カテゴリー「船橋を歩く」の28件の記事

2012.12.30

復旧した庚申塔2

昨年、東日本大震災で受けた各地の庚申塔などの石造物の復旧を見てきたが、昨年末近くになって船橋市金堀の庚申塔が復旧されたことが分かった。 小室の庚申塔は割合はやくに復旧し、その後徐々に各地のものが復旧していったようである。

八千代市吉橋と尾崎の境目くらいにある吉祥院跡の庚申塔や石仏などは、復旧がやや遅かったようである。この吉祥院跡には優しい姿の寛文 8 年(1668)の勢至菩薩があるが、勢至菩薩も少し傾いた状態であった。しかし、今年の9月に行ったときには、倒れていたものや欠けていたものも含めて、石造物の修復がされ、コンクリートの台座に固定されていた。脇に「吉橋大師講 第一番札所」と刻まれた石塔が建っている。

<復旧した吉祥院跡の石造物>

Kisshoin1

例の勢至菩薩はやはり傾いていたようであるが、特に損傷はなかったようである。以前は、見やすい場所にたっていたのだが、他の石造物とあわせて一つの土台に接地されたために、今度のは少し見づらい状態にある。前に小さな石仏があり、その石仏越しにみる形になったためである。

<優美な勢至菩薩像>

Seishibosatsu

少し窮屈であり、せめて石造物群が集められた場所の東側から北側の一列に並んだ、お地蔵様などの石造物のような形に配してほしかったと思った。

なお、この吉祥院跡とは吉橋の貞福寺の末寺である吉祥院があった場所で、大師堂が建っている。実は貞福寺がある場所には戦国時代に吉橋城があり、この吉祥院跡も城域である。周辺の低地に比べて半島状に少し高くなっており、櫓か何かがあったのかもしれない。

<東側の石仏群>

Kisshoin2


それはともかく、各地の古い集落などにある庚申塔などの石造物が震災から復旧したことは、まだ集落の地力が残っていることを示している。時間はかかっても復旧したことは、やはり昔のものを大事にしていこうという地域の人たちの意思が働いているのだと思う。

ちなみに、近くの高本の農業協同館付近の石仏群も傾いたりしていたが、復旧し元の状態のように戻っていた。

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2011.12.31

復旧した庚申塔

震災後、各地の庚申塔などの石造物の復旧が進む中、金堀の庚申塔が震災後なかなか元に戻っていなかったようであるが、先日前を車で通ったときに、きれいに並べてあり、復旧されたことが分かった。 それで昨日、近くの農作物直販所に用事があった帰りに写真を撮った。

<復旧した金堀の庚申塔群>

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文字庚申のうち、向かって右(安政四年(1857)の庚申塔)と左側明治期の文字塔が倒れていた。後列の三基ある像容の庚申塔のうち、明和元年(1764)のものは笠石がとれており、さらに左側の彫刻が素晴らしい延享元年(1744)の青面金剛像は倒れていたが、すべて元に戻っており、倒れた像塔などきちんとコンクリートの台に固定化されていた。

<倒れていた延享元年の像塔も元通り>

Kowagama_kousin2

Kowagama_kousin3

聖徳太子の太子講の石碑は、庚申塔群の手前にあったのだが、同じ台の左側に据えられ、庚申塔の間隔が少し狭まったようである。しかし、金堀の人たちの共同の力によると思うが、きれいに復旧して良かった。

なお、同日もう一つ石仏がらみでうれしい話があり、坪井の入口にある庚申塔に正月のお供えをしている女性から話を聞いた。

<坪井入口の庚申塔にお供え>

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以前は祠になっていたが、最近こういう形で祀られている。 その女性は、近隣の出身のようで、この庚申塔は坪井、神保新田などの守り神として、疫病や災難が入ってこないように守っているのだという。

しかし、最近では開発によって、こうしたものがなくなっていく、また、ごみを不法投棄する人がいて困るとのことであった。

路傍の石仏でも守る人がいて、後世に伝えられるというもので、有難いことである。

<庚申塔の前の正月のお供え>

Tuboi2

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2011.05.05

東日本大震災の石造物への影響

先日、印西から車で帰る途中、普段通る八千代市の島田台から船橋市豊富のルートではなく、八千代市米本から吉橋を経て船橋市坪井に抜ける道を通って帰ったが、吉橋にさしかかったとき、ふと吉橋大師堂の勢至菩薩像を見てみたくなった。そこで、車をとめて、大師堂の石段をあがると、なんと石造物がいくつか倒れている。なかには、破片が落ちているものもあり、勢至菩薩まで心なしか斜めになってしまったようだ。

<斜めになってしまった勢至菩薩>

Yoshihashi_kannon_0430

石造物に詳しい方に聞くと、既に今年3月の段階で、八千代市郷土歴史研究会の活動として石造物の損傷緊急調査を行われたとのこと。また、その後の調査で墓地販売など石材店が関係している寺院は、修復が進んでいるが、地域で世話をしている小さな神社や無住仏堂のものなどは、地震後も修復がままならない状況とのことであった。

それで、にわかに気になった小生は、遅ればせながら各地の石造物はどうなっているのか、見て歩くことにした。といっても、小生の行動範囲は船橋から鎌ヶ谷、柏くらいであり、それも一部だけである。

船橋で自分が知っている石仏、石造物がいくつかまとまってある場所をあげると、海神の念仏堂の石仏など、前原の庚申塔群、薬円台の倶利伽羅不動境内の庚申塔など、楠ヶ山の庚申塔群、金堀の庚申塔群、小室の庚申塔群となる。これを実際どうなっているかまわって見てみた。

1.海神の念仏堂

ここは、もともと念仏堂の前の道路脇に石仏が並んでいたが、地震のおこるかなり前から石仏群は集約されてしまい、庚申塔と大きな地蔵は少し離れた場所にある。しかし、見た限りでは倒れたものもなく、損傷は受けていないようである。

<海神の念仏堂前>

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上の写真の古い石仏は、向かって左から宝永六年(1709)五月の片ひざをついた地蔵、享保四己亥(1719)五月の坐像の地蔵二体、文政十一子天(1828)二月の観音立像である。

念仏堂の横の道をガードをくぐった南側(行徳側)には、享保五庚子(1720)八月の地蔵と寛延二己巳年(1749)十月のいかにも派手な青面金剛像が並んでいる。良く見ると、その青面金剛像には牙が生えており、脇侍のように童子が刻まれている珍しいもの。これも無事であった。

<念仏堂の享保五年の地蔵と寛延の青面金剛像>

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2.前原の庚申塔群

成田街道から前原の道入庵の前で分岐する道を藤崎台方面に南下してすぐに、庚申塔が沢山ある場所がある。ここには、青面金剛の像容を刻んだ庚申塔が三基、他に文字庚申塔が40ほどあるが、特に倒れたものもない。特に中央の青面金剛像は、非常によく彫られていて、ショケラまで写実的である。

<前原の百庚申>

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この庚申塔群は、「百庚申」というが、実際にはそれほどの数はなく、40数基で、庚申塔以外に馬頭観音も同じ場所にある。もともと百基庚申塔があったのか、前からそんなにはないが、多いという意味で、「百庚申」といったのだろうか。また、像容庚申塔は享保、延享と言った年号が入っているが、小さな文字庚申には年号が入っていない。

