成田街道は、言うまでもなく、中世以来の佐倉道をベースに発展した街道で、江戸と下総地方を結んで物資流通や人の往来のインフラとなった。特に、成田山新勝寺は、元禄以降の江戸深川への出開帳による布教活動と「成田屋」で有名な歌舞伎役者市川団十郎の「不動尊利生記」の上演によって、江戸庶民にも広く知られるようになり、庶民の遊山地として成田山不動詣でが行われた。
<初詣でにぎわう成田山新勝寺>
成田街道が東金街道から分岐する場所は、津田沼駅前十字路から西に東金街道沿いに進み、JRの線路をくぐって、しばらく行ったところにある。その分岐点あたりに、札場という古い集落がある。
この札場という地名は、高札場であったということから来ており、一説によれば、江戸時代以前の豊臣秀吉時代に集落として成立したというから古い地域である。そこに、安永6年(1777)建立の成田道道標がある。
<成田道道標(右)と庚申塔>
前原のほうは、その名前の通り、「飯山満の前の原」というように、飯山満より新しく、成田街道沿いに成立した近世の新田村落というのが一般的で、上東野新助という武士出身者が草分けになって延宝年間に開発されたということが分かっている。ただ、上東野新助の先祖がいた札場(高札場であったことに由来する地名)には、豊臣時代からの集落があったという説もあり、多少起源を遡る可能性もある。 船橋市史談会の「史談会報」第11号にあった「上東野新助ノ事蹟」によれば、以下の通りである。
上東野新助ノ事蹟
一 前原新田ノ創設
前原新田八千葉郡二宮村ニアリ、東葛飾郡船橋町二境シ、文禄三年新助ノ先代上東野為右ヱ門ノ創設ニシテ、元下総国葛飾郡二属シ、船橋、谷津、久々田、藤崎等近郷四ケ村ノ入会草刈場ナル前原ト称エタル原野ナリシヲ、享保五年千葉郡二編入セラル、抑モ上東野為右ヱ門ナル者ハ、上東野蔵人ノ子ニシテ(為右ヱ門ノ高祖ハ此地ノ庄司上東野和泉守信義ニシテ、ソノ子上東野左ヱ門信康大永元年前原二来り長子蔵人此地二生ル、蔵人年長スルニ及ンテ父ト共二源家顕国公二助勢シ、所々転戦シテ大功アリト云フ)、其家ノ由緒(高祖信義ハ清和天皇ノ裔ニシテ信洲十郡ヲ賜フ、其外上洲吾妻郡、越後国頚城郡・魚沼郡、武洲二郡、下総国葛飾郡外壱郡領知)ニ依リ、文禄三年時ノ将軍ヨリ改メテ郷圭二取立、此地支配仰付ラル、是ニ於テ為右ヱ門ハ殖民ヲ起画シ、原野ヲ開発セシメ、漸次移民増殖シテ一村ヲ創設セリト云フ
二代目為右ヱ門ハ元和元年父ノ家督ヲ相続シ前原二住居、其地支配仰付ラル、三代目為右ヱ門ハ寛永六年時ノ将軍ヨリ御用掛仰付ラル、延宝元年此地浩漠耕スヘキヲ看テ以謂ラク、良地千里荒蕪二委スルハ固ト造物ノ意二非ス、我輩太祖以来此地ヲ支配ス、不拓ノ責亦夕遁ルヘカラスト奮然官ヲ去り名ヲ新助ト改メ、名主四郎兵衛、年寄甚左ヱ門、三郎兵衛等二談スルニ、新田開発ノコトヲ以テス、彼レ等歓喜之ヲ賛シ開発スルニ及ンテ、爾来前原ヲ前原新田ト称シタリ
二 新田開発
新田開発八時ノ代官伊奈左門殿二出願シ、反歩千五百町二米三拾五俵宛運上二差上、又御林六町余(元前原新田字島田官林)ヲ取立御忠節二差上、延宝元年十二月許サレテ開発二着手ス、新助出費ヲ掌リ元〆ト為テ監督シ、気ヲ鼓シ精ヲ励シ、棘荊ヲ払ヒ蒙茸ヲ披キ、火ヲ熾り野ヲ焼キ、階ヲ設ケ疏ク、之ヲ新田開発ノ始メトス、仝四年御検地ヲ出願シ、既二此地二於テ五十五町ノ新田ヲ開発ス、御検地二依り定マル総反別左ノ如シ
ー、下畑百三拾壱町壱反三畝十六歩
分米六百五十五石六斗七升七合
一、屋敷弐町五反五畝十八歩
分米拾七石ハ斗九升弐合
二口町歩〆百三拾三町六反九畝四歩
分米六百七拾三石五斗六升九合
三 農事奨励
新助ハ人二信仰心ノ必要ヲ説キ、殊二農業者ハ庚申ヲ尊崇スベシト勧誘シ、延宝五年庚申ヲ祭リ、庚申ノ日ヲトシ庚申待ト称シ、開墾二従事セラレタル者ヲ会シ、饗応シテ且ツ農談ヲナシ農事ヲ奨励セシト云フ ニ代目新助モ父ノ志ヲ継ギ益々カヲ開墾二用ヒ、而シテ庚申ノ講ヲ結ヒ村人ノ親睦ヲ図ル、其長子藤四郎モ亦タ父二做ヒ、享保、寛保、宝暦等ノ年間二於テ、庚申ヲ石二彫シ建立セシムルコト百余二シテ、村人ノ勉励心ト公徳心等ノ函養二努メタリ
(以下略)
