カテゴリー「徳川家康と知多半島」の42件の記事

2009.05.02

徳川家康と知多半島(その34:「三州錯乱」と家康の自立)

今川義元の死後、知多半島で今川方となっていた諸将は織田方になり、松平元康、のちの徳川家康も大高城から岡崎に戻って、

駿河衆、岡崎之城ヲ明て退キケレバ、其時、捨城ナラバ拾ハント仰有テ、城へ移ラせ給ふ。」

と三河物語にあるように、いったん大樹寺に入って、岡崎城から今川の将兵が退いたのを見極めて岡崎城入りした。その動きは、非常に鮮やかであり、後の短期間での三河統一や、織田信長との同盟による勢力拡大の起点となった。それからは、岡崎を拠点として、松平元康は自立の道を歩むことになる。

<岡崎の大樹寺>

Daijyuji1

以前述べたように、「従来は、松平元康、のちの徳川家康は、今川氏真に父の仇を討つように進言し、自身は織田・水野の軍勢と各地で戦った。しかし、今川氏真は暗愚で政治、軍事に向いていなかったため、一向に尾張に攻め込もうとしなかった、そうするうち、水野信元の仲介で織田信長と手を結ぶことが提案され、永禄5年(1562)になって、それにしたがって織田・松平の同盟(清洲同盟)を結んだ、という説が根強く、江戸時代から支持されてきた」。

しかし、桶狭間合戦の時点で、今川家の家督は今川氏真に譲られており、その当主氏真は、桶狭間合戦で功績のあった家臣に対し、恩賞を与え、あるいは戦死した家臣の子には、所領を安堵するなどして、領国経営を進める努力をしてきたのである。たしかに、今川氏真は父義元の復仇のための兵を尾張に向けなかったが、それは松平元康自身が張本人で引き起こされた三河での今川からの離脱の動き、いわゆる「三州錯乱」や北からの武田の脅威に対抗する措置を行っていたため、そのような「余裕」がなかったというのが実態であった。

「三州錯乱」の張本人は、松平元康である。西三河を手始めに、今川方にいったんなっていた地域の豪族に戦いを挑み、あちこちに兵を進めているのである。その張本人が、今川氏真に親の仇を討つように進言するだろうか。

どうも、今川氏真という人は、徳川家康と武田信玄に領土を蚕食されて、領国を持ちこたえきれず、縁戚の後北条氏を頼って出奔し、京都四条あたりにくすぶっていたのを豊臣秀吉に拾われ、最終的に自分を駿府から追い出した徳川家康に仕えて、子孫が高家となったという晩年の姿や、蹴鞠ばかり得意で、政治に見向きもしない暗愚な武将という俗説から、非常に低い評価をされることが多い。しかし、縁戚の後北条氏を頼って出奔するまで、駿府から掛川に居城を移したりしながら、曲がりなりにも十年持ちこたえたのである。

前述のように、松平元康、のちの徳川家康は、進言したかどうかは別にしても、今川氏真がいつまでたっても、父義元の仇を討とうともせず、そうこうするうちに水野信元が織田信長との同盟の仲介をすることを提案してきたので、それにのって仕方なしに織田信長と同盟したというのは、どうであろうか。

<岡崎にある徳川家康の産土六所神社>

Rokusho2

これはあまりに、家康の側に都合の良い説明である。実際は、松平元康は早くから今川氏の支配の呪縛から脱し、自立しようとしていたが、まだ今川の勢力も根強く、一方領地を接する織田方の水野氏とは争わねばならない、それで後顧の憂いを絶って、今川と本格的に対峙しようとしたのではないか。

それをそのまま書いてしまうと、江戸時代に定着した「武士は二君にまみえず」という忠君思想とはかけ離れたものになってしまうため、後の道徳観念にあうように、水野信元の仲介でやむなくという筋書きにしたと思われる。水野信元の側では、松平元康と石ヶ瀬川の河原などで争うのはやめたいと思っていたかもしれないが、わざわざ織田・松平同盟の仲介の労をとることは積極的には考えていなかったと思われる。

むしろ、織田信長の側は、今川氏との桶狭間合戦の後は、矛先を美濃に向けようとしていたため、安心して美濃攻めをするためには、松平を使って東側の今川の動きを封じ込めたかったのである。その織田と松平の利害が一致したために、おそらく水野信元は織田信長の命令で仲介をしたに過ぎない。

<武豊線から見た現在の石ヶ瀬川>

Ishigase

もとを正せば、松平元康は、三河の豪族松平氏の「十八松平」といわれるうちの、宗家でもない安祥松平家の出身で、たまたま祖父清康が今川・織田の勢力を腹背にうけつつも、三河一円に勢力を伸ばし、織田信秀を攻めるまでにいたったものの、守山崩れで亡くなった後、跡を継いだ広忠が、今川の力を頼って家を存続させたのであって、譜代の今川家臣でもない。今川の強い統制下にあったのは、本来の領国である駿河、せいぜい遠江であって、三河や尾張の一部では独立の小豪族たちを服属させているのに過ぎなかった。

<岡崎城>

Okazakijyo2

「三州錯乱」と同時に、遠江でも今川方の部将が次々と今川の勢力から離脱していく「遠州忩劇」という事態が進行していった。

これは、「浜松御在城記」によれば、以下の通りである。

一、遠州引間ノ城主飯尾豊前守ハ駿州今川ノ先鉾(鋒)トシテ、尾州織田軍勢卜所々ニテ合戦、然ニ永禄三年(五月脱)十九日、義元、尾州桶狭間ニテ討死ノ後、氏真、亡父ノ弔合戦之心掛モ無之、朝夕酒宴遊興二長ラルゝ故、権現様、永禄四年ヨリ信長公卜御和睦被成候、遠州引間ノ城主飯尾豊前守・同国井伊谷ノ城主井伊肥後守・同国嵩山ノ城主奥村修理ヲ始、大方氏真ヲ叛キ、信長公及権現様江内通仕候、此由氏真聞及、永禄五年二月ハ井伊谷、同年四月ハ引間、同七月ハ嵩山、此三城へ駿河ヨリ人数ヲ差向被攻候、井伊谷・嵩山ハ落去、引間ノ城ニテハ、寄手ノ大将新野左馬助討死、城内ニモ、飯尾同心渥美・森川・内田等ノ歴々討死仕候得共、猶堅固二守二依テ、氏真、調略ヲ以テ、致和談候、此以後永禄七甲子、氏真三州江発向、権現様卜所々ニテ攻合、同国一ノ宮ヨリ人数ヲ引取被申候刻、飯尾ハ権現様江御味方ノ然相見候ニツキ、氏真ヨリ遠州二俣ノ城主松井左衛門、豊前守姉婿ナルニヨリ、渠ヲ媒トシテ縁二取クミ、駿府江呼寄、永禄八年極月廿日、駿府ニノ丸飯尾屋敷江押詰、被誅之、然共引間城ハ豊前守家臣江間安芸守・同加賀守持固候故、翌年二月、権現様より御慇之御書被下候由、

というものである。

この文献は「浜松市史」に収められているもので、オリジナルのものは浜松藩士永井随庵が延宝末から天和年間に著したという。さすがに江戸時代の書物だけに、家康中心の書き方であるが、すでに永禄4年(1561)には織田信長と和睦していたこと、永禄5年(1562)には今川方であった井伊、奥村、飯尾が離反したため、今川氏真が兵をつかわしてこれを攻めたこと、うち飯尾(連龍)は引間(曳馬)城に籠って城はなかなか落ちず、今川氏真が謀略をもって討ったことが分かる。そして、飯尾連龍などの諸将の背後には、家康や信玄の工作もあり、飯尾連龍は最後のころは家康と内通していたらしい。

<浜松城~前身は曳馬城>

Hamamatsujo

桶狭間合戦以降の松平元康の動きについて、簡単にまとめると、以下のようになる。

永禄3年(1560)5月~

5月19日、今川義元、桶狭間合戦で戦死。松平元康は5月20日大高城を脱し、5月20日岡崎城に戻り、今川氏の支配下から独立。早くも額田郡、碧海郡といった西三河では、吉良氏などを攻め、織田方であった水野信元とも石ヶ瀬川にて合戦。

永禄4年(1561)

松平元康、織田信長とこの頃和睦か。松平元康は、東三河にも進出。東三河の国衆である菅沼氏、西郷氏を服属させる。また西三河でも、9月13日に行われた東条城をめぐる、元三河守護吉良氏との藤波畷の闘いに勝利するなどして、吉良氏の当主吉良義昭をくだす。

永禄5年(1562)

1月15日 松平元康、清州に赴き、織田信長と会盟(「清州同盟」)。

2月4日 三河西郡城の鵜殿長照を攻め、その二子を捕える。鵜殿長照の二人の子と築山殿、嫡子信康、亀姫を交換。

遠江でも、今川家臣団の動揺が広がり、井伊、天野、飯尾といった諸将が離反。これに対し、今川氏真が兵をさし向ける。

6月(異説あり)、今川氏、松平氏は、牛久保城をめぐり、大規模な戦闘を行う。今川勢は吉田城・牛久保城の拠点に陣取るとともに、今川氏真自ら兵を率いて牛久保に着陣。松平勢の一宮砦を大軍で包囲するも、松平元康は、小勢で今川の攻囲を突破(「一宮の後詰」)。

永禄6年(1563)

3月2日 嫡子信康、織田信長の次女五徳と婚約。 

7月6日 松平元康の今川義元から与えられた偏諱である「元」の字を返上、家康と改名。

10月下旬 三河一向一揆勃発。本證寺(安城市野寺町)、上宮寺(岡崎市上佐々木町)、勝鬘寺(岡崎市針崎町)の、三河三ヶ寺と、本宗寺および桜井松平氏、大草松平氏、吉良氏、荒川氏などが反家康勢力となった。自らの一族家臣も含めた一揆勢との戦いは、半年に及んだ。そして、永禄7年(1564)2月13日に上宮寺の一揆が岡崎城に攻撃をしかけたのを最後として、一揆勢からの攻勢はなくなり、一揆との戦いに勝利。その一揆勢との戦いに勝った余勢をかって、6月には東三河の今川方の拠点であった吉田城(豊橋)を攻略。

永禄7年(1564)

曳馬城主飯尾連龍、今川氏真の謀略で、駿府にて誅せられる。

<一向一揆の拠点本證寺>

Honnshouji

永禄9年(1566)

この頃までに家康は、三河一国を統一。

12月19日、松平から徳川に「復姓」することを勅許にて認められ、朝廷から従五位下、三河守の叙任を受ける。得川という名字は、新田義重の四男義季が上野国新田郡得川郷(現在の群馬県太田市徳川町)を継承して得川と名乗ったのがはじめで、義季の嫡子頼氏は世良田郷を継承して世良田を名乗り、義季の庶長子頼有が得川郷を継ぎ、また得川を名乗った、親子二代しか続かなかったものである。どうも、家康は源姓が欲しかったらしく、吉良氏から系図を借りたりして研究し、わざわざ子孫がいないと思われる得川という家を見つけてきて、自分の先祖で時宗の僧だったという、松平親氏が新田源氏の出であるという設定にした。松平家に入り婿ではいった親氏の所縁により、先祖の姓に戻すという趣旨であるが、松平氏が賀茂姓であることは明らかであり、いささか強引なこじつけといわざるをえない。

永禄11年(1568)

今川義元存命中は、甲斐・駿河・相模の三国同盟を結んで、駿河に兵を動かすことなどなかった武田信玄であるが、急速な家康の台頭、今川領の蚕食をみて、今川氏真と手を切り、逆に徳川家康と結んで駿河を攻略する方向に出る。

武田信玄の駿河侵攻は、12月12日。その三日後には徳川家康は三河から遠江に攻め入った。武田信玄に駿河今川館を追われた今川氏真は、掛川城に逃げる。12月27日には、徳川勢が掛川城を包囲、今川氏真は半年ほど籠城する。

<掛川城>

Kakegawa11

永禄12年(1569)

掛川城を救援するための北条氏康の出動あるも、5月17日についに、氏真は家臣の助命と引き換えに掛川城を開場。それ以降、今川氏真は小田原北条氏を頼り、出奔。今川残存勢力にさかんに文書を発給するが、やがて武田勢などに切り崩され、家臣団も崩壊。

こうして、家康がまだ竹千代といっていた幼少期から、家康や岡崎衆をがんじがらめにして服属させてきた今川氏という大きな存在は、戦国大名としては滅亡した。しかし、かわって織田信長という存在が、徳川家康の前にクローズアップされることになる。

それに関しては、また次回。

参考文献:

『浜松市史』 浜松市

『徳川氏の研究』 小和田哲男編 吉川弘文館 (1983)

『駿府の大御所徳川家康』 小和田哲男 静岡新聞社 (2007) 

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2008.12.30

徳川家康と知多半島(番外:布土城跡再訪)

今年も押し詰まり、帰省の前に、布土城跡をもう一度訪問しようと思い、行ってきた。前にも一度見に行ったのだが、どうにもわからず、せめて土塁の端までも残っていないか再度確認に行ったのである。

思えば、知多半島に20何年ぶりかに住むようになって3年もたったが、いまだに下の方は武豊から美浜町の一部しか分かっていない。河和には何度か行ったけれど、内海や南知多町には足が向かないのである。

師崎には会社の忘年会で行ったけれど、昼間自分で車を運転して行ったことは、26年くらい前である。師崎の台地の上から、下界の夜景を見たが、どの明かりが灯台で、どれが日間賀島か、篠島か、さっぱり分かっていないのである。

さて、布土城跡は、愛知県知多郡美浜町大字布土字明山 にあるのだが、そこには城跡の案内板も何もない。近くに神明神社があり、そのちょうど西側が城跡だという。

<布土の神明神社>

Sinmeijinnjya

神明神社は国道方面から名鉄の線路をくぐり、心月斎にむかう途中にある。鳥居は低地にあるが、社殿は少し高い場所にある。

例の布土城跡があると言われているのは、神明神社の西側、道を隔てた畑だそうだが、あまりに狭く感じられ、城跡があるのにふさわしい場所だろうかと思った。もちろん、現在建っている家の場所には昔は人家はなかっただろうし、その家の敷地を含めても少し小さめである。

この城の主は、水野忠分。水野忠政の子で、信元の弟にあたる。明確な事績としては、天文6年(1537年)生まれで、天正6年12月8日(1579年1月14日)に織田信長の有岡城攻めに従軍して討死にした人である。天文年間にこの城を築き、南にいる戸田氏などの守りとしたらしい。

水野忠政の六男か七男とはいえ、水野金吾と言われ、緒川城周辺を守った人物の城にしてはスケールが小さい。もっとも、出城のようなものであるから、簡単な作事ですませ、場所もせまかったのかもしれない。戦国時代の城で、小さいものは50m四方くらいで収まってしまうものもある。しかし、それは地侍の城だ。

<神明神社の西側、城跡の比定地>

Futojyou1

おそらく、昔の絵図をみるに、台地ののぼり端のような場所を、南側を削って切り岸で登りにくくし、東西と北を堀で区画し、一重か二重の土塁で囲った単郭の居館形式の城であったのではないだろうか。そうすると、神明神社の西側の坂の途中の台地中腹の場所でも城としては適当な場所であったのだろう。

念のため、もう少し北へ台地をのぼってみた。すると、広々としすぎて、防御の作事をしようと思うと大工事になりそうである。

<北側から見下ろしたところ>

Futojyo2

結局、先ほどの場所でよかったと思い、また下っていった。道をしばらくおりていくと、以下のような場所に出た。見られるように、木立のあるところは神明神社のある林である。

<神明神社の西側田圃のある場所~ここが城跡中心部か>

Futojyou3

なんとなく雰囲気があるし、南側が一段下がって、切岸を設けたという地形のとおりである。ここが城の中心部ではないだろうか。最初見た場所は、この場所より70mくらい東側である。そこも城跡の一部であろうが、中心はこちらのような気がする。

結局、土塁のひとつも見つからず、一日が終わった。

しかし、なぜかくも城跡が跡形もないのであろうか。緒川城も土塁が一辺残っているのみである。

<緒川城跡の土塁>

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*切岸は、城の防御のため、斜面を切り立った崖のように削り、敵が容易にのぼれないようにした作事

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2008.11.27

徳川家康と知多半島(番外:曹洞宗心月斎の晋山式)

先日、くしくも心月斎にて参列した晋山式。初めての経験で、お寺のなかで、ずっと座っていたのも、久しぶりである。

晋山式とは、そのお寺が新しい住職を迎える、いわば住職交代の儀式である。それは、大体以下のとおりで、稚児行列はオプションかもしれない。なお、禅宗では、和尚さんを普段方丈にいるので方丈さんというが、新命方丈さんは新しく任命された和尚さんのことである。

<お稚児さんは本堂にも入ってくる>

Chigo

・三門法語  新命方丈さんが三門に到着、香をおたきになり、ご自身の見識を述べる

・大擂上殿  太鼓がとどろく中を本堂に入る

・仏殿法語  ご本尊様に対する新任のご挨拶
・土地堂法語 仏法の守り神である招宝七郎大権修理菩薩様の御前で、このお寺の繁栄と檀信徒の家内安全、子孫長久祈る

・祖堂法語 達磨大師へ法語
・開山堂法語 高祖道元禅師様・太祖瑩山禅師様・このお寺の御開山様・歴代住職へ法語
・拠室(こしつ) 新命方丈さんは初めてご自身の方丈の間に入る
・視篆(じてん) お寺に伝わる数々の印鑑を確かめる儀式

・空座問訊(くうざもんじん)  

・新命上殿  新命方丈さん、太鼓がとどろく中を本堂へ

・伝衣搭著(でんえとうじゃく)  御開山以来伝わる衣を着る

・新命登座  新命方丈さんは須弥壇上に登座

・拈香 

・ 問訊  問答に先立ち、問答の開始をお願いするお拝を行う

・白槌(びゃくつい)  白槌師さんが槌砧を打って問答開始を宣言

・垂語(すいご)   新命方丈さんは話のきっかけとなる言葉を述べて大衆を誘い、ここに大問答が開始される 

・問答

・拈香・結語

問答は、少し面白いものがあったのだが、 ある住職によれば、「禅問答等の重要性は勿論ですが、行持をご祖師方と同じく行うことができるということが何よりの幸せ」ということだそうだ。

(上記は曹洞宗のHPを参考に書いているので、当日概ねその通りであったように記憶するが、一部変わっていたかもしれない。当日は晋山開堂以外に、法戦式もあった)

<おでこにしるしを書いて無病息災>

Chigo2

なお、法戦式は、文字通り、問答を戦わせるものである。法戦式を取り仕切るのは、首座(しょそ)の役割で、首座とは修行僧の先頭に立つ役職である。首座は、和尚さんに代わって、問答をリードする。

和尚さんから、杖を受け取り、それで問答を展開していくのだが、今回首座の役を務めた僧は、音楽大学でチェロの演奏をしたいたという若いお坊さんである。音楽大学を出て、さらに仏教系の大学に入ったというのだから、たいしたもの。今でも、チェロなどを演奏しているのだろうか。それは、さておき。

これは、お釈迦様が霊鷲山においてお弟子の迦葉尊者にご自分の席を半分ゆずって説法を許されたという故事にならったものだそうだ。

(その問答の様子は、上記をクリックすれば、聞くことができます。)

参考サイト:

曹洞禅ネット http://www.sotozen-net.or.jp/

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2008.11.24

徳川家康と知多半島(その33:水野忠分と心月斎)

去る11月2日(日)、愛知県知多郡美浜町布土にある梨渓山心月斎という、曹洞宗の寺院の晋山式に行ってきた。

<晋山式が執り行われた心月斎>

Shingetsusai1

それは、岩滑城主、中山勝時ご子孫のSさんから誘われたからであるが、この心月斎の先代、当代住職はSさんのご親戚である。晋山式とは、新しい住職にかわるお披露目の式のようなものであるが、新しい住職とは、先代住職の息子さんで、副住職をつとめてこられた人である。小生の家も曹洞宗であるが、菩提寺は現住所と遠く離れ、今まであまりこういう行事にでることもなかった。  

当方、こういう式に参加するのも初めてなら、心月斎のお堂の中に入るのも今回が初めてである。もちろん、心月斎という寺については、知多に来てから知っているし、何度か来たことがある。この心月斎は、「花の寺」というだけに、季節の草花がいろいろ咲いている。お堂の前の鐘楼の東側に階段があって、裏山のような場所に上ることができる。そこは、公園のようになっていて、階段を上がったところに、蓮池があって、ぐるりとまわってあるくときに、いろいろな石造物や草花を見ることが出来る。以前来たときは、その裏山の植物がいろいろ植えられている公園のような場所を散策したりしたが、蓮池でハグロトンボを見かけて写真を撮った。

<ハグロトンボ>

hagurotonbo.

この心月斎は、天文15年(1546)に、緒川水野氏一族の水野忠分が開基となって創建された。開山は、緒川から招かれたという大良喜歓大和尚。戦国時代、緒川水野氏は知多半島を制圧すべく、一族を知多半島の要所に配置したが、河和の戸田氏に対する備えとして、この布土に水野忠分を領主として配置したようである。 水野忠分は、水野忠政の六男、あるいは七男という。名前は「ただちか」と読むが、「ただわけ」と書いている本もある。水野忠分は、水野忠政の第何子か不明なのは、水野近守を忠政の子とするかどうか、説が分かれるためである。

水野近守が拠ったとされる、刈谷古城は、文明8年(1476)頃には築かれたらしい。通説では、緒川水野氏の祖である水野貞守が刈谷に進出したことになっており、その貞守は長享元年(1487)になくなっている。万里集九が書いた『梅花無尽蔵』という詩文集にも、文明17年(1485)9月の記事として「出刈谷城三里余」とあり、水野貞守存命中に水野氏が刈谷に城を構えていたことが知られる。その刈谷古城の築城が文明8年(1476)頃という訳は、三河守護細川氏と前守護一色氏の戦いが、その当時あり、そのころ水野氏は一色氏について知多半島から刈谷に進出したというのである。

その水野近守は、連歌を嗜んだ風流人であったようで、連歌師の柴屋軒宗長と親交があり、永正17年(1520)、宗長の師宗祇の句集「老葉」に注釈を加えた「老葉註」を与えられている。さらに、「宗長手記」から水野近守は「藤九郎」という通称であることや、大永2年(1522)の時点で和泉守の官途名を名乗っていたことが分かっている。

一方、その当時、水野忠政自身は、緒川にいたはずで、天文2年(1533)に今の亀城公園のところに刈谷城を築いた後、刈谷に移ったという。水野近守が拠った刈谷古城の南400mほど行った場所に、楞厳寺(りょうごんじ)という曹洞宗の寺がある。これは水野忠政が刈谷城を築き、刈谷に移住した際、この寺に帰信し、水野家の菩提寺になった。その楞厳寺に、水野忠政が残した享禄元年(1528)の年月の入った文書があるが、署名は妙茂となっている。

水野右衛門大夫妙茂寄進状

為月江道光毎日霊供□・・・□ 江末代
 渡申田之事
 合弐貫六百文目此内
  壱貫文目坪上松御会下之前次郎四郎散田之内
  壱貫六百文目坪江口御会下之前治郎五郎散田之内
  此田石米弐石六斗ニ延米在之
右於下地者子々孫々違乱煩不可
申上候、為其居印判所末代渡
進上如件
  享禄元年戊子拾二月廿六日 右衛門大夫 妙茂(花押・朱印)
楞厳寺 
   永諗東堂様

<楞厳寺本堂>
ryogonji

水野近守は忠政の文書が発給される前に、大永5年(1525)に楞厳寺に土地の寄進状を出しているが、その文書の体裁と、3年後忠政が出した文書の体裁が同じであり、花押の上に朱印を押し、その印判が瓜二つである。ということは、水野近守は水野氏一族ではあるが、水野忠政の子ではなく、刈谷における水野氏統治の前任者というような人物であった。大永5年(1525)から享禄元年(1528)の間で、刈谷の統治権力が、水野近守から水野妙茂(忠政)に移ったとみることができる。さらに、水野忠政は、築城後は本拠地を緒川から刈谷に移しており、徳川家康生母於大は刈谷城から岡崎の松平広忠に嫁している。

その水野忠政は、天文12年(1543)に刈谷でなくなっている。跡を継いだ水野信元は、今川との関係を断ち、織田方の旗幟を鮮明として、織田の勢力をバックにして知多半島を南進していった。それは、天文12年(1543)で、早くも阿久比町宮津の宮津城にいた新海淳尚を下し、その出城で榊原主殿が守る岩滑城を落とすと、中山勝時を城主としたのに始まり、時宗の僧といわれる榎本了圓がまもる成岩城を落とし、そのあとに梶川五左衛門を入れて城将とした。

また、さらに南の現在の武豊町にあった長尾城を攻め、城主岩田安弘をくだしている。岩田氏は、『知多郡史』によれば、室町時代初期、枳豆志庄は醍醐三宝院領となり、岩田氏がその管理者となったといい、醍醐三宝院に関連した武士であって、その三宝院領の管理のために京から下り、やがて土着して三宝院領を押領したとも考えられる。また室町時代になると、大野庄に入った一色氏が勢力をふるうと、対抗上岩田氏も武雄神社の南、金下(かなげ)の地に城を築いた。さらに、富貴にある富貴城も戸田法雲が築城したようにいわれているが、もともと岩田氏が長尾城の支城として活用していた。戸田法雲は、その岩田氏が衰退したために、富貴に進出、城を改修したものである。

もともと水野氏は、知多半島の要衝をおさえるべく、常滑、大高に一族を配していた。常滑水野氏しかり、大高水野氏しかりである。たとえば、常滑水野氏は緒川水野氏出身の水野忠綱を初代として、歴代当主が監物を名乗る家であったが、もともとは、大野や内海に勢力を張った佐治氏との対抗上配されたのであるが、伊勢との交易のために常滑に港を開き、経済力をつけていった。また、和歌などの風流をたしなみ、織田信長や徳川家康とも書状のやり取りを行う立場にあった。

知多半島の要衝に一族を配していった水野氏であるが、水野忠分もまたその一人といえるであろう。この水野忠分については、天文6年(1537年)生まれで、天正6年12月8日(1579年1月14日)に織田信長の有岡城攻めに従軍して討死にしたこと以外、明確な事績が伝わっていない。しかし、さまざまな歴史的文書や『信長公記』の記述から、以下のことが分かっている。また、於大の方の弟であるから、徳川家康にとっては叔父にあたる。

(1)名前 :

通称は、藤二郎(藤次郎、藤治郎ともかく)、あるいは藤十郎。 忠分は「ただちか」と読む。法名は、盛龍院殿心得全了大居士。

(2)本貫地 :

 終生、緒川であった(刈谷を本貫とした信元とは違う)。

(3)家族関係 :

 忠政の子、信元の弟(六男、七男、八男の諸説あり)。妻は大野の佐治為貞の娘。子としては後に緒川高藪城主となった分長や心月斎第三世寛秀和尚がいる。

(4)居城: 

 布土城(愛知県知多郡美浜町大字布土字明山)

  参考:「∞ヘロン『水野氏ルーツ採訪記』」ここをクリックしてください 縄張図等あり

(5)武功:

 天文23年(1554年)の村木砦攻めを織田信長とともに行ったらしい。天正6年12月(1579年1月)有岡城攻めで先鋒。討死。

<心月斎本堂>

Shingetsusai3

また、水野氏の勢力下には、曹洞宗の水野氏系の寺院を建立していったのであるが、この心月斎もその一つといえるだろう。たとえば、水野氏の本拠、緒川には水野忠政の墓のある乾坤院がある。その緒川の北の村木にも曹洞宗の寺院が、なくなった臨江寺も含めて五つもあった。常滑には常滑水野氏が創建した天澤院、大高には大高水野氏が開いた春江院があった。そういう寺院は、民衆の信仰の場であるとともに、同じ曹洞宗を信じる水野氏と、精神的に結合し、その統治を隅々までいきわたらせるためのものでもあった。

河和の戸田氏が水野氏の勢いに屈して、水野信元との和議によって河和を残すことを図って、水野氏の姻戚、一族に収まると、布土の戦略的な価値はなくなったといえよう。布土に城を構えた水野忠分がなくなったあと、跡継ぎの分長は水野忠重に従ったが、小牧長久手の合戦など数々の武功をあげ、慶長6年(1601)緒川一万石、高藪城の城主となった。

しかし、心月斎は徳川家康のいとこにあたる寛秀全廓和尚の代以降も、連綿として存続し、地域の大寺として今日に至っている。

<心月斎の山門>

Shingetsusai2

参考文献:

『戦国歴史年表』 木原克之編 美浜町教育委員会 (2002)

『刈谷市史』 刈谷市 (1989)

*長いので、晋山式の様子は、別の記事にしました 2008.11.27

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2008.08.25

徳川家康と知多半島(その32:今川義元討死後の知多半島)

永禄3年(1560)5月19日桶狭間合戦で、今川義元が討死した後、今川の勢力は三河や知多半島から後退することになった。それは、知多半島では今の知多市にあった寺本城の城主であった花井氏が、今川方から離反し、織田方についたことに象徴される。

寺本城主は、花井播磨守と嫡男勘八郎であったが、桶狭間合戦に先立つ天正23年(1554)1月の村木砦の戦いの後に、織田信長に攻められている。この村木砦の戦いの頃には、織田信秀がなくなり、織田家中が相続で揺れる間隙をついて、今川の勢力は、西三河から知多半島を席巻していた。

この頃、「知多郡中の諸士織田家を捨て今川の幕下となる」(『峴山日記』)といわれ、今川方の勢力が知多郡を侵食していた。前記の花井氏は、寺本だけでなく、元々は今の大府市の吉川城にいたようで、その吉川城周辺も領有していた。鳴海城主の山口左馬助教継は、織田信秀の死後、家督相続をめぐって織田家中が揺れる中、今川義元の誘いにより織田家を離反、今川に走った。天文22年(1553)には、山口教継は笠寺砦、教継の子九郎二郎教吉が鳴海城を守備しており、山口教継父子は、こうして尾張南部に今川の勢力をくさびのように打ち込む先兵となり、大高、沓掛の両城を調略した。大高城は山口左馬助教継に永禄2年(1559)に落とされ、城主だった大高水野氏が追われ、今川方の鵜殿長照が城代となっている。

<大高城>

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それが、桶狭間合戦後となると、逆に今まで今川方についていた勢力が、織田方となり、今川方は勢力後退を余儀なくされた。寺本の花井氏も、織田方についた、そして花井勘八郎は、元亀2年(1571)の長島合戦には織田方である佐治信方に従って参陣し、戦功をあげている。

このように、その時々の強い勢力に従い、自分の家を守るのが戦国のならいであった。それは、もちろん知多郡だけではなく、三河においても同様であった。

刈谷の水野氏は、元は緒川から進出したもので、緒川水野氏本流そのものと言ってよい。水野貞守の代に、元刈谷に砦か、館のようなかたちで、刈谷古城を築き、その後忠政の代に今の亀城公園の場所に新城を築いたとされる。

刈谷古城は、文明8年(1476)頃には築かれたらしい。万里集九が書いた『梅花無尽蔵』という詩文集に文明17年(1485)9月の記事として「出刈谷城三里余」とあり、水野氏が刈谷に城を構えていたことが知られる。また、大永年間(1521~1528)、刈谷古城には和泉守の官途名を名乗る水野近守という人物(それは大高城主水野大膳亮忠守の父和泉守近守であったとされる)がいたことが発給文書などから分かっており、連歌師の柴屋軒宗長もたびたび、その館(刈谷古城)を訪れている。

<刈谷古城跡~右側の藪、道路には昔水路があった>

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<刈谷古城跡の一部か、台地端の畑地に残る土塁状のもの>

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亀城公園の場所の刈谷城は、天文2年(1533)に築かれたが、永禄3年(1560)、桶狭間の合戦で敗北し、鳴海城を開城して引き揚げる途中の今川軍の岡部元信によって焼かれてしまい、再建されたのは慶長5年(1600)の水野忠重が城主となった頃である。

その刈谷城は、松井宗信の子、宗恒に宛てた、以下の今川氏真判物写によって、一時今川方が入城していたことが分かる。

父左衛門佐宗信及度々抽軍忠之事

一 東取合之刻、於当国興国寺口今沢、自身砕手、親類・与力・被官数多討死、無比類動之事

一 参州入国以来、於田原城際、味方雖令敗軍相支、敵城内江押籠、随分之者四人討捕之事

一 松平蔵人・織田備後令同意、大平・作岡・和田彼三城就取立之、医王山堅固爾相拘、其以後於小豆坂、駿・遠・三人数及一戦相退之故、敵慕之処、宗信数度相返条、無比類之事

一 苅屋入城之砌、尾州衆出張、雖覆通路取切之処、直馳入、其以後度々及一戦、同心・親類・被官随分之者、数多討死粉骨之事

一 吉良於西条、味方令敗軍之刻、宗信相返敵追籠、依其防戦、同心両人・益田兄弟四人、遂討死之事

一 大給筋動之時、天野安芸・同小四郎其外手負大切処、宗信相支、無相違引取之旨、無比類之事

一 去五月十九日、天沢寺殿尾州於鳴海一戦、味方失勝利処、父宗信敵及度々追払、数十人手負仕出、雖相与之不叶、同心・親類・被官数人、宗信一所爾討死、誠後代之亀鏡、無比類之事

右、度々忠節感閲也、然間、苅屋在城以後弐万疋、近年万疋、彼三万疋、以蔵入雖出置之、依今度忠節、為彼三万疋之改替、遠州蒲東方同名内膳亮、令扶助参拾貫文、其外相定引物之、参百拾八貫文余蔵入分、令扶助訖、此外於増分出来者、令所務随其可勤相当之役、殊於彼地先祖古山城討死之由申之間、彼地之事於子孫不可有相違、然者内膳公文等問答之未進事、可為左右方間、於向後此未進分一切不可有其綺、并長田・鶴見弐ケ村事、依訴訟今度相改、可令代官、但高辻弐百五貫文之外参拾貫者、如先代官時、為定納之余分令扶助、何茂知行分為不入上者、彼地事可為同前、弥守此旨、可専戦功之状如件


   永禄三庚申年 

      十二月二日
                         氏真(花押)

                  松井八郎殿

松井宗信は今川の重臣で、上記文書でも小豆坂合戦で、織田方の追撃を殿軍としてかわし、数々の戦いで戦功をあげたが、永禄3年(1560)の桶狭間合戦では「天沢寺殿尾州於鳴海一戦、味方失勝利処、父宗信敵及度々追払、数十人手負仕出、雖相与之不叶」とあるように、度々敵を追い払い、敵を良く防いだが、一族郎党と共に討死してしまったことが分かる。

同時に、時期は不明であるが、松井宗信が尾張衆、つまり織田方が出張り、通路をさえぎられ、占領されていたにも関わらず、これを打ち破って刈谷城に入城し、それ以後度々合戦していたことがわかる。記載が小豆坂の合戦の後、西条吉良の攻略戦の前であるので、時系列的に書かれているなら、それは天文17年(1548)の小豆坂合戦以降になる。西条吉良はたびたび今川に反抗しているので時期の特定が難しいが、小豆坂合戦に近い年代では天文18年(1549)の吉良義安が捕らえられた際の合戦か。大給筋の動きというのが大給松平親乗の大給城を大給松平当主の忠茂が攻め、今川義元に感状をもらったのが、天文21年(1552)であるから、多分そうなのであろう。つまり、天文18年(1549)年頃に、一旦今川方は刈谷城に入り、織田方と小競り合いを繰り広げていた、だから、天文23年(1554)の村木砦の戦いに際して、今川方が村木砦を築いていても、水野信元は手出しができなかったのではないか。後段に、「苅屋在城之以後」とあり、これが正しければ、一時刈谷城に松井宗信が在城していたということになる。そして、桶狭間合戦の折には、松井宗信は今川義元本隊の近くにあって、桶狭間山に義元本隊が陣取った際には高根山、幕山にあって、先鋒の中核をなしていた。

【亀城公園となっている刈谷城跡】

<刈谷城本丸跡・中央>
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<刈谷城本丸跡・表門付近>
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<刈谷城二の丸址から本丸跡へ>
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今川方に入城された刈谷城での松井宗信の立場は、城番という立場であろう。岡崎城の城主松平元康が今川の人質となり、今川の武将となって、岡崎城は実質的に今川の城となったのと状況はやや異なるが、天文18年(1549)年頃からの一定期間、刈谷城は今川の統制下に置かれていたものと推察する。

つまり、その当時は水野氏の本拠は刈谷、緒川とはいえ、刈谷城が今川に乗っ取られている以上、刈谷城には今川方の兵も詰めていたと見るべきで、桶狭間合戦当時、水野の兵力の主力は緒川城とその周辺に置かれていたものと思われる。実際、水野信元は、その当時刈谷にあって何かをしたという事績は寡聞にして、刈谷・緒川両城を支配したはずの水野信元の三河支配に関する発給文書が永禄3年(1560)以前はない。逆に、大府の延命寺の文書で、天文21年(1552)の水野信元朱印状(小塚弥助から延命寺への土地売券で、水野信元の裏書・朱印がある)があるが、そこには水野信元が「緒川御城殿様」と呼ばれている。それらは、その当時の刈谷がどういう状態であったかを知る状況証拠になる。

そして、永禄3年(1560)5月19日、桶狭間合戦で、織田方は今川義元を討取り、勝利をおさめた。今川方は桶狭間の合戦場から敗走するとともに、合戦終結直後から鳴海城以外の占領した城からは撤退する。大高城の松平元康、後の徳川家康も、翌日には引き揚げた。

当時刈谷城にも、今川方が詰めていたか、少なくとも刈谷周辺に今川方の軍勢がいたと思われるが、彼らも同じように引き揚げたであろう。ところが、その刈谷城に対して、鳴海城を開城し、開城と引き換えにと織田信長と交渉して貰った主君、今川義元の首を奉じて駿府に帰還する途中の岡部元信は攻撃をしかけ、放火をし、謀略をもって、水野信近を討取っている。これは、水野信元が今川に通じ、味方のような顔をしていたのに、敗走する今川勢に追い討ちをかけるか何かしたためではないかと思われる。それを知って、岡部元信は遺恨に思い、水野信近を討ったのではないか。

<刈谷水野氏の墓のある楞厳寺>

Ryogonji

桶狭間合戦後、「「捨城ナラバ拾ハン」との名セリフで、松平元康、後の徳川家康は、岡崎城に戻った。それも、大樹寺に一旦入って、今川勢が岡崎城から出て行ったことを確認し、城内、城下の様子を見極めてからの慎重さであった。松平元康(徳川家康)が岡崎城に復帰したことを、岡崎衆はもちろん、旧主を迎える城下の人々も喜んだに違いない。

同じ頃、刈谷城を焼かれ、弟信近を討たれた水野信元は、刈谷と周辺を固めることに腐心していたに違いない。今川方についていた知多郡、西三河の諸将も、織田方に復し、今度は彼らが対決する相手としての今川方の先鋒は岡崎に戻った松平元康(徳川家康)ということになった。

実際、桶狭間合戦直後の永禄元年(1557)6月18日には、今川方の急先鋒である松平元康(徳川家康)と水野信元は石ヶ瀬で戦っているのである。

<現在の石ヶ瀬川>

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この桶狭間合戦直後の石ヶ瀬合戦であるが、松平元康(徳川家康)は純粋に今川方として水野信元を攻めたのであろうか。これは桶狭間合戦前であれば、今川義元か今川氏真が命令したかもしれない。桶狭間合戦後、領国経営で手一杯で織田方とのリベンジの戦いができなかった今川氏真が、対水野のみ、松平元康(徳川家康)に下命したとは考えにくい。むしろ、石ヶ瀬合戦の二回目以降は、松平元康自身の思惑が多分に働いていると考えるべきかもしれない。

二回目の戦いでは、6月18日に石ヶ瀬で戦った後、翌19日には松平元康は刈谷城外まで出張って、刈谷十八町畷で水野勢と戦い、炎暑により両軍引き揚げている。この引き揚げは、なにか裏がありそうである。さらに永禄4年(1561)2月には、大府の横根城と石ヶ瀬で三度松平・水野両軍が戦ったと、「武徳編年集成」では書かれている。

しかし、これは本当のところはどうなのか。小生、もっと前に松平元康は今川氏真から離反したと思っている。その永禄4年(1561)の石ヶ瀬合戦は、あるいはアリバイ的に戦われたのではないだろうか。そして、水野信元を仲介に松平元康は織田信長と同盟しようとしたのではないか。それは双方にとって、メリットがあった訳である。つまり、水野氏にとっては、東からの脅威が少なくなり、領地経営により力をいれることができる、松平氏にとっては、同様に西側の脅威が少なくなり、岡崎領内の経営をすすめることができ、今川から独立して、あわよくば東側を切り取り領地拡大の戦いをしかけることができるといった思惑が働いたのであろう。

<岡崎城>

Okazakijyo4

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2008.07.20

徳川家康と知多半島(番外:続・村木砦から石ヶ瀬周辺を行く)

前回書いた村木砦だが、一般に村木砦というが、規模からすると村木城でもおかしくないと思う。村木砦跡の上にできた国道を走っていても、大府方面からは三井石油のスタンドあたりから、しばらく行って、いりみ貝最中を売っている和菓子屋さんの店舗前あたりまでが砦跡のはずなので、100mは走ることになる。それも砦の端であり、中心部はその倍くらいの長さがあったはずで、東西約150m、南北約240mといわれているので結構な大きさである。

<砦の北側には入江が入り込んでいた>

Murakitoride1

<上記を武豊線(鉄橋の上)から撮ったもの>

Murakitoride3

砦跡の北方に位置する三井石油の横の道は、砦を取り巻く海の入江があったと思われる場所を通っているが、その辺りからみると砦の内部はやや高くなっている。海面が今の陸地の一部まで進んでいた当時は、砦の北側は泥水が浸った入江に面した場所で、石ヶ瀬川は北西はるかな今の大府高校あたりで海に注いでいたという。今は砦跡北側の道沿いに家が建ち並んで、道路に車をとめて写真を写すのも近隣の方に迷惑をかけてしまう状況であるが、武豊線の車内からみると、かなり砦の内部が高くなっているのが分かる。

<武豊線から村木砦中心部を見たところ>

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なぜ、こんなことを書いているかといえば、中世では物資の輸送が馬よりも、船で行われるケースが多く、それは街道が未整備であったり、馬自体も軍馬を除けば余りいなかったのかもしれず、そういう状況になったと思われる。そして、城は水辺に、しかも周囲より一段高い水辺の台地につくられることが多かった。当村木砦に近いところでは、横根城は境川流域で、周囲より一段高い台地のうえにあった。それは、敵が船で城までたどり着いても、高みから矢を射掛けたり、切岸で城の郭まで登り難くし、容易に落とせないようにしたものと思われる。

<村木神社ののぼり口>

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なお、明治、大正時代の地図を見ると、砦跡には人家がない。戦後まもなくの頃の航空写真をみても同様で、砦跡には人家がみられず、砦の西側に人家が集まっている。今は国道が通り、砦跡に該当する場所でも人家が建っているが、あるいは昔の人は合戦があった場所を忌避して、家を建てなかったのかもしれない。合戦の激戦地であった、村木砦南側には八剣神社が織田方の当事者で、当地出身の清水家重・権之助兄弟によって建てられ、西側国道から分岐する堀底を利用したと思われる道の分岐点には地蔵がある。もっとも、いろんな場所に地蔵があるので、合戦の戦死者供養かどうかは不明である。

<砦の西側の堀跡という国道から分岐する道(左)>

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村木砦の合戦時に、織田信長が陣をおいた村木神社は、村木の集落の西側の台地中腹のやや高くなった場所にある。ここも、明治・大正の地図では、村木の集落を見下ろす、人家がない場所であった。その境内は広く、地方都市の大きな神社くらいの規模があり、社殿前には五百人程度は楽に収容できる。それもあるだろうが、織田信長の実家織田弾正忠家は、津島の交易を背景に発展してきた家であるがゆえ、氏神と仰いで津島神社を信仰してきたため、そこに陣をおくことで氏神の力を借りて合戦に勝つとの決意を示したのだろう。

これは創建が不明ではあるが、延徳3年(1491)社殿再建の棟札があるため、戦国時代のはじめから存在した神社であることは間違いない。もともと祭神が須佐之男命という津島神社であった。一方、今の森岡保育園のある場所にあった八幡神社は、永禄4年(1561)に水野信元の家臣清水八右衛門家重が創建した。この八幡神社は学校用地を提供するために、大正2年(1913)に津島神社に合祀され、津島神社は村木神社と改名したのであった。

その村木神社には、現在でも須佐之男命を祭神とする津島神社と同じ天王祭があり、茅の輪くぐりの神事が執り行われる。

<村木神社社殿前に整列>

Chinowa2

先日、村木神社の茅の輪くぐりを見に行った。天王祭では茅の輪くぐり、そのほか小正月には左義長があり、おまんとという駆け馬の神事など、地域の行事は村木神社を中心にまわっている感がある。

さて、茅の輪くぐりは須佐之男命と関係があるそうだ。茅の輪を一回目左回りに、二回目は右回り、三回目はまた左回りと∞の字のようにぐるぐる回る。

<神主さんが祝詞をあげる>

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<玉串奉奠>

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祝詞、玉串奉奠の後、神主さんたちが茅の輪をくぐった。その後、巫女姿の小さい女の子たちがつづく。 その女の子たちの親御さんと思うが、お母さんたちが見守っている。

<茅の輪をくぐる>

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<最初は左回り>

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<ぐるぐる回る、目が回る?> 

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<まわり終えると拝殿へ>

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<いきなり拝殿にのぼらず、ここでも左回り>

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<拝殿のなかに入る>

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なお、このあと巫女さん姿の女の子たちの舞いもあるのだが、神殿の内部の撮影は遠慮した。

実は、合祀された八幡神社の旧在地(現森岡保育園)には、金鶏山古墳という小さな円墳があったが、これを学校用地整理の都合上、昭和5年(1930)に在郷軍人会が取り払ったところ、石室があり、提瓶5個・長頸壺・平瓶・有蓋高坏各1個出土した。そうした古墳もある場所ということで、村木という地名は郷村の支配者である「村君」が転訛したものという説がある。つまり、早くから開けていて、それなりの支配者が古代にはいたということか。

<村木神社に近い曹洞宗妙法寺>

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その村木は緒川のすぐ北で、五つある寺が水野氏と同じ曹洞宗、緒川を本拠としてきた水野氏の勢力下であるが、なぜか今川方の砦が構築された。それは前回述べたように、臨江庵と船着場を押さえた今川方は、三河から当地に物資や将兵を運び込み、地元の民衆も抱きこんで砦を作ったということだろうが、水野配下でありながら織田方の清水兄弟のような人物と別の勢力があったということになる。それになぜ刈谷、緒川の水野氏は、村木砦の造営を妨害しなかったのか。どうも、水野信元が村木砦の合戦の時点で、日和見だったと考えるしかない。

しかし、一方では永禄元年(1557)6月には、今川方の急先鋒である松平元康(徳川家康)と水野信元は石ヶ瀬で戦っているのである。永禄元年(1557)1月に今川義元の命で初陣を飾った松平元康は2月5日、今川方を離れて織田方に寝返った寺部城の鈴木重辰を攻めて、4月末には勝利をおさめている。その後まもなく石ヶ瀬合戦となるが、これは松平元康が岡崎勢を率いて知立を通り、沓掛の東で境川を渡り、緒川に向かう途中の石ヶ瀬で松平・水野両軍が対峙した。