ちなみに、成田街道を西へ行った札場にも、成田山の道標とともに、石仏群があるが、そちらのほうも震災では何ともなっていないようだ。

3.薬円台の倶利伽羅不動境内の庚申塔

倶利伽羅不動の本尊は見たことがないが、倶利伽羅不動の境内にいくつか石造物があるので、それは昔からよく見ている。今回改めて見に行ったが、元のままである。

宝暦六丙子(1756)十一月の青面金剛像は、やや平面的ながら、正面を向いた邪鬼やニワトリ、三猿と約束事は満たしているものの、手にショケラは吊り下げていない。

<倶利伽羅不動境内の庚申塔>

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4.楠ヶ山の庚申塔群

楠ヶ山は、集落が台地下にあり、台地の上は畑と墓地くらいしかない。最近は、廃品回収業者や新しい寺院などが、台地上に進出しているが、人家が余りないので、妙な感じがする。庚申塔群のある場所も、以前は山林のような場所だったのが、すぐ近くに廃品回収業者の広い作業場ができて、鉄のフェンスで囲まれている。

<楠ヶ山の庚申塔群>

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青面金剛像は宝暦十庚辰年(1760)十一月の作。台座ごとコンクリートで固められており、ここまでは問題なし。

5.大穴の庚申塚

楠ヶ山庚申塔群の数十メートル先にある庚申塚を見た時、遂に恐れていた事態となったと思った。塚の上にあった殆どの石塔が倒れており、中には真中で横一文字に割れているものもある。

<石塔が倒れた庚申塚>

Kusugayama_0504

塚の前には真新しい浄土真宗の寺があるが、元々あった寺ではなく、当地に根を張ったものではないらしい。

この庚申塚は、どうなるのだろうか。

6.金堀の庚申塔群

楠ヶ山の隣、金堀にも庚申塔群がある。それはバス通りに面した場所で、民家に囲まれた一角である。ここは無事だろうかと心配になって、次にまわったが、やはり損傷を受けている。

<金堀の庚申塔群>

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真中の文字庚申の向かって右(安政四年(1857)の庚申塔)と写真では左端(実際にはその左も、いずれも明治期のもの)の石塔が倒れている。実はこの画像では分かりにくいが、後列の像容の庚申塔の向かって右端の正徳三年(1713)の青面金剛像は殆ど無事であるが、その左側にある明和元年(1764)のものは笠石がとれており、さらに左側の彫刻が素晴らしい延享元年(1744)の青面金剛像は倒れている。

聖徳太子のいわゆる太子講の石碑もあるが、それは無事であった。

7.小室の庚申塔群

一番気がかりであったのは、この庚申塔群であったが、案の定良くないことになっていた。土の上に直接建っていたからである。

この庚申塔群は日蓮宗系で「帝釈天王」などと刻まれているものが多いが、それがことごとく倒れるか、ずれる、傾くなどしていた。

<「帝釈天王」と刻まれた庚申塔群>

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<像容の庚申塔>

Omuro1_0503

像容の庚申塔も二基あり、こちらは一見損傷がないように見えるが、向かって右の享保十四己酉天(1729)十月の青面金剛像は以前背面が欠けたようで生々しい補修の跡があり、また少し傾いている。左の寛延四未年(1751)のものも多少台石とずれが生じている。

また八幡神社にまわってみると、古峰神社の碑が倒れていた。

<小室の八幡神社のなか>

Omuro_hachiman_0503

もしやと思ったが、悪い予感が当ってしまった。

繰り返しになるが、前出の石造物に詳しい方の話のように、今回の震災で倒壊するなどの被害を受けた石造物で、いち早くなおったものは、石材店などが出入りしている寺院などに限られ、無住の寺院のもの、小さな集落や個人が管理するもの、路傍にあるようなものは1ヶ月を経過しても、そのままになっている場合が多いようだ。土台が既に地域の人たちによって固められ、耐震対策が施されたものは、あまり被害がなかったようだが、そうでないものでは大きな影響をうけたものがある。

文化財指定の有無はともかく、貴重な先祖からの遺産は、打ち捨てるようなことがあってはならない。といって、自分ではどうにもできないが、早く復旧してくれるように願うばかりである。

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2010.03.08

船橋の富士塚

先日、柏市のある団体の依頼で、ちょっとした講演を行ったときに、丸い塚状の土盛りが古墳であることがなぜ分かったかという質問があった。それは、発掘でその塚の周りに周溝という溝があったことで、古墳の周りには必ず周溝があるから、古墳と分かったと答えた。

確かに、古墳の円墳と、中世の塚、江戸時代からの富士塚は、よく似ている。富士塚も石碑や祠などがないと、ただの塚のように見える。もしかすると、後世富士塚とされたものも、もとは古墳や中世の塚だったものもあるかもしれない。しかし、よく富士塚には溶岩でできたものや、大部分土で出来ていても溶岩が転がっているものがある。

そもそも、富士塚は富士信仰による富士登山を行っていたのが、なかには高齢だったり、病身だったりして、本当の富士山にまで行けない人のために、富士山の溶岩などで、ご近所の神社の境内などにミニチュアを作り、地元にいながらにして富士登山が出来ることを目的としてつくられたという。やはり、既存の古墳や自然の地形を利用することは、しばしば行われたらしい。そうすると、古墳と富士塚の複合遺跡というのもありうるわけである。

ちょっと富士塚を確認してみようと思い、ふと出身高校の近くに江戸時代には「茂侶浅間神社」と呼ばれていた茂侶神社があることを思い出し、車を飛ばして行ってきた。しかし、富士塚と思われるものが見当たらない。なお、この茂侶神社は、戦国時代の花輪城という城跡に建っており、堀の跡や土塁の痕跡がわずかに残っている。

賽銭箱についている神社の紋は、棕櫚葉。これは浅間神社の紋であり、形は、天狗が持っている団扇と同じである。

茂侶神社の縁起によれば、

「当茂侶神社の起源は古く、延喜式神明帳に『下総国葛飾郡二座茂侶神社・意富比神社』とあり、今を去る千六十年前すでにこの地に鎮座されていたのであります。愛媛県越智郡瀬戸内海大三島、祭神は阿多の豪族大山祇神の姫御子で日本の女性の表徴である木花開耶姫を祀り、古来、縁結び・安産子育ての神として地元民の崇敬する処でありました。
摂社として祭神の姉命磐長姫を祀り、御嶽神社と申して居ります。
三代実録に清和天皇の貞観十三年十一月十一日、下総国従五位下茂侶神に従五位上を授くとありました。
陽成天皇の元慶三年九月二十五日、下総国正五位下茂侶神に正五位上を授くとあります。西北にある湧水は『天の真名井』と称する当社の神泉であります。江戸名所図会によれば年の始に隔年この神域より柳営に根引若松を選び上納する旧例とあります。古来例祭は旧暦六月一日に行います。」とある。

<茂侶神社>

Morosengen2

木花開耶姫を祀ることも、浅間神社と同じである。また、この茂侶神社は、砂山浅間神社とも呼ばれていた。砂山というのは、この辺りの砂岩質の土地からきた地名である。では、なぜ「茂侶神社」を名乗るのだろうか。茂侶神社は、奈良県の三輪山の前の名前である御諸山(みもろやま)の「諸(もろ)」から、その名前が付けられたという。実際、松戸、流山にある茂侶神社は、祭神が御諸山に祀られていたという大物主命である。船橋の茂呂神社だけが、浅間神社とも呼ばれ、祭神が木花開耶姫命であるということは何を意味しているのだろうか。

