中山勝時の長子光勝の子保雅を養子に迎え、常滑水野氏は尾張徳川家家臣として存続した。

また、戦国時代から安土桃山時代の壺とか、尾張徳川家で使っていた煙硝壺などが展示されていた。よく分からないが、茶陶として使われたらしい壺は、全体に自然釉がかかって良いもののように思える。鑑定団に出したら、いくらぐらいの値段がつくのだろうか。

<常滑水野家文書~織田信長の黒印状>

Kokuin

<戦国時代~安土桃山時代の壺>

Tokonameyaki1

<尾張徳川家の煙硝壺>

Enshoutsubo

話がそれたが、民俗資料館の中には、常設展示として平安時代から江戸時代の甕や壺、茶碗、朱泥急須といった陶器、現代の陶製土管、電線を埋設するための電纜管やら器具の類が展示されている。そのなかに、一際大きな呂号甕がある。高さは2mほどもあろうか。人間の背丈より大きそうである。この呂号甕には2,000リットル入るそうである。つまり1升ビン1,111本分である。これが、硫酸瓶などと一緒に展示されている。

<民俗資料館に展示されている呂号甕>

Rogo1

よく見ると、下部に小さな口が開いており、フレンジパイプが繋がっている。呂号コニカルフレンジパイプというものらしい。他にフレンジの繋がっていない、口の部分が露出したものが民俗資料館の庭にもあったが、丁度口の部分はラッパ状に突起しており、呂号コニカルフレンジパイプの管端部も張り出していて、パイプの先端がはまるようになっていた。

<呂号甕下部の拡大写真>

Rogo2

<民俗資料館の庭にある呂号甕>

Rogo6

常滑市民俗資料館の職員の方にうかがったが、呂号甕に関するまとまった資料はないそうだ。しかし、太平洋戦争当時の常滑については、いろいろな文献で知ることが出来た。

戦時統制下、食料増産のため湿田改良が行われ、常滑では農地改良用の土管などが量産されていた。太平洋戦争末期になると戦局は暗転し、一発逆転を狙う軍部はロケット機とその燃料の生産が急務としたが、燃料については厄介な問題があった。

ロケット機「秋水」は、甲液すなわち過酸化水素80%と安定剤の混合と、乙液すなわち水化ヒドラジン、メタノール、水の混合溶液に微量の銅シアン化カリを添加したものを反応させて推力を得る。ロケット燃料として、大量の濃縮過酸化水素の生産が計画されたが、その過酸化水素濃縮装置には耐酸性が必要であった。鉄などの一般的な金属製では、すぐに腐食してしまい、使い物にならない。そこで、過酸化水素の濃縮装置には陶磁器が最適とされ、日本碍子(現日本ガイシ)をはじめとして陶磁器業界が必要な装置類を生産した。その陶磁器を利用した燃料装置、特に貯蔵槽等の一大生産拠点が常滑であった。なかでも高さが1.5m以上、容量も3,000リットルもあるような貯蔵用の大甕は、大型土管製造の技術をもつ、伊奈製陶でなければ難しかった。

実は、常滑の土は鉄分を多く含んでいる。たとえば、朱泥の急須が常滑焼では有名であるが、常滑焼の赤い色は、陶土自体に鉄分を含んでいるから、そういう色になるのである。この鉄分を多く含むという陶土の性質から、呂号甕などの容器には常滑以外の適地の土が使用され、製造は常滑で行ったというのが実態である。伊奈製陶(現INAX)の元部長、渡辺栄造氏が「戦争と常滑焼」(『友の会だより』第五号所収 常滑市民俗資料館)に当時の状況を書いている。