<現在の石ヶ瀬川>

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桶狭間合戦の直後の永禄3年(1560)6月、一旦岡崎に帰った松平元康は再び水野信元と石ヶ瀬で戦っている。この時点では今川義元は戦死し、水野信元は再び織田方の旗幟を鮮明にしたはずである。では、松平元康、後の徳川家康は純粋に今川方として水野信元を攻めたのであろうか。今川氏真が命令したかもしれないが、松平元康自身の思惑が多分に働いている可能性もある。その辺りが、どうも釈然としない。二回目の戦いでは、6月18日に石ヶ瀬で戦った後、翌19日には松平元康は刈谷城外まで出張って、刈谷十八町畷で水野勢と戦い、炎暑により両軍引き揚げている。この引き揚げは、なにか裏がありそうである。さらに永禄4年(1561)2月には、石ヶ瀬で三度松平・水野両軍が戦ったと、「武徳編年集成」では書かれている。しかし、これは本当のところはどうなのか。小生、もっと前に松平元康は今川氏真から離反したと思っている。その永禄4年(1561)の石ヶ瀬合戦は、あるいはアリバイ的に戦われたのではないだろうか。そして、水野信元を仲介に松平元康は織田信長と同盟しようとしたのではないか。それは双方にとって、メリットがあった訳である。

その辺りは、歴史の謎かもしれない。

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2008.07.09

徳川家康と知多半島(番外:村木砦から石ヶ瀬周辺を行く)

最近、急激に仕事が忙しくなり、休みもおちおち休んでいられないのだが、気分転換しないと潰れてしまう。そこで、以前夕方にトンボ帰りするような格好で行った村木砦の周辺を再度まわってみることにした。

いつも武豊線に乗ると大府と尾張森岡の間は、じっと窓から景色を見ているが、それは村木砦跡と石ヶ瀬合戦場跡があるからである。村木砦跡は、一般に八剣神社であると思われているが、八剣神社は砦の端のほうに建っているのである。神社の東側、JR武豊線の向こう側も砦跡である。本丸に相当する部分は神社の北側の住宅地の中となり、遺構は残っていない。実は神社のなかにも遺構らしきものは残っておらず、幸いにして神社の西側の堀跡が道となっているので、砦の規模は分かる。

<村木砦跡に建つ八剣神社>

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村木砦を舞台とした戦いがあったのは、天文23年(1554)のこと。桶狭間合戦の6年前であった。村木砦をどのようにして作ったかについては興味深いが、今川方が三河方面から連れてきた人間以外に、当地の住民が今川方に協力したか、かり出されたことは間違いなかろう。砦の建物を作るための資材は、重原城から水運も使って運ばれたようである。今川が据えた砦の守将は、東條松平氏の松平甚太郎義春であった。

なお、八剣神社は村木砦の戦いの前にはなく、織田方で当地出身の清水家重・権之助兄弟がこの戦いで戦死した将兵の霊を鎮めるために神社を建てたものである。

<村木砦跡の碑>

Murakitoride1

村木砦の北東には、船着場があった。これは、この土地が水上交通、あるいはそれを利用した交易の拠点であったことを示している。村木砦は東西約150m、南北約240mの馬蹄形をなし、東側は浜に面して南北は直線的で、西側が丸く空堀がめぐっていた。村木砦の大手は、東側にあり、衣ヶ浦に面していた。つまり、村木砦は、海が正面で船で出入していたのである。

<村木砦位置推定図>

Muraki 

「於大の方と水野氏」 東浦町(2006)より

上の図は東浦町が発行した「於大の方と水野氏」という冊子に記載されていたものであるが、このほうが八剣神社の境内にある案内板の図より正確と思われる。図でうすい赤色の部分は、土の盛り上がっていた部分で、うす紫色が堀、もしくは低地、東側の衣ヶ浦と書かれた水色の部分が海、青い線は海岸線である。武豊線の敷設工事や県道新設工事ですっかり砦跡から土取りがされており、今は海抜5mほどの台地であるが、往時は海抜10m以上の丘のような場所であったという。城域は、うす紫色とうすい赤色の部分で、黄緑色の部分は城外となる。船着場のある砦北東側の南には細長い堀があるが、あるいはここに船を引き揚げて、船隠しとしたものかもしれない。

実際に村木が船津であったのは、近年まで尾張森岡駅北方の踏切を東に進んだ場所に、「土場」という船着場があったことでも分かる。これは五ヶ村川に合流し、衣ヶ浦に通じる水路の船着場であり、そこから伊勢参りの船が出て、亀崎の北浦で大船に乗換えて伊勢まで行ったそうだ。自動車のない昔は水上交通が重視され、「土場」には倉庫もあったという。現在よりも潮位が高かった中世では水路などではなく、海が砦のすぐそばまで迫っていた。だから渡し船程度の小船の船着場ではなく、伊勢湾まで運航できるような船も使う船津であったのだろう。村木砦の東側は今では水田が広がるが、当時は海であり、村木砦の北には入江が入り込み、南も海が少し東から入り込み、今の八剣神社の南は大堀とであった。

<八剣神社の鳥居~この鳥居下は大堀であった>

Yatsurugi

当地の村木神社という神社は、元は建速須佐男命を祭神とする津島社であり、大正2年(1913)に、水野信元の家臣という清水家重が創建した八幡社と合祀され、社名を村木神社と改めたものである。津島神社は、周知の通り商売の神様であり、川祭でも有名であるが、村木が知多半島北部の船津であったことと関係あるかもしれない。

村木砦ができる前から、当地には船着場があって、対岸の三河との間で船の行き来があった。その船着場の管理は、臨江庵という寺院が行っていた。臨江庵、後に月照山臨江寺と号した寺は、村木砦の西側の段上という場所にあったが、昭和57年(1982)に廃寺となった。今は臨江寺児童公園という、児童公園というには結構広い公園になっているが、もともと境内は362坪(約1,195平米)あった。ここは、「皇風学校」という学校が、明治5年(1872)から10年ほどあった場所でもある。その一角に昭和57年に移築された「村木大地蔵」願王寺のお堂が建っており、臨江寺跡という大きな石碑が傍らにある。

<臨江庵跡の一角に建つ村木大地蔵の堂>

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この臨江庵は、永禄6年(1563)の創建、開山は月山言公というが、実際には緒川の乾坤院の「血脈衆」に、文明11年(1479)の記載がある。すなわち室町時代には存在していたらしく、同時期の阿弥陀如来画像を所蔵していた。その阿弥陀如来画像は、着衣に細かい截金文様が施されている入魂の作であり、15世紀のものだそうだ。なお、段上という地名の通りの海辺の高台になっていた場所で、北東に村木砦と隣接する船着場があって、臨江庵は船の運航を監視できる位置にあった。寺の名前も入江を臨む寺からきているのは明白で、それも単に入り江に接しているだけでなく、船津を管理して利用税を取り扱う役所も兼ねていたと言われる。当時、僧侶は読み書き、そろばんができることから、そういう事務業務に使われることが多く、一見仏教とは関係ない商業的な実務についていたりする。千葉県の船橋でも、そうした業務を行っていたという律宗の僧侶のものといわれる、大きな墓塔がある。

<村木の市街地~道が細く湾曲している>

Muraki_2

村木砦の戦いの前に、今川方が当地に砦を築こうとしたとき、当然ながら臨江庵は真っ先に押さえられたと思われる。この寺と船着場を押さえた今川方は、三河から当地に物資や将兵を運び込み、地元の民衆も抱きこんで砦を作ったのだろう。そして、大浜街道を北へ進めば、知多半島西岸の大高にいたる。つまり知多半島の東西の要所を押さえて、尾張織田領の南側から楔を打ち込むことを、今川義元は考えていたのかもしれない。そして、織田信秀によって、今川氏豊が那古野城を追われた失地回復をはかろうとしたのであろう。

臨江寺跡の近くには、大悲山開眼寺という同じくらいの規模の寺がある。こちらは天正年間の創建である。元は慈眼庵という名前だったようだ。

<開眼寺>

Kaiganji

この開眼寺も、なくなった臨江寺も、その他村木の三つの寺(海印寺、極楽寺、妙法寺)も、皆曹洞宗で、緒川の乾坤院の末寺である。つまり、緒川水野氏が戦略上、緒川の北にあたる村木に寺を建て、いざというときに兵員が駐留し、城代わりに使えるようにしたのではないかと思われる。

村木砦跡は、現在も「取手」という名前で分かりやすい。そういう名前のバス停もある。国道沿いの「いりみ貝最中」を売っている和菓子屋さんと三井石油のガソリンスタンドの間、およびその国道の反対側の一角までが砦の縄張りに入っていたようである。国道も東側のJR武豊線も、村木砦の上を通過しているわけだ。

<「取手」という名前のバス停~この辺が砦の搦手である>

Toride

「いりみ貝もなか」の店の国道を挟んだ向かい側にある地蔵のある辺りから始まる道も、空堀の跡だそうだ。実は、その湾曲した道を北に向かってしばらく進んだあたりには、村木砦の合戦の後に、織田方の手によって、今川方に加担した村役人たちが処刑されたという場所がある。実際に処刑を担当させられたのは、村木出身の清水兄弟で、いくら敵方になったとはいえ土地の者を殺すにしのびなかったという。そこは、水野さんという方が居住する民家になっており、大きな椿がある。村木砦の合戦の碑もあるのだが、どうしてもそこに見に行ったり、カメラを向ける気になれない。首塚とかいっても、信憑性がない場所も多いが、当地の伝承はそうではなく、かなりリアルである。本当にそうなのだろう。

「いりみ最中」の国道の向こう側の地蔵より南側であるが、大きな木が茂っている場所があり、小生こちらのほうが空堀の跡らしいと思う。地蔵を起点にした路地も空堀の一部であろうが、後に堀底が道になり、通行のためにくぼみが埋められ、さらに住宅が建ったりしたあとでは道筋も少し変わるであろう。

<空堀跡の雰囲気を残す場所>

Karaborika

国道に戻り、北へしばらく行くと、とたんに人家がなくなる。三井石油でない、もうひとつのガソリンスタンドの先に、刈谷方面に分岐する箇所があり、右折してその方向にいけば武豊線の踏切などあって、やがて大府市街に入る。途中、川を渡るが、それが石ヶ瀬川である。

石ヶ瀬河畔では、永禄元年(1558)~同4年(1561)に織田・今川両軍、すなわち水野信元と松平元康(徳川家康)が合戦したという。その当時、村木と大府の間は入江で、石ヶ瀬川は今の大府高校南辺りで海に注いでいた。今よりも川幅も広かったであろうし、当然ながら護岸工事などしていなかったので、今の石ヶ瀬川からは当時の様子がすぐには想像できないが、広い河原に両軍が集結し、渡河すると同時に戦端が開かれたのであろうか。

<石ヶ瀬川>

Ishigase_2

この石ヶ瀬合戦で、甥の松平元康(徳川家康)の攻撃を受け、たまらないと思った水野信元が、松平との和睦を織田信長に進言したという。織田・徳川の同盟関係は、水野信元の保身から端を発し、やがて天下を統一する原動力になっていった。

<石ヶ瀬川~橋の上から>

Ishigase2

この石ヶ瀬川を越えると、大府の市街に入る。大府市街にはいり、しばらく行くと、水野氏や梶川五左衛門が寄進をしたという天台宗の大きな寺、延命寺がある。そこから更に東へ進み、境川までいくと、その河畔に南北朝時代に築城され、梶川五左衛門が修復して、後に合戦の舞台ともなったという横根城の城跡がある。城跡といっても、きれいさっぱり何も残っていない。ただ境川河畔に細長い台地で城を作るのには好立地の場所で、城があったであろうという雰囲気はある。岩滑城主となった中山氏の元の所領であった北尾にも「城畑」という地名があり、城があったという伝承が残っている。この境川流域には、そうした城郭がいくつもあったようだ。その件は、ともかく、松平元康と水野信元の石ヶ瀬での戦いについて、今後述べていくことにする。

<延命寺>

Enmeiji

参考文献:

「改訂 東浦歴史散歩」 梶川武著 2006年四訂版 東浦町教育委員会発行

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2008.07.01

徳川家康と知多半島(その31:大脇曹源寺と周辺の水野氏勢力)

用事で土曜日に関東に帰り、翌日曜日に愛知に戻ってくると、武豊線の車窓から見える光景は相変わらずであるが、よくみると田んぼのなかに、小さな白いものが動いている。

白鷺である。白鷺といえば、高田浩吉の白鷺三味線を思い出し、最近の流行についていけない小生は、いささか年取ったのであろうか。それはともかくとして、田んぼのなかには、白鷺以外にも雉もいる。雉のほうは、体が黒いのであまり目立たないが、白鷺は緑のなかに白なので、よく目だつ。しかし、目立とうが目立つまいが、白鷺は田の虫かタニシか何かを捕食しているだけだ。

<半田市内を流れる川にも白鷺が>

Goudogawa

白鷺を食べるような動物がいれば、目立つのは困るだろう。幸いそういう食物連鎖はないので、目立っても問題ない。

桶狭間合戦前の緒川・刈谷水野氏は、おそらく目立つまいとして必死だったのかもしれない。目立つ行動をとれば、今川氏の大軍の前に風前の灯になっていたであろう。そうならないために、水野氏は織田方でありながら今川氏にも密かに通じ、今川義元から書状まで貰っているのは前回述べた通りである。

その水野氏は、もともと愛知県瀬戸市あたりにいて、貞守といわれる人物の頃に、小川(緒川)の古城を拠点に、一円を支配するに至った。それは南朝について守護土岐氏に攻められて滅んだ小河氏の末裔で、故地に戻ったというが、実際は小河氏滅亡後に、その領地であった緒川の地に入り込んだもので、元々いた小河氏とは別系統であると思われる。当然、小河氏と同じ系統とすれば、中世の権威の考え方からは支配に都合がよかったので、そう名乗りはしたが、源氏である小河氏と別系統であることは、江戸時代の尾張藩などの識者の知るところで、彼らは水野氏の藤原姓の系図の存在を知っていた。実際、水野氏では、通称藤四郎、藤九郎などを名乗っている者が目立つ。源氏であれば、源四郎とかを名乗ったであろう。

<緒川城跡>

Ogawajyo

水野氏が知多半島に来たころの事跡は、以下の通りである。

延文5年 (1360) 小河正房、土岐氏に滅ぼされる
室町前期 (1350頃) 緒川の高薮城を竹内直道が築城し、以降竹内氏が治めるも、5代直玄は水野氏の臣下となる。
文明7年 (1475) 初代緒川城主水野貞守、乾坤院を創建する。
延徳3年(1491)水野為妙、万里集九より「養月斎」の号を贈られる。
明応8年(1499)歌人飛鳥井雅康、緒川城主水野為則(貞守の嫡男という)を訪ね、祝い歌「緒川」を詠む。
永正6年(1509)緒川城主水野為則没する。法名は前野州太守一初全妙禅定門。
大永2年(1522)連歌師柴屋軒宗長、刈谷水野和泉守(近守、大高城主水野大膳の父か)宿所で連歌を興行

<水野氏ゆかりの乾坤院>

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『寛政重修諸家譜』の水野貞守の説明では、「正房七代の蔵人貞守の代になって、旧臣牛田某と再興を図り、永見某、中山某、久松某等と君臣の義を結び、小河の旧塁修復し、三河国の刈谷、熊村、大日、大高、常滑の諸士を配下に治め、やがて刈谷に城を築いて移る」とある。

しかし、実際は瀬戸から来た水野氏が在地諸豪族を配下に取り込み、知多半島緒川周辺から刈谷へ勢力を伸ばしていったわけである。

桶狭間には、後に岩滑城主となった中山氏がいたが、中山重時が重原城で戦死し、その子の勝時は桶狭間合戦の頃には岩滑に入っていた。また今の大府市横根の横根城にいた梶川五左衛門も成岩城に移ったというから、桶狭間合戦のころは、桶狭間近辺の水野氏配下の武将たちはどこかに行っていた。

<刈谷古城>

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桶狭間合戦の当時、既に水野氏も緒川から刈谷へ拠点を移していた。周辺の武将たちも岩滑、成岩など拠点をかえていた。その間隙をついて、今川義元は西三河から知多半島緒川の北の村木(尾張森岡)にまで進出し、さらには寺本(知多市)の花井氏を傘下におさめるなど、織田方であった地域もドミノ倒しのように今川方にかえていった。それで、本来水野氏という織田方の勢力圏であった筈の桶狭間に今川義元の休憩のための陣地も作ることができたわけである。

水野氏が、桶狭間合戦で前面に出てこない所以もまた、そのあたりにあり、知多半島の制圧に熱心なあまり有力な配下の武将を分散させてしまい、その隙を今川に取られ、緒川・刈谷の本拠地を守るのに汲々としてとても織田方として参戦することはできなかったのであろう。

<曹源寺の山門(拡大)>

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しかし、桶狭間に近い地域にいた水野氏の勢力が、完全に拠点をかえていたかといえば、大脇城にいた梶川氏については別であろう。大脇は戦国時代には存在した集落であり、曹洞宗の古刹、曹源寺がある。この梶川氏は、水野氏の重臣であるが、別格のような待遇をされていたようである。公に平氏の出を名乗り、一般的には梶川五左衛門という戦国期の武将が有名である。

その梶川五左衛門は、天文12年(1543)に榎本了圓が守る成岩城を水野信元が落とした後、その城代として横根城から移されたというが、実名は文勝とされていた。年代的には同一人と思われるが、梶川五左衛門秀盛という人物がいる。「尾張志」「張州府志」によれば水野下野守信元の家人であり、「張州府志」ではさらに大脇、横根両城の城主であるとしている。

この人の文献での登場で、同時代のものといえば、天正11年(1583)に大府の延命寺に寺領を寄進したというのがあり、その際の実名が秀盛である。

梶川秀盛の父は梶川平九郎といい、実名は分からないが、法名は宗玄という。桶狭間合戦の際に、中島砦を守った梶川一秀と梶川秀盛は同姓であるが、小生別系と思っていた。以前、「中島砦をまもった梶川一秀は平氏の出で、織田信長の家臣である。出身も尾張国丹羽郡楽田といわれ、今の大府市横根に城を構え、水野信元の成岩城攻略後に成岩城主となった梶川五左衛門秀盛など、水野氏重臣の梶川氏とは関係ないかもしれない」と書いていた通りである。

しかし、二人は兄弟のようで、梶川平九郎の長男が梶川高秀、次男が一秀、三男が秀盛だそうだ。兄二人は織田信長に仕え、高秀の子高盛も含め数々の功名をあげていったが、三男五左衛門秀盛は地元の家を守る立場であったのかもしれない。

また梶川平九郎の法名「宗玄」から曹源寺の名前がついた(あるいは改名した)という可能性もあることから、戦国時代には大脇にいたのではないだろうか。長男高秀の名乗りは平左衛門尉で、やはり「平」の字がつく。この人は、永禄11年(1568)に70歳でなくなったとされているので、明応7年(1498)頃の生まれになる。その父となれば、25歳のときに長男誕生とすれば、文明5年(1473)頃の生まれになる。もし、梶川平九郎が曹源寺の開創の前年になくなっていたならば、31歳のときとなり、一応矛盾はない。

<曹源寺>

Sougenji 

梶川氏が平氏かどうかは不明で、紀姓の梶川氏というのもあるようだ。その出身は「知多郡梶村」とあるが、甚目寺町今宿梶村らしいので、「知多郡」ではないだろう。その一族は、水野氏の重臣でありながら、一部は織田信長の家臣にもなったのかもしれない。

そのルーツや系譜はさだかではないが、梶川氏は水野氏の重臣であったことは間違いない。その拠点は戦国時代から大脇に元々あり、やがて水野氏の知多半島制圧の動きに応じて、横根へ、さらに成岩へと移っていった。しかし、大脇には長く一族が住んでいたらしく、桶狭間合戦時も含めて拠点としていたらしい。

実際大脇には、地元の住民から「梶川五左衛門の屋敷跡」と呼ばれてきた大脇城跡があり、伊勢湾岸道路の建設に伴う発掘調査では、約60m四方の方形居館跡が検出され、「天正四年」(1576年)と年がかかれた大御堂寺の護摩札などの遺物が出土している。

その大脇城跡と大脇に永正2年(1505)西明寺三世実田以転和尚によって創建されたという曹源寺の旧在地は比較的近く、曹源寺は城の西北250mほどにあった。以下の図で赤く丸で囲ったのが曹源寺の現在地で、地図の2が江戸時代前期承応3年(1654)の火事で移る前の曹源寺の旧在地である。この位置関係をみても、曹源寺の開創に、梶川氏が関わっているか、梶川氏のために建てられたのではないかと考えるのは別段おかしくない。そうなると、曹源寺という寺の名前も、梶川平九郎の法名「宗玄」の字を変えたものとも思えるのである。

<大脇城跡と曹源寺の旧在地>

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(『大脇城遺跡』 1999  愛知県埋蔵文化財センター より)

ちなみに、曹源寺には、享保2年(1717)に桶狭間の梶野清右衛門が寄進した立派な山門があるが、曹源寺は桶狭間の梶野氏一族の菩提寺である。宗派の関係もあるが、桶狭間にある長福寺が創建されたのが天文7年(1539)であるため、戦国期以前から当所にいた古い住民は曹源寺の檀家になっていたのであろう。

<曹源寺の山門>

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曹源寺の二世住職は快翁龍喜禅師である。快翁龍喜禅師は、後に岩滑城主となった中山氏の出身で、水野忠政の家臣中山又助の次男であったという。また、曹源寺は曹洞宗であり、二世の快翁龍喜和尚は水野氏の菩提寺である乾坤院で芝岡和尚について得度している。

つまり、曹源寺は水野氏の影響を多分に受けた寺であり、元来その地域はそういう土地であったわけである。

ところが、今川義元の発給文書で、丹羽隼人正に宛てたものであるが、以下のようなものが残っている。

「沓掛 高大根 部田村之事

右 去六月福谷外在城以来 別令馳走之間 令還付之畢 前々売地等之事 今度一変之上者 只今不及其沙汰 可令所務之 并近藤右京亮相拘名職 自然彼者雖属味方 為本地之条 令散田一円可収務之 横根大脇之事 是又数年令知行之上者 領掌不可有相違 弥可抽奉公者也 

仍如件

天文十九

 十二月朔日        治部大輔(花押)

                              丹羽隼人佐殿」

西三河を制圧した今川義元は、天文19年(1550)頃になると、尾張にも勢力を及ぼし、このような安堵状を発給するようになった。この丹羽氏は一色氏系で、尾張国丹羽庄から起こる在地領主であり、本郷城主であったものが移動して、4代続けて岩崎城主として戦国時代を生きた一族である。この丹羽氏は、同姓の丹羽長秀とは別系統である。その岩崎丹羽氏の丹羽氏勝は、最初、織田信長の叔父守山城主信次に仕え、守山籠城の後は織田信長にも仕えるが、後に佐久間信盛らとともに追放され、徳川家康に仕えている。織田氏に近い在地領主も、一時は今川義元についていたわけで、有為転変は世の習いといわんばかりである。

なお、文中で味方に属するといわれている近藤右京亮とは、沓掛城主近藤景春のことである。近藤氏もまた、松平広忠に従っていたが、織田方が勢力を伸ばすとこれに組していたが、また鳴海城の山口教継によって今川方に転じた、戦国時代にはありがちであった二股膏薬的な生き方をしていた。

丹羽氏が横根、大脇の知行を安堵されていた頃、梶川氏はどうしていたのだろうか。大脇城をでて、ひたすら知多半島に水野氏勢力を拡大するために、戦っていたのだろうか。そんなことはあるまい。大脇城は、その後も梶川氏が継続して維持したようである。前述のように、大脇城跡からは、「天正四年」(1576年)と書かれた大御堂寺の護摩札が出土している。天正4年といえば、水野信元が織田信長に誅された翌年であり、その当時梶川五左衛門は水野氏を離れ佐久間氏に従った。さらに織田信雄に仕え、小牧長久手合戦後は岐阜城主であった池田輝政に仕えたらしい。

<野間の大御堂寺>

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天正11年(1583)には梶川五左衛門は大府の延命寺に寺領を寄進したが、その発給文書が残っている。

延命寺領為 寄進合田畠拾九貫四百七十八文目此内田方拾四貫五百七十文目畠方四貫九百八文目 並山壱ヶ所寺之後 不可有相違者也 田畠坪付之儀別紙在之候

仍如件

      梶川五左衛門尉

天正十一癸未九月七日  秀盛(花押)

延命寺

 御坊中」

この文書が出された頃、梶川氏は大府の延命寺周辺を統治していたことがわかる。つまり、天文19年(1550)頃から10年くらいはその領地を今川氏に蹂躙されたかもしれないが、このころには梶川氏は延命寺に寺領を寄進するまでになっていた。

少し、話が回り道をしたが、桶狭間合戦当時、水野信元らがおとなしくしていた背景には上述したような大脇など水野氏勢力圏の情勢があった。

(参考文献)

『豊明市史 資料編補2 桶狭間の戦い』  2002 豊明市

『大脇城遺跡』 1999  愛知県埋蔵文化財センター 

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2008.05.07

徳川家康と知多半島(その30:桶狭間合戦当時と事後の水野氏の動向)

今まで、桶狭間合戦において、尾張攻略をめざす今川義元が大軍を率いてきたのが、逆に織田信長によって討たれ、今川方の先鋒であった松平元康、後の徳川家康が合戦の前に兵糧を運び入れると同時に大高城に入ったものの、今川軍の敗戦の報に接して、大高城を脱出、岡崎城に戻って今川氏の支配から脱しようとするところまで述べてきた。

さる4月29日、豊明市の曹源寺にて梶野渡氏の講演があることを、尾張中山氏御子孫のS氏から聞き、さっそく行ってきたのであるが、いかにして2千の兵力の織田勢は10倍もの大軍を擁する今川勢を破ったか、その軍勢の構成や織田信長の実家である織田弾正忠家と一族の関連、織田信長の軍人の育て方、大高を目指す今川本陣の動きをキャッチした情報戦、曹源寺住職であった快翁龍喜和尚と中山氏、桶狭間合戦との関わりなど、分かりやすく興味深い話が多かった。寺の本堂いっぱいにあふれた聴衆は2百名を大きく越え、3百名くらいはいたようで、280部用意した資料がまったく残らなかったらしい。

<曹源寺>

Sougenji_2

その講演後、S氏一行と梶野渡氏、曹源寺和尚と庫裏の座敷で少し雑談をした。ちなみに曹源寺自体は大脇村がもともと知多郡であったため、知多八十八ヶ所の一番札所になっているが、今の曹洞宗の地区分けでは名古屋とその周辺の地区に属し、曹源寺和尚はブロック長であるとのこと、道理で大勢を前にした話の仕方もうまいと思ったが、それはともかく。やはり桶狭間合戦での水野氏の動きがどうにも分からない、単に合戦が終わるのを水野氏は待っていたようにも思われるし、岡部元信が桶狭間合戦後籠城していた鳴海城から引き上げる途中に刈谷城を襲撃して水野信近を討っているが、なぜ籠城で疲れ果てている兵で襲ったのか(最初から攻めるつもりなら、今川の大部隊で桶狭間に行く途中でも攻め落とせば良いのではないか)というような話をした。

この点については、以前当ブログ(「徳川家康と知多半島(その29:桶狭間合戦から今川氏からの自立まで)」)でも、「桶狭間の合戦で動向が分からないのが、水野信元である。桶狭間合戦に先立つ、村木砦をめぐる戦い、石ヶ瀬合戦においても、松平を含む今川勢は、織田方となっていた緒川水野氏と戦ったのであるが、当主水野信元の去就がはっきりしない。特に、村木砦に砦を築くようなことが今川勢に出来たとするなら、敵地に普請をしたことになり、刈谷、緒川の水野氏はそれを傍観していたのかということになる。(略) 

天文23年(1554)の村木砦の戦いは、水野信元が日和見をするなかで、織田信長が緒川水野氏の流れであるが布土城主になって知多における織田直系であった水野忠分を助ける形で展開していたとみるべきで、その後の石ヶ瀬合戦や桶狭間合戦に水野信元が積極的に関与していない事情があったと思われる。すなわち、明確に今川方に寝返っていたわけではないが、水野信元は織田にも今川にも通じていたように思われる。

確かに、水野信元の弟である刈谷城の水野藤九郎信近や主だった者は、鳴海城を開城し、駿河に帰る途中の岡部元信により、はかりごとをもって討ち取られ、城内に放火された。それは、岡部元信が、水野信元の立場をよく理解していなかったことによる、偶発事象かもしれない。もし、本当に水野信元が今川勢にとって脅威なら、桶狭間に行き着く前に刈谷を襲っていたか、すくなくとも別働隊を作ってでも攻撃を加えていたであろう。」と述べている。

<水野信近の墓のある楞厳寺の水野家廟所>

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その水野氏の桶狭間合戦当時の態度、動向を理解するうえで興味深い文献がある。

それは『別本士林証文』にある「今川義元書状写」永禄三年(か)四月十二日付のもの。

夏中可令進発候条、其以前尾州境取出之儀、申付人数差遣候、然者其表之事、弥馳走可為祝着候、尚朝比奈備中守可申候、恐々謹言

             (永禄三年か)四月十二日   義元

                         水野十郎左衛門尉殿  

(書き下し文)

「夏中、進発せしむべく候条、それ以前尾州境取出の儀、申し付けの人数差し遣わし候、然らばその表の事、いよいよ馳走祝着たるべく候、なお朝比奈備中守申すべく候、恐々謹言

             (永禄三年か)四月十二日   義元

                         水野十郎左衛門尉殿」

これが永禄3年の文書であれば、水野十郎左衛門尉に尾張における今川方の前線にたってくれるように要請しているのであり、桶狭間前夜という時期に水野氏に今川方について働いてくれと言っているのである。

この十郎左衛門尉は、その名前の署名が入った最も新しい文書(東浦町誌にあるが、もとは大御堂寺文書)では、元亀3年(1572)のものがある。しかし、これは後の十郎左衛門尉であり、前述の十郎左衛門尉の息子か跡継ぎということになる。

野間大御堂寺従前代雖為守護不入、猶以御理之儀候条、一円令免許上者、諸役等寺中之竹木夫以下此外於向後も申事有間敷者也仍状如件

元亀三年 壬申 十月十八日

水野十郎左衛門尉

柿並

寺中参

是後ノ十郎左衛門也

元藤四郎元茂ト云 」

(書き下し文)

「野間大御堂寺、前代より守護不入たりといえども、猶もって御理之儀候之条、一円免許せしむる上は、諸役等寺中の竹、木、夫丸以下、このほか、猶向後も申す事あるまじきもの也。よって状くだんの如し。

元亀三年 壬申 十月十八日

水野十郎左衛門尉

柿並 寺中参

これ 後の十郎左衛門也 

元藤四郎元茂という」

<水野忠政の墓>

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では、この水野十郎左衛門尉とは誰であろうか。小生、それが分からず、ずっと胸の奥に引っかかった感じであった。水野十郎左衛門というと、旗本奴で幡随院長兵衛と争った子孫のほうが有名であるが。

この水野十郎左衛門尉は、天文13年(1544)閏11月には織田信秀と書状のやり取りをしているし、斎藤道三とも交信しているのである。すなわち、戸田氏系水野氏のような水野氏の傍系であるとは考えられない。また天文13年(1544)閏11月の時点で存命であり、桶狭間合戦時も生きており、息子が元亀3年(1572)10月の時点で存命という水野家主流の人物ということになる。尾張、駿河、美濃の代表人物とも交信できる主流の水野氏というと、緒川・刈谷水野氏、大高水野氏、常滑水野氏以外ではない。しかしながら、大高水野氏なら、宛名にその代々が用いたらしい大膳亮という名前が用いられたであろうし、永禄3年の桶狭間合戦時には、その当主大膳亮忠守は大高城を追われて、刈谷に閑居していたのであるから、今川義元がわざわざ書状を送るはずがない。

<水野氏ゆかりの乾坤院>

Kenkonin

もちろん緒川水野でも、天文12年(1543)になくなった水野忠政以前の人では時代があわない。残るは、緒川・刈谷水野氏の数人か常滑水野氏ということになるが、大御堂寺周辺の支配権は永禄初年に常滑水野氏から緒川・刈谷水野氏に移っており、元亀年間に大御堂寺周辺を支配していたのは常滑水野氏ではなく、緒川・刈谷水野氏である。

つまり、水野十郎左衛門尉とは緒川・刈谷水野氏の誰かである。

最後の文書にある「元茂」とは、水野信元の養子である通常「信政」とある人物である。その十郎左衛門尉が水野信政であれば、その先代とは、他ならぬ水野信元その人である。つまり、水野十郎左衛門尉は、水野信元であったことになる。この十郎左衛門尉という通名は、緒川水野氏の祖ともいうべき水野貞守の通称が水野九郎次郎十郎左衛門蔵人というのに端を発しているかもしれない。十郎左衛門尉というのは、水野家主流の名乗りであり、前出の旗本奴の水野十郎左衛門もその系統をひいているから、そう名乗ったのである。また水野信元の子に、松平信定の娘を母とする十郎三郎というのがいるが、その名前は十郎という父の子の三郎という意味であるから、信元が十郎ということになる。

この水野氏が桶狭間合戦に際してとった可能性がある態度、立場を書けば、

(1)水野氏は織田方であることを貫いたが、相手が余りに自分の領土に近い場所に迫ってきたため、領内でおとなしくしていたか、合戦にも出たが働きが目立たず、歴史に残らなかった

(2)実は、水野氏は密かに織田方を裏切り、今川方についていたが、正史ではそう書かれずに今日にいたり、真相が分からなくなった。

(3)桶狭間合戦では、水野氏は両軍によしみを通じながら、どちらにもつかず、「洞ヶ峠」を決め込んだ

(4)関が原合戦のときの小早川秀秋のように、最初今川方について戦ったが、合戦の途中で織田方に戻った

(5)(4)とは逆に織田方であったが、途中から今川方になって戦った

上記のうち、(5)はありえない。もし途中から今川方になったら、桶狭間合戦後に岡部元信が刈谷城を攻めることが発生しえない。また、(2)は今川義元の書状が、裏切りの根拠となりえるが、実際に今川方について織田勢と戦ったのなら、織田にとっては大いなる背反であり、何か記録が残ると思われる。(4)も同じで、最初今川軍に水野がいたなら、人々の印象に残るだろうから、何か記録が出てきてもおかしくない。

残るは、(1)か(3)であるが、もし(1)で単純に織田方についていて動きが積極的でなくても、相手のある話で、もしそうなら今川勢が行きがけの駄賃とばかりに刈谷城を攻めたのではないかと思う。もっとも、桶狭間合戦の前に既に刈谷城が今川方の手に落ちていたら、話は別である。

残るは(3)であるが、本当は(3)でもない。今川勢が刈谷城を攻めなかったのは、やはり水野信元と今川勢の間で何らかの約束が出来ていたからであろう。それは義元の書状そのままに尾張境で前線にたつということかもしれない。しかし、その約束に関わらず、水野勢は動かなかった。つまり、今川方との約束を反故にして、水野勢は終始織田方のまま、積極的には戦おうとしていなかったと思う。つまり、「洞ヶ峠」を決め込んだのではなく、織田方のまま、今川に加担するフリをしたのである。あるいは、桶狭間の敗戦で敗走する今川勢に追い討ちをかけるようなことはしたかもしれない。そして、桶狭間合戦後は何事もなかったように、織田陣営にあったに違いない。

だから、合戦後に約束を違えた水野氏に対して、岡部元信が謀略をもって水野信近を討ち、刈谷城に放火する行為に出たのではないか。

<大高水野氏の菩提寺春江院>

Shunkouin

これに関して、大高城を取り巻く砦のうち、鷲津、丸根という有名な砦以外に、大高城のすぐ近くの向山砦、あるいは氷上山砦(氷上姉子神社という熱田神宮の摂社がある)、正光寺砦という三つの砦があるが、千秋氏が守っていた氷上山砦以外の何れかを水野氏が守っていたが、勝手に撤退してしまい、それが元で氷上山ともう一つの砦も引かざるを得なくなった。それで、織田信長は大高城周辺の砦の守将と元守将に責任をとらせ、鷲津、丸根を見捨てるとともに、他の砦の守将であった千秋、佐々に敵軍の先鋒に突っ込むように仕向けたというように、まことしやかに書いている人がいる。

もともと大高水野氏の居城だった大高城であるから、土地に精通した水野氏が砦を守っていてもいいのだが、向山砦、氷上山砦、正光寺砦はそれほど大勢の軍勢をおける場所ではなく、桶狭間合戦時には兵をおいても、孤立するような位置関係にあった。特に氷上山は、「お氷上さん」と地元の人から言われる氷上姉子神社のある小山で、周囲は平地、大高城とも少し離れている。

<氷上山砦跡>

Hikami

小生もその各砦跡と思しき場所を見て歩いたが、春江院の脇にあり、大高城とは尾根続きの向山砦は切岸と簡単な堀しか防御施設がなく、連絡用の砦の位置づけとみえ、実際の合戦ではすぐに兵が撤退する場所である。氷上山は小高い山であるが、大高城よりも海岸線の船の出入りを見張る物見がある程度の砦であった。よって、熱田湊から大高の船着場の監視所としての限定された役割しか果たしえず、砦を守備兵でいっぱいにするようなものではない。正光寺砦も、小高い山から大高城を見張ることができる(現在はマンションが邪魔で見通せない)が、ここは大高城の南東にあって、東側からの敵をけん制することができるように思えた。兵を置くとすれば正光寺砦なのだろうが、織田勢としてはそこに兵をさくよりも、今川本陣を狙う兵を多くしたかったのであろう。実際に桶狭間合戦でも、守備兵はいなかったと思われる。

<正光寺砦とおぼしき台地から大高城跡を望む>

Shoukouji

よって、こうした砦に関しても、水野氏が出兵して云々ということもなさそうである。

一方、明らかに水野氏で桶狭間合戦に参戦した人物がいる。それは、丹下の砦を守った水野帯刀である。

水野帯刀は、常滑水野氏の喜三郎忠綱の子であったようで、戸部水野氏というべき家を分立していた。つまり、水野氏の主流からはずれた人物である。よほど、水野氏主流は、桶狭間合戦に名前を出したくなかったのか。

また、中島砦をまもった梶川一秀は平氏の出で、織田信長の家臣である。出身も尾張国丹羽郡楽田といわれ、今の大府市横根に城を構え、水野信元の成岩城攻略後に成岩城主となった梶川五左衛門秀盛など、水野氏重臣の梶川氏とは関係ないかもしれない。ちなみに、水野氏重臣の梶川氏は、大脇城の城主でもあったらしいが、大脇城は発掘によって実在が証明され、堀や溝で囲まれた居館や屋敷などが見つかっている。井戸からは常滑の壷と鉢が完全な形で出土しているほか、「天正四年」(1576年)及び「大御堂寺」が記された護摩札が出ており、戦国期の武士の生活を知る貴重な資料となっている。

なお、真相を知る男、水野信元は後に天正3年12月(1576年1月)佐久間信盛の讒言により武田勝頼との内通を信長に疑われ、岡崎の大樹寺において殺害された。

<三河岡崎の大樹寺>

Daijyuji

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2008.02.25

徳川家康と知多半島(番外:東海市にある「今川義元の塚」伝承地)

最近、仕事で何回か、半田・武豊から外に出て、東海市や名古屋に行く機会があり、小生東海市で気になる地名を目にした。それは「城之腰」というもの。車で東海市の物流会社に行ったときに、車のなかから交差点にかかった標識で見たが、以前から半田街道に「内堀南」とか「白拍子」という交差点が近くにあり、中世城郭かなにかあったらしいと気になっていた。「城之腰」の読み方は「しろのこし」か「じょうのこし」か知らなかったが、どちらにせよ明らかな城郭地名である。

<「城之腰」の交差点>

Shironokoshi

調べてみると、その「城之腰」の東側には、「城山」という地名があり、その「城山」に木田城という城があったことがわかった。実際に現地にいって、城跡周辺をあるいてみると、まず「城之腰」は「しろのこし」とよむことがわかった。その交差点から東にのぼっていった「城山」という場所に木田城の主郭があるというが、現在は住宅地になっていることがわかった。途中、浅間神社の祠があったが、そこも一段高くなっていて、防御施設があったかもしれない。また、土塁の残欠らしきもの、竪堀らしきものを見たが、不正確なことを書いても仕方がないので、図書館ででもよく調べてから、別途書くことにしたい。

この木田城こそ、今の東海市域の主要部を戦国時代に支配していた荒尾氏の居城であった。木田城は鎌倉末期に一色左馬助が築城したものを、戦国期に荒木空善が改修して居城とした。それは、今川方の知多侵攻に備えたためといわれる。荒尾氏というと、鎌倉幕府の御家人であった家があったが、戦国期に荒尾空善からはじまる系譜とは別であると思われる。その空善以降の荒尾氏は戦国時代を生き抜いて、池田輝政を祖とする鳥取藩池田家の家臣として存続した。その先祖は在原業平というが、それは伝承上のことで、実際には在地土豪であったと思われる。

実は室町時代には、当地には富田氏という氏族(尾張守護であった土岐氏の家臣という)がいたが、戦国期に緒川の水野氏が進出するに及んで、花井氏が水野氏と組んで富田氏の富田城を攻め、富田氏を退去させたか、あるいは、この荒尾氏が水野氏と結んで、富田氏を追放したらしい。荒尾氏は一応独立した豪族ながら、水野貞守から知多半島におおいに威をふるった水野氏にしたがっていたようである。

<木田城の主郭部附近>

Kidajyo

この荒尾氏は、織田信長の村木砦攻めに一役買っている。すなわち、天文23年(1554)1月、今川方が緒川の北、現在のJR尾張森岡駅近くに築いた村木砦をめぐった戦いにおいて、織田信長が自ら軍勢を築いてこれを攻めた際、途中にある鳴海城や大高城がすでに今川の手に落ちていたために、織田勢は一旦、海路これらの拠点を避けて、村木砦に向かうことにした。そして、1月22日、織田勢が熱田湊から船で馬走瀬(東海市横須賀)の浜(可家湊の辺り)に上陸、木田城に一泊した後、1月24日払暁、村木砦を襲った。可家の湊とは、以下の通り、万葉集にも詠まれた古くからある湊であった。その可家の湊があったあたりに建つ諏訪神社には、万葉の歌碑がある。古い歌碑は字が薄れてきたために、新しい歌碑も建っている。

<諏訪神社にある万葉の歌碑~小さい右側の碑が本来の歌碑>

Manyoukahi                                                                                

諏訪神社の石碑には、以下の歌が刻まれている。

年魚市方塩干家良思知多乃浦爾 朝榜舟毛奥爾依所見

あゆち潟潮干にけらし知多の浦に 朝こく舟も沖に寄る見ゆ

また、万葉集にある可家の湊を詠んだ歌は、以下の通り。

味鎌の可家の湊に 入る潮の こてたずくもか 入りて寝まくも

要は、今は陸地がその西側にずっと広がっているが、昔はその付近まで海だったということ。

ところで、荒尾空善は今川氏の尾張侵入によって戦死、村木砦の戦いの頃の当主は、大野佐治氏から養子に入った善次である。 大野の佐治氏や寺本の花井氏は、知多半島に今川家が侵攻した際に今川氏に付いたようで、花井氏はその後も桶狭間合戦にいたるまで今川方であり続けたのに対し、佐治氏は荒尾氏と養子縁組をするなど、途中で織田方に懐柔されたらしい。

荒尾善次は信長の軍を迎え、織田の軍勢は木田城だけでなく、周辺の長源寺、観福寺(高横須賀町山屋敷)にも分かれて駐屯、そして村木砦を攻めるのであるが、荒尾氏もこれに加わったとされる。

「城之腰」の交差点を「城山」とは逆に西へむかうとすぐに観福寺があり、しばらく歩くと長源寺の門のあたりに出る。長源寺は、延徳4年(1492)、大中一介禅師により開山された曹洞宗の寺。観福寺は知多でも有数の古刹で、寺伝によれば大宝2年(702)行基の建立といわれている。その沿革も宝徳2年(1450)に前身の本堂を建立したことが、寺蔵の棟札によって知られているだけで、そのほかの詳しいことは不明。しかし、相当の古寺であることは間違いなく、尾張徳川家の尊崇をうけ、文化財も多数所蔵している。また、当時は今より寺域が広く、「城之腰」交差点まで広がっていた。こうした寺院は、戦国期には荒尾氏の出城のように使われた可能性もある。

<仁王門から見た観福寺本堂>

Kanpukuji

一方、寺本の花井氏は、代々現在の知多市の寺本城を居城とした。寺本城は青い瓦葺であったといい、青鱗城ともいう。花井氏は尾張守護であった土岐氏の被官だったというが、寺本の津島神社には、寺本城主花井信忠が嘉吉3年(1443)5月に津島社を建立した棟札が今も保存されている。戦国期には花井播磨守、勘八郎の二代が寺本城主であった。この花井氏は、今川勢の知多侵攻に伴い、今川方となっていた。天文23年(1554)1月25日、村木砦攻めに勝利して帰った、織田軍により攻められ、寺本城下は戦火にあい、甚大な被害を受けた。桶狭間の戦いの後は、花井氏は織田信長に従い、大野城主の佐治氏の大野水軍とともに、寺本水軍として西浦の海で活躍したという。

桶狭間合戦の際の伝承として、織田方である荒尾氏の勢力圏内の可家湊、前述の諏訪神社近くに、どういうわけか「今川義元の塚」がある。それは長源寺、観福寺とも近い、今の横須賀小学校に隣接した場所にあり、その土地は「今川」と呼ばれている。

その場所は、航空写真で示すと、以下のようになる。

大きな地図で見る

伝承では、桶狭間の戦いで敗れた今川方の家来たちが、この地まで逃れ、義元の遺体を現在はない永昌寺に葬り、墓を守るためにこの地に住み着いたという。その子孫で「北川」「早川」という姓の者の子孫がいまでもいるという。

今川義元の首級は織田勢が首実検のために持ち帰ったが、それを鳴海城を守った岡部元信が強くアピールし、岡部が駿府に帰還させたという。また、胴塚も豊川の牛久保にあって、義元の嫡子氏真が供養したりしているので、そこに遺骸が葬られているのだろう。方角も桶狭間からは西にあたり、織田勢の多い当地に今川義元の塚があるのは、もちろん信じがたい。

<今川塚>

Imagawaduka

面白いのは、傍らにある石塔に「今川義基墳」とあること。「義元」を「義基」として祀っているのは,織田の勢力が強いために遠慮して字を変えていると言われているが、一字替えたところで、すぐ分かるのではないか。

<「今川義基墳」の文字のある石塔>

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今川塚近くの地に、戦いに敗れた今川義元の家臣が逃れてきたが、ついに息絶え、村人が12人の亡骸を葬ったとされる十二塚という地名も残っているが、落ち延びてすぐに全員死んだとも思えない。
元治元年(1864)には,今谷要蔵という船頭が,伊勢の海で難破しかけたとき,日頃から信仰していた「今川さん」に助けられたとして,塚の周辺の地を買い取り,祠(ほこら)を建てたという話も残っており、確かに今谷要蔵の寄進した石造物が残っていた。
よくわからないが、今川方の敗残兵が桶狭間合戦の後、当地に漂着した。今川方であった花井氏の本拠である寺本に逃げたのかもしれないが、着いたところは、まだ織田方の可家湊であった。しかし、それを憐れんだ地元民がかくまったか何かで、彼らは当地に土着した。その伝承が残り、今川義元に結び付けられたのではないか。
<今川塚の本当の主は?>

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2007.12.10

徳川家康と知多半島(その29:桶狭間合戦から今川氏からの自立まで)

桶狭間合戦における総大将今川義元の不慮の戦死、それによる今川勢の敗退は、「東海の覇者」といわれた今川義元を失っただけでなく、三河、遠江を支配下においた、駿河今川氏にとって権威を失墜させるという、大きなダメージとなった。

もとは尾張那古野城は、今川氏豊が守っていた。天文7年(1538)、これを織田信秀に奪われて、今川氏豊は追われて京に逃げ、今川は尾張における拠点を失った。以来、今川方は鳴海城主であった山口教継を寝返らせたり、山口教継の調略で大高城を手中に収めたりして、尾張に楔を打ち込み、知多半島の寺本の花井氏などの諸士を幕下に置くにいたる。

<大高城址>

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一方、織田信秀の死後あとを継いだ信長は、村木砦では自ら軍勢を率いて今川勢と戦い、今川の手に落ちた大高城の周りには鷲津、丸根の砦を築き、鳴海城は善照寺砦、中嶋砦で包囲した。