実は、境内に一つ社があり、これを御嶽神社と書いているHPなどもあるが、浅間社である。砂山浅間神社とは、本来この浅間社をいうのだろうか。推測であるが、茂侶神社は「江戸名所図絵」にのっているのだから、それが書かれた天保年間当時から当地にあった筈であるが、その前は別の場所にあって花輪城という戦国時代の城跡に移転したものと思われる。その際に浅間神社と一体となったのではないだろうか。浅間社の鳥居の向かって右横が多少高くなっているが、そこはその地に戦国時代に城があった時の櫓台の痕跡だという。これを富士塚に見立てていたのだろうか。そうだとしても、かなり小さいであろう。

なお花輪城は、大正時代に書かれた文書によれば、茂侶神社の境内から東の住宅地内に城跡が展開していた。今や、堀跡がかろうじてある程度で、遺構が殆ど残っていない。その花輪城という城の性格は、南に上総道、また鎌倉街道がすぐ西を通っていることから、交通の要衝をおさえるものに他ならないが、誰がいつ築城したかなど、詳しい史実が明らかになっていない。

しかし、鳥居横の高くなっている部分は、余りにも目立たない。道を作った時のあまった土を盛ったのかと思う。

<境内にある浅間社>

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この茂侶神社は、船橋大神宮の摂社で、正月に大神宮を飾る若松は、この境内から切り出されていた。小さな神社ではあるが、昔は「江戸名所図絵」にのるほど富士、房総、筑波を望む眺望の良い場所で名所であった。あるいは、富士が見えるために、浅間社が出来、本物の富士山が見えるので、あえて富士塚も作らなかったのだろうか。

<江戸名所図絵にかかれた茂侶神社>

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結局、茂侶神社には明確な富士塚がなかったので、東へ中野木の八坂神社に行くことにした。前に行ったときは、富士塚の写真に変な光が入り込み、うまく撮れなかったので、リベンジである。

<中野木の八坂神社の富士塚>

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中野木の八坂神社の富士塚は、木の根っこが張って、それが階段代わりになって登ることができる。上にある石祠は、前回字を読むことが出来なかったが、今回一字目が「仙」であることが分かった。「仙元宮」とでも彫ってあったのだろうか。また、中段にある石碑には「登山記念碑」とあり、裏面に参加者や先達何某と名前が彫られている。

また、飯山満にある大宮神社には、溶岩積みのようで、形も整っているようである。しかし、どうみても新しく、「危険だから登るな」と書いた看板があり、この富士塚に登るのはやめておこう。

<飯山満・大宮神社の富士塚>

Hazama_oomiya2

富士塚の脇に石碑が嵌めこまれており、それを見ると昭和3年(1928)とある。道理で新しそうに見えたわけだ。富士塚としては、新しい部類であろう。

<大宮神社の富士塚の石碑>

Hazama_oomiya3

他にも周辺の神社に富士塚はあるのだろうが、小生が知っているのは、夏見の稲荷神社にあるもの。その稲荷神社の東側には長福寺という古い曹洞宗の寺院があり、その境内の一角には、夏見城の郭跡が残っている。

稲荷神社の道を挟んですぐ隣の長福寺墓地は平坦に整地され、現在遺構が見られないが、かつては土塁の痕跡が長く続き、その延長には、北西側にある道を挟んだ稲荷神社の境内にある土塁が続いていたという。稲荷神社に現存する土塁の残欠は、江戸期に今のような富士塚にされたと思われる。それは2m位の高さの土塁の残欠であり、富士塚に仕立てられたために、石段が敷設され、頂上に円盤状の石碑が建てられている。

<夏見の稲荷神社の富士塚>

Natsumi_inari1

<富士塚の上の石碑>

Natsumi_inari2

この円盤状の石碑には、「不二」「八行」と刻まれている。富士塚の下の石碑には、「浅間大神」と大書された文字と、山の図柄の下に割菱の紋が刻まれている。これは富士講のうちの割菱八行講のものでろうか。この稲荷神社の富士塚の周辺は石碑が多いが、いずれも文字が磨滅して読みにくい。通りかかった人が「写真撮っているのか」と声をかけてきたが、その人に聞いても明治大正頃のものだろうがはっきりとは分からない。「管理するひとがいないだべ」と船橋弁で答えてくれた。

日が暮れてきたので、これ以上の探索は諦めて帰途に就いた。もっと、富士塚は周辺にあると思うが、そして実際に登ったこともあるのだが、どこだったか思い出せない。その時記録しておかないと、忘れてしまうことが最近は多いので困ったものである。いずれ機会があれば、また探索したい。

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2010.02.28

船橋不動院の飯盛り大仏

船橋市街地のなかを東西に通っている本町通り。船橋市街地は空襲にあっていないため、廣瀬直船堂のような戦前からの建物も残っている。その少し南にはいった寺町は、文字通り寺の多い場所である。駅前から南に進み、本町通りとの交差点近くにある浄勝寺、その裏手にある難陀龍王堂のある覚王寺、因果(えんが)地蔵尊の圓蔵院などともに、真言宗不動院も寺町の一角にある。実は、不動院は覚王寺の末寺で、創建がいつかは分からないが、境内に元禄14年(1701)記銘の六観音石幢があり、すでに江戸時代前期にはあったものと思われる。

この不動院は、本堂と庫裏、墓地があるだけのこじんまりとした寺であるが、その門の近くには大きな石造釈迦如来坐像があり、石碑などがある。

<不動院>

Fudoin

この「大仏」といわれる石造釈迦如来坐像は、延享3年(1746)8月1日の津波によって亡くなった人々の供養のため建立されたもの。大仏といっても、さほど大きくなく、勿論鎌ヶ谷大仏よりも小さい。しかし、この大仏には悲しい逸話がある。

<不動院の石造釈迦如来坐像>

Meshidaibutu

もともと、船橋浦は「御菜の浦」と呼ばれ、将軍家の食卓にのぼる魚介を献上する漁場であり、徳川家康によって漁業権が保証されたといういわれがある。しかし、魚介の豊富な船橋浦は、近隣漁村がしばしば進入するところとなり、船橋の漁師と、浦安や行徳、葛西辺りの漁師との間では、漁場争いが絶えなかった。

船橋浦は三番瀬など、江戸前の恰好の漁場で、密漁も多く、漁業権を主張する船橋の漁師と周辺地域の漁師がよく争い、海上で争うことも多かった。特に文政7年(1824)には、一橋家御用の幟を押し立てて来た葛西の漁師と、船橋浦を守ろうとした船橋の漁師が衝突し、葛西の船に乗っていた一橋家の侍を船橋の漁師が殴ったことから大事となり、船橋の漁師惣代3名が入牢させられ、そのうち仁右衛門、団次郎の2名が獄死もしくは出牢後に病死した。その80年ほど前の延享3年(1748)津波の被害で落命した漁師たちの供養とあいまって、その牢の中で飯も満足に食べられなかった漁師惣代の苦労を偲んで、文政8年より大仏の顔に正月28日に飯を盛ることが年々続けられ、今日に至っている(明治以降は2月28日に飯盛りをする)。

大仏の横にある供養墓は、漁師惣代でなくなった仁右衛門、団次郎の2名のものである。

供養墓には、右から

了鑒寂照信士
         霊位
法要了清信士

と刻まれ、右の「了鑒寂照信士」には、「文政八乙酉 正月十五日」という命日と「俗名 岩田団治郎」とある。また、左の「法要了清信士」は、「文政七甲申 十二月廿四日」という命日、「俗名 内海仁右衛門」とあり、獄中でなくなったのが仁右衛門で、出獄してから病死したのが団次郎であることが分かる。仁右衛門の苗字が内海(うちうみ)であることから、仁右衛門の先祖は徳川家康に魚を献上し、内海姓と漁業権を貰った漁師であろう。 