旧家の先祖書きにありがちな、先祖の事蹟をやたら誇大に書くという面もあるし、明らかな間違い(たとえば文禄年間に将軍はいない、「郷主」という役目もない)もあるので、どこまで信用できるか疑問もあるが、延宝年間の新田開発は他にも金石文もあり、間違いない。しかし、江戸時代以前の文禄3年(1594)にも、新田開発をしたとこの文書は書いている。新田開発がいつから行われたかといえば、戦国時代からであるらしい。それは合戦や人口増加で、食糧の確保が大きな問題となったからでろう。
<成田街道(習志野空挺隊附近)>
江戸周辺で、新田開発が活発に行われるようになったのは、江戸時代初期からであろうが、文禄年間になかったわけでもないだろう。すでに関東の覇者は小田原北条氏ではなく、徳川家康になっていた。太閤検地は、天正検地が行われ、文禄年間にも文禄検地も行われて、農業生産力が合理的に把握されるようになり、あわせて荒蕪地の農地化、治水などの農業工事も進められた。
この「上東野新助ノ事蹟」によれば、従来新田を開発したとされる上東野新助は、最初為右ヱ門と名乗り、その先々代の為右ヱ門が存命であった文禄3年(1594)の頃に「此地支配仰付ラル、是ニ於テ為右ヱ門ハ殖民ヲ起画シ、原野ヲ開発セシメ、漸次移民増殖シテ一村ヲ創設セリト云フ」とある。
最近の研究で、天下井恵氏が元禄6年(1693)の絵図などを参考にして、前原でも札場集落については、延宝以前に成立していたという見解を述べておられる。
また、前原の旧家は、ことごとく成田街道附近、あるいは成田街道沿いの集落にあって、東金街道沿いなどには存在しない。しかも、旧家のうち、いくつかは「小田原から来た」、「先祖は武士であった」という伝承を持っている。
つまり、前原の旧家のうち、「上東野文書」で前出の「名主四郎兵衛」が地蔵窪(現在の道入庵付近)に屋敷があった天野四郎兵衛で、天野家が摂津国にルーツがあり、江戸で商人をしていたことが分かっているが、天野家以外の旧家で、小田原北条氏の家臣だったものが何軒かあったのではないだろうか。
上東野氏については、「上東野文書」の先祖書きはあまりに荒唐無稽であるために、信じがたいが、名前は合っているならば、上東野為右ヱ門の前の上東野蔵人という名前からして、武士の出身であり、蔵王権現を御嶽神社に勧請していることから、金峯山、葛城山の近くの出身ではないか。つまり上方の武士出身者ではないかと推測する。これは、前原から東に東金街道をすすんだ習志野市大久保に、市角頼母という上方の武士出身者が大阪の陣の後に上方を退転して、大久保まで来て草分になったと伝承されるのと、同じようなケースかもしれない。
そう考えると、帰農した上東野氏や小田原北条氏の家臣たちが草分けになって、文禄年間に前原の一部、札場集落を作ったのではないかという仮説もなりたつだろうか。
前述の道標には「右なりた道」と刻まれ、上部に剣を持った不動明王が彫られている。その道標の向かって左の側面には「願主 日本橋 左内町 和泉屋甚兵衛」とある。江戸時代の中期には、江戸と船橋、成田などの交易は活発化し、成田街道は大いに使われたのであろう。
<道標の上部に彫られた不動明王像>
この道標は、四角い石柱上に不動明王が載っている。不動明王は、言うまでもなく、成田山の象徴である。しかも、浮き彫りではあるが、かなり深く彫られており、重厚な感じである。火炎を背負った坐像であり、剣と羂索を手に持っている。
<道標とならぶ庚申塔>
道標の横には、札場の庚申と呼ばれる、庚申塔が並んでいる。石塔に笠がかぶっているものやそうでないものなど、さまざまである。享保、寛保などの造立年代も、ひとつずつ違う。
<さまざまな庚申塔>
附近には、やや新しい道標で、「左成田山道」と刻んだものもある。
これは、明治12年に成田山信徒達が造った道標。ちょうど、東金街道と成田街道が分岐する所に立てられているが、これは東京から成田に参詣する人が、最初に船橋で一泊し、ここまで来て左へ成田山に向かったことを示している。前述の道標が、「右なりた道」とあるのと、向きが逆である。
<成田山道の道標>
参考文献:「史談会報」第11号 1989年 船橋市史談会
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