永禄3年(1560)の桶狭間合戦は、今川家当主を子の氏真に譲った、今川義元自らが出陣し、鳴海、大高の囲みを解き、さらに清洲に攻め寄せ、尾張を攻略する目的で戦われたのであるが、あえなく今川義元自身が桶狭間で戦死するという事態となった。

<今川義元の墓碑である「駿公墓碣」>

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その桶狭間の合戦で動向が分からないのが、水野信元である。桶狭間合戦に先立つ、村木砦をめぐる戦い、石ヶ瀬合戦においても、松平を含む今川勢は、織田方となっていた緒川水野氏と戦ったのであるが、当主水野信元の去就がはっきりしない。特に、村木に砦を築くようなことが今川勢に出来たとするなら、敵地に普請をしたことになり、刈谷、緒川の水野氏はそれを傍観していたのかということになる。下記は天文20年(1551)の知多半島の勢力図(「戦国知多年表」木原克之著所収)であるが、みられるように今川勢が三河方面(たとえば重原城)から資材を運んで、砦を築こうにも、刈谷・緒川水野氏の勢力圏を通ることなしに村木までたどり着けない。また村木は緒川の北に位置し、緒川水野氏の勢力圏である。

<天文20年(1551)の知多半島の勢力図>

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天文23年(1554)の村木砦の戦いは、水野信元が日和見をするなかで、織田信長が緒川水野氏の流れであるが布土城主になって知多における織田直系であった水野忠分を助ける形で展開していたとみるべきで、その後の石ヶ瀬合戦や桶狭間合戦に水野信元が積極的に関与していない事情があったと思われる。すなわち、明確に今川方に寝返っていたわけではないが、水野信元は織田にも今川にも通じていたように思われる。

確かに、水野信元の弟である刈谷城の水野藤九郎信近や主だった者は、鳴海城を開城し、駿河に帰る途中の岡部元信により、はかりごとをもって討ち取られ、城内に放火された。それは、岡部元信が、水野信元の立場をよく理解していなかったことによる、偶発事象かもしれない。もし、本当に水野信元が今川勢にとって脅威なら、桶狭間に行き着く前に刈谷を襲っていたか、すくなくとも別働隊を作ってでも攻撃を加えていたであろう。                                                                                           

<刈谷水野氏の墓のある楞厳寺>

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もう一つ、動向がよく分からなかったのが、大高城にいた水野大膳亮忠守である。その父は和泉守忠氏といわれるが、忠氏という名乗りは、大高城址に程近く水野大膳がその父和泉守の位牌祈祷所として開創したという春江院に残る系図に「忠氏 大膳後和泉守大高城主 弘治二年辰三月廿日卒 号春江全芳」とある(『張州雑志』第一巻に記載)のみで、実際は「近守」が正しいという。その水野和泉守の子大膳亮忠守は、桶狭間合戦の前、永禄2年(1559)迄に大高城が今川方の手に落ちると、どこかへ退転した。それは緒川か刈谷であろうと思っていたが、ヘロン氏によると、水野大膳亮忠守は刈谷古城にいたのだそうである。この水野大膳亮忠守も、桶狭間合戦に登場していない。水野大膳亮忠守の子は大膳亮吉守で徳川家康に仕え三千三百石、吉守の子、大膳亮正長は織田信長、徳川家康と仕え、大高城に居城するも関が原合戦で負傷しなくなった。天正13年(1585)の『織田信雄分限帳』に「大高郷 水野大膳」とあるのは正長か。忠守のもう一人の子正勝は織田信長に仕えた。正勝の子は、宗勝で、織田信雄に仕えた後、徳川家康の家臣になっている。何れの系統も徳川将軍家直参となり、大高水野氏は旗本として残ることになるが、刈谷・緒川の水野氏と、桶狭間合戦で行動が分からないことやその後の動向までよく似ている。

<刈谷古城遠景>

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織田・今川の両雄に挟まれていたのは、松平も水野と同様であった。しかし、松平元康、のちの徳川家康は、石ヶ瀬合戦でも、桶狭間合戦でも、明確に今川方にたった。しかし、桶狭間合戦後は、明確に今川方を離れ、今川氏真の軍勢と戦っているのである。

その画期がいつかという点については、議論の分かれるところである。従来は、松平元康、のちの徳川家康は、今川氏真に父の仇を討つように進言し、自身は織田・水野の軍勢と各地で戦った。しかし、今川氏真は暗愚で政治、軍事に向いていなかったため、一向に尾張に攻め込もうとしなかった、そうするうち、水野信元の仲介で織田信長と手を結ぶことが提案され、永禄5年(1562)になって、それにしたがって織田・松平の同盟(清洲同盟)を結んだ、という説が根強く、江戸時代から支持されてきた。

しかしながら、今川氏真は義元の生前すでに家督を譲られており、氏真自身も桶狭間合戦後、功績のあった家臣に対し、恩賞を与え、戦死した家臣の子には家督相続させ、所領の安堵状などを発給するとともに、寺社にたいしても旧来の特権を改めて安堵するなど、敗戦のショックによる動揺を抑え、領国経営を進める努力をしている。たとえば、岡部元信には鳴海城死守の戦功を賞し、旧領北矢部、三吉の地を返す判物を出しているし、戦死した松井宗信の子、宗恒には遠江国の所領を安堵している。少なくとも、今川家の威信が大きく低下したなかで、最後には縁戚の後北条氏を頼って出奔するまで、駿府から掛川に居城を移したりしながら、曲がりなりにも十年持ちこたえたのである。これは、今川氏真が後世言われるほど凡愚でなかった証明にもなるだろう。

一方、家康は大高城を永禄3年(1560)5月19日の合戦当日の夜引き払うと、一路岡崎に向かい、以下の『三河物語』の記述にあるように、大樹寺にいったん陣を張り、今川勢が岡崎城から出て行ったのを見計らって「捨城ならば拾わん」と、早々に岡崎城に入っている。非常に鮮やかであり、その時すでに今川からの自立を目論んでいたように思える。

「大高之城ヲ引迫力せラレ給ひて、岡崎にハ未駿河衆が持テ居タレ共、早渡シて退キタガリ申せ共、氏真にシツケノタメに、御辞退有て請取せラレ給ハズシテ、スグに大樹寺へ御越有て御座候えバ、駿河衆、岡崎之城ヲ明て退キケレバ、其時、捨城ナラバ拾ハント仰有テ、城へ移ラせ給ふ。」

つまり、前回述べたように、岡崎入城自体、駿河に帰らねばならない立場の家康が、あえてそうしたのは、義元なきあとの今川氏はもはやこれまでで、この難局を乗り切るのは氏真では無理だろう、今川の呪縛からの脱出は今が好機との計算があったと思われる。そして、今川方の動向も見据えた上で、岡崎での独立を考えていたのだろう。

しかし、桶狭間合戦直後から今川から離反し、織田についたかといえば、そうではない。石ヶ瀬において、桶狭間合戦直後の永禄3年(1560)6月18日と永禄4年(1561)2月7日にも合戦が行われたが、いずれも徳川家康が水野信元を攻めている。また、『水野勝成覚書』によれば、永禄3年(1560)6月18日は家康が知立の重原城を攻めたとされている。この『水野勝成覚書』は寛永18年(1641)5月に書かれたもので、桶狭間合戦の79年も後のものであるから日付はもしかして正確でない可能性もあるが、石ヶ瀬合戦と重原城攻めは同時期に戦われたらしい。少なくとも永禄3年(1560)6月時点では、家康は今川方であり、その戦いも含め前後数回、松平対水野の戦いが行われていたようである。

<水野氏先祖を祀る乾坤院(東浦町)>

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岡崎に戻った家康は、旧家臣団の掌握に努め、義元の代に今川の領国にされていた碧海郡、加茂郡を確保するために積極的に動き出す。これは永禄3年(1560)中のことであり、それが今川氏真との対立を招くことになる。翌永禄4年(1561)1月には、両者の対立を収めようと将軍足利義輝が、いろいろと手を尽くしたほどである。したがって、松平元康、後の徳川家康が今川氏の呪縛から離れ、独立のための行動を起こしたのは、意外にはやく、永禄3年(1560)の6月以降年末までのどこかになる。そのことについては、また次回。

(付記)

豊川牛久保に、今川義元の胴塚と称されるものがある。それに関し、牛久保まで義元の家臣が遺骸を運んだが、追撃にあい、やむを得ず、大聖寺に手水鉢を目印に葬ったという伝承がある。そんなところまで織田軍が追撃してきたとは考えられないが、その伝承が気になる。実際、大聖寺に義元の遺骸を埋めたなら、単に新暦6月の暑くなる頃で腐敗が進行していたためと考えるのが最も妥当で、他に遺骸を運んだ家臣が土地の者であったとか、その家臣が疲労のためやむなく埋めたとか、いろいろ理由は考えられる。そこが本当に義元胴塚かは不明なるも、今川氏真が父の三周忌を大聖寺で営み、位牌所として寺領の支配、諸役免除を認めた安堵状を与えたと言うところから、なまじ嘘でもなさそうである。
では、追撃(もしくはその風聞)があったとしたら、三河で今川家に敵対する勢力があったのか、これは桶狭間合戦直後の話として伝承されているものの、松平元康の永禄3年(1560)中の勢力拡大のための各地転戦で、東三河にまで矛先を向けたという伝承ではなかろうか。

<今川義元の胴塚:豊川市牛久保>

Yoshimoto_imagawa

参考サイト:∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

参考資料:『岡崎市史』   岡崎市

       『三河物語』  大久保彦左衛門  (徳間書店) ほか

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2007.11.26

徳川家康と知多半島(その28:桶狭間合戦後の徳川家康)

今川義元が桶狭間で討たれ、今川勢が尾張の喉元まで迫った戦は、あっけなく幕をおろした。その後の今川勢譜代の連中は、鳴海城をよく守った岡部元信を除き、勝手に引き揚げてしまい、大高城に兵糧入れして、そのまま守将となった松平元康、後の徳川家康は、織田方の勢力の只中の大高城に取り残された。もし、大高城を織田勢が総掛りで攻めたなら、大高城も落城したであろう。その場合には、日本の歴史は大きく変わっていたに違いない。

この孤立した徳川家康に、今川が負けたことを知らせたのは、水野信元で、水野氏の手引きで岡崎まで落延びたという説がある。あるいは、水野信元の使いが桶狭間の合戦の次第を知らせてきた、しかし家康はこういう時は縁者でも信用できないといって、ひたすら篭城の用意をしていると、岡崎の鳥居元忠から知らせが来て、初めて退却を決めたという。

「武徳編年集成」では

大高の城の漸く薄暮に義元戦死の由聞ゆる所 参州碧海郡刈屋の城主水野下野守信元より浅井六之助道忠を以って義元の戦死を告、且明日信長来たり攻べし、夜中城を避て帰国せらるべき旨を達す。神君曰く野州は伯父といえども織田方なり。必ずも信ずべからずとて、先ず道忠を虜にし、其実を得て去ベキ旨を宣う」

とある。野州とは下野守水野信元を意味し、いかに伯父といっても織田方なので必ずしも信じられないと徳川家康は言い放ち、浅井道忠を捕虜にして、今川義元討死の事実を確認してから大高城を退去すると言ったと、書かれている。

<大高城址>

Odakajyo

これを筆者は、桶狭間の合戦に先立つ、村木砦をめぐる戦い、石ヶ瀬合戦において、今川勢は、織田方となっていた緒川水野氏と戦ったのであるから疑義があると前にも述べた。いかに身内であっても、今川方の武将を、織田方にたって今川勢と合戦もしてきた水野信元が助けるのは、やはり納得しにくいものがある。しかも、桶狭間合戦後には、徳川家康と水野信元は石ヶ瀬で合戦を行っているのである。

石ヶ瀬では永禄元年(1558)の合戦だけでなく、桶狭間合戦後の永禄3年(1560)6月18日と永禄4年2月7日にも合戦が行われたが、いずれも徳川家康が水野信元を攻めたものである。徳川家康が桶狭間合戦後に岡崎城を帰ったのが永禄3年(1560)5月23日であるから、二回目の石ヶ瀬合戦は岡崎帰還から1月もたっていない。

大高城の徳川家康に、今川義元が討たれ、今川勢が負けたことを知らせたのは水野信元という説は、大久保彦左衛門が書いた「三河物語」によるものと思われる。

三河物語には、以下のようにある。

「義元ハ打死ヲ成サレ候由ヲ承候。其儀二於てハ、爰元ヲ早々御引除せ給ひて御尤之由各々申ケレバ、元康之仰にハ、タトヱバ義元打死有トテモ、其儀、何方よりモ聢トシタル事ヲモ申来タラザルに、城ヲ明ケ退キ、若又、其儀偽ニモ有ナラバ、二度義元に面ヲ向ケラレン哉。其上、人之サゝメキ笑種に成ラバ、命ナガラエテ詮モ無。然バ、何方よりも聢トシタル事無内ハ、菟角に退カせラレ間敷ト、仰除テ御座候処え、小河より水野四郎右衛門尉殿方カラ、浅井六之助ヲ使にコサせラレテ、其元御油断ト見えタリ。義元社打死ナレバ、明日ハ信長、其元え押寄成ラルベシ。今夜之内に御支度有テ、早々引退ケサせ給え。然ば我等参テ案内者申スベシ由ヲ申越サレ候えバ、六之助、主之使に来りて申ケルハ、我等に御案内者申て、早々御供申せ。信長押寄給ハゞ、御六ケ敷候ハント四郎右衛門申越サレ候間、我等に三百貴下サレ給え。御供申サントテ、知行ヲネギリテ、御案内者ヲ申ケリ。

 水野四郎右衛門尉殿ハ、腹ヲ立、憎奴バラメ。成敗ヲイタシ度ト申サレ候え共、敵味方之事ナレバ成敗モ弄。大高之城ヲ引迫力せラレ給ひて、岡崎にハ未駿河衆が持テ居タレ共、早渡シて退キタガリ申せ共、氏真にシツケノタメに、御辞退有て請取せラレ給ハズシテ、スグに大樹寺へ御越有て御座候えバ、駿河衆、岡崎之城ヲ明て退キケレバ、其時、捨城ナラバ拾ハント仰有テ、城へ移ラせ給ふ。」

これによると、徳川家康のもとにはすでに今川義元が討たれたらしいという情報が伝わっていたが、それが確かなものか判断しかねていた。その頃、水野信元から浅井六之助道忠が使者として派遣され、浅井六之助は「今川義元が討ち死にしたのは事実で、明日には織田信長の軍勢が押し寄せてくる」と述べ、三百貫をくれればご案内すると金をゆすりとろうとした。その願い通り、浅井六之助はご案内役をつとめたが、そのことを知った水野信元は立腹した。家康が岡崎に入ると、今川勢はまだ岡崎城にいたが、城から退散したがっていた。家康は大樹寺を本陣と定め、兵を休めた。今川勢は無断で岡崎城から退散し、それを知った家康は「捨城なら拾おう」と言って、城へ移った。この最後の「捨城ナラバ拾ハン」という言葉は、いろいろな劇や映画でも有名である。

<徳川家康が本陣にした大樹寺>

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この「三河物語」は、大久保彦左衛門が自分の子孫に受け継ぐために書いたものであり、世の中に公開する目的で書いたものではないとされる。そして、一部明らかな記憶違いなどを除くと歴史的事実の記述も多く、史料としての信憑性も比較的高いという。しかしながら、桶狭間合戦は永禄3年(1560)の合戦であり、大久保彦左衛門はその永禄3年(1560)生まれである。したがって、桶狭間合戦については、大久保彦左衛門が直接経験したものではなく、その記述も伝聞によるということになる。しかし、大久保彦左衛門は、それが事実と思って書いたのであろうから、「三河物語」が成立した元和年間には徳川家康の周辺では通説になっていたのであろう。

徳川家康が大高城から脱出した頃、鳴海城の岡部元信は、今川義元の首級をもらうという条件で鳴海城を開城し、駿河を目指して進んでいった。その途上、岡部元信は刈谷城を襲い、城主水野藤九郎信近を討ち取っている。

これについては永禄3年6月8日付の岡部元信宛の今川氏真判物に、

苅屋城以籌策、城主水野藤九郎其外随分者、数多討捕、城内放火、粉骨所不準于他也

とあり、はかりごとをもって刈谷城の水野藤九郎信近や主だった者を討ち取り、城内に放火したことがわかる。また、上記文書は今川氏真の発給した岡部元信の所領安堵状であることからも、氏真が合戦後に失われた家中の統率を取り戻そうと、領国経営に努力していたことが分かる。

<刈谷城址>

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<刈谷城の堀>

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桶狭間合戦において、水野氏本流である、緒川刈谷水野氏の動向がよく分からないが、唯一この事跡のみが、古文書にもあり、歴史上表面化している。

そもそも、水野氏本流、特に水野信元は永禄元年(1558)の石ヶ瀬合戦においても、積極的には動いていないふしが見られる。またそれに先立つ村木砦の戦いでは、本来表にたつべき水野氏よりも、織田信長自身が前面に出て、今川方と戦っているのである。その際に出動した水野氏は水野信元ではなく、緒川水野氏の流れではあるが、布土城主となった水野忠分であるという。桶狭間合戦では、水野信元は織田方でありながら、同時に今川方にも場合によってはつくような日和見をきめこんでいたのかもしれない。

そう考えると、大高城の徳川家康の脱出を助けることは、まったく考えられないわけではない。もともと、水野氏は信元の先代、忠政の代には、今川・織田両家によしみを通じており、松平と水野が姻戚関係を結んだのも、水野氏の両雄に挟まれた不安定な境遇を象徴しているといえる。信元の代となり、織田方であることを鮮明にしたものの、村木砦を橋頭堡として今川氏が尾張獲得に乗り出すと、常に今川方の動静を注視していたのはもちろんである。もし、水野信元が徳川家康に浅井道忠を使者として送り込んでいたならば、家康に織田方へ寝返るように工作するとか、もし合戦の勝敗がつく前なら、逆に自らが今川方に密かに通じようとして、その使者として送り込んだという可能性はある。それが、家康に取り込まれ、道案内をさせられたとすれば、三河物語にあるように水野信元は怒っただろう。だが、以前に述べたように、徳川家康は大高川を下って、伊勢湾に出て海沿いを大野か常滑に上陸し、坂部を経たかどうかは分からないが、成岩浜から三河にふたたび海路を使って戻ったと信じるものである。

また、松平元康、後の徳川家康が、大高城で今川方の敗北をいつまでも知らないでいたことはありえず、目と鼻の先にある鷲津砦や丸根砦にいた朝比奈、鵜殿といった今川勢が引き揚げるのを見ていたはずであり、今川勢に異変があったことは分かっていただろう。それでも大高城に留まっていたのは、本来今川義元が大高城に入るのを迎えることになっており、今川義元本隊はどうしているのか、またその他の隊の状況はどうか、織田勢の動きはどうかと、合戦の動向を見据えた上で、その次の行動を起こそうとあえて慎重になっていたと思われる。そして、合戦の動静を探らせていた自分の部下、それは鳥居元忠といわれるが、その部下が戻ってきて、もたらした情報により、退却を決めたのに違いない。

<水野氏歴代をまつる堅雄堂(知多郡東浦町)>

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しかし、なぜ今川義元が討たれたことで、今川勢はかくももろく崩れ、駿河などへと敗走していったのだろうか。それは、一つには今川勢が譜代の勢力だけでなく、遠江、三河の外様衆も多く含まれる混成部隊であり、多くの重臣も失って、指揮命令系統が寸断されたためであろう

桶狭間合戦では、今川義元をはじめ、蒲原氏政、久能氏忠、浅井政敏、三浦義就、吉田氏好、葛山長嘉、葛山元清、江尻親良、岡部長定、藤枝氏秋、牟礼泰慶、関口親将、松井宗信、斎藤利澄、井伊直盛、福平忠重、庵原忠縁、庵原忠春、庵原忠良、加藤景秀、鳥居直治、富塚元繁、由比正信、松平惟信、瀧脇松平宗次・長澤松平政忠、政忠の弟松平忠良、その他、主だったもの583人がなくなっている。

今川氏の軍勢は寄親、寄子制をとっており、今川の部将などの寄親の武士の下に地侍層が寄子として従い、その地侍が兵卒を連れるという構造となっていたため、寄親がいなくなると、配下の寄子は統率を失うという弱点を持っていた。

かくして、今川義元の討死という不測の状況下にあって、徳川家康の目指す場所は駿河ではなく、岡崎であった。駿河に帰らねばならない立場の家康が、あえて岡崎に入ったのは、義元なきあとの今川氏はもはやこれまでで、氏真ではたちいかないと判断したのではないか。氏真は一説には暗愚な人物とされるが、そうではなく桶狭間合戦後に功績のあった岡部元信に所領を安堵し、領国経営をなんとかやっていこうと努力する面もあった。しかし、氏真は偉い親父が腐心して支えてきた駿河、遠江、三河を守り抜く度量のある人物ではなかった。それをいち早く見抜いた家康は、岡崎にとどまり時節を待ったのであろう。

それでは、岡崎に戻った徳川家康は、いかにして自立し、東海に覇をとなえるようになったのであろうか。それについては次回。

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2007.07.18

徳川家康と知多半島(その27:桶狭間古戦場を行く<後編>)

桶狭間合戦の織田勢の勝因、言い換えれば今川勢の敗因については、「桶狭間古戦場を行く<中編>」で大体述べた。すなわち、「今川軍のもともとの構成が混成部隊であった上に、桶狭間が山谷が入り組んで大軍を動かすのに適さず、今川軍に不利な場所であったこと、夕立という自然現象が信長軍に有利に働いたこと、そして織田信長が情報を重視し、的確に今川義元本隊の動向をおさえていたことが、勝因となったと思われる。」と書いた通りである。

しかし、織田勢が勝った理由は、それだけであろうか。いくら地理的な条件や自然現象が有利に働こうと、いち早く的確に情報を握っていようと、実際に戦闘局面で生かせなければ意味がない。その用兵の面でも、織田勢が勝つ要因があったと思われる。

<清洲公園の織田信長像>

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今川義元が討死した当日の様子を振り返れば、以下の『信長公記』の記述にあるとおり、織田信長はわずかな手勢を率いて清洲を発ち、熱田を経て、鳴海方面へ突っ走っている。そして、丹下の砦にまず入り、次に善照寺砦へ移っている。

「浜手より御出で侯へば、程近く侯へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸げさせられ、先、たんげの御取出へ御出で侯て、夫より善照寺、佐久間居陣の取出へ御出であつて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体御覧じ、御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の休息これあり。
天文廿一壬子五月十九日午の剋、戌亥に向つて人数を備へ、鷲津・丸根攻め落し、満足これに過ぐべからざるの由にて、謡を三番うたはせられたる由に侯。
今度家康は朱武者にて先懸をさせられて、大高へ兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依つて、人馬の休息、大高に居陣なり。信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へぱ、瞳とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死侯。是れを見て、義元が矛先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ侯。(以下、略)」

信長が善照寺砦に入ったのは、鳴海城と数百メートルしか離れていないのであるが、善照寺砦が鳴海、大高両城に対する付け城五砦、すなわち丹下、中島、善照寺、鷲津、丸根のうち最も大きく、今川勢に対する前線基地として兵力を集中させるのに最も適していたからである。しかし、清洲からいち早く善照寺砦に移っていれば、今川勢先遣隊との小競り合いなどで兵を減耗させてしまいかねなかった。

<鷲津砦址>

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信長は、合戦当日の5月19日なってはじめて、清洲を出て、善照寺砦に入ったのである。ちなみに、善照寺砦や次いで信長本隊が入った中島砦も、今川勢先遣隊からは見渡せる位置にあり、信長本隊の動きも今川勢の知るところであった。この中島砦は鳴海城に近い、扇川と手越川の合流点の三角州にあり、この砦に入るには、深田の一本道を進まなくてはならず、敵から丸見えであった。ゆえに、家臣たちは信長が中島砦に入ろうとするのを止めた。この中島砦は鳴海城とは目と鼻の先にあり、500m程しか離れていない。そこに2,000人の信長主従が、息をころして潜んでいた。

<丸根砦址から大高方面を見る>

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では、信長が善照寺砦に入ったことを知った千秋四郎・佐々隼人正が今川先遣隊にぶつかっていった行動は、単なる抜け駆けの功名を目指したものであろうか。300人といえども貴重な兵力であったはずである。それをなぜ、今川先遣隊との戦いに振り向けたのだろうか。

これは、信長が善照寺砦に3,000名の兵を集結させながら、1,000名を残し、2,000名を率いて義元本隊を目指したのと関係している。つまり、信長本隊は善照寺にあって、千秋・佐々の別働隊を今川先遣隊にぶつけ、鳴海近くに出張っていた今川先遣隊を善照寺砦に引き付けておいて、自らは中嶋砦を経て、一直線に「おけはざま山」を目指したのである。信長は、千秋らの戦いを見届けてから、善照寺砦を出ている。あくまで、信長本隊は善照寺砦にいるように見せるためと、もし今川先遣隊が千秋・佐々の別働隊を破り、余勢をかって善照寺砦に押し寄せた場合に備えて、善照寺砦に1,000名の兵を残したのであろう。

ここで、信長が今川義元の首級を最初から狙っていたかといえば、そうではなく直接的には今川本隊のどこかを襲って混乱させ、それに乗じて本隊の戦力低下のダメージを与えるということであったと思われる。さらに、鳴海城包囲陣で、鳴海城を奪回することも当然考えていたであろう。
信長にとって幸運にも、今川先遣隊から義元本隊に信長本隊が移動して迫ってきている旨、伝達される以前に、信長本隊は義元本隊を捕捉した。これは、まさに願ってもいない千載一遇の好機であった。

<桶狭間長福寺の蓮池>

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今川義元の部隊は、延々と駿府から行軍してきたのであり、兵力がまさるといっても小荷駄隊などを含んだ人数がまさっているだけであり、実際の戦闘要員は義元本隊が5,000名として、うち1,500名程度に過ぎなかったという。それに対し、信長本隊は戦闘要員ばかりの2,000名である。彼我の戦闘能力は、本隊同士でみれば織田勢のほうが勝っていたといってよい。メンタル面でも、駿河、遠江、三河の混成軍団である今川勢とくらべて、織田勢のほうが結束力が強く、士気も高かった。したがって、戦闘自体で信長本隊が勝ったのは、何ら驚くに値しないのである。

問題は、今川方がなぜ「おけはざまと云ふ所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事限りなし」ということが分かっていて、わざわざ「おけはざま山」を陣地としたかである。5月17日には瀬名氏俊が桶狭間に来て陣地を設営したのであるが、もとより、今川義元の塗輿での往来は2m程の平面、2~2.5mの高さの空間が必要であったのは前記の通りである。それだけでなく、地盤の悪い低湿地や渡河に労力のかかる場所は避けたと思われる。沓掛から阿野を経て大高道を大高に向かっている途中のどこかで休憩をとるならば、当時村があったのは大脇、桶狭間くらいしかない。桶狭間と大高の間にも江戸時代には集落ができるが、それは新田開発に伴ってのことであろう。人家があって飲み水などを分けてもらうことができる、兵を休ませるのに都合の良い平地、または緩やかな斜面がある、塗輿で来た義元一行が進軍できる道が麓にめぐっている、大将が先遣隊のいる高根山や鳴海方面などを見渡せることができるというと、やはり本陣をおくのは「おけはざま山」と今川方は考えた。

<義元本陣推定地からみた現在の桶狭間>

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桶狭間特有の台地と低地が入り組み、幕山などと「おけはざま山」の中間にあたる低地には深田や鞍流瀬川などの水路があって通行しにくいという欠点は、大部隊の通行には大きな障害であり、それで義元本隊は台地上で歩きやすい近崎道を行ったのであろう。間に低湿地があることは、本隊と先遣隊のいる高根山、幕山、巻山との連絡においても不利であったが、数名の使者が往来する程度であれば、大きな問題にならなかった。しかし、今回は信長本隊の攻撃に際して、先遣隊が今川義元本隊に急ぎ合流するような機敏な対応が必要であったが、それが桶狭間の地形からしてうまく出来ない状況にあった。今川勢は、自らを逃げ場のない袋小路に追い込んだといっても過言ではない。もし、太原雪斎禅師が生きていて軍師を務めていたら、このような誤りはおかさなかったに違いない。

<田楽坪の今川義元墓碑「駿公墓碣」>

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織田勢の急襲をうけ混乱した義元本隊は、「おけはざま山」を降りて、田楽坪に出たが、彼らを待っていたのは今川先遣隊ではなく、先回りした織田勢であった。塗輿を目印に本隊の位置を確認された今川義元は塗輿から馬に乗り換え、旗本に守られて、本来の行き先である大高方面に逃れようとしたようである。そして、取り巻く旗本が減っていくなか、最後は自ら太刀を振るって戦い、服部小平太の膝頭を切り割ったが、毛利新介に討ち取られた。「東海の覇者」といわれ、足利尊氏と同じく治部大輔から三河守となった今川義元が、このような最期を遂げたことは、その当時の人に衝撃を与えたであろう。自ら太刀をふるって奮戦し、最後に討ち死にしたのは将軍では足利義輝、守護大名では今川義元くらいである。

<今川義元の胴塚~豊川市牛久保>

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かくして、おそらく織田信長も予期していなかった今川義元本隊の偶発的な崩壊と義元自身の戦死によって、幸運にも織田信長は勝ちを拾った。今川義元の戦死は、今川全軍に伝わり、即日退却する将兵が多かった。大高城の松平元康、のちの徳川家康には、一説によれば、水野信元が家臣の浅井道忠という者を遣わして、桶狭間の合戦の次第を知らせてきた。しかし、家康はこういう時は縁者でも信用できないといって、ひたすら篭城の用意をしていると、岡崎の鳥居元忠から知らせが来て、初めて退却を決めたという。しかし、これは真相がよくわからず、大体桶狭間合戦での緒川・刈谷水野氏の動向が今ひとつ不明であるから、なんともいえない。確かに織田方に水野帯刀や梶川一秀(あるいは大脇の梶川氏と関係ないかもしれない)といった水野氏系と見られる人は登場するが。

<緒川水野氏が本拠とした緒川城址>

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それはともかく、大高城の松平元康や鳴海城をよく守った岡部元信以外の今川方武将は今川義元の戦死を聞き、さっさと撤退してしまった。この時の様子を『信長公記』や『三河物語』は、以下のように書いている。

「去て鳴海の城に岡部五郎兵衛楯籠候。降参申候間、一命助け遣はさる。大高城・沓懸城・池鯉鮒の城・鴫原の城、五ヶ所同事に退散なり。」(信長公記)

「岡部之五郎兵衛ハ、義元打死被成、其故、扉(沓)懸之入番衆モ落行共、成見(鳴海)之城ヲ持傾(固)テ、其故、信長ヲ引請て、一責責らレて、其上にて降参シテ城ヲ渡シ(以下略)」 (三河物語)

岡部五郎兵衛とは岡部元信のことであるが、岡部元信は鳴海城をよく守り、義元討死の報に接して沓掛の入番衆たちが早くも撤退したあとも持ちこたえたが、信長に降伏して一命を助けられた。そして信長に要請して、今川義元の首級を駿河に持ち帰ったという。いずれにせよ、前線にいた今川将兵は撤退するか、織田方の捕虜となったかで、戦線は崩壊した。

そして、すでに桶狭間合戦が始まる前に家督を継いでいたという今川氏真が、復仇のいくさを織田信長に対して仕掛けることもなく、松平元康が岡崎城を「拾い城」として入城し、自立するとともに、甲斐武田氏が領土を侵食、家臣団も分裂していくという事態へと転げ落ち、いわば自滅する形で今川家は戦国大名としての地位を失っていく。もし、今川義元のあとを継いだのが義元クラスの一級の武将であったなら、こうした事態にはならなかったであろう。これも、織田信長の強運なところであった。

<桶狭間の長福寺の供養塔>

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今川義元以下、戦死した今川方の将兵の菩提は、桶狭間の長福寺や近隣の寺院などでも弔われている。大脇の曹源寺二世の快翁龍喜和尚は、水野貞守以来水野氏配下の部将であった中山氏の出身で、水野忠政の家臣中山又助の次男であったというが、その快翁龍喜和尚は桶狭間合戦後、戦死した今川将兵の引導供養をし、その配下の僧が戦死者の埋葬の指揮をしたという。戦人塚は、その埋葬の場所というが戦場から離れすぎており、山の頂上のような場所で埋葬に適していると思えない。これは、その故事と、仙人塚という道教か何かの伝説の地が混同されてできた「話」と思われる。桶狭間古戦場公園の近くに、七つ塚という埋葬伝承をもつ塚があるが、そちらのほうが戦死者の埋葬場所としてリアリティがある。

<七つ塚>

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それでは、徳川家康は如何にして、今川家から独立していったのか、次回以降その過程を探っていくことにしたい。

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2007.07.07

徳川家康と知多半島(その26:桶狭間古戦場を行く<特別編:桶狭間まで今川義元が辿った道>)

「徳川家康と知多半島」の「その24:桶狭間古戦場を行く<前編>」に今川義元が通ったと推定される近崎道について書いたところ、思わぬ反響?があり、他の記事の件でも、既知の情報を何かブログに書くこと自体に対する非難があった。それで、暫く忙しさにかまけて、ブログに記事を掲載するのをやめていたのだが、桶狭間を通る近崎道については梶野渡氏から後日教えていただいた情報など、知りえた情報を書きたいと思う。

固定観念をもつこと、「○○は△△でなければならない」というのは、真相を分かり難くする。今まで、桶狭間合戦は田楽窪という窪地で今川義元本隊が休んでいて、そこに織田信長が奇襲をかけたとされていた。歴史物の小説や映画なども、その線で書かれており、子供のときにみた中村錦之助主演の「風雲児織田信長」(1959年)などの映画でも、そう表現されていた。しかし、史実に忠実とされる「信長公記」が発表されると、「信長公記」にあるように、みな「おけはざま山」に攻め上るように書き換えられ、NHK大河ドラマの緒方直人主演の「信長」(1992年)でもそう表現されていた。

今回、あらためて今川義元本隊がたどった道を整理してみることとする。今川義元本隊が桶狭間で織田勢に敗れ、義元が戦死するまでの直近の経過は以下の通り。

永禄3年(1560)5月17日
   桶狭間で瀬名氏俊が陣を張り、義元着陣に備える。

同5月18日
 沓掛城で作戦会議。

同5月19日
 未明に丸根、鷲津砦を今川勢が攻め、これを落とす。今川義元本隊は沓掛を出て、大高道を阿野、大脇と進軍、桶狭間で近崎道に入り「おけはざま山」に着陣。中島砦を南下し、桶狭間手前の生山(はいやま)を経て、武路釜ヶ谷に潜んでいた織田勢、雷雨をついて「おけはざま山」に駆け上り、これを追い落とす。今川義元を守る旗本は三百から五十、さらに数名となり、義元は自ら太刀を振るって戦うも、毛利新助に討ち取られる。

さて、その沓掛と桶狭間とは距離にして約8Km、徒歩で2時間半あまりであり、今川義元が塗輿に乗っていて速度が6割程度と遅かったとしても4時間もあればついてしまう。桶狭間の合戦が始まったのは午後1時くらいであるから、沓掛を当日朝出たのであろう。

今川義元が馬ではなくわざわざ塗輿に乗っていたため、幅約2m程の平面、高さ2~2.5mの空間が必要であったのは前述の通りである。これを当時の道幅で考えると、幅1.5m未満の細い道はまず通ることは出来なかった。野良仕事で使うような、村のちょっとした作業道など三尺道は1mも道幅がなかったであろうから、無理である。せめて六尺道(2m弱)でないと、通行はままならなかったであろう。また道の両側に木が茂っているような山の中の道は木の枝が張り出しており、輿を担ぐ人間は通ることが出来ても、輿の上の義元が木の枝にぶつかることになり、やはり通行ができない。どうしても幅2m程度の道でないと、義元本隊は進めず、また渡河や、地盤の悪い場所の通行は極力避けたであろうから、六尺以上の道であっても低湿地の道は通らなかったと思われる。

このような不便にも関わらず、権威を見せつけようと、勅許の必要な塗輿にわざわざ乗った今川義元は沓掛を出て東浦街道を南下、阿野にいたり大高道を西へ、さらに桶狭間の現在の東ノ池の付近で近崎道を北上したと想定される。

<天保12年の「知多郡桶廻間村図面」>

Okehazamaezu

(黄色:近崎道、緑:三州道、紫:大高道、着色は筆者)

天保12年(1841)の村絵図にも、その道は描かれている。天保12年5月の「知多郡桶廻間村図面」では、北尾村へ出ることが示されている、筆者が黄色く着色した道筋が、桶狭間村からみた近崎道である。道は集落のなかの家と家、交流のある集落同士で、人や物の行き来があったから出来たのであり、北尾、近崎(現在、両村が合併して「北崎町」となっている)と桶狭間は古くは荘園時代の呼び方では尾張国知多郡英比郷のなかの隣接する村であった。内陸の桶狭間と交流があったと思われる北尾、近崎は、皆瀬川や境川の川沿いであるが、かつては緒川、刈谷の間は入江であったとされるので、北尾、近崎も水運に関わっていたであろう。それは近崎の地名の由来が「古くは、衣が浦がここまで湾入していて、近崎神明社の森のあたりは岬となっていました。この岬は、茅が繁茂した岬であったことから『チガサキ(近崎)』と呼ばれたと思われます。 なお、近崎は師崎(南知多町)・亀崎(半田市)とともに、『知多の三岬』と呼ばれたといいます」(大府市歴史民俗資料館)ということからも分かる。つまり、近崎道は、英比郷の荘園があった頃から、海辺の村と内陸部を結ぶ重要な道であったと推定される。

室町時代、戦国初期の時代には、中山勝時の父、中山重時が桶狭間、北尾の両方を治めていたということであるから、同じ領主の村である桶狭間と北尾、隣接する近崎の間で人や物資の往来があってしかるべきであり、農道や作業道のような道ではないことは明白である。ちなみに、北尾には中山氏のものか不明だが、城があったと伝承される「城畑」という地名がある。現地は現在極楽寺という寺院になっており、台地端の城があってもおかしくない地形である。隣接する横根には梶川氏の横根城があり、水野氏の勢力下にあって、これらの城は領民統治と交通の要衝をおさえるための城であったと思われる。

<中山重時が領有した北尾の「城畑」>

Shirohata

近崎道は、信長が定めた道の定義では在所道であり、幅一間(六尺)で2m弱の道幅を持っていた。塗輿で行くのには少々狭いが、何とか通ることはできただろう。そうでなければ、「おけはざま山」に着陣する二日前から、幕奉行の瀬名氏俊が来てわざわざ設営することもなかった。大将が休憩する場所をろくな道もないような所に設定するはずがない。

<伊勢池の南の近崎道>

Iseikehigashi

現在、吉川機械製作所の向かいにある伊勢池は、古くからある池で天保12年の絵図にものっているが、梶野渡氏によれば、これは伊勢講代参の禊のために使われたため、伊勢池の名前がついたという。禊に使ったくらいであるから、かつては澄んだ水が満々とあったのだろうが、今は水生植物が花を咲かせていたものの、池の水も少なく湿地帯のような状態であった。江戸時代には伊勢講で往来する人も多かったろうから、江戸時代においても、それなりの道であったのだろう。

なお、この伊勢池、寛文村々覚書では「近崎道池」となっており、その後伊勢講の禊池となって伊勢池と呼ばれるようになったそうだ。

<伊勢講の禊に使われた伊勢池>

Iseike

今でもこの道は、北崎方面からと当地から北崎方面への車の往来が激しく、会社の勤務時間が終わって、半田から車を飛ばしてきた小生、喫茶店で休憩しようと徒歩で道の反対側に渡ろうにも、なかなか渡ることができなかった。おまけに道の反対側にあった喫茶店は、たまたま休みであり、飲もうとしていたコーヒーはかつての大高道に交差する辺りにあるコンビニ、サークルKで買い求めた。

なお、伊勢池の北にあたる近崎道沿いに「伊勢」という名がつく会社があったが、これは伊勢池からついた名前ではなく、屋号からなのであろう。

<伊勢池の北、大高道と交差する辺りの近崎道~「伊勢」の名がつく会社があるが>

Chikasakimichi_1

それはともかく、近崎道が大高道と交差する南側は、今も交通量が多く、道路の反対側には容易に渡ることも出来ない。近崎道が大高道と交差する地点には、お地蔵さんがまつってあった。これが道標地蔵なのかどうかは、余りにお地蔵さんが古すぎ、風化していて目鼻立ちもわからないくらいなので、何がしかの字が彫られていたにしても判読は不可能である。なお、大高道も現在の郷前交差点は通らず、慈雲寺の南側を通っているなど、新道とは道筋が違うところがある。

近崎道が大高道と交差する地点の北側には、現在東ノ池と呼ばれている、かつての「石池」があり、改変されているが、その池沿いの道が近崎道である。しかし、東ノ池の北側に東西に走る道があり、それと交わる辺りの北側も住宅密集地帯であり、道筋は大幅に改変されていて、よく分からない。

<近崎道が大高道と交差する辺りにあるお地蔵さん>

Chikasakijizou

<東ノ池の北端から>

Higasiike

それを現在の地図から、推定してみる。桶狭間の地元の研究会が書いた図面を参考に、Mapfanの地図と重ねてみた。細かいところは、少し違っているかもしれないが、大まかには北尾、近崎方面から北へ伊勢池の脇を通って、大高道に交差し、東ノ池の西を通り、長福寺の裏手に出る。さらに「おけはざま山」の麓を通って、今の古戦場公園の泉水跡あたりまで出てくる。それから北は鳴海道といった方がいいのだろうが、実際現在の地蔵池は「鳴海道池」とかつては呼ばれていた。

<現在の地図に書いたかつての近崎道、大高道>

Okehazamamap1_1

<上図の北側>

Okehazamamap2_1 

梶野渡氏によれば、その古戦場公園の泉水跡の辺りで、三州街道と近崎道は交わっていたそうだ。その泉は、桶狭間の名前の由来になったといわれる泉で、旅人の喉を潤したりするために桶が泉のなかに置いてあったが、湧き出す水の勢いがあったために、桶がくるくると回っていたので、「桶廻間」という村の名前がついたという伝承がある。つまり、この辺は人馬の往来が昔からあったというわけだ。

しかし、なぜ今川義元は「おけはざま山」に陣を張り、そこへ行くために近崎道を通り、またその先どうしようとしていたのか。

<桶狭間古戦場公園の泉水跡>

Sensui

「おけはざま山」の山頂(標高64.9mの最高所)が一番見晴らしがよく、今川軍先鋒のいる高根山、幕山、巻山を一望にすることができるだろうが、山頂まで木が茂り、道もないようなところを折角乗ってきた塗輿を置いて、みな徒歩姿となってのぼっていったとは考えにくい。台地中腹の標高40m~50mの小松原続きのやや平坦となった場所に陣取り、先鋒隊の陣地を一望にし、馬には水をやり、将兵たちは食事をしようとしただろう。そして、そうした今川軍陣地のそばを近崎道が通っていたのである。それ以外にも道はあったであろうが、何せ大将の義元が輿に乗っているのだから、六尺道以上の道でなければならなかった。

住宅地のなかで分かり難いが、長福寺裏手から北へ台地の縁辺を通る近崎道は、長福寺裏山の東に残っている。しかし、このあたりにくると、車もたまにしか通らない、古い住宅地特有の幅2mほどの細い道となっている。しかし、もともとこの程度の幅しかなかったのだから、伊勢池横の車の行き来の激しい地点よりも、原形を留めているというべきか。

<長福寺北側の近崎道~六尺道の名残りがある>

Chikasakimichi_2

ただ、今川勢のおかした過ちは、本隊と先遣隊との間にある、江戸時代に「廣坪田面」(ヒロツボトーモ)として水田化された桶狭間合戦場一帯が低湿地であり、戦国時代にも泥田があったことである。

台地上の、例えば近崎道のようなところは歩きやすかっただろうが、低地面の大池の西側を通る道周辺は以下の写真のようについ最近まで田圃だらけで、戦国時代には一面水田のなかを細い道が通っていただけだったろう。また、江戸時代の絵図を見ると、長福寺の西側に南北に鞍流瀬川が描かれている。かつては、今よりずっと水量の多い川であったらしい。桶狭間村の中心であったと思われる郷倉のあった辺りや、桶狭間神明社の近くにも川筋が見える。

つまり、今川義元本隊は間に水田があって、高根山、幕山、巻山の先鋒隊との共同行動がしにくい場所に陣取ってしまったのである。これは布陣としては、大きな失敗であった。もし、太原雪斎が生きていたら、そんな場所に今川義元を着陣させなかったろう。まさか、本隊が先鋒隊と急ぎ合流しなければならないとか、緊急を要する事態がそこで起きるとは余り思っていなかったようである。そこに、今川勢の油断があった。

<桶狭間神明社>

Sinmeisha

その今川義元本隊は、大高に向かっていたといわれる。桶狭間は沓掛と大高の中間地点であり、ここを出発して大高までは日没までには入ろうとしたのだろう。そして、丸根、鷲津砦の陥落で気をよくした今川義元は塗輿で悠々と大高城に入城するつもりであったに違いない。その際、塗輿に乗った義元が、なるべく疲れないように、担ぎ手は輿が斜めにならないように気を遣ったであろうが、そもそも六尺道以上の道でなければ通ることができなかった。

本来ならば、今川義元本隊は、休憩の後、桶狭間の神明社近くを通って、一路大高城に向かったであろう。鞍流瀬川を渡る位の手間はあったが、大高城に入って松平元康に労いの言葉をかけ、今度は熱田から清洲へ攻め上ろうと、義元の頭には勝利へのストーリーが出来上がっていたことであろう。

<昭和8年(1933)当時の長福寺>

Chouhukuji

<昭和30年代の桶狭間>

Ochjimusha

だが、休憩するだけのつもりだった桶狭間で今川義元は戦死し、今川勢の先陣として丸根砦を落とした松平元康が徳川家康と改名して、後に江戸幕府を開いた。

江戸時代になると、東海道や有松往還などの新しい道が敷設され、それに伴って町場もあらたに建設された。

有松は周知の通り、竹田庄九郎武則が尾張徳川家の命により、阿久比から移住し、慶長13年(1608年)に桶狭間の分村として開村、阿久比からの移住者などを中心に東海道筋に生まれた比較的新しい集落である。その有松を通る有松往還や長坂道などは江戸期にはいってから開通、あるいは整備された新しい道で、そうした道が出来たことによって、古い在所道はすたれていった。

<江戸時代に整備された有松往還>

Arimatsuoukan

江戸時代には、桶狭間を南北に通る道では、前述の三州道が本道となり、近崎道は脇道になった。道筋も有松の誕生や東海道の開通に伴って、大分改変されたであろう。

天下泰平で周囲からの敵の侵入を気にする必要がなくなった、江戸時代の時代背景をうけて、広く直線的な道を人々が使えるようになり、古くからの狭く、敵の侵入を考えてわざと曲がりくねったように作られた道は重要視されなくなった。一部では、道がなくなるということも起きたであろう。

今川義元がかつて通った中世の道は、もはや江戸時代では脇道になり、現代では殆ど元の姿をとどめていない。

<夕陽の桶狭間大高道周辺~写っている道路は新道で、大高道はやや南にあった>

Yuuhi

(本稿執筆にあたり、桶狭間の郷土史家、梶野渡氏の著作を参考にし、また同氏から直接御教示いただきました。文中、大府市歴史民俗資料館の発行資料を引用し、「大府市史」付録の古地図を参考にしています)

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2007.06.02

徳川家康と知多半島(番外:桶狭間古戦場まつり写真集)

先日、5月13日(日)に行われた桶狭間古戦場まつりで筆者が撮影した写真を公開する。なお、桶狭間の皆さんには、昨年の岩滑でのイベントに続き、またお世話になった。写真には人物も写っているが、プライバシーの関係で、顔がはっきり写っているのは入れないようにした。あまりうまく写っていないのもの(途中でデジカメのバッテリーが切れて、携帯でとったのと、筆者の腕が未熟なため)があるが、ご容赦あれ。

<桶狭間古戦場まつりのノボリ>

Arimatsusibori

有松絞りかな?