<漁師惣代仁右衛門、団次郎の供養墓>

Meshidaibutu1

この飯盛り大仏の行事は、正しくは不動院の「大仏追善供養」というが、船橋市の無形文化財に指定されている。最近では、津賀俊六という人が「船橋三番瀬物語 飯盛り大仏」という本を上梓していて、劇などになった。

小生、2月28日の飯盛り大仏の行事をじかに見てみようと思っていたが、遠隔地で仕事をしていたり、その日が平日のために東京勤務でも見ることができないなど、ずっと見る機会がなかった。期せずして今日、ようやくにしてその行事を目の当たりにできた。

<雨のなかの飯盛り大仏>

Meshidaibutu2

今日は船橋は朝から雨。実は柏で植樹祭に参加する筈であったが、雨天のために中止となり、飯盛り大仏は雨でもやるだろうと楽観的な考えで不動院にむかったのである。

行ってみると、既に10数人の人が集まっていた。テントのなかに机がおいてあり、お供えと御ひつに入った御飯があった。しばらく待っていると、僧侶二人による読経が始まった。あいさつのなかで、雨の日は初めてだとか、今日はチリの地震もあって云々という言葉があった。

<大仏の前で読経を行う>

Meshidaibutu3

読経が流れ、漁業組合の人たちが次々と線香をあげて行ったが、まず漁師惣代の供養墓に線香をあげ、次に大仏に線香をあげて行く。線香の煙が、あたりに立ちのぼる。

一通り線香をあげると、大仏の顔に御ひつから取り出した御飯をつけていく。寒い外気で、御飯から湯気が立ちのぼる。

<御飯を大仏の顔につける>

Meshidaibutu4

ところが、雨が降っていたために、石の大仏の顔がすべってなかなか御飯がつかない。それでも、なんとか御飯をつけた。

<御飯がついた大仏の顔>

Meshidaibutu5

こうした歴史的な行事が長年伝えられているのも、船橋の土地柄かもしれない。

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2010.01.02

船橋大神宮と奉納神楽

船橋大神宮は、船橋市を代表する神社である。二宮神社も大きな神社であるが、初詣の人出の多さなどをみると、船橋大神宮が船橋市ナンバー1であろう。

船橋大神宮は規模が大きいだけでなく、古さの点でも特筆すべきものがある。船橋大神宮は、別名意富比神社というが、『日本三代実録』の貞観5年(863)の記事に名の見える古社である。この意富比とは、太陽神をあらわすオホヒ(大日)の神であるといわれ、同じく太陽神、天照大御神を祀る伊勢神宮と同一視され、中世後期から船橋神明と呼ばれるようになり、転じて船橋大神宮と呼ばれるようになった。船橋市の宗教法人として登録されている神社は、登録数の多い順に神明神社9、稲荷神社4、八幡神社3、意富比神社3、日枝神社、八坂神社、熊野神社2と続くが、他の神社とは違い、意富比神社は全国区の神社ではなく、当地独特の地域色のある神社である。

<船橋大神宮の本殿>

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小生は、船橋大神宮より二宮神社の方が近いのだが、なぜか初詣には二宮神社ではなく、船橋大神宮へ行く。千葉県の多くの人は成田山へ初詣に行くのだろうが、船橋の人は船橋大神宮へ初詣に行く人が多い。船橋大神宮には、船橋だけでなく近隣の地域からも人が集まっているようである。その初詣の楽しみの一つは、お神楽である。以前のようなオープンなどんど焼きはなし、古いお札も事前にチェックされ、関係ないものは一切焼くことができなくなった。しかし、昔も今も、初詣客の多いことには変わりない。

<初詣客で賑わう境内>

Funabashihastumoude1

この船橋大神宮は、夏見一帯の船橋御厨を保有していた伊勢神宮とも関連が深く、また戦国時代まで勢力を保った神官で豪族の富氏が宮司をつとめるなど、在地に勢力をのばし、船橋の湊など流通の集積場を背景として、商業活動に関与していた。江戸時代には、徳川将軍家に保護されたが、幕末の慶応4年(1868)に戊辰戦争の局地戦である市川・船橋戦争において、船橋大神宮は幕府方脱走兵の拠点とされたため、官軍の砲撃にあい、焼失してしまう。

もちろん、その後、本殿は再建され、現在に至っている。既に、明治5年(1872)には県社に列したというから、急速な復興ぶりであったようで、明治6年(1873)に本殿、明治22年(1889)には、拝殿が再建されている。今は、本殿、拝殿、客殿、社務所が建っているほか、境内には日本武尊と徳川家康・秀忠を祀るという、徳川将軍家ゆかりの常盤神社や大鳥神社などがあり、本町通りに面した場所には、摂末社を祀る。

<大鳥神社>

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境内にある灯台は、明治13年(1880)に出来たもので、民間灯台では最大級、千葉県の文化財に指定されている。木造瓦葺3階建で、高さは12mとなっている。3階の灯室は洋風の灯台様式を採り入れた六角形の形をしている。また1階、2階は、畳敷きで料理を運び、宴会などもできるようになっている。

余談であるが、船橋大神宮と千葉県立船橋高校も関連があることは、殆ど知られていない。大正7年(1918)に開校した東華学校は船橋大神宮隣を教室としたが、大正9年(1921)には船橋大神宮神官の千葉健吉が引き継ぎ、名前も船橋中学院と改称した。この船橋中学院こそ、私立学校ではあるが、現在の千葉県立船橋高校の前身である。

<船橋大神宮の灯台>

Funabashi_toudai

この船橋大神宮では、前述のように正月などに神楽を行うが、それについて船橋市のHPには、以下のように書かれている。

「元日、節分、10月20日の例祭、4月の水神祭、12月の二の酉等に船橋大神宮(意富比神社)境内の神楽殿(水神祭は船橋漁港)で演じられます。伝えているのは大神宮楽部の人達で、古くから地元の人のほかに津田沼・谷津の人も参加しています。現在10座が伝えられています。」

また、この奉納神楽は、船橋市指定の無形民俗文化財になっている。現在10座が伝えられているという、神楽の演目は、①みこ舞、②猿田舞、③翁舞、④知乃里舞、⑤天狐舞、⑥田の神舞、⑦恵比寿舞、⑧恵比寿大黒舞、⑨笹舞、⑩山神舞である。恵比寿舞、恵比寿大黒舞のように、神話の神が出てくるものもある。

船橋大神宮で演じられる神楽(上記10座のうちにない「神明の舞」)で神狐が種まきするものがあるが、これは稲荷信仰から来たもののようだ。保食ノ命(ウケモチノカミ)が土地を耕し、お祓いのあと、清められた田に狐が種まきをする。種まきをする狐は、手に鈴をもっているが、これは種をあらわすもののようである。

<神狐の種まき>

Kagura1

Kagura2

Kagura3

動画は以下の通りであるが、単純な動きながら、囃しは舞楽の楽太鼓、大拍子(締太鼓)と笛とで、割合とにぎやかなものである。

下は、恵比寿、すなわち事代主命が岩長姫を釣るという恵比寿舞である。大国主命の子である事代主命は、恵比寿神といわれ、漁業の神で、豊漁のシンボルとされてきた。また、事代主命は 海上安全の神、市場の神としても祀られている。まさに、船橋には最適の神様である。岩長姫は、岩の神、寿命長久の神であるから、豊漁のうえに、長寿を祈願するというのが、この神楽の意味であろう。