昭和19年(1944)7月下旬、伊奈製陶へ海軍省燃料局から呂号兵器の生産命令がきた
(呂号兵器とは、正式には呂号乙薬甲液製造装置といい、酸やアルカリに最も強い耐酸炻器を、ロケット推進に必要な高度の濃縮過酸化水素製造装置に用いるもの)。
その生産命令の中身は、大量の大小貯蔵槽、反応塔、真空瓶、各種パイプ、蒸留装置等を8月末から11月中頃までに納入せよというもので、この新兵器は航空機以上の急用品だという。
伊奈製陶は、早速それまでの受注品を全部辞退し、中・小型の貯蔵槽など比較的簡単な物は、地域の中小工場を指導して製造を委託することになった。

このように、昭和19年(1944)8月頃からは伊奈製陶だけでなく、常滑全体をあげて、本来の陶器生産そっちのけで呂号兵器の生産にシフトすることになった。

この呂号甕、常滑では大量に生産されたようで、街中でよく見かけた。結局、ロケット機「秋水」が実用に乗らず、呂号兵器は常滑に溢れかえったのであろう。例えば、下の喫茶店の看板代わりに使われている大甕、これも呂号甕である。口が小さく、ほぼ球体をしている。 喫茶店の名前も「壺」といい、そのままである。

<喫茶店「壺」店頭の呂号甕>  

Rogo3

さらに常滑市陶磁器会館の前にも、小ぶりながら呂号甕がある。この甕は、下部の開口部がきちんと残っている。実は、前に紹介した民俗資料館の呂号甕を、陶磁器会館にあると間違って紹介しているHPがあったのであるが、確かに呂号甕は陶磁器会館のにはあった。ちょっと小振りではあるが。

Rogo4

さらに陶磁器会館から歩いて、「散歩道」を行くと、懐かしいレンガ作りの煙突など、常滑らしい風景に出会うことになる。「散歩道」周辺でも、呂号甕はありそうである。その途中で、妙齢の女性2人組が細い路地に入っていくので、ふと見るとギャラリー何とかという案内板があった。ギャラリーとは壺か何かを展示しているのか、それとも絵?と、その女性2人に導かれるように、小生路地に入ったとたん、呂号甕が道の脇の雑草の中にあるのを発見。女性2人はお互いに記念写真を撮っていたが、小生は雑草の中の甕にカメラを向けたのであった。多分、「何でこの人は雑草だらけのところを撮っているのかしら」と思われていたであろう。また、ギャラリー何とかという店に行くことも忘れ、俄然呂号甕探しを思い出したのであった。

今回写真に撮らなかったが、陶芸工房の敷地に呂号甕が置いてあったりした。また、呂号のパイプを壁にしている呂号壁というのもある。

<懐かしいレンガ作りの煙突>

Tokoname

<散歩道の途中で>

Sampomichi1

<雑草に隠れた呂号甕>

Rogo7

帰りがけ、陶芸道場の前に動物たちを陶器にした陶製人形が飾ってあった。猫と豚と、あとは何かな?近くには土管坂という、尺土管を土留めにした坂道がある。一つの観光スポットなのだが、それほど驚くほどのものではない。やれやれ、今日は、呂号甕で終った一日であった。そこを通って、帰ることにした。

<陶芸道場前の陶製人形>

Tougeidoujyo 

すると、土管坂のところで、猫がこちらを見ていた。そして、ゆっくりと土管坂を登っていったのである。

一句浮かんだ。

秋日和 猫のぼりける 土管坂

<土管坂にいた猫>

Dokanzaka1

<猫が悠然と土管坂を登る>

Dokanzaka3

参考文献

・『常滑陶業の100年』 とこなめ焼協同組合 常滑市民俗資料館 (2000年)

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2005.12.19

「ねこの手も借りたい」考

「ねこの手も借りたい」という言葉がある。忙しい時に、ねこの手も借りたいほど忙しいなどという。
この「ねこ」とは、動物の猫であろうか。
もし、動物の猫なら、猫の手を借りても、孫の手の代わりに背中がかけるわけでもなし、猫パンチでボクシングができるわけでもない。じゃんけんをしても、パーを出しているのか、グーを出しているのか判別がつかない。チョキが出せないのは間違いない。