<長福寺本堂>

Choufukuji_1

長福寺は西山浄土宗の寺。桶狭間合戦当時、すでに当地に存在していた。阿弥陀如来を祀り、今川義元、松井宗信の木像がある。薄いグリーンの上着を着ているのは、Kさんら地元のガイドの方たち。一緒にまわった人たち(Hさん、Wさん)の姿もちらほら。

<長福寺の蓮池>

Hasuike

いずれがアヤメかカキツバタ?

Ayamekakitsubata_1

<桶狭間の古い湧き水>

Wakimizu_1

昔、桶狭間は南北朝時代の終わりに、南風競わず落ち延びた、梶野、青山両氏がひっそりと暮らし、後に近江の中山氏が入ってきて共同で生活していた。そのときから生活用水や田の水として使っていたのが、この湧き水という。

<林阿弥が首実検をさせられた場所で説明を聞くまつり参加者>

Rinamikubijikken

林阿弥(りんあみ)は今川の茶坊主で同朋衆といわれる。桶狭間合戦時に織田方に捕らえられ、この場で今川義元の首実検をさせられたという。なお、林阿弥は合戦で捕らえられたが、命は助けられ、後に長福寺に寄進もしている。

<長福寺の西側を流れる鞍流瀬川>

Kuranagasegawa

文字通り、合戦の後、鞍が流れていたから、そう呼ばれるのだそうだ。今は暗渠のようになっており、一部地上に顔を出しているが、前はもっと広い川だったらしい。

<今川義元本隊が行った近崎道~桶狭間と現在の大府市北崎を結ぶ>

Chikasakimichi

近崎道がそんな場所を通っていたかというコメントをいただいたが、現にあるし、古地図にものっているのだから仕方がない。

<義元本陣があった場所から西に大高方面を望む>

Yoshimotohonjin

<織田方が攻撃の機会をうかがっていたという武路釜ヶ谷>

Takejikamagaya

柵の向こうは、名古屋短大の敷地になっている。

<七つ塚>

Nanatsuduka

住宅地の一角にあり、なかなか見つけ難い。武路公園の近くにある。路地の奥のような場所にあり、説明し難い。合戦後に織田方から戦死者を埋葬するように言われた村人が、塚を七つつくって埋葬したと伝える。それでは、戦人塚のほうは何なの?となるが、中山氏出身の快翁龍喜和尚が引導供養をした故事と、仙人塚という道教か何かの伝説の地が混同されてできた「話」と思われる。

<武路公園付近より古戦場公園を望む>

Takejikouen

正面の白い二階家の上に黄緑の新緑が見えるあたりが、今川義元戦死の地と伝えられる桶狭間古戦場公園。

<桶狭間古戦場公園の古戦場案内図>

Kosennjyouchizu

古戦場公園の地図は多少デフォルメされている。義元軍は東浦街道、大高道を西へたどり大高をめざした。途中、近崎道を北上したのは単なる休憩のため? それにしても、当時は国道一号線も、江戸時代の東海道もありませんからー、残念(いつの間にか、ギター侍になっている)。

<「駿公墓碣」という小さな墓碑>

Sunkouboketsu

現在桶狭間古戦場公園にある、「駿公墓碣」という墓碑は、以前頭を少し地上に出して埋っていた。これは、村人が今川義元の菩提を弔った際に、尾張藩に見つからないように、墓碑を埋めたためという。

<馬つなぎの杜松の木>

Nezunoki_1

今川義元の馬を繋いだという伝説のある杜松(ねず)の木。義元は輿に乗って、いざというときに備えて馬も連れてきたのか。しかし、後で述べる戦評の松と同様、ここにもちょっと怖い、今川義元の伝説がある。

<泉水跡>

Okehazamanoido

<戦評の松>

Senpyounomatsu_1

瀬名氏俊がここで軍評定をしたという。もともとの木は、伊勢湾台風で倒れてかれてしまい、今のはその際に植え替えたもの。

<「戦評の松」の碑>

Senpyoumatsuhi

「5月19日の義元命日の日に白装束で白馬に跨った義元の亡霊が現れる」とか、「松を触ってはいけない」など、いろいろ「話」がある。

<祭り風景・・・太鼓>

Taiko_1

Taiko2_1 

<武者揃え>

Musha_1

なぜか、武者が老若男女いる。

<大池での万灯会>

Mantou

Mantou2

Manto3_1

この灯は、三千人余りの戦死者の数にあわせて、三千あるそうだ。「戦争は絶対にしちゃいかん」という郷土史家、梶野渡氏の言葉が耳に残った。

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2007.05.28

徳川家康と知多半島(その25:桶狭間古戦場を行く<中編>)

永禄3年(1560)5月19日の桶狭間での決戦の際、今川義元本陣を襲った織田軍の動きについては、徳川家康と知多半島(その24:桶狭間古戦場を行く<前編>)http://mori-chan.cocolog-nifty.com/kojyo/2007/05/eee.htmlで述べたように、太田牛一の『信長公記』が世に出てから「おけはざま山」に今川義元が陣をはり、そこを正面から織田信長の軍勢が攻めたということが主流の説になったが、それ以前は迂回・奇襲説が主流であった。つまり、善照寺砦を出た信長は、東へ大きく迂回して、現在の名鉄線中京競馬場駅北にある大将ヶ根、古い地名では太子ヶ根の山上を通って、伝説地のほうの桶狭間合戦場(田楽狭間)に駆け下り、休憩し、油断していた今川勢を破ったという。これは、陸軍参謀本部の『日本戦史』でも、奇襲作戦の一典型として取り上げ、喧伝され、実際の日本軍の野戦などでも、これに似た無謀な作戦が展開されて、多くの犠牲を出した。

<従来の迂回奇襲説での織田・今川軍の進路と実際の進路>

Okehazama2_1_5

今川義元は5月17日(『信長公記』の記述)あるいは5月18日(17日は池鯉鮒に留まっていたと想定)に沓掛に陣を置いた。そして、5月18日夜には大高城へ松平元康、後の徳川家康を遣わし、兵糧入れを行った。一方、織田信長は、ちょうどその頃家老らを集め、合戦前夜の会議をおこなったのだが、世間話だけで作戦らしきものを述べず、胸に秘めたものがあった。潮が満ちて援軍の出しにくい明方を狙って、松平元康が佐久間大学盛重の守る丸根砦を、同時に朝比奈泰朝が織田秀敏と飯尾定宗父子の守る鷲津砦を攻めたのは翌日未明であるが、既に18日夕方には丸根・鷲津の両砦を今川方が攻めてくるのは確実と、佐久間盛重、織田秀敏から信長に注進がされていた。それ以外にも、沓掛の簗田政綱などから情報があがっていたものとみられる。そして、翌日明方になって松平元康が丸根砦を攻めている頃に、織田信長は動きだした。その時の様子を『信長公記』は、以下のように書いている。

「今川義元沓懸へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、助けなき様に、十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出を払ふべきの旨必定と相聞こえ侯ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ侯ところ、其の夜の御はなし、軍の行は努々これなく、色六世間の御雑談までにて、既に深更に及ぶの問、帰宅侯へと、御暇下さる。家老の衆申す様、運の末には智慧の鏡も曇るとは、此の節なりと、各嘲弄して、罷り帰られ侯。

案の如く、夜明がたに、佐久間大学・織田玄蕃かたよりはや鷲津山・丸根山へ人数取りかけ侯由、追々御注進これあり。此の時、信長、敦盛の舞を遊ぱし侯。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきかとて、螺ふけ、具足よこせと、仰せられ、御物具めされ、たちながら御食を参り、御甲をめし侯て、御出陣なさる。其の時の御伴には御小姓衆

岩室長門守 長谷川橋介 佐脇藤八 山口飛騨守 賀藤弥三郎

是等主従六騎、あつたまで、三里一時にかけさせられ、辰の剋に源大夫殿宮のまへより東を御覧じ侯へぱ、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上り侯。此の時、馬上六騎、雑兵弐百計りなり。浜手より御出で侯へば、程近く侯へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸げさせられ、先、たんげの御取出へ御出で侯て、夫より善照寺、佐久間居陣の取出へ御出であつて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体御覧じ、御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の休息これあり。」

<熱田神宮>

Atsuta_shrine_11
(熱田神宮の写真はウィキメディア・コモンズより)

熱田は当時湊であり、海の向こう遠く大高まで見渡せた。そこで19日朝8時頃、熱田の宮の前から、丸根、鷲津の両砦が炎上した煙がすうっと上っているなかを、信長主従六騎は駆けた。熱田からは海岸線を行けばはやいが、潮差し満ちて馬の通行に不便なため、上手の道を飛ばして、丹下の砦に行き、佐久間信盛が守る善照寺砦に入った。そこで、将兵を終結させ、佐久間に兵1,000名を残し、信長は2,000名の兵を率いて善照寺砦を出て、敵に程近い中島砦に入り、さらに桶狭間を目指して突き進んだ。

この中島砦は鳴海城に近い、扇川と手越川の合流点の三角州にあった。現在、民家の庭先に石碑が残っているのみ。信長は、中島砦に入るには、深田の一本道を進まなくてはならず、敵から丸見えであるため、家臣たちは信長が中島砦に入ろうとするのを止めた。中島砦を守っていたのは、梶川一秀である。梶川氏は、丹羽郡楽田の出身であり、現・豊明市大脇や現・大府市の横根に拠点を持っていた水野氏配下の梶川氏とは関連ないかもしれない。この中島砦は鳴海城とは目と鼻の先にあり、500m程しか離れていない。そこに2,000人の信長主従が、息をころして潜んでいたのである。

<桶狭間古戦場公園にある鞍流瀬川から発見された古戦場の碑>

Okehazamahi

なお、信長が善照寺砦まで来たのを知った、佐々政次、千秋季忠は兵300人を率いて、高根山、幕山の松井宗信率いる今川勢に向かい、佐々・千秋のニ将を含めた50人が討死を遂げた。これは、無鉄砲に飛び出していったのではなく、一種の陽動作戦であった。彼らの犠牲があって、織田の本隊の動きが、高根山、幕山にいた今川先遣隊に知られず、織田本隊は今川義元の本陣に迫ることができたといって良い。

<高根山の松井宗信陣跡から東の武路方面を望む>

Matsuitai

「信長御覧じて、中島へ御移り侯はんと侯つるを、脇は深田の足入り、一騎打の道なり。
無勢の様体、敵方よりさだかに相見え侯。勿体なきの由、家老の衆、御馬の轡の引手に取り付き侯て、声々に申され侯へども、ふり切つて中島へ御移り侯。此の時、二千に足らざる御人数の由、申し侯。中島より叉、御人数出だされ侯。

今度は無理にすがり付き、止め申され侯へども、爰にての御諚は、各よく承り侯へ。あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るゝなかれ。運は天にあり。此の語は知らざるや。

懸らぱひけ、しりぞかば引き付くべし。是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事、案の内なり。分捕なすべからず。打拾てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべしと、御諚のところに、

前田又左衛門 毛利河内 毛利十郎 木下雅楽助 中川金右衛門 佐久間弥太郎 森小介 安食弥太郎 魚住隼人

右の衆、手々に頸を取り持ち参られ侯。右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ侯ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。沓掛の到下の松の本に・二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。余の事に、熱田大明神の神軍がと申し侯なり。空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取つて、大音声を上げて、すは、かゝれと仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり。弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。」

もともと、今川の軍勢は約2万5千、それも鳴海、大高などにも分散しており、今川軍本隊ともいうべきは5千人ほどで、正式な侍はその3分の1ほどであった。「おけはざま山」の義元本陣には約1,500人ほどがおり、その他は長福寺、巻山などにもいた。『信長公記』の今川勢四万五千というのは、明らかな誇張である。そして、将兵も三河、遠江の諸士も混ざっており、今川譜代といえない人々も多く、また長い行軍で疲れていた。したがって、必ずしもモラールの高い状態でなかった。

さらに、織田信長の運がよかったのは、その頃ちょうど夕立があったことである。これは、「余の事に、熱田大明神の神軍がと申し侯なり」という表現に表れている通り、信長軍にとってはまさに天佑神助であった。

桶狭間に入り、生山(はいやま)の下の谷に入った頃、夕立は本降りとなり、織田勢は武路釜ケ谷(たけじかまがたに)に侵入し、今川勢への攻撃の機を窺った。この武路釜ケ谷とは、現在の名古屋短大の敷地南西側にある谷合であり、今川義元本陣の北側にあたる。

<織田勢が侵入した武路釜ケ谷>

Takejikamagatani

折からの夕立で、義元本陣から視界は悪く、人馬の足音や具足の擦れる音も激しい雨音と雷鳴に掻き消され、義元本陣は織田勢がすぐ近くまで迫っていることに気付かなかった。それだけでなく、梶野渡氏によれば、標高約45mの山腹に4、5mの長さの槍を持っていることは、その人数分、つまり約1,000本の避雷針を10階建てビルの屋上に立てておくのと同様で、落雷を避けるために、今川兵は槍を伏せ、具足などの金属類も遠ざけていたらしいのである。信長の方は、落雷をものともせず、一気に駆け抜けた。

槍や具足を投げ出して、落雷を避けていたときに陣地を急襲された、今川勢本隊は、少なからず混乱した。近くの台地に展開していた先遣隊と合流しようと台地を下りたものと思われる。しかし、移動しようとした兵たちは低地にある深田で足を取られ、次々に討ち取られた。高根山、巻山にいた今川勢先遣隊からも、本陣の様子は見えたが、救援に下りたものの、低地にある泥田が行く手を阻んだ。しかも、既に先回りした織田勢の一部が待ち構えていた。今川義元も旗本に守られて逃げ回ったあげく、最初義元を守って300名ほどで円陣をなしていたのが徐々に切り崩され、取り巻く武士達も減り、最後には自ら太刀をふるって、槍をつけられた服部小平太の膝頭を斬り割ったり、組み付いた毛利新介の指を噛み切ったりして抵抗した。「東海の覇者」といわれた今川義元も、乱戦の末、結局毛利新介に首級をあげられてしまう。『信長公記』は、このときの状況について、以下のように描写している。

<今川義元討死の地か、古戦場公園にある馬つなぎの杜松の木>

Nezunoki

「初めは三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合ひ貼、次第に無人になつて、後には五十騎計りになりたるなり。信長下り立つて若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒し、いらつたる若ものども、乱れかゝつて、しのぎをけづり、鍔をわり、火花をちらし、火焔をふらす。然りと雖も、敵身方の武者、色は相まぎれず、爰にて御馬廻、御小姓歴々衆手負ひ死人員知れず、服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ、倒れ伏す。毛利新介、義元を伐ち臥せ、頸をとる。是れ偏に、先年清洲の城に於いて武衛様を悉く攻め殺し侯の時、御舎弟を一人生捕り助け申され侯、其の冥加忽ち来なりて、義元の頸をとり給ふと、人々風聞なり。運の尽きたる験にや、おけはざまと云ふ所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事、限りなし。深田へ逃げ入る者は、所をさらずはいづりまはるを、若者ども追ひ付き、二つ三つ宛、手々に頸をとり持ち、御前へ参り侯。頸は何れも清洲にて御実検と仰せ出だされ、よしもとの頸を御覧じ、御満足斜ならず、もと御出での道を御帰陣侯なり。」

しかし、なぜ織田信長は、今川の大軍の本陣をピンポイントで特定し、そこに急襲をかけることができたのか。そもそも、織田信長が今川勢の本陣を目指したのは、兵力を鳴海、大高と各地の先遣隊など、分散し、かつ今川義元本隊が輜重兵、軍夫を入れて5,000名ほどで、かつ細い道を通っていたために、行列の何処かを襲えば、敵を十分撹乱できるという読みからであった。それが、夕立という自然現象の助けもあって、意外に義元本隊は動きが遅く、桶狭間に留まっていたため、結果的に義元を討ち取ることが出来た。しかし、義元本隊がどう動いているかは、逐次情報を得ていた模様である。また、土地の事情に詳しい簗田政綱のような、情報提供者もいた。もし、的確に義元本隊の位置を把握していなければ、織田軍の怒涛のような動きもまったく意味のないことになる。

このように、今川軍のもともとの構成が混成部隊であった上に、桶狭間が山谷が入り組んで大軍を動かすのに適さず、今川軍に不利な場所であったこと、夕立という自然現象が信長軍に有利に働いたこと、そして織田信長が情報を重視し、的確に今川義元本隊の動向をおさえていたことが、勝因となったと思われる。

<桶狭間古戦場祭り風景>

Taiko

桶狭間合戦が情報戦であったといわれる所以は、論功行賞において、実際に今川義元を討ち取った毛利新介や服部小平太が功名第一ではなく、一番手柄は今川義元本陣を正確に把握し、これを織田軍に伝えた簗田政綱であったことにある。その他、今川方の陣地設営にかり出されたであろう、桶狭間住民、桶狭間に知行地のある中山氏たちも、織田方への情報提供に一役かっていたと思われる。

実は桶狭間を領した中山重時(岩滑城主中山勝時の父)は、天文23年(1554)2月、水野氏が三河において今川・松平への対抗拠点とした重原城にて、織田方の山岡伝五郎を援助し、今川勢に討たれている。それは永禄3年(1560)5月の桶狭間合戦より、6年前のことであった。跡を継いだ中山勝時は、父の仇である今川の軍勢が、自らの所領である桶狭間に本陣を据えて、尾張の中央突破を目指していたのをどう見ていたのであろうか。

しかし、今川義元は尾張併合をすることができず、桶狭間の露と消えた。その嫡子、今川氏真には義元の跡を継いで、その野望を実現する器量なく、家臣の離反により駿府を維持することすらままならなかった。そして、今川氏真は駿河への武田氏の侵攻を許し、今川方の先鋒として活躍した松平元康も、大高城脱出後、岡崎に戻り、そのまま岡崎に腰を下ろし、氏真と対立することになる。今川義元の討死以降の松平元康、後の徳川家康の動向については、次回。

なお、本稿を書くにあたって、5月13日に桶狭間の長福寺で行われた梶野渡氏の講演 を拝聴し、またその内容をブログに記載する許可も頂いた。その記録は、同行したヘロンさんが、丁寧にまとめてくれた。講演の内容はヘロンさんのブログに掲載されており、またリンクする許可も頂いたので、以下に示すものである。

<講演を行う梶野渡氏>

Kajinoshikouen_3

「新説 桶狭間合戦史」講演会聴講レポート
       http://heron.at.webry.info/200705/article_3.html

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2007.05.20

徳川家康と知多半島(その24:桶狭間古戦場を行く<前編>)

先日5月13日(日)に、桶狭間において桶狭間古戦場祭りがあり、尾張中山家御子孫S氏夫妻、ブログでお世話になっているヘロンさんたちと行ってきたので、その報告と地元の郷土史家梶野渡氏や梶野渡氏ご子息ら、桶狭間の地元の人たちから聞いた内容で、新しい知見も得たので、その説明をする。

小生、今まで桶狭間で今川義元が討たれた後、徳川家康が大高城からどのように脱出したかなど述べてきたが、桶狭間合戦について再度振り返ってみることにする。

以前、当ブログでも、この桶狭間合戦について、江戸時代に書かれた絵図から推定して「『義元本陣』の場所は現在の有松中学校のある高根山か、その南の武路(たけじ)山あたりとなる。高根山には、本隊ではなく松井宗信の別働隊がいたとされるため、実際は高根山の南の武路山辺りが妥当であろうか。そうであれば、織田軍は今川軍本隊から約2Kmの地点にある中島砦を発し、旧東海道沿いに兵をすすめ、今川の物見の兵の監視をものともせず、一気に攻め上ったことになる。その経路は、完全に旧東海道沿いではなく、大将ヶ根まで東へ進み、大将ヶ根から南下し、今川軍を急襲したといわれる。高根山以外に、幕山、巻山にも今川方の先遣隊が展開していた。義元本陣には5000名程度の兵がいたらしいが、大軍といっても、各台地に分散していたのでは、織田軍の集中攻撃を本隊に向けられれば弱い。なお、高徳院に本隊がいたというのは、収容人数に無理があろう。」と述べた。

しかし、今まで郷土史家の梶野渡氏や地元の方々から聞いた話では、今川義元が本陣を置いたのは武路山よりやや南で、田楽坪の桶狭間古戦場跡の東側の小高い丘陵地であった。それは長福寺の東を通り、北へ向かって鳴海道と合流する近崎道に沿った小松原が広がる場所であった。標高64.9mの場所もかつてはあったが、義元が陣を張ったのはそんなに高い場所ではなく、標高45mほどの場所であったという。なお、桶狭間の長福寺は、和光山天沢院と号し浄土宗西山派の寺である。長福寺があるのは、かつて桶狭間を領した中山氏の屋敷に隣接した法華堂があった場所と推定されるが、長福寺は天文7年(1538年)善空南立上人の開山となっており、桶狭間合戦の際には既に存在した。ここでは、今川義元の首実検を茶坊主の林阿弥がおこなったとされている。ちなみに、天沢院は義元の「天沢寺殿秀峰哲公大居士」という戒名にある、駿河の天沢寺に通じる号という。

義元が陣を張ったのは、「おけはざま山」の最も高い場所ではなく、標高45mほどの場所であったということは、永禄3年(1560)5月12日駿府を出発し、5月18日沓掛城で作戦会議をしてきた義元がわざわざ塗輿に乗ってきたことに関係している。塗輿に乗るのは朝廷の許可が必要だったようで、馬よりも機動力がなくなるが、相手を威圧するものである。しかし、義元の誤算は、相手が普通の人間でなく、権威をものともしない織田信長であったということ。梶野渡氏によれば、塗輿は補助も含め8名ほどの人数でかつぎ、少なくとも幅2m程の平面が必要で、上下2~2.5mくらいの空間を必要とした(前後の兵たちは槍や旗指物も持っているから、実際は上下4mくらいは必要:筆者註2007.6.19)。だから、そういう道を通ってこざるを得ず、沓掛から東浦道を南下し、阿野で大高道を西へ行き、さらに桶狭間で北上して近崎道を行ったとのことである。さらにどこへ向かっていたかと推定するに、進行方向は、鳴海方面で一旦周辺の織田方砦を落とし、鳴海城の包囲を解いた後、大高城に入ろうとしたのではないか。もちろん、桶狭間で今川義元が討死してしまった以上、それ以降の企図は推論でしかないが、尾張を制圧しようとしていたことは間違いない。

<桶狭間での織田・今川両軍衝突の経路>

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休息をとった場所には瀬名氏俊が義元本隊より2,3日前に来ていて陣地を設営していた。ちなみに、その瀬名氏俊が陣所を構えた場所が長福寺の裏手にあるが、かつては「セナ藪」、「センナ藪」と呼ばれ、一面竹薮であった。今は竹薮の名残りが一叢あるのと石碑が建っているだけである。

<瀬名氏俊の陣所跡>

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瀬名氏俊は、陣地を作る専門家であった。その軍評定の跡とつたえられる場所が、「戦評の松」として石碑が建てられ、枯死した松と新しく植えられた松がある。この松については、「5月19日の義元命日の日に白装束で白馬に跨った義元の亡霊が現れる」とか、「松を触ってはいけない」など、いろいろ「話」がある。まあ、それは後世に尾鰭をつけて作られたのであるが、合戦の目撃者である地元住民の禁忌として印象づけられるものがあったのであろう。

このように、今川義元本隊の行軍は、ちゃんとした街道を通り、休憩地といえども幕奉行と言われる専門家が事前に来て設営していったのである。これは梶野渡氏が当日15時からの講演で、自らの戦時中の師団参謀部勤務の経験から、軍隊は休憩地といっても綿密に事前調査や検討をしてから準備すると言っていた通りである。

<瀬名氏俊が軍議をおこなったという「戦評の松」>

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そして義元本陣は大軍の将兵が休むことのできる場所で、先鋒である松井宗信隊や井伊直盛隊が展開していた高根山、幕山、巻山がよく見渡せ、遠く大高も望むことのできる丘陵が選ばれた。もちろん、桶狭間合戦伝説地の近くにある高徳院の裏山では収容人数だけでなく、先鋒隊を見通しにくい点から無理がある。また、それは、一部の学者が言うように、標高64.9mの最高所ではなく、近崎道から余り離れていない標高45mほどの場所であったという。なぜならば、標高64.9mの最高所は道のない山林であり、わざわざ乗ってきた塗輿を降りて、全軍歩兵となって急斜面をよじ登る必要はなかったのである。今川義元本隊は約5,000だったが、実際に本陣にいたのは、1,500程度で、その他の将兵は長福寺やほかの陣地にいたそうだ。その今川義元本陣は、今では住宅が密集しており、何も残っていない。というより、仮の陣地なのだから、残っているほうがおかしい。

<義元本陣跡から西を望む~左側に巻山、その向うに大高がある>

Honjin

昔よく面白おかしく言われていたのは、今川義元は田楽ヶ窪、田楽狭間で勝利の宴会をはっていて、また折からの雷雨で織田勢が迂回してすぐ近くに来ているのに気付かず、高みから急襲されて田楽ヶ窪で義元以下討ち取られたということ。しかし、これは後世に作られた「話」であって、太田牛一の『信長公記』が世に出てから「おけはざま山」に今川義元が陣をはったということが主流の説になった。

<昔から面白おかしく言われてきた義元油断の図>

Yoshimotoenkai_3

ただ、江戸時代に書かれた軍記や紀行文などの類に田楽ヶ窪、田楽狭間に義元本陣があったというもの以外に、館狭間に義元本陣があったとするものがある。館狭間は、「館」「南館」の東にある細い谷をいう。これは全くの創作とまではいえない根拠があり、現在のホシザキ電機のある豊明市栄町南館(みなみやかた)に中世、戦国の城館と思われる「石塚山塁」があり、今川義元の墓、あるいは陣所という伝承があるからである。そこを襲われて、沓掛方面に逃げようとして国史跡に指定された桶狭間合戦伝説地の辺りで、今川将兵が討ち取られたという説明になる。もっとも、今川義元が当地に出張ってきたのは、桶狭間合戦の時だけであるから、「石塚山塁」を義元が築いたわけではない。それは、大脇城の梶川氏か、在地勢力の誰かが築いた訳であるが、誰の城館かは不明である。この「石塚山塁」を今川義元と結びつけて考える者が後世にでて、「館」という、おそらくこの中世城館に関わる地名が「お屋形様」の「屋形」の陣があったかのように付会されて、誤って伝えられたのではないだろうか。

しかし、実際に現場に行ってみればわかるが、そんな場所に陣を張っていたのでは、先鋒隊のいた高根山、幕山、巻山などを見通すことはおろか、大高方面など見えないのである。下の写真は、武路公園付近から桶狭間の主要部をのぞんだものであるが、見ている場所と角度はずれているが、かつての今川義元本陣からも、このようなパノラマが見えていた筈である。

<高所から見た桶狭間の主要部分>

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そもそも、今川義元がここまで来たのは、小説などで言われるように天下に号令をかけるために上洛しようとしたのではない。この織田、今川の争いは、桶狭間合戦に始まったことではなく、長年にわたる織田、今川の抗争の延長に、この桶狭間合戦があったとみるべきである。すでに、織田弾正忠信秀の代に、尾張における今川氏の拠点、那古野の柳之丸を天文7年(1538)頃織田方が奪取して今川氏と対立、その後三河の松平氏とも小豆坂で二度戦っている。

徳川家康の祖父、松平清康は、今川氏が柳之丸を失った頃、東の今川氏、西の織田氏に挟まれた三河を統一したが、天文4年(1535)12月、「守山崩れ」でなくなり、天文11年(1542)今川氏が軍勢数万を岡崎東部生田原(しょうだはら)に進めると、松平清康死後跡を継ぎ、今川の勢力を頼っていた家康の父、松平広忠率いる岡崎勢と今川義元の軍勢は、出撃してきた織田勢4千とこの小豆坂で戦った。この小豆坂の戦いは両度におよび、天文17年(1548)再度岡崎攻撃にむかった織田信秀の軍勢と松平・今川軍は小豆坂で合戦、松平・今川が勝利し、今川は勢力を西へ伸ばし、尾張進攻への足がかりを得る結果となった。

さらに、織田信秀が天文20年(1551)に死去すると、嫡子信長が一族内紛と反対勢力との抗争に明け暮れているのに乗じて、天文22年(1553)、現在の東浦町森岡に村木砦を築き、ここを尾張進攻の足がかりとしようとした。一方、今川の進攻に対し、知多半島をほぼ手中にいれた水野氏は、重原城、村木砦と今川方の城砦と目と鼻の先にいるという危うい位置にあった。翌天文23年(1554)1月、尾張の地を守るべく出動した織田信長と水野の軍勢が今川軍と村木砦で合戦、織田、水野軍が勝利している。

一方、今川方としても、鳴海の山口教継を寝返らせ、大高城にも三河の鵜殿長照を入れて、尾張の喉元にクサビを打ち込んだのである。こうしてみると、永禄3年(1560)の桶狭間合戦は、今川氏の村木砦の戦いのリベンジをかけた戦いであり、今川が尾張への本格進出をはかる決戦であったと考えられる。

だが、勅許を得た塗輿に乗り、尾張の田舎大名など一ひねりと思っていた今川義元は、織田信長が普通の思考パターンの人ではなく、「想定外」の行動をとる人物であったために、逆に討たれることになった。

その今川義元の菩提を密かに、桶狭間の住人が弔っていた。公式には、桶狭間の長福寺が今川義元や松井宗信らの供養を行ってきた(今も今川義元、松井宗信の木像がある)のであるが、明治27年(1890)に高野山から高徳院が移って来ると、義元らの供養を高徳院が行うようになり、長福寺はお株を奪われた格好になった。その公の弔いとは別に、現在桶狭間古戦場公園にある、「駿公墓碣」という墓碑が、以前頭を少し地上に出して埋っていたのは、村人が今川義元の菩提を弔った際に、尾張藩に見つからないように、墓碑を埋めたためという。これについては、思い当たることがある。同様の例が岐阜県可児市の長山城にもあり、斎藤義龍に滅ぼされた明智氏(明智光秀の親族といわれる)を弔った「六親眷属幽魂塔」がやはり近隣住民(明智氏の家臣の子孫)によって建てられたが城址の一角の地中に埋められていたのと符合するのである。
これは、徳川家が同盟し、のち従った織田家に敵対した勢力を村方が公然と祀ることができなかったということであろう。

<「駿公墓碣」という墓碑>

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では、織田信長は、どんな見通しや戦略をもって、桶狭間合戦に臨んだのであろうか。なぜ、「東海一の覇者」と言われた今川義元は、簡単に討たれたのであろうか。それについては、長くなったので、また次回。

<古戦場祭り風景>

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<同じく万灯と篝火>

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2007.04.17

徳川家康と知多半島(その23:大高城脱出考)

桶狭間合戦の後、徳川家康が如何にして岡崎帰還を果したかについて、前回仮説を述べた。巷間いわれることは、桶狭間合戦で今川義元が首級をあげられ、織田方の勢力の只中の大高城に取り残された松平元康、後の徳川家康に、今川が負けたことを知らせたのは、水野信元で、水野氏の手引きで岡崎まで落延びたということ。

しかし、これは事実であろうか。 これについては、桶狭間の合戦に先立つ、村木砦をめぐる戦い、石ヶ瀬合戦において、今川勢は、織田方となっていた緒川水野氏と戦ったのであるから、筆者としては疑義がある。今川義元は、村木砦を緒川城、刈谷城という水野氏の拠点の間に築くことによって、知多半島を席巻する水野氏の勢力圏に楔を打ち込み、水野氏はまた織田方の旗幟を鮮明にして対抗した。 大高城を今川が奪取し、鵜殿長照が守将として入るまでの大高城主である水野大膳亮忠守も、緒川水野氏と同様、当初今川方であったのが織田方となったものと思われる。

<現在の大高城の周辺地図>

Oodaka

そして、なぜ、徳川家康は桶狭間合戦後の敵が大勢いるなかを、三河の岡崎まで無事に帰ることができたかについて、筆者は大高城を脱出した家康が船で一旦知多半島の西に出て、大野か常滑で上陸し、知多半島を東に横断して成岩の常楽寺に入って、成岩浜から三河大浜へ再び船で行き、大浜から陸路岡崎に帰ったと考えた。

今回、これをもう少し検証してみたいと思う。

<成岩の常楽寺>

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それは、桶狭間合戦に関する『信長公記』の記事のなかに、今川方についた二の江の服部左京助が大高下、黒末川河口に出張って、格別の働きがないために熱田に放火して帰ったという記述があるのがヒントとなった。

その服部左京助とは一向宗の僧であるとともに、水軍というか海の交易に関連した武士で、後に長島城代になった人物である。その服部は、大高城の近くまで来て、何もせずに帰ることはあり得ず、城内とはなんらかの連絡があったはずで、大高城に海から入ったと思われる。

つまり、当時は現在よりも海面が高く、海が内陸部まで入り込んでおり、大高城は今よりも海に近かった。つまり大高城は海に近く、すぐ側を大高川が流れていた、水運を背景にした城と考えられ、徳川家康は船で大高川を下って海に出て、大野か常滑に上陸したと考えられる。船で一旦西へ下れば、桶狭間の敗残を血なまこで探している織田勢には遭遇せず、知多半島の西岸で上陸したとしても、元々今川方が優勢であった地域である、大高から直接東へ出るより幾倍も安全であったろう。

前回の記事を書いた後、再度大高まで行ったのだが、案内板の地図を見て、「江明」という変わった地名があるのに気付いた。早速、近所の商店で「江明」とはどんな読み方をするか、聞いてみた。海岸寺の近所のT商店で聞いたが、「えみょう」という。「えみょう」とは何? なぜ、「えみょう」というのか、商店のおやじさんにも聞いてみたが、「さあ、何でかねえ。昔からそういうもんでね」という返事。ここら辺りは昔は海が近かったかと聞くと、「そうですね。すぐ前の寺が『海岸寺』というもんで」と指差したのが、大高城址に隣接する海岸寺。「海岸」というくらいだから、海に近かったのはよく分かる。海岸寺は仁王で有名らしいが、今は山門付近を工事中である。

<大高城址の案内板>

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<海岸寺>

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「江明」の「江」は川の江、水の江の江であるのは、間違いない。では「明」は?江が明るいという意味だろうか。そうではなく、ふと千葉県佐倉市臼井田にあり、昔からよく知っている臼井城の本丸下に円応寺という寺があり、かつてその辺りを「江間」と言ったことを思い出した。「江明」とは「江間」が訛ったものでは。「江間」とは、船が入ることの出来る入り江を意味し、転じて船溜りや船着場を意味する地名となった。つまり、「江明」に船着場があり、そこが大高城を海路、知多半島の西海岸常滑辺りと結びつけていたのではないか。

今川義元が大高城を欲しがった理由は、その辺にあり、大高は知多半島の首根っこを押さえる場所にある。そこは伊勢湾を利用した交易がさかんであった大野、常滑への入口であり、尾張の主要部分へ、南から進攻する拠点であった。

では、大高城周辺を詳しくみてみよう。江戸時代は元禄頃の地図(愛知県図書館の絵図検索より一部引用)で、大高は以下のように表現されている。海は西に広がり、大高は川が海に注ぐ河口付近にあったことが分かる。

<元禄時代の大高周辺地図>

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ところで、この一見適当に描いているような地図であるが、現代の航空写真と比べてみると、古城と書かれた大高城址と鷲津砦址、丸根砦址の位置関係も比較的正確に描かれていることが分かる。ただし、大高村の北側に川の流れが描かれているが、これが大高川なら現在とは流路が変わっていることになる。

例えば、国土地理院のHPの空中写真閲覧サービス(http://mapbrowse.gsi.go.jp/airphoto/index.html)を見ると、1947/10/13という日付の米軍撮影の航空写真(作業名:USA40kCB, 地区:名古屋, コース:M554-A, 番号:78,撮影機関:米軍, 撮影日:1947/10/13, 形式:白黒, 撮影高度:6,705m, 撮影縮尺:1/43,910)が、上の地図に該当する 。

ちなみに、下図は江戸時代後期の知多郡の地図((愛知県図書館の絵図検索より一部引用)であるが、大高の西の海が干拓され、新田開発が進んでいることがわかる。

<江戸時代後期の絵図>

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このように、江戸時代前期までは大高城のすぐ近くまで海が迫り、前記の「江明」という地名が船着場を示す「江間」の転訛で、そこから船出して知多半島の西海岸へ海路でいくことは容易であったと思われる。

しかし、船で大高城を脱出したにしても、その供の人数は多くはなかったのだろう。岡崎についた時には十数騎になっていたというから十人乗りの武者船二隻くらいで船出したのであろうか。

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2007.04.07

徳川家康と知多半島(その22:桶狭間合戦と徳川家康<後篇>)

前回まで、桶狭間合戦における徳川家康の活躍について書いてきた。家康が、この合戦を通じて、岡崎帰還を果たすと同時に、今川の支配下を脱し、織田の同盟者となって東海地方の一角を支配していくことになるのは、周知の通りである。

桶狭間合戦で今川義元が首級をあげられ、今川勢が敗走していた頃、徳川家康、当時の松平元康は大高城にいた。その元康のもとに、今川が負けたことを知らせたのは、水野信元であったという説がある。すなわち、水野信元が家臣の浅井道忠という者を遣わして、桶狭間の合戦の次第を知らせてきた。しかし、家康はこういう時は縁者でも信用できないといって、ひたすら篭城の用意をしていると、岡崎の鳥居元忠から知らせが来て、初めて退却を決めたという。また、水野氏ではなく、水野氏配下の梶川氏からの知らせであったという説もある。

<大高城>

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筆者は、大高城にいた元康に、今川勢の敗北を伝えたのは、いくら伯父甥の関係であるといっても、水野信元ではないと思う。桶狭間の合戦に先立つ、村木砦をめぐる戦い、石ヶ瀬合戦において、今川勢は、織田方となっていた水野氏と戦ったのである。既に水野氏は忠政から信元の代となって、今川氏の支配下を脱し、天文12年(1543)知多半島の宮津城(新海淳尚)、成岩城(榎本了圓)を落として、長尾城の岩田左京亮安広を降伏させ、安弘は、出家し杲貞と名乗る。さらに、水野氏は河和城の戸田氏をも圧迫していた。水野氏は既に常滑に分流である常滑水野氏を置き、大野・内海の佐治氏と対抗関係にあった。常滑水野氏は、現在の半田辺りまで勢力を伸ばしたようだ。

このように、水野氏は知多半島を席捲した。そして、水野忠政の子信元は、織田方に組し、阿久比坂部の久松氏など配下となった在地の武士たちも織田方についた。それにたいし、今川義元は天文22年(1553)、現在の東浦町森岡に村木砦を築き、ここを尾張進攻の足がかりとしようとした。これに対し、近隣の緒川城、刈谷城に拠っていた水野氏は、忠政の代には今川、織田双方によしみを通じる身であったのが、信元の代になると織田方の旗幟を鮮明にしており、重原城、村木砦と今川方の城砦と目と鼻の先にいるという危うい位置にあった。むしろ、今川義元は、村木砦を緒川城、刈谷城という水野氏の拠点の間に築くことによって、水野氏の勢力圏に楔を打ち込んだと言っていい。

<村木砦>

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したがって、石ヶ瀬などで今川勢と現に戦っていた水野氏、とくにその本流である水野信元や水野忠分から、いくら身内とはいっても今川勢の敗軍の将となった松平元康、後の徳川家康に救援があったとは考え難い。そもそも、大高城を今川が奪取し、鵜殿長照が守将として入るまでは、大高城主は水野忠氏、大膳亮忠守父子であった。この大高水野氏は緒川の水野貞守の弟(水野為善)が大高城主になったといわれ、尾張一円に多い緒川水野一族の一部が当地に進出したもののようである。この水野忠氏父子も、緒川水野氏が今川から織田方へ旗幟を鮮明したのに歩調をあわせて、当初今川方であったのが織田方となったものと思われる。大高山春江院という大高城近くの寺は、曹洞宗で、弘治2年(1556)大高城主水野大膳亮忠守が創建したという。春江院は、寺院ではあるが、周りを崖などで囲まれ、大高城の詰城の感がある。この水野大膳亮忠守とは、水野忠政の娘を妻としている。つまり、大高城主であった水野大膳亮忠守は、松平元康、徳川家康の叔父ということになる。その次男正勝は後に信長に仕えているし、嫡男大膳亮吉守は永禄6年(1563)三河一向一揆との戦いに参加して、家康より知行三千三百石を与えられているが、吉守の妻は水野信元の娘であり、親子二代に渡り、本宗である緒川水野氏と婚姻関係を結んでいる。

<春江院と大高城の位置関係>

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<春江院>

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ところが、水野大膳亮忠守は大高城を今川勢に奪われてどうなったのか。討死ならば、簡単だが、そういう消息も聞かない。緒川か刈谷に逃げたというのが、考えられるが、その後歴史の表舞台に出てこない。多分、水野大膳亮忠守は、大高城が落ちた瞬間、春江院に逃げ込み、その後ころあいを見て緒川に脱出したものと思われる。その後、歴史の表舞台に出てこなかったのは、すぐになくなったか、隠居したためではないか。

<大高川>

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では、なぜ、徳川家康は桶狭間合戦後の敵が大勢いるなかを、三河の岡崎まで無事に帰ることができたのだろうか。

その一つのヒントが、桶狭間合戦に関する『信長公記』の記事にあった。

爰に河内二の江の坊主、うぐゐらの服部左京助、義元へ手合せとして、武者舟干艘計り、海上は蛛の子を散らすが如く、大高の下、黒末川口まで乗り入れ候へども、別の働きなく、乗り帰し、戻りざまに熱田の湊へ舟を寄せ、遠浅の所より下り立て、町口へ火を懸け候はんと仕り候を、町人ども寄せ付けて、焜と懸け出で、数十人討ち取る間、曲なく川内へ引き取り候ひき

註)うぐゐら:弥富町・鰍浦 

  服部左京助:服部左京亮友定、伊勢をルーツとする服部党のリーダー。尾張国二の江辺りを押領した。長島一向一揆の際に長島城代をつとめた

  武者舟干艘:千艘では多すぎ、二十艘とされる

桶狭間合戦当時、尾張下四郡、海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡のうち、知多郡は寺本の花井氏に代表されるように今川方につくものが多く、織田氏の経済基盤であった津島、二の江(現在の荷之上)、うぐい浦(現在の弥富町)に力のあった服部左京亮友定も今川方に引き入れられていた。それは、服部友定が一向宗の僧であったことから、織田信長との対立を今川義元に利用されたということである。この服部友定は、信長公記では黒末川(現在の扇川)の河口、大高下まで出張ってきて、今川方としての活躍の場がなかったために、熱田に放火して帰ったとされている。しかし、わざわざ出てきて服部が何もせずに帰ったとは思えない。特に、大高城の近くまで来て、何もせずに帰ることはあり得ず、城内とはなんらかの連絡があったはずである。多分、今川義元は大高城の兵糧入れも保険をかけていて、服部にも要請しており、服部はその任務を果たすために大高城に入り、その帰りに熱田に放火したのではないか。熱田放火は今川方による、明らかな後方撹乱であった。

<大高城に隣接する海岸寺>

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服部が海から大高に入ったように、中世海進といって、当時は現在よりも海面が高く、海が内陸部まで入り込んでおり、大高城は今よりも海に近かった。桶狭間合戦の際にはなかったが、大高城の北側に隣接して海岸寺という寺がある。その名の如く、大高城は海に近く、すぐ側を大高川が流れていた、水運を背景にした城であったのである。

つまり、大高と知多半島の西海岸、西浦は容易に往来が可能であり、徳川家康は船で大高川を下って海に出て、大野か常滑に上陸したのであろう。船で一旦西へ下れば、桶狭間の敗残を血なまこで探している織田勢には遭遇せず、知多半島の西岸で上陸したとしても、元々今川方が優勢であった地域である、大高から直接東へ出るより幾倍も安全であったろう。もし、上陸したのが大野であれば、やはり所縁のある東龍寺か光明寺に入ったと思われる。光明寺は、浄土真宗小林山光明寺で、水野忠政娘於亀の再嫁した先である。

<大野の東龍寺>

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そして、常滑から岩滑経由で成岩の常楽寺に入り、そこで休憩した後、成岩浜からまた船で海を渡り、三河大浜に上陸したものと思われる。岩滑に「藩費の橋」といって尾張徳川家が修繕費を負担してきた橋があったが、それは家康が桶狭間合戦の後、常滑から衣川八兵衛を案内人として来た際に、渡った木橋にちなんで、尾張藩が費用を負担する橋という意味で、「藩費の橋」というのだそうだ。その伝承が事実であれば、常滑の衣川八兵衛は桶狭間合戦後と本能寺の変の後と、二度家康を警護し、案内したことになる。

ちなみに、当時の成岩辺りを支配していたのは、常滑水野氏であり、常滑から成岩にいたる地域は常滑水野氏が領有していた。桶狭間合戦後の徳川家康の岡崎帰還に、彼らが一役買っていた可能性は、むしろ緒川水野氏の織田に忠実でなければならない立場と比べ、あるい程度自立していたと見られることから、大いにあったと見てよい。

<「藩費の橋」>

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なお、この記事を書いた後、再度大高まで行ったのだが、地名からあることを発見?した(地名研究家なら知っているだろうが)。そのことについては、また次回述べる。

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2007.03.11

徳川家康と知多半島(番外2:桶狭間合戦後、徳川家康はいかに岡崎に戻ったか)

昨日も出勤。最近、どうも忙しく、欲求不満が溜まっている。先週、手賀沼南岸の鷲野谷の歴史散策に行って、大分解消されたのだが、会社が始まると来年度の計画や何やらで頭の痛いことばかりである。

そこで、今日は、久しぶりに知多半島のどこかに行ってみようかと思い、朝食を喫茶店ですませ、住んでいる武豊から国道247号線を南下し、河和方面へ車を走らせた。どうも頭がすっきりせず、暫くハンドルのおもむくままというか、気の向くままに走りながら考えた。なぜ、徳川家康は桶狭間合戦後の敵が大勢いるなかを、三河の岡崎まで無事に帰ることができたのだろうか。既に「徳川家康と知多半島」を書き始めて大分たつというのに、この答えが自分のなかに明確になかった。前回まで、大高城への兵糧入れと丸根砦攻略まで書いたのに、すっかり筆が止まったまま。忙しいというのもあるが、明確に自分で説が唱えられなかったからというのが、実際のところであった。

それで、前から何度も歩いて、大体のところが分かっていた、「船橋市街地の寺社を訪ねて」などという記事を5回にわたって書いてしまった感がある。勿論、それはそれで書きたかったことなのであるが。

いつの間にか、名鉄の河和口駅前を通り過ぎ、ふと左の海面を見ると朝の光のなかを水鳥がたくさん浮かんでいる。時志観音も例の戸塚ヨットスクールも過ぎ、河和の駅の近く、道が左右に分岐するところまで来た。ここまで来て、ふと美浜町の図書館に行って何か本でも調べてみるかと思い、右折して河和駅を過ぎて、役所のところで右折し、美浜町の図書館へ。最初から、そうする気であれば、国道を布土の橋のところで右に入り、心月斎の脇を通って、山道を通っていけば近いのだが、布土は道が狭いから、まあ良いか。

<美浜町生涯学習センターの1階ホールに展示されていた生け花>

Ikebana

美浜町の生涯学習センター(図書館を併設している)に着いたが、まだ8時半である。開館時間まで30分も時間がある。生涯学習センターのホールにいると、ご婦人方が生け花を整えていた。開館まで間があるので、ブラブラしていると、戦国知多年表という冊子が置いてあったので、手にとって見た。非常に興味深く、早速買ってしまった。もう9時を過ぎたが、いっこうに図書館が開く様子がない。聞けば、図書館は閉館なのだそうだ。それでは、常滑の図書館に行ってみようかとも思ったが、常滑の図書館には徳川家康関連の書籍が少ない。阿久比町なら多いが、阿久比まで行くのはここからでは少々遠い。それで、武豊にとりあえず戻ることにした。