岩長姫(磐長姫命)といえば、大山津見神の二人の娘の内の姉で、木花咲耶姫命は妹。邇邇芸命は木花咲耶姫命に求婚したときに、大山津見神から姉の岩長姫をつけて二人の娘を献じられたが、美人であった妹のみを娶り、不細工な岩長姫を返した。長寿の神である岩長姫を返したことから、邇邇芸命の子孫である天皇家は短命になったという話がある。

神楽の恵比寿は、何度も釣りに失敗し、最後に岩長姫を釣るが、うがった見方をすれば、これは人間見た目ではない、残りものには福があるという意味だろうか。

<恵比寿舞>

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Ebisu_kagura1

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神狐の種まきが、五穀豊穣の願いをこめた神楽であるなら、恵比寿の舞は豊漁と長寿を祈るものなのであろう。船橋大神宮は、表参道の鳥居が船橋市街ではなく、海に面することから、漁業と深い関連のある神社であることは、以前から指摘されている。

船橋大神宮には、他に奉納相撲がある。これには、徳川家康にからんだ伝承が残っている。

正月のときには周囲に駐車場などができるので、分かりにくいが、今でも奉納相撲の土俵がある。この奉納相撲も、家康に結び付けられて伝承されており、天正18年(1590)徳川家康が鷹狩りで船橋御殿に滞在した際、地元漁師の子供たちが相撲を取って見せたところ、家康は大変喜び、以来これを神社に奉納するようになったという。その家康本人が没して船橋に来なくなってからも、江戸幕府が勧進元で奉納相撲は長く続けられ、戦後の混乱期一時中断していたが、昭和25年(1950)に再開された。

<船橋大神宮の土俵>

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このように、船橋大神宮は、東京近郊でありながら、江戸時代初期の徳川家との関連や漁村だった頃の船橋の風俗・土着信仰の名残を留める、見どころの多い古社である。

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2009.12.20

三山七年祭2009を振り返って

三山七年祭は、船橋市三山の二宮神社を中心に丑年、未年に行われる大祭で、今年2009年11月にはその本祭が行われた。小生、本祭では準備の段階から見て、本祭と菊田神社の花流しの一端をまじかに見た。

今年の七年祭大祭日程表をみると、11月21日(土)に禊式、22日(日)に大祭で神揃場での神輿集結と磯出祭があり、翌23日(月)早朝3時以降に磯出式、午前7時前に火之口台挙式、二宮神社の神輿は藤崎、田喜野井と渡り、夜二宮神社に還御して祭典終了となっていた。日程については、日付がかわっていて、前回の神揃場での神輿集結が11月2日と11月初めだったのに、今回は11月下旬になっているほかは、式の内容では前回と殆どかわったことはないようだ。

<平成21年の七年祭大祭日程表>

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その祭には船橋市、習志野市、千葉市、八千代市の神社が参加するため、広域に祭が展開されるが、前述のように中心は船橋市の二宮神社である。近隣の人は、二宮神社といえばすぐに分かるが、もともと一宮、二宮の二宮だけに、全国各地には同じ名前の神社もあり、知らない人のために少し解説してみたい。

<二宮神社での本祭の準備>

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船橋市三山にある二宮神社は、その起源を千年以上昔に遡る古い神社である。三山は、御山、もしくは宮山が変化した地名と考えられ、実際その神官の子孫で御山姓の家が何軒か周辺にある。この二宮神社は、諸説あるも延喜式の「千葉郡 寒川神社」であるといわれている。寒川という地名は、千葉市南部(千葉市中央区寒川町)にあり、実際そこには寒川神社も存在する。しかし、千葉市中央区寒川町にある、その寒川神社は元々は伊勢神宮の御魂分けした神明社であったといわれ、かつその地は天正年間までは結城といわれていたことから、千葉市中央区寒川町の寒川神社は該当しないと考えられる。式内社であれば、古代にルーツを探ることができようが、神明社であれば一時代後であるからである。すなわち、延喜式の「千葉郡 寒川神社」は現在の二宮神社に比定され、寒川、すなわち手を切るような冷たい豊富な水が流れる場所、という名が示すように、二宮神社周辺は湧水地を持つ豊かな土地であったようである。二宮神社境内の拝殿のある場所の南は窪地になっており、その東側にかつて御手洗の池があったが、そこが菊田水系の水源にあたる。

<二宮神社の拝殿>

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二宮神社には水神も祀られ、御神宝は縄文時代の石棒(道祖神と同様の性神信仰の対象物という)ということであるから、その起源は水の恵みが豊作につながる原始信仰であったと思われる。また、近隣には「おはんが池」や倶利伽羅不動など、湧水、たなやといった場所が多く、そこには弁天や不動が祀られている。近隣の田喜野井という集落は、板碑も出土した中世から存在する集落であるが、この田喜野井という地名は「たぎる」ように水が湧き出す場所という意味であり、その集落の南側低地に「おはんが池」があった。このように、三山の地は菊田川の水源であり、その水源を背景に豊かな農地を持つ地域であった。それが下流の菊田神社などの氏子と、広い範囲での地域結合を生む背景になっていったと思われる。

<2009年本祭神揃場での菊田神社の神輿>

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なお、この三山地域をのちに三山庄あるいは三山荘といったが、船橋御厨のような明確な荘園であったわけではない。面白いことには、前述の御山姓と同様に当地の旧家で、将司家があるが、これは庄司に通じるのではないか。もちろん、正式な荘園の荘官というわけではないだろうが。ただ三山は古くからの集落であり、前述の田喜野井や藤崎といった地域と地域的な結びつきの強いところで、二宮神社はそのセンター的な役割をしていたといえる。

現在の幕張にいた千葉氏の一族で、のちに千葉宗家を乗っ取ることになる、馬加康胤の妻の安産祈願をきっかけに、文安2年(1445)から始まり、丑と未の年に近隣の神社も参加して行われてきた大規模な祭礼が、三山七年祭である。そこに参加する神社とは、二宮神社を中心に、幕張の子安神社、子守神社、三代王神社、前述の菊田神社、実籾の大原神社、高津の高津比咩神社、萱田の時平神社(八千代市)、八王子神社(船橋市)で、各神社各々役割が決まっており、以下のようになっている。

 ・二宮神社(船橋市三山)   :主人・父君
 ・子安神社(千葉市畑町)   :妻・母
 ・子守神社(千葉市幕張)   :子守
 ・三代王神社(千葉市武石)  :産婆
 ・菊田神社(習志野市津田沼) :叔父
 ・大原大宮神社(習志野市実籾) :叔母
 ・高津比咩神社(八千代市高津) :娘
 ・時平神社(八千代市萱田)  :息子
 ・八王子神社(船橋市古和釜) :息子

実は、今年も小生は三山七年祭の神揃場で、桟敷席から眺めていた。2003年の時もそうであった。伝承では室町時代に祭が始まってから、この祭は変化してきた。

三山七年祭は、千葉市幕張の子安神社、三代王神社など八つの神社の神輿が二宮神社に集まる神揃の祭と磯出祭という安産の産屋の儀式を行うという神事からなっている。また、三山七年祭では、火の口台の儀式という、久々田浜に上陸したという藤原師経の故事に基づいた儀式が、鷺沼の「神の台(かんのだい)」で、藤原師経に縁の深い菊田神社と二宮神社とで営まれる。このように、三山七年祭は、三山でもともとあった地域の豊作豊漁を祈願する祭に、久々田の藤原師経にまつわる神事が加わり、室町期の馬加康胤の妻の安産祈願が主題として混ざり合って、江戸時代以前に原形ができ、江戸時代に現在のような祭として完成、継続して来たと思われる。