ところで、来年は戌年である。だが、猫年というのはない。十二支に猫がないのはなぜかという、物語があったが、猫としてみれば、ねずみ年やウサギ年があるのになぜ?と思っているに相違ない。
また、猫が銅像になっているのも見たことがない。その他の動物では忠犬ハチ公や高知城にある馬を連れた山内一豊の妻の銅像などあるが、忠猫なんとかなどといった銅像はない。もともと猫は人になつくより、家につくといわれるのである(家につくといっても、気まぐれでぷいといなくなる)のであるから、忠猫はあまり出ないのであろう。虎ノ門に猫か?と思う銅像があったが、虎であった。猫で有名な造形は、左甚五郎の眠り猫くらいか。

<虎ノ門の銅像>
toranomon

「猫の手も借りたい」というのが、正しければ、役に立たない猫の手でも借りたいくらい忙しいというのであろうか。
「ねこの手も借りたい」というのは「女子(めこ)の手も借りたい」が訛ったものという説もある。しかし、女子は明治時代の女工哀史にあるように工場で働いたり、江戸時代以前でも重要な労働力であり、年端の行かない子供でも子守などをやらされていたのであるから、その説は違うだろう。
だが、動物の猫の手では、役に立たないこと、この上ない。役にたっても、ねずみをたまに取ることぐらいであろう。
だいたい、猫はいつもぐうたらしている。日光にある左甚五郎の眠り猫のように、猫はよく眠る。

もともと、猫とは寝る子である「寝子」が語源であるという。道理で、良く寝るはずである。

<藁籠のなかの猫~有馬温泉にて>
KC320025

猫、あるいは寝子には、別の意味がある。猫は、芸者を示す隠語でもある。芸者は猫の皮をはった三味線を弾き、客をだますからだという(勿論、そういう語源だからというだけで、筆者はそう思っていませんので、念のため)。芸者といえば、江戸時代以降になるが、「ねこの手も借りたい」とは何時ごろからの言葉であろうか。
「ねこ」は芸者ではなく、遊女かもしれない。寝子は、男と寝る子、つまり遊女を意味する言葉でもある。
猫と書いても、同様であり、本所回向院辺りには、金猫銀猫と呼ばれる遊女がいたそうだ。金猫、銀猫とは、揚げ代が金一分の遊女が金猫、銀二朱の遊女が銀猫と呼ばれたということで、吉原の花魁などとは違って下級の遊女である。吉原も、志ん生の落語などで聞くところによれば、昔は日本橋にあり、それが浅草の裏、千束の近くに移ったというが、新吉原はかつての江戸の北のはずれにあった。品川は、その逆で南のはずれである。大体、遊女屋や刑場は似たような場所にあり、回向院などもその通りである。
だから、遊郭、遊女というと、町のはずれのわびしいイメージがあるが、なぜか遊郭には可愛らしい招き猫がつきものである。その昔の遊郭に招き猫が置いてあったのも、遊女=猫が客を招くというのをあらわしたものであろう。もっとも、実際に猫があのような手をあげるポーズはしない。顔を洗うような仕草はするけれども。
それはともかく、猫、もしくは寝子が芸者、あるいは遊女を示すことから、読み方の同じ猫が遊郭につきものなのだろう。

<臼井の謙信一夜城公園の猫>
usui21oujidai

つまり、「ねこの手も借りたい」とは、農業など、江戸時代の大多数の民衆が携わってきた仕事を、普段そのような肉体労働をすることのない、芸者もしくは遊女にでも手伝ってもらいたいほど忙しいのだということを言っているのであろう。

<手賀城址の猫>
teganeko

では、こんな筆者でも気がつくことを、なぜ国語学者のような人が言わないのか。遊女から来る言葉は、嫌悪感を感じるという感覚なのであろうか。日本の昔にも、マグダラのマリアは大勢いたと思うのだが。

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