武豊にもどろうとして、例の心月斎の脇にでる山道へ。しかし、右折:武豊の表示が見えているのに、どうも素直に帰る気がしない。それで真直ぐ行けば、野間の方へ出る。そうだ、野間大坊へ久しぶりに行ってみようと思い、一路上野間へ行く。

<野間大坊、大御堂寺根本堂>

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野間大坊の本殿の前でぼんやりしていると、お寺の方 住職が声をかけて来た。年配の、お坊さんではないように見える(第一髪をそっていない)が、お寺の関係者であることは間違いない。 2007.03.12削除、以下「お寺の人」、「老人」を住職に変更 失礼しました。水野住職でした。

この本殿は何年前のものか聞くと、四百年前のものだという答え。メンテナンスするのに、一坪一千万円かかるといっていたが、「百何十坪もあるのに、あなた十億だよ、どうするかね」とのこと。「どうするかね」といわれても、小生にはどうにもなりません。この水野住職、意外に歴史に詳しいらしく、自然と話は戦国時代の話へ。知多半島の大部分は水野氏が支配していて、三河の松平も水野あってのものである。知多で水野以外は、大野の佐治と、河和の戸田、師崎(羽豆崎)の千賀くらいなもの。戸田はしまいには水野にやられてしまって、水野に随った。水野が強いのは、亀崎に稲生水軍を持っていたからね、それで東浦を支配したんだなどと言っていた。野間大坊の鐘も、何かの戦い(住職はその名前を言っていたが失念した)で敵に持っていかれた云々。

やがて、名古屋からの団体さんという集団が来て、住職はその案内へ。小生、「知多半島は殆ど水野」というのを改めて聞くと新鮮であったが、「水野が強かったのは水軍を持っていたから」という住職の言葉が印象に残った。

<水野住職から話を聞いた野間大坊の本殿>

Nomataibou

そして、武豊に帰った小生、いつものようにJAへ行くと、時間はまだ10時前で、いつもの魚屋さんが来ていた。今日は珍しく、奥さんと一緒に商売をしている。見ると、生きた蛸が売られていた。

待てよ、家康は大高から海を通って南下し、どこかで上陸して成岩まで行き、常楽寺で休憩後、やはり海路三河に戻ったのでは、全部陸上を行ったのではどこかで織田勢に遭遇したはずである。そのように、ようやく思い至った。

<JAで売られていた蛸>

Tako

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2007.01.07

徳川家康と知多半島(その21:徳川家康と桶狭間合戦<中編>)

永禄3年(1560)5月19日、今川方の先鋒であった、松平元康、後の徳川家康は、織田方の佐久間大学盛重が守る丸根砦を攻めた。丸根砦とその西にある鷲津砦は、今川の手に落ちた鳴海城と大高城の間の連絡を分断するために、織田信長が築いたものである。丸根砦を落すことは、今川方にとっては孤立した大高城を救援するだけでなく、今川軍の尾張進軍の露払いをするという意味もあった。

<大高城>

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一方、丸根砦を守っていた、佐久間盛重は、織田信秀、信長二代につかえた家臣であるが、信秀死後の相続をめぐる争いでも、一貫して信長支持であった。同じく信秀、信長二代に仕え、家中の重鎮となったものの、本願寺攻めを長期化させ、功がなかったとして、高野山に追放された佐久間信盛は同族である。

通説では、松平元康は5月18日の夜、大高城へ兵糧入れした後、19日未明に丸根砦を攻めて砦を落とし、また大高城に戻ったとされる。

織田信長の家臣太田牛一が書き、信憑性の高いとされる『信長公記』には、桶狭間合戦について以下のように書かれている。

「今川義元討死の事 天文廿一年壬子五月十七日
一、今川義元沓懸へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、助けなき様に、十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出を払ふべきの旨必定と相聞こえ侯ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ侯ところ、其の夜の御はなし、軍の行は努々これなく、色六世間の御雑談までにて、既に深更に及ぶの問、帰宅侯へと、御暇下さる。家老の衆申す様、運の末には智慧の鏡も曇るとは、此の節なりと、各嘲弄して、罷り帰られ侯。案の如く、夜明がたに、佐久間大学 織田玄蕃かたよりはや鷲津山丸根山へ人数取りかけ侯由、追々御注進これあり。此の時、信長、敦盛の舞を遊ぱし侯。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきかとて、螺ふけ、具足よこせと、仰せられ、御物具めされ、たちながら御食を参り、御甲をめし侯て、御出陣なさる。其の時の御伴には御小姓衆
 岩室長門守 長谷川橋介 佐脇藤八 山口飛騨守 賀藤弥三郎
是等主従六騎、あつたまで、三里一時にかけさせられ、辰の剋に源大夫殿宮のまへより東を御覧じ侯へぱ、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上り侯。此の時、馬上六騎、雑兵弐百計りなり。浜手より御出で侯へば、程近く侯へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸げさせられ、先、たんげの御取出へ御出で侯て、夫より善照寺、佐久間居陣の取出へ御出であつて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体御覧じ、御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の休息これあり。
天文廿一壬子五月十九日午の剋、戌亥に向つて人数を備へ、鷲津・丸根攻め落し、満足これに過ぐべからざるの由にて、謡を三番うたはせられたる由に侯。
今度家康は朱武者にて先懸をさせられて、大高へ兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依つて、人馬の休息、大高に居陣なり。信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へぱ、瞳とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死侯。是れを見て、義元が矛先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ侯。(以下、略)」

『信長公記』でも、大高城へ18日夜兵糧入れした松平元康は、翌19日早朝に丸根砦を攻めて、午前8時頃にはこれを落とし、その後大高城に戻った様子が読み取れる。砦側からは今川軍が鷲津、丸根砦を19日に攻めることを察知した、砦の将たちから、18日夕方には信長へ「十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、助けなき様に、十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出(砦)を払ふべきの旨必定と相聞こえ侯ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ侯」と注進、明け方には砦が囲まれたと注進している。「塩の満干を勘がへ」とは、援軍の出しにくい満潮時(明け方)に攻めるという今川方(松平元康)の戦法を予測しているのである。

丸根砦址は、現在の大高緑地の西側の台地上にある。丸根という名前の通り、台地の最も高いちょうど城址主郭部があった部分は、丸い鉢を伏せたような形に見える。付近は、主郭部のごく近い場所まで住宅地になっていて、主郭部のみが往時の地形をほぼ留めているようである。しかし、付近の道は狭く、また主郭のある高台へは急な坂道となっていて、自動車で行くのは止めた方がよい場所になっている。幸いにして丸根砦址は、JR大高駅から徒歩で行くことができるほどの場所にある。JR線路の北側へ出て、鷲津砦の下、長寿院を左に見て、線路沿いの道を東に進むと、西丸根の交差点があり、その交差点を左折し、北へ向かえば、左手に大きな見越しの松のあるお宅があり、その道路右側の側道を行けば、急な坂道となり、坂を上りきると、丸根砦址の看板が出ている地点に出る。坂道はちょっと自動車で上るのには勇気がいるほどの傾斜であり、小生夜間などとても通ることは出来ないであろう。住宅地とは行っても、さすがに砦付近は空地が目立ち、生活上の不便さを避けたが故と思われる。

<急な坂道をいくと丸根砦がある>

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丸根砦は、主郭部が東西36m、南北28mで、周囲に幅3.6mの堀が取り巻くという単純な構造で、主郭以外には主郭を同心円的に取り巻く、帯郭があるきりである。ここに佐久間大学盛重以下、500名の将兵が立て籠もったというが、主郭だけでは500名もの人を収容できたとは到底思えず、台地中段の要所に兵を配置したのであろう。

<丸根砦の主郭~看板の上の森が主郭である>

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<丸根砦の主郭内>

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この丸根砦を松平元康が攻めたのは、永禄3年(1560)5月19日の未明であった。元康の率いた今川軍は約2,500名、この小山を取り囲むのには十分な人数である。だが、佐久間大学盛重ら織田軍の抵抗は頑強であった。元康らの今川軍は、砦の大手から正攻法で攻めたであろう。これに対し、佐久間大学盛重らは、矢を台地の上から浴びせかけ、あるいはゲリラ的に戦ったと思われる。しかし、佐久間盛重ら将兵の抵抗は長くは続かず、午前10時頃には丸根砦は落ちた。同日未明、今川軍の朝比奈泰朝が率いる軍勢も、織田秀敏、飯尾定宗・信宗父子が立て籠もる鷲津砦に攻め懸かり、これを落とした。鷲津砦の将兵は殆ど戦死したという。ちなみに、守将の織田秀敏は信長の大叔父にあたる織田一族であり、飯尾定宗も織田家の一族から飯尾氏に養子に入った人物であった。丸根砦、鷲津砦ともに織田の一族、重臣が配置されていたのである。かくして、桶狭間合戦の前哨戦ともいうべき、鷲津、丸根両砦をめぐる戦いは、今川方の勝利となった。

<丸根砦の堀跡~階段の下の道>

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<鷲津砦>

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しかし、疑問を感ずるのは、松平元康が兵糧を大高城を運び込んだ時、丸根、鷲津砦の物見の者はそれに気づいて、砦側は当然ながら妨害した筈であり、荷駄隊という余り自由の利かない行軍を行って危険をおかして兵糧入れを行い、その数時間後に丸根砦を攻落すというのは順番が逆ではないかということである。丸根砦を落とした後、再び大高城に入っているのであるから、最初から二千名以上の兵員を使って丸根砦をひとまず潰し、その後悠々と大高城に荷駄と共に入ればよい筈である。

沓掛を起点として大高城へは直線距離にして約8.5Km、人間の歩く速さで荷駄隊が行ったとすれば2時間40分ほどの時間がかかることになる。沓掛を夜8時に出発したとして、大高に着くのは夜10時40分ということになる。その翌日早朝4時に丸根砦を攻めたとして、準備に2時間かかるとすれば、大高城で休めるのは3時間余りである。いくら「塩の満干を勘がへ」といっても、織田軍の援軍が満ち潮で阻まれて来難い時間帯でなければ攻められないということでもなかろう。むしろ、正面から丸根、鷲津に夜襲をかけ、いったん織田軍の勢力を掃討してから、荷駄を大高城に運び込むほうが自然のように思われるのである。そうはいっても、戦国時代の人がそう考えるかといえば別問題で、やはり『信長公記』の記述通りかもしれない。

また、松平元康が丸根砦を19日未明に攻めて、砦に煙が上り、落ちたのが織田信長によって確認されたのが朝8時頃であったというのも、少し時間がかかっているように思われる。しかし、低地から高台を攻めるのは、逆の場合よりも何倍も大変なことである。むしろ佐久間大学の織田方が、寡勢よく守ったというべきであろう。

<丸根砦に建つ石碑>

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2006.12.03

徳川家康と知多半島(その20:徳川家康と桶狭間合戦<前編>)

桶狭間合戦の実相と題して、前回、前々回自説を述べさせていただいた。

永禄3年(1560)5月の桶狭間合戦では、結局今川義元が討死、織田方が勝利したわけであるが、それは織田信長が尾張一国から東海地方一円の覇権を築き、さらに天下統一へ動く大きな転換点となった。では、その桶狭間合戦前哨戦ともいうべき大高城、鷲津、丸根砦の攻防のなかで、大高城兵糧入れに成功して、そのまま大高城を守り、今川方敗退後は岡崎に戻った徳川家康にとって、桶狭間合戦とはどういう合戦であったのか。

<鷲津砦址>

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それは、今川家部将としての敗戦であると同時に、岡崎領主としては自領を回復し、今川氏の支配から脱出する機会となった。思えば、松平氏の先祖は三河でも山間部の松平の地から、安祥に出て、さらに分家の大給松平氏を追って岡崎を領有し、数多くの分家や時に一向一揆などで離反する家臣たちもまとめて、松平清康の代には三河一国を統一し、天文4年(1535)には尾張に攻め入るまでにいたった。しかし、その陣中、当主である松平清康が家臣阿部弥七郎に討たれる「守山崩れ」という椿事がおき、家督は清康の子広忠が継いだが、以前の勢いはなく今川家の傘下となって小豆坂で織田方と戦い、幼少の竹千代、のちの家康は駿府に人質にとられることになる。

長い人質生活を経て、家康は義元の名前の下の一文字をもらって松平元信、のちに元康と名乗り、今川家の重臣関口氏から俗に築山殿という正室を迎え、今川義元のひとかどの部将として、成長した。この桶狭間合戦時には、家康はまだ松平元康と名乗っていた。

<大高城にたつ石碑>

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この家康が桶狭間合戦の前段で兵糧入れをしてそのまま守将となって留まった、大高城は、築城者、築城年代ともに不明、古文献から永正年間に花井備中守が居城したと伝えられる。花井氏は知多半島北部に勢力をもった、土地の豪族である。そして、天文・弘治年間(1532~58)には水野忠氏父子が居城したというが、この水野忠氏という人物がよく分からない。水野忠政のことかと思ったが、緒川城主水野忠政本人ではなく、その系統ではあるらしい。一説には、水野貞守の弟が大高城主になったというが、尾張一円に多い緒川水野一族の一部が当地に進出したものか。この水野忠氏父子も、緒川水野氏が今川から織田方へ旗幟を鮮明したのに歩調をあわせて、当初今川方であったのが織田方となったものと思われる。

<花井氏が勧請したという城山八幡社~本丸の土塁上にたつ>

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大高城に水野忠氏らが拠っていた頃、その北東2.5Kmくらいの地点にあった鳴海城を守っていたのは、山口左馬助教継であった。山口氏は周防の大内氏の一族といい、尾張熱田の橋本盛正の館に移った後、山口氏を名乗ったという。山口氏の支流は尾張国で信長の家臣の佐久間正勝、織田信雄に仕えた後、徳川家康に仕え、一時大久保長安事件に連座するなどしたが、復権して牛久領を拝領し、廃藩置県までの250年間牛久に陣屋を構える大名として存続した。最後の牛久藩主、山口弘達は家譜を明治新政府に提出しており、その先祖から歴代藩主の事績が後世に伝えられることになった。それによれば、山口氏の始祖は、室町時代半ばに尾張に来た大内任世で、先祖の住んだ周防の地名から山口氏を名乗ったとある。つまり山口左馬助の山口とは、山口県の山口という訳である。なお、家譜には、山口左馬助が織田から今川へ寝返ったことなど、一言も書いていない。

「是これより先に持世の弟に持盛と云有り。安賀丸、孫太郎と云、周防権介に任じ正六位上に叙す。永享五年癸丑四月八日死す。歳三十七。其の子教幸、孫太郎と云。其の子任世、安賀丸、獅子丸と云う。又、多門院と号す。應仁元年丁亥(1467 年)周防、長門及び九州大乱の事有り。教幸、豊前馬嶽に死す。其の子政弘の為に皆殺さるゝ。任世独り防州を厺さり尾州に移る。愛智郡に到り天霖山笠覆寺に蟄居す。二子を生す。皆山口氏を称す。山口は、周防吉敷郡に在り。其の祖、住するの地名故に氏とす。是を以って山口の祖とす。任世の子盛幸、孫太郎又修理進と云。其の子盛重、巌丸又将監と云。尾州寺辺の城主たり。尾州にて死す。歳六十一。其の子盛政、巌丸、後平兵衛尉と云。織田弾正忠信秀に仕え、其の後、織田信長卿の老臣、佐久間右衛門尉信盛に依る。軍功最多し。天正八年庚申八月十五日、江 州永原にて死す。歳六十一。其の子重政、竹丸、長次郎と云。天正六年戊辰信盛の長子、甚九郎正勝に依る。所々に於いて軍功あり。同十年壬午織田信忠卿、重政を召して 曰く「 汝佐久間父子に従い困苦の志深く、我之を感す」とて御馬並に鞍具を賜う。同十一年癸未正勝、重政をして尾州大野の城に居らしむ。同十二年甲申六月、徳川家康卿、重政を召して曰く「汝、前年、佐久間父子に従い去らず。今、又姦賊に興おこらず、而も其の節、義を守る忠志浅からず」とて御馬を賜う。此時始めて家康卿に拝謁す。同十四年丙戍、重政二十三歳。養父重勝の家を続き星崎の城主と為る。(是より先、天文十九年癸戍四月、重勝父重俊、尾州松木に戦死す時、重勝二歳。重俊は盛政の弟なる故、盛政哀憐し養育する事子の如し。此時、重政浪人の為、是に於て重勝、盛政の恩を報じん為に重政を以って嗣と為し竟ついに城を譲り其の家を継也)重勝は織田信雄の家臣也。故に重政亦信雄に仕う。同十六年戊子(1588 年)、信雄、星崎を勢 州茂福に改め加禄一万三千石を重政に賜う」云々

山口左馬助教継は織田信秀の家臣で、鳴海城を守っていたが、織田信秀の死後(天文21年(1552)か)、家督相続をめぐって織田家中が揺れる中、今川義元の誘いにより織田家を離反、今川に走った。天文22年(1553)には、山口教継は笠寺砦に居り、教継の子九郎二郎教吉が鳴海城を守備していた。織田信長は、当然ながら山口氏の離反に対して討伐の兵を差し向け、山口教継は鳴海城から出撃し、鳴海の北の赤塚の地で織田信長勢と戦った。しかし、織田信長勢が兵力で劣勢(織田800対山口1500という)で、30騎ほど討たれて引き揚げることになった。

山口教継父子は、こうして尾張南部に今川の勢力をくさびのように打ち込む先兵となり、大高、沓掛の両城を調略した。今川の手に落ちた大高城には、今川家臣である三河の鵜殿長照が守将として入った。

大高城が今川の手に落ちたため、その対抗上、織田信長は永禄2年(1559)鷲津砦および丸根砦を築き、大高城と今川勢との連絡を絶とうとした。実際、行って見ればよく分かるが、大高城と鷲津、丸根の砦は目と鼻の先にあり、大高川の流れる低地をはさんで、南北の台地上で対峙している。

<丸根砦>

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大高城は、今川氏にとって、尾張攻略の拠点になる戦略上重要なポイントであった。そのため、今川方からみれば、折角落とした大高城が孤立し、糧道を断たれることは大きな痛手であった。永禄3年(1560)5月の桶狭間合戦にあたっては、大高城の今川勢に対して鷲津砦には織田秀敏、飯尾定宗・信宗父子が入り、丸根砦は佐久間大学盛重が守っていた。それらの砦は、大高城と鳴海城、あるいは沓掛城の交通路を分断し、特に大高城の将兵の動きを牽制する絶好の位置をしめていた。そして、桶狭間合戦に際して、大高城の今川勢の兵站は、まさに断たれようとしていた。その救援に松平元康があたったのである。時は永禄3年(1560)5月18日の夕刻から夜にかけて、有名な大高城兵糧入れが、松平元康によって、織田軍の監視の目をくぐって行われた。

<丸根砦の下にある砦前交差点>

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松平元康は、5月18日荷駄を編成すると、三河衆を率いて大高城へ兵糧を入れた。その後、まず丸根砦を落とした。5月18日の合戦前日、砦には、織田方の守将佐久間盛重以下、500人の兵が配備されていた。しかし、19日未明に松平元康率いる今川勢2500名の攻撃を受けた佐久間ら織田家の将兵は勇敢に戦ったが、元康の猛攻の前に丸根砦は落ちた。さらに、元康は南下し、大高城へ入って鵜殿長照に代って守将となった。

これが有名な大高の食糧入れから大高城の守りにつくまでの、松平元康の一連の行動である。

<大高城の二の丸>

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<大高城の本丸>

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その大高城兵糧入れから、桶狭間合戦の前段である丸根砦の戦いについて、次回考察することにする。

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2006.09.02

徳川家康と知多半島(その19:続・桶狭間合戦の実相)

前回、桶狭間合戦が、従来言われていたように、織田信長による奇襲で休息中の今川軍を攻め今川義元を討ち取ったというよりは、「おけはざま山」に陣取った今川義元本陣に攻め上り、崩れた今川軍の乱れに乗じて今川義元を討った、また、そもそも今川義元が大軍を率いて駿府を出立し、織田軍を攻めた目的もすぐに上洛ということではなく、織田軍を打ち負かして尾張の領地を得るため、あるいは織田軍にダメージを与えるための局地的な戦いであったらしいと述べた。

<田楽坪の桶狭間古戦場公園> 

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この織田、今川の争いは、桶狭間合戦に始まったことではない。長年にわたる織田、今川の抗争の延長に、この桶狭間合戦があったとみるべきであろう。

戦国時代の初期、尾張は守護である斯波氏の支配体制が弱体化し、実権は守護代である織田氏に移ったが、その織田氏も岩倉織田氏と清洲織田氏が尾張の北と南に分立、分裂抗争するという複雑な状況にあった。両織田氏の分立と抗争の状況から、清洲織田氏の家老であった織田弾正忠信秀が経済力をバックに尾張統一に動き、それは信秀死後、嫡子信長によって完結する。その信秀が当主の頃、後述するように、尾張における今川氏の拠点那古野を天文7年(1538)頃奪取して今川氏と対立、その後三河の松平氏とも小豆坂で二度戦っている。

一方、駿河・遠江の守護今川氏は、自ら戦国大名化していた。北条早雲の支援で家督を継ぎ、内政を固めた今川氏親が大永6年(1526)になくなると、若くして家督を継いだ今川氏輝が英明な君主ぶりを発揮していた。しかし、その氏輝も天文5年(1536)急死してしまい、出家した兄弟同士で家督をめぐって争うという、花倉の乱が起こる。勝った義元が今川の家督を継いだ。義元は甲斐武田氏の駿河進出を食い止めるとともに、西へ進攻し、三河の松平氏を屈服させ、事実上その版図を三河に広げたため、織田、今川の争いには松平、水野という三河地方や知多半島を拠点にしていた豪族が巻きこまれていった。

<水野氏が拠った緒川城>

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今川氏は、室町将軍足利家の親戚であるとともに、駿河、遠江の守護大名である。今川という名字の地は現在の愛知県西尾市今川であり、もともと三河に拠点をもっていた。それは吉良国氏が、今川姓を名乗ったことにはじまる。国氏の孫、範国の代に、建武新政、室町幕府創生と足利尊氏に属して戦功があり、建武3年(1336)遠江の守護職、のちに駿河の守護職に任ぜられた。今川範国は、岸城に居城し、その後の今川氏の基盤が築かれる。永亨4年(1432)、範政の代のとき、駿府に築城して移り、その子範忠の代には将軍足利義教から副将軍に任じられた。今川氏は駿河、遠江だけでなく、尾張の中にも那古野に鎌倉時代より柳之丸という館を構えていた。今川家仮名目録を制定した氏親は、この柳之丸に子の氏豊を置いて、尾張に楔を打ち込んでいた。

<那古野城があった場所にたつ名古屋城>

Nagoya

一方、尾張守護斯波氏は庶流の斯波義敏が享徳元年(1452年)宗家を継ぐと、越前、遠江守護代の甲斐常治と対立し、長禄2年(1458)に義敏派の国人と常治派の朝倉孝景の合戦に発展、傍系の斯波義廉が山名宗全らにかつがれて家督を継承すると、斯波義敏は復帰工作を行い、文正元年(1466)義敏が尾張、越前、遠江の守護に任命されるという、複雑な状況となった。この斯波氏内部の争いが、畠山氏の家督争い、細川氏、山名氏の勢力争いと絡んで、応仁の乱へと発展していく。こうして斯波氏は混乱の中で力を失い、遠江は今川氏、越前は朝倉氏に奪われ、尾張のみの守護となったが、尾張における実権も守護代であった織田氏に奪われてしまう。その織田氏も岩倉織田氏(伊勢守) と清洲織田氏(大和守) の両家で対立、抗争を続ける。

織田信長の父、織田信秀は清洲織田氏の三家老の一つ弾正忠家の当主であり、勝幡城主であった。この織田信秀は、斯波氏からみれば陪臣にあたる。しかし、尾張国南部の津島をおさえ、津島の海運・交易で得られる経済力を背景に頭角をあらわし、清洲織田氏の実権を握り、さらに岩倉織田氏を攻めて尾張を統一しつつあった。

この勝幡城主織田信秀が、那古野に今川氏豊を攻め、これを追放した。天文元年(1532)のことである。信秀はこの柳之丸を改修し、那古野城を築いた。織田信長が生まれたのは、この那古野である。那古野に移った信秀は、古渡城を築城、古渡に信秀、那古野に子の信長が居住した。天文20年(1551)信秀卒後、家督を継いだ信長は、弘治元年(1555)清洲にいた自らの主君である守護代織田信友を攻め、これを滅ばした。これには信秀の弟信光が信長の後見として加わっている。実は信光も、その直後に信友の遺臣坂井孫八郎により暗殺されたというが、信長が暗殺した可能性も否定できない。

一方、徳川家康の祖父、松平清康は、今川氏が柳之丸を失った頃、東の今川氏、西の織田氏に挟まれた三河を統一し、その勢いで天文4年(1535)には尾張の織田信秀を討つため守山まで出張ってきた。同年12月岡崎城を出発した松平清康が守山に陣を張っていたとき、家臣阿部弥七郎によって殺害されるという事件、「守山崩れ」が起き、若く病弱な広忠が後を継いだ。清康亡き後、弱体化した松平氏に対し、織田信秀は、安城を起点に矢作川東岸部への進出を図った。これを迎え撃つべく、今川義元は、天文11年(1542)軍勢数万を岡崎東部生田原(しょうだはら)に進め、出撃してきた織田勢4千とこの小豆坂で戦った。この小豆坂の戦いは両度におよび、天文17年(1548)再度岡崎攻撃にむかった織田信秀の軍勢と松平・今川軍は小豆坂で合戦、松平・今川が勝利し、今川は勢力を西へ伸ばし、尾張進攻への足がかりを得る結果となった。

さらに、織田信秀が天文20年(1551)に死去すると、その家督相続をめぐって、嫡子信長と林佐渡、柴田勝家という家老らに擁立された弟信行とで争いがおき、信長が信行を殺害するという内紛が起きる。それを今川義元は、見逃さなかった。今川義元は天文22年(1553)、現在の東浦町森岡に村木砦を築き、ここを尾張進攻の足がかりとしようとした。これに対し、近隣の緒川城、刈谷城に拠っていた水野氏は、忠政の代には今川、織田双方によしみを通じる身であったのが、信元の代になると織田方の旗幟を鮮明にしており、重原城、村木砦と今川方の城砦と目と鼻の先にいるという危うい位置にあった。翌天文23年(1554)1月、尾張の地を守るべく出動した織田信長と水野金吾忠分の軍勢が今川軍と村木砦をめぐって合戦、織田、水野軍が勝利している。なお、この戦いでは、通説いわれるように水野の軍勢が織田の援軍を受けて戦ったというより、織田信長の率いる軍勢が主軍であって、既に桶狭間合戦以前に織田軍、今川軍の直接対決があり、しかも織田軍が勝利しているのである。

<村木砦址の碑>

Muaraki

<石ヶ瀬古戦場風景>

Ishigase

永禄3年(1560)の桶狭間合戦は、今川氏の村木砦をめぐる攻防戦のリベンジをかけた戦いであり、今川が尾張への本格進出をはかる決戦であったと考えられる。既に村木砦で織田軍に敗れた今川軍は、慎重に軍を進めたと考えられる。このように村木砦の戦いは、桶狭間合戦の前哨戦とでもいうべき戦いであり、既に勝利している織田方に対し、今川方が優位である訳ではなかった。今川義元が松平元康や井伊直盛に命じて、大高城の兵糧入れやその周辺の鷲津、丸根の両砦の攻略を行い、その後続として、桶狭間の高根山に松井宗信の一部の軍勢、幕山、巻山にも松井宗信ら先鋒を配したのも、慎重に進んでいたことの証であろう。
沓掛城を出た今川義元の本隊は、それら前衛部隊から、大きく離れた場所に位置していた訳ではなく、後方1Km 以内の場所に陣取っていたと思われる。それは、瀬名氏俊の部隊が、今川義元本隊が桶狭間に到着する2、3日前に、現在の長福寺のすぐ北の裏山の山裾に駐留して、本隊の駐屯場所の設営にあたったことでも分かる。もし、一部伝承されているように、義元本隊が現在の豊明市の館狭間もしくはその前の高徳院境内に陣取っていたならば、非常に窮屈な場所に、しかも先陣である松井宗信らと少し離れていたことになり、不自然である。先日、桶狭間の郷土史家、梶野渡氏にお会いしたおり、その件について聞いてみたが、国指定の史跡となっている桶狭間合戦場伝承地には、昔道がなく、また周辺の「館」という地名にしても、江戸時代の学者が「屋形」、すなわち今川義元が陣を張ったであろうと机上で推論したものが、地名となったということであった。つまり、「館狭間」にしても、「館」から派生している地名であり、中世に城館があったとかいう地名ではない。
それに対し、桶狭間の武路(たけじ)あるいはそのすぐ南の高地は、西に高根山、幕山、巻山を一望することが出来、本陣を構えるのにふさわしい場所である。大体、館狭間のほうは、高根山などとの間に、現在名古屋短大敷地となっている低地が挟まっていて、かつては小川の流れる低湿地があって、部隊の移動には無理のある場所と思われる。

しかし、なぜ織田信長は、今川の大軍の本陣をピンポイントで特定し、そこに急襲をかけることができたのか。多勢に無勢でありながら、思いつきで小人数で出陣し、偶然見つけた今川の本陣に、それも偶然相手が油断して休憩をとっていて、「東海の覇者」と言われた今川義元を偶然発見、これを討ち取ったなら、奇跡としかいいようがない。勿論、そのような奇跡ではなく、事前に織田信長は今川軍の動きを察知していた、特に今川軍の本陣の動向を知悉していたと思われる。

よく桶狭間合戦は情報戦であったといわれる。それは、論功行賞において、実際に今川義元を討ち取った毛利新介や服部小平太が功名第一ではなく、一番手柄は今川義元本陣を正確に把握し、これを織田軍に伝えた簗田政綱であったことでもいえる。勿論、簗田政綱の功績大であったのであろうが、元々桶狭間に住んでいた住民、桶狭間に知行地のある武士たちが一役かっていたと思われる。それは、南北朝の昔、南風競わず、桶狭間の草分けになった梶野、青山らの人々であり、元は桶狭間にいて、天文年間に岩滑城城主となった中山勝時その人である。寛政譜、寛政重修書家譜によれば、中山勝時の先祖は、藤原氏で近江の八幡中山(現在の長浜市八幡中山町)を名字の地とし、坂田庄司の武田兵庫頭の命で尾張に下向したともいわれ、室町初期頃に南朝方であった梶野氏らがいた桶狭間に来たらしい。そこで現在長福寺のある場所に住み、長福寺の本堂の東側の湧水を共用しながら暮らしていた。小生の想像も混じっているが、長福寺の場所に中山氏が館を構え、そこに法華の庵があって、現在セト山公園のある一帯に草分けの人々が住んでいた、鞍流瀬川は堀代わりに使われていたのではないだろうか。

一方、緒川の水野貞守は、徐々に勢力を伸ばし、桶狭間を含む知多半島北部を自らの勢力下に置いていった。徳川家康の母、於大の方の父、水野忠政の頃には、中山氏は水野氏の重臣クラスになっており、永見氏、久松氏などとともに、知多半島北部における水野氏配下の部将であった。中山勝時も、実は水野氏の本拠地緒川の生まれという説があり、勝時の叔父か大叔父にあたる快翁龍喜禅師も父は中山又助で水野氏の家臣ということである。また、寛政重修書家譜の水野貞守に関する記述に「十六歳にして志を立て、隣国を遊歴し人材を得るを心とす。このときにあたり、旧臣牛田某に逢て興復の事を謀り、永見某・中山某・久松某と君臣の義を結び、小河の旧塁を修築し、三河国刈谷・熊村・大日・大高・常滑の諸士其手に属せしかば、やがて刈谷に城を築きて移る」とあり、中山氏は早いうちに水野氏配下になったようである。

つまり、中山氏から桶狭間の地理、地形の情報は、水野氏を経由して織田信長にあがっていたであろうし、桶狭間で今川本陣の設営をした瀬名氏俊が軍夫として使った桶狭間の人々は、中山氏の息がかかっていたと思われ、そこからも情報があがっていたであろう。

さて、先日半田市岩滑の新美南吉記念館において、新美南吉と岩滑城主中山勝時の子孫で明治以降再び岩滑に住んだ元尾張徳川家家臣の中山家との関わりについての企画展「『ごんぎつね』の殿様中山家と新美南吉」が開かれた際、桶狭間の梶野氏ら20余名の人々が岩滑に来て、その企画展を見学し、岩滑城址や南吉生家などをたずねたのである。その際、尾張中山家の子孫である鈴木氏が説明、案内を行った(新美南吉記念館においては、遠山学芸員が説明)。ちなみに、テレビドラマにもなった、中山家で女子医専に行った六女ちゑと新美南吉とのラブストーリーは、だいぶ虚構が混じっていたようで(二人は恋人ではなかった)。

こうして、中山勝時の血をひく尾張中山家の子孫と、桶狭間に最初に住み着き、中山氏の旗下となった人々の出会いが、何百年もの時をこえてあった訳である。その際、中山氏の近江から桶狭間に来て、そして岩滑城主となったという壮大な歴史が鈴木氏、梶野氏によって語られた。大体の場合、そこまで昔の先祖にまではたどれないのであるが、歴史のロマンを感じたひとときであった。

<新美南吉記念館に来られた桶狭間の人々に説明する尾張中山家子孫の鈴木氏>

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(左側パネルの説明をしているのが、尾張中山家の子孫(中山元若の孫)である鈴木氏。中央後ろ向きの男性が遠山学芸員。右側が梶野氏ら桶狭間の人々)

<桶狭間草分けの人々が共同使用した湧水>

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2006.08.14

徳川家康と知多半島(その18:桶狭間合戦の実相)

徳川家康にとって、長年隷属していた今川からの呪縛から解き放たれる契機となったのは、永禄3年(1560)の桶狭間合戦である。桶狭間合戦で今川方が敗れ、大高城に入っていた家康も、一転して敗軍の将となり、三河に逃げ帰ることになったが、それは勿論危機であったけれども、その後今川義元の嫡子氏真は亡き義元の仇を討つどころか、領土を他国の大名達に蚕食され、家臣にも離反されて掛川城に移らざるをえず、家康はようやく岡崎の旧領を取り戻すにいたる。

<桶狭間合戦時、徳川家康が兵糧入れと同時に入城した大高城>

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しかし、そもそも桶狭間の合戦で敗れてなくなった、今川義元はなぜ大軍を動かし、西をめざしたのであろうか。最近の研究では、それは上洛が目的ではなく、織田軍を打ち負かして尾張の領地を得るため、あるいは織田軍にダメージを与えるための局地的な戦いであったらしいとされている。もともと、今川氏が支配していた駿河、遠江、三河の三国を合わせても七十万石程度の石高だったといわれる。遠江や三河は山間部が多く、面積が広い割には、石高は小さかった。それに対し、尾張は面積こそ三河などより小さいが、濃尾平野の肥沃な土地に恵まれ、尾張一国で五十七、八万石あったようである。しかも、織田信長の父信秀の代から、支配していた津島の港湾から上る収入も多かった。したがって、彼我の経済力は大差なかった。兵力についても、今川の二万五千に対して、織田の二千とか三千といわれていたのは、かなり誇張されていて、実態とは異なり、織田軍の本隊だけで五千はいたようで、周辺の兵力も入れれば、織田軍でも1万名くらいは集められたのではないだろうか。

従来は、鷲津、丸根の両砦を落として、油断し、田楽狭間で休憩(宴会)をしていた今川軍に対し、織田軍が高所から奇襲をかけて、今川義元をあっけなく討ち取った、電撃奇襲作戦の見本のようにいわれてきた。これは、江戸時代から面白おかしく伝えられ、その田楽狭間での休憩に際して、蜂須賀小六が現地の農民に変装し、「礼の者」として酒などを差し入れたなどと脚色された。勿論、蜂須賀小六は木曽川の川並衆であり、織田軍の美濃攻めには貢献したかもしれないが、活躍の場所が違うし、登場時期が早すぎ、時代的にもあわない。

<今川方の大高城に備えて織田信長が築き、桶狭間合戦で落ちた鷲津砦>

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実は桶狭間合戦は後世に脚色され、また奇襲作戦の見本のようにされてしまったために、明治時代から軍部のゆがんだ研究対象にもされ、その実相が正しく語られなかった。また、今川義元や松井宗信の供養墓が豊明市の高徳院にあるため、その向い側の低地が桶狭間古戦場として国指定の史跡となっており、本来名古屋市緑区から豊明市にかけて広範囲に合戦が展開されたはずのものが、狭い地域に局所化されて伝承されてしまった。

<名古屋市緑区の「田楽坪」にある桶狭間古戦場公園>

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最近の研究では、信長公記にあるように、今川義元が本陣をはった場所は「おけはざま山」であったことが主流の学説となっている。織田軍は大胆にも敵の手に落ちた鷲津砦や鳴海城に近い中島砦を発して、まっすぐに桶狭間の今川軍本隊を襲撃し、大将である今川義元を討ち取ったのである。従来は、今川義元が油断して田楽狭間で休憩し、それを迂回しながら今川軍の本陣をめざしていた織田軍が発見して、高所から奇襲をかけて義元を討ち取ったとされてきた。しかし、これはほとんど虚構であり、織田軍は正面から今川軍の本隊をめざし、しかも高所から奇襲ではなく、逆に高所にいた敵軍を低地から正面突破したことになる。

では「おけはざま山」とはどこであろうか。勿論桶狭間山という山はない。桶狭間は起伏の多い土地であり、丘陵を小さな川が侵食し、低地と台地が入り組んだ複雑な地形になっている。「山」といっても、桶狭間周辺には、又八山、坊主山、漆山、左京山、生山(はえやま)、高野山、三丁山、巻山、幕山など「山」と名のつく地名はいろいろある。何れも本当の山というより、丘陵である。また「狭間」、「廻間」のつく地名も多く、丘陵の間の谷間のような低地を指している。おそらく「おけはざま山」は桶狭間という地域の「山」つまり「丘陵」であり、兵を沢山配置できるような、ある程度広く、馬ものぼることのできる、なだらかな台地であったのであろう。

この「おけはざま山」はどこなのか。江戸時代に書かれた絵図(蓬左文庫所蔵)によれば、義元本陣の位置は以下の図の通りである。

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この絵図で、義元本陣とあるのが「おけはざま山」ということになる。これでは、丘陵が広がる場所の向い東側に低地を挟んで小丘陵があり、そこに義元は本陣を置いた、その義元本陣は旧東海道よりは南である、その本陣の向いには「明神森」があり神社があった、そして東南には「雨池」があると地図に書かれている。また当然ながら、それは沓掛城よりは西にあり、先陣が攻略した鷲津、丸根の両砦よりは東に位置することはいうまでもない。

この絵図は、江戸時代に書かれた地図で約束事となっているように、西が上になっている。そこで、現代の地図を西を上に回転させ、絵図にある他の位置が明確になっている部分との位置関係から、「おけはざま山」の場所を考えてみたい。

<現代の地図を元に桶狭間周辺の史跡などを追記したもの>

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(原図:国土地理院 地形図閲覧システム)

絵図にある「明神森」が今の「愛宕」を指すのか、「神明廻間」を指すかひっかかったが、天保12年に書かれた村絵図を見ると「愛宕森」も、「神明廻間」も近くにかかれている。「明神森」は「愛宕」とも、神明社のある「神明廻間」とも解釈できる。

みられるように、「義元本陣」の場所は現在の有松中学校のある高根山か、その南の武路(たけじ)山あたりとなる。高根山には、本隊ではなく松井宗信の別働隊がいたとされるため、実際は高根山の南の武路山辺りが妥当であろうか。そうであれば、織田軍は今川軍本隊から約2Kmの地点にある中島砦を発し、旧東海道沿いに兵をすすめ、今川の物見の兵の監視をものともせず、一気に攻め上ったことになる。その経路は、完全に旧東海道沿いではなく、大将ヶ根まで東へ進み、大将ヶ根から南下し、今川軍を急襲したといわれる。高根山以外に、幕山、巻山にも今川方の先遣隊は展開していた。義元本陣には5000名程度の兵がいたらしいが、大軍といっても、各台地に分散していたのでは、織田軍の集中攻撃を本隊に向けられれば弱い。なお、高徳院に本隊がいたというのは、収容人数に無理があろう。それに前出の絵図が正しいとすれば、高徳院が本陣では本隊と他の砦などとの位置関係が少しずれてくる。やはり、高徳院に供養墓があるなどして今川方と関係があるために、そのような説が出てきたのであろう。

<国の史跡となっている豊明市の「桶狭間古戦場」>

Okehazama2

一方、上記のように「おけはざま山」の位置を推定すると、そのすぐ南に田楽狭間に比定されている「田楽坪」がある。これは高徳院の向い側の狭い文字通りの「狭間」を古戦場というより、広々しており、織田・今川両軍が激突したとしてもおかしくない。この「田楽坪」の近くには、「七つ塚」という今川将兵を葬った塚がある。それは勿論伝承であるが、合戦場の周りに、そうした伝承の地があることは、興味深い。

さらに、「田楽坪」のすぐ南には「セナ藪」あるいは「センノ藪」という陣所跡があった。これは瀬名氏俊という今川方の武将が先発隊として当地に着陣し、大高・鳴海・大府方面の物見にあたるとともに本陣設営の準備をしたとされる。今はわずかに竹篠が残るだけであるが、かつては陣所の形が見られたという。そのすぐ南には、今川義元の茶坊主であった林阿弥が、桶狭間合戦後今川義元の首実験をしたという長福寺がある。また長福寺には、林阿弥が寄進したという義元の木像が安置されている。そのほか、瀬名氏俊が軍議をした場所という「戦評の松」があったり、桶狭間合戦の後、持ち主をなくした馬の鞍が流れていたという鞍流瀬(くらながせ)川など、地名にも桶狭間合戦の名残りがある。まさに、桶狭間は桶狭間合戦ワールドである。

<セナ藪~瀬名氏俊の陣所跡>

Sennoyabu

<長福寺>

Choufukuji

しかし、元をただせば、桶狭間は南朝の落人が開拓した場所だという。岩滑城主となった中山勝時の先祖も、そうした落人の子孫たち、すなわち梶野氏、青山氏と当地で暮らしていたといわれる。その館は長福寺の裏手であったともいわれるが、正確にはどこであったか、あるいは現在長福寺がある場所がかつては法華寺で、それは中山氏の館の持仏堂のような形か、ごく近傍に中山氏らが住んでいたのであろうか。また同時に領有していたらしい北尾にも城館があったのかは、現時点では明確ではない。しかし、広くみれば、戦国期における当地は、場所的にも、今川の勢力と織田の勢力の緩衝地帯のような所であり、尾張守護であった斯波氏の支配力が衰えた室町末期頃には、外部からでも入り込みやすかったと思われる。そして起伏の多い、この桶狭間の複雑な地形に隠れるように、彼らは暮らしたのであろう。その子孫たちがひっそり暮らそうとしていたこの土地も、戦国の世となれば戦乱の渦に巻き込まれることになった。そして、ついに永禄3年(1560)、桶狭間合戦が勃発した。

<瀬名氏のいわゆる「戦評の松」>

Senpyoumatsu

桶狭間合戦は兵力に劣る織田軍の勝利におわり、今川義元はあえない最後をとげ、その所持した宗三左文字の大刀も分捕られた。陣地を急襲された今川軍本隊は、近くの台地に展開していた先遣隊と合流しようと台地を下りたものと思われる。しかし、移動しようとした兵たちは低地にある深田で足を取られ、次々に討ち取られた。今川義元も旗本に守られて逃げ回ったあげく、取り巻く武士達も減り、最後には自ら太刀をふるって、槍をつけられた服部小平太の膝頭を斬り割ったが、毛利新介に首級をあげられてしまう。

なぜ、今川軍本隊が兵力に劣る織田軍に敗れたのか、いろいろ理由があるのだろうが、まず遠征してきた疲れが今川全軍にあったといえるであろう。それに対し、今川軍を急襲した織田軍は新手の戦力であった。また今川軍が内部に三河の松平(徳川)など本来独立した領主であった者たちを多く擁していたことから、兵力でまさるのにかかわらず、士気の面では織田軍に対して不利な状況にあった。そして、やはり織田軍が、なんらかの策略を使ったのではないだろうか。その辺りは、また次回。

<今川義元の供養塔(豊明市)>

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2006.07.17

徳川家康と知多半島(その17:尾張に残った中山氏の後裔)

前々回、「岩滑の中山氏」というタイトルで、現在半田市岩滑となっている知多半島は岩滑に居城を構え、徳川家康の母方の姻戚(義理の叔父)でもあった中山勝時の系譜について書いた。また、前回は「幕臣となった岩滑中山氏の後裔」と題して、中山勝時の子、勝政、勝尚の子孫で旗本になった中山氏後裔について述べた。これらについては、旗本となった中山氏の御子孫から、コメントを頂いたりしたが、前回までの記事では地元尾張に残った中山氏、つまり尾張徳川家に仕えた尾張中山氏については、あまり触れていなかった。

この7月15日、愛知県半田市岩滑西町にある新美南吉記念館において、「『ごんぎつね』の殿様 中山家と新美南吉」という特別展が開催され、その開催初日に尾張中山氏の御子孫とヘロン氏と小生で、新美南吉記念館を訪れた。新美南吉記念館では矢口館長、遠山学芸員が応対してくれ、記念館側の計らいで尾張中山氏子孫の中山文夫氏と生前懇意だった郷土史家小栗大造氏も同席し、色々と中山氏と岩滑の昔について聞くことができた。

今回、新美南吉記念館で尾張中山氏を取り上げるのも、「ごんぎつね」に「むかしは、私たちの村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまが、おられたそうです」というくだりがあるように、岩滑の象徴的存在でもあるし、新美南吉自身が岩滑に帰って住み着いていた尾張中山氏の子孫の人々と深い付き合いがあったからであろう。

<矢勝川河畔にある南吉の碑>

Nankichihi

前に述べたように、尾張中山氏は、岩滑城主であった中山刑部大輔勝時の三男、五平次勝尚の子勝秀の娘が尾張徳川家家臣である安井長高に嫁し、その子長清が母方の姓を名乗って中山瀬左衛門と称したことに始まる。安井長高は御弓役、御馬廻、中山瀬左衛門長清が御徒頭、その子清純は御馬廻頭などをつとめた。そのように、尾張中山氏は、代々御馬廻役などを務め、幕末の頃の勝重は、尾張藩で武術師範をつとめた。武術師範では千人を越える門弟がいたといい、そのなかには附家老の成瀬氏など尾張藩でも要職にあった人達もみられる。

<岩滑八幡社境内にたつ岩滑開村の石碑>

Yanabe

中山勝時の子勝政、勝尚の血をひく他の系統が徳川将軍家に仕えたのに対し、尾張徳川家に仕えるもう一つの系統を残した訳である。古来、武家の慣習として、嫡流家以外に、地元に別系統をたてる例は多い。この尾張中山氏、明治維新の後、かつての旧領である岩滑に移住した。それは、地元に在住していた森権左衛門家からの勧誘による。実は、その森家のルーツをたどると、中山氏の家老格であったといわれる。そして、小学校校長をしていた中山元若(勝重の子)の代には、家の近かった新美南吉と中山家とは深い交流があったという。すなわち、中山家の六女ちゑに対して南吉は思いを寄せていたし、ちゑだけでなく、母しゑや妹なつ、弟文夫とも家族ぐるみの付き合いがあった。実は新美南吉の童話のもとになっているのは、中山元若の妻しゑが語る民話だったという説もある。そうなると、新美南吉の童話のオリジナルは、中山家にあったということになる。

<「『ごんぎつね』の殿様 中山家と新美南吉」特別展の案内>

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それはともかく、徳川家康の従兄弟中山勝尚のひ孫にあたる中山瀬左衛門長清から始まる尾張中山氏、その系譜については、亡き中山文夫氏が書いた資料や今回の展示内容から、もう少し掘り下げてみたい。それについては次回。