祭の初めで神輿が揃う神揃の祭では、先頭に菊田神社の神輿が入ってくる。なぜ菊田神社なのかといえば、前述の二宮神社との密接な関わりが考えられる。神揃場は、周囲をぐるりと竹矢来で囲み、内側には土で築いた「オツカ」が並んでいる。また笹が立てられ、ややもすれば神輿が笹などにかくれて撮影しにくい。実は神揃場の近くに、菊田神社の一行を世話する長屋門の家がある。そういう長屋門の家とか、いかにも古そうな門構えの立派な家とか、とにかく他の神社の一行を世話する家も、同じように当地の旧家が世話をすることになっている。その菊田神社の一行を世話する家が一番神揃場に近いのは、何か由縁があるのだろうか。

<菊田神社の一行の休憩所となっている家>

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神揃場の桟敷で、神輿を担ぐ人をみていると、今まではいなかった女性が数人であるが、神輿を担いでいるのに気付いた。多分今回が初めてではないかと思う。これは菊田神社の花流しでも、同様であった。東京の祭などでは、ギャル神輿があるくらいで、あまり珍しくなくなったが、三山七年祭では、今回初めて見たと思うのである。神揃場の神輿は、場内に入ってくると何回かもんで、辺りをぐるっと回るのだが、男にまじって担ぐのも大変だろう。

そもそも祭は、時代とともに、参加する注連下からして変わっていっている。江戸時代には、三山に近いところでは、例えば船橋市の飯山満も祭に参加していたはずであるが、今は参加していないようである。飯山満よりも三山に遠い古和釜、坪井に氏子のいる八王子神社が参加しているのに、どういう訳だろうか。

<神揃場で神輿をもむ>

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<動画で見る:クリックしてください>

祭の神輿を担ぐ人は、他の一般的なまつりと同じように法被と手ぬぐいの姿であるが、金棒という役割の人は男でも白塗りに化粧をし、派手な着物を着て金棒を持ち、行列では金棒の音を立てて先導する。菊田神社の金棒は、男性ばかりで化粧も服装も派手であり、異形の人という感じである。金棒は、男性も女性もいて、二宮神社の女性の金棒は、花笠をかぶって着物に袴姿であった。古和釜の八王子神社の金棒は、花笠をかぶっているが、化粧をした男性ばかりである。

囃し方には、子供もいる。というより、二宮神社のは、子供だけでやっていた。昔は、大人の囃し方に一部子供が混じっていたと思う。

<囃し方>

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それに、祭に参加している人で、特徴的なのは旦那衆である。およそ、現代にはいない、カンカン帽に着物の着流し姿。明治の終わりから大正時代か、昭和の初めまでには確実にいたような旦那衆の姿である。旦那衆は、江戸時代にはどんな姿であったかは分からないが、大正頃に今の姿になったのだろう。

このように、祭は時代とともに変化する。次の未年には、別の変化があるかもしれない。

<菊田神社の花流し>

Kikuta_hananagashi

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2009.04.25

成田街道近辺の札場集落と成田道道標

成田街道は、言うまでもなく、中世以来の佐倉道をベースに発展した街道で、江戸と下総地方を結んで物資流通や人の往来のインフラとなった。特に、成田山新勝寺は、元禄以降の江戸深川への出開帳による布教活動と「成田屋」で有名な歌舞伎役者市川団十郎の「不動尊利生記」の上演によって、江戸庶民にも広く知られるようになり、庶民の遊山地として成田山不動詣でが行われた。

<初詣でにぎわう成田山新勝寺>

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成田街道が東金街道から分岐する場所は、津田沼駅前十字路から西に東金街道沿いに進み、JRの線路をくぐって、しばらく行ったところにある。その分岐点あたりに、札場という古い集落がある。

この札場という地名は、高札場であったということから来ており、一説によれば、江戸時代以前の豊臣秀吉時代に集落として成立したというから古い地域である。そこに、安永6年(1777)建立の成田道道標がある。

<成田道道標(右)と庚申塔>

Naritadouhyou1_maehara

前原のほうは、その名前の通り、「飯山満の前の原」というように、飯山満より新しく、成田街道沿いに成立した近世の新田村落というのが一般的で、上東野新助という武士出身者が草分けになって延宝年間に開発されたということが分かっている。ただ、上東野新助の先祖がいた札場(高札場であったことに由来する地名)には、豊臣時代からの集落があったという説もあり、多少起源を遡る可能性もある。 船橋市史談会の「史談会報」第11号にあった「上東野新助ノ事蹟」によれば、以下の通りである。

上東野新助ノ事蹟

一 前原新田ノ創設

前原新田八千葉郡二宮村ニアリ、東葛飾郡船橋町二境シ、文禄三年新助ノ先代上東野為右ヱ門ノ創設ニシテ、元下総国葛飾郡二属シ、船橋、谷津、久々田、藤崎等近郷四ケ村ノ入会草刈場ナル前原ト称エタル原野ナリシヲ、享保五年千葉郡二編入セラル、抑モ上東野為右ヱ門ナル者ハ、上東野蔵人ノ子ニシテ(為右ヱ門ノ高祖ハ此地ノ庄司上東野和泉守信義ニシテ、ソノ子上東野左ヱ門信康大永元年前原二来り長子蔵人此地二生ル、蔵人年長スルニ及ンテ父ト共二源家顕国公二助勢シ、所々転戦シテ大功アリト云フ)、其家ノ由緒(高祖信義ハ清和天皇ノ裔ニシテ信洲十郡ヲ賜フ、其外上洲吾妻郡、越後国頚城郡・魚沼郡、武洲二郡、下総国葛飾郡外壱郡領知)ニ依リ、文禄三年時ノ将軍ヨリ改メテ郷圭二取立、此地支配仰付ラル、是ニ於テ為右ヱ門ハ殖民ヲ起画シ、原野ヲ開発セシメ、漸次移民増殖シテ一村ヲ創設セリト云フ                  

二代目為右ヱ門ハ元和元年父ノ家督ヲ相続シ前原二住居、其地支配仰付ラル、三代目為右ヱ門ハ寛永六年時ノ将軍ヨリ御用掛仰付ラル、延宝元年此地浩漠耕スヘキヲ看テ以謂ラク、良地千里荒蕪二委スルハ固ト造物ノ意二非ス、我輩太祖以来此地ヲ支配ス、不拓ノ責亦夕遁ルヘカラスト奮然官ヲ去り名ヲ新助ト改メ、名主四郎兵衛、年寄甚左ヱ門、三郎兵衛等二談スルニ、新田開発ノコトヲ以テス、彼レ等歓喜之ヲ賛シ開発スルニ及ンテ、爾来前原ヲ前原新田ト称シタリ

二 新田開発

新田開発八時ノ代官伊奈左門殿二出願シ、反歩千五百町二米三拾五俵宛運上二差上、又御林六町余(元前原新田字島田官林)ヲ取立御忠節二差上、延宝元年十二月許サレテ開発二着手ス、新助出費ヲ掌リ元〆ト為テ監督シ、気ヲ鼓シ精ヲ励シ、棘荊ヲ払ヒ蒙茸ヲ披キ、火ヲ熾り野ヲ焼キ、階ヲ設ケ疏ク、之ヲ新田開発ノ始メトス、仝四年御検地ヲ出願シ、既二此地二於テ五十五町ノ新田ヲ開発ス、御検地二依り定マル総反別左ノ如シ

ー、下畑百三拾壱町壱反三畝十六歩
 分米六百五十五石六斗七升七合

一、屋敷弐町五反五畝十八歩 
  分米拾七石ハ斗九升弐合

二口町歩〆百三拾三町六反九畝四歩
 分米六百七拾三石五斗六升九合  

三 農事奨励

新助ハ人二信仰心ノ必要ヲ説キ、殊二農業者ハ庚申ヲ尊崇スベシト勧誘シ、延宝五年庚申ヲ祭リ、庚申ノ日ヲトシ庚申待ト称シ、開墾二従事セラレタル者ヲ会シ、饗応シテ且ツ農談ヲナシ農事ヲ奨励セシト云フ ニ代目新助モ父ノ志ヲ継ギ益々カヲ開墾二用ヒ、而シテ庚申ノ講ヲ結ヒ村人ノ親睦ヲ図ル、其長子藤四郎モ亦タ父二做ヒ、享保、寛保、宝暦等ノ年間二於テ、庚申ヲ石二彫シ建立セシムルコト百余二シテ、村人ノ勉励心ト公徳心等ノ函養二努メタリ

(以下略)

旧家の先祖書きにありがちな、先祖の事蹟をやたら誇大に書くという面もあるし、明らかな間違い(たとえば文禄年間に将軍はいない、「郷主」という役目もない)もあるので、どこまで信用できるか疑問もあるが、延宝年間の新田開発は他にも金石文もあり、間違いない。しかし、江戸時代以前の文禄3年(1594)にも、新田開発をしたとこの文書は書いている。新田開発がいつから行われたかといえば、戦国時代からであるらしい。それは合戦や人口増加で、食糧の確保が大きな問題となったからでろう。

<成田街道(習志野空挺隊附近)>

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江戸周辺で、新田開発が活発に行われるようになったのは、江戸時代初期からであろうが、文禄年間になかったわけでもないだろう。すでに関東の覇者は小田原北条氏ではなく、徳川家康になっていた。太閤検地は、天正検地が行われ、文禄年間にも文禄検地も行われて、農業生産力が合理的に把握されるようになり、あわせて荒蕪地の農地化、治水などの農業工事も進められた。

この「上東野新助ノ事蹟」によれば、従来新田を開発したとされる上東野新助は、最初為右ヱ門と名乗り、その先々代の為右ヱ門が存命であった文禄3年(1594)の頃に「此地支配仰付ラル、是ニ於テ為右ヱ門ハ殖民ヲ起画シ、原野ヲ開発セシメ、漸次移民増殖シテ一村ヲ創設セリト云フ」とある。

最近の研究で、天下井恵氏が元禄6年(1693)の絵図などを参考にして、前原でも札場集落については、延宝以前に成立していたという見解を述べておられる。

また、前原の旧家は、ことごとく成田街道附近、あるいは成田街道沿いの集落にあって、東金街道沿いなどには存在しない。しかも、旧家のうち、いくつかは「小田原から来た」、「先祖は武士であった」という伝承を持っている。

つまり、前原の旧家のうち、「加東野文書」で前出の「名主四郎兵衛」が地蔵窪(現在の道入庵付近)に屋敷があった天野四郎兵衛で、天野家が摂津国にルーツがあり、江戸で商人をしていたことが分かっているが、天野家以外の旧家で、小田原北条氏の家臣だったものが何軒かあったのではないだろうか。

加東野氏については、「加東野文書」の先祖書きはあまりに荒唐無稽であるために、信じがたいが、名前は合っているならば、上東野為右ヱ門の前の上東野蔵人という名前からして、武士の出身であり、蔵王権現を御嶽神社に勧請していることから、金峯山、葛城山の近くの出身ではないか。つまり上方の武士出身者ではないかと推測する。これは、前原から東に東金街道をすすんだ習志野市大久保に、市角頼母という上方の武士出身者が大阪の陣の後に上方を退転して、大久保まで来て草分になったと伝承されるのと、同じようなケースかもしれない。

そう考えると、帰農した加東野氏や小田原北条氏の家臣たちが草分けになって、文禄年間に前原の一部、札場集落を作ったのではないかという仮説もなりたつだろうか。

前述の道標には「右なりた道」と刻まれ、上部に剣を持った不動明王が彫られている。その道標の向かって左の側面には「願主 日本橋 左内町 和泉屋甚兵衛」とある。江戸時代の中期には、江戸と船橋、成田などの交易は活発化し、成田街道は大いに使われたのであろう。

<道標の上部に彫られた不動明王像>

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この道標は、四角い石柱上に不動明王が載っている。不動明王は、言うまでもなく、成田山の象徴である。しかも、浮き彫りではあるが、かなり深く彫られており、重厚な感じである。火炎を背負った坐像であり、剣と羂索を手に持っている。

<道標とならぶ庚申塔>

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道標の横には、札場の庚申と呼ばれる、庚申塔が並んでいる。石塔に笠がかぶっているものやそうでないものなど、さまざまである。享保、寛保などの造立年代も、ひとつずつ違う。

<さまざまな庚申塔>

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附近には、やや新しい道標で、「左成田山道」と刻んだものもある。
これは、明治12年に成田山信徒達が造った道標。ちょうど、東金街道と成田街道が分岐する所に立てられているが、これは東京から成田に参詣する人が、最初に船橋で一泊し、ここまで来て左へ成田山に向かったことを示している。前述の道標が、「右なりた道」とあるのと、向きが逆である。

<成田山道の道標>

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参考文献:「史談会報」第11号 1989年 船橋市史談会

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2008.10.26

大仏のような地蔵

船橋市は飯山満(はざま)に、「ゆるぎ地蔵」というお地蔵さんがある。

これは、地蔵というより、大仏に近く、1.7m以上の高さがある。しかも、坐像なので、もし人間なら、立ったら2mを越す巨漢である。

<地蔵のやさしい面影>

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この地蔵は、江戸時代に当地にあった「揺ぎの松」という松の大木が枯れたため、その松の材木を使って、この「ゆるぎ地蔵」ともうひとつ「木っぱ地蔵」を木食僧に彫らせて祀ったというもの。1723年(享保8年)建立だそうだ。その「木っぱ地蔵」のほうは、薬円台の高幡庵という寺にある。

そもそも「揺ぎの松」というのは、根が立ち上がり、人が通ると梢まで揺るいだことから、その名前をつけられたという。そんな大きな松だからこそ、この立派な地蔵もできたというもの。

付近は、純農村地帯であったが、最近は新しい住宅もたくさん建っている。東葉高速線の飯山満駅も、割合近い。地蔵のある場所は、ちょうど谷間のようになっていて、近くには弁天の池もあり、水田をかつては作っていたと思う。台地の下に大きな家があるが、かつての名主か何かかもしれない。

<地蔵のお堂と周辺>

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この飯山満は、鎌倉時代くらいからある集落だそうだ。南北朝時代の板碑も存在している。「ゆるぎ地蔵」を見た後、板碑を見に行ったが、あらためて見るとそれほど大きくない。それでも、船橋市最大級らしい。

なお、千葉日報によれば、以下のようにお堂修復の募金活動中とあった。そういえば、現地にも看板が建っていた。

「『ゆるぎ地蔵』の通称で知られる船橋市飯山満二の市指定文化財『木造地蔵菩薩坐像』を祀(まつ)る地蔵堂の老朽化が進み、地元住民が再建しようと広く寄付を募っている。

 飯山満町二丁目住民ら約五十人で構成する『ゆるぎ地蔵保存会』(三橋栄会長)の計画では、寄付の目標額は四百万円で、来年春ごろの完成を目指す。」(千葉日報、県西エリア:2008年09月28日)