なお、中山文夫氏の著書「私の南吉覚書」のまえがきにある、小栗大造氏の俳句が印象に残った。

半田口 言わねど語る 彼岸花

<甲城山常福院~南吉の童話の舞台にもなった>

Jyouhuku

<常福院の前の道>

Jyouhukuinmae

<Wikipedia 「中山勝時」の項で、一部このブログから引用して投稿しましたが、それは作者の森です>

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2006.06.03

徳川家康と知多半島(その16:幕臣になった岩滑中山氏の後裔)

前回、岩滑中山氏についてあれこれ書き、期せずして子孫の方から連絡があって、ヘロン氏も加わって、いまだにやり取りが続いている。中山氏が岩滑に来たのは、天文12年(1543)水野信元が宮津城の新海淳尚を攻め下し、新海氏の出城で、榊原主殿が城主をしていた岩滑城を奪い、配下の中山勝時を城主としたと、「阿久比町誌」など各書が書いている。これに対し、「緑区ルネッサンスフォーラム会報」では中山氏は永正年間に岩滑に来たとしているが、これも裏付資料があるようで、一説に中山勝時は岩滑生まれという。

中山氏が桶狭間(洞迫間:くけはざま)、北尾を領していたのは事実であろう。桶狭間は今の名古屋市緑区有松であり、北尾は近世での北尾村、後の北崎村で、現在の大府市北崎町である。その近くには、緒川水野氏の配下で天文年間に水野信元による成岩城攻めの後、成岩城に入ったという梶川五左衛門がそれ以前に拠った横根城があった。つまり、天文年間には、少なくとも北尾の辺りは水野氏の勢力が及んでおり、その関係で中山氏は水野氏の配下になったのではないか。やはり岩滑に中山氏、具体的には中山勝時が来たのは、宮津(現阿久比町宮津)の新海淳尚が水野信元に攻められて屈服した、天文12年(1543)以降であろう。

<水野氏が攻略した成岩城址>

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中山氏と桶狭間、それ以前の近江湖北における浅井氏や京極氏との関連などは興味が尽きないが、なにせ現在は材料が乏しく、後は現地に行くくらいしか手がない。おぼろげながら、「京極から浅井にいたり、物頭をしていた」という浅井の線では、尾張苅安賀城にいた尾張浅井氏は近江浅井氏の分流といわれ、中山氏はその尾張浅井氏から何かの事情で離れ、桶狭間に住んだということも考えられる。それは南朝云々ということではなく、別の御家の事情であったかもしれない。

また、かつて大野の一部に属した草木において、曹洞宗長松山正盛院を開いた栄信正盛尼は、水野忠政の娘で、於大の方の姉妹であるが、その正盛院の開山は快翁龍喜禅師で、禅師は水野忠政の家臣中山又助の次男だったという。この快翁龍喜禅師も、岩滑の中山氏の一族だったらしい。禅師は宝飯郡八幡村(現豊川市八幡)の西明寺実田以転和尚の法灯を継ぎ、師をたすけて曹源寺草創に参画し、その二世住職となった後、天文9年(1540)に西明寺四世住職となり、天文13年(1544)に正盛院の開山に招請されている。禅師の生年は分からないが、少なくとも水野忠政の時代には、中山氏は水野氏配下であったと思われる。晩年快翁龍喜禅師は、請われて今川義元以下桶狭間合戦で戦死した今川将士の引導供養の大導師をつとめたが、祖先が住んだ桶狭間での戦死者の供養とは如何なる偶然か。

<中山氏と親交のあったという岩滑の新美南吉生家>

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それはともかく、中山氏は勝時の代に、岩滑城主となり、水野忠政の娘婿として、また徳川家康の義理の叔父として、大いに活躍した。寛政重修諸家譜第七百五十二、七百五十三によれば、「●勝時  五郎左衛門 民部大輔」は、

「水野右衛門大夫忠政及び下野守信元に属し、のち織田右府(信長)につかふ。永禄三年東照宮尾張国に御出馬のとき、同国智多郡柳辺にをいてまみえたてまつり、火縄百筋を献ず。このとき兼貞の薙刀をたまふ。某年死す。法名宗也。高野山に葬る。妻は右衛門大夫忠政が女」

その子のうち、長男五郎左衛門(光勝か)は徳川家康に仕え、水野忠重に附属せられたというが、若くしてなくなった(その子が常滑水野氏を継いだ保雅であり、血脈は連綿として続く)。光勝と呼ばれる五郎左衛門の養子、中山重盛は水野勝成に仕え、勝成が福山に転封の後も随い、福山水野家の家老職をつとめた。この家が、本来の中山氏の嫡流である。

中山勝時の事実上の後継は「●勝政 猪右衛門 母は忠政が女」で、彼と弟「勝尚 中山五平次愛勝が祖 五平次」の子孫が徳川将軍家の旗本となった。すなわち、勝政は「織田信雄につかへ、天正十八年十月めされて東照宮(従兄弟にあたる徳川家康)につかへたてまつり、上総国望陀郡のうちにをいて采地五百石をたまひ、のち大番をつとむ。慶長七年伝通院御方(於大の方)逝したまふのとき、御ゆかりあるをもって、御遺物として御茶入及び唐物箔蒔絵の盆をたまふ。九年より台徳院(徳川秀忠)につかへたてまつる。十八年三月十八日死す。年六十九。法名浄円。葬地勝時におなじ(高野山)。妻は荒川左衛門大夫某が女」と記されいる。

一方、勝尚については、「勝尚 五平次 中山民部大輔勝時が三男 母は水野右衛門大夫忠政が女」として「織田信雄につかへ、天正十八年十月めされて東照宮(従兄弟にあたる徳川家康)に仕へたてまつり、上総国望陀郡のうちにをいて采地五百石をたまひ、其後台徳院(徳川秀忠)に奉仕し大番をつとめ、後組頭にすすむ。慶長七年四月四日死す。年四十九。法名道荷。」となっている。兄弟の事績が殆ど同じ、領地の場所も石高も同じであるが、同時に家康に召抱えられ、兄弟仲良く分けてと領地も与えられたのだろうか。ただ、弟の方が先になくなったことなどは分かる。

<江戸城の桔梗堀>

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前述のように、勝政の系統が主流となり、連綿と旗本の家督を継いでいっている。一方、勝尚の系統も、勝信、勝阜と続き、特に勝阜という人が優秀だったのか、御徒頭、御先鉄砲頭などをつとめ、上野国邑楽、下野国梁田、武蔵埼玉の采地加増あり、千三百石となり、少なくとも天明二年に家督相続した愛勝(采地千三百石)という人の代まで旗本であり続けた。尾張中山氏は、この勝尚の子勝秀の娘が尾張徳川家家臣である安井長高に嫁し、その子長清が母方の姓を名乗って中山瀬左衛門と称したことに始まるというが、どういうわけか勝秀という名は『寛政重修諸家譜』には見当たらない。中山文夫氏調べの系図では、勝信の弟となっている。

異色なのは、勝時の末子長円で、野間大坊大御堂寺の住職となり、後に水野姓になっている。

一方、主流となった勝政の子孫であるが、長子である忠光(茂左衛門)は別家を立てている。しかし、その子孫も旗本である(後述)。

忠光の弟、勝光は大坂陣で戦死、次の重時が家を継いだ。「●重時 猪右衛門 母は左衛門大夫某が女」は、「元禄(文禄か)四年より東照宮(家康)に仕へたてまつり、のち父勝政が遺跡を継。其後大坂の御弓奉行をつとむ。寛永十五年正月九日大坂にをいて死す。年六十。法名道愛。彼地の大蓮寺に葬る。妻は堤氏の女」とある。さらに重時の弟政長は別家をたてるが、子の勝之の代で絶家、末弟忠直は徳川秀忠に仕え、下総香取郡で四百石を領し、天明六年に相続した勝直まですくなくとも続いている。重時の後は幸時が継いだが、この人は御書院番をつとめ、七十余まで生きたが、長年の精勤に対し黄金二枚を賜った。幸時は元禄四年になくなり、西久保天徳寺に葬られた。のち代々の葬地が天徳寺となる。幸時の弟時定は別家をたてた。また幸時の子時長も御書院番であったが、三百石をとりながら父より先になくなっている。その後の政時は二十四歳でなくなり、末期養子の時之が元禄四年に継ぐが、この人に認められたのは、時長-政時と受け継がれた三百石のみで、幸時の五百石は幕府へ収納とあいなった。時之も子がなく、時之が末期養子となったが、この人は御書院番となりながら行状に問題があったらしく、改易となった。

幸時の弟時定は、「寛文二年十月九日めされて、小十人に列し、」家綱のもとで御納戸番などをつとめた。その子、時春は優秀だったようで、御納戸番から御腰物奉行、御目付を歴任、五百石となり、播磨国のうちで五百石加増、勘定奉行となり、播磨のうちをあらため、上総国埴生市原両郡で千石加増され、千五百石となり、従五位下出雲守となった。この人は、相模などの川普請(治水事業)でも功績があった。その後、豊時、時富と家督は移り、時庸(ときつね)は大坂町奉行をつとめたが、新規開墾の租税を私した嫌疑をかけられ閉門となり、後許されたが上総の采地のうち五百石を削られた。その後、時寿、時章、時倫と相続、時倫は千石、御書院番に列した。

<徳川将軍家の菩提寺:増上寺>

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<増上寺にある徳川家廟所>

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では、勝政の長男である茂左衛門忠光の系統はどうか。「●忠光 茂左衛門 中山猪右衛門勝政が長男。母は荒川左衛門大夫某が女」で「水野惣兵衛忠重に仕へ、のち土方勘兵衛雄久に属し、天正十八年小田原の役に戦功ありしかば豊臣太閤より時服及び銀銭をたまふ。十月めされて東照宮(家康)に拝謁し、御家人に列し大番をつとむ。十九年七月上総国望陀周准二郡のうちにをいて采地五百石をたまふ。慶長五年関原御陣に供奉し、六年七月十四日死す。年三十六。法名清玉。高野山に葬る。」とあり、歴戦の勇者であったらしい。しかし、なぜ長男なのに別家をたてたのか。江戸時代の初め頃まではよくあった話で、二代将軍徳川秀忠も三男であったが、兄結城秀康存命であったにもかかわらず、家康の跡を継いだ。なお、文中御家人とあるが、旗本の意であろう。

忠光の子は忠勝、この人も大坂冬、夏の陣に参じ、大和国のうちで二百石加増となり、寛永元年にはその地を常陸国新治郡筑波郡にうつされ、寛永十年には筑波でさらに二百石加増となった。寛永十六年には竹橋門普請の奉行をし、慶安元年には家光の日光参詣にしたがっている。その忠勝は「万治二年十一月四日死す。法名浄林。西久保の天徳寺に葬る。後代々葬地とす。妻は荒木十左衛門元政が女」とあり、九百石の大身となり、その人の代から天徳寺が菩提寺になっているのが分かる。その後、この系統は、勝久、勝尋(かつひろ)と続くが、(江戸城の)「隍塁」や飯田町の普請を行い、御徒頭、御先鉄砲頭をつとめた勝尋は、弟久寛に二百石を分け与えている。勝尋のあとは久敬(後書院番組頭)、勝彭(かつちか:御小姓番士、御小納戸)、勝直(御小納戸)と続き、そのあとの勝高が夭折し、末期養子で入ったのは「●勝正 藤七郎 肥後守 信濃守 従五位下 実は中山大隈守時寿が三男。母は某氏。勝高が終にのぞみて養子となる」である。この人は安永8年5月に後継ぎになっているが、御小納戸から御小姓となり、将軍家斉親筆の書をもらったり、鷹狩ではいられた鳥をもらうなど、覚えめでたかったようである。その子では早世した者を除くと、幼名太郎吉、虎吉、留吉という男子がいたようだが、その後は知らない。

その他、勝政の五男である六郎右衛門忠直の系統もあり、忠直は徳川秀忠につかえ大坂の両陣に参じ、下総香取郡のうち四百石を知行されるなど、代々御天守番、大番を勤め、天明六年に相続した勝直まで続いている。ほかに、その系統から派生した家もあるが、長くなるので省略する。

                          <天徳寺門前の西之窪観音の碑>

Tentokujiちなみに、文中出てくる西久保の天徳寺とは、虎ノ門の愛宕山下の浄土宗の寺院で、松平家、大給家などの墓もある。芝には徳川将軍家の菩提寺である増上寺があり、虎ノ門あたりも浄土宗の寺が多い。しかし、なぜ尾張中山氏は日蓮宗で、旗本となり江戸に出てきた嫡流は浄土宗の寺を菩提寺にしたのであろうか。そこに、昔の武士の表と裏の二面性があるのだろうが、もし勝時が信仰していたらしい日蓮宗が、不受不施派か近いものなら、隠す必要があったであろう。中山勝時をつれて来たと『知多郡史』に出てくる日観は、身池対論で池上大坊本行寺を出た不受不施派の中妙院日観上人とは時代が合わないから別人だが、不受不施派は江戸時代も弾圧されたからである。尾張なら日蓮宗に対する風当たりは江戸ほどでなく、尾張中山氏は日蓮宗を通せたということだろうか。江戸で将軍のそばに仕える旗本としては、徳川家と同じ浄土宗であれば問題なく、中山氏の嫡流とその分かれの人々は、江戸に生活の基盤を作ってからは天徳寺を菩提寺にしたのかもしれない。

<増上寺の扁額>

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(注)天徳寺は、小生が統合プロジェクトで深夜残業あるいは徹夜のときにとまっていたホテルのすぐ近くでした。中山家の墓も拝見しましたが、他家のそれも比較的新しい墓はどうしても撮影することができませんでした(天徳寺の写真は撮りましたが)。しかし、字ばかりでは何なので、増上寺の写真を入れています。

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2006.05.14

徳川家康と知多半島(その15:岩滑の中山氏)

徳川家康の母方の姻戚(義理の叔父)である岩滑城主中山勝時について、天文12年(1543)水野信元が宮津城の新海淳尚を攻めて、これを下すと、新海氏の出城で、榊原主殿が城主をしていた岩滑城を奪い、配下の中山勝時を城主としたことは前に述べたとおりである。中山勝時は、元は桶狭間(洞迫:くけはざま)に居た武士で、水野氏の配下になったという。しかし、それ以前がよく分からない。

中山勝時の子孫は、江戸時代には旗本になっていたから、幕府に系図を提出していた。寛政重修諸家譜第七百五十二、七百五十三に、その系譜がのっているので、参考までに抜粋すると以下のようになる。

「藤原氏 良門流

 中山 平十郎時幸がとき、罪ありて家たゆ。勝時は中山中納言顕時が後裔にして、刑部少輔重時が男なり。

●勝時

  五郎左衛門 民部大輔

 水野右衛門大夫忠政及び下野守信元に属し、のち織田右府(信長)につかふ。永禄三年東照宮尾張国に御出馬のとき、同国智多郡柳辺にをいてまみえたてまつり、火縄百筋を献ず。このとき兼貞の薙刀をたまふ。某年死す。法名宗也。高野山に葬る。妻は右衛門大夫忠政が女」とあり、その子として、「某 五郎左衛門」、「●勝政 猪右衛門 母は忠政が女」、「勝尚 中山五平次愛勝が祖 五平次」、「盛信 源右衛門」、「長円 権大僧都」とある。勝政は織田信雄につかえ、後に従兄弟にあたる徳川家康につかえて、伝通院於大の方が逝去したとき、所縁があるために、お茶入れ、唐物箔蒔絵の盆を授かっている。この勝政や勝尚の子孫が旗本として連綿と続くことになる。盛信の子孫は御家人になり、長円は野間の大御堂寺大坊の住職となった。長円の系統は、後に姓を改め、水野姓となる。勿論、勝時以降の人名や事績は正しく記載しているのであろうが、先祖の「罪ありて家たゆ」云々は、「故あって姓を改め」「故あって下向し」と同じように、一見すると系図を創作する際の常套文句のように思われ、中山中納言顕時の後裔というのも、通字の「時」が偶然一致したための付会であろう。ただし、後述するように「罪ありて家たゆ」は、なかなか深い意味があるようである。

<甲城山常福院>

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「尾陽雑記原本中山系抄出」という中山家に伝わる文書では、

「岩鍋 知多郡 一本矢奈部 一本屋鍋 又柳部とも有(正字岩滑也 一説正字谷滑なるへしと云如何、常滑に近ゆえか) (小略)

中山刑部大輔勝時 元五郎左衛門 紋三階菱

兼家(摂政)-道兼(関白)-兼隆(西番)-兼房(右少将 延久死)-兼仲(左少将 応徳死)-宗綱(八田下野守従五下 実宇都宮宗円子)-宗房(備後守)-宗隆(蔵人 伊勢守)-宗基(蔵人 安芸守)-基光(蔵人 尾張守)-忠光(伊賀守 雑色)-光経(刑部大夫 従四下)-光氏(上総介左将監 早生)-光種(刑部少 出雲守 左将監 号蓮光)-光能(中山五郎左衛門 太平記建武比)・・・(浅井記 江州ニ中山五郎左衛門)・・・勝時(中山五郎左衛門 刑部大輔 一本民部大輔 天正十壬午年六月ニ日於二条信長一所討死云々) (以下略)」

中山光能は太平記に出てくる人で五郎左衛門といい、その先代に勝時と同じ刑部大夫などと名乗った人がいたため、系図を接合したものと思われる。江州の人中山五郎左衛門は「淡海温古録」に「中山五郎左衛門は京極家より浅井に至り物頭なり」としているそうである(名古屋中山文夫氏調査)が、その江州の人中山五郎左衛門の前後の数代が不明なのは、不自然である。江州の人中山五郎左衛門は、近江国八幡中山村の出身らしいが、その地(現長浜市八幡中山町)には今でも中山姓が多いという。その子孫がいかなる理由で、桶狭間にいたのであろうか。それについては、中山氏を含め、梶野氏、青山氏といった南朝の落人が、1340年代(ちょうど後醍醐天皇がなくなり、南朝が衰微していった頃)桶狭間に隠れ住み、開拓して桶狭間村を開いたという伝承が、桶狭間の神明社などに残っている(「緑区ルネッサンスフォーラム会報」2006年3月号、桶狭間小学校HPなどによる)。その落人のうち、中山氏は武家として存続することを願い、その地に影響を持ち出した水野氏に接近し、配下となったものであるという。また、日観というのは、下総の中山から流れてきた日蓮宗の僧で、桶狭間に法華寺というべき草庵をたて、そのため南朝の落人も日蓮宗に帰依したといわれている。

「知多郡史」では、日観という僧が下総中山の法華寺(法華経寺のことか)からこの地に伴ってきたとしている。下総国八幡庄谷中郷中山の中山法華経寺は、元は法華寺という富木常忍が開いた寺と本妙寺という大田乗明が開いた寺が、一つの寺になったものである。富木常忍も大田乗明も、日蓮から直に教えをうけた弟子であり、鎌倉時代当時ではまれな教養をもった武士であった。小生、恥ずかしながら、その中山を名字の地とする武士がいたとは知らなかった。しかし、少なくとも、以下のような人物は存在する。

<中山法華経寺の五重塔>

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千葉氏の重臣原氏の一族で、有名な享徳の乱(房総では千葉宗家を庶家馬加氏が滅ぼした)の際の立役者、原胤房の子で原出雲守胤宣(たねよし)という人物がおり、その人が今の中山法華経寺のある八幡庄中山を根拠として、中山八郎太郎と名乗っていた。原出雲守胤宣は「中山殿」と呼ばれていたという。しかし、原胤宣は、中山勝時とほぼ同時期の戦国時代の人のため、岩滑城によった中山氏と関係あるとは思えない。もう一つは、三善姓の中山氏で、中山民部少輔康連の子が大田五郎左衛門乗明で、乗明は本妙寺の開基であるというもの。これが本当なら、あの大田乗明の系統が、中山姓に復し、その子孫が尾張に来たということになるが、そうそうビッグネームがつながることもないだろう。

要は、「知多郡史」の記事は、「下総の中山から来た日観という僧、あるいはその後継者が、桶狭間にいた中山氏(桶狭間で日蓮宗に帰依した)を岩滑に連れてきた」というのが、混乱して、「日観が中山の法華寺から中山氏を連れてきた」となったものと思われる。

実は、先日ヘロン氏と岩滑城の跡地である甲城山常福院を訪ねた際、たまたま法要のために出てこられた寺の方に、中山氏の墓についてうかがったところ、中山氏は日蓮宗で、西山浄土宗の常福院の檀家ではないという。これは、意外であり、半田市がかけた看板にも、「常福院は中山氏の菩提寺」とあるのに、なぜ?という感があったが、前述の「知多郡史」の明らかに日蓮宗の僧である、日観が連れてきた云々という話は、案外真実を含んでいるのかもしれない。桶狭間にいた南朝の落人が、水野氏の配下になり、たまたまその場所で親しくしていた日蓮宗の僧の案内で、岩滑に来た、そして岩滑の城主におさまったと考えれば、系図の前段にあった「罪ありて家たゆ」というのが、南朝について落人となり、足利幕府から追われる身になった、そして以前の系図や家の証明となるものは焼き捨てたかして、なくしてしまった、あるいは家名が絶えたのも同然になったということを意味しているのであろう。

<岩滑の八幡神社>

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甲城山常福院の東にある八幡神社も、もともとは神明社であったものが、中山氏が八幡神社にかえたのだという。そういえば、社殿が大きな八幡社に小さな神明社が附属する、特異な形になっており、横からみると狛犬が四匹いる形になっている。この八幡神社の祭神は八幡神であるから、中山氏には八幡信仰があったのであろう。そうすると、近江の八幡中山の出身という線も十分ありうるし、下総中山の近くには葛飾八幡社もあり、法華寺の開基富木常忍は 葛飾八幡の別宮若宮八幡の別当であったりして、両者には関係があったと思われるので、日観を通じて中山氏もその影響を受けたかとも思える。

いづれにせよ、岩滑の中山氏は桶狭間合戦後、岡崎を目指して強行軍であった家康を、岩滑で休憩させ、もてなしたことであろう。また、天正10年(1582)の本能寺の変後の危機については、伊賀越えの後、伊勢の白子浜から海路常滑に上陸した家康一行に対し、中山勝時の子、勝尚が家臣25騎を率いて駆けつけている。その中山勝尚が家康の元に馳せ参じた時には、すでに父勝時は二条城で戦死していた。そのように、徳川家康の危難を中山親子は助け、また血縁もあった中山氏の子孫は、江戸期以降も旗本などとして存続していく。

また、中山勝尚の子勝秀の娘が尾張徳川家家臣である安井長高に嫁し、その子長清が母方の姓を名乗って中山瀬左衛門と称したことに始まる尾張中山氏は、代々御馬廻役などを務め、幕末の頃の勝重は、尾張藩で武術師範をつとめた。この系統は、明治維新の後、岩滑に移住し、家の近かった新美南吉とは深い交流があったという。

<岩滑の北を流れる矢勝川>

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2006.04.25

徳川家康と知多半島(番外:緒川の於大まつり)

毎年、4月下旬になると、知多半島の付け根にあたる知多郡東浦町緒川では、町をあげたイベントである於大まつりが行われる。スタンプラリーや於大公園ステージでの各種イベントなどあるが、メインは、中央図書館から明徳寺川の左岸を於大公園ステージまで歩いていく、於大行列である。その於大まつりは、今年は4月22日(土)に行われた。

<ウォークラリーの宣伝の甲冑姿(JR緒川駅)>

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ウォークラリーの宣伝を駅でしていた甲冑姿の人に頼んで写真を撮らせてもらったが、兜の前立てがなぜか織田家の紋章になっていた。うーん、ここは水野家のお膝元なのに、一足飛びに織田?という疑問もあったが、その人に行列の行われる明徳寺川を教えてもらい、小生は素直に街中へ。

以前行った地蔵院の周囲にも、人だかりが。見ると菓子屋でお土産のお菓子に群がっている人たちであった。

<緒川の地蔵院付近>

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そうこうするうち、明徳寺川へ。丸いドームのような建物があったが、図書館とのことである。やがて行列が始まった。

<於大行列~図書館付近から行列がはじまった>

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川の両岸には、八重桜の花が咲いていた。行列の先頭はどこかの学校のバンドで、於大姫たちの直前には踊りの○○連の人々が踊っていた。

<先頭にはブラスバンドや踊りの何とか連が>

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<水野忠政が先達で進む>

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<籠にのった於大姫>

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<手を振る於大姫>

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<於大姫は花束を手に>

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<一体誰だろう? 水野忠政の前を歩く人>

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<於大姫もご苦労さん>

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ここで登場する於大の方は刈谷城に移る前の緒川にいたころの於大の方なので、6歳までの姫御前となり、その「於大姫」役として地元の6歳以下の女の子が抽選で選出される。その他、腰元役も20名抽選で選ばれる。今年は82名の応募があったとのことであるから、約4分の一の確率である。於大姫の籠の周りには、常にカメラ持参の人がついていてちょっと邪魔。小生は川の対岸から写真をとっていたのだが、肝心な時にカメラマン?が邪魔で写真をとるのも一苦労。なお、行列には女の子のお母さんと思しき女性が付き添っていたが、2年前の東浦町発行の於大まつりの資料には、皆単独で歩いている写真が載っていた。つまり、昨今の連れ去りなどの事件から、警戒を厳重にしているということだろうか。まったく物騒な世の中になったものである。

その他、父君である水野忠政に扮した人や水野信元役(これも少年である)、その他水野一族に扮した人々、さらには縁者として松平広忠、徳川家康も登場する。徳川家康は、当然ながら於大の方が緒川から刈谷に移った当時は、まだ生まれておらず、また今回の行列に登場した家康に扮した人は、どう見ても年配の方なので、時代が合わないところもあるが、これはご愛嬌であろう。小生の近くで見ていた人が知り合いらしく、「徳川家康」さんは挨拶していたが、なんとフレンドリーな神君家康公であろう。

<行列の後方には水野一族および縁故の武者が続く>

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緒川については、以前書いたが、今でも武家屋敷の趣きのある家があったり、黒い木壁の商家などが細い路地に沿って建ち並んでいて、古い日本へタイムスリップしたような情緒がある。また、緒川には於大公園に於大の道、さらには於大クリニック(こちらは阿久比にもあり、於大の方由緒の場所にあるようだが、設備も整った病院らしい)まで存在する。一方では郊外型の大きなスーパーもあるが、中世からの歴史を感じさせる古い町並みが緒川には残っている。

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2006.04.19

徳川家康と知多半島(その14:常滑の総心尼)

本能寺の変の後、三河に生還した徳川家康は、織田信雄とともに、小牧長久手の戦いで、明智光秀を討伐した豊臣秀吉と対決する。そして家康は豊臣秀吉の天下を受け入れ、長い我慢の時を過ごした後に江戸幕府を開くことになる。

本能寺の変で明智光秀に味方したために、水野監物が城主の座を追われた常滑城は、織田信雄の配下となり、信雄の家老で星崎城主である岡田重孝の家臣が守っていた。しかし、岡田重孝が信雄に斬られた後、岡田の手のものが叛乱を起こした。ちなみに、信雄が岡田重孝を斬った刀は「岡田切」と呼ばれ、現在国宝に指定されている銘吉房の名刀である。

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この叛乱を鎮圧したのは、家康の家臣となっていた水野忠重、勝成親子であった。家康はこの緒川・常滑水野氏一統を自分の家臣団として温存し、彼らは小牧長久手の戦いに参戦している。水野監物の子新七も同様であったが、戦死した。

常滑水野氏の三代城主であった水野監物守隆は、織田信長配下で数々の武功をたて、伊勢長嶋の合戦では水軍を率い軍船安宅船を使った戦いを展開したりしたが、和歌や茶道など風雅の道にも通じた教養人でもあった。その点、明智光秀とも共通するところがある。その水野監物守隆が、なぜ本能寺の変で明智方についたのかは不明である。その時、監物も京にいたらしいから、光秀やその周辺にいた公家、文化人との親交によって、判断を誤ったのかもしれない。水野監物は、本能寺の変後は、京で閑居して亡くなっている。一方、水野監物の妻は、緒川水野氏の忠政、または信元の娘というが、年代からみて信元の娘といわれており、信元の娘であれば於大の方の姪、家康のいとこにあたる。本能寺の変後、水野監物が京で閑居してからは、監物の妻は常滑に残り、城下の庵で家康から二十人扶持を貰って生活していた。これも、家康ならではの温情によるものであろう。

しかし、新七が小牧長久手の戦いで討死、さらに監物が慶長3年(1598)に亡くなると、監物の妻は出家して尼となり、総心と号した。総心尼は、岩滑城主であった中山刑部大輔勝時(その妻は水野忠政の娘で於大の方の妹)の長男中山五郎左衛門某(光勝というらしい、またその妻は水野監物室総心尼の妹)の子、つまり総心尼の甥を養子として迎え、その子は水野新七郎保雅と名乗った*。総心尼自身は熱田須賀町に移住し、「常滑殿」と呼ばれていたが、元和4年(1618)8月26日に熱田でなくなった。*2006.04.20修正
総心尼は生前寺を創建することを望んでおり、その願いは家康の子で、尾張徳川家の始祖となった徳川義直によって叶えられた。すなわち、元和元年(1615)、常滑の総心尼が住んでいた場所に、総心尼を開基とした禅寺を創建、天外和尚を招いて開山とさせた。それが平田山総心寺である。これは常滑の「前田」あたりの町中にあったようである。その後地震で壊れた総心寺は、宝永5年(1708)4月「社辺」(こそべ)に移され、山号も万年山と変わっているが、総心尼を始め、その子孫の墓が残されている。なお、この寺は、常滑焼の窯とも関係していた。

<現在の総心寺の入口~西側に窯がある>

Sousinji

<総心寺の門>

Sousinteramon

徳川義直は、総心尼の死後、総心尼が念願していたように、元和7年(1621)、水野新七郎保雅を尾張徳川家の家臣に取り立て、寛永16年(1639)、総心寺には御黒印寺領十一石を与えた。
総心尼の養子水野新七郎保雅の家系は、連綿として続き、保雅から4代目八郎右衛門明雅、5代目新七雅禮の父子は、延享4年(1747)7月に総心尼の墓を再建している。その墓碑銘は以下の通りである。

<五輪塔形式の総心尼の墓>

Soushinhaka

(正面)
元和四戌午

向陽院花影總心大姉

八月廿六日

(右側面から裏面)
總心大姉者水野右衛門大夫源忠政之女水野監物源直盛之妻而直盛則尾陽知多郡常滑之城主也
其墓碣散亡而不全明雅雅禮恐先瘞之不明於後来補其不足以接続之万年山總心寺五世不説和尚現住之時也

延享四年丁卯七月

直盛四世裔 水野八郎右衛門
直盛五世裔 水野新七

(書き下し文)
「總心大姉は水野右衛門大夫源忠政の娘にして、水野監物源直盛の妻、直盛はすなわち尾張国知多郡常滑の城主なり。
その墓碣(*注:墓碑のこと)、散り亡せて全からず、明雅、雅禮、先瘞の不明を恐れ、後に来たりてその足らざるを補い、以てこれを接続す。
万年山總心寺五世、不説和尚現住の時なり。」

<墓碑裏面>

Bomei

総心尼の墓碑以外にも、水野一族の墓が、総心尼の墓碑を中心に集められて、墓地の一隅にあり、花が供えられていた。総心尼の願いは家康とその子義直によって叶えられ、家名は存続し、代々の子孫も残ったのである。

<常滑の海>

Tokonameumi

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2006.03.18

徳川家康と知多半島(その13:半田、阿久比の関連史跡余話)

以前述べたように、成岩の天龍山常楽寺は徳川家康が生涯の二度の危機に直面し、すなわち桶狭間合戦後と本能寺の変後という情勢不安定な状況において、一時逗留した場所であり、その常楽寺の第八世典空顕朗上人は、家康の母方の従兄弟にあたる。常楽寺は、かなり大きな寺であったようで、江戸時代には寺領50石の朱印状を受け、尾張徳川家に庇護された。大正13年の火災で諸堂焼失し、後に復興されたというが、現在本堂、大師堂、毘沙門堂のほか、四つの塔頭、すなわち、超世院、遣浄院、真如院、来迎院がある。常楽寺は、西山浄土宗の寺であるが、文明16年(1484)に空観栄覚上人によって改宗されるまでは天台宗の仏性寺という寺で、観音堂があった。

<常楽寺の本堂>

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<塔頭のひとつ超世院~赤い門が美しい>

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<常楽寺の大師堂>

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前出の典空顕朗上人は、慶長元年(1596)、常楽寺の前身である天台宗仏性寺の観音堂を半田市有楽町二丁目の小高い丘に移した。それが鳳出(とりで)観音の始まりである。筆者の勤務先にも比較的近く、坂の途中に見える地蔵など見慣れた光景である。和尚に名前の由来を聞くと、よく読んでくださいとパンフレットをくれた。それによれば、その鳳出観音の名前は、元は常滑の時宗の僧侶であった榎本良圓が城主をしていた成岩城を攻略するために、天文年間に緒川水野氏の勢力が築いた成岩砦に由来する。つまり、砦のきずかれた場所が「とりで山」と呼ばれ、そこに観音堂が建ったため、「とりで観音」と呼ばれるようになった。緒川の水野氏は今川氏や織田氏の圧力を東西から受けながらも、知多半島を手中にいれて、その勢力を確立しようとしていた。榎本了圓の成岩城は、成岩砦の南400mほどの地点にある細長い台地にあり、成岩城と成岩砦は神戸川を挟んで対峙していたことになる。その成岩城は、榎本了圓ら念仏を唱えた成岩衆がよく守ったが、間者に火をかけられたうえに、西側の紺屋が淵から一斉攻撃を受け、天文12年(1543)家康の伯父にあたる水野信元に攻め落とされた。

鳳出観音の寺域をみても、成岩砦の遺構は残っていないが、地形的には砦があってもおかしくない場所である。また、鳳出観音の境内だけでは、砦としても狭いように思われ、道を挟んで隣接する成岩神社にも城域が及んでいたのではないかと推測する。

<とりで観音>

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<成岩城址>

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水野氏の知多半島進攻は、単に城攻めを行って、佐治氏、戸田氏といった別の有力氏族や成岩城の榎本良圓のような土着武士などの勢力を除いていっただけでなく、土地の豪族と縁組をしたり、寺に縁故の人間を僧として送り込むといった多面的な方法を使っていたようである。成岩の常楽寺に家康の母於大の姉妹の子である典空顕朗上人を住職としたのも、一つの例である。於大自身も、大野の佐治氏と姻戚となっていた阿久比坂部の久松氏を水野氏の勢力に引き込むための政略結婚で、久松俊勝に再嫁させられた。

現在阿久比町の一部になっている草木も、以前は大野方に近く、古くは室町時代には一色氏の出城が築かれた。これは、竹林(ちくりん)城と呼ばれ、その後、一色氏の勢力が内紛などで衰退し、知多から退いた後も、佐治氏が取ってかわり、草木にも進出していたようである。すなわち、竹林城は、応仁の乱以降は佐治氏が拠点とした可能性がある。一方、戦国期には水野信元が佐治氏の勢力に対抗し、大野口のおさえとして、付近に竹之腰城を築き、竹内弥四郎に守らせたという。この辺りは、戦国期には微妙な勢力構図となっていたようである。それだけでなく、天文13年(1544)に水野忠政の女栄信正盛尼(阿辨の方)が草木に寺を創建し、正盛尼の法号から長松山正盛院となった。正盛尼は於大の方の姉妹であるが、張州府志によれば元亀元年(1570)になくなっている。曹洞宗長松山正盛院の開山は快翁龍喜禅師であり、快翁龍喜禅師は水野忠政の家臣中山又助の次男であったという。快翁龍喜禅師は乾坤院芝岡和尚について得度し、三河宝飯郡八幡村(現豊川市八幡)の西明寺実田以転和尚の法灯を継ぎ、師をたすけて曹源寺草創に参画し、その二世住職となった。禅師は、さらに、天文9年(1540)に西明寺四世住職となった後、天文13年(1544)に水野忠政の女栄信正盛尼が草木に来て正盛院を開基した際、その開山に招請された。また、後に三度にわたって、緒川の乾坤院に輪着して、宗風を大いに振興したという。快翁龍喜禅師は、請われて今川義元以下桶狭間合戦で戦死した今川将士の引導供養の大導師をつとめるなど活躍し、刈谷の泉龍寺創建にも関わり、泉龍寺は水野勝成に随って大和郡山、備後福山に移ったが、その開基は水野氏の重臣中山将監で、禅師の親類であった。晩年、禅師は正盛院に閑居、永禄12年(1569)に89才の長い生涯を終えた。

<草木の正盛院>

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<正盛院の石仏群>

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*「快翁龍喜禅師」に関してWikipediaに投稿したのは、当ブログ作者mori-chanこと森知安です。

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2006.01.22

徳川家康と知多半島(その12:続々・柴船に乗った権現)

徳川家康という人は、何度も危機を乗り越えてきた人であり、この人ほど好運に恵まれた人も歴史上珍しいのかもしれない。幼少の頃、今川家の人質になり、桶狭間合戦も今川方として戦った。そこで今川方は敗れたが、家康は大高城から脱出し、三河岡崎に復帰している。三方ヶ原の戦いでも、武田信玄に完敗して、命からがら逃げ帰っている。本能寺の変でも、堺から伊賀越えをして、三河に無事に帰っている。幼少の時に、辛い人質生活を送ったが、今川義元の軍師であった雪斎禅師の薫陶を受けた家康は、武将として一流の人物となった。豊臣秀吉の風下に置かれ、関東に国替えになっても、海沿いの辺鄙な城下町であった江戸を整備し、ちゃっかり伝馬制など後北条氏の優れた制度を取り入れ、後北条氏旧臣を登用したりしている。禍を転じて福となすような人生で、いつも着実に自分の地盤を築いている。

前回まで、本能寺の変直後の三河帰還にあたって、伊勢白子から伊勢湾を渡った家康が知多半島に上陸したのは大野ではなく、常滑であると記した。しかし、大野に上陸したという説も根強い。なぜ、そのような説が出てきたのであろうか。それには、いくつか根拠がある。

<常滑の海~伊勢の白子を望む>

tokonameumi

実は、成岩の常楽寺の由緒に、以下の旧記があるという(「半田町史」より)。

「当山八世典空顕朗上人は、神君之御子従弟にて御父は吉良庄赤羽城主高橋弾正殿なり、御母は尾州緒川苅谷の城主水野右衛門大夫殿の御娘にて、即神君様の御母公伝通院様の御妹也、大野東龍寺住世洞山祖誕上人の弟也、右上人在住の頃天正十年午六月、神君様を信長公御招待有之御上洛之次、泉州堺之津御覧被為在、于時京都本能寺に於て信長公御生害有之、惟任日向守一戦之節堺津御立退、密かに伊賀越より東国へ御下向之節、従勢州四日市尾州常滑辺に御船を寄せ給ひ、東龍寺に御着、夫より三州へ御帰城の刻、東龍寺住祖誕上人供奉御案内にて成岩村へ御到着、常楽寺に於て御休み、夫より住持供奉にて成岩之浜より御船にて三州大浜へ渡御、其後天正十七年神君御上洛之時三州より成岩村へ渡御、常楽寺に於て御昼御膳所被仰付、猶思召を以て堂前に松二株御手植被為遊、天長地久を祝し給ふなり、(以下略) 寛永十四年丁丑三月 十四世弘空歴道記之」
すなわち、赤羽城主高橋弾正と家康の母於大の方の妹(水野忠政の娘)との子である典空顕朗上人が成岩常楽寺の住職をしていた天正10年(1582)6月に本能寺の変が起き、三河に帰還するため伊勢から船で常滑へ着いた家康は、大野東龍寺に立ち寄った後、住職祖誕上人の供で成岩へ到着、常楽寺で休息した後、その住職の供で成岩浜から船で三河大浜に渡ったということである。

同様の記述は、大久保彦左衛門が書いた「三河物語」などにあり、一旦家康たちは伊勢から常滑に着いたものの、常滑城主に疑色があるため、船を大野に廻して大野東龍寺を宿舎として使いを岡崎に発して、翌日成岩常楽寺にはいったという。常楽寺の由緒は寛永14年(1638)で三河物語は元和8年(1622)成立というから、常楽寺の由緒は三河物語の影響を受けているであろう。これらの説は、家康は一旦常滑に上陸したが、大野にまわって東龍寺に立ち寄り、大野から陸路で成岩まで行ったということである。時間的に余裕があり、大野が安全であるという確信があれば、考えられる。常滑城主水野監物が明智方になったとはいえ、大野が安全かといえば、家康との縁でいえば従弟の東龍寺洞山和尚がいる位で、大野を支配していた佐治氏と家康が格別の関係を持っていたわけではない(久松家とは姻戚ではあるが)。むしろ、動向のしれない他人の土地である。一刻も早く三河に帰りたい家康が、わざわざそのような遠回りをするだろうか。

<大野城址にある佐治神社~座像は四代佐治与九郎>

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ただでさえ、大野から成岩では約12kmの道のりであるが、常滑から成岩へは9km程度と、常滑から行ったほうが早いのである。常滑から大野も近いようで、6kmくらいある。やはり、家康は最短コースをとったのではないか。しかも、常滑から東へ足を踏み出せば、殆ど味方ばかりの土地なのである。岩滑の中山勝尚は、25騎を率いて、家康一行を出迎えている。常滑の人々も、道中の案内をした衣川八兵衛が一時自宅に家康をかくまったというのであるから、常滑水野氏の親戚である家康をかげながらバックアップしたのは十分考えられる。

<大野東龍寺、下は門前の由緒を示す看板>

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では、その当の東龍寺の記録はどうか。縁起には、以下のように書かれている。

「天正十壬午年六月二日家康様泉州堺の浦より伊賀路を経て御下向の刻勢州四日市の浦より渡海の御座船を当港に寄せられ、洞山上人は御従弟故御旅宿を当寺に占し玉ひ、三日御逗留御物語の節、信長公永楽四十貫文に准し四十石之御朱印可被下置之御契約有之、其時家康様軍用之金子上人を御頼被遊し時、上人は返答に拙寺所持は不仕候間当寺旦頭を頼申可と御請被成旦頭茶屋市左衛門に金子御備用被遊御喜悦浅からず、世静穏に及びなば速に返弁可被成由被仰聞当寺を御出足常滑村をさして御急ぎ此村より衣川八兵衛と申者御案内仕り、三河へ御渡り、(以下略) 宝暦六年子二月 知多郡大野村 東龍寺判 右之通相認御役所へ指出候者也 二十四代 林翁代」

この東龍寺縁起では、常福寺由緒や三河物語などとは逆に、大野へ上陸してから常滑に行ったとしている。書かれた時期も宝暦6年(1756)と、本能寺の変の174年後である。文中茶屋市左衛門とあるのは、大野の十王町にいた薬屋市左衛門という商人の誤記であるらしい。家康を支援していた茶屋四郎次郎と地元の薬屋市左衛門が混同されている可能性もあると思われ、正確性を欠いていよう。また、この話は前回述べた伊勢白子で家康が乗った船が角屋船であったのが間違いなければ、その船で大野に上陸したこと自体成り立たなくなる。

<大野城址のある青海山からみた伊勢湾>

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大野東龍寺の洞山祖誕上人が、実は天正10年(1582)6月時点では大野にいなかったという話もある。これは戦前の「常滑町史料」に出てくるが、洞山祖誕上人が家康を饗応したのは、大野の東龍寺ではなく、三河大浜上陸後、吉良(今の西尾市)に入り岡崎に赴く途中で、中島(岡崎市中島)の崇福寺に立ち寄った際、その住職であった洞山祖誕上人が歓待したというのである。その歓待に感激した家康が洞山和尚に対し、七十石与えたが、後に東龍寺に赴く際に三十石は後住に残し、自身は隠居料四十石を大野東龍寺にもたらしたのだという。そして、大野東龍寺は中島崇福寺の末寺にあたる。大野東龍寺の側も、嘉永年間に書かれた縁起では、洞山祖誕上人は天正10年(1582)6月時点で大野東龍寺におり、その後中島崇福寺に行ったとしており、どちらが真相とも良く分からない話であるが、江戸時代に本寺末寺の論争があったことは事実である。

要するに、本能寺の変から40年を経て書かれた三河物語などの記述があって、由緒書、縁起書の類が後年作られている。もはや、世の中で誰も家康に直接会った人もおらず、本能寺の変の頃には生まれてもいなかった時代に書かれたものの信頼性は、同時代に書かれたものの写本でもない限り低いであろう。

一方、常滑に上陸した地点の候補として、保示の正住院の裏というのがあり、その場合当然正住院が関わっていると思われるが、公式には正住院は何も言っていないようである。ただ、江戸時代に書かれた「尾張名所図会」では正住院に家康が来た旨の記述があるなど、一部にはそのように信じられていた。
正住院の裏には龍ヶ丘という小山のような場所がある。もしかしたら、そこから見張っていた人の視界のなかで小さな船の姿がだんだん大きくなって来て、やがて着岸した船から家康たちが降りてくる。そして浜には、それを出迎える正住院の僧や衣川八兵衛たちがいたという光景が、かつてあったのかもしれない。

<描かれた正住院~本堂の裏は海である>

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(参考文献)
・「半田町史」  愛知県知多郡半田町  1926
・「新編岡崎市史 古代・中世(史料編)」   岡崎市  1993
・「大野町史」   大野町      1931 

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2006.01.15

徳川家康と知多半島(その11:続・柴船に乗った権現)

前回、本能寺の変直後、滞在していた堺から本国三河への帰路、常滑に徳川家康が上陸したという伝承の一つとして、「柴船権現」の話を掲載した。しかし、これはやはり家康が常滑に上陸した、一つの傍証を見出す糸口になるものであった。

<柴船権現~三つ葉葵の紋所が提灯に>

shibahunegongen

その当時、西知多では一色氏以来の湊である大野と、常滑水野氏が開いた常滑の湊が、主な船着場のある上陸ポイントであった。小生、本当に家康は常滑に上陸したのだろうかという思いを胸に、ある朝、常滑の喫茶店スカイラークでコーヒーを飲んだ後、苅屋の海岸に降りてみた。苅屋の海岸には波打ち際に海草が打ち上げられ、波間に鳥が浮かんでいた。「おーい、家康はどこに上陸したのか」と海に聞いても、返ってくるのは波の音と鳥の鳴き声だけである。ふと、伊勢湾を越えるとしても、それほど大きな船ではなく、越えられるのではないか。また、そのような船であれば、浜に船を引き上げれば、湊に入る必要もないのではないかという考えが浮かんだ。要は、常滑の湊に入らず、別の場所から上がれば、いいのでは。あるいは、正式に湊に入っても、漁船か荷物を運搬する船であれば、たとえ常滑城の城兵が警戒していようと、彼らは軍船や得体の知れない海賊船などが入ってくるのを見張っているのである。柴船、つまり柴を積んだ船であれば、伊勢湾のすみからすみまで運航自由である。もっとも、だからといって、常滑に上陸した証明にはならないが、別段、大野湊に上陸する必要性がないとは言えるであろう。実際、昔の海岸線に相当する保示の正住院裏(現在駐車場になっている)から、家康が上陸したという伝承もある(もちろん保示の正住院裏は単なる浜であって、湊の設備はない)。

<保示の正住院裏の昔の海岸線>

shojyuinura

ところで、常滑に上陸した家康を出迎え、成岩まで送り届けたのは、常滑の衣川八兵衛だったと言われる。この名前、当ブログの「徳川家康と知多半島(その8:阿久比、そして再び岩滑)」の記事のなかで、岩滑と阿久比の境の矢勝川にかかっていた「藩費の橋」について書いたときに既出であるが、どうも「藩費の橋」は桶狭間合戦の後の逸話であるにも関わらず、本能寺の変後の伝承と混線して伝わっているようである。本来は「藩費の橋」の逸話で、阿久比から家康を送ったのは久松氏の家臣の誰かだったのだろうが、その人の名が伝わらず、衣川八兵衛に置き換わってしまったのであろう。