「中年ジェット」 http://blogs.yahoo.co.jp/jyo_takuya/46261720.html より転載

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2008.10.12

船橋市中野木地区をめぐって

船橋市にある中野木地区は、飯山満(はざま)の南、一つ谷津を隔てた台地下の集落であり、その南には中野木川という小さい川が流れる場所で、かつては純農村地域であった。昭和30年代には、隣接した場所に前原団地が作られて、新住民も大量に移入し、中野木地区も宅地化が進んだ。今はJR東船橋駅まで歩いて10分ほどとなり、バスでは津田沼にも、駿河台あたりからは船橋にも簡単にでることができるため、住宅密集地帯に変貌した。

この中野木地区は、それなりに大きい前原地区と飯山満地区に挟まれているが、どういう成り立ちなのか、あまり考えたことがなかった。船橋の地名の歴史について書いてある『ふるさとの地名(改訂版)』(船橋市史談会)によれば、飯山満の枝郷のような位置づけらしい。そもそも、中野木という地名自体が、「のぎ」「のき」は侵食崖を意味し、「谷の中ほどの急傾斜地」ということでつけられたというのが通説であるが、はっきりしない。字面だけでは、どこかの中ほどの木のある場所になるが、飯山満と前原の中ほどという意味か。

実は飯山満は中世に起源をもつ集落であり、飯山満城跡あり、光明寺という中世以来の寺院ありで、南北朝期である康永4年(1345)在銘の板碑なども存在している。その他、東福寺や大宮神社など、古い寺社もある。一方、前原のほうは、その名前の通り、「飯山満の前の原」というように、飯山満より新しく、成田街道沿いに成立した近世の新田村落というのが一般的で、上東野新助という武士出身者が草分けになって延宝年間に開発されたということが分かっている。ただ、上東野新助の先祖がいた札場(高札場であったことに由来する地名)には、豊臣時代からの集落があったという説もあり、多少起源を遡る可能性もある。前原には上東野新助らによって御嶽神社が鎮守とされたが、同時に古くからの寺がなく、それでは困るので道入庵というものが作られた。道入庵の境内には、前原新田の開墾の由来を刻した延宝3年(1675)造立の地蔵がある。

小生、このあたりはよく知った土地であり、中野木も昔から知っているが、その歴史を考えたことはほとんどなかった。今より木が茂って暗かった墓地の一角に地蔵があって、その墓地は夕方以降はちょっと怖いので走って通り過ぎたこと、畑に縄文土器のかけらがよく落ちていたことは、37年ほど前の記憶であるが、今でも鮮明に覚えている。畑には、泥面子といわれる土製の玩具も、よく落ちていて、それを拾ったりした。

<中野木の地蔵>

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墓地にある地蔵は、「念佛講中」「天明六丙年十月吉日」とあり、地蔵のもつ杓杖に赤ん坊がしがみついたような状態で、地蔵の顔がそれを見つめて、すこし傾げている。天明6年(1786)は天明の大飢饉のさなかで、農村が疲弊した時期に相当する。その際、当地でも子供も含めて、多くの住民がなくなったのだろう。だから、この地蔵も、それに関係していると思うのである。

この中野木集落がいつできたのか、小生にはよく分からないが、享保年間の墓など石造物があるため、280年くらいはたっているのであろう。ちょうど、墓地の一角に出羽三山の石碑があって、その前に馬頭観世音の石像があるのだが、その建立が享保20年(1735)であった。

この土地の産土は、八坂神社である。小さな神社で、社務所などもない。神主は、三山の二宮神社の神官が兼ねているとのことである。しかし、中野木には歴史的な建造物も、八坂神社以外はないのだろう。寺は小生の知る限り、存在しない。おそらく、中野木の人は飯山満のどこかの寺の檀家になっているのであろう。

<出羽三山の石碑など>

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その成立は飯山満の枝郷とすれば、やはり江戸時代の享保年間以前に、飯山満の次男、三男が分家するなどして、中野木を開墾し、農地を開いたのではないかと思われる。それで、暮らしやすい台地下に集落を形成したのだろう。制度上は明治の中頃までは、中野木は上飯山満村の一部であった。今は農村の面影はあまりなく、かつての畑地にはマンションがたち、田はなくなり、台地の上も下も住宅地となった。

わずかに八坂神社やその年中行事に、かつての集落の姿をとどめている。

<八坂神社>

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八坂神社の創建も、集落がいつできたか正確に分からないように、明確なところは分からない。それほど後にできたとも考えにくいし、御神体を入れた箱に「文久三年改築」とあったといい、文久3年(1863)には存在していたらしい。集落ができてから、勧請されたとすれば、創建は享保年間とか、江戸中期に多分間違いないだろう。この小さい社には、誰が彫ったか、結構立派な彫刻がほどこされている。

<八坂神社社殿の彫刻:側面>

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ぐるり取り巻く彫刻には、若者(孟宗)が筍を掘っているものがあったり、廿四孝の説話を表現しているそうだ。

<八坂神社社殿の彫刻:上部>

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社殿をぐるりと彫刻がとりまくが、正面頭貫の木鼻には獏もしくは象が鼻を伸ばした姿、虹梁の木鼻には獅子が、また頭貫の上には龍が丁寧に彫られている。

この八坂神社の境内には、富士塚がある。木の根が張って、一見塚と気づかないが、上に石碑などもある。塚の上の石祠に何と彫られているか見たが、判読できなかった。富士塚を研究している人から見ると、船橋市域の富士塚はお椀を伏せたように形が良いらしい。しかし、小生にはどの塚も同じように見える。

<八坂神社境内にある富士塚>

Fujiduka

なお、この写真を撮ったときに、変な光が入ってしまったが、以前から何気なく撮った写真に大きな球体が写っていて困ったこともある。神社や城跡などを写すと、よく出てくるし、先日豊川海軍工廠の火薬庫跡を写したら夥しい光の玉が写ってしまった。人魂だとおどす身内もいるが、単なる光線のいたずらであることを祈る。

それはともかく、この八坂神社の年中行事で、2月の最初の午の日、つまり初午の日に、ワラで作った大蛇を集落の東西に掲げるというものがある。これを称して、「辻切り」という。こうした風習は、千葉県各地に見られ、同じ船橋市でも楠ヶ山にもあるし、市川市国府台や佐倉市井野にもある。

これは、船橋市指定文化財(無形民俗文化財)に指定されている。「辻切りは悪霊や悪疫が村内に入って来ないように願う行事で、中野木では毎年2月の初午に行われています。鎮守の八坂神社に集まり、東西2組に分かれ、大蛇を1匹ずつ作製します。完成すると長さ5m程になる大蛇は本殿前にとぐろ巻き、向かい合わせに据えられ、御神酒を飲ませます。直会(なおらい)のあと、東西それぞれ4〜5人で大蛇をかかえ、集落の南西と北東の道路脇の立木に巻きつけます。」(船橋市のHPより)ということで、面白いのは、大きな蛇だけでなく、各住居の入り口にも小さなワラ蛇を掲げていることである。これはほかの地域にはないかもしれない。

<各住居の門に掲げられたワラ蛇>

Tujigiri

このワラ蛇は、何かユーモラスな表情である。

地域の伝統がすたれつつある昨今、こうした風習が、船橋の市街地に近い場所にも残っているのは、重要であると思う。

参考文献:

『ふるさとの地名(改訂版)』 船橋市史談会 

『船橋歴史風土記 』 綿貫啓一著  崙書房

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