それはともかくとして、常滑の衣川八兵衛とはどんな人物かといえば、常滑の住人であるが、普通の農民や漁民ではなく、海運業を営む商人と地侍を兼ねたような人物だったらしい。大正時代に書かれた「常滑町史編纂資料」によれば、後に九鬼嘉隆に属し、関ヶ原の合戦で西軍についた宮崎久左衛門という水軍の武士の配下*であったが、常滑水野氏とも何らかの関係をもっていたようで、船江という船の繋留場の管理をまかされていた。(*後に衣川氏は徳川方の船手千賀志摩守に帰属) 衣川家の屋敷は、今の市場地区の一角で、満覚寺という浄土真宗の寺も元々衣川家の敷地であった土地の上に建てられたといい、柴船権現はその満覚寺のまさに隣にある。そして、柴船権現の御神体は、代々衣川家が守ってきた。この衣川八兵衛は、おそらく海運を通じて、伊勢湾を行き来し、あるいは東浦である知多半島東部の地理や情勢まで知っており、家康の案内人として最適であったのであろう。そして、その功績のため、家康の槍を拝領するとともに、上ノ山という、現在正法寺などがある高台の土地をもらった。また江戸時代、衣川家は代々常滑の庄屋をつとめた。衣川家の本家は東京に移住してしまったが、今でも衣川姓の人は常滑には多い。実は衣川家は小鈴谷(こすがや)の旧家である盛田家と姻戚関係で、盛田家に家康から拝領した槍を譲渡したらしい。その盛田家とは、ソニーの創業者で会長をしていた盛田昭夫氏の実家である。なんという偶然か、江戸幕府創設者のものが、現代の代表企業の創設者の家に渡るとは。

<正法寺近くにある常滑城址の碑>

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<正住院の山門>

shoujyuin

では、その衣川八兵衛はどんな実像をもった人物か、そして彼をこの家康三河帰還というプロジェクトに組み込んだのは誰かということであるが、以下のように考えられる。

つまり、衣川八兵衛はまだ中世的な要素をもった、武力をも行使する海運業者であり、彼がつながる伊勢の大海運業者の手配で、この家康三河帰還に一役買うにいたったのである。関連する話として、斉藤善之・東北学院大学経済学部助教授は、常滑の海運について、以下のように述べている。

「中世の常滑焼を運んだのはどのような人達だったのでしょうか。この点は興味深いけれども難しい問題です。中世史の永原慶二さんは、熊野の水軍勢力がそれにあたるのではと示唆されていました。当時、水軍は有事の姿であり、平時になれば彼らは商業や海運業などに従事したりしていました。中世では商人であっても武装して、自衛しなければ、商いや交易などとてもできませんでした。ですから商人も、支配者からみて味方側であれば水軍であり、敵側であれば海賊と呼ばれたりしました。(略)

中世の商人は、商人であると同時に、武士・海賊であり、宗教者であり、芸能者でもあるなど様々な顔をもっていました。中世では、資本を蓄え商品を輸送するためには、武力のほか、神仏の力、伝統の力などあらゆる力が必要とされたからです。熊野水軍もまた、熊野の御師との関係も指摘されています。戦国時代には、商人は戦国大名と結び、時には道がない所にも兵粮を運び込むなどといった輸送にも従事しました。ですから自ら船や馬をもち、道や橋を造ったりして商品を輸送するだけの力すら備えた者もおりました。流通インフラが未熟な段階・地域においても自力で輸送を実現する力をもつような存在が必要とされたわけです。もちろん輸送のコストは全体としてかなり高くなりますが、それでよかった時代だったわけです」(海からたどる「商い」の時代史 ~現代地域経済圏の礎をつくった近世海運企業家~ :「ミツカン水の文化センター」HPより)

われらが永原慶二先生が編集した「常滑焼と中世社会」でも、同様のことが述べられていたし、はからずも当ブログのなかの記事でも千葉氏の家臣で篠田大隈守という商人的な武士の話や小生のHP「古城の丘にたちて」の船橋湊や船橋城に関する話でも共通するものがある。

実際、常滑で宮崎氏が根拠としていたらしい阿野のすぐ南には、熊野という地名があり、これはもちろん熊野神社から来た地名であるが、それを勧請した人々は熊野御師であったろうし、かれらと熊野水軍が関わっていたことも事実だろう。そして常滑水野氏の三代当主水野監物守隆も、安宅船で船いくさを行っていた。また、水野水軍を形成していた西浦の宮崎氏、東浦の亀崎水軍稲生氏が戦時には軍船を操っていたことは言うまでもない。衣川八兵衛はといえば、船江の管理や海運を業とする一方、戦時には矢弾のなかを兵糧、物資の運搬をしていたのであろう。

<正法寺近くから見た伊勢湾>

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では、衣川八兵衛を、この「柴船権現」大脱出プロジェクトに引き込んだのは、誰か。それは伊勢大湊の角屋であると考える。角屋は、伊勢大湊の廻船業者で、海外と交易するほどの大規模な商売をしていた。天正10年(1582)の本能寺の変の際、たまたま堺に滞在していた家康は急遽、伊賀路を越えて帰国しようとしたが、土一揆に阻まれた。茶屋四郎次郎は家康に本能寺の変で信長が死んだことを急報し、伊賀越えにあたって土地の土豪らを懐柔するなどした。おそらくかねてじっこんの間柄である茶屋四郎次郎に依頼された、角屋七郎次郎が、家康の窮地を救い、柴船にかくまって、伊勢白子より尾張常滑まで家康を送り届けた。衣川八兵衛への連絡も、船便を使って事前に行い、衣川八兵衛は角屋の指示を受けた場所に待っていた。その功により、角屋は代々の将軍より諸国諸湊への出入りの諸役を免許される朱印状を下付された。 実際、角屋が徳川将軍家から特権を与えられていた証拠となる文書の一つ、年不明(近世前期)の5 月2 3 日付角屋七郎二郎・同八郎兵衛宛、同江由(3 代七郎次郎忠祐)書状が、名古屋大学神宮皇学館文庫所蔵「角屋家文書」のなかにある。柴船とはいえ、角屋の船である。いざという時のために、屈強の武士が乗り込んでいたであろう。

では、なぜ角屋の船を使ったから、着いたのが大野ではなく、常滑なのか。それは一言でいえば、角屋の船と大野船とではテリトリーが違うからである。大野船は元来一色氏の支配をうけ、一色氏退転後は佐治氏が支配しており、大野船を使ったなら、当然大野湊に着いたであろう。角屋の船は、伊勢湾でも南のほうを運航しており、大野船とは角逐していた。蓋し、角屋の船は、新興の常滑湊を使用し、常滑焼の交易などもおこなっていたのである。結局、角屋の船を使った以上、行き先は常滑で、三河まで最短コースを行くことにし、そうはいっても常滑水野氏の兵の動向を懸念して、柴船というステルス作戦をとったということであろう。

大野の東龍寺が家康をかくまったというのは、上記の角屋船の話がある以上、成り立たない話であるが、なぜそういう話が出てきたかといえば、一つには大野が天正12年(1584)と慶長5年(1600)に九鬼氏によって攻撃、放火・略奪され、多くの寺院が灰塵と化し、古文書の類が焼失してしまった、それ故後代からは真相が分からない話でも、誤伝がいつの間にか正当化される、また後付けで創作する余地があったということが考えられる。特に東龍寺は徳川家康とは従兄弟にあたる洞山和尚がいたことが、同じ家康の従兄弟典空顕朗上人がいた成岩の常楽寺の事績との混同を生んだと思われる。

大野の東龍寺以外に、大野の平野彦左衛門がかくまったという話があるが、これは平野家が大野谷の大庄屋で「源敬公」(尾張徳川家初代の徳川義直のこと)を何度も屋敷に泊めるなど、歴代の尾張徳川家当主の宿舎となっていたために、家康の三河帰還時の宿舎と混同されたものと思われる。大野の平野家とは、昔中島郡平野村に住して平野氏を名乗ったもので、天文年間に彦左衛門政寿が大野に移住、以後この地に居住し、政寿の子政啓、その子政薫は徳川家康に仕えたという。さらに、慶長12年(1608)に、東浦十二ヶ村の代官となり租税徴収にあたった。この家なら、家康が休息したとしてもおかしくない、ということもあったかもしれない。*2006.1.16追記

それでは、また。

(参考文献)

・「常滑町史編纂資料」  常滑町史編纂会  大正年間

・「大野町史」        大野町      1931 

・「常滑焼と中世社会」  永原慶二編  (小学館) 1995

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2006.01.07

徳川家康と知多半島(その10:柴船に乗った権現)

新年の初詣は、例によって鎌倉の鶴岡八幡宮に行った小生であるが、意外にも初詣客が少なかったのは寒さのせいであろうか。お札を貰ってくるシステムが最近変わり、以前祈祷は全て本殿に上って祝詞をよんでもらって時間がかかっていたのが、急ぐ場合は若宮で祈祷というスピードコースが新設されていた。もっと簡単なのは、年内に所定の振込み用紙で祈願内容を書いて振り込めば、お札が郵送されてくるというコースもある。

<鶴岡八幡宮の初詣風景~若宮付近から本殿を望む>

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一方、小生の地元船橋では、初詣で船橋大神宮に行く人は多いと思うが、年々船橋大神宮の混雑ぶりが目立っているようだ。かつては、初詣の混雑ぶりもそれほどではなく、その時期に大神宮の境内で神楽もやっていたし、どんど焼きではお札以外に焼き芋も焼いていた。実にのどかだったのだが、最近は初詣の頃は参道を人が埋め尽くし、古いお札を納める際には、ついでに処分しようと関係ないものが入っていないか厳しいチェックが入っている。

実はこの船橋にも、東照宮がある。かつての船橋御殿跡にたっている東照宮であるが、日本一小さいとのことである。しかし、実際はもっと小さい東照宮もあるそうなので、日本一小さい東照宮に限りなく近い東照宮とでもいうべきであろうか。

<船橋の東照宮>

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前置きはこれくらいにして、本題に入ろう。前回、「神君のご艱難」といわれた本能寺の変直後の「伊賀越え」の後、伊勢の白子浜から、海路どういうルートで家康は三河の大浜に行ったのかということで、常滑か大野に一旦上陸し、知多半島を陸路で横断して、成岩辺りから三河へ渡ったのではないか、と述べた。

その頃の常滑、大野の状況をみると、常滑は常滑城主である水野氏が支配していた地域であり、大野は大野城主であった佐治氏が支配していた。その常滑城主水野監物守隆は、本能寺の変当時京都にいて、なぜか明智光秀の側についてしまう。もともと、緒川・刈谷の水野氏から分家した家であり、織田信長配下であったにも関わらずである。水野監物守隆は茶の湯や和歌などをよくする文化人であり、明智光秀と惹きあうものがあったのかもしれないし、公家や文化人などとの京都での人脈で明智方に組することになったのかもしれない。

一方、大野の佐治氏は、元をただせば室町時代に大野を拠点に知多半島の特に西側を支配していた足利の一族である一色氏の被官で、一色氏が応仁の乱で勢力を失って退転したあと、その支配圏を取り込み、内海以南の南知多をめぐって、戸田氏との争いを繰り返していた。佐治氏は青海山の大野城を居城としており、大野の萬松山斉年寺は佐治氏の菩提寺である。大野城主佐治氏の初代は佐治駿河守宗貞、二代目が上野介為貞、三代目が対馬守信方、四代目が与九郎信時である。斉年寺は初代佐治宗貞の菩提を弔うために、二代為貞が享禄4年(1531)に創建したもので、曹洞宗の寺である。佐治氏と戸田氏の争いの間隙をついて、水野氏が常滑に台頭してきたために、知多半島の西側の大野と内海という南北に離れた場所に支配圏が分断されて勢力を衰退させた佐治氏は、結局織田信長の配下になって延命せざるを得なかった。大野城主佐治氏の三代目、四代目の名が信方、信時なのも、織田の支配下に入ったことを意味する。その佐治氏も、天正10年(1582)の本能寺の変後の混沌とした状況下に、織田信雄に従い、動乱の中に翻弄される*。 だが、その後の豊臣秀吉が天下をとるという情勢にあって没落し、天正12年(1584)には大野から去っている。*2006.1.22改

<大野城~郭の周囲に土塁が残る>

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<大野の斉年寺>

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前にも書いた通り、本能寺の変当時の常滑には於大の方の実家緒川・刈谷水野家の分流である、常滑水野氏の三代常滑城主水野監物守隆がいた。正確には、本能寺の変直後には水野守隆は京都にいたのだから、その時の常滑城には守隆の妻、水野信元の娘である於万の方(後の総心尼)や守隆の家臣たちがいたということになる。常滑城主初代水野忠綱は連歌のたしなみがあり、二代大和守監物丞も足利義輝から官位を授けられ、幕府の官職についており、飛鳥井雅綱、津田宗及と親交があった。弘治3年(1557)に京の山科言継は駿河に行った帰りに、三河大浜から海路で成岩に入り、陸路常滑城へ行って、この水野大和守監物丞に贈り物をした後、海路伊勢長太(今の鈴鹿市)へ渡り、京へ帰っている。この大和守監物丞の在世中の天文12年(1543)に水野忠政がなくなり、その子信元が継ぐと、緒川・刈谷水野氏はそれまでの今川寄りの姿勢を改め、織田方になった。これは忠政の代に知多半島北部から拡張しようとしたが、その北の織田氏は手強く、織田氏とは融和の路線に転換したのであろう。そして、常滑水野氏も三代監物守隆のころには、織田方であることを鮮明にする。すなわち、監物守隆は元亀元年(1570)の織田信長の浅井・朝倉攻めに参戦し、天正2年(1574)の長嶋一向一揆攻めでは安宅船で参戦するなど、織田方の武将として各地を転戦した。その合戦の合間に、天正6年(1578)3月には水野監物守隆は京で津田宗及の茶会に招かれ、翌年は自ら茶会を開催している。そして、天正9年の高天神城攻めや翌年の甲斐進攻にも加わっているなど、武人としての働きも行っている。

しかし、天正10年(1582)の本能寺の変では、水野監物守隆は明智方になり、そのため常滑城主の座を追われ、慶長3年(1598)4月になくなるまで、京で余生を連歌や茶の湯に興じて送ることになる。

ちなみに∞ヘロン氏のすすめもあり、先日常滑市民俗資料館へ常滑水野家文書の展示を見に行き、民俗資料館の方に写真撮影やHP掲載は問題ないか聞いたところ、「良いですよ」とのことであったので、いくつか展示物を紹介したい。その前に、その企画展についてであるが、新聞記事によれば、

「信長から常滑城主への書状10通 西春の末裔が 常滑市へ寄贈(読売新聞豊田支局)

 織田信長が、常滑城主の三代水野監物(けんもつ)にあてた書状10通が、水野家の末裔(まつえい)にあたる水野さと子さん(71)=西春町在住=から四百数十年ぶりに常滑市に寄贈された。徳川家康からの1通などとともに市は近く一般公開し、文化財に指定する。

 水野さんの夫、滋さんは、監物の死後、養子を迎えて再興された水野家14代目の当主。監物は、信長方の武将だったが、天正10年(1582年)の本能寺の変で明智光秀につき、常滑城を追われた。

 信長の書状はすべて黒印状の正本。多くは伊勢湾でとれた海産物などの進物に対する礼状だが、このうち1通には「3月8日」の日付とともに、住吉(大阪市)での普請に対してねぎらう言葉がある。本能寺の変の5年前、信長は権力基盤を強化するため、天正4~8年にかけて、石山本願寺攻めを行っており、この際、監物が陣地を築いたことをねぎらう書状とされている。

 これらの書状は、西春町文化財の指定を受けていたが、滋さんが今年3月に77歳で亡くなり、「監物ゆかりの常滑市で保管したほうが価値がある」とのさと子さんの意向で、町の指定を解除して寄贈された。書状のほか、水野家の家系図などもある。

 同市民俗資料館学芸員の中野晴久さんは「書状の内容は研究者に知られているが、その原本が寄贈されたことに大きな価値がある」と話している。(2005年11月27日  読売新聞)」と紹介されている。

常滑市民俗資料館のリーフレットでも、

「西春町の水野家は常滑城主水野監物の家を再興した家側になり、織田信長と徳川家康が水野監物に宛てた書状11通を保管してきました。緒川水野氏から枝分かれして常滑に城を作り初代水野監物が居城したのが15世紀の終わりごろでした。そして、信長や家康と交流していたのは3代目の水野監物です。3代監物は天正10年(1582)本能寺の変で明智方に付いたことから失脚し、京都嵯峨で隠棲し、秀吉と同じ慶長3年(1598)に没しています。この段階で水野家は断絶しますが、監物の妻室、総心尼が水野信元(忠政)の娘であったことから家康とは従兄弟となり20人扶持の手当てが支給され、初代尾張藩主徳川義直からは総心寺の開創が聞き入れられました。常滑水野家は岩滑城の中山家から養子を迎えて再興され、尾張徳川家の馬廻役を勤めて江戸時代を生き延びていきます。常滑水野氏に関する同時代の資料は極めて少ないものの、その書状からは戦国時代の武将の日常が浮かび上がってきます」

とあり、貴重な資料展示であることがよくわかる。

<信長書状~天下布武の黒印がおされている(左側は本願寺攻めの際の感状)>

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<家康書状~お礼状である>

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<不識水差~久田耕甫作、蓋は楽了入作、箱書きもすごい>

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常滑市民俗資料館のリーフレットの文中、「総心尼が水野信元(忠政)の娘であったことから家康とは従兄弟となり20人扶持の手当てが支給され、初代尾張藩主徳川義直からは総心寺の開創が聞き入れられました」とあるが、年代的には総心尼は水野信元の娘であろう。*2006.1.11修正 つまり於大の方の姪ということなる。すなわち、家康と総心尼は従兄妹であり、その夫監物とも義理の従兄弟になる。また、「常滑水野家は岩滑城の中山家から養子を迎えて再興され」とあるが、 これは新七郎(八郎右衛門)保雅のことで、この人については「尾陽雑記」巻之三にある水野氏系譜に「守隆-某 八郎右衛門 総心養為レ子 」とあり、「実は中山五郎左衛門子、刑部少輔には孫と云々。常滑之水野監物守隆室禅尼総心レ之故水野と号す。母は水野下野守信元女総心妹也。栄寿院尼と号す」と中山刑部大輔勝時の長男中山五郎左衛門某(光勝というらしい)の子が水野八郎右衛門保雅であるらしい。保雅の実母は水野監物室総心尼の妹で、保雅は水野監物夫妻からみて甥であった。その関係で、保雅は常滑水野家の養子になったのであろう。実父である中山五郎左衛門光勝は、天正3年に召されて徳川家康に仕え、後に水野勝成に属し、大坂夏の陣に加わっている。

それはともかく、本能寺の変の後、伊勢白子浜から海路三河に帰る途中、一体家康は大野から知多半島に上陸したのか、常滑から上陸したかといえば、小生常滑であると推定する。そして、成岩まで行き、成岩浜から海路三河まで行ったと思われる。これは、かつて山科言継が駿河から京へ帰ったとき、三河から海路成岩へいき、知多半島を陸路常滑に抜けて、常滑から海路伊勢へ渡ったのと方向は逆であるが、ほぼ同じルートである。

もちろん、大野から大野街道を通って半田へ抜けることも可能である。たしかに、大野には東龍寺が上陸した家康をかくまった、それは東龍寺の洞山和尚が家康の従兄弟だったからだという伝承がある。しかし、これは成岩の常楽寺の事績と混同しているか、常楽寺と同様に家康との血縁が和尚にあったことから後世作られた「話」ではないか。また大野の町方が家康に助力するために軍資金を集めたというのも不自然で、公然とそのようなことをすれば、佐治氏の知るところとなったであろう。

<大野の東龍寺>

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それに対し、常滑は家康が上陸したという伝説があるだけでなく、家康の三河帰還を手助けしたと言われる常滑の住人に対する家康のお礼であるとか、尾張徳川家の保護といった事実らしい状況証拠があるのである。

伝承で面白いのは、柴船権現の話である。これは、常滑の市場地区にある小さな神社にまつわる話で、家康が本能寺の変の後、柴を積む船に隠れて常滑に逃れてきたという。まさに隠密行動をとったわけだ。市場地区では、毎年5月の旧暦4月16日前の土曜に、柴船権現祭を行っている。小生、例によって位置を調べずに、常滑に行き、結局シャンドゥピエールで苦手なケーキは注文せず、コーヒーだけ飲んで、店の方に場所を教えてもらったが、ちょっと知らないと通りすぎてしまいそうな小さな社である。常滑商店街振興組合のマップでは家康が衣冠束帯姿で船に乗っている漫画がかいてあったが、これでは「柴船に乗った権現」で、イルカに乗った城みちるもびっくりであろう。

<柴船権現>

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<常滑商店街振興組合発行「歴史発見歩こうとこなめ 街なか ぶら~りマップ」より>

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また、常滑の保示にある浄土宗の寺、正住院が家康を助けたという話もあるようだ。しかし、実際正住院に行ってみると、そのようなことを書いた看板の類はなかった。

その他については、長くなったので、次回とする。

(参考文献)

・「常滑の城」      吉田弘著       (常滑の史跡を守る会)     1997

・「やなべの歩み」    やなべの歩み編集委員会   (岩滑コミュニティ推進協議会) 1985

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2005.12.25

徳川家康と知多半島(その9:常滑と大野)

前に述べたように、徳川家康がその生涯で遭遇した危機を二度も知多半島の縁者に守られて切り抜けたが、一度目が桶狭間合戦後の敗走時、二度目が本能寺の変直後であった。

天正10年(1582)、本能寺の変の際、家康は堺見物をしていた。そして、家康は茶屋四郎次郎の急報により、本能寺の変で信長が死んだことを知った。この後、少ない人数の供回りで、山城、近江、伊賀の山中を通って伊勢へ抜けるという、有名な「伊賀越え」を行い、家康は白子浜から伊勢湾を渡り、本国三河に戻ったのである。このとき、堺まで同行しながら伊賀越えで別行動を取った穴山信君は、山城で土豪の襲撃を受けて死んでおり、家康も一歩間違えば、穴山信君と同じ運命をたどったかもしれない。この「伊賀越え」は、豪商であり、知恵者である茶屋四郎次郎の同行もあり、伊賀で所縁のある土豪らの支援を受けたとはいえ、後年「神君のご艱難」と称される家康最大の危機であった。

この「伊賀越え」の後、伊勢の白子浜から、海路どういうルートで家康は三河の大浜に行ったのか。伊勢の白子浜からは、三河大浜まで直に行くには、知多半島の先頭の師崎の沖をまわって行くことになる。それでは時間がかかってしまうため、伊勢の白子浜から三河までなら、知多半島の常滑に一旦上陸し、半田、成岩から再び海路で三河大浜に渡るほうが自然である。

常滑には、於大の方の実家である緒川水野家出身の*水野忠綱を初代常滑城主とする、水野氏一族の三代常滑城主水野監物守隆がいた。水野守隆の妻は、水野信元の娘であり、家康とは二重の縁である。常滑水野氏初代の忠綱は常滑城を築くとともに、雲関珠崇和尚を招き、曹洞宗の寺院である天沢院を創建した。この天沢院は現在も大きな寺であるが、当時はさらに大きな寺容を誇ったという。忠綱は連歌のたしなみのある人物で、そのためか応仁の乱を発端とする戦国時代の戦乱を逃れた京都辺りの文化人で常滑に身を寄せる人もいた。そのため、常滑城は一種の文化サロンの様相を呈し、三代監物守隆も茶道や和歌の心得があるなど、武将でありながら文化人的な風雅を解するところもあった。*2006.1.7改

<天沢院付近から見た常滑の海>

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<常滑水野氏が建てた天沢院本堂>

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この三代水野監物守隆に関するニュースが、最近あった。

「信長と家康の古文書を常滑市に寄贈
 【愛知県】戦国時代の3代常滑城主、水野監物に織田信長と徳川家康があてた古文書が15日、水野家の嫡流にあたる水野さと子さん(71)=西春町弥勒寺=から、常滑市に寄贈された。伊勢湾の魚などの贈り物を受けての礼状で、西春町の文化財にも指定されていた貴重な資料。400数十年ぶりの常滑への里帰りに、市は年内にも一般公開するとともに、文化財指定に向けた手続きを進める。 (朝田 憲祐)
 監物は、信長方の武将として活躍したが、本能寺の変で明智光秀につき、常滑城を追われた。慶長3(1598)年の死後、水野家はいったん途絶えたが、その後、養子が跡を継いだ。
 養子から数えて14代目にあたる、さと子さんの夫、滋さんが今年3月に77歳で死去。西春町は「古文書は、監物ゆかりの常滑で保管した方が価値がある」とのさと子さんの意向を受け、文化財指定を解除。常滑市に寄贈されることになった。
 信長の書状は10通。いずれも天正5(1577)年ごろに書かれた黒印状で、5、6行程度の短い手紙だが、「このわたやタイを頂きありがとう」「鯨肉を頂きありがとう」などといった内容で、監物のこまやかな心遣いに対し、信長が感謝の気持ちを記している。
 書状の最後は「あなたが来られた時に詳しい話をする」「持ち場の警護を油断しないように」と締めくくられている。
 家康の書状は1通で、天正7年6月に、京都で家康方の陣を守っていた監物に出されたものとされる。「見事なお香と鉄砲の火薬をありがとう」との内容となっている。
 水野家では、これらの書状を大切に保管。滋さんの父、銕太郎さん(故人)が戦前に旧満州(中国東北部)に渡る際にも持参し、戦後の帰国時には紛失しないよう、リュックの肩ひもの中に縫いつけて持ち帰ったという。
 さと子さんは、石橋誠晃市長に書状を手渡すと「やっと肩の荷が下りた。(保管を)よろしくお願いします」と笑顔。石橋市長は「長く大切に保管するとともに、市民の皆さんに常滑の歴史の一端を見てもらうようにしたい」と話した。
 さと子さんは、水野家の家系図など文書9点も市に寄贈した。」
                  (中日新聞) - 11月16日11時43分更新

<常滑城址>

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この水野守隆は、本能寺の変の後、京で明智方についた。なぜ、本能寺の変以前の信長配下であり、書状のやり取りもしていた、水野守隆が明智光秀についたのだろうか。水野信元が誅されたことと関連があるのだろうか。いずれにせよ、家康は、それを知らずに守隆をたよって常滑に上陸したのではないか。常滑水野氏の居城、常滑城は、現在の山方町の天理教常滑分教会がある市街地にあった。かつては、細長い台地であったが、大正年間に削平されたため、面影はない。ただ、天理教会の前に、石碑がたっているだけである。この常滑城は水野守隆が京で明智方について放棄した後、一時織田信雄の管理下におかれ、さらに高木氏が領有したようであるが、廃城となった。しかし、水野氏が建てた曹洞宗の天沢院は、城があった場所の南の台地上に今も往時を偲ばせるように建っている。

<天沢院にある監物守隆の供養塔~近年建立のもの>

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家康が本能寺の変後の三河帰還の途中、伊勢から海路をいって、常滑に上陸したなら、具体的にはどこだったのか。漁民が多かったという保示か、あるいは苅屋湊か。苅屋では少し南に外れている。また、水野監物が明智についたのを、家康は知らなかったか、どうか。知っていても、常滑に上陸したとすれば、単純に成岩辺りとの距離を最短にということであろうが、慎重な家康がそういう行動をとったかどうか。

だが、そもそも徳川家康は、常滑でなく、少し北の大野に上陸したという説もある。それについては、次回述べたい。

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2005.12.16

徳川家康と知多半島(その8:阿久比、そして再び岩滑)

まず前回、久松氏の出自について少し述べたが、補足したい。
久松氏は、久松麻呂、あるいは英比丸といった人物の後胤かどうかは分からないが、菅原氏の流れをくむ武士で、何らかの事情で先祖が知多半島の阿久比へ配流されたらしいことは前述の通りである。菅原氏といっても、よくあるように道真の子孫とは公には名乗っていないようで、また武門の本流である源氏や平氏とは言わず、菅原氏として傍流の公家出身らしいことを自ら明かしているところに、信憑性がある。
阿久比町誌によれば、「洞雲院系図」では久松定益は斯波義廉の被官で、明応2年(1493)に久松寺の寺号で洞雲院を建立したとしており、「張州府志」なども洞雲院を定益の創建としている。そして、坂部城は、洞雲院とともに、久松氏の支配圏の中心にあったと前回述べたが、築城時期も同じ頃であったらしい。それは、「洞雲院系図」で定益の子、定義について、「領阿古居庄住坂部城館造営之御霊堂大日殿再建」とあり、定益が久松寺を建立したのに対し、定義は「洞雲二世住」とあるから、洞雲院と坂部城はほぼ一体的に修造されたことになる。おそらくは定益が洞雲院と坂部城の両方を作りはじめ、存命中に洞雲院は完成したが、坂部城築城は親子二代がかりになったのではないだろうか。

<於大の方の遺髪塚のある洞雲院>
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永正7年(1510)になくなった定益が生きていた頃、久松氏は大野城に拠った佐治氏と対立していたらしく、ことが起こると烏菟山に登って鐘を鳴らし、貝を吹いて苅屋藤右衛門吉重、小川四郎右衛門尉定英(定益の外戚の叔父とも義理の兄弟ともいう)のはせ参じるのを求め、一方苅屋吉重、小川定英に何かあれば、定益が駆けつけるというように一族で支えあっていたと「寛永譜」「寛政譜」に記されている。
佐治氏とは、久松俊勝の代に、佐治氏の娘おかんの方が輿入れして、姻戚となったが、それも勿論政略結婚で、かつて対立していたもの同士が手を結んで、互いに牽制したのであろう。元々知多半島は室町期には、足利氏の一族で三河出身の一色氏が西知多を中心に支配していた。阿久比の坂部の近く、草木という場所に、竹林(ちくりん)城という城があったが、これは中世大野庄の領域を治めていた一色氏の出城であったが、応仁の乱以降は佐治氏が拠点としたらしい。一方、戦国期には水野信元が大野口のおさえとして、付近に竹之腰城を築き、竹内弥四郎に守らせたという。この辺りは、戦国期には微妙な勢力構図となっていたようである。

かつて一色氏は常滑の大野など西知多の拠点をおさえ、交易によって財力を蓄えていたが、応仁の乱を契機にして急速に地力を失い、ついに知多から退転するにいたり、大野は一色氏の代官であった佐治氏が治めるところとなっていた。一色氏という大きな勢力を失うと、知多の諸豪は駿河の今川に加担するようになった。佐治氏や宮津の新海氏、武豊の岩田氏などは、今川氏になびいたが、久松氏は一線を画して、織田氏に近かった。そして、織田氏に近かったが故に、今川の傘下から織田に加担した水野信元が同じ織田方として近づき、久松俊勝に於大の方が政略結婚で再度水野家から嫁ぐことになる。

<坂部城本丸址>
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なお、阿久比には坂部の久松氏だけでなく、前出の宮津の新海氏も勢力を張っていた。阿久比谷の西を久松氏が治め、東を宮津の新海氏がおさめていたが、新海氏は久松氏と比べると影がうすいようだ。新海氏は久松氏と同じように菅原氏の出身を名乗っており、その系譜、「由緒略」には、正治2年(1200)に、道真の長男淳茂から十代の後である新海実行がいかなる理由によるものか不明ながら卯之山の館を出奔し、備中国英賀郡下村に居住、その孫の実清のとき京都に転じ、さらに実清の子淳英に至って知多郡に帰った、淳英は久松城の城主となり、これを改名、やがて弘安9年(1286)ゆえあって宮津村柳審城に転住したという。最後の「弘安9年(1286)ゆえあって宮津村柳審城に転住」という部分のみが本当らしく、後は久松氏の系譜を真似したのか、創作が多いようである。卯之山の館とは、現在の兎養山弘誓院(元は長安寺)のある山の中腹、池のほとりにでも館があったのであろうか。寺伝では兎養山長安寺は七堂伽藍が建ち並び、五十もの坊舎のある広大な寺院であったが、戦乱で焼け、小さな寺になったという。勿論それは話半分としても、戦乱で焼け、寺域が相当小さくなったというのは事実であろうから、その周りに寺を保護した豪族がいてもおかしくはない。したがって、上記の伝承が全て脚色とはいえないであろう。

<兎養山弘誓院>
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宮津村柳審城は、現在の宮津の秋葉山に比定されており、明確な文書はなくても、周囲にはその伝承があるのであるから、勿論そこに城があり、それに新海氏が拠ったことも事実であろう。なぜ新海氏が久松氏と比べると影がうすいかといえば、新海氏二十一代という淳尚の代、天文12年(1543)に柳審城が水野氏に攻められて落城し、その「家士残党」三百余名が当地の農民になったというから、戦国期に水野氏の攻勢の前に没落したためである。
また、かつては阿久比の一部とみなされていた岩滑に新海氏は進出していて、宮津城主新海淳尚の出城を岩滑に築いて、榊原主殿をここに居住させたが、天文12年に水野信元が新海を攻めて領地を奪取し、岩滑城には中山勝時を入れたという。この中山氏については、前にも述べたが、水野氏配下であり、元は桶狭間辺りにいた武士であるという。ちなみに、榊原姓の家は、今でも岩滑には多いが、水野氏に岩滑が支配されるようになってから、榊原氏は半田城に拠った可能性があるという。

少し前置きが長くなったが、於大の方が阿久比の坂部城主久松佐渡守俊勝に再嫁し、生き別れとなった竹千代(後の家康)の身を案じつつも、夫久松俊勝や子に囲まれて、穏やかな日々を過ごしていたことは、前回述べた通りである。

しかし、前回の年表で、

永禄3年(1560) 33歳
 
 5月初め、生母お富の方(玄応尼)駿府に没する。
 (今川義元、駿府を出発、西征に向かう。)
 5月17日、松平元康(家康・19歳)阿久比城を訪れ、感激の対面をする。
 5月19日、桶狭間の戦い。織田信長の奇襲により、今川義元戦死す。元康、水野信元、於大のはからいにより、無事岡崎城へ帰還す。

とあった、永禄3年(1560)を境に、於大の方も、徳川家康も、それまでとは違う生き方となっていく。

すなわち、東海の雄であり、上洛して足利将軍家を助けるという代々の夢を実現しようとしていた今川義元が、尾張の織田信長に桶狭間であえなく敗れ、東海地方での勢力構図が大きく変わり、織田信長が台頭することになった。於大の方が嫁いだ久松氏、実家である水野氏は織田方で勝ち組、松平元康(徳川家康)は今川方の先鋒の部将として大高城への兵糧入れを行った武功が一転敗軍の将となり、織田軍に包囲された大高城から辛くも脱出する始末であった。
大高城を脱出した元康は、一旦母の居る阿久比を目指したであろう。年表では桶狭間の合戦の前に、元康は阿久比をたずねたことになっているが、実際は今川軍が桶狭間の合戦で敗れたため、大高城を脱出して、知多半島を南下し阿久比に行ったのではないだろうか。そこで親子の再会があったとしても、束の間のことであったろう。
阿久比では織田方であった手前、余り長い間元康をかくまうことができなかった。そして、元康は矢勝川を渡って、岩滑を経て、成岩の常楽寺に入り、ここで休憩した後、成岩浜から三河大浜へ渡り、途中大樹寺に参詣して無事に岡崎城に帰ることができた。
なお、元康が矢勝川を渡ろうとした時に、仮に架けたような木橋(丸木橋という話もあるが、それでは馬が渡れないので、板橋のような橋か)があり、元康はその橋を渡った。その時元康は、「無事に帰り、天下をとったら、この橋を立派にかけかえる」と言い、実際に将軍となった時に、立派な橋をかけた。そして、後々もその橋の修繕などは尾張徳川家に一切まかせることとし、そのことは江戸期を通じてずっと守られたたため、その橋を「藩費の橋」といったという話が伝わっている。なお、その時道案内したのは、常滑の住人、衣川八兵衛で、家康はその労をねぎらって槍一筋を与えたという。
そして、岡崎に帰った松平元康は、氏真が継いだ今川家を見限り、織田信長について同盟関係を結ぶことになる。今川家は家臣の離反が相次ぎ、今川氏真は駿府を維持することができず、掛川に居城を移している。元康は、名前も今川義元の名前の一字である「元」の字を返上して、家康と名乗り、永禄9年(1566)には先祖松平親氏以前の復姓ということで徳川と勅許を得て名字もかえ、徳川三河守家康となる。

<矢勝川にかかる「殿橋」~かつて「藩費の橋」があった>
hanpinohashi

<この辺りにあった木橋を家康も渡ったか>
hanpinohashi2

一方、於大の方と久松俊勝は、長子信俊に阿久比、坂部城をまかせて、永禄4年(1561)に岡崎に移り、於大の方の阿久比での15年間の生活は終わった。
その後、天正3年(1575) に於大の方の兄、水野信元が領民が武田方へ物資(兵糧とか炭とかいわれる)を売ったため内通の嫌疑をかけられ、信元とその子信政が織田信長の命により岡崎で誅されるという事件が起きる。実際に手を下したのは家康の命で動いた石川数正と平岩親吉であったといい、於大の方の夫、久松俊勝はこれを憤り、城を出て、諸国を放浪したという。その後、天正15年(1587)に、久松俊勝は、西郡城(一説に岡崎城)でなくなり、蒲郡の華林寺で火葬、遺骨を清田安楽寺と坂部洞雲院に葬る。

<久松墓所>
hisamatsubosho

<久松墓所2>
hisamatsubosho2

<於大の方の遺髪塚>
odaibosho

さらに、その2年後の天正5年(1577)7月、阿久比城主であり、於大の方の義子久松信俊が、石山本願寺攻めの軍勢に加わっていたものの、佐久間信盛のざん言により引き出され、織田信長の命で、大阪四天王寺で切腹させられている。水野信元なきあと、刈谷城主となった佐久間信盛の軍勢が、坂部城を攻め、城は炎上、灰燼に帰した。哀れ、久松信俊の幼い子、小金丸、吉安丸が落城とともになくなっている。血のつながりはないが、於大の方の子や孫が一ぺんになくなったのだから、於大の方はさぞ嘆いたことであろう。

今も洞雲院には、於大の方の遺髪塚とともに、久松定益、定義、俊勝という歴代の墓がある。それらは後の久松松平家の先祖として、墓所には囲いが付けられ、丁重に祀られている。しかし、久松信俊、小金丸、吉安丸の墓地は寺の本堂の裏、ひっそりとした場所にある。久松信俊らの墓は、小さな五輪塔であるが、新しくなっていおり、以前はもっと小さい簡単な墓であったらしい。
松平の姓をもらった一族およびその先祖と、そうでない不名誉な死を与えられた人々の差が、墓にまであらわれている。

<久松信俊の墓>
nobutoshi

<信俊の子の墓>
yoshiyasumaru

前にも述べたように、阿久比での15年は、於大の方にとって比較的平穏な日々であったが、後に優しかった夫は出奔の末なくなり、なついていた信俊は織田信長の命で切腹させられている。久松信俊が切腹した2年後、家康はやはり織田信長の命でわが子信康を処断している。
皮肉なことに、徳川家康の身内で信長の信の字を名前につけた者たち、つまり伯父である水野信元、従兄弟の水野信政、義理の兄弟である久松信俊、そして実子である信康は、織田信長の命で討たれるか、切腹させられている。
戦国時代の動乱は、今の阿久比や岩滑からは想像できない。今も阿久比と岩滑の境には矢勝川が流れているが、現在は川岸に新美南吉にちなんだ公園があったり、川岸の道を犬を連れて散歩している人などが行きかっている。川は護岸工事がされているが、のんびりと鴨が泳いでいる。家康が木橋を急いで渡ったのは、もう440年以上も前のことである。

<矢勝川を泳ぐ鴨>
yakachi-kamo

参考文献
・「あぐいのあゆみ」   阿久比町誌編さん委員会 1994
・「阿久比町誌」     阿久比町教育委員会    1993
・「やなべの歩み」    やなべの歩み編集委員会   (岩滑コミュニティ推進協議会) 1985

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2005.12.14

徳川家康と知多半島(その7:於大の方、久松氏と阿久比)

ようやく阿久比までたどり着いた。思えば長い道のり?であった。
家康も言っている、「人の一生は重き荷を負いて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず」と。
家康が、本当にそう言ったかどうかは別として、岡崎に生まれて幼児の頃に、駿河の今川に人質に出され、桶狭間の合戦を契機に今川の下を離れてからも、織田信長や豊臣秀吉の風下にたち、本格的に天下を狙うようになったのは老人になってからという家康なら、言いそうな格言ではある。

さて、天文10年(1541)、政略結婚で岡崎の松平広忠に嫁いだ於大の方は、天文13年(1544)に兄である水野信元が今川から離反し、織田方についたため、松平広忠から離縁され、わが子竹千代(後の家康)と生き別れとなった。その直後は前回の刈谷での於大の方について書いたような状況であったが、天文16年(1547)には水野信元の命で、今度は水野家と近しい阿久比の坂部城主久松佐渡守俊勝に再嫁することになった。そして、生き別れとなった竹千代の身を案じつつ、戦国武将には珍しく温厚で優しい人物であったらしい夫や、夫と先妻佐治氏女(おかんの方)の子である信俊とともに阿久比で暮らすことになる。

<坂部城址からみた阿久比の里>
aguinosato

その間の於大の方については、阿久比町発行の「於大の方物語」に詳しいが、その本の年表を引用すると、以下の通りである。強調表示が阿久比で過ごした年である。

***以下引用***

天文13年(1544) 17歳
 
 兄・水野信元、今川家離反の故をもって離別され、9月、竹千代(家康・3歳)と別れて、刈谷城へ帰る。
 帰途、兄の怒りを予測し、国境で岡崎よりの従者を帰してその命を救う。

天文15年(1546) 19歳
 
 刈谷・楞厳寺へ什物を寄進する。

天文16年(1547) 20歳                
 
 兄の命により、坂部城主・久松俊勝(23歳)に再嫁する。
 8月2日、竹千代(家康・6歳)人質として駿府(今の静岡)に送られる途中、田原城主・戸田康光に奪われ、織田方に送られ、熱田に置かれたので、ひそかに衣食を送り続けた。

天文18年(1549) 22歳

 竹千代(家康・8歳)人質交換により、11月、駿府に移されたので、生母玄応尼を通じひそかに衣食を送り続ける。

天文21年(1552) 25歳

 坂部城で、長子・久松康元を生む。

弘治元年(1555) 28歳

 坂部城で、次男・久松康俊を生む。

弘治3年(1557) 30歳
 
 (兄・水野信元と元信(家康・16歳)石ヶ瀬で戦う。)
 (信元(家康)、名を元康と改める。)

永禄2年(1559) 32歳

 坂部城で、三男・久松定勝を生む。

永禄3年(1560) 33歳
 
 5月初め、生母お富の方(玄応尼)駿府に没する。
 (今川義元、駿府を出発、西征に向かう。)
 5月17日、松平元康(家康・19歳)阿久比城を訪れ、感激の対面をする。
 5月19日、桶狭間の戦い。織田信長の奇襲により、今川義元戦死す。元康、水野信元、於大のはからいにより、無事岡崎城へ帰還す。

永禄4年(1561) 34歳
 
 義子・久松信俊に坂部城を譲り、夫・久松俊勝と共に岡崎城へ入る。(阿久比在住15年間)

永禄5年(1562) 35歳                  
 
 夫・久松俊勝、西郡(今の蒲郡)城主となる。

永禄6年(1563) 36歳
 
 9月、三河一向一揆起こり、翌年2月まで続く。夫、各地で転戦。
 松平元康(25歳)、家康と改名する。

永禄9年(1566) 39歳
 
 松平家康、12月、徳川姓を勅許され(28歳)、従五位下、三河守に任ぜられる。

天正3年(1575) 48歳
 
 兄・水野信元、織田信長の命により岡崎城で殺され、夫・久松俊勝(51歳)これを憤り、城を出て、諸国を放流。

天正5年(1577) 50歳
 
 7月、阿久比城主・義子・久松信俊(母は佐治氏の出、おかんと称するとか)、佐久間信盛のざん言により、織田信長の命で、大阪・四天王寺で切腹。
 刈谷城主となった佐久間の軍、坂部城を攻め、城は灰燼に帰す。信俊の子、小金丸、吉安丸死す。

天正7年(1579) 52歳
 
 (織田信長の命により、家康(38歳)やむなく正室・築山御前と長子・信康の命を失う。)

天正8年(1580) 53歳
 (弟・水野忠重は刈谷城主、同忠守は緒川城主となる。)

天正10年(1582) 55歳
 
 (織田信長(48歳)、明智光秀のため、京都・本能寺に死す。)
 (家康(41歳)、堺より急ぎ伊賀を経て岡崎に帰る。)

天正11年(1583) 56歳
 
 次男・久松康俊、久能城主となる。

天正12年(1584) 57歳
 
 (4月、家康(43歳)、豊臣秀吉と長久手で戦う。)
 三男・久松定勝、下総小南城主となる。(後に伏見城代、桑名城主を経て、その子孫、四国松山城主となる。)

天正14年(1586) 59歳
 
 次男、久能城主・久松康俊(4月)死す。33歳
 (5月、秀吉妹朝日、正室として家康(45歳)に嫁ぐ、9月、生母として浜松城に入る。

天正15年(1587) 60歳               
 
 夫・久松俊勝、西郡城(一説に岡崎城)に死す。63歳
 蒲郡の華林寺で火葬、遺骨を清田安楽寺と坂部洞雲院に葬る。
 夫の菩提のため、出家し、伝通院と号す。

天正18年(1590) 63歳
 
 (家康正室朝日、1月京都の聚楽第で病歿。48歳)
 長子・久松康元、下総関宿城主となる。

文禄元年(1592) 65歳
 
 緒川・善導寺に寺宝を寄進する。

文禄3年(1594) 67歳
 
 刈谷・楞厳寺へ、母と自身の画報を納める。

慶長3年(1598) 71歳
 
 (8月、豊臣秀吉病死す。62歳。)

慶長5年(1600) 73歳
 
 関ヶ原の戦い。家康(59歳)天下の実権を握る。

慶長7年(1602) 75歳
 
 長子・康元、三男・定勝の子、定行に伴われて、家康を伏見城に尋ね、8月28日同城にて病死。
 9月18日江戸の小石川で葬儀、伝通院に葬る。遺髪は、坂部洞雲院と岡崎・大仙寺の墓に分納される。
 
***以上***

於大の方が再嫁した久松氏は、菅原道真と同族である菅原家の支族である久松麻呂が配流されて始まるとも、菅原道真から三代の雅規が英比麻呂(英比丸)と称し、さらにその14代の後胤、道定の時、久松を称するようになったともいうが、はっきりしない。しかし、源氏や平氏ではなく、菅原氏をわざわざ名乗っているのは、事実菅原氏の出身であるからであろう。一説では斯波氏被官であった道定が、当地に土着したというが、何らかの事情で菅原氏の流れをくむ武士が当地に配され、在地領主化したものと思われる。
歴史上、明確になっているのは、道定より9代の孫という定益からで、坂部の洞雲院を創建したのは定益であり、洞雲院は永正7年(1510)になくなった定益の法号となっている。
その久松氏が拠ったのが、坂部城であるが、定益が築城したという説と定益の孫である俊勝が築城したという説がある。地形から見ると、阿久比の里を見渡せる高台にあって、洞雲院とも間に細い低地を挟むが、隣接しているといえるほど近い。この坂部城と洞雲院は、久松氏の支配圏の中心となっていたと思われ、やはり洞雲院を開基した定益が築城したというのが正しいように思われる。
現在、坂部城は本丸があった台地の中腹の削平地が、城山公園として整備され、その西側墓地があったところは図書館になっている。

<城山公園となった坂部城址>
sakabejyoushi

<坂部城本丸址>
sakabehonmaru

坂部城は張州府志などでは、東西40間、南北50間という広さになっているが、m換算すると、東西72m、南北91mとなる。本丸の平面と周囲にあったであろう空堀をいれても、現在はそれほど広くない。やはり道路や住宅地などとなって、かなり削られているのであろう。文政9年(1826)に書かれた、洞雲院に残されている古地図(阿久比町発行資料に掲載)では、近代の城のように書かれているが、当時は土塁と空堀の城であり、本丸である現在の城山公園の周りを空堀がめぐり、城の東側には侍屋敷、西側は墓地で、北側には洞雲院との間に細い谷、南側は谷となり、その向こうに寺や侍屋敷があった様子がわかる。洞雲院の東側の斜面は現在駐車場になっているが、ここにも侍屋敷や洞雲院の寺坊などがあった様子で、今でも駐車場には明らかに何かの建造物の礎石らしいものが残っている。ちょっと見には分からないが、実際洞雲院の駐車場に車をとめるのは、あまりに斜面が急なために技術を要するのである。前は、段々がついていたのではないかと思われるが、それを削平せずにそのままならして舗装し、駐車場としたのであろう。
それはともかく、坂部城址で遺構が残っているのは、本丸址の西南に土塁、西側図書館となっている場所との間に空堀址、南側の斜面に竪堀のようなものがあるのと、東南の一角が虎口の様に開口し、そのまま北東へまわりこむ通路となっているものくらいである。
絵図をよく見ると、本丸の一角に坂部藤十郎という武士の屋敷があるが、これは家老クラスの重臣であろう。侍屋敷には新美や竹内という名字の者が何人かいるが、当地には現在もそういう名字の家が多い。
於大の方が、天文16年(1547)阿久比に再嫁した年、戸田康光の謀により尾張に人質にだされた竹千代の身を案じて、於大の方は熱田の竹千代のもとに、平野久蔵、竹内久六をつかわしてお菓子や日用品を与えているが、その平野久蔵、竹内久六の子孫の方も当地にいるかもしれない。以前、会社で同じ課にいた竹内さんも阿久比の人であったが、もしかして竹内久六の子孫かもしれない。

<坂部城を中心とした古地図>
sakabejyouzu

<坂部城の虎口>
sakabekoguchi

<坂部城の土塁>
sakabedorui

於大の方は年表にあるように、康元、康俊、定勝という三子を久松俊勝との間に産み、その三人の子は家康の異父弟として、やがて松平姓を与えられ、自身も大名となったほか、定勝の子孫からは松平定信が出ている。阿久比では、於大の方も、先妻の子で長子である久松信俊と実子(上記男子三人と女子二人いたらしい)の子育てや、坂部城主の妻としての務めに励んでいたと思われ、しばらくは比較的平穏で充実した日々であったろう。

於大の方にとって、穏やかな阿久比での日々であったが、戦国の激動の時代の流れには逆らえず、桶狭間の合戦で織田方にたった夫久松俊勝、今川方の部将になったわが子松平元康(徳川家康)と、身内が敵味方に分かれ、また桶狭間の合戦で敗れた松平元康は危機に直面する。さらに於大の方の兄である水野信元が、織田信長の命で岡崎で誅されたことを契機に、久松家にも暗雲がたちこめることになった。

そのあたりは、次回に述べることにする。それでは、また。

参考資料:
・「於大の方物語」 近藤英道著 (阿久比町)
・阿久比町発行資料

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2005.12.11

徳川家康と知多半島(その6:於大の方、水野氏と刈谷)

緒川で生まれた於大の方は、数えで6才の時には水野忠政が築いていた刈谷城が完成し、父に伴われて刈谷に移っている。その刈谷城とは、現在亀城(きじょう)公園となっている場所に本丸と二の丸の一部があり、三の丸は郷土資料館(昔の亀城小学校)のある場所にあったという。なお、なぜ刈谷城を亀城というかといえば、郷土資料館の職員の方に聞いたところ、①亀が多かった場所にあった、②刈谷の昔の地名、亀ヶ岡村とか亀村といったものから城の名前になった、③三浦氏のあと、西尾から移封されてきた土井氏の前の居城は鶴城といったため、縁起をかついで亀城とし、西尾の城と鶴亀の対をなすようにした、という説があるそうである。
ともかく、現在の亀城公園には当時の城を偲ばせる遺構といえば、本丸があった丸い小山とその下の腰郭、亀池、城池といわれる水堀の名残りがあるが、二の丸の大部分と三の丸はすっかり市街化している。なお、公園化した本丸は表門のあった部分の虎口が、天文2年(1541)に築城された当時からのものと余り変わっていないのではないかと感じさせる。勿論、当時は小山の側面にある石垣はなく、石段も後付のものであろう。小山の側面の土を良く見ると、硬い砂岩質の土であり、城を築くには最適の場所であったかもしれない。
この城は、前述のように天文2年(1533)に築かれたが、水野忠政の子、信元の代に、桶狭間の合戦で敗北した今川軍によって焼かれてしまい、再建されたのは慶長5年(1600)の水野忠重が城主となった頃である。この城には天守閣はなかったが、当初本丸の四隅に櫓があり、一つは三層、あとは二層であった。しかし、元禄年間には、櫓は二箇所となり、階層も三層ではなく二層となっている。その後、明治維新を経て、戦時中は高射砲陣地として使用されるなどしたが、近年公園として整備され、今日に至っている。

<刈谷城本丸址・中央>
kariyajyo1

<刈谷城本丸址・表門付近>
kariyajyo2

<刈谷城二の丸址から本丸址へ>
kariyajyo3

前述の郷土資料館の東へのびる道が、大手道であり、郷土資料館より60~70mほど行ったところに大手門址がある。その東の図書館のある辺りは侍屋敷、さらに筋を2つ挟んだ東は町場となり、付近は城下町を形成していたが、明確には江戸期に形成されたと思われ、戦国期にはどうだったのであろうか。当然ながら、城の周りには家臣団の屋敷はあったであろう。その家臣団の屋敷を取り囲むように、つまり城を中心として同心円を描くように町場があったのであろうか。

<城池の外側から城址を望む>
kariyajyo-hori

その刈谷と水野氏の関係であるが、既に忠政の曽祖父貞守の代に刈谷に進出しており、文明8年(1476)頃には刈谷古城を築いたという。刈谷古城は現在の刈谷市天王町2丁目から元町6丁目*の台地上(本刈谷神社の西北側)にあって、西側、南側には低地が広がり、城があった辺りの台地上からは東浦の大型スーパーが見渡せる。*2005.12.31改
実は刈谷古城のことは、よく知らなかった。というより、刈谷城は若い時にも訪れており、その当時から公園化されていて、刈谷の一種のシンボルのようになっていた印象が強く、もう一つ刈谷古城なるものがあるとは思いもよらなかったという方がよい。今回も、郷土資料館作成の「歴史の小径」という印刷物を頼りに、車を走らせたが、例によって古い町は道が細い。また、途中工事もあって、目的地にはすんなりとは行けず、さらにそれらしき場所に着いたものの、立て札もなく、場所が特定できない。台地端に、小さい畑があり、そこに枝が落ちた木があるが、その根方にある土盛が土塁のようで、ひとまずそこが古城址の一部と目星を付けた。

<刈谷古城遠景>
kariyakojyo-enkei

そして、台地の上から台地下の低地やら周辺をまわったが、よく分からないので、何か配達をしている若い女性に聞いた。しかし、「いやー、わからないですね。ここが古い町なのは確かですが」と言われ、低地に止めた車に戻って帰ろうとしたとき、犬を連れた年配の婦人が来たので聞いたところ、「その竹薮ですよ」とのこと。なるほど、最初自分が目をつけた畑のある場所とは50mほどは離れているが、同じ台地続きで城址があってもおかしくない場所である。その竹薮の横を東西に道が通っており、台地の上から低地へ下っているが、その年配の婦人によれば、その道は元は道幅の半分ほどは水路になっていたという。つまり、刈谷古城とは台地端に占地し、台地鞍部とは水堀で区切っていたことになる。あるいは、台地先端の木の根方に土塁状のものがあった場所は、物見があったのではと思われる。
つまり、この刈谷古城は緒川を本拠とする水野氏が西三河に進出する足がかりとした出城であり、東からの進攻への防備のために構えたのではないだろうか。水野氏、それは言われるように貞守であったかもしれないが、当主自身は緒川に屋敷をもち、この刈谷には平時は一族か家臣を配置していたのであろう。それが、刈谷において勢力を拡大し、ついにはより本格的な統治のための城を建設するにいたったということだと思われる。

<刈谷古城址~右側の藪、道路には昔水路があった>
kariyakojyo1

<刈谷古城址の一部か、台地端の畑地に残る土塁状のもの>
kariyakojyo2

その刈谷古城の南400mほど行った場所に、楞厳寺(りょうごんじ)という曹洞宗の寺がある。これは水野忠政が刈谷城を築き、刈谷に移住した際、この寺に帰信し、水野家の菩提寺になった。元は、応永10年(1403)に浜松普済寺の利山義聡が海会寺を開き、多くの修行僧が集まって手狭となったため、応永20年(1413)新たに楞厳寺を建てたといい、第七世古堂周鑑の時に、忠政の帰信があって、水野家の菩提寺となり、於大の方も度々当寺を参詣している。境内にある水野家廟所は、市の史跡となっているが、小さい五輪塔などがある。緒川の乾坤院の水野忠政以下4人の墓地とは違い、いかにも中世の豪族が建てたもののようである。

<楞厳寺本堂>
ryogonji

<水野家廟所>
mizunoshibochi

於大の方は、天文10年(1541)に松平広忠に嫁ぐまでの数え年6才から14才までを刈谷で過ごし、さらに水野氏が天文13年(1544)信忠の代に織田方となったために離縁された17才から阿久比の久松佐渡守俊勝に再嫁する天文16年(1547)、20才まで、やはり刈谷に戻って城下の椎の木屋敷で過ごしたという。その椎の木屋敷に住んでいた頃に、楞厳寺に度々参っている。そのため、この寺にも於大の方の調度品がいろいろ残されている。また、晩年の画像、「伝通院画像」があり、これは県指定文化財となっている。
岡崎から離縁され、わが子家康は今川に人質になっている状況で、於大の方はどういう心境で、椎の木屋敷での日々を過ごしていたのであろうか。
やがて、刈谷から阿久比の坂部城主久松佐渡守俊勝に再嫁して、阿久比に住むようになってからも。

<椎の木屋敷址>
shiinoki1

<同所 於大の方像>
shiinoki2

次回、阿久比での於大の方と久松家のその後について見ていきたい。

参考文献:

・「刈谷 歴史の小径」 刈谷市郷土資料館
・「刈谷のあゆみ」 刈谷市郷土資料館
・刈谷市発行資料

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2005.12.03

徳川家康と知多半島(その5:於大の方の生誕地、緒川)

前回、於大の方は、享禄元年 (1528 ) に現在の愛知県知多郡東浦町の緒川という場所で生まれたことを述べた。於大の方の父である緒川城主水野忠政や異母兄水野信元は刈谷に進出するとともに、知多半島にも武威を張り、そのかげで、於大の方の母、於富の方は政略によって忠政から離縁され、三河の覇者であった松平清康に再嫁した。於大の方自身も、松平清康の死後跡を継いだ松平広忠に、天文10年 (1541)に嫁がされ、翌年、後の家康である竹千代を生んだ。それらについても、前回述べたとおりである。

その於大の方が生まれた緒川について、もう少し見てみたい。東浦町発行資料などによれば、於大の方の生涯の前後の緒川については、以下のようにまとめられる。

 年代            事跡

平安末期 (1180頃) この頃小河重房小川に住む
延文5年 (1360) 小河正房、土岐氏に滅ぼされる
室町前期 (1350頃) 緒川の高薮城を竹内直道が築城し、以降竹内氏が治めるも、5代直玄は水野氏の臣下となる。
文明7年 (1475) 初代緒川城主水野貞守、乾坤院を創建する。
享禄元年 (1528) 於大の方が、緒川城主水野忠政の娘として緒川にて生まれる。母は於富の方(華陽院)。
天文元年 (1533) 三河のほとんどを平定した岡崎城主松平清康から求婚された於富の方(母)は、水野忠政に離縁されて松平清康と再婚。
天文2年  (1533) 水野忠政、刈谷城を築き、家臣団を連れて移る。
天文10年 (1541) 於大の方岡崎の松平広忠のもとへ嫁ぐ。広忠16歳。
天文11年 (1542) 於大の方が竹千代(徳川家康)を生む。
天文12年 (1543) 於大の方の父忠政が逝去。於大の方の兄信元が相続する。
天文13年 (1544) 刈谷城主水野信元が今川方を離れ織田方についたため、今川方の松平広忠は於大の方を離別する。
天文23年 (1554) 村木砦の戦い
永禄元年 (1558) 石ヶ瀬の戦い
永禄3年  (1560) 於大の方の母華陽院逝去。桶狭間の戦い、今川義元敗死。以後織田信長の勢力 が急激に伸展。 松平元康(後の徳川家康)は大高城を脱出、知多半島から三河、岡崎へ帰る。
天正3年  (1575) 水野信元、織田信長のために岡崎にて殺される。
天正10年 (1582) 本能寺の変、織田信長が殺される。 変後、堺にいた徳川家康は「伊賀越え」をし、岡崎へ戻る。
天正10年 (1582) 於大の方の夫、久松俊勝逝去。
天正16年 (1588) 於大の方、髪をおろし伝通院と号す。
慶長5年  (1600) 関ケ原の戦、徳川氏政権が確立される。
慶長7年 (1602) 於大の方伏見城にて逝去、寿経寺(後の伝通院)へ納骨される。
慶長11年 (1606) 緒川城主水野が三河新城に転封となり、その後緒川城も廃城となる。

鎌倉時代には、当地を治めたのは地頭である小河氏であったが、南北朝の争乱期に小河氏が南朝についたため、北朝方の土岐氏に攻められて滅亡。その後、竹内氏が緒川のもうひとつの城である高薮城を築くなどして緒川を治めたようであるが、水野貞守の頃に水野氏が緒川にきて、緒川城を築き、この地域に勢力を伸ばし始めた。初代城主水野貞守は、前の勢力である竹内氏を臣下とし、隣国の刈谷や横根・大府にも手を伸ばし、数代かかって、刈谷などへの支配を確固としたものにしたと思われる。於大の方の父、水野忠政はその勢力の伸張期の当主であったといえる。

於大の方が生まれた緒川の地は、於大の方が生まれた頃には、父水野忠政が完全に掌握していたようである。実際に緒川に行ってみると、なるほど城下町の風情のある、歴史的景観を残した町である。細く入り組んだ路地が多いが、黒塀の屋敷があり、その大きな門がかつての武家屋敷の面影を感じさせる。格子戸のある商家の軒先には杉玉がつるされていたり、町の辻々には小さな地蔵がまつられているという具合である。

<緒川の町並み>
ogawa-machi1

<赤い丸型ポストも健在>
ogawa-machi2

<町辻の地蔵>
ogawa-jizou

さて、緒川には水野氏について、面白い伝説がある。
それは、地蔵禅院という小さな地蔵をまつった御堂の境内の井戸、「沢潟の井戸」にまつわるものである。地蔵禅院の本尊の木造地蔵菩薩は大昔海から引き揚げられたもので、かき殻がたくさん付いていたことから、かき殻地蔵というが、水野氏の3代、緒川城主水野清忠の奥方が子宝を授かるよう、このかき殻地蔵に祈願した。満願の日、この井戸の水を汲もうとすると、沢潟の葉が浮かび、その上に永楽銭が1つ載っていた。その後、子宝に恵まれ、沢潟と永楽銭を水野氏の家紋にしたという。
今、地蔵禅院に行ってみると、御堂は古くなっており、狭い境内も整備中のようであるが、沢潟の井戸はのこっている。ただ、鎌倉の星影の井のように、中をみることはできない。

<沢潟の井戸>
omodakanoi

於大の方や水野一族が暮らした緒川城は、文明7年(1475)に水野貞守が築いた城と言われる。現在は、すこし遺構も残っているが、主郭部分だけで空堀などは埋められたものか、地表上見えなくなっている。この城は、東浦町役場のある場所の北側の台地の中腹にあって、緒川の町全体を見下ろす場所にある。実際に行っても見ると、東浦町役場の南側の低地からは、住宅が密集していて分かりにくい。最初、たずねたときには、車で東浦町役場の南側の低地から住宅のなかの道を進んでいったが、なにしろ私の車一台でも、ぎりぎりでしか通れない、また曲がり角では切返しを何度もしないとこすってしまう位の細い道で、近所の人に聞きながら上っていった。作業場のおばさんに聞いて上がった、天理教教会のある場所のすぐ近くに城址はあったのだが、私はそのまま行かずに途中で右に曲がってしまい、あとで再び別の近所の方に聞いたら、「行き過ぎましたよ」とのこと。その日は、用事があったのと、日が落ちかけていたので、後日として、再度たずねたときにようやく見つかった次第。もし、城址が分かりにくいようなら、東浦町役場の北側を大きくカーブしながら台地を上がっていく広い道路を、台地を上がりきらない半ばほどまで歩き、そこから緒川の町を見下ろせば、木が何本か茂っている小山のような場所が見えるので、そこを目指して行けばよい(ただし、自動車では行かないほうがいいでしょうな)。

<緒川城址~地元の人からは古城(ふじろ)と呼ばれる>
ogawajyo

<緒川城址を下の公園から見る~公園には於大の方生誕の碑>
ogawajyo-sitakara

それはともかくとして、実は緒川には、もう一つ、高薮城という緒川城の北側の台地にあった城があり、鎌倉時代の地頭小河氏が南北朝の戦乱で滅んでからは、高薮城の竹内直道ら竹内氏が当地を治めていたらしい。その5代直玄は水野氏の臣下となったというが、初代竹内直道が高薮城を築いたのが1350年頃として、1代25年とすれば、5×25=125年で、5代竹内直玄は1475年頃の人ということになり、文明7年 (1475) 初代緒川城主水野貞守が宇宙山乾坤院を創建した年あたりということとなる。
つまり、水野貞守はどこからか進出してきて、在地の竹内直玄を臣下としてしまったということであろう。寛政重修諸家譜によれば、水野氏は譜代大名5家,旗本が20家以上であり、その主流は清和源氏多田満仲の弟鎮守府将軍満政を祖と称する満政流で占められている。源満政の子孫が尾張知多郡小河庄に住み小河氏と名乗って、在地領主として成長したが、南北朝の戦乱で南朝につき、土岐氏に攻められていったん尾張春日井郡水野に退き、水野氏を名乗って故地に復し、緒川城主となったというわけであるが、信じがたい。
ともかくも、貞守の曾孫水野忠政が戦国初期には緒川から三河に進出して、刈谷に築城、刈谷城主となり、さらにその子信元の代には織田家のもとで知多半島にも進出し、勢力を拡張する。天正3年(1575)織田信長の命で信元が岡崎で誅されるにおよび、水野氏の緒川支配は一時中断するが、於大の方の弟で、忠政の四男、忠守が緒川城主となった。また信元のあとの刈谷は、やはり於大の方の弟、忠政の九男、忠重が刈谷城主となっている。
水野忠守が城主となって、緒川城は改修され、水野忠守はそれまでの古城部分から、高藪城と呼ばれる箇所に移り住んだ。古城部分は緒川古城、高藪城は緒川新城とされる。
水野忠守の跡の家督は、忠守の子忠元、孫の岡崎城主忠善と受け継がれている。ちなみに、水野忠善は豪傑ながら粗忽なところのある人であったというが、祖先を思う気持ちが強かったらしく、乾坤院に堅雄堂を建てたのは、その水野忠善である。
さらに、関ヶ原合戦後に緒川を領有した水野分長が、慶長11年(1606) 三河新城に転封となるまで、水野氏の緒川在城は続いた。なお、緒川城主水野忠守、堅雄堂を建てた水野忠善の子孫に、老中となった水野忠邦がいる。

<高薮城址~今は遺構が見られない>
takayabujyofukin

では、於大の方は緒川でどんな幼少期を過ごしたのであろうか。記録もないので、よく分からないが、戦に明け暮れる父や兄と政略結婚で松平清康に嫁ぎ、於大の方が物心ついた時にはいなかった母のことを考えると、戦乱の世の常とはいえ、さみしい生活であったようにも思える。
そのような戦乱のなかでの暮らしで、心を寄せることができたのは、前回紹介した乾坤院や善導寺などの仏であったろう。これらの寺には、刈谷にはいってからも、その後も於大の方はたびたび参拝している。

於大の方も参拝した緒川の善導寺は、浄土宗鎮西派の寺で、山号は海鐘山というが、京都の知恩院の末寺になる。
寺伝によれば、嘉吉3(1443)年に音誉聖観聖人が創建した寺である。山号が海鐘山というように、かつては海辺にあって、たびたび潮水の被害にあったため慶長10年(1605)に緒川城主水野分長が現在の山上、すなわち八幡社前に移築したのだという。於大の方は、度々この寺に参拝し、寺に寄進した三尊阿弥陀如来像、善導大師木像、同師自画像、同師所持の柄香炉が今も残っているという。やはり、乾坤院と同じように、尾張徳川家の庇護を受け、21石9升6升の寺領を与えられているほか、尾張徳川家歴代の黒印状を受けている。於大の方の縁故で、徳川家と関係深いことは、寺のいたるところに葵紋があることでもわかる。三つ葉葵の紋所が、いろいろな場所についているのは、成岩の常楽寺と同じである。

 なお、善導寺には県指定文化財になっている正安2年(1300)の異国降伏祈願施行状(非公開)が伝えられている。これは、元寇にさいして鎌倉幕府が広く全国の社寺に敵国降伏の祈祷を命じ、蒙古軍撤退後もなお30年もの間、続けられたということの史料である。
また、於大の方自身の身近なものとして、於大の方の夜着が、この寺に残されている。於大の方は、この寺に宿泊もしたのであろう。そう思うと、緒川の町並みも、於大の方が侍女などを連れて歩いた光景に、重なってくるのである。

<緒川の善導寺>
zendouji

<善導寺のいたるところに葵紋が>
zendouji-aoimon

<善導寺の鐘楼門>
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さて、次回は刈谷から知多の阿久比町の関連史跡を紹介することにする。

参考文献

・愛知県東浦町ホームページほか東浦町発行資料
・広報ひがしうら 2004年4月1日号
・愛知県刈谷市ホームページ

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2005.11.30

徳川家康と知多半島(その4:緒川の宇宙山乾坤院)

前回まで、半田からなかなか出なかったが、阿久比町へ行く前に緒川町へと飛ぶ。なぜなら、徳川家康の生母於大の方について、もう少し話をしなければならないが、それには阿久比の久松家に再嫁した話からではなく、緒川で於大の方が生まれたところからでないと、順序としてうまくいかない。
於大の方は、享禄元年 (1528 ) に現在の愛知県知多郡東浦町の緒川という場所で生まれた。父は緒川城主水野忠政で、母は於富の方という。於大の方の父、水野忠政の代には緒川付近から刈谷にも勢力を伸ばし、於大の方6才の時には城を刈谷に築いて家臣団とともに移り住んでいる。水野氏は、戦国時代に東は三河の知立から、西は知多半島は河和あたりから常滑にかけて、広大な地域を支配下に置いた。それは同時に、水野氏の支配圏が東は駿河の今川、西は尾張の織田という強大な勢力にはさまれた形であることを意味した。東西を今川、織田の両雄に挟まれたのは松平氏も同じである。松平氏は家康の祖父、清康の代に三河のほとんどを平定するに至り、実に水野忠政はその妻、すなわち於大の方の母、於富の方を離縁し、清康に差し出す政略結婚を行っている。
さらに、松平氏は清康が天文4年(1535)の12月5日織田信秀を攻めるために守山に布陣していたおり、家臣の阿部弥七郎に殺害されるという、いわゆる守山崩れでなくなって、広忠がその跡を継いだが、家臣の離反が相次ぎ家運は衰退していった。天文10年 (1541)、その松平広忠に、於大の方は嫁がされた。翌年、竹千代、後の家康が誕生するが、父松平広忠は幼い竹千代を人質として今川に差し出し、その今川方の前線で何とか家名を保つことになった。
では、なぜ衰退しゆく松平氏に於大の方は嫁がされたかといえば、近隣の豪族同士ということもあるが、やはり松平氏の後ろに今川氏がいて、その今川と松平を通じてよしみを結ぶという政略があってのことであろう。於大の方とその母、於富の方という親子2代にわたり、水野氏と松平氏は政略結婚で結ばれた間柄ということになる。

<於大の方を中心とした水野家系図>
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<於大の方略年譜>
年  号 (西暦) 事         歴
享禄元年 (1528 ) 緒川城主水野忠政の娘として緒川にて生まれる。母は於富の方(華陽院)
天文元年 (1533) 三河のほとんどを平定した岡崎城主松平清康から求婚された於富の方(母)は、
           水野忠政に離縁されて松平清康と再婚。
天文2年  (1533) 刈谷城(現在の亀城公園)が完成し、水野氏家臣団を連れて移る。
天文10年 (1541) 於大の方岡崎の松平広忠のもとへ嫁ぐ。広忠16歳。
天文11年 (1542) 於大の方が竹千代(徳川家康)を生む。
天文12年 (1543) 於大の方の父忠政が逝去。於大の方の兄信元が相続する。
天文13年 (1544) 刈谷城主水野信元が今川方を離れ織田方についたため、今川方の松平広忠は於大の方を離別する。
天文14年 (1545) 於大の方この頃椎の木屋敷(現在の刈谷市銀座6丁目)に住む。
天文16年 (1547) 於大の方知多郡阿久比城主久松佐渡守俊勝と再婚。後に3男をもうける。
天文18年 (1549) 於大の方の前夫松平広忠逝去。
永禄3年  (1560) 於大の方の母華陽院逝去。桶狭間の戦い、今川義元敗死。以後織田信長の勢力 が急激に伸展。
            松平元康(後の徳川家康)は大高城を脱出、知多半島から三河、岡崎へ帰る。
天正10年 (1582) 本能寺の変、織田信長が殺される。 変後、堺にいた徳川家康は「伊賀越え」をし、岡崎へ戻る。
天正10年 (1582) 於大の方夫久松俊勝逝去。
天正16年 (1588) 髪をおろし伝通院と号す。
慶長5年  (1600) 関ケ原の戦、徳川氏政権が確立される。
慶長7年   (1602) 於大の方伏見城にて逝去、寿経寺(後の伝通院)へ納骨される。

この於大の方の生家、水野家はどういう出自かといえば、於大の方の父、忠政の代には緒川城主であったのだから、忠政より数代前には緒川に定着していたと思われる。それ以前については、江戸時代大名となった水野氏が幕府に提出した系図以外に確たる資料がなく、はっきりわからない。これは、徳川家康の祖父、松平清康以前の松平氏について、明確にわからないのと同様である。
水野氏は忠政の曽祖父にあたる貞守の代に緒川(小川、あるいは小河とも書く)に復帰、これを領邑としたといい、水野貞守は南北朝期の延文5年(1360)に小河の地で守護土岐氏に攻められて滅亡した小河氏の末裔で、小河氏は一時春日井郡水野(今の愛知県瀬戸市中水野)に退転しており、そのため水野氏を名乗ったという。しかし、水野氏が鎌倉時代以来の土地の名門であった小河氏の子孫かどうかは確証がなく、元は春日井郡水野にいた水野氏が、何らかの縁故で緒川に来て土地の名家の名跡を継いだか、勝手に名乗った可能性がある。

その水野貞守が文明7年(1475)に創建したというのが、曹洞宗中本山である古刹、宇宙山乾坤院で、その乾坤院には「水野先祖御判物写」という文書があり、水野氏先祖の小河氏を小河村地頭職に補任した鎌倉幕府政所下文や足利尊氏の感状など 小河氏の事跡を物語る資料を写したものであるという。また、水野氏は勢力下におさめた諸氏を自らが帰依した曹洞宗に改めさせて支配力の強化をはかったという。

<乾坤院本堂>
kennkonhondo

乾坤院の寺伝によれば、
「当山は、室町時代中期の文明7年(1475)に緒川城の守護を目的に初代城主 水野貞守公の寄進によって、川僧慧済が開山した。以来、代々水野家の菩提寺であり、江戸時代を通じて尾張徳川家より禄を下されるなど、厚い庇護を受けてきた。四代目水野忠政公の息女で、徳川家康の生母である於大の方(伝通院)からも、三里四方の山林を寄進されたと伝わっている。明応9年(1500)から明治7年までは輪番制度をとっていたが、以降は今日に至るまで独住制を継承。現在は直門六十一ケ寺、門葉寺院総数五百余ケ寺を有する曹洞宗の中本山をいただいている。明治初頭の廃仏毀釈、第二次世界大戦、伊勢湾台風の大被害から復興を果たし、今日、境内は二万坪におよび、松・杉の森を背景にした七堂伽藍(文化財)は整然として古格を表し、清浄境の趣を呈している。また禅寺の根源となる座禅道場や寺院に隣接する於大公園は一般に開放され、多くの人々に親しまれている。」 とのことである。

実は、乾坤院と水野氏の深いかかわりを示すものとして、乾坤院の総門があり、これは水野氏が城主であった緒川城の城門を移築したものである。また、乾坤院の本堂の裏にある堅雄堂は、於大の方の弟忠守の孫である岡崎城主水野忠善が寛文10年(1670)に曽祖父忠政の御霊屋として建立した、祖霊供養のための御堂である。その堅雄堂の西隣には於大の方の父、水野忠政の墓がある。さらに西側には於大の方の弟忠守、その子忠元、孫の忠善の五輪塔の墓が並んでいる。

<乾坤院の総門~緒川城の門を移築>
ogawajyomon

<堅雄堂>
kenyudo

<於大の方の父、水野忠政の墓>
mizunotadamasa

<於大の方の弟、水野忠守、その子忠元、孫の忠善の墓>
tadamoritadamasatadayosi

於大の方の異母兄である水野信元は、忠政のあとをうけて、積極的に知多半島へも進出した。成岩の成岩城を攻落としたのも水野信元である。そのころ、乾坤院は水野一族からの寄進を受けて、諸堂を整備したり、経済的安定を得た。しかし、水野信元の領民が甲斐の国に物資を送ったことから、信元が武田氏に内通したとの嫌疑により、天正3年(1575)織田信長の命で岡崎で誅されるにおよび、水野氏の緒川支配は一時中断した。乾坤院も太閤検地などで寺領を失って荒廃した。
その乾坤院がかつての隆盛を取り戻すのは、文禄3年(1594)刈谷城主となった水野忠重の寄進や関ヶ原合戦後に緒川を領有した水野分長の寺領三十一石七斗の寄進、山屋敷の領有権安堵という水野一族の尽力によってである。さらに、緒川が尾張徳川家の領地となった江戸時代も、 於大の方の実家の菩提寺である乾坤院は、於大の方、家康の血を引く尾張徳川家の庇護を受ける。
すなわち、寺領は黒印地として領有を認められた。江戸時代の乾坤院は、唯一の檀家水野氏の菩提寺として、尾張・三河・遠江に六十一ヶ寺の末寺を擁する曹洞宗中本山となったのである。 なお、堅雄堂を建てた水野忠善の子孫に、老中となった水野忠邦がいる。

さて、次回からは緒川から、知多半島をでてしまうが刈谷に目を転じ、さらに知多の阿久比町に戻ることにする。

<乾坤院の山門>
kenkonin1

参考文献

・宇宙山乾坤院発行資料
・広報ひがしうら 2004年4月1日号
・愛知県刈谷市ホームページ

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2005.11.24

徳川家康と知多半島(その3:岩滑城の中山氏)

11月23日(水)は勤労感謝の日、東海地方は天気が良くて、行楽客が大勢繰り出していた。岐阜県多治見市にたまたまいた小生も、虎渓山永保寺に行って、綺麗な紅葉の写真をたくさん撮ったのであった。また、多治見でも農業祭をやっていて、会場となっていたセラミックスセンターだったかな?とJR多治見駅をシャトルバスで参加する人のピストン輸送をしていた。さる11月20日(日)の「はんだふれあい産業祭り」も、会場が前日のJFEスチールから半田運動公園となって、農産物、農機具の販売など地元農業関係の団体が中心の内容となっていた。そうはいっても、国際色豊かに海外の物産販売などもしており、半田も変わっていくのである。

<はんだふれあい産業祭り2日目の一コマ>
sangyou

前置きはそのくらいにして、徳川家康が桶狭間の合戦後、大高から生母於大の方のいた坂部(今の阿久比町)に入って、矢勝川を越えて岩滑(やなべ)を通り、成岩の常楽寺に逗留後、水路三河に帰ったことは、「徳川家康と知多半島(その1:成岩の天龍山常楽寺)」で述べた通りである。

阿久比町を南下し、矢勝川を越えると、現在の半田市の北端である岩滑(やなべ)となる。ここは「ごん狐」などの童話で有名な新美南吉が生まれた場所であり、新美南吉の生家などが残っている。「ごん狐の森」などもあり、半田の一つの文化エリアになっている場所である。

<新美南吉の生家~常夜灯のある街道の交点にあり、南吉は大正2年この家で生まれた>*2005.12.11追加
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<南吉生家近くの常夜灯>*2005.12.11追加
nankichi_jyoyato

<矢勝川沿いの公園にある新美南吉作品「ごんごろ鐘」の石碑>
nannkichi

実は、この岩滑も徳川家康と縁があり、於大の方の妹、つまり家康からみると叔母が、岩滑の中山刑部大輔勝時に嫁していた。中山勝時の居城は、岩滑城で、今では遺構が残っていないが、現在成岩の常楽寺と同じ浄土宗(それも西山浄土宗)であり、名前も似ている甲城山常福院という寺院やその東の八幡神社のある場所にあったという。その常福院や八幡神社のある場所は、かつて城山と呼ばれ、県道264号線の西側のやや小高い丘になっており、北に矢勝川を臨む立地となっている。常福院の山号「甲城山」も、その城山に由来するのであろう。
常福院の門を出て南側を東に県道のほうへ降りる道は、かつての堀址か城道であろうか。八幡神社の境内も、遺構はないが、城址の面影を残すようである。
なお、常福院は新美南吉の童話「ひよりげた」の舞台となった場所で、新美南吉が植えた大きな蘇鉄がある。また、どういう由来か私にはわからないが、役の行者の石像がまつられている。

<甲城山常福院>
jyohukuin

<常福院に残る南吉が植えた蘇鉄>
sotetsu

<常福院境内の役の行者石像>
ennnogyojya

その中山氏であるが、いつの頃からか岩滑の領主となり、おそらく中山勝時の代あたりで、地理的な関係で水野氏の配下となったと思われる。実は「ごん狐」に出てくる「中山様というおとの様」は、その中山勝時がモデルとのことである。そして「ごん狐」自体、近くにある権現山の狐を省略して、「権狐」→「ごん狐」となったという説がある。*2005.12.11付記:筆者は権現山が東照大権現(すなわち徳川家康)に関係あるものと思っていたが、山頂にある「権現さん」と呼ばれる五郷社から権現山と呼ばれているそうである(新美南吉顕彰会資料より)
桶狭間の合戦後、岡崎を目指して強行軍であった家康は、岩滑で少し休憩しただけかもしれない。天正10年(1582)の本能寺の変後の危機については、伊賀越えの後、伊勢の白子浜から海路常滑に上陸した家康一行に対し、中山勝時の子、勝尚(家康からみると従兄弟)が家臣25騎を率いて駆けつけたという。身内の支援で、大いに意気が上がったであろう。かくして、家康は常滑を板山街道を通って半田に出て、常楽寺に立ち寄った後、岩滑湊から三河へ渡った。その中山勝尚が家康の元に馳せ参じた時には、すでに父勝時は二条城で戦死していた。

<城址の面影を残す八幡神社境内>
hachimannsha

<かつての城道か、常福院門前から県道へ続く~右側に南吉のはなれの家址あり>
shiromichi

なお、岩滑には、桶狭間の合戦後、三河の岡崎をめざして、知多半島を南下していた家康が、岩滑を通った時のエピソードとして、面白い話が伝わっている。
知多半島に生せんべいという、京都の生八つ橋のような御菓子があるが、この起源が家康と関わりあるというのである。つまり、永禄3年(1560)の桶狭間合戦後、岡崎をめざす家康が知多半島を南下している途中、岩滑でとある百姓家で休息をとったとき、たまたま食した生のせんべいの味が気に入り、それがきっかけで生せんべいをつくるようになったというのである。生せんべいの製造・販売をしているのは、生せんべいの田中製菓(半田市)と、総本家田中屋(半田市)という会社であるが、両社のHPにそのような内容が書かれている。

桶狭間合戦の後という危急のときに、家康が駆け抜けた矢勝川。桶狭間合戦の後と本能寺の変の後、その家康を助けた、坂部から見ると川向うになる、岩滑の中山氏。今も川はゆたかに流れているが、その矢勝川にかかる高田橋の上を通勤の車などがせわしなく行きかっている。

<矢勝川から岩滑城址方面を望む>

yakachigawa

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2005.11.22

徳川家康と知多半島(その2:成岩城とその周辺)

前回、成岩の常楽寺について、徳川家康との関係を中心に紹介した。成岩城についても、若干触れたが、写真が日没後のものだったり、周辺について書き足りていないので、再度成岩から成岩城とその周辺についてレポートする。

<成岩城址と石碑~「成岩城址」の字は成瀬正雄子爵の書>
narawajyou

成岩城は、半田の臨海工業地帯の一角にある鉄鋼メーカー、Jスチール知多製造所の正門の西600mほど行った、現在の半田市有楽町7丁目周辺の細長い台地上にあった。そこは、成岩の集落をおさえ、海にも近い好立地で、船で知多半島はもちろん、衣浦湾を越えて三河にも出ることができる。成岩の北の亀崎には、水軍がいたというから、このあたりも同様に海の武士たちが蟠居する場所であったかもしれず、住民も漁民が多かったであろう。

城主の榎本了圓は、常滑の時宗の僧(衆徒)で、金蓮寺という寺にいたという。時宗は一遍上人を開祖とする「南無阿弥陀仏」の念仏を唱える念仏宗であり、いわゆる「踊念仏」で知られる。榎本了圓が常滑を離れた理由はさだかではないが、知多半島西岸を治めていた一色氏の勢力が衰えたことに関係していそうである。どういうわけかは分らないが、時宗の僧が、成岩に来て城主となった。おそらく、榎本了圓は成岩の衆に担ぎ上げられて、城主になったものらしく、地域の一揆的な結合が基盤にあったと思われる。成岩の南の,現在の武豊、当時の長尾の長尾城には岩田氏があって、榎本了圓の成岩城と連携していた。長尾城の岩田氏は、鎌倉時代から当地にいた在地領主である。

<成岩城址と石碑碑文>

narawa-hi

一方、緒川城主であった於大の方の父、水野忠政、その子信元(忠次)は、勢力を知多半島一円に伸ばそうとしていた。水野氏は、今川と織田の中間にあって、その時々に勢いのあるほうに加勢していた傾向があった。また三河に領地をもっていたため、松平氏とよしみを通じ、松平親康(家康の祖父)の代から姻戚関係にあった。もちろん、家康は松平広忠と於大の方の間に生まれたのであるから、家康自身が水野氏の松平さらにはその後ろにいる今川への政略結婚で生まれたともいえる。

いずれにせよ、水野氏は知多半島を手中にいれて、その勢力を確立しようとしていた。榎本了圓の成岩城は、あたかも長島の一揆勢が信長に抵抗したように、そんな水野氏の野望とあいいれない存在であったろう。
その成岩城は、榎本了圓ら念仏を唱えた成岩衆がよく守ったが、敵の間者に火をかけられことから、西側の紺屋が淵からの敵の一斉攻撃に崩れ、天文12年(1543)ついに於大の兄水野信元によって攻め落とされた。同年勢いにのる水野軍の侵攻により、長尾城の岩田安広も降伏し、仏門に入った。水野信元は、成岩城をせめるために砦を築き、成岩砦とか水野砦といわれる。成岩城址の北へ400mほどいった、鳳出観音(砦観音)がその址だというが、遺構は残っていない。ちなみに、成岩城の榎本了圓がどうなったか、記録がないとのことである。

水野氏の手におちた成岩城には、大府の横根城にいた水野の家臣梶川五左衛門文勝がそのあとに移った。この梶川氏は、後に朝鮮の役で戦死し、成岩城も廃城となった。その後慶長16年以降は、犬山城主の成瀬氏の領地となる。家康が桶狭間合戦の後、成岩に身を寄せたときには梶川氏が成岩城主であり、水野の血をひく家康を成岩湊に丁重に送ったのであろう。

成岩城址にたつ石碑は、成岩町が昭和12年(1937)9月に建立したものである。そして、その碑文には、以下のように書かれている。

「天文年間榎本了圓氏此地ニ東西三十五間南北ニ百三十間ノ居城ヲ築キ成岩長尾両村ニ馬場ヲ置キ成岩ヲ領シ殷賑ヲ極ム
後水野下野守信忠ノ為ニ略サレ其臣梶川五左衛門ノ居トナル
慶長十六年犬山成瀬隼人正ノ領地トナリ其ノ支配ヲ受ク
以テ今日ニ及フ(以下、略) 昭和十二年九月    成岩町」

表の字も成瀬子爵の手になるものであるし、今回レポートした成岩が成瀬氏の領地であったとは、今までのブログの内容と重なって、奇遇である。

下の写真は、ご近所の庭越しに見た成岩城址であるが、少し小高くなっている様子がわかるであろう。

<ご近所の庭越しに見た成岩城址>

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また、成岩の北、半田市の最北、阿久比町との境に近いところに、岩滑(やなべ)城があった。ここには於大の方の妹が嫁した中山氏がいた。そして阿久比には於大の方の再嫁先である坂部城主久松佐渡がいた。そのあたりから、於大の方の生家水野家について、今度は詳しく見ていくことにする

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2005.11.21

徳川家康と知多半島(その1:成岩の天龍山常楽寺)

実は徳川家康と知多半島には、いろいろ関わりがある。徳川家康は言うまでもなく、三河の岡崎の出身である。しかし、実母である、於大の方は知多半島の北東に位置する緒川(現在の東浦町緒川)の水野家の出身であり、松平広忠に嫁して家康を生んだ後離縁して、やはり知多半島中ほどに位置する坂部城主(坂部は現在の阿久比町)の久松佐渡守俊勝に再嫁している。その縁で、徳川家康は母の縁者の多い知多半島を度々訪れているし、人生のターンニングポイントといえるような永禄3年(1560)の桶狭間合戦の後や天正10年(1582)本能寺の変の際伊賀越えの後に知多を経由して、岡崎に帰って、危機から逃れている。その際に一時逗留して、危機を回避した場所が、成岩(ならわ)、すなわち現在の半田市東郷町の浄土宗の古刹、天龍山常楽寺である。さらに、家康は、天正17年(1589)年、国許より上洛の途中で常楽寺を訪れている。

この常楽寺は、空観栄覚上人によって、文明16年(1484)当時成岩にあった天台宗の仏性寺を改宗して開かれたという。その常楽寺第八世典空顕朗上人は、家康の母方の従兄弟にあたる。すなわち、成岩は後に緒川から刈谷に進出した水野氏が勢力を伸ばした場所であり、支配の拠点である成岩城とともに、常楽寺にも水野氏の縁者を送り込んだということであろう。

成岩城は、実は偶然にも私の在勤先であるJスチール知多製造所の正門の西600mほど行った場所(半田市有楽町7丁目周辺)にあった。現在は遺構が残っていないが、地形的には、北は入江に注ぐ神戸川(ごうどがわ)となり、西は紺屋ヶ淵とよばれる堀があったし、東は今は陸地であるが、当時は海岸線であったらしく、東西三十五間(63m)、南北二百三十間(418m)の細長く広大な丘上に城はあった。つまり、成岩の集落をおさえ、海にも近い好立地であった。
城主の榎本了圓は、もともとは常滑の時宗の寺の僧であったといい、成岩の人々から慕われ、推されて城主となったという。すなわち、一揆的な地域での関連に基づく城であったようだ。その成岩城は、天文12年(1543)に於大の兄水野信元によって攻め落とされ、大府にいた水野の家臣梶川五左衛門文勝がそのあとに移った。家康が桶狭間合戦の後、成岩に身を寄せたときには梶川氏が成岩城主であり、水野の血をひく家康を成岩湊に丁重に送ったのであろう。

<成岩の天龍山常楽寺>
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<成岩城址~撮ったときにはすっかり日が落ちていた。。。>
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<成岩城址の石碑の碑文~昭和12年に当時の成岩町が建立>
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さて、永禄3年(1560)の桶狭間合戦で、徳川家康、その当時の松平元康は、大高城へ兵糧入れ・入城に成功したが、思いもよらぬ今川軍の敗北によって、かえって大高城を織田軍に包囲され、窮地に立たされた。織田軍の隙をついて、なんとか大高城からの脱出に成功した元康は、一旦於大の方の再嫁先である坂部城を目指し、そこで少しの間かくまわれたようであるが、織田方である久松氏は本来敵方である元康をかくまっていることは出来ず、元康は矢勝川を越え、岩滑(やなべ)をへて、成岩の常楽寺に入ったのである。成岩湊から、岡崎の近くまでは水路で行くことができる。おそらく、元康は血縁者のいる成岩まで来て、安堵したに違いない。元康は、無事成岩湊から船で三河に渡り、岡崎に入ることができた。この後の元康は岡崎城主に復帰し、もともとの家臣も集まって来て、今川義元のもと、駿河で味わった人質生活から解放された。一方、今川との縁を切るために、織田信長の命令で自ら正妻である築山殿や子の信康を処断するという苦汁をなめることになるが、ともかくは今川からは独立し、織田信長と同盟した大名となった。

<常楽寺の扁額>
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ニ度目に家康が常楽寺を訪れたのは、天正10年(1582)本能寺の変直後の伊賀越えの後である。
このときは、堺見物をした後、茶屋四郎次郎の急報により、本能寺の変で信長が死んだことを知った家康は、少ない人数の供回りで、山城、近江、伊賀の山中を通って伊勢へ抜け、白子浜から伊勢湾を渡り、知多の常滑、成岩経由で本国三河に戻った。そのとき気が動転した家康は、知恩院で切腹しようとしたが、本多ら家臣に留められた。その際の明智勢の追及や便乗した者の動きは急であり、ひと時も気を抜けない状況であった。実際、堺まで同行しながら伊賀越えで別行動を取った穴山信君は、山城で土豪の襲撃を受けて死んでいる。豪商であり、知恵者である茶屋四郎次郎の同行もあり、伊賀で所縁のある土豪らの支援を受けたとはいえ、後年「神君のご艱難」と称される家康最大の危機であった。不意に本能寺の変の凶報に接し、馴染みなく、険しい伊賀などの山中を越えて緊張の連続で急ぎ帰ったのであるから、白子浜から知多の常滑に上陸、常楽寺に入った時にはさぞやほっとしたことだろう。

さて、家康をシェルターの如く、危難から守った成岩の常楽寺であるが、江戸期になっても尾張徳川家の庇護をうけて殷賑を極めた。しかし、残念のことに、大正13年の火事で多くの建物が焼失した。とはいえ、国の重要文化財である阿弥陀如来像のほかに、家康から賜ったといわれる鐙と鞍も現存する。

<常楽寺の賽銭箱にある葵紋>
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ほかにも、いろいろ珍しいもの(たとえば下の亀に乗った地蔵など)があり、仏像を比較的間近に見ることができるのも嬉しいものである。

<境内にあった亀に乗る地蔵>
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<開運毘沙門天>
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実は、小生東京から在勤先に戻るとき、JRを使っていたが、新幹線では東京から名古屋市内までの乗車券となり、あとは名古屋市の範囲から東成岩までの切符となると、大高から東成岩の在来線の切符ということになる。実際に乗り換えるのは名古屋と大府であるが、「大高~成岩」というと桶狭間合戦後の家康が岡崎を目指したルートと重なるので、少しく偶然に驚いている。

次回は、家康の生母於大の方と水野家について、関連ある寺院や史跡の紹介をしようと思っている。
(実は、今回そこまで手がまわらなかったので)

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